『金草蛙』は文政四年(1831)に初めて刊行されましたが、主人公は千久良坊と延高という2人連が白山などの各地の名所霊場を廻るさまを、その土地の方言を交えながら面白おかしく紹介する旅行記です。その中に四国辺路もあります。
金比羅船で大坂から船で九亀に上陸 十返舎一九「金草」の挿絵
七十八番道場寺(郷照寺)から四国辺路を始め、時計回りに巡礼し、最後は多度津の道隆寺で終えます。この本には多くの挿図があり、江戸時代の四国辺路のことが描かれています。これが絵図史料として価値を持ちます。
金比羅船で大坂から船で九亀に上陸 十返舎一九「金草」の挿絵
七十八番道場寺(郷照寺)から四国辺路を始め、時計回りに巡礼し、最後は多度津の道隆寺で終えます。この本には多くの挿図があり、江戸時代の四国辺路のことが描かれています。これが絵図史料として価値を持ちます。
讃岐の88番大窪寺から阿波の1番霊山寺へ越えたあたりでは、甘酒屋に集まる四国遍路たちが描かれています。ここにも大きな笈を背負い、天蓋のよう帽子を被った六十六部が描かれています。
四国遍路を廻っていた六十六部とは何者なのでしょうか
「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。その縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」で、次のように説きます。
北条時政の前世は、法華経66部を全国66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けた。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世も、六十六部廻国聖だ。つまり我ら六十六部廻国聖は、彼らの末裔に連なる。
六十六部廻国については、よく分からず謎の多い巡礼者たちです。彼らは、次のような姿で史料に出てきます。
①経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖②諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊も納経帳を遺す廻国行者③鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う姿、④ときに所持する金子ゆえに殺される六部
しかし、西国巡礼や四国遍路のようには、六十六部の姿をはっきりと思い描くことができません。まず、彼らの納経地が固定していませんし、巡礼路と言えるような特定のルートがあったわけでもありません。数年以上の歳月を掛けて日本全土を巡り歩き、諸国のさまぎまな神仏を拝するという行為のみが残っています。それを何のために行っていたのかもはっきりしません。
分からないのは体系的な紙史料がないためです。
残されているのは、彼らの遺した納経帳や札、そして全国津々浦々に点在する供養塔です。特に供養塔(廻国供養塔・廻国塔)は、全国で万を超える数が残っています。その中には、願主の子孫や地域によっていまも祭祀が続けられているものもあります。しかし、大半は、路傍や堂庵の傍ら、墓地の一角で風化に耐えています。六十六部の理解するためには、これらの碑文を一つ一つ訪ねあて、語らせ、その声を書き留める作業が必要でした。
それが、近年各地で少しずつ進められてきたようです。今回は、六十六部と四国遍路の関係を見ていくことにします。テキストは「長谷川賢二 四国辺路と六十六 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です
それが、近年各地で少しずつ進められてきたようです。今回は、六十六部と四国遍路の関係を見ていくことにします。テキストは「長谷川賢二 四国辺路と六十六 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です
六十六部の笈
徳川幕府の寺請制度のもとでは、原則的には自由な移動は禁止されました。しかし、行者は特定の会所に所属し、その支配下に入ることで、ある程度諸国を自由に巡礼する特権を得ることができていたようです。六十六部行者も、東京寛永寺、京都仁和寺、空也堂などが元締となり、その免状を得ることで廻国巡礼を行っていたようです。具体的には、六十六カ国をまわるというよりも、西国巡礼や各国の国分寺などをまわっています。中には四国遍路を廻っていた六十六部行者もいたようです。
18世紀後半以後になると、六十六カ国をすべて回り終えると結縁記念に石造供養塔を建立するようになります。この供養塔が四国遍路の霊場の境内や遍路道にもあることが、近年の調査で分かってきました。
讃岐の霊場に残された廻国供養塔の一覧表です。
