瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:上井用水

今回は、髙松平野と丸亀平野の「中世村落」の居館について見ていきます。テキストは、飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」です。
まず、比較のために旧髙松空港(林田飛行場)跡の中世村落の変遷について、要約しておきます。
①古代集落は、11世紀前半で断絶して中世には継続しない。
②11世紀後半のことは不明で、12世紀になると、小規模な「無区画型建物群」が現れる。
③13世紀になると大型建物を中心とした「区画型建物群(居館)」が出現する
④これは「集落域の中央に突如、居館が出現した」とも言え、「12世紀代を通じて行われた中世的な再開発の一つの到達点である」
⑤ところが、中世前半の居館は長く続かず、13世紀後半になると、ほぼ全ての集落が廃絶・移転してしまう。
①と⑤に集落の断絶期があるようです。これをどう捉えればいいのでしょうか?。この時期に「大きな画期」があったことを押さえておきます。そして、14世紀から15世紀になると空港跡地遺跡では、次のような変化があったことを指摘します。
⑥「区画施設(小溝ないし柵列)により明瞭に区画された屋敷地が、居館の近くに東西1町半、南北1町の範囲内にブロック状に凝集する形態」へと変化する。
⑦「中心となる居館と、付随する居館との格差は明瞭に指摘でき、村落(集洛群)を構成する上位階層の居住域」である。
⑧居館に居住する「小地域の領主…を求心力とした地域開発や生産・流通の再編が、このような村落景観として現出した」=「集落凝集化」

ここで研究者が注目するのは、居館に区画(溝)があるかどうかで次のように分類します。
A 無区画型建物群 1棟~数棟の中・小規模建物群で構成され、1~2世代程度継続した後は短期に廃絶している。周囲に溝等による区画施設がない
B 区画型建物群 多数の柱穴が密集して複数棟の建物が同時並存し、1世紀程度の比較的長く継続して建て替えられ、周囲に溝などの区画施設を伴う。
居館の周囲を溝で区画されたことに、どんな意味があるのでしょうか?
Bの区画型建物群の出現と同じ時期に、区画内部に土葬墓(屋敷墓)が造られるようになるからです。死者の埋葬地を屋敷内に作ることを「屋敷墓」と言います。中世の屋敷墓について、勝田至氏(京都大学)は、次のように記します。
 死者の埋葬地をある家の屋敷内またはその近くの自家所有地に作る慣行を「屋敷墓」と定義する。この慣行の中心的起源は中世前期にある。そこでは屋敷墓に葬られる死者はその地を開発した先祖に限られることが多く、屋敷墓は子孫の土地継承を守護するものとされ、塚に植えられた樹木などを象徴として信仰対象とされた。この慣行の成立要因として、開発地を子孫が継承するイエ制度的理念と、死体に死者の霊が宿るという観念とが複合していたと考えられる。屋敷墓はその信仰表象のみが独立した屋敷神として、現代の民俗にも広い分布をみせている。


13世紀・鎌倉時代の大阪市の居館と屋敷墓を見ておきましょう。
鎌倉時代の野間遺跡からは、屋敷墓が井戸の跡とともに見つかりました。墓の大きさは長さ2.1m、幅80cm、深さ40cmで、北向きに掘られていました。木の棺もあったはずですが、遺体とともに残っていませんでした。しかし、頭から腰と思われるあたりでは、素焼きの大皿2枚、小皿9枚、中国産の磁器椀1個、中国産の磁器皿1枚、鞘に入った長さ30cmの小刀など、たくさんの品物が副葬されていました。副葬品からは、中国から輸入された茶碗や皿を使い、刀を身につけることのできた人物が浮き上がってきます。墓の主は、領主クラスの人物とも想像できます。
中世の居宅と屋敷墓 大阪の野間遺跡
野間遺跡(大阪市)の居館跡と屋敷墓 

