瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:下川津遺跡

今回は、髙松平野と丸亀平野の「中世村落」の居館について見ていきます。テキストは、飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」です。
まず、比較のために旧髙松空港(林田飛行場)跡の中世村落の変遷について、要約しておきます。
①古代集落は、11世紀前半で断絶して中世には継続しない。
②11世紀後半のことは不明で、12世紀になると、小規模な「無区画型建物群」が現れる。
③13世紀になると大型建物を中心とした「区画型建物群(居館)」が出現する
④これは「集落域の中央に突如、居館が出現した」とも言え、「12世紀代を通じて行われた中世的な再開発の一つの到達点である」
⑤ところが、中世前半の居館は長く続かず、13世紀後半になると、ほぼ全ての集落が廃絶・移転してしまう。
①と⑤に集落の断絶期があるようです。これをどう捉えればいいのでしょうか?。この時期に「大きな画期」があったことを押さえておきます。そして、14世紀から15世紀になると空港跡地遺跡では、次のような変化があったことを指摘します。
⑥「区画施設(小溝ないし柵列)により明瞭に区画された屋敷地が、居館の近くに東西1町半、南北1町の範囲内にブロック状に凝集する形態」へと変化する。
⑦「中心となる居館と、付随する居館との格差は明瞭に指摘でき、村落(集洛群)を構成する上位階層の居住域」である。
⑧居館に居住する「小地域の領主…を求心力とした地域開発や生産・流通の再編が、このような村落景観として現出した」=「集落凝集化」

ここで研究者が注目するのは、居館に区画(溝)があるかどうかで次のように分類します。
A 無区画型建物群 1棟~数棟の中・小規模建物群で構成され、1~2世代程度継続した後は短期に廃絶している。周囲に溝等による区画施設がない
B 区画型建物群 多数の柱穴が密集して複数棟の建物が同時並存し、1世紀程度の比較的長く継続して建て替えられ、周囲に溝などの区画施設を伴う。
居館の周囲を溝で区画されたことに、どんな意味があるのでしょうか?
Bの区画型建物群の出現と同じ時期に、区画内部に土葬墓(屋敷墓)が造られるようになるからです。死者の埋葬地を屋敷内に作ることを「屋敷墓」と言います。中世の屋敷墓について、勝田至氏(京都大学)は、次のように記します。
 死者の埋葬地をある家の屋敷内またはその近くの自家所有地に作る慣行を「屋敷墓」と定義する。この慣行の中心的起源は中世前期にある。そこでは屋敷墓に葬られる死者はその地を開発した先祖に限られることが多く、屋敷墓は子孫の土地継承を守護するものとされ、塚に植えられた樹木などを象徴として信仰対象とされた。この慣行の成立要因として、開発地を子孫が継承するイエ制度的理念と、死体に死者の霊が宿るという観念とが複合していたと考えられる。屋敷墓はその信仰表象のみが独立した屋敷神として、現代の民俗にも広い分布をみせている。


13世紀・鎌倉時代の大阪市の居館と屋敷墓を見ておきましょう。
鎌倉時代の野間遺跡からは、屋敷墓が井戸の跡とともに見つかりました。墓の大きさは長さ2.1m、幅80cm、深さ40cmで、北向きに掘られていました。木の棺もあったはずですが、遺体とともに残っていませんでした。しかし、頭から腰と思われるあたりでは、素焼きの大皿2枚、小皿9枚、中国産の磁器椀1個、中国産の磁器皿1枚、鞘に入った長さ30cmの小刀など、たくさんの品物が副葬されていました。副葬品からは、中国から輸入された茶碗や皿を使い、刀を身につけることのできた人物が浮き上がってきます。墓の主は、領主クラスの人物とも想像できます。
中世の居宅と屋敷墓 大阪の野間遺跡
野間遺跡(大阪市)の居館跡と屋敷墓 

屋敷跡からは、8棟の建物跡が見つかりました。そのうちの1棟には、建物に使われていた木の柱が何本も残っていて、中にはカヤの木でできた直径40cm、高さ1mもある柱もありました。それほど大きな屋敷跡ではありませんが、しかし柱は太く、掘立柱の下にも礎石を組んでいます。また、この屋敷跡からは、羽子板や漆塗りの椀、絵の描かれた箱が見つかり、京都の文化の影響を強く受けていた様子がうかがえます。大きな柱の建物、そしてたくさんの出土品は、この屋敷の主の力の大きさを物語っています。