観音寺、弥谷寺、道隆寺、屋島寺、八栗寺、志度寺、大窪寺などに残されているようです。境内に記念碑を建立することが認められるには、それだけの貢献があったはずです。例えば堂舎の勧進活動です。また辺路道沿いの廻国供養塔は、廻国行者と地元の人々との間に、深い関係がなければ建てられるものではありません。四国廻国の途中で地域の人々に祈蒔や病気治癒の施しを行い、小庵などに住み着き宗教活動を行ったことも考えられます。日本の各地を廻国し、多くの情報を持つ、廻国行者の存在は四国の寺院や地域住民にとって、大きな利益を得たのかも知れません
中世の善通寺伽藍図(一円保絵図)
善通寺五重塔と六十六部の勧進活動
75番善通寺は、古代以来の敷地に七堂伽藍が甍を並べます。しかし、五重塔は焼け落ち、姿が消えていた期間の方が長かったようです。現在の塔は、明治35年に建立されたものですが、その前の塔は、文化元年(1804)の建立になることは以前にお話ししました。
その経緯については「善通寺大搭再興雑記」に、次のように記されています。
先是有唯円者承光歓僧正、志願而留錫伽藍西門内小庵募縁十方其疏幾度千冊以託来請人、或使令(中略)
合力州里既而所集銭穀以擬営建出貸隣人、借者未及返之債之而不獲馬、其余雖非無虚費之謗於幹事共勉也。(中略)唯縁所出募縁之疏至今時々自遠方還来、非無小補因記之「唯縁(円)勧進用此序」
唯縁武州豊嶋郡浅部本村新町遍行寺弟子、号順誉、回国行者、享保十二来年二月九日始勧進事、至享保二十一甲寅年凡経十年孜々勧誘、先是勧進建豊田郡小松尾寺二王門、共事就後始当寺造塔勧進募勧有信檀越造立一箇宝塔之序(本文は略す)維時享保第八龍集炎卯初冬穀旦讃陽多度郡善通寺現住沙門光歓謹誌
意訳変換しておくと
(五重塔の再建については亨保八年(1723)、これより先に唯円が光歓僧正に勧進を願い出た。唯円は伽藍の西門の内に小庵を建てて、勧進活動を進めその募縁状を十方の参詣の人々に託し、千冊を超える勧進を得た。(中略)勧進で集めた銭を穀物を隣人に貸出し、借りたものが返済しても、債権回収に応じないことあった。そのため非難を受けたり虚費の謗うけ、幹事が共に弁済したこともあった。(中略)唯円の勧進については、遙か昔のことではあるが、五重塔の再建事業においては小さな事ではないので、あえてこれを記し残すことにする。「唯縁(円)勧進用此序」唯円は武州豊島郡浅部本村新町の遍行寺の弟子で、順誉と号した廻国行者で、享保12年2月9日から勧進を始め、同21年まで、およそ十年の勧進を行った。この勧進活動の前には、讃岐豊田郡の67番小松尾寺(大興寺)の仁王門の勧進を行っていた。その後、善通寺の五重塔の勧進活動をはじめ、その造立の基礎を打ち立てた。
以上からは、次のようなことが分かります。
①光歓が亨保八年(1723)に「募勧有信檀越造立一箇宝塔序」を作成し、印刷したこと
②その後、唯円が伽藍の西門の内に小庵を建てて、その募縁状を十方の参詣の人々に託した
③約10年で、若干の金額も集まったが、隣人に貸出して返済に応じず、虚費の謗も受けた
④唯円は、善通寺大塔の勧進前には、67番小松尾寺の仁王門の勧進を行っていた
関東からやってきた廻国行者が小松尾寺の仁王門建立の勧進を行い、それを終えて善通寺境内に庵を造り、そこを根拠にして大塔の勧進に10年も携わったというのです。この時の五重塔が完成するのは、文化元年(1804)十月になります。計画から約80年余の月日を要したことになります。
十返舎一九「金草」の挿絵 丸亀上陸
勧進聖と土木・建設などの勧進活動の関係は?
「勧進」のスタイルは東大寺造営を成し遂げた行基に始まると云われます。彼の勧進は
「無明の闇にしずむ衆生をすくい、律令国家の苛酷な抑圧にくるしむ農民を解放する菩薩行」
であったとされます。しかし、「勧進」は見方を変えると、勧進聖の傘下にあつまる弟子の聖たちをやしなうという側面もありました。行基のもとにには、班田農民が逃亡して私度沙弥や優婆塞となった者たちや、社会から脱落した遊民などが流れ込んでいました。彼等の生きていくための術は、勧進の余剰利益にかかっていたようです。次第に大伽藍の炎上があれば、勧進聖は再興事業を請負けおった大親分(大勧進聖人)の傘下に集まってくるようになります。東大寺・苦光寺・清涼寺・長谷寺・高野山・千生寺などの勧進の例がこれを示しています。経済的視点からすると
「勧進は教化と作善に名をかりた、事業資金と教団の生活資金の獲得」
とも云えるようです。
寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、また配下の聖たちの取り分となったようです。勧進聖人は、次第に建築請負業の側面を持つことになります。勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業だけでなく、寺院の堂宇の建設にも威力を発揮しました。善通寺の五重塔再興を請け負った唯縁は、建設請負集団の棟梁であり、資金集めの金融ブローカー的な側面も見えてきます。少し横道にされたようです。六十六部の勧進スタイルを追いかけます。
小松尾寺(大興寺)の仁王門横に大きな石碑が建立されていますが、そこには次のように刻まれています。
本再興仁王尊像並門修覆為廻国中供養寛政九年己酉十月 十方施主 本願主長崎廻国大助
ここからは唯円が勧進して建立した仁王門を、約70年後の寛政元年(1789)に、長崎の廻国行者の大助が勧進修復したようです。小松尾寺の仁王門は、建立も修復も廻国行者の手によることになります。このように地方有力寺院は、堂宇の改修には勧進というスタイルを採用せざるえない状態にありました。それを取り仕切れる勧進聖は、寺院から見て有用で、使い道があったようです。
続いて65番 三角寺の観音堂の建立についてみてみましょう。
寛文十三年(1672)八月吉日の本堂(観音堂)建立棟札からは、次のようなことが分かります。
①発起人は山伏の「滝宮宝性院先住権大僧都法印大越家宥栄」と「奥之院(仙龍寺)の道正」②本願は同じく「滝宮宝性院権大僧都宥園と奥之院の道珍」③勧進は「四国万人講信濃国の宗清」④導師は地蔵院(観音寺市大野原町の萩原寺)の真尊上人
このうちで①の「大越家」は当山派で大峰入峰三十六度の僧に与えられる位階で、出世法印に次ぐ2番目の高い位になるようです。宥栄は当山派に属する修験者たちの指導者であり、本山の醍醐寺や吉野の寺寺へ足繁く通っていたことがうかがえます。江戸時代初期の三角寺や奥の院(仙龍寺)には、それ以前にも増して山伏や勧進聖のような人物が数多くいたようです。
④の導師を勤めているのが萩原寺(観音寺市)の真尊上人であることも抑えておきたい点です。萩原寺は、雲辺寺の本寺にも当たります。ここからは、三角寺は萩原寺を通じて雲辺寺とも深いつながりがあったことがうかがえます。高野山の真言密教系の僧侶のつながりがあるようです。
十返舎一九「金草」の挿絵 吉野川を見下ろす
次いで貞享四(1687)年には、弥勒堂が建されます。
これは、四国における弘法大師入定信仰の拡がりを示すものだと研究者は考えているようです。弘法大師入定信仰と「同行二人」信仰は、深いつながりがあることは以前にお話ししました。
このように江戸時代初期前後の三角寺は「弘法大師信仰+念仏信仰+修験道」が混ざり合った宗教空間で、「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が活発な活動を行っていたことがうかがえます。
気になるのは③の「四国万人講信濃国の宗清」です。
四国万人講とは、どんな組織で、活動内容はどんなことをしていたのでしょうか。四国万人講を主催する宗清なる人物は、三角寺住持の支配下で勧進など、三角寺の活動を下支えしていたしていたのではないでしょうか。勧進と称しているので、諸国を廻国して勧進を行う念仏行者のような人物と研究者は考えているようです。「四国万人講」という組織は、四国辺路の参詣者を対象にした勧進講としておきましょう。
その後、この宗清が六十八番観音寺にも姿を見せます。
『弘化録』の延宝四年(1676)の項に、次のように記されています。
「八月に宝蔵一宇を建立した。本願は米谷四郎兵街、大工は荻田甚右衛門である。十月に再興の本願は宗清である。」
ここに出てくる宗清は年代的にみて、三角寺棟札の宗清と同一人物と研究者は考えます。三角寺の観音堂の完成後、今度は讃岐の観音寺で勧進活動をしているのです。つまり、三角寺の観音堂の完成から三年後には、観音寺に移り宝蔵を再興しています。宗清の出身は信濃国ですから、彼もやはり廻国行者の一人だと云えます。
観音寺には、勧進僧を受けいれやすい何かがあったのでしょうか。
「弘化録』には、次のような勧進常夜灯の記録が記されています
観音尊常夜の覚一、銀札八百五拾目なり古は長崎より生国筑前の者、小林万治と中す者、廻国に参り、観音寺に逗留仕り候にして暫くの間、隔夜を打ち、ならびに本加なども相加え左の銀子調達仕り、観音尊へ常夜灯寄進致したき宿願に付き、有の銀子預け申したしの段申し出候に付き、観音寺八ケ村のその節の役人相談の上にて、観音寺中国川入目銀の内へ借り請けにして、毎年観音寺御用の入目所より立割五歩の利銀百弐拾七匁五歩宛油代へ払い仕り中し来し候。(以下略)
意訳変換すると