屋敷跡からは、8棟の建物跡が見つかりました。そのうちの1棟には、建物に使われていた木の柱が何本も残っていて、中にはカヤの木でできた直径40cm、高さ1mもある柱もありました。それほど大きな屋敷跡ではありませんが、しかし柱は太く、掘立柱の下にも礎石を組んでいます。また、この屋敷跡からは、羽子板や漆塗りの椀、絵の描かれた箱が見つかり、京都の文化の影響を強く受けていた様子がうかがえます。大きな柱の建物、そしてたくさんの出土品は、この屋敷の主の力の大きさを物語っています。

 屋敷墓の起源は中世前期にあり、屋敷墓に葬られる死者は、その地を開発した先祖で、神として祀られることが多いようです。
屋敷墓は子孫の土地継承を守護するものとされ、塚に植えられた樹木などを象徴として信仰対象とされるようになります。そして、屋敷墓の継承者が「家」を継承していくことになります。これは、開発地を子孫が継承するイエ制度的理念と、死体に死者の霊が宿るという観念とが融合したものと研究者は考えています。こうして屋敷墓は、屋敷神として姿を変えながら現代にも受け継がれています。

屋敷墓の成立について橘田正徳氏は、次のように記します。

①前期屋敷墓の被葬者である「百姓層」が、「「屋敷」の中に墓を作り、祖先(「屋敷」創設者)祭祀を行うことによって、「屋敷」相続の正当性つまり「屋敷」所有の強化を」図ろうとしたこと

中世以降に血縁関係による墓地の形成が進む背景として、水藤真氏は次のように記します。

「子の持つ権利の淵源が親にあれば、子はその権利継承の正当性を主張するに際して、親からの保証・正当な権利相続がなければならない。そして、その親を祀っているという実態、これも親からの権利の継承を主張する根拠となった」
家の財産(家産)の確立こそが、「家の墓」を生む母体であった」

 無区画型建物群は短期間で廃絶しますが、区画型建物群は、複数世代にわたり継承されています。これは屋敷墓が屋敷相続を正当化する根拠となり、そこを長く拠点とするようになったようです。その地が替えの効かない意味のある場所になったことになります。別の言い方をすると、屋敷が家産として認識され始めたというのです。つまり、建物群の四隅を溝で区画することは、土地や建物が父子間に相続されるべき家産として認識され、それを具体的に外部に向けて主張し、その権利が及ぶ範囲を数値化して、目に見える形で示したのが溝であるとします。そうだとするとこの屋敷墓の被葬者は「名主層」や「名主百姓身分」ということになります。区画型建物群の成立は、名主層の出現とリンクするのです。彼らは周辺開発を進める原動力となります。それが、大規模用水道の出現にもつながって行くという話になります。そういう視点で改めて、飯野山周辺の中世居館を見ていくことにします。

