瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:中世の宇多津

    
 船乗りたちにとって海は隔てるものではなく、結びつけるものでした。舟さえあれば海の上をどこにでもいくことができたのです。海によって瀬戸内海の港は結びつけられ、細かなネットワークが張り巡らされ、頻繁にモノと人が動いていたのです。中国の「南船北馬」に対して、ある研修者は「西船東馬」という言葉を提唱しています。東日本は陸地が多いから馬を利用する、西日本は瀬戸内海があるため船を利用するというのです。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg
     「兵庫北関入船納帳」にみる大量海上輸送時代の到来
 室町時代になると、商品経済が発達してきます。そこで一度に大量の荷物を運ばなければならないので海運需要は増え、舟は大型化することになります。「兵庫北関入船納帳」を見ると400石を越える舟が讃岐でも塩飽と潟元には3艘ずつあったことが分かります。

3兵庫北関入船納帳.j5pg
  「北関入船納帳」には、どんなことが書かれているのか

3兵庫北関入船納帳
①入船月日
②舟の所属地
③物品名 
⑤関税額(文)と納入日時 
⑥船頭名 
⑦問丸名
の7項目が記されています
    具体的に、宇多津の舟を例に見てみましょう。 
②宇多津
③千鯛 
 甘駄・小島(塩)  ④百石  
 島(小豆島)    ④百石     
⑤一貫百文  
⑥橘五郎     
⑦法徳
   六月六日
北があれば当然南もあります。これは兵庫関所のある宇多津舟の項目です。当時は奈良春日大社の別当であった興福寺が南関所を管理していたようです。明治維新の神仏分離で、文書類は春日大社の方へ移されました。
②一番上に書いている宇多津、これが船籍地です。
港の名前ではなく船が所属している地名です。現在で船には必ず名前が付いています。その船の名前の下に地名が書かれています。その地名が船籍地です。ですから、その船に宇多津の船籍地が書かれていても、すべて宇多津の港から出入りしているわけではありません。
③その次に書かれている干鯛は、船に積んでいる荷物のことです。
備讃瀬戸は鯛の好漁場だったので干した鯛が干物として出荷されていたようです。その次の小島は「児島」です。これは、これは地名商品で、塩のことです。「島」は小豆島産の塩、芸予諸島の塩は「備後」と記されています。ちなみに讃岐船の積み荷の8割は塩です。
④次の廿駄とか百石というのは塩の数量です。
⑤その下の一貫百文、これが関税です。関料といいます。
⑥橘五郎とあるのは船頭の名前です。
⑦最後に法徳とありますが、これが問丸という荷物・物資を取り扱う業者です。六月六日と書いているのは関料を納入した月日です。
  実物の文書には、宇多津の地名の右肩に印が付けられているようです。その印が関料を収めたという印だそうです。この船は五月十九日に入港してきて、関料を納入したのは六月六日です。その時に、この印はつけれたようです。
「北関入船納帳」には、17ヶ国の船が出てきます。
そのうち船籍地(港)名は106です。入関数が多いベスト3が
①摂津②播磨③備前で、第四位が讃岐です。

国ごとの船籍地(港)の数は、播磨が21で一番多く、讃岐は第二位で、下表の17港からの船が寄港しています。
兵庫北関1

その17港の中で出入りが一番多いのが宇多津船で、一年間で47回です。一方一番少ないのが手島です。これは塩飽の手島のようです。手島にも、瀬戸内海交易を行う商船があり、問丸や船乗り達がいたということになります。

3 兵庫 
  積み荷で一番多いのは塩        全体の輸送量の八〇%は塩
塩の下に(塩)の欄があります。これは例えば「小島(児島)百石」と地名が記載されていますが、塩の産地を示したものです。地名指示商品という言い方をしますが、これが塩のことです。瀬戸内海各地で塩が早くから作られていますが、その塩が作られた地名を記載しています。讃岐は塩の産地として有名でした。讃岐で生産した塩をいろんな港の船で運んでいます。片本(潟元)・庵治・野原(高松)の船は主として塩を運んでいます。「塩輸送船団」が登場していたようです。そして、塩を運ぶ舟は大型で花形だったようです。塩を運ぶために、讃岐の海運業は発展したとも言えそうです。

