瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:三豊市妙音寺

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藤原宮は本格的な条坊をもつ最初の古代都城でした。

また初めて宮城の建物屋瓦を葺いたことで も知られています。宮城の建物を瓦葺するためには、古代寺院の数十倍の屋瓦が必要になります。しかも、寺院のように着工から落慶法要までに何十年というわけにはいきません。短期間に生産する必要があります。
 その問題を解決するために取られてのが、地方に新たに最新鋭の瓦工場を作って、そこから舟で貢納させるという手法です。この手法は、どのようにすすめられたのか。またこの手法に従って、どのように宗吉瓦窯は新設されたのかを見ていきたいと思います
宗吉瓦窯 藤原京

藤原宮から出土した瓦は、製作技法・使用粘土・瓦デザインの違いか ら次の15グループに分けられています。
宗吉瓦窯 藤原京瓦供給地2
それを具体的に見ると
①大和盆地内では、日高山瓦窯、高 台 ・峰寺瓦窯、内 山 ・西 田中瓦窯、安養寺瓦窯、
②大和盆地外では、近江、讃岐三豊の宗吉瓦窯、讃岐東部、淡路の土生寺窯、和泉地域
 で生産して供給されたことが分かります。
宗吉瓦窯 藤原京瓦供給地

この内の②の大和以外のグループの立地については次のような共通点があると研究者は考えているようです。
①国家的所領に立地する
②藤原宮へ舟で瓦を運べる条件がある
③中央で編成された造瓦技術者集団が派遣されている
この3つの条件が宗吉瓦窯に、当てはまるのかどうかを検討していきましょう。  
この絵は三野湾に隣接した7世紀末の宗吉瓦窯を描いた想像図です。
宗吉瓦窯 想像イラスト

十瓶山北麓の斜面にいくつもの登窯が作られ煙を上げています。ここでは当時建設中の藤原京の宮殿に使用する瓦を焼くために、フル稼働状態でした。この想像図に書き込まれている情報を読み取っていきましょう。斜面にはいくつもの登窯が見えますがよく見ると3グループに分かれています。
①北側裾部(右)に左から順番に1号から9号までの9基
②その南(中央)に、左から10号から16号までの6基
③南側(左) 17号から23号窯の6基
 が平行に整然ならんでいます。南に少し離れて11号窯があります。発掘の結果、このように23の大型瓦窯があったことが確認されました。まるで瓦工場のようです。
  その横を流れるのが高瀬川になります。
高瀬川は、すぐ北で海に流れ込んでいます。当時の三野湾は南に大きく湾曲していて、宗吉瓦窯の近くまで海が迫っていたようです。海に伸びる道の終点は何艘もの小型船が停泊しています。そこに積み上げられているのが瓦です。瓦は小型船で、沖に停泊する大型船に積み込まれます。そして、瀬戸内海を難波の港まで渡り、大和川を経て大和に入り、藤原京まで舟で搬入されたようです。藤原京には、工事用のための搬入運河が作られていたことが分かっています。

宗吉瓦窯 藤原京運河
藤原京と運河

 藤原京建設の進展具合を見てみましょう
天武 5 676 新城、予定地の荒廃により造営を断念
天武 9 680 皇后の病気平癒のため誓願をたて、薬師寺建立を発願
天武13 684 天皇、京内を巡行し、宮室の場所を定める
朱鳥元 686 天武天皇崩御
持統 6 692 藤原の宮地の地鎮祭を行う
持統 8 694 藤原遷都
持統 9 695 公卿大夫を内裏にて饗応
持統 10 696 公卿百官、南門において大射
文武 2 698 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
大宝元 701 天皇、大極殿に出御し朝賀を受ける
       天皇、大安殿に出御し祥瑞の報告を受ける

藤原京の建設が進む7世紀末には、この宗吉瓦窯はフル稼働状態で、作られた瓦が舟で藤原京に貢納されていたようです。
宗吉瓦窯 窯内部写真

 発掘が行われた17号窯を見てみましょう。
一番南側の窯になります。山麓を掘り抜い た全長約13m、幅 約2m、高さ1,2~1,4mの大型で最新鋭の有段式瓦窯です。この瓦窯からは、平瓦、丸瓦とともに、軒丸瓦、軒平瓦、熨斗瓦などが出土しています。その工法は、粘土板技法によるもののようです。
 また、軒丸瓦は単弁8葉蓮華文の山田寺式の系譜を引くもので、これは三豊市豊中町の妙音寺から出てきた瓦と同じ型から作られた「同笵瓦」です。

