瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:三鈷宝剣

  
飛行三鈷杵 弘法大師行状絵詞
飛行三鈷杵 明州から三鈷法を投げる空海(高野空海行状図画)

空海が中国の明州(寧波)の港から「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて三鈷杵を投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。中国で投げた三鈷杵が高野山まで飛んでくるというのは、現在の科学的な見方に慣れた私たちには、すんなりとは受けいれがたいお話しです。ここに、合理主義とか科学では語れない「信仰」の力があるのかも知れません。それはさておくにしても、どうして、このような「飛行三鈷杵」の話は生れたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
まず「飛行三鈷」についての「先行研究」を見ておきましょう。
  ①和多秀来氏の「三鈷の松」は、山の神の神木であった説
高野山には呼精という行事があり、毎年六月、山王院という丹生、高野両大明神の神社の前のお堂で神前法楽論議を行います。そのとき、竪義(りゅうぎ)者が山王院に、証義者が御形堂の中に人って待っていますと、伴僧が三鈷の松の前に立ち、丹生、高野両大明神から御影常に七度半の使いがまいります。そうやつてはじめて、証義者は、堅義者がいる山王院の中へ入っていくことができるのです。これは神さまのお旅所とか、あるいは神さまのお下りになる場所が三鈷の松であったことを示す古い史料かと思います。一中略一
 三鈷の松は、山の神の祭祀者を司る狩人が神さまをお迎えする重要な神木であったということがわかります。(『密教の神話と伝説』213P)
ここでは、「三鈷の松=神木」説が語られていることを押さえておきます。  
  
三鈷宝剣 高野空海行状図画 地蔵院本
右が樹上の三鈷杵を見上げる空海 左が工事現場から出来た宝剣を見る空海

次に、三鈷杵が、いつ・どこで投げられたかを見ていくことにします。
使用する史料を、次のように研究者は挙げます。
①  金剛峯寺建立修行縁起』(以下『修行縁起』) 康保5(968)成立
② 経範接『大師御行状集記』(以下『行状集記』)寛治2(1089)成立
③ 兼意撰『弘法大師御伝』(以下『大師御伝」) 水久年間(1113~18)成立
④ 聖賢撰『高野大師御広伝』(以下『御広伝』) 元永元(1118)年成立
⑤『今昔物語集』(以下『今昔物語』)巻第十  第九話(12世紀前期成立)
これらの伝記に、三鈷杵がどのように書かれているのかを見ておくことにします。
飛行三鈷杵のことを記す一番古い史料は①の「修行縁起」で、次のように記します。

大同二年八月を以って、本郷に趣く。舶を浮かべるの日、祈誓して云はく。

ここには大同2年8月の明州からの船出の時に「祈誓して云はく」と記されています。しかし、「祈誓」が、陸上・船上のどちらで行われたかは分かりません。敢えていうなら「舶を浮かべる日」とあるので、船上でしょうか。
  ②『行状集記』は、次のように記します。

本朝に赴かんとして舶を浮かべるの日、海上に於いて祈誓・発願して曰く。

ここには、「海上に於いて祈誓・発願」とあり、海上で投げたとしています。
  ③『大師御伝』は、
大同元年八月、帰朝の日、大師舶を浮かべる時、祈請・発誓して云はく
これは①『修行縁起』とほぼ同じ内容で、海上説です。

④『御広伝』には、
大同元年八月、本郷に趣かんと舶を浮かべる日、祈請して誓を発して曰く
『修行縁起』『大師御伝』と同じような内容で、海上説です。

⑤『今昔物語』には、
和尚(空海)本郷二返ル日、高キ岸二立テ祈請シテ云ク
ここで初めて、「高キ岸二立ちテ」と陸上で祈請した後で、三鈷杵を投げたことが出てきます。しかし、具体的な場所はありません。以上からは次のようなことが分かります。
A ①~④の初期の伝記では、海上の船の上から「三鈷杵」は投げられた「船上遠投説」
B 12世紀に成立した⑤の今昔物語では「陸上遠投説」
つまり、真言宗内では、もともとは三鈷杵を投げたのは船上として伝えられていたのです。それが、今昔物語で書き換えられたようです。
空海小願を発す。