中世関東の和船

 通行税を払わずに通過した塩飽船
兵庫湊は関所ですから、ここより東に行く舟はすべて兵庫湊に立ち寄り、通行料を支払わなければならないことになっていました。しかし、通行料を払いたくない船頭も世の中にはいるものです。どんな手を使ったのでしょうか見てみましょう。  
 摂津国兵庫津都両関役の事、先規のごとくその沙汰致すべく償旨 讃州塩飽嶋中へ相触らるべく候由なり、冊て執達くだんのごとし
   (文明五年)十二月八日   家兼
      安富新兵衛尉殿
 応仁の乱の最中の文明五年十二月八日付けで、家兼から安富新兵衛尉宛への書状です。家兼は室町幕府の奉行人、受取人は讃岐守護代の安富新兵衛尉です。内容は、兵庫関へちゃんと関税を払うように塩飽の島々を指導せよ内容です。この時期に税を払わず、関を通らないで直接大坂へ行った塩飽の船がいたようです。この指示を受けて、2日後の十二月十日に元家から安富左衛門尉へ出したのが次の文書です。
 〔東大寺文書〕安富元家遵行状(折紙)
 摂津国兵庫津南都両関役の事、先規のごとくその沙汰致すべく候由、今月八日御奉書かくのごとく、すみやかに塩飽嶋中へ相触れらるべしの状くだんのごとし
 文明五年十二月十日      元家(花押)
   安富左衛門尉殿
なぜ幕府から讃岐守護代に出された命令が2日後に、塩飽代官に出せるのでしょうか。京都から讃岐まで2日で、届くのでしょうか?
それは守護細川氏が京都にいるので、守護代の安富新兵衛尉も京都にいるのです。讃岐の守護代達やその他の国の守護代達も上京して京都に事務所を置いているのです。言わば「細川氏讃岐国京都事務所」で、守護代の香川氏・安富氏などが机を並べて仕事をしている姿をイメージしてください。幕府から届けられた命令書を受けて、京都事務所で作成された指示書が塩飽の代官に出されているようです。
 室町幕府役人(家兼) → 
 讃岐守護代 (京都駐在の安富新兵衛尉)→ 
 塩飽代官  (安富左衛門尉)→
 塩飽の船頭への注意指導
 という命令系統です。同時に、この史料からは塩飽が安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽と云えば私の感覚からすると丸亀・多度津沖にあるから香川氏の支配下にあったと思っていましたが、そうではないようです。後には安富氏に代わって香西氏が、塩飽や直島を支配下に置いていく気配があります。
 話を元に戻して・・・
「入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」が出てきます
国料とは、関所を通過するときに税金を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。通行税を支払う必要ないから積載品目を書く必要がありません。ただし国料船は限られた者だけに与えられていました。室町幕府の最有力家臣は山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である十川氏と香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。それは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。
   もう一つ過書船というのがあります。
これは積んでいる荷物が定められた制限内だったら税金を免除するというしくみです。塩飽船の何隻かは、この過書船だったようです。しかし税金を支払いたくないために、ごまかして過書船に物資を積み込んで輸送します。しかし、それがばれるようです。ごまかしが見つかったからこんな文書が出されるのでしょう。「行政側から「禁止」通達が出ている史料を見たら裏返して、そういう行為が行われていたと読め」と、歴史学演習の授業で教わった記憶があります。塩飽船がたびたび過書船だと偽って、通行税を支払わないで通行していたことがうかがえます。
 次に古文書の中に出てくる讃岐の港を見ていきましょう。
 