3妙音寺の瓦

また、一番北側の8号瓦窯からは重弧文軒平瓦、凸面布目平瓦などが出土しています。その中の軒瓦は、以前にもお話しした通り丸亀市郡家の宝幢寺池から出てきたものと同笵です。ここからは、この宗吉瓦窯で作られた瓦が三野郡の妙音寺や多度郡の仲村廃寺や善通寺、那珂郡の宝憧寺に提供されていたことがわかります。

さらに、17号や8号で周辺寺院への瓦が提供された後に、藤原京用の瓦を焼くために多くの窯が作られ、フル稼働状態になったことも分かってきました。今までの所を整理しておきます

宗吉瓦窯は
①讃岐在地の有力氏族の氏寺である妙音寺や宝幢寺の屋瓦を生産するための瓦窯として最初は登場
②その後、藤原宮所用瓦の生産を担うに多数の瓦窯を増設された。
 この想像図に書かれたような当時のハイテク最先端の瓦工場が、どのようにして三豊のこの地に作られるようになったのでしょうか?

讃岐三野湾周辺の歴史的背景をみておきましょう。
 宗吉瓦窯が設けられた三野津湾は、古代には大きく南に湾入していたようです。
1三豊の古墳地図

周辺の古墳時代後期の古墳としては、宗吉瓦窯の約西北1,5kmに汐木原古墳、大原古墳、金蔵古墳などがありますが、首長墓とされる前方後円墳は見当たりません。ここからは古墳時代の三豊湾には有力首長がいなかったことがうかがえます。
 ところが蘇我氏が台頭してくる6世紀後半代には、三豊湾の東岸に三野古窯群が操業を始め、窯業生産地を形成していきます。

三野平野2

三野古窯群の「殖産興業」を行った勢力は、何者なのでしょうか?
『 先代旧事本紀』の「天神本紀」に、三野物部のことが記され、三豊湾から庄内半島にかけてを三野物部が本拠地としていたことがうかがえます。三野物部は、「天神本紀」に筑紫聞物部、播磨物部、肩野物部などと一緒に記されています。これは、中央の物部氏が九州から瀬戸内海、河内の要所の港津を掌握していたことと深く関連すると研究者は考えているようです。
 つまり朝鮮半島や九州と最重要ルートである瀬戸内海の拠点として、物部氏の拠点が置かれていたと云うのです。それは、三野物部が庄内半島や三野湾を拠点に、交易・軍事・政治的活動を行ったとも言い換えられます。この説によると、三野物部によって先ほど見た三野古窯群も、朝鮮からの渡来技術者を入植させることで「殖産興業」化されたことになります。しかし、物部氏は用明天皇2年(587)に、蘇我馬子・厩戸皇子と争いに敗れ滅びます。
それでは、三野湾の周辺の支配権はどうなったのでしょうか?
敗者である物部氏の所領は、勝者である蘇我氏が接収したようです。しかし、蘇我氏も、皇極天皇4年(645)の乙巳の変(大化の改新)によって、蘇我蝦夷・入鹿が中大兄 皇子・中臣鎌足らに倒され、滅亡します。
 後に成立した養老律では、謀反などによる者の財物は、親族、資財、田宅を国家が没収すると規定 されています。没収財産は、内蔵寮、穀倉院など天皇家の家産機構にくりこまれることになっています。蘇我本宗家の滅亡の場合も、 同じような扱いになったのではないかと研究者は考えているようです。
つまり三野湾一帯の所領は、次のように変遷したと考えます
①瀬戸内海交易の拠点として物部三野が支配
②物部氏が蘇我氏に倒された後は、蘇我氏の支配
③乙巳の変(645)以後は、天皇家の家産財産化(国家的な所領)
 このように7世紀末に三野湾には、物部三野が残した大規模な三野窯跡群が所在し、その周辺 に国家的な所領があったと想定できます。
この状況を先ほど見た瓦窯設置条件から見るとどうなのでしょうか。
①周辺に先行する須恵器生産地がある。
  ここからは瓦製造に必要な粘土があること、また須恵器生産を通じて養われたノウハウや技術者が蓄積されていたと考えられます。
②国家的所領があること
 これは、労働力を徴発したり動員できること、燃料の薪も入手できることを意味します。7世紀末の時点で、すでに三野湾東部では燃料となる木材は伐採が進み、山は次々と禿げ山になっていたようです。そのため伐採がすすんだエリアの窯を放棄して、須恵器窯は山の奥へ奥へと移動していきます。しかし、国家的な事業であれば周辺の山々の木材を伐採することができます。少々遠くても、三野郡の住人を動員すればいいと担当者は考えるでしょう。どちらにしても、薪は今までのエリアを越えて集めることが出来ます。燃料供給に問題はありません。
③物部氏が運用してきた港津がある
 これは舟で近畿と結びついていることを意味します。郷里は遠くとも大量の製品を舟で藤原京まで運べます。藤原京造営のため京城内部まで運河が掘られていたことが発掘からは分かっているようです。
 以上のような好条件があったことになります。
中央の政策立案者達は、中央の進んだ造瓦技術者集団を派遣し、地元の須恵器工人たちに技術指導を行うことで、新たな造瓦組織が編成できると考えたのでしょう。あとは、製造技術や管理集団です。
 それでは、藤原京造営計画の中心にいた人物とは誰なのでしょうか。
  研究者は、平城遷都が右大臣藤原不比等の計画によって進めたとしますが、それに先立つ藤原宮の造営でも不比等が第1候補に挙げられるようです。地方に技術者を送り込み、新設工場を設置して、運営は地元の有力豪族に委託するというやり方は不比等周辺で考えられたとしておきましょう。
1 讃岐古代瓦

