瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:三野・高瀬窯跡群


前回は、讃岐における須恵器生産の始まりと、拡大過程を見てきました。そして、7世紀初頭には各有力首長が支配エリアに須恵器窯を開いて、讃岐全体に生産地は広がっていたことを押さえました。これが後の「一郡一窯」と呼ばれる状況につながって行くようです。今回は、その中で特別な動きを見せる三野郡の須恵器窯群を見ていくことにします。テキストは「佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論 埋蔵物文化センター紀要」です。
 須恵器 三野・高瀬窯群分布図
           三野郡の須恵器窯跡分布地図       
 上の窯跡分布地図を見ると次のようなことが分かります。
①高瀬川流域の丘陵部に7群の須恵器窯が展開し、これらが相互に関連する
②中央に窯がない平野部のまわりの東西8km、南北4kmの丘陵部エリアに展開する。
③これらの窯跡群を一つの生産地と捉えることができる。
以上のような視点から『高瀬町史』は、7群の窯跡群をひとまとめにして「三野・高瀬窯跡群」と名付け、7群を支群(瓦谷・道免・野田池・青井谷・高瀬末・五歩Ⅲ・上麻の各支群)として捉えています。
まず、7支群がどのように形成されてきたのかを見ておきましょう。
第1段階(6世紀末葉~7世紀初頭)
爺神山麓の瓦谷支群(1)で生産開始。
第2段階(7世紀前葉)
瓦谷支群(2)で生産継続、(この段階で生産終了) 
代わって野田池支群(2)での生産開始。
第3段階(7世紀中葉)
野田池支群での生産拡大
道免・高瀬末の2支群の生産開始 (高瀬末支群は終了)
瓦谷支群北側直近の宗吉瓦窯で須恵器生産の可能性あり。
第4段階(7世紀後葉~8世紀初頭)。
道免・野田池の2支群での生産継続。
宗吉瓦窯での須恵器生産継続。(この段階で終了)。
第5段階(8世紀前葉~中葉)
道免・野田池の2支群での生産継続
青井谷支群での生産開始(平見第4地点)。
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
青井谷支群での生産拡大(平見第8地点・青井谷第3地点)
五歩田支群での生産開始(五歩田第1地点)
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
青井谷支群での生産継続(平見第1地点)
上麻支群での生産開始(上麻第4地点)。
この段階で三野・高瀬窯群の操業終了。
窯跡の変遷移動からは、以下のようなことが分かります。
①窯場が瓦谷支群(1)や野田池支群(2)などの三野津湾に面した場所からスタートして、次第に山間部の東方向へと移動していく
②その移動変遷は瓦谷(1)→野田池(2)→道免(3)・高瀬末(5)→宗吉→ 青井谷(4)→五歩田(6)→上麻(7)と奥地に移動していったこと
③窯場の移動は、製品搬出に必要な河川ないし谷道を確保する形で行われいる。
④7世紀中葉~8世紀初頭には野田池・道免支群が、8世紀後葉~10世紀前葉には青井谷支群が中核的な位置にある。
⑤大きく見れば宗吉瓦窯も三野・高瀬窯跡群を構成する窯場(「宗吉支群」)として捉えられること。
⑥燃料(薪)確保のためか窯場を、高瀬郷内で設定するような傾向が見受けられること。

他の讃岐の窯場との比較をしておきましょう。
 隣接する苅田郡の三豊平野南縁には、辻窯群(三豊市山本町)が先行して操業していて競合関係にありました。辻窯群には、紀伊氏の墓域とされる母神山の群集墳や忌部氏の粟井神社があり、讃岐では他地域に先んじて、須恵器生産を始めていました。それが7世紀中葉になると三野・高瀬窯群の操業規模が辻窯跡群を、圧倒していくようになります。
 一方、讃岐最大の須恵器生産地に成長する十瓶山窯跡群(綾歌郡綾川町陶)と比較すると、8世紀初頭までは圧倒的に三野・高瀬窯の方が操業規模が大きいようです。それが逆転して十瓶山窯が優位になるのは、8世紀前葉以降のことです。10世紀前葉になると、十瓶山窯との格差がさらに大きくなり、次第に十瓶山窯が讃岐全体を独占的な市場にしていきます。そのような中で10世紀中葉以後は三野・ 高瀬窯は廃絶し、十瓶山窯も生産規模を著しく縮小させます。

