瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:下津井鉄道社長白川友一


下津井鉄道5

下津井鉄道の設立については、白川友一が深く関わっていたので以前に触れたことがあります。今回、その成立過程について書かれた論文に出会いましたので紹介したいと思います。テキストは青木栄一「下津井鉄道の成立とその性格」 地方紙研究97号 1969年です。
 瀬戸大橋の岡山県側のスタートは、鷲羽山のを掘り抜いたトンネルです。トンネルを抜けると青い瀬戸内海が広がり、瀬戸大橋が四国へと空と海の間を続いていきます。その西側に下津井港が見えます。この港のかつての繁栄ぶりをしのぶものは数少なくなってしまいました。しかし、この港は北前船の寄港地として、金比羅船の発着港として近世には大いに栄えていました。
 そして、港には財を成す商人たちが数多くいました。その子孫たちが明治末に、下津井から児島を経て、茶町までの鉄道を引きます。その建設過程を見ていきたいと思います。
下津井鉄道以前に、児島鉄道が設立されたが・・・
 実は下津井鉄道が設立される以前に、児島までの鉄道計画があったようです。その動きをまず見ておきましょう。
 山陽鉄道が兵庫県との境の船坂峠越えて岡山県内に伸びてくるのは日清戦争前の1891年です。西進する山陽線を待ち受けるかのように1893年11月、「児島鉄道」という私設鉄道が山陽鉄道倉敷駅から児島湾の味野までの仮免許申請を出しています。これが児島半島に鉄道路線を伸ばそうとする最初の試みだったようです。
この児島鉄道について「日本鉄道史」は次のように記します。 
 児島[南北]鉄道ハ、明治二十六年二月岡山県児島郡野崎定次郎外十一名ノ発起二係り、資本金十七万円ヲ以テ倉敷ヨリ、味野二至ル十二哩余ノ距離二軌図二幄六吋ノ軽便鉄道ヲ敷設セントスルモノナリシカ、陸軍省ノ意見ハ定規ノ軌間ナラザレバ免許スヘカラズト消フニ在リシカハ、普通鉄道ノ計画二改メ、資本金ヲニ十八万円二増加シ、同年十一月仮免状ヲ受ケ会社ノ位置ヲ倉敷町二定メ、大橋平右衛門外二名ヲ取締役トシ、片山精吾外二名ヲ監査役トシ互選ヲ以テ大橋平右衛門ヲ社長トシ、ニ十九年三月六日免許状ヲ受ケタリ、
 同年五月大橋平右衛門辞シ、取締役佐藤栄八之二代り、三十年四月取締役藤本清兵衛又之二代り、十月取締役鳩山和夫又之二代リテ社長卜為ル、是ヨリ先二十九年四月中備鉄道発起人ハ倉敷ヨリ高梁二至ルニ十一哩ノ仮免状ヲ受ケクリ、該線ハ吉備鉄道トノ競願二係ルモノテビア初児島鉄道発起人二於テ延長ノ意アリシモ、当時児島鉄道ハ末夕免許状ヲ得ザリシカバ別二中備鉄道ヲ発起シ、吉備鉄道二対抗シ仮免状ヲ受クルニ至レリ、而シテ児島鉄道ハ中備鉄道卜合併ヲ約シ三十年五月資本金ヲ四十五万円トシ、倉敷高梁間延長敷設ヲ願出テ中備鉄道ハ合併二異議ナキ旨ヲ副申シタリ、同年十一月児島鉄道ハ仮免状ヲ受ケ三十一年六月社名ヲ南北鉄道卜改称シ、十二月十九日免許状ヲ受ケタリ、是年九月社長鳩山和夫取締役ヲ辞シ十一月取締役堀田連太郎之二代り社長卜為り、三十二年堀田連太郎亦辞シ取締役渾大防益三郎之二代レリ、而シテ会社ハ二十年度二於テ資本金ヲ増加シタルモ、
 当時財界不振ノ為旧株七万円ノ払込ヲ為シタル外残余ノ払込困難卜為り、新株募集ノ成績亦不良ニシ、建設資金ヲ挙クルコト能ハズ、斯クシテ三十三年二至り工事竣工期限ハ己二切迫セントシ、前途ノ希望確実ナラザルニ由り、寧口事業ヲ廃止スルニ若カズトシ、株主総会の決議ヲ以テ三十三年九月二十六日会社ハ解散ヲ遂ケタリ▽
 ここからは次のような事が分かります
①日清戦争直前に、西進する山陽鉄道を迎えるかのように多くの地方鉄道が作られた
② 児島でも塩田・繊維業など地元の有力者が倉敷からの鉄道建設を計画した。
③しかし、予定した軌道は狭すぎて免許が下りず、資本金の大幅増額を迫られた
④その後も、社内役員交代が続き経営の一貫性がなく経済不況のため資金が集まらず設立後7年目に解散
ということになっています。
  ここに登場する人物の中で、野崎定次郎と渾大防益三郎はともに児島郡の出身です。野崎定次郎は味野の塩田王と呼ばれた野崎家の分家で味野町長をつとめ、味野紡績所の創設に参画しています。渾大防益三郎は、下村の出身で下村紡績所、児島蚕業会社、児島養貝会社の創立など、繊維業を中心に幅広い活動を行なっています。地元の経済界の有力者により鉄道計画が進められたようですが、不景気と資金力不足で挫折したようです。
下津井鉄道1