この時期に窯業などの先端技術を持つ人たちは、渡来人でした。
 彼らの中には、新羅・唐の連合軍の侵攻の前に国を追われ、倭国にやってきた百済の技術者が数多くいたはずです。百済滅亡時には、先端技術を持った多くの渡来人達がやってきてます。真っ先に国を逃げ出し、政治的亡命を行うのは高位高官者に多いのは今でも同じなのかもしれません。
 どちらにしても、地方における古代寺院の建立を可能にしたものは、彼らの存在を抜きにしては考えられないでしょう。ハイテク技術を持った技術者は、最初は中央の有力者の氏寺の建立に関わります。

宗吉瓦窯 川原寺創建時の軒瓦
川原時の古代瓦
それが川原寺であり、本薬師寺であったのでしょう。藤原不比等も氏寺の造営を行っているようです。中央で活躍していた技術者達に、地方への転勤命令が下されたのです。それは藤原京の瓦造りのためにでした。
  宗吉瓦窯にやってきたのは、大和の牧代瓦窯からやってきた瓦技術者だったと研究者は考えているようです。
なぜ、そんなことが分かるのでしょうか。それは、瓦のデザインの分析から分かるようです。
宗吉瓦窯 牧代瓦窯地図
研究者は次のように考えているようです。
①大和の2荒坂瓦窯は川原寺の屋瓦を生産した有段瓦窯で、当時の最新鋭の設備と技術者によって運営されていた
②2荒坂瓦窯は川原寺の瓦生産が終了すると、瓦技術者たちは近くの1牧代瓦窯に移って本薬師寺用の瓦生産に取りかかった。
③本薬師寺へ屋瓦を供給することが終了した段階で、牧代瓦窯の造瓦組織は解体されいくつかの小規模なグループに再編成された
④それは、藤原宮用の瓦生産を行うためで、各グループが地方に技術指導集団として派遣された。
⑤藤原宮用瓦の生産を行った讃岐、和泉、淡路の瓦工場は、互いに密接な関連もっていた。
①から②の移動は、燃料となる薪の木材を伐採しつくしたので、新たな場所に瓦窯を移したようです。それも含めると、瓦技術者集団は、つぎのように移動した研究者は考えているようです。

2荒坂瓦窯 → 1牧代瓦窯 → 小グループに再編され讃岐、和泉、淡路の瓦工場への派遣

この際に①や②で使われていた軒平瓦の版木デザインを、宗吉瓦窯の新工場にも持ってきて、それに基づいて忍冬唐草文の文様を書いたとします。こうして、大和から讃岐への瓦技術者の移動が明らかにされているようです。そのデザインの変化を見ておきましょう。