旧三野湾をめぐる窯場が移動を繰り返すのは、どうしてなのでしょうか?
 須恵器窯は、大量の燃料(薪)を必用とします。その燃料は、周辺の照葉樹林帯の木材でした。山林を伐り倒してしまうと、他所へ移動して新たな窯場を設けるというのが通常パターンだったようです。香川県内の須恵器窯の分布と変遷状況を検討した研究者は、窯相互の間隔から半径500mを指標としています。これを物差しにして、窯周辺の伐採範囲を考えて三野・高瀬窯の分布を見ると、野田池・道免・青井谷の3群は8世紀中葉から10世紀前葉にかけて、窯の操業によって森林がほぼ伐採し尽くされたことが推測されます。
 更に加えて、7世紀末には藤原京造営の宮殿用瓦製造のために宗吉瓦窯が操業を開始します。これは、それまでの須恵器窯とは比較にならないほどの大量の薪を消費したはずです。加えて、製塩用の薪確保のための「汐木山」も伐採され続けます。こうして8世紀には、旧三野湾をめぐる里山は切り尽くされ裸山にされていたと研究者は考えているようです。古代窯業は、周辺の山林を裸山にしてしまう環境破壊の側面を持っていたようです。
  周辺の山林を切り尽くした後は、どうしたのでしょうか?
第6・7段階の動きを見ると、その対応方法が見えてきます。
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
青井谷支群での生産拡大→五歩田支群での生産開始
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
  青井谷支群での生産継続→上麻支群での生産開始
第6段階では、野田池支群から五歩田支群に移動し、第7段階になるとさらに五歩田支群から上麻支群に移っています。上麻は、大麻山の南斜面に広がる盆地で水田耕作などには適さないような所です。しかし、須恵器生産に必用なのは以下の4つです。
・良質の粘土
・大量の燃料(薪)
・技術者集団
・搬出用の交通網
これが満たされる条件が、内陸部の盆地である上麻にはあったのでしょう。同じように、丸亀平野の奧部の満濃池周辺にも須恵器窯は、後半期には造られています。これも、上麻支群と同じような要因と私は考えています。
 こ三野・高瀬窯群を設置・運営した経営主体は、丸部氏だったと研究者は考えています。
⑤で先述したように「燃料(薪)確保のために窯場を、高瀬郷内で設定するような傾向が見受けられること」が指摘されています。高瀬郷内での燃料確保ができて、後には郷域を超えて勝間郷(五歩田・上麻の2支群が該当)にも窯場と薪山を設定しています。それができる氏族は、三野郡では丸部氏かいないようです。 
 「続日本紀」の771年(宝亀2)には、丸部臣豊抹が私物をもって窮民20人以上を養い、爵位を与えられたとの記事があります。ここからは、丸部氏が私富を蓄積し、窮民を自らの経営に抱え込むことのできる存在であったことがうかがえます。丸部氏は、7世紀以降に政治的な空白地であった三野平野に進出して、須恵器生産体制を形作ります。さらに壬申の乱以後には、国家的な規模の瓦生産工場である宗岡瓦窯を設置・操業させます。同時に、讃岐で最初の古代寺院である妙音寺を建立し、その瓦を宗岡瓦窯で焼く一方、多度郡の佐伯氏の氏寺である仲村廃寺や善通寺にも提供しています。以上のような「状況証拠」から丸部氏こそ、三野郡における須恵器生産を主導した勢力だと研究者は考えます。
 「三野・高瀬窯跡群」の須恵器は、どのように流通していたのでしょうか。
須恵器 蓋杯Aの生産地別スタイル

須恵器・蓋杯Aには、上のような生産地の窯ごとに特徴があって、区分ができます。これを手がかりに消費遺跡での出土状況を整理し一覧表にしたのが次の表になります。
須恵器 蓋杯Aの出土分布一覧表

