瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:三頭越

4 阿波国絵図3     5

讃岐と阿波の境を東西に走っている阿讃山脈は、まんのう町(旧琴南町)域の県境付近が最も高く、東に竜王山、西に大川山がそびえる県境尾根です。江戸時代には、この山脈(やまなみ)が、人々の交通を阻害していました。しかし、自然の障壁よりも、人の自由な交流を強く規制したのは、高松藩と徳島藩の間で結ばれていた「走人」についての協定だったと云われます。
 徳島藩では、寛永19(1642)年の大飢饉以後、ますます増加した農民の逃散に対をなんとか防ごうとして、いろいろな対策を出しますが、効果がなかったようです。そこで慶安2(1649)年5月14日に、阿波藩と高松藩との間で、百姓の走人(逃散)についての相互協定が結ばれます。「讃岐松平右京様被二仰合一条数之写」(阿波藩資料)によると、 協定は一八条からなります。内容は、寛永21(1644)年より以後に逃散した百姓を、お互いに本国に送り返すことを約束したものです。
第14条では、
「互いの領分より逃散・逃亡してきたものに対して、「宿借」などしたものは死罪か過怠で、その罪の軽重で決定する。
第16条では、「内通して、領分の者を呼寄せたものは、死罪」
第18条では、「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」
特に18条は結婚と養子を禁止した厳しいものです。この走人協定の目的は、百姓を村に縛りつけて労働力を確保しようとする江戸時代の藩政の常套手段です。「移動の自由」を認めていたら封建制は維持できません。
阿波国大地図 琴南の峠1

 讃岐の砂糖産業の発展して、阿波から砂糖車を絞るための大型の牛をつれた「かりこ」たちが阿讃の峠を越えてやって来て、砂糖小屋で働いていたと、いろいろな本には書いてあります。
しかし、阿波からの労働力の受入が禁止されていたとすれば、これをどう考えればいいのでしょうか。
 また阿讃国境の峠の往来は、管理されていたのでしょうか。番所などがあり、自由な往来が禁止されていたのなら、多くの阿波の人たちが商売や金毘羅詣でにやってきたというのも怪しくなってきます。
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  勝浦村奥には真鈴の集落があります。
ここから真鈴峠を越えて阿波に入ると瀧口には、徳島藩の番所があったことが絵図からも分かります。また、何か事件があると重清越番所が置かれました。しかし、領民の通行はほとんど規制されなかったようです。商人や馬方は自由に往来し、百姓も日帰りの旅は黙認されていたようである。両国境の往来の自由がうかがえる資料を見てみましょう

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文化四(1807)年6月20日、勝浦村の多賀次郎が、阿波の勢力村の内田池で、溺死しかかるという事件が起きています。
この事件について勢力村の取立役与惣次が、次のような手紙を、勝浦村の庄屋佐野直太郎に送っています(「牛田文書」)。
一筆致二啓上一候。大暑の潮に御座候得共、弥御健勝に可被成二御勤一旨、珍重に奉存候。然は其御村熊次郎・鹿蔵・多賀次郎と申す仁、三人連にて用事に付、昨日当国へ罷越候趣、然る処当村内田池の縁を通り懸り、暑さに堪え兼ね水を浴び候迪、多賀次郎と申仁、落込申すに付、池水抜放し筏井桐を張り、大勢相並び相い入り申す内、右鹿蔵と申仁、知らせに被二罷帰一候由、
 其内追々相入り、尋ね当り引揚け、医師等相配り、彼是手当致候得共、何分大切に相見え申す折柄、 親類中数人被罷越・様々介抱被致候得共、 何分大切に付召連帰り養生仕度候間、指返呉候様被二申出候に付、 今少々養生被致候様申述候へ共、誠に怪我の義にて何の子細も無御座事故、片時も早く召連帰度、被指帰呉候様に、達て被申出候に付、無拠、乍大切中指帰し申候。
前段の通り何の子細も無御座親類中召連被帰候義にて、当方役所へも不申出、内分にて右様取計申候。然共大切の容然にて連れ被帰候事に候へば、兎角助命の程無覚東奉存候。依之内分の取計には候へ共、御他領の御事故、当地にての有し姿の運、為御承知内々得御意度、如斯御座候。恐怪謹言。
               阿州勢力村取立 与惣次
六月十一日
  讃州勝浦村政所 佐野直太郎様
意訳して見ると
一筆啓上します。大暑の時期ですが健勝でございましょうか。
早々ですが、そちらの村の熊次郎・鹿蔵・多賀次郎と申す者が三人連で、昨日当国へ参りました。そして当村の内田池を通りかかり、暑さに堪え兼ねて水を浴びをしていましたところ、多賀次郎と申す者が、池に落ちました。そこで、池の水を抜いて筏を浮かべ、大勢で並んで探しました。
それを鹿蔵と申す者が、そちらに知らせに帰ることになりました。捜索を続けていると、人らしき感触があったので引揚け、医師を呼び、手当を致しましたが危篤状態です。親類の数人に来ていただいて、何分大切に連帰り養生した方がよいと医者も申します。
中略
 親類が連れ帰ることについては、当方の役所へも届けずに、内分に取計うつもりです。しかし、容態は良くはないので動かせば、せっかく助かりかけた命も覚束なくなる恐れはあります。内分の取計ですので、他領の御事故ですので御承知していただければ幸いです。恐怪謹言。                      