前回も見ましたが天皇の上表書と共に、主殿寮の助・布勢海(ふせのあま)にあてた手紙には、次のように記されています。
①此処、消息を承わらず。馳渇(ちかつ)の念い深し。陰熱此温かなり。動止如何。空海、大唐より還る時、数漂蕩に遇うて、聊か一の小願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生せんが為に、一の禅院(寺院)を建立し、法に依って修行せん。願わくは、善神護念して早く本岸に達せしめよと。神明暗からず、平かに本朝に還る。日月流るるが如くにして忽ち一紀を経たり。若し此の願を遂げずんば、恐らくは神祇を欺かん。
 
意訳変換しておくと
  A ここ暫く、消息知れずですが、お会いしたい気持ちが強くなる一方です。温かくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。さて私・空海が、大唐から還る際に、嵐に遭って遭難しそうになった時に、一つの小願を祈念しました。それは無事に帰朝した時には、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生するために、一の寺院を建立し、法に依って修行する。願わくは、善神護念して、無事に船を日本に帰着させよと。その結果、神明が届き、無事に本朝に還ることができました。そして、月日は流れ、10年という年月が経ちました。この願いを実現できなければ、私は神祇を欺むくことになります。

これを見ると伝記の作者は、空海の上表文や布勢海宛ての手紙を読み込んだ上で、「飛行三鈷」の話を記していることがうかがえます。つまり、「悪天候遭遇による難破の危機 → 天候回復のための禅院(密教寺院)建立祈願 → 飛行三鈷杵」は、一連のリンクされ、セット化された動きだったと研究者は考えています。そうだとすると三鈷杵は当然、船の上から投げられたことになります。初期の真言宗内の「伝記作家」たちは、「飛行三鈷杵=船上遠投説」だったことが裏付けられます。

高野山選定 猟師と犬 高野空海行状図画2

次に、高野山で三鈷杵を発見する経緯を見ていくことにします。    
①の『修行縁起』は、次のような構成になっています。

弘法大師行状絵詞 高野山の絵馬
高野空海行状図画(高野山絵馬)

A 弘仁7(816)年4月、騒がしく穢れた俗世間がいやになり、禅定の霊術を尋ねんとして大和国字知那を通りかかったところ、 一人の猟師に出会った。その猟師は「私は南山の犬飼です。霊気に満ちた広大な山地があります。もしここに住んで下さるならば、助成いたしましょう」と、犬を放ち走らせた。

B 紀伊国との堺の大河の辺で、一人の山人に出会った。子細を語ったところ、「昼は常に奇雲聳え夜には常に霊光現ず」と霊気溢れるその山の様子をくわしく語ってくれた。

C 翌朝、その山人にともなわれて山上にいたると、そこはまさに伽藍を建立するに相応しいところであった。山人が語るには「私はこの山の王です。幸いにも、いまやっと菩薩にお逢いすることができた。この土地をあなたに献じて、威福を増さんとおもう」と。

D 次の日、伊都部に出た空海は、「山人が天皇から給わつた土地とはいえ、改めて勅許をえなければ、罪をおかすことになろう」と考えた。そうして六月中旬に上表し、一両の草庵を作ることにした。

E 多忙ではあったが、一年に一度はかならず高野山に登った。その途中に山王の丹生大明神社があった。今の天野宮がそれである。大師がはじめて登山し、ここで一宿したとき、託宣があった。「私は神道にあって久しく威福を望んでいました。今、あなたがお訪ねくださり、嬉しく思います。昔、応神天皇から広大な土地を給わりました。南は南海を限り、北は日本(大和)河を限り、東は大日本の国を限り、西は応神山の谷を限ります。願わくは、この土地を永世に献じ、私の仰信の誠を表したくおもいます。