例えば1の大門遺跡(三豊市高瀬町)は、高速道路建設の際に発掘調査された遺跡です。そこからは56ヶの蓋杯Aが出土していて、その生産地の内訳は「辻窯跡」のものが15、三野窯跡のものが41となります。大門遺跡は、三野・高瀬窯跡のお膝元ですから、その占有率が高いのは当然です。ただ、山本町の辻窯跡からの流入量が意外に多いことが分かります。当然のように、三豊以外からの流入はないようです。ここにも、三豊の讃岐における独自性が出ているようです。
6の下川津遺跡を見てみましょう。
ここでは、三野窯と十瓶窯が拮抗しています。他の遺跡に比べて、十瓶窯産の須恵器の利用比率が高いようです。十瓶窯は、綾氏が経営主体と考えられています。そのため綾氏の拠点とされる綾北平野や大束川河口の川津などは、十瓶窯産の須恵器が流通していたとしておきます。
この表で注目したいのは、三野・高瀬窯の須恵器が丸亀平野にとどまらずに、讃岐全体に供給されていることです。
このことについて、研究者は次のように指摘します。
①三野・高瀬窯の須恵器の分布は、ほぼ讃岐国一円に及ぶこと。
②讃岐全体への供給されるようになるのは、第3・4段階(7世紀中葉~8世紀初頭)のこと
この時代の讃岐における須恵器生産窯の「市場占有形態」を研究者が分布図にした下図になります。なお、上図の番号と下地図の番号は対応します。
須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg

ここからは「一郡一窯」的な窯跡分布状況の上に、その不足分を三豊のふたつの窯(辻・三野)が補完していたことがうかがえます。さらに、辻窯は丸亀平野までが市場エリアで会ったのに対して、三野窯はさぬき全域をカバーしていたことが分かります。辻と三野を比較すると三野が辻を凌駕していたようです。
 この時期は、7世紀後半の壬申の乱以後のことで、国営工場的な宗岡瓦窯が誘致され、20基を越える窯が並んで藤原京の宮殿瓦を焼くためにフル操業していた時期と重なり合います。その国家的な建設事業に参加していたのが丸部氏だったことになります。そういう見方をすると丸部氏は、須恵器生産という面では、三豊南部で母神山古墳群から大野原古墳郡を築き続けた勢力(紀伊?)の管理下にあった辻窯を凌駕し、操業を始めたばかりの綾氏の十瓶窯を圧倒していたことになります。このような経済力や政治力を背景に、讃岐で最初の古代寺院妙音寺に着手したのです。ともかく7世紀後半の讃岐における須恵器の流れは、西から東へ、三豊から讃岐全体へだったことを押さえておきます。
その後の須恵器供給をめぐる動きを見ておきましょう。
③第5段階(8世紀前葉~中葉)になると、急速に十瓶山窯製品に市場を奪われていくこと。
④買田・岡下遺跡(まんのう町)では、第6段階末期の特徴的な杯B蓋(青井谷支群青井谷第3地点で生産)がまとまって出土しているので、この時期になっても三野・多度・那珂3郡には三野窯は一定の市場をもっていたこと
⑤第5~7段階の中心的な窯場である青井谷支群は、大日峠で丸亀平野につながり
第6段階の野田池支群から転移した五歩田支群や第7段階に五歩田支群から移動した上麻支群は麻峠や伊予見峠で、それぞれ丸亀平野側とつながっており、内陸交通網に依拠した交易が想定できる。
大胆に推理するなら①②段階の讃岐全体への供給が行われた時期には、海上水運での東讃への輸送もあったのではないでしょうか。藤原京への宗吉瓦の搬出も舟でした。宗吉で焼かれて瓦が、仲村廃寺や善通寺に供給されたいますが、これも「三野湾 → 弘田川河口の白方湊 → 弘田川 → 善通寺」という海上ルートが想定されます。引田や志度湊に舟で三野の須恵器が運ばれたとしても不思議はないように思えます。③④⑤になり、十瓶山窯群に東讃の市場を奪われ、丸亀平野エリアへの供給になると大日峠や麻峠が使われるようになり、その峠の近くに窯が移動してきたとも考えられます。