このあと勢力村の取立(村役人)与惣次が心配したように、多賀次郎は亡くなります。佐野直太郎はこのことを伝えると共に、勢力村の与惣次に深謝する手紙を送っています。それの控えが残っているようです。
 百姓にとって池の水を、最も大切にしなければならない6月末に池の水を抜いて、多賀次郎を助け上げ、十分に養生するように申し出てくれた勢力村の人々の好意を、活かすことができなかったようです。勝浦村の人々の脳裏には、これ以上の迷惑を掛けることを恐れるとともに「御国の御作法」である「走人協定」が重くのしかかっていたのかもしれません。
 ここからは勝浦の百姓3人が自由に阿波に移動できている様子がうかがえます。しかし、正式な裁きになった場合には、厳しい取り調べを受け処罰されることになったようです。そこで、国境を越えた村役人同士は、お上には届け出ずに「内済」で済ませる道を選んだようです。つまり、法的には禁止されているが、国境の往来について取り締まりや規制は行っていない状態だったようです。手形を求められると云うこともなかったのでしょう。
以上を確認すると
  江戸初期の慶安二年(1649)に、阿波の蜂須賀藩と讃岐の高松藩の間で走人協定が結ばれた。それ以後、百姓の移住はもちろん、短期間の雇入れも、婚姻も表向きは認められなかった。しかし、商人の往米は自由であり、金毘羅詣りの往来も認められていた。
ということになるようです。
もうひとつ旧美合村には、阿波との特別の関係が認められていたようです。 
6 阿讃国境地図

阿波の三好郡と美馬郡は、上郡と呼ばれ、地形や地質上から水田ができにくい土地柄で、畑作地帯でした。藩政時代になって、帰農した武士で土着する者が多く、讃岐の国境近くにまで集落が開かれるようになります。しかし、穀類よりも煙草などの商品作物優先で食糧が少なく特に米が不足がちでした。
 徳島藩は、表高25、2万石、実高は45万石あったと云われます。その実高を生み出したのは、吉野川下流域の藍作りでした。徳島藩では商品作物としての藍作りを奨励し、米作りを抑える政策をとります。そのため阿波の上郡一帯の人々は、阿波国内から米を買い付けることが難しい状況になります。ちなみに藍や煙草栽培で、経済力を付けた百姓達上層部の米需要は高くなります。彼らは、国境を越えた讃岐の米に期待し、依存するようになります。
勝浦や中道村は、年貢は金納だった
一方、高松藩の宇多津の米蔵から遠く離れていて、交通も不便であった阿野郡南の川東村では約130石、鵜足郡の勝浦村では約20石、中通村では約10石の米が、金納(平手形納)されるようになります。