飯野山周辺の中世居館
             飯野山周辺の区画型建物群の例

中世飯野・東二瓦礫遺跡の中世遺構変遷について整理しておきます。
①飯野・東二瓦礫遺跡に建物群が出現するのは、12世紀前半のこと
②それは3棟の掘立柱建物で、柱穴数が少ないので、多くの建物があったとは思えないこと
③短期間で廃絶したと考えられる建物群は、どれもが条里型地割に沿って建てられている。
④ここからは、遺跡周辺において地割の造成が新たに行われたこと。
⑤12世紀後半~13世紀初頭には、一度建物がなくなる。
⑥その断絶期間を経て、建物群D・Eが13世紀中頃に再度現れる。
⑦続いて建物群Bが、13世紀後半に成立。
⑧それは等質的な内容の建物群が、2世代程度の短期間で場所を移して相次いで建設。
こうした状況が大きく変わるのが、建物群Aの登場です。
建物群Aでは、20㎡強四方と小規模ですが、区画施設があり、4棟以上の建物が長期にわたって建て替えられ継続します。密集性と継続性という面から見ると、それまでの建物群Bの段階とは明らかに異なります。しかし、出土遺物についてみると、中国製磁器類のほか、備前や亀山、東播系といった瀬戸内海沿岸からの搬人品が少し出土しているだけです。そういう点では、無区画型建物群であるBと格差はないようです。ここでは、建物群が区画施設を伴って出現することと、同時期に大規模灌漑網が再整備が行われたことを押さえておきます。
研究者が注目するのは、川西北・原遺跡の2基の中世墳墓遺構の火葬塚です。
幅約1,1m~1、8m、深さ約0,1~0,5mの周溝で区画された辺5,2mと6、1mの陸橋を伴う2基の方形区画で、火葬塚とされます。ST01は12世紀前半、ST02は13世紀前葉の築造とされ、ST01は12世紀後半以降にも継続使用された可能性があるようです。つまり、12世紀前半から13世紀前葉まで、火葬された人々が遺跡周辺に生活していたことになります。そこからは、安定して地域経営に従事した有力階層がいたことをうかがわせます。長期に安定して火葬墓を営むことができた階層の拠点住居として、飯野・東二瓦礫遺跡の有力者を研究者は想定します。続いて大束川流域の居館を見ていくことにします。

飯山町 秋常遺跡灌漑用水1
                 大束川流域の中世集落と用水路
川津川西遺跡は鵜足郡川津郷の大束川西岸に位置します。
①建物の東辺が、大束川の完新世段丘崖によって画される区画型建物群。
②区画規模は、南北約100m、東両約50mとかなり広く、区画内部はさらに中・小の区画溝により数ブロックに細分されている。
③西約90mの所に、無区画型建物群が一時期並存。
④区画型建物群は、14世紀前葉から15世紀初頭にかけて使用され、内部には主屋とみられる床面積約50㎡の大型建物がある。
⑤出土遺物には、碗・皿などの輸入磁器類や、備前・東播・亀山の貯蔵・調理器類、瀬戸天目碗や畿内産の瓦器羽釜など、隣接地域や遠隔地からもたらされた搬入資料も少量ながら出土。
この居館の主人は、区画型建築物に住んでいます。名主から領主への成長過程にいたことが考えられます。 
川津六反地遺跡
①旧鵜足郡川津郷の大束川東岸の段丘面上に位置。
②西辺を条里溝、東辺を溝によって区画された東西長約と㎡の区画型建物群
③区画溝から、13世紀後半~13世紀前の遺物が出土
④各区画には、主屋とみられる建物があって、等質的で相対的に独立していた。
⑤区画溝を挟んで、東西に2つ区画型建物群が連接していた
⑥西側には、無区画型建物群が並存。
こうした複数の区画型建物群が連なって一つの建物群を構成するものを、「連接区画型建物群」と呼んでいるようです。これに対して、飯野・東二瓦礫遺跡や川津川西遺跡は、中・小の溝などによる区画はありますが、各区画間に等質性や独立性は認めらません。このように外周区画溝内部が一つの単位としてかんがえられるものと「単独区画型建物群」とします。
東坂元秋常遺跡も、飯野山南東麓の旧鵜足郡坂本郷の大束川両岸の段丘面上にあります。
①中世建物群は、飯野山より南東に張り出した低丘陵部に建設。
②南北長約100㎡の区画型建物群で
③区画内部は飯野山から下る小規模な谷地形により、3小区画に細分される「連接区画型建物群」④区画内部の構造は、13世紀後半~14世紀前半の使用。
④出土遺物は、備前や亀山、東播系の隣接地の搬入資料以外に、少量だが楠葉型瓦器碗や瀬戸・美濃の瓶子・天目碗、常滑焼、中国産磁器類が出土