以上をまとめておきます
①讃岐の須恵器生産が始まるのは5世紀前半で、渡来人によって古式タイプの須恵器が生産された。
②しかし、窯は単独で継続性もなく不安定な生産体制であった。
③須恵器窯が大規模化・複数化し、讃岐全体に分布するようになるのは、6世紀末からである。
④須恵器窯が地域首長の墓とされる巨石横穴式石室と、セットで分布していることから、窯設置には、地域首長が関わっている
⑤「一郡一窯」が実現する中で、三豊の辻窯と三野窯は郡境を越えて製品を提供した。
⑥その中でも丸部氏が経営する三野窯は、7世紀後半には讃岐全体に須恵器を供給するようになる。
⑦7世紀の須恵器生産の中心は、三豊にあったという状況が現れる。
⑧その間にも三野窯群は、燃料を求めて定期的に東へと移動を繰り返している
⑨その背後には、「三野須恵器窯+宗吉瓦窯+三野湾製塩」のための大量燃料使用による森林資源の枯渇があった。
⑩奈良時代に入ると三野窯の市場占有率は急速に低下し、十瓶山窯群に取って代わられる。
次回は、十瓶山窯群の台頭の背景を見ていくことにします。

参考文献
佐藤竜馬   讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論
高瀬町史
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三野平野2
前回に続いて、三野郡を見ていきます。まず復元図からの古代三野郡の「復習・確認」です
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺付近から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。
⑥南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
⑦南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
⑧郡境と南海道を基準ラインとして条里制が施行されたが、その範囲は限定的であった。
以上のように古代三野郡は、古墳時代の後期まで古墳も作られません。そして、最後まで前方後円墳も登場しない「開発途上エリア」でした。それが7世紀後半になると、時代の最先端に並び立つようになります。
三野郡発展の原動力になったのが窯業です。
このエリアには、火上山西麓を中心とした地域(三豊市三野町)と東部山南西麓(同市高瀬町)に窯跡が見つかっています。これらは7つ支群
瓦谷・道免・野田池・青井谷・高瀬末・五歩Ⅲ・上麻
の各支群)に分かれていますが、全体を一つの生産地と捉えて「三野・高瀬窯跡群」と研究者は呼んでいるようです。
発掘から分かった各窯跡の操業時期を確認しておきましょう。
第1段階(6世紀末葉へ一7世紀初頭)
 十瓶山北麓の瓦谷支群(1)で生産が始まる。
第2段階(7世紀前葉)
 瓦谷支群での生産停止と野田池支群(2)での生産開始。
第3段階(7世紀中葉)
 野田池支群での生産拡大と、道免(3)・高瀬末(5)群の生産開始、
第4段階(7世紀後葉~8世紀初頭)
 道免・野田池の2支群での生産継続。宗吉瓦窯継続
第5段階(8世紀前葉~中葉)
 道免・野田池の2支群での生産継続。青井谷支群(4)での生産開始
第6段階(8世紀後葉~9世紀中葉)
 青井谷支群での生産拡大。五歩田支群(6)での生産開始
第7段階(9世紀後葉~10世紀前葉)
 青井谷支群での生産継続。上麻支群(7)での生産開始
  6世紀末から始まって10世紀まで400年近く三野郡では、土器や瓦が作り続けられていたことが分かります。そして、窯跡は