例えば鵜足郡の造田村は、水利や地性が悪く良質の米が取れなかったので、毎年200石の年貢米を現米買納の形で金納していました。これらの村々は、米や雑穀を売り払い、藩の定めた米価で金納しなければならなかったのです。しかし、それだけの米の販売先が周辺にはありません。これを買ってくれるのは、阿讃山脈の向こうの三好郡と美馬郡の米問屋たちです。そのために米と雑穀は、峠を越えて、阿波の上郡へ売られていきます。これを高松藩は容認していたようです。
高松藩の食料政策は?                                                 
 高松藩では、年貢米と領民の食糧を確保し、領内での米価の安定を図らなければなりません。それに失敗すれば一揆や打ち壊しが起きます。そのために通用米や雑穀の藩外への流出については、厳重な取り締りを行うとともに、他藩米の流入についても関心を払っていたようです。
文化四(1807)年9月、高松藩は、「御領分中他所米売買停止」の御触れを出し、これに対して、勝浦村庄屋佐野直太郎が、次の誓約書を差し出しています。
他所米取扱候義御停止の趣、
兼て被二仰渡一も有レ之候に付、当村端々に至迄、厳敷申渡御座候。此度又々被レ入二御念一の被二仰渡一候につき、 尚又村中入念吟味仕候得共、右様の者決て無二御座一候。若隠置、外方より相知候へば、私共如何様の御咎にても可レ被二仰付一候。為二後日一例て如レ件。
文化四却年九月                  佐野直太郎
               市 郎
               甚 八
               加兵衛
中手恒左衛門様
岡田金五郎様
秋元加三郎様
意訳すると
他所との米取扱停止の件について
このことについて、当村でも村の端々にまで伝えて、申し渡しました。この度の件について、村中で入念に吟味いたしましたが、このような者が決して出ぬようにします。もし、そのようなことがあれば、私共はどんな御咎もお受けする覚悟でございます。何とぞ、今までのように特例認可をして頂けるようにお願いします
文書内容が抽象的で意味が掴みにくいのですが、当時の状況から補足して解釈すると、
①文化四年の作柄が豊作で、領内の米価下落傾向にあった
②そのため他所からの米の買付業者が横行した
③対応策として、他所との米取扱停止の通達を高松藩が出した。
ということでしょうか。しかし、これでは年貢米を金納している「まんのう町国境の村々」は、やっていけません。そのために、事情を説明し特別許可を認めてもらうのが従来からのパターンだったようです。この時も、申請者には阿波の業者への販売許可が下りたようです。
 特例が認められた村では「刻越問屋」の発行した証明書を添えて、年貢量と同じだけの米の売却が許されました。しかし、これに便乗して通用米を「他所売り」するものが、多数いたようです。実際に認められた以上の石高の米が、美合地区から阿波の上郡に運ばれていたようです。
馬方とは - コトバンク

讃岐で売られた米を阿波へ運ぶ峠道の主役は、阿波の馬方たちでした。
三頭・二双・真鈴の峠を越えて讃岐に入り、買い付けた米を引き取るために阿波の馬方は吉野上村の木ノ崎にあった高松藩の口銭番所の近くまで姿を見せていたようです。流石に、ここには高松藩の番所があったので、ここから北には足が伸ばせなかったようです。

 阿讃の峠道は決して安全なものでなかったので、絶えず道普請が行われていたようです。
文政10(1827)年秋、勝浦村の八峯に新しい掛道が造られます。触頭の加兵衛と、徳兵衛。仁左衛門・銀太が中心になり、阿波の馬方数人が手伝って完成させたようです。新道ができると、阿波からの米買いの馬方が、次々と通るようになります。
 これに対して八峯免の与市右衛門と弥平が、通行の峠馬や馬方に、畑を踏み荒らされると訴え出ています。勝浦には阿波美馬・郡里の真宗興正寺派安楽寺の末寺長善寺がありました。この寺が土器川沿いに興正寺派が教線を伸ばしていく拠点の寺院となったことは以前にお話ししました。大きな茅葺きの本堂があったのですが、最近更地になっていました。
 与市右衛門と弥平が、馬に畑を踏み荒らされるとが訴え出られた長善寺の院住や御林上守の岡坂甚四郎は、なんとか内済にするよう尽力しますが話はまとまりません。そこで、冬も迫った11月23日に大庄屋の西村市太夫がやってきて言い分を聞きます。「畑が踏み荒らされると御年貢が納められない」という主張に屈して、
「新掛道の入口であるあど坂という所へ、幅一間から一間半の水ぬきを掘り、両縁を石台にしてささら橋(小橋)を掛け、牛馬を通さない」

ようにすることで両者を和解させました。
 そして今後のことは、八峯免全員の協議で決めるよう説得します。
市大夫は最後に
「あど坂から少し入った所に百姓自分林がるわな、ここを下し山(木を切り降ろす)時に、木馬が通るには土橋があった方が便利なわな。その時はみんなで協議して土橋にしたらええがな」