7仁尾
中世仁尾の復元図
 まず仁尾湊です 仁尾には賀茂神社の御厨がありました。
海産物を京都の賀茂神社に奉納するための神人がここにいました。海産物を運ぶためには輸送船が必要です。そのために神人が海運業を営んでいたようです。残されている応永二十七年(1420)の讃岐守護細川満元の文書を見てみましょう。
【賀茂神社文書】細川満元書下写
兵船及び度々忠節致すの条、尤もって神妙なり、
甲乙人当浦神人など対して狼籍致す輩は、
罪科に処すべくの状くだんのごとし
  応永廿七年十月十七日
                    御判
    仁尾浦供祭人中
 「兵船及び度々忠節致すの条」とは、細川氏が用いる輸送船や警備船を仁尾の港町が度々準備してきたとのお褒め・感謝の言葉です。続いて、賀茂神社の「神人」に狼藉を行うなと、仁尾浦の人々に通達しています。これも「逆読み」すると、住民から「神人」への暴行などがあったことがうかがえます。住民と仁尾浦の管理を任されている「神人」には緊張関係があったようです。「神人」は、神社に使える人々という意味で、交易活動や船頭なども行っているのです。
 ちなみに、この文書が出された年は、宋希璋を団長とする朝鮮使節団が瀬戸内海を往復した年です。使節団員が一番怖れていたのは海賊であったと以前お話ししましたが、その警備のための舟を出すように讃岐守護の細川光元から達しが出されています。仁尾はいろいろな物資を運ぶ輸送船以外にも、警備船なども出しています。そういう意味では、細川家にとって仁尾は、備讃瀬戸における重要な「軍港」であったようです。

6宇多津2135
中世宇多津 復元図 
讃岐にやって来た足利義満を細川頼之は宇多津で迎えた
〔鹿苑院殿厳島詣記〕康応元年(1389)
ゐの時ばかりにおきの方にあたりて あし火のかげ所々に見ゆ、これなむ讃岐国うた津なりけり、御舟程なくいたりつかせた給ぬ、七日は是にとゝまらせ給、此所のかたちは、北にむかひてなぎさにそひて海人の家々ならべり、ひむがしは野山のおのへ北ざまに長くみえたり、磯ぎはにつゝきて古たる松がえなどむろの木にならびたり、寺々の軒ばほのかにみゆ、すこしひき人て御まし所をまうけたり、
鹿苑院殿というのは室町幕府三代将軍足利義満のことです。康応元年(1389)3月7日 将軍足利義満が宇多津に引退していた元管領の細川頼之を訪ねてやってきます。訪問の目的は、積年のギクシャクした関係を改善するためで、厳島詣を口実にやってきたようです。二人の間で会談が行われ、関係改善が約されます。その時の宇多津の様子が描かれています。
「港の形は、北に向かって海岸線に沿って人家が並び、東は尾根が北に長く伸びている。港の海沿いには古い松並木が続き、多くの寺の軒がほのかに見える。」
 当時の宇多津は、元管領でいくつもの国の守護を兼ねる細川頼之のお膝元の港町でした。
「なぎさにそひて海人の家々ならべり」と街並みが形成され、
「磯ぎはにつゝきて古たる松がえなどむろの木にならびたり、寺々の軒ばほのかにみゆ」と、海岸沿いの松並木とその向こうにいくつもの寺の伽藍立ち並ぶ港町であったことが分かります。しかし、守護所がどこにあったかは分かっていません。義満と細川頼之の会談がどこで行われたかも分かりません。確かなことは、細川頼之が義満を迎えるのに選んだ港町が宇多津であったことです。宇多津は「北関入船納帳」では、讃岐の港で群を抜いて入港船が多い港でもありました。
 その宇多津の経済力がうかがえる史料を見てみましょう。
 〔金蔵寺文書〕金蔵寺修造要脚廻文案
 (端裏書)
「諸津へ寺修造の時の要脚引付」
当寺(金蔵寺)大破候間、修造をつかまつり候、先例のごとく拾貫文の御合力を預け候は、祝着たるべく候、恐々謹言
 先規(先例)の引付
  宇多津 十貫文
  多度津 五貫文
  堀 江 三貫文
資料③は、大嵐で金蔵寺が大破したときに、その修造費を周辺の3つの港町に求めた文書です。
 宇多津は十貫文(銭1万枚=80万円)、多度津が半分の五貫文、堀江が1/3の三貫文の寄付が先例であったようです。今でも寺社の寄付金は、懐に応じて出されるのが習いです。そうだとすれば、宇多津は多度津の倍の港湾力や経済力があったことになります。