瓦谷(1)→野田池(2)→道免(3)・高瀬末(5)→宗吉→ 青井谷(4)→五歩田(6)→上麻(7)
と移動していったことが分かります
どうして窯跡(生産現場)は移動していくのでしょうか。
移動の方向は海岸線から離れて、次第に山の奥へと入っていくようです。香川県内の須恵器窯の分布と変遷状況を検討した研究者は次のように云います
 窯相互の間隔から半径500mが指標。これを物差しにして、窯周辺の伐採範囲を考えると三野・高瀬窯の分布を見ると、野田池・道免・青井谷の3群は8世紀中葉から10世紀前葉にかけて、窯の操業によって森林がほぼ伐採し尽くされた
  須恵器窯は、燃料として大量の薪を必用とします。そのため周辺の山林の木材を伐り倒して運ばれてきました。そのために木がなくなると木がある山の麓に移動して新たな窯場を作る方が、生産効率がよかったのです。そのために木を求めて、奥へ奥へと入っていったようです。そして、その跡には丸裸になった里山が残りました。当時の須恵器や瓦生産の背景には、里山の伐採と丸裸化があったようです。そして、これが大量の土砂を三野津湾にもたらし堆積し、陸地化を急速にもたらすことになったのは、前回にお話ししました。
東大寺に運ばれた三野郡の檜
 これに加え、7世紀半ばの東大寺大仏殿の建設には、高瀬郷から木材(ヒノキ)が供給されています。使える木材が三野郡で残されていたのは、毘沙古山塊(標高231m)と、その東側で多度郡に接している弥谷山塊(標高381.5m)だけにしかなかったようです。このふたつの山は、弥谷寺周辺の死霊のおもむく聖地や甘南備山(なんなび)とされていた霊山で、伐採が禁じられていたのかもしれません。そして、北側が瀬戸内海に面し、南西側は「浅津」という地名があるように三野津湾に近く搬出にも便利です。おそらく須恵器生産用の「陶山」と、東大寺材木用の「楠山」とは分けられて管理されてたはずです。保護されてきた檜も、東大寺建立という国家モニュメントのために切り出され、海に浮かべて運ばれていったのでしょう。
 このように8世紀には、周辺の里山の木材も資源としての重要性が高まり、管理強化が行われるようになった気配があります。
  窯跡の移動に関して、研究者は次のように指摘します。
①窯場の移動は、製品搬出に便利な河川や谷道沿いに行われている。
②7世紀中葉~8世紀初頭には野田池・道免支群が、
③8世紀後葉~10世紀前葉には青井谷支群が中核的な位置にあった。
③窯場をできるだけ高瀬郷内に設定するような傾向がある。
  このように先行する須恵器窯業を受けて、宗吉瓦窯跡が登場します。
三野 宗吉遺2

この瓦工場は、当時造営中の藤原京に瓦を大量供給するために作られた大規模最新鋭の瓦工場で、それまでの須恵器窯とは、スケールも技術も経営ノウハウも格段の違いがあります。地元の氏族が単独で設置運営できる代物ではありません。氏族が中央権力に働きかけて最新の瓦工場を誘致してきたということが考えられます。設置に当たっては、中央からの技術者集団がやってきて取り仕切り、完成後の運営も行ったと考えられます。
三野 宗吉遺跡1
 立地は、藤原京に送り出すために船舶輸送を考えて、三野津湾の奥の海岸線近くに設置されます。しかし、気になるのが燃料である薪の確保です。今までは、薪を求めて窯は奥地に入っていました。それが海岸線に工場を作って確保できるのでしょうか?