と、一本釘を打つことも忘れなかったようです。ささら橋は、間もなく土橋に架け替えられて、馬方の鈴の音が絶えることのない馬方道になったと伝えられます。
馬子唄」と「馬方節」 - 江差追分フリークのブログ

文政12(1829)年から、川東村の馬廻り橋の架替え工事が始められ、天保2(1831)年12月に、普請が終わっています。
この際の橋の工事帳(馬廻橋村々奇進銀入目指引丼他村当村人足留帳:「稲毛文書」)には、
「総人夫 595人 総費用 608匁8分」

とあります。その中には阿波馬方分として 銀62匁が含まれています。総費用の1/10は、阿波の馬方が負担したことが分かります。
 ここからは次のような事が分かります。
①19世紀になると経済的な発展に伴い阿讃交易も活発化し、金毘羅詣の人々の増加と共に峠道を越える人や馬は急増した。
②しかし、峠道は以前のままで狭く悪路で危険な箇所が数多くあった
③それを地元の有力者が少しずつ改修・整備した。
④それには阿波の馬方からの寄進も寄せられていた。
二双越

   立石峠(二双越)には、いまはモトクロス場が出来て休みの日はバイクの爆音が空に響く峠になっています。かつて、馬を曳いて峠越えをしていた馬方が見たら腰を抜かすかもしれません。峠を阿波分に少し下りた、高さ二層を超す立派な庚申仏と、地蔵仏が建ています。

二双越の地蔵

地蔵尊は像高1.32mで、小さい地蔵尊を左の手に抱き、右の手に錫杖を持っています。高さ1,8mの三段の台石の正面から左右にかけて、阿讃両国の関係者の名前が刻まれています。
二双越の地蔵2

小さい地蔵を抱いた石像には嘉永六(1853)年十月吉日の文字が読み取れます。金毘羅大権現に金堂(現旭社)が姿を現し、周辺の石畳や灯籠などの整備が進み参道の景色が一変し、それまでにも増して参拝客が増えていく頃です。ここを通る馬方は、この二尊像に朝夕に祈りを捧げ、峠道を越えていったのかもしれません。

立石越

 この当時までは、三頭峠よりも二双越や勝浦経由の真鈴越えが阿波の馬方達にはよく利用されていたのではないかと、私は考えています。古い絵図を見ると三頭越えが描かれていないものもありますが、立石峠(二双越)は、必ず描かれています。三頭越えが活発に利用されるようになるのは、以前にお話しした幕末から明治維新にかかての智典の三頭越街道の整備以後なのではないかと思うようになってきました。
立石越(二双越)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

まんのう町のソラの集落を行く (川奥・沖野)編  

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   まずやって来たのは美霞洞渓谷の竜神社です。

エピア美霞洞温泉の手前のトンネル前の駐車場から清流沿いに整備された遊歩道を歩くと、行き当たりがここです。
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 拝殿の背後の雄渕・雌淵が雨乞の聖地で、清流が響きます。
「龍」と言えば空海の「善女竜王」で、ここでも雨乞祈祷が行われました。干魃の時には、この淵に船を浮かべて雨を祈る神事を行うと必ず雨が降ったと伝えられています。山の雨乞聖地が大川山とするなら、川の雨乞聖地だったということになります。
 身を清め、心を清めコリトリ修行と思うのですが、もう秋の気配で水は澄み切り冷気を感じます。思うだけで実行なし・・・

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次にやってきたのは、阿波街道の三頭越入口の太子堂です 。

 国道の北側の久保谷橋のたもとに、二間四方のトタン葺の大師堂があります。
祭壇の中央に阿弥陀如来を祀り、その右側に寄木造りの大師座像と左側に舎利仏像が祀ってあります。舎利仏像の厨子には
「安政七庚申二月吉日厨子一具 発起人 美馬郡猿坂長江善太」
と書かれています。安政の大獄のあった幕末のものです。

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 戦前まではこの太子堂に、金毘羅堂も隣接してありました。