宗吉瓦窯 軒平瓦デザイン
牧代瓦窯6647Gに類似する文様には、讃岐東部産(長尾町)の6647Eと讃岐三豊の宗吉瓦窯6647Dがあります。3つの瓦は
①8回反転の変形忍冬唐草文で、
②半パルメット文様が特殊な形状をなし、
③右第1単位の右斜め上に三日月形の文様
 があります。
④半パルメット、渦巻形萼、蕾の表現からみて、
牧代瓦窯6647G→讃岐東部産6647E→半パ ルメットが全て上向きに表現する宗吉瓦窯6647Dの順にくずれていることを研究者は指摘します。(図5)。 
  ここからは讃岐で生産された藤原京用の平瓦のデザインは、大和の牧代瓦窯で働いていた技術者集団がもたらし、その指導の下に作られたことがうかがえます。

宗吉瓦窯 宗吉瓦デザイン
宗吉瓦窯の瓦 

再度確認しておきます。牧代瓦窯―本薬師寺系列の軒瓦は、
①本薬師寺の造瓦組織(最先端技術保有集団)を解体し
②和泉、淡路、讃岐東部、讃岐三豊産の宗吉瓦窯などへ派遣された造瓦技術者が
③粘土板技法によって藤原宮所用瓦の生産にかかわった
ということになります。
こうして新たな京城の宮殿瓦を焼く工場新設という使命を受けて、中央から技術者集団が三豊にもやってきたようです。
三野 宗吉遺2

彼らは、どのような基準で瓦工場の立地を決めたのでしょうか。
 古代も現在も瓦工場には、瓦に適した粘土・薪(燃料)・水・交通・労働力などが必要です。その中でも粘土と薪と水は、瓦つくりには必須です。まず粘土のある場所と、地下水などの水が豊富なこと、港に近く積み出しに便利なことなどが選定条件になります。それらを満たしていたことは、先ほどの復元図から読み取れます。
宗吉瓦窯 瓦運搬ルート

 薪は今までは伐採が許されなかったエリアから伐採が可能になったようです。庄内半島方面から切り出してきた形跡が見えます。薪の運搬ルートも考えて選ばれたのが十瓶山北麓の丘陵斜面である宗吉だったのでしょう。これは今まで、須恵器窯群があった三野湾東部ではなく、湾の南側になります。

1 讃岐古代瓦no源流 藤原京
 労働力は
①薪の伐採・運搬
②粘土の掘り出し
③焼きあがりの瓦の運搬
④製造工程の職人
が考えられます。これらの管理・運営は担うことになったのが、地元の有力者である丸部氏(わにべのおみ)ではないのかというのは以前にお話ししました。
 讃岐国三野郡(評)丸部氏は、7世紀後半に都との深いつながりをもつ人物を輩出します。
天武天皇の側近として『日本書紀』に名前が見える和現部臣君手です。君手は、壬申の乱(672年)の際に美濃国に先遣され、近江大津宮を攻略する軍の主要メンバーでした。その後は「壬申の功臣」とされます(『続日本紀』)。そして息子の大石には、772年(霊亀二)に政府から田が与えられています。
出来事を並列的にとらえる -『鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台』(2)- : 発想法 - 情報処理と問題解決 -

 このように和現部臣君手を、三野郡の丸部臣出身と考えるなら、讃岐最初の古代寺院・妙音寺や宗吉瓦窯跡も君手とその一族の活動と考えることができそうです。豊中町の妙音寺周辺に拠点を置く丸部臣氏が、「権力空白地帯」の高瀬・三野地区に進出し、国家の支援を受けながら宗吉瓦窯跡を造り、船で藤原京に向けて送りだしたというストーリーが描けます。
 
ちなみに丸部氏が讃岐最初の氏寺である妙音寺を建立するのは、宗吉瓦窯工場新設の少し前になります。その経験を活かして隣の多度郡の佐伯氏の氏寺善通寺や那珂郡の宝憧寺(丸亀市郡家)造営に際しても、瓦を提供していることは先述したとおりです。讃岐における古代寺院建設ムーヴメントのトッレガーが丸部臣氏だったようです。

