瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:下津井

金毘羅船 航海図C4

前回に金毘羅船の航路が19世紀前半に、①→②→③のように変更されていることを見ました。
①初期は、室津から小豆島を東に見て高松沖から四国の海岸沿いに丸亀へ
②19世紀半ばからは、室津から牛窓沖を通過し、それから備讃瀬戸を縦断するコール
③室津から下津井半島の日比・田の口・下村を経由して丸亀へ
このコース変更の背景として考えられる事を挙げてみると
①下津井半島の五流修験が広めた「金比羅・喩伽山の両詣り」で喩伽山参りの人々の増加
②19世紀前半からの金毘羅船の大型化
などですが、その他にも原因があることを指摘する文章に出会いました。今回はそれを見ていきます。テキストは「羽床正明 金昆羅大権現に関する三つの疑問  ことひら68 H25年」です
金毘羅船 苫船
金毘羅参詣続膝栗毛 道頓堀で金毘羅船に乗りこむ弥次喜多

十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』(1810年刊)には、弥次喜多コンビが夜半に道頓堀から乗った金毘羅船は、早朝に木津川河口に下ってきて、早朝に順風を得て出港します。室津で一夜を過ごし、その後は順風に恵まれて三日半で丸亀港に着いています。しかし、こんなにスムーズに行くのは珍しい方だったようです。

三谷敏雄「飯田佐兵衛の金毘羅参詣記」(『ことひら』四十一号、昭和61年)には嘉永三年(1850)の正月に武蔵国文蔵村の飯田佐兵衛が仲間11人と金比羅参りをしたときの記録が報告されています。当時は金比羅参りだけでなく、いろいろな聖地を一緒に巡礼するのが常でした。彼らの巡礼地を見てみると、東海道を下って伊勢神宮に参詣し、更に大阪・四国にも足を伸ばし、帰りには京都見物を行って中山道を通って帰村しています。この二ヶ月半を『伊勢参詣日記帳』という道中記にまとめています。この道中記には、金毘羅船について次のように記されています。
 佐兵衛一行は大阪から高砂に行き「つりや伊七郎」方で「同所より二日夜丸亀迄船を頼む、上下(往復料金)壱貫弐百文にて頼む、百八文ふとん一枚」を支払って金毘羅船に乗船しようとします。ところが「三、四日、殊の外逆風」で船が出せません。そこで船賃の払い戻しを要求するのですが、返金されたのは「四百八拾文舟銭。剰返請取。」と支払額の40%程度でした。全額返金に応じないことに憤慨して「金ひら参詣ニハ 決而舟二のるべからず」と、金比羅参拝には、決して船を利用するなと書いています。その後、彼らは岡山県まで歩いて行って、下津井から船に乗って対岸の四国に渡っています。
IMG_8095下村浦
下村湊

    西国巡礼者が金比羅詣コースとして利用した高砂~丸亀の記録には、次のように記されています。
「三月一日船中泊り、翌二日こき行中候得者、昼ハッ時分より風強く波高く船中不残船によひ、いやはや難渋仕申候、漸四ッ時風静二罷成候而漸人心地二罷成よみかへりたる計也」

「此時風浪悪しくして廿一日七ッ時二船二乗、廿四日七ッ時二丸亀の岸二上りて、三夜三日之内船中二おり一同甚夕難渋仕」

意訳変換しておくと
「三月一日に船中に泊り、翌日二日に漕ぎだしたが、昼ハッ時分に、風が強く吹きだし、波も高くなり、乗客はみんな船酔いに苦しめられ、難渋した。ようやく四ッ時に風が静まり、人々は人心地をついた次第である」