 屋敷墓の起源は中世前期にあり、屋敷墓に葬られる死者は、その地を開発した先祖で、神として祀られることが多いようです。
屋敷墓は子孫の土地継承を守護するものとされ、塚に植えられた樹木などを象徴として信仰対象とされるようになります。そして、屋敷墓の継承者が「家」を継承していくことになります。これは、開発地を子孫が継承するイエ制度的理念と、死体に死者の霊が宿るという観念とが融合したものと研究者は考えています。こうして屋敷墓は、屋敷神として姿を変えながら現代にも受け継がれています。

屋敷墓の成立について橘田正徳氏は、次のように記します。

①前期屋敷墓の被葬者である「百姓層」が、「「屋敷」の中に墓を作り、祖先(「屋敷」創設者)祭祀を行うことによって、「屋敷」相続の正当性つまり「屋敷」所有の強化を」図ろうとしたこと

中世以降に血縁関係による墓地の形成が進む背景として、水藤真氏は次のように記します。

「子の持つ権利の淵源が親にあれば、子はその権利継承の正当性を主張するに際して、親からの保証・正当な権利相続がなければならない。そして、その親を祀っているという実態、これも親からの権利の継承を主張する根拠となった」
家の財産(家産)の確立こそが、「家の墓」を生む母体であった」

 無区画型建物群は短期間で廃絶しますが、区画型建物群は、複数世代にわたり継承されています。これは屋敷墓が屋敷相続を正当化する根拠となり、そこを長く拠点とするようになったようです。その地が替えの効かない意味のある場所になったことになります。別の言い方をすると、屋敷が家産として認識され始めたというのです。つまり、建物群の四隅を溝で区画することは、土地や建物が父子間に相続されるべき家産として認識され、それを具体的に外部に向けて主張し、その権利が及ぶ範囲を数値化して、目に見える形で示したのが溝であるとします。そうだとするとこの屋敷墓の被葬者は「名主層」や「名主百姓身分」ということになります。区画型建物群の成立は、名主層の出現とリンクするのです。彼らは周辺開発を進める原動力となります。それが、大規模用水道の出現にもつながって行くという話になります。そういう視点で改めて、飯野山周辺の中世居館を見ていくことにします。

飯野山周辺の中世居館
             飯野山周辺の区画型建物群の例

中世飯野・東二瓦礫遺跡の中世遺構変遷について整理しておきます。
①飯野・東二瓦礫遺跡に建物群が出現するのは、12世紀前半のこと
②それは3棟の掘立柱建物で、柱穴数が少ないので、多くの建物があったとは思えないこと
③短期間で廃絶したと考えられる建物群は、どれもが条里型地割に沿って建てられている。
④ここからは、遺跡周辺において地割の造成が新たに行われたこと。
⑤12世紀後半~13世紀初頭には、一度建物がなくなる。
⑥その断絶期間を経て、建物群D・Eが13世紀中頃に再度現れる。
⑦続いて建物群Bが、13世紀後半に成立。
⑧それは等質的な内容の建物群が、2世代程度の短期間で場所を移して相次いで建設。
こうした状況が大きく変わるのが、建物群Aの登場です。
建物群Aでは、20㎡強四方と小規模ですが、区画施設があり、4棟以上の建物が長期にわたって建て替えられ継続します。密集性と継続性という面から見ると、それまでの建物群Bの段階とは明らかに異なります。しかし、出土遺物についてみると、中国製磁器類のほか、備前や亀山、東播系といった瀬戸内海沿岸からの搬人品が少し出土しているだけです。そういう点では、無区画型建物群であるBと格差はないようです。ここでは、建物群が区画施設を伴って出現することと、同時期に大規模灌漑網が再整備が行われたことを押さえておきます。
研究者が注目するのは、川西北・原遺跡の2基の中世墳墓遺構の火葬塚です。
幅約1,1m~1、8m、深さ約0,1~0,5mの周溝で区画された辺5,2mと6、1mの陸橋を伴う2基の方形区画で、火葬塚とされます。ST01は12世紀前半、ST02は13世紀前葉の築造とされ、ST01は12世紀後半以降にも継続使用された可能性があるようです。つまり、12世紀前半から13世紀前葉まで、火葬された人々が遺跡周辺に生活していたことになります。そこからは、安定して地域経営に従事した有力階層がいたことをうかがわせます。長期に安定して火葬墓を営むことができた階層の拠点住居として、飯野・東二瓦礫遺跡の有力者を研究者は想定します。続いて大束川流域の居館を見ていくことにします。