 このような実績があったから藤原不比等から役人を通じて、次のような声がかかってきたのかもしれません。
新たに造営予定である藤原京の宮殿は、なんとしても瓦葺きにしたいとお上は思っている。板葺宮では、国際的な威信にもかかわる。そこで、新たな瓦工場の設置場所を選定している所じゃ。おぬしの所領の近くの三野湾周辺では、いい粘土が出るようじゃ。それを使って、須恵器も焼かれていると聞く。
 そこでじゃが先の壬申の乱の功績として、おぬしの実家の丸部氏に氏寺の建立を許す。完成すれば、讃岐で最初の寺院になろう。名誉な事じゃ。もちろん建立に必要な技術者達は、藤原不比等さまが派遣くださる。氏寺建設に必要な瓦窯を作って、そこで瓦を焼いてみよ。うまくいけば周辺の氏寺建設を希望する氏族にノウハウや瓦を提供することも許す。
 そうして出来上がった瓦の品質がよければ、藤原京用の瓦に採用しようというのじゃ。その時にはいくつもの窯が並んだ、今まで見たこともない規模の瓦屋(瓦窯)が三野湾に姿を現すことになろう。たのしみじゃのう。
 ちなみに大和国までは舟で運ぶことなる。その予行演習もやっておけば不比等さまは、ご安心なさるじゃろう。詳しいことは、瓦の専門家グループを派遣するので、彼らと協議しながら進めればよい。どうしゃ、悪い話ではないじゃろう。 
 という小説のような話があったかどうかは知りません。
現在の工場誘致のように丸部氏側が、不比等に請願を重ねて実現したというストーリーも考えられます。いずれにしても、政権の意図を理解し、讃岐最初の寺院を建立し、瓦を都に貢納するという活動を通じて、三野の「文明化」をなしとげ、それを足がかりに地域支配を進める丸部臣(わにべのおみ)氏の姿が見えてきます。  
宗吉瓦窯 ポスター

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 小笠原好彦    藤原宮の造営 と屋瓦生産地
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         讃岐で最初の古代寺院妙音寺を作ったのは?  

 三豊人と話していると「鳥坂峠の向こうとこちらでは、文化圏がちがう」
「三豊は独自の文化を持つ」という話題が出てくることがあります。
確かに、三豊には独自の文化があった気配がします。例えば、財田川河口に稲作を持ち込んだ弥生人とその子孫は、わざわざ九州から阿蘇山の石棺を運んできて、自らの前方後円墳に設置し、その中に眠る首長もいます。古墳時代には、三豊は九州とのつながりを感じさせるものが多いようです。
そんななかで、三豊の古代史の謎がいくつかあります。
その1 高瀬川流域の旧三野郡に前方後円墳がないこと
その2 讃岐最初の古代寺院妙音寺がなぜ三豊に建てられたのか、その背景は?
その3 藤原京の宮殿用の宮瓦を焼いた「古代の大工場」が、なぜ三野に作られたのか?
この疑問に答えてくれる文章に出会いました。
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」という冊子です。

       讃岐最初の古代寺院妙音寺を建立したのは誰か?

 この冊子は、白村江の敗北から藤原京の造営にいたる変動の時代を、果敢に乗り切った地域として三野評(郡)(現三豊市)に光を当てます。現在の三豊市の高瀬川流域では、前方後円墳の姿を見ることができません。古代における首長の存在が見当たらないのです。大野原に見られるような六~七世紀の大型横穴式石室墳もありません。延命院古墳などの中規模の石室墳がありますが、それもわずかです。

 ところが白村江の敗北後の七世紀中ごろ、ここに讃岐最古の古代寺院・妙音寺が突然のように姿を現します。 隣の多度郡の善通寺地区と比較するとその突然さが分かります。善通寺地区では大麻山と五岳に挟まれた有岡の盆地では、首長墓である前方後円墳が東から磨臼山古墳 → 丸山古墳 → 大墓山古墳 → 菊塚古墳 と順番に造られ「王家の谷」を形作っていきます。7世紀後半になると古墳の造営をやめて、古代寺院の建立に変わっていきます。それを担った古代豪族が佐伯氏を名乗り、後の空海を産みだした氏族です。

 つまり、古代寺院の出現地には、周辺に古墳後期の巨大な横穴式石室を持つ古墳を伴うことが多いのです。そして、古墳時代の首長が律令国家の国造や地方政府の役人に「変質・成長」するというパターンが見られます。ところが、繰り返しますが三野平野はその痕跡が見えません。それをどう考えたらよいのでしょうか?