F 重ねて官符をたまわった。「伽藍を建立するために樹木を切り払っていたところ、唐土において投げた三鈷を挟む一本の樹を発見したので、歓喜すること極まりなかった。とともに、地主山王に教えられたとおり、密教相応の地であることをはっきりと知った。
 さらに平らなる地を掘っていたところ、地中より一つの宝剣を掘り出した。命によって天覧に供したところ、ある祟りが生じた。ト占させると、「鋼の筒に入れて返納し、もとのごとく安置すべし」とのことであった。今、このことを考えてみるに、外護を誓った大明神が惜しんだためであろう。(『伝全集』第一 53P)

こうしてみると、三鈷杵については、最後のFに登場するだけで、それ以前には何も触れていません。
伽監建立に至る経過が述べられた後で、「樹に彼の唐において投げる所の三鈷を挟むで厳然として有り。弥いよ歓喜を増す」と出てきます。この部分が後世に加筆・追加されたことがうかがえます。ここで、もうひとつ注意しておきたいのは、「彼の唐において投げる所の三鈷」とだけあって、「三鈷の松」という表現はでてきません。どんな木であったかについては何も記されていないのです。この点について、各伝記は次の通りです。
『行状集記』は「柳か刈り掃うの間、彼の海上より投る三鈷、今此の虎に在りし」
『大師御伝』には、高野山上で発見した記述はなし
『御広伝』には、「樹木を裁り払うに、唐土に於いて投ぐる所の三鈷、樹間に懸かる。弥いよ歓喜を増し」
  『今古物語』、三鈷杵が懸かっていた木を檜と具体的に樹木名を記します。
山人に案内されて高野山にたどり着いた直後のことを今昔物語は次のように記します。
檜ノ云ム方無ク大ナル、竹ノ様ニテ生並(おいなみ)タリ。其中二一ノ檜ノ中二大ナル竹股有り。此ノ三鈷杵被打立タリ。是ヲ見ルニ、喜ビ悲ブ事無限シ。「足、禅定ノ霊窟也」卜知ヌ。   (岩波古典丈学大系本「今昔物語集』三 106P
空海の高野山着工 今昔物語25
今昔物語第25巻

ここでは、一本の檜の股に突き刺さっていたと記されています。ここでも今昔物語は、先行する伝記類とは名内容が異なります。以上を整理しておくと、
①初期の大師伝や説話集では、三針杵が懸かっていた木を単に「木」と記し、樹木名までは明記していないこと
②『今普物語』だけが檜と明記すること。
③「松」と記すものはないこと

高野山三鈷の松
三鈷の松(高野山)

それでは「三鈷の松」が登場するのは、いつ頃からなのでしょうか?
寛治2(1088)年2月22日から3月1日にかけての白河上皇の高野山参詣記録である『寛治二年高野御幸記』には、京都を出立してから帰洛するまでの行程が次のように詳細に記されています。
2月22日 出発 ― 深草 ― 平等院 ― 東大寺(泊)
  23日   東大寺 ― 山階寺 ‐― 火打崎(泊)
  24日  真上山 ― 高野山政所(泊)
  25日 天野鳥居― 竹木坂(泊)
  26日 大鳥居 ― 中院 (泊)
  27日   奥院供養
     28日    御影堂 薬師堂(金堂) 三鈷松 ― 高野山政所(泊)
  29日   高野山政所 ― 火打崎(泊)
  30日   法隆寺 ― 薬師寺 ― 東大寺(泊)
3月 1日   帰洛
これを見ると、東大寺経由の十日間の高野山参拝日程です。この『高野御幸記』には「三鈷の松」が2月28日の条に、次のように出てきます。
影堂の前に二許丈の古松有り。枝條、痩堅にして年歳選遠ならん。寺の宿老の曰く、「大師、唐朝に有って、有縁の地を占めんとして、遙に三鈷を投つ。彼れ萬里の鯨波を飛び、此の一株の龍鱗に掛かる」と。此の霊異を聞き、永く人感傷す。結縁せんが為めと称して、枝を折り実を拾う。斎持せざるもの無く帰路の資と為す。      (『増補続史料大成』第18巻 308P)