飯山町 秋常遺跡灌漑用水1
                 大束川流域の中世集落と用水路
川津川西遺跡は鵜足郡川津郷の大束川西岸に位置します。
①建物の東辺が、大束川の完新世段丘崖によって画される区画型建物群。
②区画規模は、南北約100m、東両約50mとかなり広く、区画内部はさらに中・小の区画溝により数ブロックに細分されている。
③西約90mの所に、無区画型建物群が一時期並存。
④区画型建物群は、14世紀前葉から15世紀初頭にかけて使用され、内部には主屋とみられる床面積約50㎡の大型建物がある。
⑤出土遺物には、碗・皿などの輸入磁器類や、備前・東播・亀山の貯蔵・調理器類、瀬戸天目碗や畿内産の瓦器羽釜など、隣接地域や遠隔地からもたらされた搬入資料も少量ながら出土。
この居館の主人は、区画型建築物に住んでいます。名主から領主への成長過程にいたことが考えられます。 
川津六反地遺跡
①旧鵜足郡川津郷の大束川東岸の段丘面上に位置。
②西辺を条里溝、東辺を溝によって区画された東西長約と㎡の区画型建物群
③区画溝から、13世紀後半~13世紀前の遺物が出土
④各区画には、主屋とみられる建物があって、等質的で相対的に独立していた。
⑤区画溝を挟んで、東西に2つ区画型建物群が連接していた
⑥西側には、無区画型建物群が並存。
こうした複数の区画型建物群が連なって一つの建物群を構成するものを、「連接区画型建物群」と呼んでいるようです。これに対して、飯野・東二瓦礫遺跡や川津川西遺跡は、中・小の溝などによる区画はありますが、各区画間に等質性や独立性は認めらません。このように外周区画溝内部が一つの単位としてかんがえられるものと「単独区画型建物群」とします。
東坂元秋常遺跡も、飯野山南東麓の旧鵜足郡坂本郷の大束川両岸の段丘面上にあります。
①中世建物群は、飯野山より南東に張り出した低丘陵部に建設。
②南北長約100㎡の区画型建物群で
③区画内部は飯野山から下る小規模な谷地形により、3小区画に細分される「連接区画型建物群」④区画内部の構造は、13世紀後半~14世紀前半の使用。
④出土遺物は、備前や亀山、東播系の隣接地の搬入資料以外に、少量だが楠葉型瓦器碗や瀬戸・美濃の瓶子・天目碗、常滑焼、中国産磁器類が出土

下川津遺跡も、鵜足郡川津郷の大束川西岸の段丘面上に位置します。

.下川津遺跡
下川津遺跡の大型建物配置図

①四辺を区画溝で囲続し、南西隅が陸橋状を呈して区画内部への通路とする
②南辺区両溝は旧地形に大きく制約され矩形とならず、東西約50m、南北35~65mの単独区画型建物群
③建物群の時期は15世紀後半~16世紀前葉で、飯野山周辺では最も遅い区画型建物群。
15世紀後半と云えば、応仁の乱後に政権を握った細川氏が勢力を増し、その配下で讃岐四天王とよばれた讃岐武士団が京都で、羽振りをきかせていた時代です。その時期の領主層の舘が、ここにはあったことになります。
ここで研究者が注目するのは、東坂元秋常遺跡の上井用水です。  
上井用水は、古代に開削された用水路が改修を重ねながら現在にまで維持されてきた大型幹線水路です。今も下流の西又用水に接続して、川津地区の灌漑に利用されています。東坂元秋常遺跡の調査では、古代期の水路に改修工事の手が入っていることが報告されています。中世になっても、東坂元秋常遺跡の勢力が、上井用水の維持・管理を担っていたことが分かります。しかし、それは単独で行われていたのではなく、下流の川津一ノ又遺跡の集団とともに、共同で行っていたことがうかがえます。つまり、各遺跡の建物群を拠点とする集団は、互いに無関係だったのではなく、治水灌漑のために関係を結んで、共同で「地域開発」を行っていたと研究者は考えています。それが各集落が郷社に集まり、有力者が宮座を形成して、祭礼をおこなうという形にも表れます。滝宮念仏おとりに、踊り込んでいた坂本念仏踊りも、そのような集落(郷村)連合で編成されたことは以前にお話ししました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会
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丸亀平野や髙松平野の高速道路やバイパスの事前発掘調査では、「溝」が数多く出ていることを前回は見ました。「溝」からは、条里制が7世紀末~8世紀初頭に工事が行われたことが分かってきました。今回は、条里制に先立つ弥生時代の「大溝」を見てみることにします。テキストは、「信里 芳紀 大溝の検討 ―弥生時代の灌漑水路の位置付け―埋蔵文化財調査センターⅣ 2008年」です。

