瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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  高見島 新なぎさ2
高見島に入港する新なぎさ2    

塩飽諸島の中で、多度津から猫フェリーで行けるのが高見島と佐柳島です。高見島は古くから人が住んでいたという塩飽七島の一つです。その向こうの佐柳島は高見島からの入植者によって江戸時代になって開かれたとされます。高見島の「餅つき唄」の中にも、次のようなフレーズがあります。
高見・佐柳は 仲のよい島だよ― ソレ
あいの小島(尾島)は子じゃ孫じゃよ
ソレハ ヨイヨイヨイ
  「あいの小島(尾島)は子じゃ孫じゃよ」と高見島と佐柳島は、親子・兄弟島と謡われています。今回はこの内の高見島に伝わる民俗について、見ていくことにします。  テキストは「西山市朗   高見島・佐柳島の民俗十話」です。 
高見島の島名は、 どこからきているのでしょうか?
ひとつは、高見三郎宗治の名からきているという説があるようです。
浜部落の三谷家(屋号カミジョ)の土地からでた五輪の供養塔は、鎌倉~室町時代のもので、児島高徳の墓だと地元では伝えています。この墓には、浜の人々が夏祭りにおまいりしていたと云います。
また別の説では建久年間(12世紀末)に、備前国児島から移住してきた人たちが開いたのが始まりだという伝承もあるようです。
最後の説は、周辺の島の中で一番高く、周りが見渡せる島だから、高見島と呼ぶようになったのだとされています。これが一般的なようです。
 寿永四年(1185)屋島の源平合戦に破れた平家船団が西方に落ち延びていくときに、高見・佐柳島にも立ち寄って水・飲料、燃料のマキを積み込んだという伝承もあるようです。高見島の浜の庄屋・宮崎家は、平家方の宮崎将監の後裔だと自称していたようです。この島が海の民の拠点として、機能していたことはうかがえますが、それ以上は分かりません。
高見島(たかみじま)

 高見島は浦と浜の二つの港があります。
一般的には「○○浦・○○浜」というのが一般的です。ところが高見島の場合は、なぜか単に浦・浜という集落名です。字名では「大久保通・大谷通・古宮通・六社通・田ノ上通・浅谷通・下道通・高須通」というように、○○通に分けられています。
北側の浦集落は、江戸時代前期に大火にあい、現在のところに集落を移したようです。
それ以前は古宮、ナコチ・ハナタ・フロ・キトチ一帯に集落があったようです。大聖寺ももともとはハナタにあり、そこには腰を掛けたりすると腹が痛むという腹くわり石や五輪の塔が残っていたと云います。フロには、古い泉もあって、ここがかつての島の水源で、ここを中心に人々が集まり住み集落が海辺に出来たことがうかがえます。泉の先には「三郎ヨウジ」という地名も残っているようです。
高見島 浦集落3
高見島 浦集落
  瀬戸の島を歩くと、古い集落には共同井戸があります。
雨の少ない瀬戸内海の島々にとっては、井戸は生命の水の提供場所として神聖な場でもあったようです。水は天からのもらいもので「天水」です。後に弘法大師伝説が伝わってくると、泉・井戸も弘法大師に「接ぎ木」されていきます。そして、満濃池とつながっている井戸(宮の井戸)として雨乞いの話になったりしています。高見島の井戸伝説としては、次のような話が伝えられます。
①若水迎えにつかっていたミキャド(御神井戸)の湧き水の杓井戸
②死が近付くとほしがっていたという冷たくて美味しい水の話。
③むかしの浦の里にあったフロの泉
どちらにしても、古代から瀬戸内海を行き来する交易船は、風待ち・潮待ちのための寄航港が必要でした。そこには、美味しい水を提供してくれる井戸があることが必須条件だったようです。立ち寄った船に、これらの井戸も美味しい水を提供していたのでしょう。