意訳変換しておくと
A 御影常の前に6mあまりの。古松があった。その枝は、痩せて堅く相当の年数が経っているように思われた。

B 金剛峯寺の宿老の話によると、「お大師さまは唐土にあって、有縁の地(密教をひろめるに相応しいところ)あれば示したまえと祈って、遥かに三鈷杵を投げあげられた。すると、その三鈷杵は万里の波涛を飛行し、この一本の古松に掛かつていた」と。

C この霊異諄を耳にした人たちは、たいそう感動した様子であった。そして、大師の霊異にあやかりたいとして、枝を折りとり実を拾うなどして、お土産にしない人はいなかった。

これが三鈷の松の登場する一番古い記録のようです。この話に誘発されたのか、白河天皇はこのときに、大師から代々の弟子に相伝されてきた「飛行三鈷杵」を京都に持ち帰ってしまいます。

以上をまとめておきます。
①「飛行三鈷杵」と「三鈷の松」の話は、高野山開創のきっかけとなった、漂流する船上で立てられた小願がベースにあること
②それは初期の大師伝が、三鈷を投げたところをすべて海上とみなしていることから裏付けられること。
③開山以前の高野山には「山の神の神木」、つまり神霊がやどる依代となっていた松が伽藍にあったこと
以上の3つの要素をミックスして、唐の明州から投げた三鈷杵が高野山で発見された、というお話に仕立てあげられたと研究者は考えています。この方が、高野山の開創を神秘化し、強烈な印象をあたえます。そのため、あえて荒唐無稽な話に仕立てられたとしておきます。
 ちなみに高野山御影常宝庫には、この「飛行三鈷杵」が今も伝わっているようです。

飛行三鈷杵2
高野山の飛行三鈷杵
この三鈷杵は、一度高野山から持ち去れてしまいますが、後世に戻ってきます。「仁海の記」には、その伝来について次のように記します。
①南天竺の金剛智三蔵 → 不空三蔵 → 恵果和尚 → 空海と相伝されたもので、空海が唐から持ち帰ったもの。
②その後は、真然―定観―雅真―仁海―成尊―範俊と相伝
③寛治三(1088)2月の白河天皇の高野御幸の際に、京都に持ち帰り、鳥羽宝蔵に収納
④これを鳥羽法王が持ち出して娘の八条女院に与え、次のように変遷。
⑤養女の春花門院 → 順徳天皇の第三皇子雅成親王 → 後鳥羽院の皇后・修明門院から追善のために嵯峨二尊院の耐空に寄進 
⑥耐空は建長5(1253)年11月に、高野山御影堂に奉納
白河天皇によって持ち出されて以後、約130年ぶりに耐空によって、高野山に戻されたことになります。その後、この「飛行三鈷杵」は御影堂宝庫に秘蔵され、50年ごとの御遠忌のときに、参詣者に披露されてきたとされます。
飛行三鈷杵3

飛行三鈷杵(高野山)
それまで語られることのなかった飛行三鈷杵が、9世紀後半になって語られはじめるのはどうしてでしょうか?
「飛行三鈷杵」の話は、康保五年(968)成立の『修行縁起』に、はじめて現れます。その背景として、丹生・高野両明神との関係を研究者は指摘します。
丹生明神と狩場明神
        重要文化財 丹生明神像・狩場(高野)明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

丹生・高野両明神が高野山上にはじめて祀られたのが、天徳年間(957~61)のことです。場所は、当初は奥院の御廟の左だったとされます。

高野山丹生明神社
丹生・高野両明神が祀られていた奥の院

この頃のことを年表で見てみると、天暦6(952)年6月に、奥院の御廟が落雷によって焼失しています。それを高野山の初代検校であった雅真が復興し、御廟の左に丹生・高野明神を祀ります。これと無縁ではないようです。「飛行三鈷杵」の話をのせる最古の史料『修行縁起』の著者とされているのが、この初代検校・雅真だと研究者は指摘します。そして、次のような考えを提示します。