 宗吉瓦工場は、郷を越えた託間郷の荘内半島からの燃料薪調達が行われたようです。それまでの須恵器窯は、移動をしながらも高瀬郷内に置かれています。つまり高瀬郷内を基盤とする氏族によって担われていたことがうかがえます。しかし、藤原京への瓦供給という国家プロジェクトに関わることによって、この勢力は高瀬郷以外への権益拡大を図っていったようです。
そして、須恵器生産でも次のように競合するライバル達を8世紀初頭までは凌駕していたようです。
①競合する三豊平野南縁の辻窯跡群(三豊市山本町、刈田郡)を7世紀中葉には操業規模で圧倒
②讃岐最大の須恵器牛産地・十瓶山窯跡群(綾川町陶)よりも、8世紀初頭までは規模で勝る
③8世紀以降は十瓶山窯が優位になり、10世紀前葉には格差がさらに大きくなる
④10世紀中葉以後、三野・ 高瀬窯は廃絶し、十瓶山窯も生産規模を著しく縮小
10世紀近くまで高瀬郷では土器生産が行われ、周辺の山の木が伐採が続いたことになります。
製塩用の薪を提供する山が汐(塩)木山
平城宮木簡には阿麻郷(託間郷?)で塩生産が行われたことが記されます。「藻塩焼く・・」と詠まれたように製塩にも、大量の薪が必要でした。三野津湾西側の山名「汐木(しおぎ)山」は、そのための山として古代から管理されきた山であることがうかがえます。
森林管理センターとしての密教山岳寺院の登場
 このように窯業や製塩業の操業のためには、大量の薪が必要で、そのためには山を管理しなければならないという発想が生まれてきます。条里制施行で田畑の管理は、机上では行えるようになりましたが山野は無放置だったのです。それに気付いた勢力が行ったことが山野の管理センターとして寺院を山の中に建立することだったようです。いわゆる山岳密教寺院の登場です。若い頃に讃岐山脈を縦走していて気付いたのは、山頂にお寺がぽつんぽつんとあったことです。
 西から稜線上に次のような山岳寺院が並びます。
 雲辺寺 → 中蓮寺(廃寺)→ 尾野瀬寺(廃寺)→中村廃寺 → 大川寺(廃寺)→ 大滝寺
これらの寺は、その山域の「森林管理センター」の役割も果たしていたのではないかと思うようになりました。管理人は真言密教の修験者たちということになるのでしょう。同時にこれらのお寺は、孤立化していたのではなく修験者のネットワークで結ばれ、ある程度一体化していたと思われます。
中世の熊野詣での行者たちは、里に下りることなく阿波の鳴門から伊予の八幡浜まで、山の上をつなぐ修験者ルートで行くことができたと云います。そのルートを唐に渡る前の若き空海が歩いたのかもしれません。最後は妄想気味になりました。
最後にまとめておくと
①古代三野郡には須恵器窯跡が数多く見つかっている。
②これは同時に操業していたものではなく、スクラップ&ビルドを繰り返した結果である
③その背景には、燃料の薪確保のために海際から次第に山の奥に入っていった経緯がある
④そのような中で藤原京への瓦提供のために宗吉瓦工場が誘致される
⑤これは当時のハイテク産業で、超大型の工場であった。
⑥この工場誘致を進めた勢力は、三野郡の有力者に成長し、讃岐で最初の古代寺院妙音寺を建立することになる。

以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 佐藤 竜馬   讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論

     
1三豊の古墳地図

まず古代三野郡を取り巻く旧地形を見ておきましょう。
①北部で袋状に大きく湾入する三野津湾と、そこに注ぐ高瀬川旧河口部の不安定な土地(低地)
②南部で宮川・竿川が財田川に合流する地点周辺に広がる低地
①・②ともに条里型の施工は、中世になって行われたと考えられ、平野部に古代の集落は見つかっていません。現在のように平野が広がり、水田が続く光景ではなく、三野平野は古代は入江の中だったようです。これに、古代以前の集落遺跡の立地を重ねると、せまい耕地と、それを取り巻く微髙地にポツンポツンとはなれて集落が散在していたようです。
三野 宗吉遺跡1

宗吉窯から見る三野津湾
三野津湾の新田化は近世になってから
 三野津湾には、高瀬川と音田川が注いでいますが、流れが急で大量の土砂を流域に運びました。高瀬川は三野津湾に注ぐ手前で、葛ノ山(標高97m)と火上山から南西に延びる支丘(標高100m前後)が、行く手をふさぐように張り出しています。しかも、ここが音田川との合流点です。
DSC00012
合流点に建つ横山神社
そのためこのあたりから上流は、土砂が堆積し湿地になっていたようです。この付近の字名「新名」は、中世以降の開発であることをうかがわせます。ここには条里型地割が引かれていますが、その施行は中世にまで下がると研究者は考えているようです。
DSC00016
「新名」付近に溜まった土砂は河口部まで続き、三角州と自然堤防を形作ります。この自然堤防上に、鎌倉時代末期に建立されるのが日蓮宗の本門寺です。つまり、本門寺の裏は海で舟でやってこれたのです。三野津中学校は海の中でした。
DSC00055
本門寺付近を流れる高瀬川
 土砂の流入を加速化したのが伐採による「山野の荒廃」だったようです。そのため三野津湾は土砂で埋まり、近世にはそこが干拓され新田化されることになります。そして現在の姿となります。

