瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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「水門・津・泊・船瀬」が

讃岐の郡と津や湊の関係を見ています。前回は那珂郡についてみました。
郷史関係の本を読んでいると、古代の郡にはそれぞれに港があったと書かれていること出会います。そして、それが近世の港へと引き継がれたと云うのです。例えば、次のような各郡と港です。
A 阿野郡  松山湊
B 鵜足郡  宇多津
C 那珂郡  中(那珂)津・津森(守)
D 多度郡  多度津(白方)
E 三野郡  三野津
まずA・B周辺の海岸線復元図を見ておきましょう。
坂出・宇多津古代海岸線復元2
この復元図からは次のような情報が読み取れます。
① 大屋富一青海一高屋一林田-西庄一江尻一福江一坂出一御供所と集落が連なる旧海岸線
② その中央に幾筋もにも分かれゆったりと注ぎ込む綾川
③ 綾川河口の阿野北平野の雌山・雄山の西側は海だったこと
④ 坂出は、金山の下まで海が入り込み福江・御供所が湊であったこと。
⑤ 聖通寺山や青野山は、海に突き出した半島であったこと。

以上のようなことを押さえた上で、まずAの阿野郡と松山津の関係について見ていくことにします。
松山津と林田津 古代坂出
綾川河口の阿野北平野の地形復元図 
古代の阿野北平野の北部は、上図のように綾川の扇状地・三角州で、網の目状にいくつもの川筋となって流れだしていました。この中で中世史料に登場するのが「松山津」です。
まず、菅原道真の「菅家文草」には「松山津」とは表記されていません。松山に遊んだとあるのみです。従来の書物の中には、これをもって松山に「松屋津」があったと判断しているものが多いようです。「松山津」と記されていないことをここでは押さえておきます。
「松山津」の史料上の初見は、西行が崇徳上皇の慰霊のために讃岐に渡ってきた時の様子を記した山家集で、次のように記されています。

「讃岐に詣でて、松山の津と申所に、院おはしましけん御跡尋ねけれど、形も無かりければ]

これに続いて『白峯寺縁起』(1406年、応永13)に「松山津」と見えます。しかし、『とはずがたり』(1313年)や新葉和歌集(1381年)、『鹿苑院殿厳島詣記』(1389年、康応元)などには「松山」とのみ記します。「津」がないのです。ここからは中世に「松山津」があったとは断定できないと研究者は考えているようです。そうなると、古代はさらに不明確になります。
 それでは国府や阿野郡の港湾施設はどこにあったのでしょうか? もう一度復元図を見ていくことにします。

古代綾川河口復元図1

研究者が注目するのは、雄山・雌山の西側の総社神社周辺で、次のように述べています。(要約)
①総社神社境内と東側・北側の総社集落は、周囲の土地とははっきりとした高低差がある微高地
総社神社周辺の微高地は、自然堤防や砂堆で「古代の古・坂出湾において最も海側に突出した安定した地形面に遺跡が所在」する場所
③8~9世紀の綾川河口の林田郷において、唯一の臨海性遺跡
④この遺跡からは製塩土器や漁携具が出て来ない代わりに、畿内系土師器が出土する。
以上からは、畿内などとの交易活動を行う港湾機能をもった湊がここにあったことが推測できます。
また、綾川河口には総倉神社があり、旧河道を挟むように「東梶」「西梶」の古地名が残ります。「梶」は梶取りで、船頭のことを指します。この周辺には船乗りや船頭集団がいたことがうかがえます。
 尾道のような中世港町は、海民たちの複数集落の寄り集まりでできていました。
それぞれの集落に船着き場、船主や船頭・水主らの住居、物資を保管する倉庫業者、港の住人の生活物資や集まった物資の売買に当たる商人など、さまざまな住民が住んでいたことが分かっています。地域的な日常的生活での繋がりをベースにして、ひとつの船に乗りこんでいたのです。船の運航は、陸上で生活をともにする海民集団によって担われていたということです。船乗りを他所から自由に雇い入れたりするようなことは、できなかったようです。