一、銀札850目なり古くは長崎から筑前生まれの者で、小林万治と申す者が、廻国参りにやってきて、観音寺に逗留するようになった。そして、隔夜修行を行うようになり、その成就の際に奉加で得た銀子を、観音堂の常夜灯費用として寄進したい旨を申し出た。この銀子の寄進を受けて、観音寺八ケ村の代表と役人で相談した上で、観音寺中国川入目銀の内へ借り請け金として入れて、毎年観音寺御用の入目所から五歩の利子銀百弐拾七匁五歩を油代として支出することとした。(以下略)
ここからは小林万治という九州の廻国行者が六十八番観音寺に、しばらく逗留して隔夜修行など修行しながら、奉加なども加えて銀札850目を調達して、観音菩薩の常夜灯を寄進したいと申し出たことが分かります。隔夜修行とは、以前にお話ししましたが、ここでは六十六番雲辺寺と六十八番観音寺を夜間に一日ごとに念仏を唱えながら往復して修行する念仏行です。彼以外にも、観音寺に逗留しながら、この行に挑んでいた信者がいたことが他の史料からも分かります。
小林万治という廻国行者は、 観音寺にしばらくの間、逗留して修行することが許されていたようです。そのお礼の意味もあっての銀子の寄進であったようです。
以上のように、札所寺院には、六十六部廻国行者や念仏行者などが入り込み修行を行っていたことがわかります。観音寺と雲辺寺は、隔夜行者の修行ゲレンデであり、七宝山は修験者たちの行場でもあったのです。その行場センターを観音寺は果たしていたことになります。そのために、堂宇再興などの際には、御世話になった行者や聖達が勧進ネットワークとなって、多くの財を集めるマシーンとして機能したのでしょう。
志度寺縁起に描かれた志度寺
廻国行者が係わって堂字を建立した例は、86番志度寺にもみられます。志度寺所蔵の棟札には、次のように記されています。
一、米三十穀、大旦那国主雅楽頭御内方さま教芳院殿也、本願円朝上人総州住人也、今者志度寺部屋二住也、大工ハ備前国山田村住人、藤原大工七右衛文勤之一、讃州志度寺観音堂、本願円朝法印(花押) 迂慶長九年甲辰十月十三日、寺家衆花厳坊、常楽坊、西林坊、林蔵坊、窄円坊、教円坊為弐親成仏一、慶長九年甲辰十月十三日志度寺観音堂本願者不思議成以縁、当寺住関東上総大台住人堅者円朝法印(花押)
意訳変換しておくと
一、米三十石、大旦那は藩主の生駒親正の奥方さま教芳院殿、本願は円朝で上総州住人である。円朝は志度寺部屋棲、大工は備前山田村住人の藤原大工七右衛文が勤めた一、讃州志度寺の観音堂、本願は円朝法印(花押) 慶長九年十月十三日、寺家衆は花厳坊、常楽坊、西林坊、林蔵坊、窄円坊、教円坊が参加した一、慶長九年十月十三日志度寺観音堂 本願は不思議な縁を以て、当寺住関東上総大台住人堅者円朝法印が行う(花押)
中世には志度寺縁起の寺として隆盛を極めた志度寺も、戦国時代には疲弊していたようです。慶長期になって、ようやく、生駒氏の援助でようやく再興が始まります。その手始めとして行われたのが観音堂の再興だったようです。
①大旦那は、生駒親正の夫人②本願は円朝法印③寺家衆も花厳坊・常楽坊・西林坊などで、まだ塔頭寺院というには、ほど遠い小さな坊庵の段階のようです
そして本願の円朝は、関東上総国の出身で「不思議の縁をもって、志度寺の部屋に住むようになった」というのです。ここからは、志度寺には定まった住職もいないほど退転していたところに、円朝という関東の廻国僧が訪れ、何らかのの縁を得て、定着したことがうかがえます。
四国霊場の寺院ではありませんが『宇和旧記』の白花山中山寺の項には、次のように記されています。
一、慶長十一年再興、是は奥州二本松産意伯上人、六十六部廻国の時、発起の由、棟札あり、予州宇和庄多野村、白花山中山禅寺仏殿、奉再興、本願奥州二本松産意伯上人、同行重円坊、意教坊、大工者多田村七右衛門也、殊御給人衆、並大小檀那、致進一紙半銭以諸人所集功力如是成就者也、(中略)惟時慶長十二暦戊申一月中旬。意伯上人(後略)
意訳変換しておくと
当寺は慶長十一年に再興された。その経緯は奥州二本松の意伯上人が、六十六部廻国で諸国回遊の際に、発起人となったことが棟札に記されている。予州宇和庄多野村、白花山中山禅寺仏殿なども、意伯上人の本願で行われ、同行重円坊、意教坊がこれを助け、大工は、多田村の七右衛門が勤めた。御給人衆は大小檀那衆で、一紙半銭の寄進で多くの信者の功力で成就した。(中略)惟時慶長十二暦戊申一月中旬。意伯上人
ここからは、奥州の六十六部の意伯上人が、廻国の途中で中山禅寺の再興を発起したことが分かります。同行者が二人いたようで、彼らも六十六部廻国行者で、勧進に協力したのでしょう。この例のように、志度寺の円朝法印や寺家衆の七坊も、伊予中山寺と同じように六十六部廻国行者であったと考えることもできそうです。戦国時代から50年余り経ってを経て、慶長年間頃にはこんなプロセスを経て、各地の寺院は復興されていったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。