下川津遺跡も、鵜足郡川津郷の大束川西岸の段丘面上に位置します。

.下川津遺跡
下川津遺跡の大型建物配置図

①四辺を区画溝で囲続し、南西隅が陸橋状を呈して区画内部への通路とする
②南辺区両溝は旧地形に大きく制約され矩形とならず、東西約50m、南北35~65mの単独区画型建物群
③建物群の時期は15世紀後半~16世紀前葉で、飯野山周辺では最も遅い区画型建物群。
15世紀後半と云えば、応仁の乱後に政権を握った細川氏が勢力を増し、その配下で讃岐四天王とよばれた讃岐武士団が京都で、羽振りをきかせていた時代です。その時期の領主層の舘が、ここにはあったことになります。
ここで研究者が注目するのは、東坂元秋常遺跡の上井用水です。  
上井用水は、古代に開削された用水路が改修を重ねながら現在にまで維持されてきた大型幹線水路です。今も下流の西又用水に接続して、川津地区の灌漑に利用されています。東坂元秋常遺跡の調査では、古代期の水路に改修工事の手が入っていることが報告されています。中世になっても、東坂元秋常遺跡の勢力が、上井用水の維持・管理を担っていたことが分かります。しかし、それは単独で行われていたのではなく、下流の川津一ノ又遺跡の集団とともに、共同で行っていたことがうかがえます。つまり、各遺跡の建物群を拠点とする集団は、互いに無関係だったのではなく、治水灌漑のために関係を結んで、共同で「地域開発」を行っていたと研究者は考えています。それが各集落が郷社に集まり、有力者が宮座を形成して、祭礼をおこなうという形にも表れます。滝宮念仏おとりに、踊り込んでいた坂本念仏踊りも、そのような集落(郷村)連合で編成されたことは以前にお話ししました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会
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土器川から仰ぐ飯野山
前々回は、丸亀平野の高速道路工事前の発掘調査で出てきた条里制地割に関係した「溝」を見てみました。そこからは「溝」が7世紀末に掘られたものであり、そこから丸亀平野の条里制地割施行を7世紀末とすることが定説となっていることを押さえました。
前回は、弥生時代の溝(灌漑用水路)を見ることで、弥生時代後期には灌漑用の基幹的用水路が登場し、それが条里制施行期まで継続して使用されていたことを押さえました。そこには、灌漑用水路に関しては、大きな技術的な革新がなかったことが分かりました。そういう意味では、丸亀平野の条里制跡では、すべてのエリアに用水を供給するような灌漑能力はなく、従って放置されたままの広大な未開発エリアが残っていたことがうかがえます。大規模な灌漑用水路が開かれて、丸亀平野全体に条里制施行が拡大していくのは、平安末期になってからのようです。
飯山町 秋常遺跡航空写真
秋常遺跡周辺の航空写真(1961年)


 さて、今回も「溝」を追いかけます。今回は大束川沿いに掘られていた大溝(基幹的用水路)が、飯山町の東坂元秋常遺跡で見つかっています。この大溝がいつ掘られたのか、その果たした役割が何だったのかを見ていくことにします。テキストは「 国道438号改築事業発掘調査報告書 東坂元秋常遺跡Ⅰ 2008年」です。
飯山 秋常遺跡地質概念図
大束川流域の地形分類略図

東坂元秋常遺跡は、飯野山南東の裾部に位置します。大束川河口より5㎞程遡った左岸(西側)にあたります。遺跡の北西は飯野山で、東側を大束川が蛇行しながら川津方面に流れ下って行きます。この川は綾川に河川争奪される前までは、羽床から上部を上流部としていた時代があったようです。また、土器川からの流入を受けていた時もあったようで、その時代には流量も多かったはずです。また、大束川は流路方向が周辺の条里型地割に合致しているので、人工的に流路が固定された可能性があると研究者は指摘します。
このエリアの遺跡として、まず挙げられるのは、白鳳期の法勲寺跡で、この遺跡の南約2㎞にあります。

法勲寺跡
法勲寺跡

大束川中・上流域を統括した豪族の氏寺と考えられています。この寺院の瓦を焼いた窯が、東坂元瓦山で見つかっいますが、詳細は不明です。また平地部には、西に30度振れた方位をとる条里型地割りが残ります。法勲寺は、主軸線が真北方向なので、7世紀末に施行された周囲の条里型地割りとは斜交します。ここからは、条里型地割り施行よりも早く、法勲寺は建立されていたと研究者は考えています。