 明治42年以前の山陽地方の鉄道申請は第一表の通りです。
岡山・広島、山口の三県内では私設鉄道として全部で12件、10社の仮免許が出されています。しかし、このうち開業までこぎつけたのは岡山・津山間を結んだ中国鉄道だけです。当時の私設鉄道条令(後の私設鉄道法)にパスする鉄道建設のためには
「沿線地域社会の資本調達力が小さすぎたため」

と研究者は考えているようです。児島鉄道も例外ではなかったようです。鉄道建設ブームに乗って、免許申請は行ったけれども資金不足で開業には至らなかったという地方鉄道が多かったようです。

  児島鉄道が頓挫して10年後の明治末の1910年に「軽便鉄道法」が施行されます。
この法律は、小規模な鉄道建設を奨励するために出された法律で、企業の形態、軌間寸法、勾配、曲線の制限、諸施設や車両設備に関する規定が今までよりも大幅に緩められます。今で云う「規制緩和」による民間鉄道建設の奨励策でした。翌年1911年には、国会議員になったばかりの白川友一の活躍などで「軽便鉄道補助法」も成立し、政府よる補助金支給も受けられるようになります。このような政府の支援策を受けて、各地で再度鉄道建設ブームが起きます。
下津井鉄道が建設免許を得たのも1910年のことです。
これには「規制緩和」や「補助金支給」が得られるようになったこともありますが、下津井鉄道の建設の「刺激剤」となったものがあります。それが岡山・宇野線の開業です。この開業は、下津井にとっては大きな脅威となりました。それまでの四国側の海の玄関は、金毘羅参り船の出入りする丸亀や多度津でした。そして、岡山側の拠点は下津井港が大きな役割を果たし、多くの人の参拝客の寄港地として栄えてきたのです。しかし、宇野線の開通と高松航路は、それまでの人の流れを大きく変えることになります。下津井の有力者に、危機意識が生まれます。この緊張感を背景に、下津井鉄道は計画されたと研究者は考えているようです。
ライバル・ルート宇野線の開業に至る経過を見ておきましょう。
1901年3月鉄道敷設法の敷設予定線となり
1904年1月 山陽鉄道が岡山・宇野間の仮免許状獲得
1906年11月山陽鉄道が岡山・宇野区間の本免許状獲得
1907年山陽鉄道が国有化され、政府の手によって着工
1910年6月 国有の宇野線が開業

 山陽鉄道は岡山港からの四国連絡をスムーズにするために、系列下の山陽汽船による高松航路の運行を1903年3月から始めます。そして山陽鉄道の国有化と同時に連絡線も国有となり、運行ルートも岡山・高松から宇野・高松間に変更します。新しい四国連絡港として寒村にすぎなかった宇野が選ばれたのは、岡山からの線路勾配が最も緩やかな路線を選定だからとされています。(最急標準勾配10パーミル)。
 岡山・宇野線の鉄道開業と宇野・高松航路の開設は、それまでの四国連絡港としての下津井港の地位を失うことになります。
   下津井鉄道の成立とその建設意図は?
 宇野線が開通した1910年11月に、下津井鉄道は軽便鉄道法により、
「岡山県児島郡下津井町大字下津井字西ノ脇ヲ起点トシ、同郡赤崎村、味野町、小田村、郷内村、藤戸村、興除村ヲ経テ、同県都窪郡茶屋町大字帯江新田字蟹取川内二至ル間」

の12マイル(21㎞)の免許を受けます。国有鉄道の宇野線の茶町駅から分岐して、児島を通り、鷲羽山を抜けて下津井港までのコースになります。
 免許申請者は下津井町の中西七太郎、荻野東一郎、赤崎村の山本五三郎の3名で、発起人として連署した者は、166名にものぼります。免許申請書は、予定路線の経路のみを示した簡単なもののようです。免許申請書を受付けて、これを鉄道院に送った岡山県知事谷口留五郎は内閣総理大臣桂太郎あての1910年10月11日付副申書で、次のように記します。
本線敷設ノ暁二於テハ本県ノ南部及四国トノ聯絡運輸交通ノ便不紗有益ナル事業卜相認メ候条 至急御認可相成様致シ度意見二候間
と四国連絡の意義を強調していますが、作文的な文章で実質的内容は何も記されていません。
下津井鉄道2