 御廟の復興は、高野山独自で行うことは経済的に困難がともなった。そこで雅真は、丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うた。その際に、一つの交換条件を出した。その一つは奥院に丹生・高野両明神を祀ることであり、あと一つは丹生明神の依代であつた「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れることであった。

この裏には、空海の時代から丹生祝一族から提供された物心にわたる援助に酬いるためであったとします。
狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席
弘法大師・高野・丹生明神像

  以上をまとめておきます
①空海は唐からの洋上で、難破寸前状態になり、「無事帰国できれば密教寺院を建立する」という小願を船上で立てた。
②その際に、三鈷杵を船から日本に向けて投げ「寺院建立に相応しい地を示したまえ」と念じた。
③帰国から十年後に、空海は高野山を寺院建立の地として、下賜するように上表文を提出した。
④そして整地工事に取りかかったところ、樹木の枝股にある三鈷杵を見つけた。
⑤こうして飛行三鈷杵は、高野山が神から示された「約束の地」であることを告げる物語として語られた。
⑥しかし、当初は三鈷杵があった樹木は何であったは明記されていなかった。
⑦もともと奥院に丹生・高野両明神を祀られ、丹生明神の依代であつた「松」が神木とされていた。
⑧そこで、その松を神秘化するために、「三鈷の松」とされ伝承されることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献        「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
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東博模写本 高野空海行状図画のアーカイブ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/510912

さんこしょを投げる3
第3巻‐第8場面 投椰三鈷(高野空海行状図画 トーハク模写版)
前回に見た明州(現寧波)の港です。帰国することになった空海を見送るため、僧たちが駆けつけています。港の先に立った空海は懐から三鈷杵を取りだし、「密教を弘めるに相応しいところがあれば、教えたまえ」と念じて、東の空に三鈷杵を投げます。画面は、三鈷杵が空海の手を離れる瞬間です。
 このとき投げた三鈷杵を、空海は後に高野山上で発見します。それが高野山に伽藍が建てられることになるという話につながります。今回は、高野空海行状図画で、高野山開創がどのように描かれているのかを見ていくことにします。
高野上表1
高野山の巡見上表(高野空海行状図画詞書)

高野尋入2 高野空海行状図画
             第七巻‐第1場面 高野尋入(高野空海行状図画)

空海が唐から帰朝して約十年の年月が流れた弘仁7(817)年4月のことです。高野空海行状図画の詞書には次のように記されています。大和国字智郡を通りかかった空海は、ひとりの猟師に呼びとめられます。
「いずれの聖人か。どこに行かれる」
「密教を広めるに相応しいところがあれば、教えたまえ」と念じ、唐から投げた三鈷杵を探し求めている」と、空海は答えます。
「われは南山の犬飼です。その場所を知っている。お教えしよう」
といい、道案内のため、連れていた2匹の黒犬を走らせた。

高野山選定 猟師と犬 高野空海行状図画2
高野空海行状図画(愛媛県博物館)

この話をのせる最古の史料は、康保5(968)年頃に成立した『金剛峯寺建立修行縁起』です。
そこには、次のように記されています。
①空海から「禅定に相応しい霊地を知らないか」と声をかけられた猟師は、「私は南山の犬飼です。私が所有する山地がびったりです。もし和尚が住んでくださるならば助成いたしましょう」と応えたこと
②猟師がつれていたのが白黒2匹の犬であること
①からは、南山の犬飼は、高野山の地主神であったことが分かります。それが高野空海行状図画では、ただの犬飼になっています。その重要度が、低下していることが分かります。

画面は、空海が猟師が出会ったところです。犬がいぶかって吠えたてますが、空海はやさしく犬を見ています。
高野山巡見上表1 高野空海行状図画親王院版
高野山巡見・上表 高野空海行状図画(親王院本)