高見島 浦集落4
高見島 浦集落
石垣の上に立ち並ぶ浦の家並は、江戸時代前期の風景(たたずまい)を今も残しています。

高見島 浦集落男はつらいよ
男はつらいよのロケ地となった高見島

 男はつらいよなどのロケ地として使われたわけが分かります。今は、空き家になった家が淋しそうに立ち並んでいます。

高見島 浦集落2
高見島 浦集落

制立場があり、北戸小路。南戸小路・下戸小路があり、集落の中央上に大聖寺がドンと構えています。ここから見える瀬戸内海は最高です。
高見島 大聖寺2
高見島の大聖寺
沖を行く備讃瀬戸行路の大型船、その向こうには丸亀平野の甘南備山である飯野山が望めます。
高見島 大聖寺からの瀬戸内海
大聖寺から望む備讃瀬戸と丸亀平野
高見島と佐柳島の戸数変化を見てみましょう。
江戸時代の塩飽人名衆650名のうち、高見島には77名の人名がいました。ここからも高見島は歴史が古く、廻船の拠点としても機能していたことがうかがえます。高見島の人たちが無住だった佐柳島に入植し、本浦を開いたと云います。さらに佐柳島の北側には福山・真鍋島から渡ってきた人たちが住みつき、また安芸の家船漁師も早くからやってきて、この島を根拠に漁業を続けていました。それが現在の佐柳島の長崎集落です。こうして、佐柳島は漁業の島として成長して行きます。それに対して高見島はどうなのでしょうか?

高見島 戸数・人口


正徳三年(1713)の記録には、高見島の戸数249戸(1449人)、佐柳島144戸とあります。しかし、この時期に塩飽の北前行路の独占体制が崩れて、塩飽廻船業は大きな打撃を受けます。その後は、船大工や宮大工として島外に活躍するする者が増えて、島を去る者が増えた、島の戸数や人口は減少傾向に転じたことは以前にお話ししました。
 高見島も明治には、249戸から195戸へ減少しています。そして、戸数の半数が大工だったことが分かります。漁師は1/6しかいません。瀬戸の島と聞くと、すぐに漁師港を思い浮かべますが、そのイメージでは高見島は捉えきれない島なのです。浦の集落の住人も漁業を生業としていた人たちではないようです。

高見島 ネズミ瓦
高見島の浦集落の漆喰壁の飾り瓦
 男はつらいよのロケ地「琴島」として、高見島と志々島は使われました。外国航路の船長だった父の家に、病気療養で帰ってきてる娘を松坂慶子が演じていました。その家は坂の上にある立派な家でした。この家は漁師達の家ではないのです。漁師の家は海沿いです。ここには、大工や農家などの家が坂沿いにあったようです。

高見島 うさぎ瓦
飾り瓦のうさぎ
 佐柳島と比較すると、高見島はその後は戸数・人口ともに減少していきます。それとは逆に、佐柳島は近世末から漁師の島として、戸数と人口が増えていきます。いったんは人口が急激に増えた佐柳島も高度経済成長がの中で、過疎化の波に飲み込まれていきます。

茶粥(チャガイ)を食べる島
高見島には水田がないので、米が作れませんでした。そんな島の人々が食べていたのが茶粥です。茶粥を作るときには、網目の布袋(茶袋)に茶を入れて炊き、そこへ麦・米や、薩摩芋・ササギ・炒った蚕豆・ユリネ・ハゼ(あられ)・団子等を入れていたそうです。熱いのをフウフウと吹きながら食べるのが、香ばしくあっさりしていて、美味しかったと云います。茶粥について、研究者は次のように記します。
朝飯は、暗がりで炊き、昼飯は11時頃、夕飯は、暗くなる前に食べていた。朝夕、茶粥のときもあったし、オチャヅケと言って間食を食べることもあった。畑仕事には、ヤマイキベントウと言って、麦飯の弁当を持って行ったりしていた。船での昼飯は白米のご飯だった。(御用船方の伝統か)
メシ(昼飯)、午後六時バンメシ(晩飯)・ョイメシという習慣だった。
茶粥を食べる風習は、瀬戸内にみられ、広島県から和歌山・奈良県へとつながっている。
畑作に頼っていた島の人々にとって、乏しい穀物等を入れて、出来る限り味よく、満腹感を味わおうとした、貧しいながら一つの生活の知恵であった。