 免許申請書に署名した発起人の地域別内訳を見ておきましょう
①一番多いのが対岸の丸亀市48名であること
②下津井と丸亀を併せると全体の半分になること。
③「児島鉄道」の際に中心となった味野(児島)が少ない
下津井と丸亀からの出資者が多いようです。


岡山の鉄道会社に丸亀の人たちが、なぜ出資しているのでしょうか。
「下津井鉄道の建設意図が単に児島半島内の交通改善のみを目的としたものではない。近世以来繁栄してきた下津井・丸亀間の連絡航路を鉄道建設によって維持しようとする意図」

があったと研究者は考えているようです。
 当時の地方鉄道の免許申請書には、発起人は関係市町村の市町村長、議員など公職にある人物の名前を並べたものが多いようです。 そのため発起人の分布と、実際に出資した株主や重役の分布とは一致しないのです。下津井鉄道の場合も同じような傾向がみられるようです。つまり「建設には総論賛成、しかし金は出さない」という人たちが多かったということです。
 下津井鉄道の場合も、申請人となった三名は、中西が下津井町長、荻野が同助役、山本が岡山県会議員というメンバーです。会社発足後に株主として名はありますが、経営者としての中心人物とはなっていません。
発起人は、下津井鉄道の経営をどのように考えていたのでしょうか
免許申請書に添付された「下津井軽便鉄道収支目論見表」を見てみましょう。
下津井鉄道3

これによると年間の旅客収入49640円・貨物収入18750円が見込まれています。その根拠はまったく分かりませんが、この表からは旅客収入中心の鉄道経営を考えていたことがわかります。
 下津井鉄道の二代目社長・永山久吉はその回顧録「下電と私」の中で初代社長白川友一の十三回忌(1953年3月)の際に読みあげた追悼文を採録して、次のように記します。

旧幕時代より中国、四国の連絡は五挺立て押し切り渡航船によって、丸亀・下津井関の連絡が唯一のものでありました。交通機関の進歩に伴い、宇野線建設、宇野、高松間を鉄道省によって、連絡が出来ることになったので、丸亀、下津井の有志に衝撃を与え、両地の有志は互に手を握って、下津井・茶屋町間の軽便鉄道敷設を思い立ったのであります。私があなたに始めてお目にかかったのは、明治44年4月中旬でありました。

 ここからは、下津井鉄道建設の動機の一つとなったのが宇野線の開業にあったことが裏付けられます。高松・宇野ルートに、顧客を取られるという危機感がバネになっていたのです。

 下津井鉄道の第一回営業報告書の株主名簿(1912年4月30日現在)から株主351名の地域的分布を示したのが表4になります。
総株数6000株(50円株)で、一株25五円です。
下津井鉄道4

 ここからは、次のような事が分かります。
①地元株主の比率が高く岡山・香川県以外の株主は2人だけ
②零細株主が多く、9株以下の株主が351名の株主中202名を占めた。
③持株数の多い株主は下津井町と丸亀市に集中し、全株数の過半を占める。
 下津井鉄道の地元株主の占める比率は、他の地方鉄道に比べてもはるかに高いようです。ここからは地元の人たちが少しずつお金を出し合って株式を購入し、下津井鉄道を誕生させたことがうかがえます。その動機には宇野・高松ルートの出現に対する危機感と対抗意識が働いていたことがここからもうかがえます。鉄道建設で下津井・丸亀間航路を維持しようとする姿勢が見えてきます。

 最後に大株主の経済的基盤を見ておきましょう。
(●印は重役)

白川友一3
旧下津井駅前の白川友一像

●白川友一 (420株、香川県仲多度郡)
 南村(現丸亀市)の素封家(地主)白川家の養嗣子で県会議員を歴任し、日露戦争後、満州、朝鮮において、土木請負業、通運業、貿易業などによって財を築いた。明治末期には衆議院議員に当選、中央政界にも活動した。軽便鉄道補助法の成立にも尽力しています。
白川友一
白川友一

