三角寺-三角の護摩壇と龍

呪誼で、悪いものを鎮めてしまう壇が三角の護摩壇です。これが三角であることをご記憶いただきたいとかもいます。三角寺の発祥については、『四国偏礼霊場記』の挿絵を見ないと、その理由がわかりません。
なぜ三角かなのか?
龍王山の反対側に奥の院があって、龍がいるということから、現在は仙龍寺という名前になっています。ところが、仙龍寺と三角寺が仲たがいをして、奥の院と里寺との関係を断ち切ってしまいました。
さて、その龍のことですが、三角寺の縁起には悪い龍を弘法大師が追い詰めたら降参して、農民のために水を出しましょうと約束したということが脱落しています。
御詠歌は、「おそろしや三つの角にも入るならば 心をまろく慈悲を念ぜよ」です。「三つの角」は三角寺という意味です。三角の中に入ったら恐ろしいから、角が立たないように心をまろくして、人に慈悲を施すように念じなさいということです。ただ、古い時代は「慈悲を念ぜよ」が「弥陀をたのめよ」となっていたようです。
縁起は、聖武天皇の勅願で行基菩薩の開基、弘仁六年(八一五)だと書いています。高野山を開いたのが弘仁七年ですから、それより古いということでしょうか。
弘法大師がここにやってきて、十一面観音と不動明王を作ったと書いていますが、不動さんは奥の院でまつっていました。ここに出てくる十一面観音が、三角寺の現在の本尊の十一面観音です。

『四国偏礼霊場記』は三角寺の歴史について、次のように書いています。
此寺本尊十一面観音、長六尺二寸、`大師の御作、甲子の年に当て開帳す。今弥勒堂を存ず。慈尊院の名思ひあはす。もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王等、種々の宮堂相並ぶときこえたり。社の前、池あり。嶋に数囲の老杉あり。大師の時、此池より龍王出て、大師御覧ぜしとなん。庚嶺はもろこしの梅の名所也。此所も本、梅おほかりしによつて此名を得るにや。
「甲子の年に当て開帳す」とあるので、六十年に一度、開帳したようです。
弥勒堂があるということについて、三角寺には弥勒堂と弥勒仏があって、分離するときにすでにあった弥勒を本尊とするお寺に十一面観音を移して本尊にし、三角の修法壇があったので三角寺と称したのだと解釈しています。もとあったのは弥勒を本尊とするお寺だと考えないといけません。そこに下りてきて、三角寺ができました。
弥勒という仏様は慈悲の仏だといわれているので「慈尊」は弥勒のことです。それで慈尊院という名前がおもい合わされると、『四国偏礼霊場記』は書いているわけです。

雨沢龍王は龍王山の龍王です。
これを調伏するための三角の護摩壇がありました。いろいろなお宮やお堂が並んでいるという評判であると書いています。雨沢龍王の神の前に池がありました。いまは龍王ではなくて、島の中に弁天さんをまつっています。龍王は奥の院の仙龍寺でまつっています。
「大師御覧ぜしとなん」と書いていますが、見ただけではない、龍を追い出した、あるいは調伏して水を出すことを誓わせた、ということを補って考えてください。
いまは山号の庚嶺山の「庚」という字を「由」と変えています。しかし、『四国偏礼霊場記』は痩せた嶺の山だと解釈して、「庚嶺はもろこしの梅の名所也」といっています。幽霊山と書いたものがあるのは、庚嶺山をなまって「ユウレイ」といっていたのを幽霊と書いてしまったのだとおもいます。
つまり、ここに出現した龍王を調伏したという話から、本寺はもとの奥の院にあって、水源信仰があったことが推定されます。龍はすなわち水神です。水源神として雨沢龍王がまつられ、その本地を十一面観音としたけれども、龍王は荒れやすい神なので、これを鎮めるための護摩作焚かれて、その結果、水を与え、農耕を護る水神となったという信仰がもとになって、縁起ができたわけです。

ところが、弘法大師信仰に転換してから、このお寺の奥の院は二分されました。
現在の三角寺の奥の院は、龍王山の反対側にあって龍がいるということから仙龍寺という名前になっています。仙龍寺は、四国霊場全体の総奥の院とも称しています。しかし、現在の仙龍寺のもっと上には奥の院址があります。ここがもともとは仙龍寺と三角寺の共通の奥の院でした。共通の奥の院には、水源信仰があったことが推定されます。水源神として雨沢龍王がまつられ、その本地は十一面観音でした。雨沢龍王は龍王山の龍王です。けれども龍王は荒れやすい神なので、これを鎮めるための護摩が焚かれて、いつしかそれが水を与え、農耕を護る水神へと姿を変え今に伝わる縁起ができたと考えられます。

旧奥の院がもとの辺路修行の霊場で、行場はもっと下の現在の仙龍寺辺りにあり、そこまで行者は滝行や窟寵りをしていました。
そして次第に、行場も仙人堂を建て仙龍寺として独立して、さらに谷川の上に舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化していきます。いま仙龍寺の大師は作大師として米作の神となっているのは、旧奥社以来の水源信仰があったからです。
時代が下ると、平石山の嶺を越えてくる遍路の便を図って、北側山麓の弥勒菩薩をまつる末寺の慈尊院へ本地仏十一面観音を下ろします。そして、龍王を調伏するための三角の護摩壇が作られいろいろなお宮やお堂が並ぶようになります。こうして、今までの慈尊院が三角寺と呼ばれるようになります。

つまり、仙龍寺も三角寺も旧奥の院から独立し、里下りしたお寺さんなのです。
ところが、仙龍寺と三角寺が仲たがいをして、奥の院と里寺との関係を断ち切ってしまいました。