 多度津は西讃岐の守護代香川氏の居館が現在の桃陵公園にありました。
山城は天霧城です。港は、桃陵公園の下の桜川河口とされています。西讃守護代の香川氏の港です。守護の細川氏から京都駐屯を命じられた場合には、この港から兵を載せた輸送船が出港していたのかもしれません。その時の舟を用意したのは、白方の山路氏だと私は考えています。山路氏については、前回見たように芸予諸島の弓削島荘への「押領」を荘園領主から訴えられていた文書が残っています。海賊と「海の武士」は、裏表の関係にあったことは前回お話ししました。
   もうひとつが堀江津です。聞き慣れない港名です。

3 堀江
堀江は、中世地形復元によると現在の道隆寺間際まで潟(ラグーン)が入り込んで、そこが港の機能を果たしていたと研究者は考えているようです。その港の管理センターが道隆寺になります。このことについては、以前紹介しましたので省略します。ちなみに古代に那珂郡の郡港であったとされる「中津」は、港町の献金リストには登場しません。この時代には土砂の堆積で港としての機能を失っていたのかもしれません。
 宇多津の経済力が多度津の2倍だったことは分かるとして、金蔵寺の復興になぜ宇多津が応じるのでしょうか?金蔵寺と宇多津を結ぶ関係が今の私には見えてきません。

3 塩飽 tizu

    キリスト宣教師がやってきたシワクイ(塩飽)
「耶蘇会士日本通信」(永禄七年)には塩飽のことが次のように書かれています
 フオレの港(伊予の堀江)よりシワクイ(塩飽)と言ふ他の港に到りしが、船頭は止むを得ず回所に我等を留めたり。同所は堺に致る行程の半途にして、此間約六日を費せり。寒気は甚しく、山は皆雪に被はれ、絶えず降雪あり、今日まで日本に於て経験せし寒気と比較して大いに異れるを感じたり。
 シワクイに上陸し、我等を堺に運ぶべき船なかりしが、十四レグワを距てたる他の港には必ず船があるべしと聞き、小舟を雇ひて同所に行くこととなせり。此沿岸には賊多きを以て同じ道を行く船一隻と同行せしが途中より我等と別れたり。我等は皆賊の艦隊に遭遇することあるべしと思ひ、大なる恐怖と懸念を以て進航せしが、之が為め途中厳寒を感ずること無かりしは一の幸福なりき。
我等の主は目的の地に到着するごとを嘉みし給ひ、我等は堺に行く船を待ち約十二日同所に留まれり。
フオレとは伊予の堀江、シワクイが塩飽のことです。伊予の堀江から塩飽まで六日間かかった。塩飽は堺へ行く途中の港だというように書いています。堺へ行く舟は、必ず塩飽へ立ち寄っています。これは風待ち・潮待ちをするために寄るのですが、目的地まで直行する船がない場合、乗り継ぐために塩飽で船を探すことが多かったようです。以前紹介した新見の荘から京都へ帰る東寺の荘官も倉敷から塩飽にやってきて、10日ほど滞在して堺への船に乗船しています。
宣教師達が最初に上陸した港には、堺への船の便がなく、「十四レグワを距てたる他の港には必ず船がある」と聞いて小舟で再移動しています。 レグワについて『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のようにあります
   レグアは、スペイン語・ポルトガル語圏で使われた距離の単位である。日本語ではレグワとも書く。古代のガリア人が用いたレウカ(レウガ)が元で、イギリスのリーグと同語源である。一般に、徒歩で1時間に進める距離とされる。現在のスペインでは5572.7メートル、ポルトガルで5000メートル。距離は国と時代によって異なるが、だいたい4キロメートルから6.6キロメートルの範囲におさまる。
 14レグワ×約4㎞=56㎞
となります。これは塩飽諸島の範囲を超えてしまいます。最初に着いた港は塩飽諸島にある港ではないようです。「寒気は甚しく、山は皆雪に被はれ、絶えず降雪あり」というのも讃岐の風景にはふさわしくない気がします。近隣で探せば、赤石や石鎚連峰が背後に控える今治や西条などがふさわしく思えます。そこから14レグワ(56㎞)離れた塩飽に小舟でやってきたと、私は考えています。