 この茶粥に使われたのが以前にお話した「仁尾茶」です。
飲んでも食べてもおいしい。茶粥のために作られた土佐の「碁石茶」【四国に伝わる伝統、後発酵茶をめぐる旅 VOL.03】 - haccola  発酵ライフを楽しむ「ハッコラ」

土佐の碁石茶

仁尾茶は伊予新宮や四国山脈を越えた土佐の山間部で作られた碁石茶でした。仁尾商人が土佐で買い付けた碁石茶は、瀬戸内海の島々を商圏にしていたようです。
高見島や佐柳島では、畑仕事はすべて婦人の仕事で、肥料、収穫物を頭の上に乗せて山の上の畑まで運び上げていました。
「ソラのヤマ(はたけ)」は、ヒコシロ、マツネなどにありました。そこへ荷物を頭に載せて行き帰りしていたのです。頭上運搬のことを地元では「カベル」と云います。「ワ」を頭にすけたり、ワテヌグイをしてカベッテいました。これは女性だけの運搬方法です。男の場合は肩に担ぐか、「カルイ」で背負ったり、水の運搬はニナイ(担桶)を「オッコ」(天秤棒)で担いで運んでいました。
 女性の頭上運搬は、瀬戸内海の島々や沿岸部では近世まで見られた風俗でした。高松城下図屏風の中にも、頭に水甕を「カベッテ」って、お得意さんまで運ぶ姿が描かれていたのを思い出します。
高松城下図屏風 いただきさん
水桶を頭に乗せて運ぶ女達 高松城下図屏風

両墓制について
両墓制 
佐柳島の長崎集落の両墓制
佐柳島の北側の長崎集落では、かつては海沿いに死体を埋め、黒い小石を敷き詰め、その上に「桐の地蔵さん」という人形を立てました。それが「埋め墓」です。月日をおいて、骨を取り出し、家毎の石塔を立てた「拝み墓」に埋葬します。「埋め墓」と「拝み墓」を併せて、両墓制と呼びます。
1両墓制
佐柳島の長崎集落の埋め墓

 長崎集落の埋め墓の特徴は、広い墓地一面に海石が敷きつめられていていることです。この石は、全部海の中から人が運び上げた石だそうです。かつての埋葬にはほとんど穴を掘らず、棺を地上に置いてそのまわりに石で積んだようです。その石は親戚が海へ入って拾い上げて積みます。
 このような積石は、もともとは風葬死者の荒魂を封鎖するものでした。それが時代が下がり荒魂への恐怖感がうすれるとともに、死者を悪霊に取られないようにするという解釈に変わったと研究者は考えているようです。肉親のために石を積む気持が、死者を悼み、死後の成仏を祈る心となって、供養の積石(作善行為)に変わっていきます。
佐柳島の埋め墓で、海の石を拾ってきて積むというのも供養の一つの形なのでしょう。
 ここには寺はありません。古い地蔵石仏(室町時代?)を祭った小庵があるだけです。同じ佐柳島の本浦集落の両墓制は、海ぎわに埋め墓があり、その上の小高い岡の乗蓮寺周辺に拝み墓があります。
佐柳島への入植者を送り出した高見島の浦と浜の両集落にも、両墓制の墓地があります。

高見島 浦集落の両墓1
高見島・浦集落の両墓制

高見島にはそれぞれの墓地に大聖寺と善福寺がありました。拝み墓が成長して、近世に寺になったようです。島にやってきて最初に住持となったのは、どんな僧侶なのでしょうか?  
  この時期に、塩飽から庄内半島のエリアを教線エリアにしていたのが多度津の道隆寺明王院であったことはお話ししました。道隆寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