●中西七太郎(303株、下津井町)
 近世以来の北前肥料問屋「高七」の当主で、明治期には紡績業、九州の炭鉱業に進出するとともに回船業者をも兼ね、明治後期における下津井最大の富豪と称されていた。当時下津井町長であった。
●荻野休次郎(208株、下津井町)
 近世末より明治前期にかけて北前肥料問屋を対象とした金融、倉庫業を営んでいた荻野屋の一族で最もあとまで繁栄していた東荻野家の当主。荻野屋は近世末には備前藩の融通方を勤め、下津井最大の素封家であったが、明治期には衰頑の傾向にあった。
 岩津先太(200株、下津井町)
近世以来の北前肥料問屋豊後屋の当主で、米の仲買を兼ね、米専門の回船業者として活動した。
●中塚勘一郎(150株、小田村)
 小田村の地主で、織物業も営んでいた。
 西尾甚太郎(130株、下津井町)
 近世以来の北前肥料問屋の家で、吹上村(下津井四ヶ浦のIつ)の庄屋の家柄であった。当時はすでに家作経営を主とし、下津井郵便局長の職にあった。
●三宅万五郎(122株、下津井町)
 近世以来の北前肥料問屋「湊屋」の当主で、明治期には回船業者「永徳」となり、のち被服製造業にも進出した。児島銀行の経営者の一人であった。
●片山徳次郎(115株、小田村)
 小田村稗田の地主で、織物業をも営んでいた。
●荻野岩太郎(102株、下津井町)
 荻野家の分家花荻野家の当主。元の北前肥料問屋を対象とした倉庫業を営んでいた。
 中西林蔵(102株、下津井町)
「高七」の分家で明治末期には回船業者、北洋漁業者として活動
黒瀬元五郎(100株、丸亀市)
 丸亀の地主で近世末には下津井の荻野家より養嗣子が出されていて、血縁関係にある。
●秋山文治郎(80株、藤戸村)
 藤戸村天城の地主で、児島銀行の経営者の一人であった。
●渡辺来蔵(77株、下津井町)
  下津井町大畠の素封家で、当時主として酒造業を営んでいた。
 岡村万吉(70株、下津井町)
  鮮魚問屋「味万」の当主
 西原陣三郎(70株、味野町)
  味野町の地主で、織物業も営んでいた。
 柘野文六(70株、小田村)
  小田村小川の地主で、織物業を営んでいた。
 古西政次郎(60株、下津井町)
 近世以来の北前肥料問屋「西徳」の当主で、明治後期には、回船業者となり、のちに米穀商を兼ねた。
 亀山政三(55株、岡山市)
  質屋、精米業を営んでいた。
  ●永山久吉(54株、下津井町)
下津井町大畠の素封家で父久平は酒造業で財を成したが、久吉は回船業者として活動し、一方足袋製造にものり出して自己の回船業を利用して、販路を拡張した。下津井鉄道創立後社内における地位の向上に努め、昭和期 初頭には鉄道の実質的リーダーとなり、1937年、白川友一辞任の後をうけて社長に就任した。
 岡万次郎(五二株、下津井町)
  下津井町田之浦の素封家で酒造業を営んでいた。

 大株主リストを見ると分かるのは、下津井鉄道の大株主には
①下津井町の回船業者、酒造業者の系統
②小田村・味野町の地主・織物業者の系統
のふたつのグループがあったこと。そして、かつての北前交易で財を為した北前肥料問屋が、この時点でも経済力を維持し、重要な役割を演じていることです。彼らの危機意識と経済力と危機意識が対岸の丸亀の白川友一を巻き込んで、下津井鉄道建設の原動力になっていったようです。
おつきあいいただき、ありがとうございました
参考文献
青木栄一「下津井鉄道の成立とその性格」
              地方紙研究97号 1969年


  増田穣三の同期代議士 三土忠造と白川友一について

 日露戦争後の1907年(M40)は、増田穣三にとって大きな岐路に立たされた年であった。まず、前年1月に5年間務めた讃岐電気株式会社(旧西讃電灯株式会社)の社長職を辞している。(実質的には更迭?)
 続いて、3月には七箇村村長を退任。そして、翌年9月の第3回県会議員選挙に、現職議長でありながら出馬せず8年間にわたる県会議員時代にピリオドを打つ。村長・県会議員・社長という公職を全て辞してどこへ向かおうとするのか。譲三49歳である。

 その後、5年後の1912年(明治45・大正1年)5月)に行われた第11回衆議院議員選挙出馬までの足取りをたどる資料が見つからない。何をしていたのか分からないのだ。ミッシングリングである。今後の課題としたい。