 そういう目で林田の復元図を見ると、河口一帯に小さな港湾施設が散在し、それが総合的に「林田湊」や「松山湊(津)とよばれていたことが考えられます。あるいは、次のように2つに機能分離していたことも考えられます。
松山湊 高屋町にあって、国府の外港
林田湊 林田町の総社神社辺りに交易港
どちらにしても、従来の説のように、「国府の湊=阿野郡の湊=松山津」とは言い切れないようです。
 なお、雄山・雌山の南辺りまでは条里制地割が残っていますが、それより北には見えません。また、雌山より北は近世になって干拓されたものです。

次にBの鵜足郡の郡湊候補の、宇多津を見ていくことにします。
宇多(鵜足)津に関しては、大束川の河口に大集落川津があったので、その外港として宇多津があったと思えます。しかし、古代の宇多津は、史料的にはどこにも登場せず、影が薄いのです。どうも古代においては、現在宇多津は海の底にあったようです。

宇多津・津之郷・川津

 宇多津に代わって有力なのが「川津」と「津之郷」です。このふたつは、古代鵜足郡の郷でもありました。大束川河口の川津、さらに遡ると「津の郷」という関係にあります。両者ともに大束川沿いに発展した郷で、上流からの川船で運んできた物資の集結地として機能したことが考えられます。また、古代・中世の津や湊は、いくつかの海民集団が散在していました。ひとつの場所と固定することは避けた方がいいのかもしれません。ここでは、鵜足郡の津は、川津と津之郷であったとしておきます。

しかし、鵜足郡にはもうひとつ活発な海運活動を行う海民の拠点がありました。

古代の坂出市福江と宇多津・川津
それが坂出市の福江です。考古学的には古・坂出湾の古代臨海性遺跡としては、坂出市福江浦に近い文京町二丁目西遺跡があります。
坂出の復元海岸線2
 ここでは砂堆が北にあり、潟湖が坂出駅から八幡神社方面まで湾入し、福江は海に面していました。その想像図は下図の通りです。

福江 中世
中世の福江・御供所(坂出市) 坂出市史より

福江も古代は漁労活動(飯蛸漁)を行った海民たちが8世紀後半頃になると、交易活動に乗り出していきます。これは先ほど見た阿野北平野の総社神社遺跡の海民の活動と同じ時期になります。
 また、古代の大束川は現在の鎌田池を経て、福江(坂出)に流れ出していました。そうすると、綾川河口の福江が鵜足郡の湊の役割を果たしていたことが考えられます。宇多津は中世には、讃岐NO1の湊に成長して行きますが、それが古代から継続した結果かどうかは分からないことを押さえておきます。「鵜足郡の湊=宇多津」とは、すんなりと行かないようです。
6宇多津1
中世宇多津の復元図

Dの多度郡については、次のように湊が移動したことを以前にお話ししましたので省略します。

古代 弘田川河口の白方
中世前期 堀江
中世後期 多度津
ここでは古代の多度郡の湊が多度津ではなく、白方であったことを押さえておきます。

最後に、Fの三野郡の湊を見ていくことにします。

古代三野郡郷名
古代三野郡の郷名と古墳群 近世以前には三野津湾があった

平安時代末の西行の『山家集』には、讃岐を訪れた際のことを次のように記しています。

さぬき(讃岐)の国にまかりてみのつ(三野津)と申す津につきて、月の明かくて ひびの手の通わぬほに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびの手につきて飛び渡りけるを

ここからは西行が「みのつ(三野津)と申す津」に上陸したこと分かります。同時に、三野に津があったことも分かります。それでは、上陸した津はどこにあったのでしょうか?
 