イメージ 2

 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると庄内半島方面までの海浜部、さらに塩飽の島嶼部へと広域に活動を展開していたことが分かります。たとえば
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明14四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
享禄3年(1530) 高見島善福寺の堂供養導師
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。その中には粟島や高見島も含まれていたようです。『多度津公御領分寺社縁起』には、道隆寺明王院について次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院(道隆寺)より執行仕来候」

 中世以来の本末関係が近世になっても続き、堂供養や神社遷宮が道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。
 供養導師として道隆寺僧を招いた寺社は、道隆寺の法会にも参加しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には、次のように記されています。

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

 ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
また、影響下に置いた塩飽諸島は古代以来、人と物が移動する海のハイウエー備讃瀬戸地域におけるサービスエリア的な存在でした。そこに幾つもの末寺を持つと言うことは、アンテナショップをサービスエリアの中にいくつも持っていたとも言えます。情報収集や僧侶の移動・交流にとっては非常に有利なロケーションであったのです。こうして、この寺は広域な信仰圈に支えられて、中讃地区における当地域の有力寺院へと成長していきます。その道隆寺ネットワークの中に、高見島や粟島の寺社も含まれていたことになります。
高見島 大聖寺山門
大聖寺(高見島浦集落)
 高見島では埋め墓のことをハカといい、参り墓のことをセキトウバと呼んでいます。
埋葬するとその上にむしろをおき、土をかぶせ、ハカジルシの石と六角塔婆をたて、花を供えます。四十九日の忌日には「四十九院」という1m角ほどの屋根つきの塔婆の家を埋め墓の上に建てます。四十九枚の板には経文が書かれています。
一般庶民が石碑・石塔を建てるようになったのは、江戸時代後期以後だといわれます。それまでは埋葬したところに、簡単に土を盛り、盛り石をして墓標を建てる程度だったようです。

高見島 石仏
高見島の石仏

高見島の浦のロクシには、棄老伝説が残っており、その近くには赤子薮もあったと伝えられます。古くは、死ぬと海へかえすという風習もあったようです。新仏(アラリョウ)ができると、灯ろう船(西方丸・極楽丸)に乗せて灯ろうを流す風習も残っています。

高見島には、浦に大聖寺、浜に善福寺(廃寺)がありました。
高見島 大聖寺3
大聖寺
大聖寺は、弘法大師開基の寺として伝えられています。島には次のような弘法大師伝説が伝わっています。
「片葉の葦」
「西浦のお大師さん」
「ガンの浦の弘法大師の泉」
「浜・板持の大師の井戸」
「釜お大師さん」
これを伝えた高野聖の存在がうかがえます。
  瀬戸内海の港にも、お墓のお堂や社に住み着き、南無阿弥陀仏をとなえ死者供養を行ったのは、諸国を廻る聖達だったことは以前にお話ししました。死者供養は聖を、庶民が受けいれていく糸口にもなります。そのような聖たちが拠点としたのが道隆寺や弥谷寺や宇多津の郷照寺でした。それらの寺院を拠点とする高野聖たちが、周辺の両墓制に建てられた庵やお堂に住み着き供養を行うようになります。高野の聖は「念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰 + 廻国 + 修験者」的な性格を併せ持つ存在でした。彼らが住み着いた庵の一つが、多度津の桜川河口の砂州上に広がる両墓制の墓の周辺です。それが現在の摩尼院や多門院に発展していくと多度津町史は記します。(多度津町史912P)。同じように周辺の島の港にも聖たちがやってきて、定着して念仏信仰を広げていったようです。そして近世後半になって最後に弘法大師伝説がもたらされます。