 電力会社経営の失敗を背負って「傷心の日々」だったのか?
 いや、未生流華道の家元として中讃から、阿讃の山を越えて三好方面へ出稽古に出向き、浄瑠璃をうなる日々を送っていたのかもしれない。これで、政治家生命も絶たれて「引退」と思いきや、もう一度出番が訪れる。
1912年 三土忠造・白川友一と共に衆議院議員に初当選。
   当時の香川の選挙区は、高松・丸亀の両市を除く郡部は、大選挙区制であった。この時、政友会から初当選したのが三土忠造・白川友一・増田穣三の3人であった。
この内、三土忠造は、伊藤博文の眼鏡にかなって、
併合前の韓国政府の学政参与官となり、教科書の編纂、学校制度の制定等に手腕を発揮していた。その能力を買われて伊藤の勧めで総選挙出馬のために職を辞し帰国し政友会の候補として、郷里香川県から打って出た。
 三土を支援したのが多度津の景山甚右衛門である。景山は、これを機に衆議院議員を「卒業」し、地盤を三土に譲って全面的支援を行った。三土は「洋行帰りのニューフェイス」であり、「伊藤公の目にとまって朝鮮で働いてきたサラブレッド」というので評判が良く二位で当選している。この後、三土は当選を重ね政友会の重鎮に成長、重要な大臣ポストを歴任していくことになる。
 ちなみに、三位当選したのが増田穣三。丸亀市区から当選したのが白川友一であった。
まんのう町造田出身の衆議院議員 白川友一について
白川友一

 白川友一は1873年(M6)6月11日、まんのう町(旧琴南町)造田出身で父安達小平太、母カノの四男として生まれた。譲三よりも15再年下になる。友一が生まれたときに父小平太は讃岐における明治期最大の民衆蜂起である「西讃血税一揆」の指導者の嫌疑をかけられ入獄中で家計困難な状態にあった。そのため友一は「進学」を条件に養子に出て白川姓を名乗ることになる。立身出世のための勉学への道を諦めずに歩み通し、朝鮮での投資活動に成功し銀行家として地盤を固めていた。
 譲三と共に県会議員に初当選したのが明治32年(1899年)
二人は「同期生」として政友会に属し、堀家虎造代議士を支えていく。そして12年後の明治45年には、そろって衆議院議員に初当選する。譲三の「政治パートナー」して、歩むことになる白川友一について年表で見ておこう。
873年(M6)6月11日、(旧琴南町)造田で生まれる。
1885年12歳で小学校修了。
     成績優秀のため卒業後同校で1年間教鞭をとる。
1886年13歳の時、富豪で質屋を営む横山初太郎の養子となる。
     しかし、京都遊学の願いがかなえられず離縁。
1888年15歳で陸軍の予備校だった成城学校幼年科に入る。
     幼年科・青年科を修了。何回も士官学校の入学試験を
受けたが、身体検査で不合格となる。
1892年父母に連れ戻され、仲多度郡南村(丸亀市杵原町)の白川家の養 子となり、雪泳と結婚。
21歳で南村の収入役、
24歳で七九銀行の支店長となり、次いで高松讃岐銀行専務取締役となる。
1899年26歳で県会議員に選出され8年間活動する。
 日清戦争後の朝鮮半島を県会議員として視察し「有望な市場」であることを認識。朝鮮における運輸、土木、建設の設請負業などさまざまな事業経営に乗りだし、日露戦争後には、中国東北部(満州)にも拡大し、土木建設会社を経営し成功を得る。
丸亀ー下津井間の「金比羅参拝ルート」の賑わい保持を目的に下津井鉄道会社設立時に筆頭株主(500株)として、初代社長に就任
その後も、丸亀市、下津井港との連絡船設備の整備充実などを進めた。
1911年(M45)5月の第11回選挙で衆議院議員に、増田穣三とともに初当選
 当選の年に「軽便鉄道助成法助成法」が成立するが、この成立の中心的な役割を果たしたのが、「衆議院一年生」の白川友一である。「下電社長」という立場から全国の中小の鉄道会社の要求をまとめたもので、この法案成立の結果、全国に続々と生まれつつあった軽便鉄道に政府助成が下りるようになった。この他「軽便鉄道」のみならず運輸・交通を中心に彼が「業界団体の利益代表」として行った衆議院での質疑・要求内容が資料として国会図書館に残っており、政治家として数々の業績を見ることが出来る。
白川友一
下電下津井駅(跡)の白川友一像
  これに対して譲三の国会での痕跡は、ほとんど残っていない。
彼の国会での質問等について国会図書館に資料検索してもらったが出てこない。国会においても県会と同じくで「寡黙な議員」であったようだ。