弥生時代 林・坊遺跡 灌漑水路
弥生時代前期初頭の灌漑水路網   高松市の林・坊城遺跡の場合

高松市の林・坊城遺跡では、弥生時代前期初頭(板付Ⅰ式併行期)の灌漑水路網が発掘されています。
南西部を流れる幹線的水路の10・11号溝に堰が作られ、小規模な分水路の25号溝が北西の水田エリアに伸びていきます。10・11号溝は、幅約1,5m前後、深さ約0,3~0,5mで、分水点には自然礫を積んで簡易な堰が作られています。取水源は、遺跡南方の旧河道と見られますがよく分かりません。これが、この遺跡でもっとも古い灌漑水路網になるようです。10・11号溝は、水田稲作の開始期のもので、小規模で改修痕跡もなく、短期間で破棄されています。何かの理由で、耕地が放棄され別の地点に移動しようです。ここからは、初期の稲作は水田も不安定で、「定住」というよりも移動を繰り返していたことがうかがえます。

弥生時代 多肥遺跡 灌漑水路
弥生時代中期の灌漑水路網(図2)   高松市の多肥遺跡群

多肥遺跡群(高松市)では、弥生時代中期中葉までに掘られた基幹的な灌漑用水路が出てきています。
そのひとつが日暮松林遺跡(済世会地区)SDl等です。用水路は幅約4,2m・深さ約1mで、上流側の多肥宮尻遺跡SR02では、埋没旧河道の凹地に開削されています。微高地に導水され、日暮松林遺跡では微高地上面を通過して行く大掛かりなものです。その途中に、支線と見られる複数の小溝が分岐しています。加えて、南西方向から延びる別の灌漑水路(日暮松林フィットネスクラブ建設地区SD01ほか)と合流し、広範囲な灌漑水路網を形成します。
 また、開かれた後も浚渫などの維持管理による改修痕跡が確認できるようです。時期的には、弥生時代中期中葉までに開削された後、古墳時代後期まで機能していたと研究者は考えています。
 水田があった所は、溝の流下方向から見て微髙地上面だったと推測できます。調査で確認された総延長は約500mですが、取水源は更にその南側にあり、実際の灌漑水路の延長距離は約2kmはあったと研究者は考えています。以上から次のようなことが分かります。
①2㎞上流から灌漑用水による導水で微髙地も水田化が行われていたこと、
②定期的な管理が行われ長期間によって使用されていること
③この時代には稲作農耕が安定化したこと
これは弥生時代早期の用水路が短期間で廃棄されていたのとは対照的です。
弥生時代 川津遺跡灌漑用水路
川津遺跡群の灌漑水路網(弥生時代後期)


弥生時代後期の灌漑水路網(上図) の例としては、坂出市の川津遺跡が挙げられます
 川津二代取遺跡、川津下樋遺跡からは復数の水路網が見つかっています。SD001は①旧河道(SR 101)が取水地で、微髙地にある川津中塚遺跡や下川津遺跡の中を貫通していきます。その間に、SR 1 03、SD57、SD30などの溝と合流し、複数の小溝で分水しながら下川津遺跡の第4微高地西側へ導水されています。最終的には。第3低地帯と呼ばれる凹地上にあった水田へつながっていたようで、総延長は約500mになります。
 途中に支線的な水路と見られる小溝が分岐しているので、下川津遺跡の第3低地帯の水田だけに用水を供給していたのではなく、微高地上面やその縁辺部にあった水田にも灌漑していたようです。遺物の出上状況からは、この用水路が弥生時代後期後半から古墳時代後期に埋没するまでの長期間に渡って機能していたことが分かります。
以上から次のようなことが分かります。
①取水口から2㎞近く離れた水田まで、微髙地を越えて導水されていたこと、
②その間にも小溝を分岐して、用水沿いの水田に供給したこと
③弥生時代中期には、灌漑用水網が丸亀・髙松平野には姿を見せていたこと。
③前回見たように、このような灌漑用水網の技術は技術革新がないまま条里制施行(7世紀末)まで使用されていること
⑤さらに大きな溝(用水路)が掘られる技術革新が行われたのは平安末期であること