DSC00076
 以上のような環境は、古代の稲作定住には不適です。
西からやってきた弥生人達は三豊平野・丸亀平野では、それぞれ財田川や弘田川の河口に定住し、次第にその流域沿いにムラを形作っていき、それがムラ連合からクニへと発展していきました。しかし、三野エリアでは平野が未形成で、ムラが発展しにくい環境であったようです。これが三野地区の停滞要因となります。そのため古墳を作る「体力」がなかったのです。これでは、前方後円墳もできません。ある意味、ヤマト政権にとって経済的・戦略的意味がない地域で「空白地帯」として放置されたのかもしれません。

三野平野1
復元地形に古墳を書き入れたものが上図です。
 三野郡域には前期末の矢ノ岡古墳と、葺石と埴輪列を伴う中期後半の円墳・大塚古墳以外に、3~5世紀の前期・中期古墳がありません。古墳の築造が活発になるのは、6世紀中葉のタヌキ山古墳を始まりとして、6世紀後葉~7世紀前葉に限られます。また前方後円墳もないのです。これも生産力の未発展としておきましょう。
古墳時代後期になって現れた三野エリアの古墳を見ておきましょう。
11のグループに分けられますが、この中で石室の規模から「準大型」にランク付けできるのは石舟1・2号墳(麻地区Ⅶ群)・延命古墳(XI群)の3つだけです。石舟古墳は玄室天丼石を前後に持ち送る穹寫的な構成から丸亀平野南部地域との関係性を、また延命古墳は片袖式で畿内的な要素を指摘できると研究者は指摘します。また古墳が集中する地域は、IV~Ⅵ群がまとまる高瀬郷域周辺であり、高瀬川旧河口域が中心地域と考えられます。しかし、この地域では大型とされる延命古墳や石舟古墳群(麻地区)は、中心部から離れた外縁にあります。なぜ中心部から遠く離れた所に、大型古墳が作られたのでしょうか。課題としておきましょう。

南海道と三野郡の設置 地図の太い点線が南海道です
南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
②南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
③郡境と南海道を基準ラインとして条里制引かれたが、その範囲は限定的であった。
 「和名類聚抄」には、三野郡は
勝間・大野・本山・高野・熊岡・高瀬・託間
の7郷が記されています。この他に、阿麻(平城宮木簡)・余戸(長岡京木簡)の2郷が8世紀の木簡には記されているようです。しかし、余戸郷の所在地については手がかりがありません。阿麻(海)郷は、託間郷と同じが、その一部である可能性が高いと研究者は考えているようです。
古墳時代以後の三野郡内の「生産拠点」を地図に書き入れたのが下図です。
三野平野2
まず古代の三野郡の復元図から読み取れることを重複もありますが確認しておきましょう。
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。

三野 宗吉遺跡1
ここからは、生産地拠点が三野津湾沿岸と河川流域の丘陵部に展開していることが分かります。その生産拠点を押さえておきます。
須恵器生産地の三野・高瀬窯跡群は、三野津湾の南・東側と高瀬川上流域丘陵部(託間・高瀬・勝間郷)
宗吉瓦窯跡は、三野津湾南岸部の丘陵地帯(託間郷)に立地。
 郷を越えた託間郷の荘内半島からの燃料薪調達が可能になって以後は大量生産が実現
③高瀬郷内の東大寺の柚山は、三野津湾北側の毘沙古山塊周辺
④阿麻郷での塩生産は、山名「汐木(しおぎ)山」より、三野津湾から荘内半島沿岸部にかけての塩田を想定
⑤865年(貞観7)に停廃された託間牧は、妙見山の北東麓の本村中遺跡を想定。轡(くつわ)や鏡板などの馬具が出土
 こうした沿岸部と周辺の開発に対し、南海道以東(以南)の阿讃山脈までつながる広大な山間部では、生産・原材料供給地としての役割をこの時点においては果たしていなかったようです。
 7世紀前半までは「低開発地域」であった三野郡に、突然に讃岐で最初の仏教寺院が建立されるのはどうしてなのでしょうか。また、それをやり遂げた氏族とは何者なのでしょうか?
参考文献 
佐藤 竜馬 讃岐国三野郡成立期の政治状況をめぐる試論
 

                        

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