大浦事件と白川友一

 しかし、ここから白川友一や増田穣三にとって、舞台が暗転する。
それは、第一次世界大戦が始まる1914年に起こる。昭和の「ロッキード事件」と同じように、独での収賄事件調査が飛び火して、シーメンス社による日本の政府高官への収賄事件が明るみになる。この収賄事件を背景に、野党政友会による内閣への攻勢が勢いづく。これに対して大浦兼武内務大臣は、衆議院選挙において大規模な選挙干渉で応じる。丸亀市の選挙区では、内閣に協力的であった白川友一の依頼を受けて、対立候補である加治寿衛吉候補に対し、圧力をかけ立候補を断念させる工作を行う。これが、選挙後に国会に告発される。
 さらに、前年の「2ケ師団増設」問題でも、大浦内相から当時は野党政友会に属していた白川友一や増田穣三を通じて、政友会内の議員に対して与党案に賛成するように工作。つまり、野党政友会の分断工作のために、内務大臣より買収資金が流れたことが判明する。その政友会の切り崩し舞台の中心となったのが白川友一であり、盟友の増田穣三も深く関わる。
 関係議員が逮捕拘束され、白川友一は翌年には議員を失職し、政治声明は断たれた。
明治37年香川新報発行
「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」の中の白川友一の紹介
「年壮にして気鋭覇気」で「技量、其の精神力は旺盛で、その根気強さは讃岐人においては稀に見る人物」と持ち上げ「営利と名声」の「二兎を追う」ゆえに心を悩まされるのではないか。あなたは「花より団子」で名誉は捨てて、営利追求に絞っては、いかがと揶揄されている。
 大浦事件を契機に政界から「追放」された彼は、この「助言」通り「一兎」を追う者へ姿を変えていく。

大浦事件後の白川友一 「一兎を追う」ものへ転身
 この後、彼は3度全国版の一面に登場する。
1921(大正10).3.20 東京日日新聞には
「セ軍の五百万円は日本金貨となる。朝鮮銀行が買い取って造幣局で鋳造」
という大見出しで、ロシア革命の際に反革命側のセミヨノフ将軍が持ち出した金塊横取事件に関わる黒幕として登場。
また1922.10.7(大正11)  大阪朝日新聞では
「武器問題 知らぬ存ぜぬ一点張 問題の白川友一氏語る」
「ゆゆしき失態を演じた武器売渡事件」

の見出しで、日本軍の保管武器が軍閥張作霖軍に売り払われた事件の黒幕として追求を受けている。
さらに、1930.12.1(昭和5)  大阪時事新報では、
「阪神地方を中心に未曾有の薬品大密輸」
「飛行便を利用して疾風迅雷の大活動
首魁乾某風を喰って高飛び 事件伏木にも波及」
との見出しで、大連市内を拠点に国禁ベンモル(モルヒネ)の密輸事件で、
「本事件の一方の旗頭と目されるのは、往年大浦事件に絡って議員買収の張本人となった香川県選出元代議士某氏(特に名を秘す)で峻烈なる検挙の手が延びたのを知ると同時に、到底逃れ能わざるを覚悟して、罪の裁きをうくべく已に自首して出た」と、
その経過が大きく紙面を割いて紹介されている。この記事の中の「香川県選出元代議士某氏(特に名を秘す)」は、白川友一である。
後の裁判では懲役1年6月が求刑されている。
  以上 3記事共に「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫より」

 大浦事件後に白川友一が「大陸浪人」として「雄飛・暗躍」していた姿が紙面から垣間見える。まさに「名声」を追うことを求めず、「花より団子」「営利一番」に切り替わった姿をみる思いがする。
 ただ、彼は1926年(大正15年)に、坂出と琴平を結ぶ「琴平急行電鉄」申請が出されると会社設立のための支援を積極的に行い、資金提供等の協力を惜しまなかったという。郷土香川の鉄道発展への志は、持ち続けていた。
さて、大浦事件の後の増田穣三は、どうしていたのであろうか。

参考資料
 青木栄一 「下津井鉄道の成立とその性格」
  「讃岐人物風景17」 四国新聞 昭和62年刊行
下津井電鉄「下電50年の歩み」 
      所収 「白川友一自叙伝記」「白川友一事業概略」
     「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」 明治37年
       「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫」

1907年(M40)、増田穣三は大きな岐路に立たされた。
まず、前年1月に讃岐電気株式会社(旧西讃電灯株式会社)の社長職を辞している。(実質的には更迭?)。続いて、3月には七箇村村長を退任。最初私は、「県会議長に、専念できる体制を作るため?」と推測した。しかし、どうもそうではないらしい。
 翌年9月の第3回県会議員選挙に、現職議長でありながら出馬せず。8年間にわたる県議会議員時代にピリオドを打つことになる。村長・県議会議員・社長という職を辞して、どこへ向かおうとしたのか。 譲三49歳である。政界からの引退? 