高見島 燈台2
高見島 北端の燈台 向こうが佐柳島
 高野聖たちによってもたらされた念仏阿弥陀信仰の上に、後に弘法大師信仰がもたらされて、島四国八十八ヵ所巡りが近世後半には姿を見せるようになります。瀬戸の島には、今でも島遍路廻りが春に行われている島があります。私も伊吹や粟島・本島などの島遍路廻にお参りしたことがあります。高見島にも島一周の島遍路コースがあり、石仏が祀られています。
高見島 西海岸の石仏

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献    「西山市朗   高見島・佐柳島の民俗十話」

多度津周辺の島や海岸部のお墓と寺院・神社の関係を見ていくと、そこに高野聖の痕跡が見えてくるようです。南無阿弥陀仏を唱え、阿弥陀・念仏信仰を庶民に広げた高野聖の姿を追ってみましょう。まずは備讃瀬戸の島巡りです。
 瀬戸内海の多度津沖の佐柳島は、今は「ねこ島」として人気があるようです。多度津港から1時間足らずで到着するこの島は、お墓が県の有形・民俗文化財に指定されています。

両墓制
佐柳島長崎の埋墓
 島の北側の長崎集落では、かつては海沿いに死体を埋め、黒い小石を敷き詰め、その上に「桐の地蔵さん」という人形を立てました。それが「埋め墓」です。月日をおいて、骨を取り出し、家毎の石塔を立てた「拝み墓」に埋葬します。「埋め墓」と「拝み墓」を併せて、両墓制と呼びます。
猫だけじゃない佐柳島(両墓制のお墓と玄武岩の岩) | 旅女 Tabijo 〜義眼のバックパッカー〜
佐柳島の埋め墓
佐柳島の埋め墓の特徴は、広い墓地一面に海石が敷きつめられていていることです。この石は、全部海の中から上げた石だそうです。ここでは埋葬にはほとんど穴を掘らず、棺を地上に置いてそのまわりに石で積んだようです。その石は親戚が海へ入って拾い上げて積みます。 『万葉集』の巻二は、ほとんど挽歌ですが次のような歌があります。
「讃岐狭岑島(沙弥島)に石中の死人を視て、柿本人麻呂の作れる歌」
「(上略)名ぐはし 狭岑(沙弥)の島の 荒磯面に 廬りて見れば 浪の音の 繁き浜辺を 敷妙の 枕になして 荒床に ころ臥す君が 家知らば 行きても告げむ(下略)」

意訳変換しておくと
讃岐坂出沖の沙弥島にて、石中に眠る死人をみて柿本人麻呂が作った歌
名ぐはしき沙弥島の荒磯に舟から下りてみると 浪の音の繰り返す浜辺に 砂を枕にして 荒磯を床にして臥す君がいた 
君の家を知っていれば 飛んでいって家族に告げようにも それもできない 無念なことだ」

「石中の死人」から、死体のまわりに石を積んであったこと、つまり積石だったことがわかります。おそらく古代の沙弥島も佐柳島も、同じような葬法がとられていたのでしょう。このような積石は、もともとは風葬死者の荒魂を封鎖するものでした。それが時代が下がり荒魂への恐怖感がうすれるとともに、死者を悪霊に取られないようにするという解釈に変わったと研究者は考えているようです。
1両墓制

 そして、肉親のために石を積む気持が、死者を悼み、死後の成仏を祈る心となって、供養の積石(作善行為)に変わっていきます。
佐柳島の埋め墓で、海の石を拾ってきて積むというのも供養の一つの形なのでしょう。
 ここには寺はありません。古い地蔵石仏(室町時代?)を祭った小庵があるだけです。同じ佐柳島の本浦集落の両墓制は、海ぎわに埋め墓があり、その上の小高い岡の乗蓮寺周辺に拝み墓があります。
 佐柳島に行く途中にフェリーが立ち寄る高見島の浦と浜の両集落にも、両墓制の墓地があります。それぞれの墓地に大聖寺と善福寺がありました。拝み墓が成長して、近世に寺になったようです。島をやってきて最初に住持となったのは、どんな僧侶なのでしょうか?