詞書は、猟師の身なりを、次のように記します。

其の色深くして長八尺計也。袖ちいさき青き衣をきたり。骨たかく筋太くして勇壮の形なり。弓箭を身に帯して、大小二黒白の犬を随えたり。

意訳変換しておくと
身の丈は八尺あまり、肌は赤銅色で筋骨たくましく勇壮な姿で、青衣を着、弓と箭をたずさえて、黒と白の犬を連れていた。

やはり、もともとは白黒の2頭の犬だったことを押さえておきます。それが黒い犬に代わっていきます。
高野尋入4 高野空海行状図画
第七巻‐第2場面 巡見上表(高野空海行状図画:トーハク模写版)
紀ノ川のほとりで犬と再会した空海は、犬に導かれながら南山をめざして登ります。すると平原の広い沢、いまの高野山に至ります。まさに伽藍を建立するにふさわしい聖地と考えた空海は、弘仁7年(816)6月、この地を下賜されるよう嵯峨天皇に上表します。ただちに勅許が下り、伽藍の建設に着手します。画面は、犬に導かれながら南山に踏み入っっていく空海の姿です。


丹生明神
第七巻‐第3場面 丹生託宣(高野空海行状図画:トーハク模写版)
この場面は、天野に祀られる丹生大明神社の前で析念をこらし、高野の地を譲るとの託宣をきかれる空
海。
遺告二十五ヶ条には、このことについて、次のように記されています。(意訳)
高野山に登る裏道のあたりに、丹生津姫命と名づけられる女神がまつられていた。その社のめぐりに十町歩ばかりの沢があり、もし人がそこに近づけばたちまちに傷害をうけるのであった。まさにわたくしが高野山に登る日に、神につかえる者に託して、つぎのようにお告げがあった。
「わたくしは神の道にあって、長いあいだすぐれた福徳を願っておりました。ちょうどいま、菩薩(空海)がこの山に来られたのは、わたくしにとって幸せなことです。(そなたの)弟子であるわたくし(丹生津姫命)は、むかし、人間界に出現したとき、(日本の天皇)が一万町ばかりの領地を下さった。南は南海を境とし、北は日本河(紀伊吉野川)を境とし、東は大日本国(宇治丹生川)を境とし、西は応神山の谷を境とした。どうか永久にこの地を差上げて、深い信仰の心情を表したいと思います」云々。
いま、この土地の中に開田されている田が三町ばかりある。常庄と呼ばれるのが、これである。
こうして大師は、高野山の地を山王から譲渡された。また、さきに出逢った猟師は高野明神であった、という。


高野山地主神 高野空海行状図画
高野山の地主神と丹生大明神社

空海は、高野山に伽藍を建てるのは、ひとつの「小願」を成しとげるためであると云います。

小願とは唐からの帰り、嵐の船上で立てられた次の祈願です。

「もし無事に帰国できたならば、日本の神々の威力をますために、ひとつの寺を建てて祈りたい。なにとぞご加護を」と

そして弘仁七年(816)7月、嵯峨天皇から高野の地を賜わつた大師は、ただちに弟子の実恵・泰範を派
遣し、伽藍建設にとりかかります。その際に、丹生明神を祀つていた天野の人たちに援助を請います。空海がやって来たのは整地が整った10月です。そして、結界の法を修し、伽藍配置をきめていきます。空海の構想した伽藍配置は、次の通りです。
①中央線上に、南から講堂(いまの金堂)と僧房をおき
②僧房をはさんで東に『大日経』の世界を象徴する大塔
③西に『金剛頂経』の世界を象徴する西搭
これは空海独自の密教理論にもとづくものでした。この基本計画に従って整地作業が始まります。

三鈷宝剣
「三鈷・宝剣」 高野空海行状図画詞書

さんこしょう発見2
              第七巻‐第5場面 三鈷宝剣(高野空海行状図画)