 その後、5年後に第11回衆議院議員選挙出馬(明治45・大正1年)までの増田穣三の足取りをたどる資料が手元にない。代議士へのステップアップのための準備期間になるのだろうか。
 ミッシングリングである。今後の課題としたい。
三土忠造・白川友一と共に衆議院議員に初当選。
   当時の香川の選挙区は、高松・丸亀の両市を除く郡部は、大選挙区制。この選挙で、三土忠造・白川友一・増田穣三の3人が政友会から出馬する。
 この内、三土忠造は、伊藤博文の眼鏡にかなって、韓国政府の学政参与官となり、教科書の編纂、学校制度の制定等に手腕を発揮していた。が、伊藤の勧めもあって総選挙出馬のために職を辞し帰国。三土氏は政友会の候補として、郷里香川県から打って出た。
三土忠造 - Wikipedia
 三土忠造
三土を支援したのが「多度津の七福神」の統帥景山甚右衛門である。
景山は、地盤を三土に譲って全面的支援を行った。衆議院を「卒業」の意味もあったようである。三土は「洋行帰りのニューフェイス」として、また
「伊藤公の目にとまって朝鮮で働いてきたサラブレッド」
という評判で、二位当選している。この後、三土は当選を重ね、政友会の重鎮に成長、重要な大臣ポストを歴任していく。
高橋是清内閣(たかはしこれきよないかく)とは - コトバンク
 
ちなみに、郡部で三位当選したのが増田穣三。
丸亀市区から当選したのが白川友一であった。

盟友 白川友一について
 振り返ってみると、増田穣三と白川友一が共に県会議員に初当選したのが明治32年(1899年)。二人は「県議同期生」として政友会に属し、堀家虎造代議士を支えていった。そして12年後、そろって衆議院議員に初当選した。 増田譲三の「政治パートナー」して、歩む白川友一について年表で見ておこう。

白川友一 - Wikipedia
白川友一年譜
1873年 琴南町造田で父安達小平太、母カノの四男として生
      友一出生時に父小平太は、西讃血税一揆の嫌疑をかけら
れ入獄中で家計困難
      ちなみに増田穣三よりも15歳年下になる。
1885年 12歳で小学校修了。
成績優秀で卒業後同校で1年間教鞭をとる。
1886年 13歳の時、富豪で質屋を営む横山初太郎の養子へ
      しかし、京都遊学の願いがかなえられず離縁。
1888年 15歳で、陸軍の予備校だった成城学校幼年科入る。
      幼年科・青年科を修了。その間何回も士官学校の入学試
験を受けたが、身体検査で不合格。
1892年 父母に連れ戻され、仲多度郡南村(丸亀市杵原町)の白
川家の養子となり、雪泳と結婚。
       21歳で南村の収入役、
24歳で七九銀行の支店長就任。
次いで高松讃岐銀行専務取締役となる。
この間、両行で地方経済発展のため活躍。
1899年 26歳で県会議員に選出され8年間活動する。
   日清戦争後の朝鮮半島を県会議員として視察し「有望な市場」 であることを認識。朝鮮における運輸、土木、建設の設請負業 などさまざまな事業経営に乗りだし、資産形成。日露戦争後に
は、中国東北部(満州)にも拡大し、土木建設会社を経営し成功
  下津井鉄道会社設立時には、これを支援し筆頭株主(500株)
として、初代社長に就任も経営には関わらず。
  その後も、丸亀市、下津井港との連絡船設備の整備充実などを進
めた
1911年(M45)衆議院議員に、増田穣三とともに初当選
 当選の年に「軽便鉄道助成法」が成立している。
この法案 成立の中心的な役割を果たしたのが、当選したばかりの白川友一である。「下電社長」という立場から全国の業界団体の要求をまとめるなど、その中心的役割を果たした。この結果、軽便鉄道に政府助成が下りるようになった。
下津井電鉄線跡を歩く2013-16-下津井の町を歩く岡山の街角から
 下津井鉄道の下津井駅前の白川友一像

このように代議士として「軽便鉄道」のみならず運輸・交通を中心に「業界団体の利益代表」として行った衆議院での質疑・要求内容が資料として国会図書館に残っている。ここまでが代議士となり国政に参加し活躍する「明」である。

大浦事件と白川友一

しかし、ここから白川友一や増田穣三にとって、舞台が暗転する。
それは、第一次世界大戦が始まる1914年に起こる。
昭和の「ロッキード事件」と同じように、独での収賄事件調査が飛び火して、シーメンス社による日本の政府高官への収賄事件が明るみになる。この収賄事件を背景に、野党政友会による内閣への攻勢が勢いづく。
大浦兼武 - Wikipedia
大浦兼武