  多度津の陸地部でも、見立(みたち)浜の墓地は、かつては埋め墓と拝み墓の両墓地が分けられていたようです。
その隣の、西白方の西の浜の墓地のすぐ近くに熊手八幡官があり、宝光院、上生寺もあります。東白方の墓地の一枚の田を隔てた南側に、荒神さんという字の氏神があります。
墓と寺と宮とは別々のもののように今は思われていますが、神仏分離以前の日本人の感性としては、どれも人の霊を祭る所で同じものだったようです。明治以後に見方が変えられただけです。この墓と寺と宮は三位一体で混淆していましたから、一緒に祀られているのは当然だったようです。

道隆寺 堀越津地図
中世の堀江周辺の地形復元図 東西に伸びる砂州の背後に潟湖があった

 中世に多度郡の津があった堀江の墓場を、多度津町史は、次のように記します。
 集落の中央に観音堂があり、えんま像が祀られてる。堂の裏に古い墓がある。堀江の古くからの家は、観音堂に祖先の古い墓を持っている。墓地の裏はすぐ海である。表側では少し離れて西に弘浜八幡宮があるが、海側から見るとすぐ近くである。
 墓地に観音さんを祭って堂を建て、それが寺になったのが観音院で、今は少し離れて東に大きな寺となっている。観音院の本尊は観音の本仏である阿弥陀仏である。寺号の伊福寺のイフクという言葉も、土地から霊魂が出入りするという信仰に基づくものと思われる。宮と墓と寺と一直線に結んで町通(まつとう)筋という、広い道があり、堀江集落の中心をなしている。両墓制から生まれた寺は心のよりどころとして、仏を祀るところともなる。この種の寺は民衆の寺である。

 ここからも先祖供養の墓地に、観音堂が建てられ、それがお寺に成長していくプロセスがうかがえます。また、社も鎮霊施設として墓地周辺にあったことが分かります。

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陣屋は広大な両墓制の墓地の上に作られた。
桜川に架かる極楽橋が墓へのお参りのために架けられた。

近世から明治にかけては多度津の中心地であった元町周辺のお寺を見てみましょう。
多度津町誌には、桜川改修に伴う極楽橋の着け替え工事の際のことについて次のように記されています。
 両岸を掘り下げていた人が金縛りとなって動けなくなったという。不思議なことだと思っていると、沢山の古い人骨と五輪の供養塔が埋まっていた。
 またポンプ場工事の時、富士見町の桜川への流れこみの川の底からも、五輪塔が掘り出された。今は埋め立てられて新町になっているが、弁天山のすぐ下まで海が入り込んできていて、古い骨壷が出上したこともある。
 そこに法輪寺があり、いわゆるえんま堂がある。言うまでもなく墓地である。それから桜川の川口近くの両側は須賀(洲家とも書く)という昔の洲である。
  中世の地形復元図でも、現在の桃陵公園から堀江付近までながい砂州が描かれています。桜川河口は、その砂州と桃陵公園の間を抜けて、海に流れ出していたようです。

道隆寺 堀越津地図

その砂州一帯が、佐柳島と同じように古代には死体の捨て場であったようです。
それが埋葬概念の普及と共に「埋め墓」や「拝み墓」が続くエリアになっていきます。桜川の北側(現JR多度津工場)のあたりには、光巌寺という小庵があり、そこへの参り道に架かるのが「極楽橋」だったようです。そして、橋の南の袂に観音堂がありました。そこから発展したと考えられるのが摩尼院や多門院です。摩尼院の本尊は地蔵さんの石仏です。これは先祖供養の民間信仰から生まれてた「庶民の寺」から発展したお寺らしいと多度津町史は指摘します。
1陣屋