飯野山の南側エリアは、国道バイパスの建設が南へと伸びるに従って、発掘調査地点も増えました。
  飯山高校の西側の岸の上遺跡からは、倉庫群(正倉?)を伴う建物群が出てきていることは、以前にお話ししました。
「倉庫群が出てきたら郡衙と思え」と云われるので、鵜足郡の郡衙の可能性があります。同時に岸の上遺跡からは、南海道に附属すると考えられる溝跡もでてきました。こうなるとこの地域には、「鵜足郡郡衙 + 南海道 + 古代寺院の法勲寺」がセットであったことになります。これは、多度郡の佐伯氏本拠地であるの善通寺周辺と同じ様相です。この地域が、鵜足郡の政治的な中心地であった可能性が高くなりました。

岸の上遺跡 イラスト
古代法勲寺周辺の想像図 

さて、前置きが長くなりましたが秋常遺跡から出てきた「大溝SD01」を見てみましょう。
飯山 秋常遺跡概念図
東坂本秋常遺跡は、旧国道とバイパスの分岐点近くにあった遺跡です。東を流れる大束川の段丘崖の上にあったことが分かります。

飯山町 秋常遺跡 大溝用水路
大溝(SD01)は、古代の基幹的用水路
SD01は、延長約90mでA地区尾根端部の南縁辺を回り込むように開削されています。A2区屈曲部付近でSD02が、B-1区南端部でSD03がそれぞれ合流して、ゆるやかに北に流れていきます。
飯山町 秋常遺跡変遷図1
大溝(SD01)の変遷図

 流路SD01は、頻繁に改修された痕跡があり、長期にわたって利用された幹線水路のようです。8世紀後葉までには開削されたようで、完新世段丘が形成される11世紀代になると廃棄されています。SD01の脇には、現在は上井用水が通水しています。SD01廃絶後は、土井用水に付け替えられた可能性を研究者は指摘します。

大束川流域の古代の幹線水路は、以前に紹介した下川津遺跡や川津中塚遺跡があります。
弥生時代 川津遺跡灌漑用水路


その中で大束川流域の水路の中では、最も大型の水路になるようです。このエリアの開発を考える上で、重要な資料となります。
同じような幹線水路は、川津川西遺跡や東坂元三ノ池遺跡にもあります。
川津川西遺跡は、飯野山北東麓の集落遺跡で、調査区中央部で南北方向に流れる幹線水路SD135が出てきました。SD135は、N60°W前後の流路主軸で、直線状な水路です。調査区内で延長約38mが確認され、幅3,5~4,3m、深さ1.3~1.4m、断面形は逆台形状で、東坂元秋常遺跡SD01とよく似た規模です。底面の標高は9m前後で、標高差から北に流下していたようです。
 報告書では、出土遺物から8世紀後半~9世紀前半代の開削、13世紀代の埋没が示されていますが、開削時期はより遡る可能性があるようです。
東坂元三の池遺跡は、飯野山東麓の裾部の緩斜面地上に広がります。
飯山町 東坂元三 ノ池遺跡
東坂元三の池遺跡
この南部段丘Ⅰ面からは等高線に平行して掘られた幹線水路SD30が出ています。流路方向N43°Eの流路主軸で、ほぼ直線状に掘られた幹線水路です。調査区内で延長約13mが確認され、面幅2.4m、深0,9m、断面形は逆台形状です。埋土からは数度の改修痕跡が確認できます。溝の規模や性格から古代以降の開削のものと研究者は考えているようです。
飯山町 東坂元三 ノ池遺跡2
         東坂元三の池遺跡の古代水路