中世三野湾 復元地図
秋山文書に出てくる地名を地図に落としたもの(三野町の中世文書より)
実線が中世の海岸線 青字が海岸関係地名 赤字が中世関連地名 

上の地図の実線が中世の海岸線になります。時計と反対回りに海岸に関係ある地名を拾ってみると
「汐木山 → 吉津 → 宮ノ浦 → 津の前 → 浜の江 → 塩門地(塩田) →東の浜 → 川尻 →淺津」などがあり、このラインが海岸線であったことがうかがえます。 そして、「津」はどこにもあります。これらを総て含めて「三野津=三野郡の湊」と呼んでいたと研究者は考えているようです。
そうすれば、最初に見た綾川河口の松山津や、金倉川下流の那珂津も、こんなイメージで捉えた方がよさそうです。
古代三野湾2 宗吉瓦窯積み出し
吉宗瓦窯と藤原京に瓦を積み出す「三野津」の像像図
ここには初めて宮殿を総て瓦葺きにすることに決まった藤原京に瓦を供給するために、当時ハイテクの大型瓦工場が造られました。そしてそれは、三野湾を利用した水運で藤原京まで運ばれたことを以前にお話ししました。まさに当時の三野津は、三野郡の最重要拠点であったのです。
 すこし見方を変えると阿野郡の綾氏なども、綾川上流の陶に新型須恵器工場を建設して、讃岐の市場独占を果たすと共に、畿内へも搬出ししたことは以前にお話ししました。水運を通じて、畿内と結びついて、最先端製品である瓦や須恵器を供給するというのが当時の経営学だったのです。それは、古代の臨海工業地帯の形成と言えるかもしれません。地方の郡司達は、先を見通してこのような
先手を打たないといつ衰退していくか分からない立場に置かれていたのです。  
 そのような意味でも、現在と同じように社会資本としての湊の整備や管理経営は、重要であったと思うのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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   瀬戸内海の港について、これまでに何度もお話ししてきました。しかし、大きな流れの中で捉えることは出来ていませんでした。そんな中で瀬戸内海の港町の歴史をコンパクトにまとめている文章に出会いましたので、「読書ノート」としてアップしておきます。テキストは「市村高男 港町の誕生と展開 「間」から見る瀬戸内海」です.

瀬戸内海

 
港と言われると、船が入港して停泊する場のことを思い浮かべます。しかし、古代には港という言葉は使われず、「水門・津・泊・船瀬」などの語が使用されていたようです。それぞれを見ておきましょう。
  水門は「水戸や江戸」と同じで河口にできた船着き場のことです。
その「みなと」が漢字で表記されて「湊」になったと研究者は指摘します。紀の川の河口に立地する和歌山市の一角に「湊村」があります。これは城下町になる前の和歌山が、港・湊を基礎に発展してきた例のひとつです。

津は川や海に面した湾・入江に成立した渡し場、船着き場を指す言葉でした。

宇多津地形復元図
中世宇多津復元図(聖通寺山との間に大きな入江があった)

宇多津は、大束川の河口とそれを包み込む湾にありましたので、宇多津と呼ばれたようです。袋状の湾からなる兵庫県の室津や広島県福山市の鞆の浦は津の代表です。

泊も湊・津と同じく船の着岸する場を意味します.
しかし、重点は停泊地という側面にあるようです。
福原京と大輪田泊(おおわだのとまり) | 自然に生きる
大輪田の泊と福原京
泊は、平清盛が整備した大輪田の泊(神戸市)がその代表になります。清盛が整備した港に、音戸の瀬戸(広島県音戸町)がありますが、ここは倉橋島との間の水道があります。尾道や瀬戸田も水道に成立していて、瀬戸内海の港湾のひとつの特徴のよううです。
 10世紀に編纂された『延喜式』には、主として川湊を指す言葉として船瀬が見えます。しかし、時代が下ると次第に、湊・津・泊の違いはなくなっていきます。中世後半には、どれも区別なく港湾を指す言葉として使われ、江戸期以降には港の表記が一般化します。

以上を整理しておきます。
①古代には「港」は使われずに、「水門・津・泊・船瀬」が使用されていた
②中世後半なると、その区別がなくなった
③江戸期には「港」が一般化する。
 港が登場したのは、いつなのでしょうか?
人々が生活のために川を渡り、海に漕ぎ出すことが多くなれば、船の発着する場が必要になります。縄文時代には丸木舟・刳り舟が登場するので、自然地形を利用した原初的な港があったはずです。
弥生時代の船-大航海時代のさきがけ- : 御領の古代ロマンを蘇らせる会
弥生・古墳時代の船
 弥生時代になると、刳り船の他に準構造船も現れます。倉敷市の上東遺跡では、船着き場らしい遺構も出てきていますが、その数が多くないので分からない事の方が多いようです。
古墳時代になると、讃岐から播磨や摂津に古墳の石棺などが運ばれています。ここからは物資輸送のために、大きな準構造船が瀬戸内海を往来していたことが考えられます。また、漁携や小規模な物資などを運ぶ小さな船も瀬戸内海を行き来していたのでしょう。当然、そこには船が寄港する港が各地にあったはずです。それは、大きな古墳に葬られる首長が管理る港から、民衆が日常的に使う地域の港まで階層性を持って、海岸線にあったと思います。この時代の船着き場や遺構は、残っていまでんが、河口や入江などに造られていたと研究者は考えています。