「風浪が強くなる中を、21日七ッ時に乗船し、24日七ッ時に丸亀に到着するまで、三夜三日の内船中に閉じ込められ、乗客達は大変難渋した。

 同じ頃に金毘羅大権現に参詣した江戸羽田のろうそく商、井筒屋卯兵衛の手記にも、良く似たことが書かれています。
卯兵衛は「金毘羅出船会所大和や(大和屋)弥三郎、丸亀迄詣用付舟賃九匁ふとん壱枚百六十四文払」と、前回に紹介した道頓堀川岸の大和屋弥三郎方で金昆羅船を頼み、「是より舟一り半程下りて富島町と申す所へ船をつなぐ」が、「六日朝南風にて出帆できず」と船を出すことが出来ず、「是より舟を上り、大和屋船賃を取り返しに行く」と船賃の一部を払い戻して貰い、陸路を岡山県まで歩いています。
 そして、次のようなコースで丸亀に向かいます
二月四日に牛窓村の「ちうちん屋」に泊り、
五日には喩伽大権現に参詣して、下津半島・下村の「油屋藤右衛門」方で百四文を払って乗船し、
六日の四ツ半頃に丸亀港に着き、船宿「あみや為次郎」方で弁当を整え、丸亀街道を歩いて金毘羅大権現に行き参詣した。再び丸亀「あみや」に戻って
六日昼より七日昼までの間逗留し、九ツ時に「あみや」を出立して船に乗り、七ツ頃に対岸の田の口港に着いています。
金毘羅船 航海図C10
上方から丸亀までの船旅は、風任せで順風でないと船は出ません。
中世の瀬戸内海では、北西の季節風が強くなる冬は、交易船はオフシーズンで運行を中止していました。近世の金毘羅船も大坂から丸亀に向かうのには逆風がつよくなり、船が出せないことが多かったようです。

IMG_8110丸亀・象頭山遠望
下津井半島からの讃岐の山々と塩飽の島々

 金毘羅船が欠航すると、旅人は山陽道を歩いて備中までき、児島半島で丸亀行きの渡し船に乗っています。児島半島の田の口、下村、田の浦、下津丼の四港からは、丸亀に渡る渡し船が出ていました。上方からの金毘羅船が欠航したり、船酔いがあったりするなら、それを避けて備中までは山陽道を徒歩で進み、海上最短距離の下津井半島と丸亀間だけを渡船を利用するという人々が次第に増えたのではないかと研究者は指摘します。

IMG_8108象頭山遠望
下津井半島からの象頭山遠望

 下津井からの丸亀間は、西北の風は追い風となります。上方からの船が欠航になっても、下津井からの船は丸亀湊に入港できたようです。
金毘羅船 田の口・下村

 児島半島には喩伽山大権現(蓮台寺)があつて、金毘羅大権現と喩伽山を「両参り」すると効験は倍増すると五流の修験者たちは宣伝します。喩伽大権現に近い田の口港は、両参りする人々で賑わうようになります。
IMG_8098由加山
喩伽山大権現(蓮台寺)

これに対抗して下村の船宿「油屋藤右衛門」方では「毎日出船」と天気に左右されない通常運行を売り物にして客を獲得しようとします。下津井半島には、日々、田の口、下村、下津井と4つの湊が金比羅船をだして、互いにサービス競争を行っていました。上方からの運賃に比べると1/5程度でリーズナブルでした。また、小形の金毘羅船にはトイレがありませんでした。弥次喜多は、苫の外から海に向かって用を足しています。女性参拝客が増えるに随って、最短で海を渡ろうとする人たちも増えたのかも知れません。

IMG_8105下津井より広島方面」
下津井半島からの四国方面遠望
 こうして江戸時代末期には、欠航や船酔いを避けて上方からではなく、海上最短距離になる下津井からの渡船に活躍の舞台が開けてきたようです。大阪と丸亀を結ぶ金毘羅船が「毎日出船」を売り物にすることができるようになつたのは、明治になって蒸気船が出現して天候の影響をうけなくなってのことのようです。
平野屋佐吉・まつや卯兵衛ちらし」平野屋の札は「蒸気金毘羅出船所

   以上をまとめておくと
①上方からの金毘羅船は順風だと3泊4日で、丸亀港に着くことができた
②しかし、北西の季節風が強くなる冬は逆風となり、欠航が多くなった。
③出発前の欠航や途中での欠航でも料金が全額払い戻されることはなくトラブルの原因となった
④江戸時代末期になると参拝客は、金毘羅船の欠点を避けて、陸路で下津井半島まで行き、そこから海上最短距離で丸亀や多度津を目指す者が増えた。
⑤そこには、五流修験者の喩伽山信仰策もあった。
⑥この結果、下津井半島の田の口や下村、下津井は金比羅渡船のでる港町として栄えるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  金毘羅 町史ことひら