 周辺の各水路は8世紀後半には埋没が進行し、灌漑水路としての機能が低下しつつあったようです。開削時期については、8世紀中葉以前に遡り、廃絶時期は11世紀前後で、時期も共通します。
東坂元秋常遺跡から出てきたSD01と、今見てきた水路の位置関係を表示したのが第70図です。
飯山町 秋常遺跡 大溝用水路1

この図からは、各水路は飯野山東麓の段丘縁辺をめぐるように開削され、つながっていた可能性が出てきます。そして規模や埋土の堆積状況などもよく似ています。また使用されていた期間も共通します。これらの事実から、3つの遺跡は、3~5 km離れていますが、もともとは一本の水路で結ばれていた研究者は推測します。
 そして東坂元秋常遺跡SD01と東坂元三ノ池遺跡SD30に沿うように、現在は上井用水が流下しています。これを古代水路の機能が、今は上井用水に引き継がれている証拠と研究者は推察します。以上の上に、川津川西遺跡SD135を含めた3遺跡の幹線水路を「古上井用水」と一括して呼びます。

一本の灌漑水路であったとすると、その用水の供給先はどこだったのでしょうか?
飯野山東麓は、耕地となる平地が狭くて、大規模水路を建設しても、それに見合うだけの収量が期待できるエリアではありません。大規模な用水路を掘って、水田開発を行うとすれば、それは大束川下流西岸の川津地区だと研究者は考えます。
大束川下流エリアを見ておきましょう。
この地区は、バイパス+高速道路+インターチェンジ+ジャンクションなどの建設工事のために、大規模な発掘調査が行われています。そして、津東山田遺跡I区SD01、川津中塚遺跡SD Ⅱ 38、川津元結木遺跡SD10などで大型水路が確認されています。そして、それぞれに改修痕跡が見つかっていて、長期に渡って継続使用されたことが分かります。これらの水路も幹線水路として機能していたのでしょう。水路の開削時期は、9世紀頃までには開削され、11世紀頃には水路としての機能が衰退していたと研究者は考えています。こうした調査例より灌漑水路網が、遅くとも9世紀までには川津地区に整備されていたことがうかがえます。旧上井用水も、「古代川津地区総合開発計画」の一環として開かれたとしておきましょう。
飯山町 秋常遺跡灌漑用水1

現状水路との関係
①東坂元秋常遺跡SD01と東坂元三ノ池遺跡SD30に隣接して上井用水
②川津川西遺跡SD135に近接して西又用水
が、現在は灌漑用水として機能しています

文献史料で、現行水路との関係について見ておきましょう。
上井用水は、大窪池を取水源としています。大窪池がいつ築造されたかについては、根本史料はないようです。ただ、堤防にある記念碑には、高松藩士矢延平六が正保年間(1644~1648)が増築したことが記されているので、17世紀前葉以前に築池されていたと考えられます。
 また宝暦5年(1755)に高松藩が水利施設の調査を行った際に、鵜足郡内の結果をまとめた「鵜足郡村々池帳」には、大窪池の水掛り高は3,011石で、上法軍寺村以下、東坂元秋常遺跡周辺の東坂本村などへ通水されていたことが記されています。(飯山町編1988)、このなかに上井用水の通水域は、含まれていたのでしょう。上井用水は現在は、元秋常遺跡南部で用水の大部分を大束川へ落とし、一部が東坂元秋常遺跡東辺を北流して、東坂三の池遺跡東部で西又用水へ流入しています。
西又用水は、大束川本流より直接取水しています。
用水路で、西又横井より取水し、川津地区の灌漑に利用されています。西又横井の構築時期もよく分かりません。比較のために大束川に設置された他の横井について、その構築時期を見てみると、天保7年(1836 )に、通賢が築造した坂本横井が、もっとも古い例になるようです(飯山町1988)。横井築造の技術的な問題からの築造時期は、江戸中期以降と研究者は考えています。こうすると西又用水は、江戸前半期までに上井用水の延長部として整備されていたが、西又横井の構築により再整備されたものと考えられまする。
 上井用水の開削時期は17世紀前葉以前に遡り、飯野山南部の大束川西岸平地部を主要な灌漑域とする用水路であり、その一部は川津地区へ給水されていたとします。
 このように、大窪池築造という広域的な灌漑用水路網の整備が、17世紀前葉以前に遡る可能性を研究者は指摘します。そして、下流で行われた沼池増築や横井構築といった近世の開発は、新たな土木技術の導入や労働編成による、その量的拡大であったとします。
 そして、古代の古上井用水は、11世紀段階の埋没・機能停止を契機として、中世段階に上井用水へと切り替えられ継続された結果と考えているようです。
では、古上井用水の取水源は、どこなのでしょうか?