工事を見守っていた空海が頭上を見上げると、一本の松にかかつている三鈷を発見します。それは唐の明州(寧波)から投げた三鈷杵が燦然と輝いていたのです。これをみた大師は、この地が密教相応の地であることを確信し、歓喜します。
 この場面に続いて、原生林が切り払われ、原野が整地されていく様子が描かれます。

高野山建設2
     第七巻‐第5場面 三鈷宝剣(高野空海行状図画) 空海の前の石に置かれた宝剣

 伽藍の作業を行っていると、長さ一尺、広さ一寸人分の宝剣が出てきます。
左手の空海の前に、その剣が置かれています。(クリックすると拡大します)。ここからこの地はお釈迦さまが、かつて伽藍を建てたところであったことを確信したと記します。
    高野山の開創にまつわる「三鈷の松」の伝説では、三鈷杵がかかっていたのは松の木とされ、その松を 「三鈷の松」と称してきました。これはいまも御影堂の前にあるようです。しかし、三鈷杵を投げたことを記す最古の史料『金剛峯寺建立修行縁起』では、具体的にその木が何だったのかは記していません。ただ単に「三鈷杵は一本の樹にはさまっていた」と記します。それでは、いつ、どんな理由で、松の木になったのでしょうか? これについて、次回に述べるとして絵巻を開いていきます。

大塔建設
第七巻‐第6場面 大塔建立(高野空海行状図画 トーハク模写版)
朱の大塔の前には満開の桜が描かれています。一遍上人絵伝に描かれた伽藍は、桜が満開だったのを思い出します。

高野空海行状図画の詞書には、次のように記します。
①南天鉄搭を模した高さ十六丈(約48m)の大塔には、一丈四尺の四仏を安置
②三間四面の講堂(現金堂)には丈六の阿しゅく仏、八尺三寸の四菩薩を安置
③三鈷杵のかかっていた松のところに御影堂を建設

画面には、南北朝期以降のこの親王院本『行状図面』が作成された当時の壇上伽藍の建物がすべて画かれているようです。
高野山伽藍 高野空海行状図画親王寺蔵
               大塔建立 高野空海行状図画 親王院本
これを拡大して右から見ていくと

高野山伽藍右 高野空海行状図画
大塔建立 高野空海行状図画 親王院本
東搭 → 蓮華乗院(現大会堂)→  愛染堂→ 大搭 → 鐘楼 → 中央に金堂 → その奥に潅頂堂 → 三鈷の松と御影堂
手前に 六角経蔵 → 奥に准提堂 → 孔雀堂 → 西塔、

高野山大塔 高野空海行状図画

左端に 鳥居 → 山王院 → 御社
研究者がここで注目するのは、御影堂の前の三人の僧と、孔雀堂の前の三人の参拝者です。
高野山伽藍の整備された威容と、そこに参拝する人達というのは、何を狙って書かれたモチーフなのでしょうか。これを見た人達は、高野山参拝を願うようになったはずです。
 各地にやって来た高野聖達が、この高野空海行状図画を信者達に見せながら、空海の偉大な生涯と、ありがたい功徳を説き、高野山への参詣を勧めたことが考えれます。ここでは、高野空海行状図画が、弘法大師伝説流布と高野山参拝を勧誘するための絵解きに使われたことを押さえておきます。そうだとすれば高野聖たちは、ひとひとりがこのような絵伝を持っていたことになります。それが弘法大師伝説拡大と高野山参拝の大きな原動力になったことが推測できます。

伽藍建設1
         第七巻‐第6場面 大塔建立(高野空海行状図画 トーハク模写版)

伽藍建設2
          第七巻‐第6場面 大塔建立(高野空海行状図画 トーハク模写版)
今回は高野空海行状図画に描かれた高野山開山をみてきました。次回は、空海の残した文書の中に、高野山開山が、どのように記されているのかを見ていくことにします。
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一遍上人絵伝の高野山大塔
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   武内孝善 弘法大師 伝承と史実

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