正面に金毘羅さんを祀り側面右に舎利仏像、
左に善光寺石仏が安置されていました。
踏み込みの土間に沿って、広い縁があり板張りの座の中央のいろりには大きな茶釜がかけられていたそうです。
 阿波から険しい峠を下って来た人や、これから峠道を登ろうとする人々にとって格好の休み場でした。接待された茶を飲みながら旅の話に花を咲かせ、阿讃の情報交換を行なっていたのです。
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 しかし、鐡道建設や他の峠道整備もあって、三頭越えを越える人々は年々少なくなり金毘羅堂も荒れて老朽化がひどく、戦後には取り払われました。今は金毘羅社の小祠が往時の繁栄をしのばせるのみです。

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太子堂境内には三頭越えに続く道沿いに古い記念碑があります。

 ここから三頭越までの峠道を開くために、献身的に活躍した智典法師の業績を称えるものです。彼は街道建設と併せて道中安全を願って、久保谷から三頭神社までに西国三十三か寺の石仏を建てました。それが今も、この峠道を歩く人々を見守っています。ここは重要な交通の要衝で、阿波金毘羅街道の通行の安全にかけられた人々の思いと、峠道を行き来する旅人の様子をしのばせるものが一か所に集められています。
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太子堂の目の前を、土器川の支流が流れ、その上には三角(みかど)集落の家々が見えます。秋も少しずつ里に下りてきて、木々が色づき始めています。

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国道の下をくぐって川奥へ川沿いに登って行きます。
かつては川奥は三頭越街道の通る川奥中の久保谷が山間部の入口でした。しかし、明治になって学校が川奥上の明神川原に置かれてから、川奥地域の中心が川奥上に移動したようです。その川奥小学校跡に行ってみましょう。
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大きな杉が迎えてくれました。

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境内には、鳥居が小さく見える「杉王」が起立しています。
この神社の18世紀前半の棟札には「三種大明神」とあり、それが50年後の棟札では「杉王大明神」となっています。境内のこの大杉にあやかって、神社名を変更したようです。
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かつての小学校の運動場は今でもきれいに整備されています。
そして、その敷地には、かつての小学校の建物と思われるものがポツンと・・
川奥集会場を後にして・・川沿いをさらに上っていくと・・

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沖野集落の川上神社を目指します。
沖野集落の祖先の中には、もともと山田郡に住んでいましたが寛永12年(1635)に神内池が築造の際に立ち退きになり、この地に移った人もいた伝えられます。そして、川の源流に近い聖地に神社を創建し、川上大明神と呼ぶようになったと伝えられています。

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少し荒れた川沿いの道をたどると社殿が現れました。川沿いの深い森に囲まれ、日も届かない幽玄な雰囲気です。
 この神社にはかつて、寛永年間(1624~44)の棟札があったと伝えられていますが、今は残っていません。今ある棟札からは、本殿は天保9年(1838)頃、拝殿が明治21年(1888)に棟上げしたことが分かります。

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境内には、町指定自然記念物の「朴の木」の大木があり歴史を感じさせてくれます。そのホオノキの根元にはキノコが一杯出ていました。
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かわいらしい小ぶりな二の鳥居が迎えてくれます。
その向こうが拝殿。
ここまで迎えていただいたことに感謝し礼拝。
そして、この神社の私の一番見たかったのは・・・裏に回ると

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 この社殿は小規模ながら、他には見られないいくつかの特徴があります。

①拝殿の向拝の位置が、拝殿建物全体の中心線からずれていること。
②本殿には、珍しい腰紐が設けられ、三手先腰組で拳鼻が取り付けられていること。

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③丸桁の上に地垂木が使われず、厚板に雲文が彫られた板軒になっていること。
この板軒の工法は、全国的にも珍しく、香川県内では金刀比羅宮の旭社など、数例しか見られない工法です。
④前面両脇柱正面で、向拝の海老虻梁の下に立てられ、脇障子柱に高欄、登高欄が取り付いたユニークな配置構造なこと。

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以上から、川上神社本殿及び拝殿は、腰組、獅子鼻、龍の彫り物も見事であること、拝殿の軸線のずれ、本殿脇障子の立ち位置、板軒は、他に類を見ないなど特徴を持つ貴重な建物といえます。
いい仕事を明治の宮大工は残しています。
 
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 しばし、ぼけーとこれらの彫物を眺めていました。
いいものに出会わせていただいたことに感謝して、再度礼拝

 さて、次は浅木原へ向かう予定なのですが・
・・・・それはまた次回に

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