摩尼院の道向こうにある多聞院も同じような性格のお寺だと推測できます。
 多度津の墓場周囲に作られた宗教施設は、民間信仰に根付くもので善通寺などの「鎮護仏教」系の寺院とは異なりました。古代の仏教は、国家・天下の平安を祈るもので人々の現世利益や鎮霊・葬送に応えてくれるものではありません。中世になって、先祖供養や来世往生などの庶民信仰に応えてくれたのは、聖たちでした。時宗聖たちが京都の悪霊(感染症)にたたられた死者を埋葬し、戦国時代には戦場にうち捨てられた死者達を葬り、供養したこと、それを記録として残し、縁者に伝えたことは以前にお話ししました。
明治の多度津地図

 瀬戸内海の海運拠点などでも、お墓のお堂や社に住み着き、南無阿弥陀仏をとなえ死者供養を行ったのは、諸国を廻る聖達であったようです。これが、庶民が聖を受けいれていく糸口にもなります。そのような聖たちが拠点としたのが弥谷寺や宇多津の郷照寺でした。ここには、高野山系の念仏聖たちの痕跡がいろいろな形で見えてくることは以前にお話ししました。
 そして、桜川河口の砂州上に広がる両墓制の墓の鎮魂寺として生まれ、発展してきたのが摩尼院や多門院であると多度津町史は考えているようです。(多度津町史912P)
 次に摩尼院に残る版木を見てみましょう。
多度津摩尼院 版木
多度津摩尼院の五輪塔形曳覆(ひきおおい)曼荼羅の版木
  
この版木は縦91、5㎝、横35、5㎝で、
表面には五輪塔形
裏面には胎蔵界中台八葉院・幡形・
が彫られています。制作年代は江戸時代初期頃とされます。
この版木で摺ったものを葬送の時に、死者に被せました。減罪の功徳を得て、極楽往生を約束する真言・陀羅尼などが書かれています。これが後には、経帷子に変化していくようです。摺られたものは、死者とともに火葬されるものなので、遺品は残りません。しかし、版木が全国で20例ほど見つかっています。
五輪塔形曳覆曼茶羅の版木からは、何が分かるのでしょうか? 
この版木のデザインは、密教と阿弥陀信仰が融合してキリークが加わり、さらに大日如来の三味形としての五輪塔と一体化します。そして、五輪が五体を表す形になったようです。それが鎌倉時代末の事だとされます
中でも研究者が注目するのは、滋賀・圓城寺や、京都・西明寺のものです。圓城寺の版本は、
A面には五輪塔形、
B面には胎蔵界中台八葉院と幡形が彫られ、
その傍らに「南無阿弥陀仏」とともに「承和元年三月十五日書之空海」と彫られています。ここには「南無阿弥陀仏」の六宇名号と空海の両者が登場します。これは
真言密教 + 弘法大師信仰 + 念仏・阿弥陀信仰」
 =真言念仏の公式
にぴったりと当てはまります。
 西明寺のものには、蓮台の上に「南無阿弥陀仏」、その背後には船形の光背がみえます。光背の上下にはキリークとアがあり、さらに『観無量寿経」と陰刻されています。研究者が注目するのは、版本が納められる箱に「高祖大師御作 船板六字名号二枚 加茂大野邑西明寺什物」とあり、これが船板名号と呼ばれている点です。船板名号は時衆系念仏聖に関わりがあるとされることは、弥谷寺の船板名号で以前にお話ししました。つまり、五輪塔形曳覆曼茶羅には、時宗系の高野聖が関わっていたと研究者達は考えているようです。高野聖の痕跡がうかがえるものが、摩尼寺には残っているのです。

一魁斎 正敏@浮世絵スキー&狼の護符マニア on Twitter:  "「季刊・銀花/第36号」の御札特集に滋賀県・石山寺さんの版で良く似たものが「曳覆五輪塔」(正確には五輪塔形曳覆曼荼羅)の名称で掲載されていますが、亡者の棺の中に入れて覆うのに用いるそうです。…  "
        大宝寺の五輪塔形曳覆曼荼羅
 