一方、西となりの財田川とその支流二宮川一帯の旧刈田郡(観音寺と旧本山町)は早くから開けたところで、財田川とその支流沿いに稲作が広がり、周辺の微髙地からは古代の村々が発掘されています。その村々を見下ろす台地の上に、讃岐最初の古代寺院妙音寺は建立されます。
妙音寺は、三豊市豊中町上高野の小高い上にある寺院です。
 周辺の古墳を探すと、妙音寺の北300mに大塚古墳があります。中期の古墳で墳頂に祠が立ち、かつては“王塚”と呼ばれていたようです。2014(平成26)年度に確認調査が行われ、径17.75m、埴輪列まで含めると径22.0m、周濠まで含めると径37.5mの円墳です。川原石の葺石および円筒・朝顔形埴輪がでてきていますが、形象埴輪はありません。埋葬部は未調査です。 

台地の下には、財田川の支流二宮川が蛇行しながら流れます。

その河岸の岡に延命院があります。その境内に開口部を南に向けているのが延命古墳です。地元に人は「延命の塚穴」と呼んでいます。先ほどの紹介した古墳時代中期の「大塚古墳」に続く後期古墳です。墳墓の上には立派な宝篋印塔が立っていて、径約16m以上とされる楕円形に近い円墳にアクセントを付けて簪のように似合っています。
 花崗岩の天井石の一部が露出し、片袖型横穴式石室が南東に開口し、サイズは羨道[長さ1.8m×幅1.4m]、玄室[長さ4.48m×幅2.4m×高さ2.8m]です。採集された須恵器から、6世紀後半から末の築造とされています。巨石の配置の見事さ、さらに整備された構造、境内の中にあって長年にわたって保護されきた環境などから、見ていて楽しい古墳です。
 妙音寺は、この古墳と大塚古墳の間にあり、どちらからも直線では数百mの距離です。善通寺地区の大墓山古墳と善通寺、坂出の府中地区の醍醐古墳群と醍醐寺のように終末古墳から古代寺院への建立へと進む地方豪族の動きが窺えます。この周辺に妙音寺の建立に係わった一族の拠点があったと推測されます。

 この丘の上に寺院が建立され始めたのは7世紀後半のことのようです。

昭和のはじめから周辺で工事や小規模な発掘調査が行わ多くの古代瓦が見つかっています。瓦からはいろいろな情報を読み取ることができます。この寺の完成までには20年ほどの歳月がかかったようです。そのために何種類かの瓦が使われています。
 最初の建物に使われた瓦は大和・豊浦寺にモデルがある独特の文様が採用されています。そして、竣工間際の七世紀も終わりごろには、天皇家の菩提寺である百済大寺式の瓦で軒が飾られるようになります。
どちらにしろ寺院の建設は地域の豪族にとって初めての経験であり、その高度な建築技術持つ大工や工人を都周辺から招いたと考えられます。一枚が10㎏もある重い古代瓦は、輸送コストのことを考えると、なるべく寺院の近くに瓦窯を作って生産するのが基本です。妙音寺の場合は、ここから約五㎞北の宗吉瓦窯跡(三豊市三野町)で生産されたことが発掘から分かってきました。 さらに驚くべき事が分かってきます。
ここで焼かれた瓦が持統天皇が造営した藤原京の宮殿に使われているのです。
瀬戸内海を越えて船で運ばれたのでしょうが、なぜこんなに遠いところから運ぶ必要があったのでしょうか? また、なぜ古代豪族の影が見えなかった高瀬川流域に忽然と大工場が現れたのでしょうか?

それには、もうすこしこの最新鋭の工場を見ていくことにしましょう。

 最盛期には、宗吉瓦窯跡では最新鋭構造の窯五基前後をセットにして、それを四グループ並べるかたちで、全部で20あまりの窯跡が稼働していました。窯詰め・窯焚き・冷まし・窯出し、といった工程をグループ毎にローテーションするような効率的な生産が行われたようです。
 これだけ集中的で組織化された生産方法や・監視システム・さらにはそれを担う技術者を集めることなど、地方豪族の力を越えています。この工場は、国家プロジェクトとしての形が見えると専門家は言います。
この地に、最新鋭の大規模工場が「誘致」されてきたのは、どんな背景があるのでしょう?
 誘致以前に、すでに三野地区には須恵器生産地(三野・高瀬窯跡群)があり、瓦作りの基礎技術や工人はすで存在していたようです。その経験を生かしながら国家からの財政的・技術的な支援を受けながらこの地に先端の瓦製造工場を呼び入れた地方豪族がいたのです。その人物は、中央政府との深いつながりを持っていた人物だったのでしょう。さて、その人物とは?