 これに対して、大浦兼武
内務大臣は、翌年の衆議院選挙において大規模な選挙干渉で応じる。丸亀市の選挙区では、内閣に協力的であった白川友一の依頼を受けて、対立候補である加治寿衛吉候補に対し、圧力をかけ立候補を断念させる工作を行う。これが、選挙後に国会に告発される。
 さらに、前年の「2ケ師団増設」問題でも、大浦内相から当時は野党政友会に属していた白川友一や増田穣三を通じて、政友会内の議員に対して与党案に賛成するように工作。つまり、野党政友会の分断工作のために、内務大臣より買収資金が流れたことが判明。その受取側の中心が白川友一であった。これに増田穣三も深く関わる。
 関係議員が逮捕拘束されれ、裁判の結果、白川友一は議員を失職する。これにより、白川友一の政治生命は断たれた。
明治37年の香川新報「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」に、白川友一が紹介された次のような文章がある。
  「先生、年壮にして気鋭覇気鬱勃何者にか手繰り附くかんとするものの如し。其自転車を駆りて東西に馳餅するは、即ち財産の彼岸に辿り着く附かんとするもの也。県会の議席、時あって奇警の言論を弄するは、名声の彼岸に辿り着かんと也。恰も其企画経営、着々実効を奏し来り。世人が見て以て泡沫的と為すことも、一度先生の手を経れば遂に変じて軽石と化す。奇ならずとせんや。
 而して其れ実に先生独特の技量、其の精神力の旺なる、その根気の充満なる、讃岐人においては蓋し稀に見る処に属す。先生や到底相容れざる二個の希望の往来するが為に、常に其心を悩まさるるものの如し。
 何ぞや、営利と名声と即ち是也。
然れども営利に赴くも名声を得るは難しく、名声に走るもの利を得ることは固より能はじ。先生たるもの寧ろ一兎を選びて花より団子主義を提唱せざる、英国のロスチャイルド男爵と雖ど而かど西欧の金権を掌握することと知らずや」
「年壮にして気鋭覇気」で「技量、其の精神力は旺盛で、その根気強さは讃岐人においては稀に見る人物」と持ち上げ「営利と名声」の「二兎を追う」ゆえに心を悩まされるのではないか。あなたは「花より団子」で名誉は捨てて、営利追求に絞っては、いかがと揶揄されている。
 大浦事件を契機に政界から「追放」された彼は、この「助言」通り「一兎」を追う者へ姿を変えていく。 
大浦事件後の白川友一 「一兎を追う」ものへ転身
 この後、彼は3度全国版の一面に登場する。 
1921(大正10).3.20 東京日日新聞には「セ軍の五百万円は日本金貨となる。朝鮮銀行が買い取って造幣局で鋳造」という大見出しで、ロシア革命の際に反革命側のセミヨノフ将軍が持ち出した金塊横取事件に関わる黒幕として登場。
 また1922.10.7(大正11)  大阪朝日新聞では「武器問題 知らぬ存ぜぬ一点張 問題の白川友一氏語る」「ゆゆしき失態を演じた武器売渡事件」の見出しで、日本軍の保管武器が軍閥張作霖軍に売り払われた事件の黒幕として追求を受けている。
さらに、1930.12.1(昭和5)  大阪時事新報では、「阪神地方を中心に未曾有の薬品大密輸」「飛行便を利用して疾風迅雷の大活動 首魁乾某風を喰って高飛び 事件伏木にも波及」との見出しで、大連市内を拠点に国禁ベンモル(モルヒネ)の密輸事件で、「本事件の一方の旗頭と目されるのは、往年大浦事件に絡って議員買収の張本人となった香川県選出元代議士某氏(特に名を秘す)で峻烈なる検挙の手が延びたのを知ると同時に、到底逃れ能わざるを覚悟して、罪の裁きをうくべく已に自首して出た」と、その経過が大きく紙面を割いて紹介されている。後の裁判では懲役1年6月が求刑されている。
  以上 「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫より」
 大浦事件後に白川友一が「大陸浪人」として「雄飛・暗躍」していた姿が紙面から垣間見える。まさに「名声」を追うことを求めず、「花より団子」「営利一番」に切り替わった姿をみる思いがする。
 ただ、彼は1926年(大正15年)に、坂出と琴平を結ぶ「琴平急行電鉄」申請が出されると会社設立のための支援を積極的に行い、資金提供等の協力を惜しまなかったという。郷土香川の鉄道発展への志は、持ち続けていた。
さて、大浦事件の後の増田穣三は、どうしていたのであろうか。

参考資料
 青木栄一 「下津井鉄道の成立とその性格」
     「讃岐人物風景17」 四国新聞 昭和62年刊行
下津井電鉄「下電50年の歩み」所収 「白川友一自叙伝記」「白川友一事業概略」
      「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」 明治37年

         「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫」

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