ここで問題になるのが取水源です。
多肥遺跡群や川津遺跡群は、灌漑水路は沖積低地上を流れる旧河道を取水源としていたようです。取水限となる旧河道は、そこに作られる井堰の構造等などから川幅数mから20m、深さ1~2m程度の中規模の川が、弥生時代の一般的な取水源とされてきました。しかし、近年の発掘調査からは、より規模の大きい河川からの取水が行われていた可能性がでてきたようです。それを見ておきましょう。

弥生時代 末則遺跡
末則遺跡(綾川町)
末則遺跡は、農業試験場の移転工事にともない発掘調査が行われました。鞍掛山から伸びて来た尾根の上には、末則古墳群が並んでいます。この付近には、快天塚古墳のある羽床から綾川上流部に沿って、丘陵部には特色のある古墳群がいくつか点在しています。この丘にある末則古墳の被葬主も、この下に広がる低地の開発主であったのだろうと私は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図
現在の末則の用水路網
 末則古墳群の丘は「神水鼻」と呼ばれる丘陵が北から南へ張り出しています。
そのため南にある丘陵との間が狭くなっていて、古代から綾川の流路変動が少ない「不動点」だったようです。これは河川の水を下流に取り入れる堰や出水を築くには絶好の位置になります。綾川の「神水」地区の対岸(綾川町羽床上字田中浦)に「羽床上大井手」(大井手)と呼ばれる堰があります。これが下流の羽床上、羽床下、小野の3地区の水源となっています。宝永年間(1704~1710年)に土器川の水を引くようになるまで、東大束川流域は、渡池(享保5(1720)年廃池、干拓)を水源としていました。大井手は、綾川から取水するための施設です。
その支流である岩端川(旧綾川)にも出水が2つあります。
その1つが「水神さん」と呼ばれている水神と刻まれた石碑が立つ羽床下出水です。
この出水は、直線に掘削した出水で、未則用水の取水点になります。末則用水は、岩端川から直接段丘面上の条里型地割へ導水していることから条里成立期の開発だと研究者は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図

上図は、弥生時代の溝SD04と現在の末則用水や北村用水との関係を示したものです。
流路の方向や位置関係から溝SD04は、現在の末則用水の前身に当たる用水路と研究者は考えています。つまり、段丘Ⅰ面の最も標高の高い丘陵裾部に沿って溝を掘って、西側へ潅水する基幹的潅概用水路だったというのです。そうするとSD04は、綾川からの取水用水であったことになり、弥生時代後期の段階で、河川潅概が行われていたことになります。そこで問題になるのが取水源です。
   現在の取水源となっている羽床下出水は、近世に人為的に掘られたものです。考えられるのは綾川からの取水になります。しかし、深さ1mを越えるような河川からの取水は中世になってからというのが一般的な見解です。弥生時代にまで遡る時期とは考えにくいようです。
これに対して、発掘担当者は次のような説を出しています
弥生時代 綾川の簡易堰
写真10は現在、綾川に設けられている井堰です。
これを見ると、河原にころがる川石を50cmほど積み上げて、その間に野草を詰めた簡単なものです。大雨が降って大水が流れると、ひとたまりもなく流されるでしょう。しかし、修復は簡単にできます。弥生時代後期の堰も、毎年春の潅漑期なるとこのようなものを造っていたのではないか、大雨で流されれば積み直していたのではないかと研究者は推測します。こうした簡単な堰で、中流河川からの導水が弥生時代後半にはおこなわれていたこと、それが古墳時代や律令時代にも引き継がれていたという説です。この丘に眠る古墳の被葬者も、堰を積み直し、用水を維持管理していたリーダーだったのかもしれません。同時に馬の生産も行っていたことが考えられます。