「此沿岸には賊多き」と海賊を怖れているのは、朝鮮からの使節団も同じでした。宣教師達も海賊を心配する様子が克明に記されています。また「日本の著名なる港」との記述もあり、塩飽の港が日本有数の港であったことが分かります。塩飽という港はないので、本島の泊か笠島としておきます。

 以上をまとめておくと
①北関入船納帳には、兵庫港(神戸港)へ出入りした讃岐17港の舟の船頭や積荷が記されている
②讃岐船の積荷の8割は「塩」で、大型の塩専用輸送船も登場していた。   
③兵庫湊の関税は、守護や守護代の積荷を運ぶ舟には免税されていた。
④免税特権を悪用して、兵庫港を通過し関税を納めない舟もあった。
⑤仁尾は賀茂神社の「神人」が管理する港で、細川氏の「軍港」の役割も果たしていた。
⑦讃岐にやって来た将軍義満を細川頼之が迎えたのは宇多津の港であった
⑧金蔵寺の修繕費の宇多津の寄付額は、多度津の倍である
⑨中世の中讃地区には、堀江湊があり道隆寺が交易管理センターとなっていた
⑩九州からやってきたキリスト宣教師は、塩飽で舟を乗り換えて上洛した
⑪塩飽は「海のハイウエー」のSA(サービスエリア)でありジャンクションでもあった。
おつきあいいただき、ありがとうございました。


6宇多津1
香川県立ミュージアムの特別展『海に開かれた都市~高松-港湾都市九〇〇年のあゆみ~』で提示された一五世紀~一六世紀前半の宇多津の景観復元図を見ていくことにしましょう
この復元のためには、次のような作業が行われているようです。
①幕末の『讃岐国名勝図会』・『安政三年奉納宇夫階神社に七』・『網浦眺望 青山真景図絵馬』から町割など近世後期の景観を復元する
②そこから延享二年(1745)頃に作られた古浜塩田、浜町・天野新開を消す
③塩田工事と同時に行われた大束川河口部の付替工事を、それ以前の景観にもどす
④伊勢町遺跡発掘調査から近世前期にできた形成を消す
⑤大足川を近世以前の位置にもどす
これらの作業を経てできあがった14世紀の復元図を見てみましょう。
6宇多津2
①青ノ山北麓と聖通寺山北端部を突端部とし、大きく湾入するように海域が入り込む
②その中央付近に大束川が流れ込む。
③河口入江には東と西に突端した砂堆がある(砂堆2・3)
④大束川河口部をふさぐように砂堆が細長く延び(砂堆I)、先端付近では背後に潟がある
⑤砂堆Iの海側には遠浅地形が広がっていた
⑥居住可能なエリアは、青ノ山山裾とそこから海際までの緩斜面地と砂堆、
⑦平山では聖通寺山と平山の山裾の狭陰な平坦地
                