大坂の金毘羅船の船宿は、乗船記念として利用者に金比羅参拝の海上航路案内図や引き札を無料で渡したようです。航路案内図は、印刷されたものを購入し空白部に、自分の船宿の名前を入れ込んだものです。そのために、時代と共にいろいろな航路案内図が残されています。参拝者は、それを記念として大事に保管していたようです。それが集められて町史ことひら5絵図・写真編(71P)に載せられています。今回は金毘羅船の海上航路図を見ていくことにします。
金毘羅船 航路図C1

 左下に「安永三(1774)甲午正月吉日、浪花淡路町堺筋林萬助版」と板元と版行の年月があります。延享元年(1744)に、大阪の船宿が連名で金毘羅船を専門に仕立てたいということを願いでてから30年後のことになります。宝暦10(1760)年に、日本一社の綸旨を得て、参詣客も年とともに多くなってくる時期に当たります。
 表題は「讃岐金毘羅・安芸の宮島 参詣海上獨案内」です。
 ここからは、新興観光地の金毘羅の名前はまだまだ知られていなくて、安芸の宮島参拝の参拝客を呼び込むという戦略がうかがえます。
 構図的には左下が大坂で、そこから西(右)に向けてひょうご・あかし(明石)・むろ(室津)・うしまど(牛窓)と港町が並びます。金比羅舟は、この付近から備讃瀬戸を横切って丸亀に向かったようですが、航路は書き込まれていません。表題通り、この案内図のもうひとつ目的地は宮島です。そのため  とも(鞆)から、阿武兎観音を経ておのみち(尾道)・おんどのせと(音戸ノ瀬戸)を経て宮島までの行程と距離が記されています。ちょうど中央辺りに丸亀があり、右上にゴールの宮島が配されます。この絵図だけ見ると、丸亀が四国にあることも分からないし、象頭山金毘羅さんの位置もはっきりしません。また、瀬戸内海に浮かぶ島々は、淡路島も小豆島も描かれていません。描いた作者に地理的な情報がなかったことがうかがえます。
 重視されているのは上の段に書かれた各地の取次店名と土産物です。
大阪の取次店して讃岐出身の多田屋新右ヱ門ほか二名の名があり、丸亀の船宿としては、のだ(野田)や権八・佃や金十郎など四名があり、丸亀土産として、うどんがあるのに興味がひかれます。金毘羅では、飴と苗田村の三八餅が名物として挙げられています。印象としては、絵地図よりも文字の方に重点を置いた初期の「案内図」で、地理的にも不正確さが目立ちます。ここでは、まだ宮島参拝のついでの金毘羅参りという位置づけのようです。

金毘羅船 航海図C3
1枚目 丸亀まで
 二枚続きの図で、画師は丸亀の原田玉枝です。玉枝は天保15五年(1844)に53歳で亡くなっています。この図の彫師は丸亀城下の松屋町成慶堂です。この図も1枚目は下津井・丸亀までで、2枚目が鞆から宮島・岩国までの案内図になっています。

金毘羅船 航海図宮島
2枚目 鞆から宮島まで

 東国・上方からの参詣者が金毘羅から宮島へ足を伸ばす。あるいは、この時期にはまだ宮島参拝のついでに金毘羅さんにお参りするという人たちの方が多かったのかも知れません。淡路でも金毘羅と宮嶋は、一緒に参拝するのが風習だったようです。そんな需要に答えて、丸亀で宮嶋への案内図が出されても不思議ではないように思います。
   ここで注意しておきたいのは、大坂からの案内図は、最初は宮嶋と抱き合わせであったということです。大坂から金毘羅だけを目指した案内図が出るのは、少し時代が経ってからのことになります。

 構図的には、先ほど見たものと比べると文字情報はほとんどなくなって、ヴィジュアルになっています。位置的な配置に問題はありますが、淡路島や小豆島などの島々や、半島や入江も書き込まれています。山陽道の宿場街や、四国側の主要湊も書き込まれ、これが今後に出される案内図の原型になるようです。航路線は描かれていませんが。点々と描かれた船をつなぐと当時の航路は浮かび上がってきます。それはむろ(室津)から小豆島を左に見て備讃瀬戸を斜めに横切って丸亀をめざす航路のように見えます。この絵を原型にして、似たものが繰り返し出され、同時に少しずつ変化していくことになります。
金毘羅船 航海図C4
 C④「大坂ヨリ播磨名所讃州金毘羅迪道中絵圖」        