律令制の時代になると、瀬戸内海では海運・水運がかなり発展していたようです。
律令国家は最初は、陸運を重視する政策をとって、平城京や平安京を中心に7つの幹線道路が整備されます。そのうち瀬戸内地方では、
①中国地域南岸を東西に走る山陽道
②淡路島から阿波・讃岐・伊予を通って土佐国府に通じる南海道
南海道はのちに四国山地を横断するルートが開かれますが、これらの幹線は、畿内と各国の国府を結び、街道沿いにはは駅が置かれ、馬やその飼育に当たる人、宿泊・休憩施設などが設けられました。国司や朝廷の使者の移動、調庸をはじめとする貢納物輸送などに使用されていました。

5中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。(
鎌倉時代の船

律令制が崩れる10世紀以降になると、地域の実情に応じて柔致な交通路の選択が許されるようになります。

そうすると、瀬戸内海沿岸では便利で安価に物資や人を大量輸送できる海運・水運が改めて評価されるようになります。こうして、ほとんどの京都への貢納品は船で運ばれることになります。
どんな港が瀬戸内海沿岸には、現われたのでしょうか?
第一は、国府津・国津などと呼ばれる国衙管理下の公的な港です。
これらの港は、留守所と呼ばれるようになった国衛保護のもとに、山陽道・南海道の最大の港になっていきます。そこには石積で築かれた船着場や、船の発着を管理する人や施設、物資を保管する倉庫なども姿を見せるようになります。後には、隣接して市が建てられるようになります。
6松山津
讃岐国府津の林田・松山
讃岐の国府津のついては、綾川河口の林田や松山などに、機能を分散させながらあったと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
第二は、郡単位に置かれた郡衛の付属港です。
律令制が崩れると郡衙も変質し、国司の子孫や武士化した郡司の子孫らが管理・運営するようになります。彼らは国府津に準じて沿岸部や河川の郡の港を整備し、船着き場や管理施設を持つ港も現れます。この例としては、多度郡の弘田川河口の白方湊や、三野郡三野湾の三野津が考えられます。
宗吉瓦窯 想像イラスト
三野津(宗吉瓦窯から藤原京への積みだし)
第三は、荘園の港です。これは11世紀以後のことになります
11世紀の院政期になると、院・天皇家や有力公家・寺社に荘園が寄進され、各地に荘園が増えます。荘園の年貢を京都の領主に輸送するためは、その積出港が必要になります。例えば、当時の国際港湾都市であった博多の西にある今津は、博多に対す新しい港であることを意味する名称です。、ここは12世紀に仁和寺領恰土(いと)荘(福岡市)の港として設置されたものです。

 尾道は、12世紀に後白河院を本家とする備後国大田荘(広島県世羅町)の倉敷(倉庫の敷地)に指定されたのが、港に発展する出発点です。こうして、そこに本家の氏神が勧進され、保護を受けた寺院が姿を現します。そして本家からの保護を受けた寺社は、港の交易センターの機能を果たすようになります。僧侶は、港や交易ネットワークの管理者でもあったようです。対外貿易にもつながるこのネットワークは、莫大な富をもたらすようになります。各宗派は瀬戸内海沿いに布教ラインを伸ばし、重要な港に拠点寺院を構えていくようになります。
第四は地域の必要から成立した港です。
大きな川の河口に、港が出来て大都市に成長するのは世界中で見られることです。大河川は河川輸送の最大の集積地の役割を果たすからです。人とモノとカネが集まってきます。これは瀬戸内海に流れ出す川の河口でも見られます。また、山地と海をつなぐ道路の海側の起点にも、港が現れます。こうして瀬戸内海沿岸地域には、大小さまざまな港が姿を見せるようになります。さらに、船の運航上、潮待ち・風待ちのためのための港も必要になります。現在では「離島」と呼ばれる島々にも港ができ、瀬戸内海航路や廻船のネットワークの中に組み込まれていきます。