中規模河川からの取水に加えて、補助的な水源を活用する事例も見られます。

弥生時代 空港跡地1
空港跡地遺跡群の灌漑用水網 その1

扇状地に立地する空港跡地遺跡群では、弥生時代中期から灌漑水路網が現れます。その中で基幹的灌漑水路と見られるのは、次のふたつです。
①基幹的灌漑水路A 上林遺跡から空港跡地遺跡I地区へ流れ下すSRi01・SRi02
②基幹的灌漑水路B 空港跡地遺跡D地区からE地区へ流下するSDd00・SDe115、SDe138。
微高地にある住居群が散在するH地区からG地区、A地区からG地区へ抜けるSDh016、SDg86、SDg42、SDg17などは、基幹的滞漑水路Aから分岐する支線的な灌漑水路群と考えられます。更に支線的な灌漑水路のSDh016、SDg03には、井戸状に掘開された大型土坑に、通水のための小溝を付設した「出水」と呼ばれる補助的な灌漑施設が複数設けられています。 SDh016、SDg03が流下する地点は微高地上で、水が流れにくい所なので、灌漑水路に補助的な水源を複数組み合わせていると研究者は考えています。

  ここから研究者の見解が私にとっては興味深いものでした。
 これまで灌漑システムの発展については、遺跡立地の変化や遺跡数の増加を材料として、農業生産の拡大や人口増加が起こるという説明がされてきました。これが「治水灌漑を制するものが、天下を制する」説になっていきます。
弥生時代 遺跡数

例えば上のグラフからは、弥生時代後期V頃に遺跡総数が激増していることが見えます。従来は、灌漑整備による生産力増大が社会的発展をもたらし、次の古墳の出現を生み出す原動力となるという説明がされていました。社会経済史を基礎に、社会発展を説く説明です。
 しかし、実線で示された住居数は見ると、あまり増えていません。つまり人口は、それほどの増加はなかったことになります。ここから遺跡総数の増加は、人口の増加をもたらしたものではなく、当時の灌漑水路網の再整備や拡充を反映しているだけであると研究者は捉えます。国家形成の「原材料」は「治水灌漑」だけでは捉えられないというのです。
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灌漑農業と国家権力の発生について、最近の研究史を見ておきましょう。
 ヴィットフォーグルは、灌漑作業の協業化によって、「労働力の組織化」を行うリーダが現れ、社会の階層化が起こり、これが国家形成要因のひとつとなるとしました。ここからは灌漑農業の発展は、統一的な政治権力の形成など社会の階層化につながるとされ、古代の国家形成を捉えるひとつの視点を示しました。分かりやすい説明で取っつきやすいのですが「単線的なモデル」で、融通性がなく地域差の多い日本の古代を説明するには無理があるとされ、現在では否定的な意見が多いようです。
 これに対して近藤義郎氏は、灌漑農業の発展に伴う余剰生産物の発生を通じて、単位集団と生産集団との階級間の衝突が調停者としての首長の出現を求めます。そこから社会の階層化を説明します。
 都出比呂志氏は、耕地開発や水利灌漑に伴う協業の基礎的単位である世帯共同体と、水系単位でそれが結合した農業共同体を想定します。その領域と前期古墳首長墓の分布が重複することから、首長権力の発生の基盤を農業共同体に求めました。
 広瀬和雄氏は、耕地開発や水利権の調整などを素材として、灌漑水田そのものが首長を生み出す構造を持っていたとします。そして、水田稲作を開始した弥生時代の初期の段階から社会の階層化が始まったと考えます。また、首長の統率する領域を、都出氏の農業共同体よりも小規模エリアとします。こうした首長は、自給できない貴重物資の入手や耕地開発を通じて、他の首長とネットワークを形成していくとします。この首長間のネットワークは、弥生後期から古墳前期により「高度化」していきますが、その関係は近畿を中心にして最初から階層的であったことと指摘します。
 大久保徹也氏は、灌漑水路と微地形との関係から、灌漑による協業によって結ばれる共同体のエリアを広瀬と同じく小規模なものとします。そして弥生時代に見られる様々な物資流通に注目し、共同体間の結び付きについて灌漑作業以外に必需物資の生産と流通を重視します。
 押さえておきたいのは、現在の研究者たちは「治水灌漑=国家権力発生」と単純に考えていないことです。国家権力の形成には、それ以外にも、「首長間のネットワーク + 必需物資の流通確保 + α」などの要素も加味する必要がある考えていることです。それでは、弥生時代の灌漑水路網にもう一度帰って、その整備の意味を研究者はどう考えているのかを見ておきましょう。