七~八世紀に都との際立った深いつながりをもつ人物として、讃岐国三野郡(評)の「丸部臣」(わにべのおみ)を専門家は挙げます。

この人物を、天武天皇の側近として『日本書紀』に名前が見える和現部臣君手とするのです。君手は、壬申の乱(六七二年)に際して美濃国に先遣され、近江大津宮を攻略する軍の主要メンバーとなる人物です。その後は「壬申の功臣」とされます(『続日本紀』)。そして息子の大石には、772年(霊亀二)に政府から田が与えられています。
 このように和現部臣君手を、三野郡の丸部臣出身と考えるなら、妙音寺や宗吉瓦窯跡も君手とその一族の活動と推察することが出来ます。妙音寺周辺の本山地区に拠点を置く丸部臣氏が、「権力空白地帯」の高瀬・三野地区に進出し、国家の支援を受けながら宗吉瓦窯跡を造り、船で藤原京に向けて送りだしたというストーリーが描けます。
 また、隣の多度郡の善通寺や那珂郡の宝憧寺造営に際しても、瓦を提供していることが出土した同版瓦から分かっています。讃岐における古代寺院建設ムーヴメントのトッレガーが丸部臣氏だったといえるのかもしれません。
 もし君手が三野評出身でなくとも、彼が同族関係にある三野郡の丸部臣と連携して藤原宮への瓦貢進を実現させたと推測できます。いずれにしても、政権の意図を理解し、讃岐最初の寺院を建立し、瓦を都に貢納するという活動を通じて、三野の「文明化」をなしとげ、それを足がかりに地域支配を進める丸部臣(わにべのおみ)氏の姿が見えてきます。  

妙音寺の建立から百年後、宗吉瓦窯跡が操業を終えた八世紀初めごろ、

三野津湾の東側にそびえる火上山の南のふもとに火葬墓が造られます。猫坂古墓と呼ばれるその墓では、銅製骨蔵器(骨壷)と銅板が須恵器外容器に収められていました。讃岐国の中では最も早い時期に火葬を受け入れた例とされます。専門家は、骨蔵器の優れた造りからみて郡司大領クラスの被葬者と考え、「立地場所からからみて三野郡司・丸部臣氏との関係が濃厚」としています。
 丸部臣氏は、7世紀後半から8世紀にかけて中央とのパイプを持つことに成功し、当時の政権の意図である「造宮と造寺」を巧みに利用し、三野郡における「古代の文明化」を達成していったのす。

それに対して隣の刈田郡(旧大野原町)は、どうだったのでしょうか?

 観音寺市大野原町には、六世紀後半から七世紀初めにかけて、傑出した大型横穴式石室墳である椀貸塚古墳、平塚古墳、角塚古墳(いずれも国史跡)が世代毎に築かれます。同時期の讃岐では、突出した巨大な石室をもつ大野原古墳群は、三豊平野南部に君臨した豪族の墳墓です。また県境を越えた四国中央市には、角塚古墳と石室の構造は近似しているものの使用している石材が異なる宇摩向山古墳があり、大野原古墳群の勢力と連合した豪族がいたことがうかがえます。この勢力が最後の平塚を完成させたのが7世紀半ば、それに前後して三野地区の丸部臣氏は寺院建立に着手していたことになります。この時流への対応が、後の両勢力の歩む道の分岐点になったと研究者は考えているようです。
 この大野原・川之江の燧灘東方の連合勢力(紀伊氏?)に、国家はくさびを打ち込むかのように国境を入れるのです。彼らこの地域の豪族たちにとって、これは「打撃」でした。この打撃から立ち直り、その衝撃を乗り越えて行くには、相当の時開かかかったようです。大野原地域に中心的な古代寺院、紀伊廃寺が建てられるのは、出土瓦からみると「丸部臣」が建立した妙音寺に遅れることと約百年。この間、三豊平野の主導権は、「丸部臣」ら三野郡の勢力に握られていたと考えられます。
 
 刈田郡の豪族も、遅れながらもやがては他の地域と同様に開発を進めていったのでしょう。平安時代になると、郡の名を負った苅田首氏が中央官界に進出します。打撃を被りながらも地域の経営を進め、九世紀には、他地域と同様に地域経営を進めた痕跡を見ることが出来ます。

参考文献 
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界


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