この絵の特徴は、3つあります
①標題は欄外上にあり、右からの横書きになっていること
②レイアウトがそれまでとは左右が逆になっていて、大坂が右下、岡山は左上、金毘羅が左下にあること。この図柄が、以後は受け継がれていきます。
③宮島への参拝ルートはなくなったこと。金比羅航路だけが単独で描かれています
 前回にお話しした十返舎一九の「金毘羅膝栗毛」の中で弥次喜多コンビは、夜に道頓堀を出発し、夜明け前に淀川河口の天保山に下ってきて風待ちします。そして早朝に追い風を帆に受けてシュラシュラと神戸・須磨沖を過ぎて、潮待ちしながら明石海峡を抜けて室津で女郎の誘いを受けながら一泊。そして、小豆島を通りすぎて、八栗・屋島を目印にしながら備讃瀬戸を横切り、讃岐富士を目指してやってきます。つまり19世紀初頭の弥次喜多の航路は、下津井には寄らずに、室津から小豆島の西側と通って丸亀へ直接にやってくるルートをとっています。
 しかし、この絵には室津と田の口が航路で結ばれ、下村や下津井と丸亀も航路図で結ばれています。五流修験の布教活動で、由加山信仰が高まりを見せたことがうかがえます。
   また、高松など東讃の情報は、きれいに省略されています。関係ルート周辺だけを描いています。絵図を見ていて、違和感があるのは島同士の位置関係が相変わらず不正確なことです。例えば小豆島の北に家島が描かれています。一度描かれると、以前のものを参考しにして刷り直されたようで、訂正を行う事はあまりなかったようです。
金毘羅船 航海図C7
この案内図には標題がありません。特徴点を挙げておくと
①右上に京都のあたご(愛宕山)が大きく描かれて、少し欄外に出て目立ちます。
②大坂は、住吉・さかい(堺)を注しています。
③相変わらず淡路島や小豆島など島の形も位置も変です。
④室津から丸亀への航路が変更されている。
以前は、小豆島の西側を通過して高松沖を西に進むコースが取られていました。しかし、ここでは牛窓沖を西へ更に向かい日比沖から南下して備讃瀬戸を横断する航路になっています。この背景には何があるか分かりません。
金毘羅船 航海図C10

  C⑩には右下に「作壽堂」とあり、「頭人行列圖」を発行している丸亀の板元のようです。この案内図で、研究者が注目するのは「むろ」(室津)からの航路です。牛窓沖を西に進み、そこから丸亀に南下する航路と、一旦田の口に立ち入る航路の2つが書き込まれています。そして、初期に取られた室津から小豆島の西側を南下し、高松沖を西行するコースは、ここでも消えています。考えられるのは、喩迦山の「二箇所参り」CM成果で、由加山参りに田の口や日々に入港する金毘羅船が増えたことです。田の口に上陸して喩迦山に御参りした後に、金毘羅を目指すという新しい参拝ルートが定着したのかもしれません。

金毘羅船 航海図C13
C13
 よく似た図柄が多いのは、船宿が印刷所から案内図を買い求めて、自分の名前を刷り込んだためと研究者は考えているようです。C13には大阪の船宿・大和屋の署名の所にかなり長い口上書が添えられています。欄外右下には「此圖船宿よリモライ」と墨の落書きがあったようです。ここからも乗船客が、船宿からこのような絵図をもらって大切に保管していたことがうかがえます。


以上の金毘羅船の航路案内図の変遷をまとめっておきます
①大阪の船宿は利用客に航路案内図を刷って配布するサービスを行っていた。
②最初は宮島参拝と併せた絵柄であったが、金比羅の知名度の高まりととに宮島への航路は描かれなくなっていく
③18世紀後半の航路は、室津から小豆島を東に見て高松沖を経て丸亀至るにコースがとられた。
④19世紀前半になると、日比や田の口湊を経由して、丸亀港に入港するコースに変更された。

③から④へのコース変更については、由加山信仰の高まりが背景にあるとされますが、それだけなのでしょうか。次回はその点について見ていこうと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました

参考文献 町史ことひら5絵図・写真編(71P)

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