この版木が所蔵される摩尼院は、今は多度津町の中心街に位置しています。
 しかし、この寺はかつては桜川河口の砂州の上の両墓制のお墓が広がるエリアの入口付近にあったことは、先ほど見たとおりです。そこで滅罪供養と向き合った高野聖がいたのでしょう。彼は、弥谷寺や白方の海岸寺などの流れをくむ聖であったかもしれません。
 近世初頭の江戸時代に瀬戸内海交易の活発化に伴って、沿岸拠点湊は成長を遂げていきます。塩飽の島々の湊も、ターミナルセンターの役割を果たし、人とモノと金が動くようになります。
 この時期は阿弥陀・念仏信仰をもつ高野聖が、高野山から追放された時期とも重なります。彼らは、中世以来の念仏聖の拠点であった宇多津の郷照寺や弥谷寺に居遇しながら、その活動先を多度津や塩飽などの繁栄する湊町に広げて行ったのではないでしょうか。

多度津摩尼院 鬼念仏
鬼念仏(摩尼院)
『祗園執行日記』の康永2年(1343)八月十四日の条には、次のような「営業活動」を行う高野聖の姿が記されています。
高野遁世者正心、師匠寂心の為、教養念仏勧進の次(ついで)、仏舎利奉拝せしむ。
一粒奉請するの処、当座に於て二粒分散し了んぬ。巳上三粒なり、又袈裟十帖代三連渡し了んぬ
意訳変換すると
高野聖正心は、亡師の追善供養という口実で仏舎利を参拝させ、結縁(寄進)をよびかけていた。
 このときに私(顕詮)が、仏舎利一粒を奉請(借りうけてまつる)すると、分散して三粒になる奇瑞があった。引導袈裟10枚を買って3連(1連=100文)を渡した。

 ここには、高野の時宗化下した念仏僧が、京都の四条橋あたりで、笈(おい)を据えて仏像を掲げ、仏舎利をかざり、鉦をうちながら寄進を呼びかけている様子が描かれています。研究者が注目するのは最後の「袈裟十帖代 三連渡し了んぬ」と袈裟10枚を300文で売っていることです。
 念仏勧進は、ただで念仏させるのではなくて、六字名号の念仏紙(賦算札)を拝受させ、うけた喜捨の何分の一かは高野山におさめ、のこりは聖の収人となったようです。その上に、舎利を貸し出しして喜捨をうけ、なお引導袈裟を売るのですから、なかなかよい商売です。高野山からの出張路上販売とも云えます。
 この時代から250年後の多度津の摩尼院の高野聖は、五輪塔形曳覆曼荼羅(引導袈裟)を、自前の版木をそろえって、自分の寺で摺って「販売」していたのです。こうして塩飽諸島の繁栄する湊にも滅罪供養のために高野系の念仏僧が定着するようになり、それが寺院に成長して行ったというストーリー(仮説)が考えられます。それは、あまり古いことではなく中世末から近世初頭にかけてのことのように思えます。
以上をまとめておくと
①中世の多度津周辺の海辺の湊には、海岸に死者を埋葬する風習があり、「埋め墓」「拝み墓」という両墓制が見られた。
②その周辺には、観音堂が建てられ阿弥陀仏が祀られたりするが最初は無住であった。
②死霊に対する鎮魂意識が広がった中世に、滅罪供養に積極的に取り組んだのは高野の時宗系念仏聖であった。
③高野聖は、阿弥陀・念仏信仰のもとに極楽浄土への道を示し、そのためのアイテムとしてお札や
引導袈裟を「販売」するようになる。
④江戸幕府の禁令によって高野山を追放された念仏聖先は、定着先を探して地方にやってくる。
⑤その受け入れ先となったのが、荒廃していた四国霊場や、滅罪供養のお堂などであった。
⑥多度津の摩尼院では、高野系念仏聖がもたらした五輪塔形曳覆曼荼羅(引導袈裟)の版木が残っている。ここからは、高野聖の滅罪寺院への定着がうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
多度津町史 第9編 寺社と信仰(911P~)
武田和昭 四国辺路の形成過程
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