飯山町 秋常遺跡 大溝用水路3
この点で注目されるのが法勲寺です。法熟寺は、大窪池がある開析谷の開田部付近の微高地上に位置します。この寺は鵜足郡内唯一の白鳳期寺院で、郡領氏族であるとされる綾氏の氏寺として創建されたとされます。また大窪池から取水する現在の用水路は、法勲寺の西を北流して上井用水へとつながります。さらに大窪池の北西部の台地上にある東原遺跡は、7世紀中葉~奈良時代の大形掘立柱建物群が出てきていて、有力集団の居宅とされます。さらに谷部東方の台地上にある遠田遺跡からも、奈良時代の大形掘立柱建物が出てきています。
ここからは法勲寺を中心としたエリアが、古代において計画的・広域的に開発されたことが推測されます。
つまり、白村江から藤原京時代にかけての7世紀中葉から8世紀代にかけて、大窪池周辺では郡司層(綾氏?)による大規模開発が行われたと研究者は指摘します。
飯山町 秋常遺跡 土地利用図
法勲寺周辺の旧河川跡 土器川からの流路が見られる

 その一環として大窪池築池と灌漑用水路網の整備がなされたと云うのです。藤原京時代の郡家の成立とともに手工業生産や農業経営など、律令国家の政策のもと郡司層を核とした多様な開発が進んだことが明らかにされつつあります。
例えば讃岐の場合は、次のような動きが見えます。
①三野郡丸部氏による国営工場的な宗吉瓦窯群の創業開始と藤原京への宮殿瓦供給
②阿野郡綾氏による十瓶山(陶)窯群の設置
大束川流域の基幹的な用水路の設置は、同時期の上のような郡司層の動向とも重なり合うものです。それを補強するかのように、飯山高校の西側の岸の上遺跡からは、倉庫群(正倉?)を伴う建物群が出てきたことは、以前にお話ししました。こうなるとこの地域には、「郡衙 + 南海道 + 法勲寺」がセットであったことになります。これは、多度郡の佐伯氏本拠地であるの善通寺周辺と同じ様相です。この地域が、鵜足郡の政治的な中心地であった可能性が高くなりました。
 それを進めた政治勢力としては、坂出の福江を拠点に大束川沿いに勢力を伸ばした綾氏の一族が考えられます。
かれらが弥生時代から古墳時代に掛けて開発されていた河津地区を支配下に置き、さらにその耕地拡大のための灌漑用水確保のために、飯野山南部の丘陵部の谷間の湧水からの導水を行ったという話になるようです。そういう意味では、法勲寺は湧水の中心地に作られた古代寺院で、仏教以前の稲作農耕期には水がわき出る聖地として崇められていたことも考えられます。

以上をまとめておくと
①東坂元秋常遺跡は、飯野山と城山からのびる尾根が最接近する狭い平野部で、その東を大束川が流れる
②この遺跡からは、大束川の上面に掘られた藤原京時代の「大溝=基幹的用水路(SD01)」が出てきた。
③飯野山北麓の遺跡から出てきた基幹的用水路と、SD01は、もともとはつながっていた。
この最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   国道438号改築事業発掘調査報告書 東坂元秋常遺跡Ⅰ 2008年
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