 中世の航海法は、安全重視です。船から陸地が見えるところを目指し、隣り合った港に立ち寄りながら目的地に向かいます。沿岸部に並び立ち、島々にも散在する港は航海の安全を保障するためには必要な設備だったのです。目的地に一番最短距離で、一番早くというのは、動力船が登場する近代以後の論理です。

瀬戸内海の港町が発展するのは14世紀以後のことでした。
博多や兵庫(大輪田)など、比較的早く港町に発展したところもあります。しかし、瀬戸内沿岸の港が港町に発展するのは、案外新しく14世紀以降の経済発展によるもと研究者は考えています。
兵庫湊が港町に発展するのは、京都の発展に伴うもので13世紀にさかのばります。14世紀後半以降の物流の増大は、瀬戸内沿岸に新たな港を生み出すことになります。新しく登場する港を挙げておきましょう。
備前の牛窓・下津丼、
備後の尾道・輌
安芸の十日市
周防の三田尻・上関
讃岐の野原(現在の高松)・宇多津
野原復元図
野原(高松)港復元図

これらの港町の立地条件としては、中国山地から南下する河川や道路、讃岐山脈から流れ下る香東川などの河川や道路の結び目にあります。内陸から運ばれた物資が川船や馬借たちによって集められ、そこで海船に積み替えて各地に運ばれていきます。港は最大の物資集積地になります。港町は物資の集散地として、内陸から来たものは海へ、海から来たものは内陸へ運んでいく拠点となっていたことを押さえておきます。
DSC03842兵庫入船の港
野原(現高松港)の動き

 中世港町の構造の特色はなにか?
中世港町の尾道は、備後国太田荘の倉敷から発展した尾道は、次のような複数の集落から発展します。
①浄上寺とその麓の堂崎
②西国寺とその麓の上堂
③その西側に成立した御所崎
備前の牛窓も関・綾・紺など複数の集落からなっていました。讃岐の宇多津や綾川河口の林田湊なども同じことが云えるのは、以前にお話ししました。中世の主要な港町は、ほとんどがこうした複数集落の寄り集まりでできています。そして、それぞれの集落に船着き場、船主や船頭・水主らの住居、物資を保管する倉庫業者、港の住人の生活物資や集まった物資の売買に当たる商人など、さまざまな住民が住んでいたことが分かってきました。地域的な日常的生活での繋がりをベースにして、船に乗りこんでいたのです。つまり、船の運航は陸上での生活集団によって担われていたということです。船乗りを他所から自由に雇い入れたりするようなことは、できなかったようです。

法然上人行状絵図34貫 淀川を下る船
法然上人絵図の室津 塩飽に向かう法然が乗った船
 
もうひとつ押さえておきたいことは、港町は地域の権力から自立していたことです。
堺が自治都市であったことは有名ですが、瀬戸内海の港町にも、その中や周辺に武士団の館跡は見当たりません。尾道・牛窓・下津井などが、領主権力により直接支配されたことはなかったと研究者は考えています。確かに16世紀上を過ぎると、牛窓や下津井にも地域権力の城が造られます。これは権力が富の集まる港町に寄生するようになったことを示します。しかし、これで「支配下に置いた」とは云えないようです。
中世の和船2
中世の船
 江戸時代になると、幕府や藩の直轄港に指定される港も出てきます。それでも、港町の自治が全面的に否定されたことはありませんでした。それは、宇多津などにも云えることです。
 しかし、城下町最優先政策の結果、それまで重要な港湾機能を持っていた港町から、その一部が取り上げられ、城下町に持って行かれたり、主要住民が強制移住させられたりはします。それは藩主による城下町重視の「地域経済圏の再編」策のひとつであったようです。宇多津や多度津の機能も近世始めに大きく変化したようです。

 北前船の運航によって日本海沿岸と瀬戸内海の港町が大いに発展し、港町が日本の都市の代表となります。しかし、これが明治半ば以後に鉄道が姿を現すようになると大きく変化することになります。その中で、博多・下関・兵庫など主要な港町は、新たな役割を担って発展します。しかし、次のような状況が海運業界を襲います
①廻船輸送から鉄道輸送に主役が代わること
②船の動力化と大型で、目的地に直行
こうして主要道路や鉄道からから外れた港町は、瀬戸内海の多くの港町は衰退に向かうことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 市村高男 港町の誕生と展開 「間」から見る瀬戸内海
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