金剛寺(まんのう町長炭)の説明板には次のように記されています。

金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、金剛院金華山黎寺と称していたといわれている。楼門前の石造十三重塔は、上の三層が欠けているが、 鎌倉時代後期に建立されたもの。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれており、各所に経塚が営まれていて山全体が経塚だったと思われる。部落の仏縁地名(金剛院地区)や経塚の状態からみて、 当寺は修験道に関係の深い聖地であったと考えられる。経塚とは、経典を長く後世に伝えるために地中に埋めて塚を築いたもの。 

金剛院集落 坊集落
                  金剛院集落に残る宗教的用語
これを見ると丸亀平野からの峠には、「法師越」「阿弥陀越」があります。また、仏教的用語が地名に残っていることが分かります。私が気になるのは、各戸がそれぞれ「坊名」を持っていることです。ここからは坊を名乗る修験者たちが、ここには数多くいたことがうかがえます。それでは、修験者たちは、この地にどのようにして定着して行ったのでしょうか? 中世後半に姿を消した金剛寺には、それを物語る史料はありません。そこで、以前にお話した国東半島の例を参考に推測していきたいと思います。
やって来たのは天念寺に隣接する駐車場。<br />ここから見上げれば無明橋も見えている。
            国東半島の天念寺と鬼会の里
国東半島に天念寺という寺院があります。
背後の無明橋と鬼会の里として有名です。この寺は、中世にはひとつの谷全体を境内地としていました。そのため長岩屋(天念寺)と呼ばれたようです。この寺が姿を見せるようになるプロセスを研究者は次のように考えています。

駐車場から雨雲のかかる嶺峰の奥には六郷満山の峰入り道が見え隠れします。
①行場に適した岩壁や洞穴を持つ谷に修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く
②長岩屋と呼ばれる施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。
③いくつかの坊が作られ、その周囲は開拓されて焼畑がつくられてゆく。
④坊を中心に宗教的色彩におおわれた、ひとつの村が姿を見せるようになる。
⑤それが長岩屋と呼ばれるようになる

「夷耶馬」にも六郷満山の一つの岩屋である夷岩屋があります。
古文書によれば、平安後期の長承四年(1125)、僧行源は長い年月、岩屋のまわりの森林を切り払って田畠を開発し、「修正」のつとめを果たすとともに、自らの生命を養ってきたので、この権利を認めてほしいと請願します。これを六郷満山の本山や、この長岩屋の住僧三人、付近の岩屋の住僧たちが承認します。この長岩屋においても、夷岩屋と同じようなプロセスで開発が進行していたことが推測できます。

長岩屋エリアに住むことを許された62戸の修験者のほとんどは、「黒法師屋敷」のように「屋敷」を称しています。
他は「○○薗」「○○畠」「○○坊」、そして単なる地名のみの呼称となっています。その中で「一ノ払」「徳乗払」と、「払」のつく例が二つあります。「払」とは、香々地の夷岩屋の古文書にあるように、樹林を「切り払い」、田畠を開拓したところからの名称のようです。山中の開拓の様子が浮かんでくる呼称です。「払」の付い屋敷は、長岩屋の谷の最も源流に近い場所に位置します。「徳乗払」は、徳乗という僧によって切り拓かれたのでしょう。詳しく見てみると、北向きの小さなサコ(谷)に今も三戸の家があります。サコの入口、東側の尾根先には、南北朝後半頃の国東塔一基と五輪塔五基ほどが立っていて、このサコの開拓の古いことがうかがえます。

そして、神仏分離によって寺と寺院は隔てられた。<br /><br />しかし、ここで行われる祭礼は、今でも寺院の手で行われているようだ。<br />その意味では、他所に比べて「神仏分離」が緩やかな印象を受ける。<br /><br />
                鬼会の行われる身禊(みそぎ)神社と講堂

長岩屋を中心とした中世のムラの姿の変遷を見ておきましょう。
この谷に住む長岩屋の住僧の屋敷62ケ所を書き上げた古文書(六郷山長岩屋住僧置文案:室町時代の応永25年(1418)があります。
天念寺長岩屋地区
中世長岩屋の修験者屋敷分布
そのうち62の屋敷の中の20余りについては、小地名などから現在地が分かります。長さ4㎞あまりの谷筋のどこに屋敷があったのかが分かります。この古文書には、この谷に生活できるのは住僧(修験者)と、天念寺の門徒だけで、それ以外の住民は谷から追放すると定められています。ここからは、長岩屋は「宗教特区」だったことになります。国東の中世のムラは、このようにして成立した所が珍しくないようです。つまり、修験者たちによって谷は開かれたことになります。これが一般的な国東のムラの形成史のようです。このようなムラを「坊集落」と研究者は呼んでいます。

このように国東の特徴は、修験者が行場周辺を開発して定着したことです。
そのため修験者は、土地持ちの農民として生活を確保した上で、宗教者としての活動も続けることができました。別の視点で見ると、生活が保障された修験者、裕福な修験者の層が、国東には厚かったことになります。これが独自の仏教的環境を作り出してきた要因のひとつと研究者は考えています。どちらにしても長岩屋には、数多くの修験者たちが土地を開き、農民としての姿を持ちながら安定した生活を送るようになります。
 別の視点で見ると大量の修験者供給地が形成されたことになります。あらたに生まれた修験者は、生活の糧をどこに求めたのでしょうか。例えばタレント溢れるブラジルのサッカー選手が世界中で活躍するように、新たな活動先を探して「出稼ぎ」「移住」を行ったという想像が私には湧いてきます。豊後灘の向こう側の伊予の大洲藩や宇和島藩には、その痕跡があるような気配がします。しかし、今の私には、史料的に裏付けることはできません。
天念寺境内絵図
神仏分離の前の天念寺境内絵図

以上、国東半島の天念寺の「坊集落」を見てきました。これをヒントに金剛院集落の成り立ち推測してみます。

金剛院集落=坊集落説

①古代に讃岐国府の管理下で、大川山の山腹に山林修行のために中村廃寺が建立された。
②山上の中村廃寺に対して、里に後方支援施設として金剛寺が開かれ、周辺山林が寄進された。
③廻国の山林修行者が金剛寺周辺に、周辺の山林を焼畑で開墾しながら定着し、坊を開いた。
④こうして金剛寺を中心に、いくつもの坊が囲む宗教的空間(寺社荘園)が現れた。
⑤金剛寺は、鎌倉時代には宗教荘園として独立性を保つことができたが、南北朝の動乱期を乗り切ることができずに姿を消した。
⑥具体的には、守護細川氏・長尾城主の長尾氏の保護が得られなかった(敵対勢力側についた?)
⑦古代後半から南北時代に、金光院集落からは多くの修験者たちを生む出す供給地であった。
⑧金剛寺が衰退した後も、大川山周辺は霊山として修験道の活動エリアであった。
こうして見てくると、旧琴南など地元寺院に残る「中村廃寺」の後継寺という由緒も、金剛寺とのつながりの中で生まれたと考えた方が自然なのではないかと思えてきます。また、旧琴南地区に山伏が登場する昔話が多く残っているのも、金剛寺の流れを汲む修験者の活動が背景があるからではないか。

金剛院集落 まんのう町
まんのう町金剛院集落(手前は十三重塔)
どちらにしても古代末から南北朝時代にかけて、まんのう町長炭の山間部には金剛寺というお寺があり、周囲にはいくつも坊を従えていたこと。そこは全国からの山林修行者がやってきて写経し経筒を埋める霊山でもあったこと、その規模は、白峯寺や弥谷寺にも匹敵した可能性があることとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」
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