本当に灌漑水路網は、弥生時代後期になって急激に整備されたのでしょうか。
 弥生時代後期には、基幹的灌漑水路を中心に多くの灌漑水路が開削されたことが発掘調査からは分かっています。しかし、弥生時代後期の基幹的灌漑水路の多くは、新たな地点に開削されるのでなく、埋没などの老朽化が進んだ灌漑水路に近接して見られることが多いようです。つまり、灌漑網の基本的なプランは、弥生時代前期に完成され、弥生時代後期になって基幹的灌漑水路を再整備することや、支線となる小規模な水路が多く作ることで、灌漑域の拡大が行われたと研究者は考えています。
.基幹的灌漑水路と他の生産部門との関係

弥生時代 灌漑用水網と流通関係図

基礎的灌漑水路の多くは、初期遠賀川式上器出現後の弥生時代前期後半期から開削され始めます。
Koji on Twitter:  "石斧をつくる。凝灰岩製一部磨製石斧、伐木用(上)。凝灰岩製打製石斧、戦闘用(中)。黒曜石製一部磨製石斧、試験用(下)。  https://t.co/PdYzYxlitE https://t.co/xVjwgjVA3B https://t.co/3B821Pff5I" /  Twitter

この時期は、鋤・鍬などの木製農具が増加するとともに、片岩製の両刃石斧・片刃石斧・石庖、サヌカイト製打製石包丁の流通が始まります。木製農具は、灌漑水路の開削や水田稲作に不可欠な道具で、両刃石斧・片刃石斧は、木製農具の加工に使用されたようです。また、伐採用の両刃石斧は、水田を開くための伐採など耕地開発にはなくてはなりません。
石斧プロジェクト:沖縄生物俱楽部/旧棟

 多肥松林遺跡群を初めとして基幹的灌漑水路が開削される弥生時代中期中葉には、丘陵やそれに隣接する遺跡群から磨製石斧を多く保有する集落が出てきます。このような集落では、弥生時代前期後半期の環濠集落を中心に、立地を活かして木製品生産に傾斜した生業が行われたと研究者は考えています。
 弥生時代後期は、基幹的濯漑水路や支線的な灌漑水路が多く掘られて、灌漑水路網の再整備と灌漑エリアの拡大が行われた時期です。
この時期は、土器・鉄器・製塩などの物資流通に変化があったと研究者は考えています。
 例えば土器生産では、灌漑水路網で結ばれる2~3㎞程度のエリアで流通する香東川下流域産と呼ばれる特徴的な土器器群が現れます。この香東川下流域産土器は、高松平野の北東部の集落で専門的に生産されたものです。一方、近接する空港跡地遺跡群では、「白色系土器群」と呼ばれる土器群が周辺の集落で流通しています。ここからは、それぞれの土器を生産する拠点を中心に、生産・流通活動が活発化していることうかがえます。
川津遺跡群(坂出市)などの特定の遺跡群で、鍛冶遺構が出てきます。これは川津遺跡群を中心とした大束川流域単位での鉄の生産・流通が開始されたことを示します。製塩では、高松平野の東部丘陵の遺跡群を中心に、生産体制が整備されます。
 一方で木器生産では、後期初頭を境にして木製品が急激に減少します。これは、鉄に取って代わられたのではなく、周辺の丘陵や山間部で集中的な生産が行われ、地域分業が始まったことを示すと研究者は考えています。
 このように弥生時代後期になると、複数の生産部門で特定の集落群を中心に分掌関係が成立したことがうかがえます。それに合わせる形で、灌漑水路網の整備・拡張が行われています。両者は、無関係ではないようです。灌漑水路網の整備・拡充と、農業生産を支える必需物資はリンクして拡大再生産されます。
以上をまとめておくと
①弥生時代後期の大溝を中心にした灌漑システムは、古墳時代後期まで維持される。
②その間に古墳築造が開始される。
③それは単に灌漑システムの発展だけでなく、さまざまな必需物資の生産と流通を分掌化(分業化?)が行われた上での古墳の出現だった

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参考文献
「信里 芳紀 大溝の検討 ―弥生時代の灌漑水路の位置付け―埋蔵文化財調査センターⅣ 2008年」
 「西末則遺跡  農業試験場移転に伴う埋蔵文化財調査報告 2002年」

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