宇多津地形復元図
中世宇多津の復元図
宇多津の中心軸(道路)の  両端には宇夫階神社と聖通寺が鎮座します
①宇多津の中心軸は、西光寺がある砂堆Iの真ん中を東西方向伸びる道路である。
②河口部は、深く入り込んだ入江に沿って聖通寺山の麓の平山まで続く。
③内陸部へ伸びる南北道路は、砂堆1の付根で東西道路と交差し東西・南北の基軸線となる。
④東西道と南北道の交差点付近に港があり、海上交通と陸上交通の結節点となり最重要エリアになる
④東西軸は丸亀街道、南北道路は金毘羅街道へと継承されていく主要路である。
宇多津の東西に位置する聖通寺と宇夫階神社を見ておきましょう
聖通寺の建立時期の古さは何を物語るのか?
 大束川の河口は深く入り込んだ入江となっていて、宇多津と聖通寺山とは湾で隔てられています。その山裾に修験道の醍醐寺開祖・理源大師と関係が深いとされる聖通寺(真言宗)があります。寺伝では貞観10年(868)の創建、文永年間の再興を経て、貞治年間に細川頼之の帰依を受けて復興したとあります。創建時期が、宇多津の諸寺院よりもはるかに古いこを研究者は指摘します。
  聖通寺には、長享二年(1488)に常陸国六反田(茨城県水戸市)六地蔵寺の僧侶が聖通寺で書写したという記録が残っています。
ここからはこの寺が、各地の僧侶が集まる様々な書籍や情報を所蔵した「学問所」であったことがうかがえます。理源大師も若い頃に、この寺で学んだと伝えられます。道隆寺や金蔵寺なども学問所であったと云われ、諸国からの修験者たちがやってきたお寺です。この寺も奥の院は、聖通寺山の山中にあり、大きな磐座(いわくら)が聖地となっていたようです。同時に、この地域には沙弥島・本島・聖通寺山・城山と理源大師に関係の深い「聖地」が残っていて、修験者が活発な活動を行っていた形成がうかがえます。
宇夫階神社も勧請時期は古く、聖通寺の同じ時期に従五位に叙せられています
この神社は、産土神として古くから宇多津の総鎮守的な存在です。復元地図で見ると、大束川を挟んだ宇多津の領域の両端に宇夫階神社と聖通寺が鎮座していることになります。ここからも宇多津における両者の重要性がうかがえます。九世紀後半の宇多津において、この両者が登場してくる「事件」があったのかもしれません。
6宇多津2135
 宇多津の中世集落は、どのあたりにあったのでしょうか
①東西・南北道路が交差する場所(集落I・現西光寺周辺)
②郷照寺の門前周辺で砂堆1と砂堆3が形成する湾入部の一番奥の付近(集落2)、
③砂堆Iの背後の潟周辺で、長興寺(安国寺)の門前周辺(集落3)、
④宇夫階神社の門前で、砂堆3の付根(集落4)
の4つに分かれて集落があったようです。伊勢町遺跡の調査報告書には、各集落が港湾施設(船着場)を伴っていた可能性が高く、『兵庫北関入船納帳』にある「中丁」「西」「奥浜」という三つの集落の存在との対応関係」があることを記しています。

宇多津
宇多津(讃岐国名勝図会)
そして、さらに次のように推論しています
①「中丁」は集落I、
②「西」は集落2ないし4、
③「奥浜」は集落3ないし2
に当たると研究者は考えているようです。
 内陸・海上交通の結節点になる集落1が、宇多津の中心集落のようです。『兵庫北関入船納帳』に出てくる船頭の「弾正」は、ここを本拠地に活動したのかもしれません。さらに、集落1の発掘調査からは、次のような集団がいたことが分かっているようです。
①鍛冶屋等の職人がいたこと
②大規模で多様な漁労活動を行っていた集団がこと
③いち早く「灯明皿」を使うなど「都市的なスタイル」を取り入れた「先進的生活」を送っていた人たちが生活していたこと
このように4つの港湾施設をもる集落が複合体として、宇多津という港町を形成していたと研究者は考えているようです。

6宇多津2213
中世の船着き場の変遷 
中世宇多津の港(船着場)は、どんなものだったのでしょうか?
伊勢町遺跡からは、14世紀初めの石を積み上げた護岸と、16世紀の礫敷きが出てきました。石積み護岸は絵画資料では『遊行上人縁起絵』など、15世紀の室町期になって描かれるようになります。この遺跡も15世紀頃のものなのでしょう。研究者が注目するのは、海際の集落が港湾施設を持ち、それが石材を用いて整備されている点です
6宇多津2
  宇多津への寺社勢力の進出の背景は・
 青野山の山裾や、南北道路の高台、砂堆Iの背後の潟(河口部)に各宗派の寺院が立ち並んでいます。このような景観は『義満公厳島詣記』や文献資料からも見えますし、今でも同じ光景を見ることが出来ます。
宇多津に多くの宗派の寺院がそろっているのはどうしてなのでしょうか。
 まず挙げられるのは、港町宇多津の経済力の高さでしょう。各寺院の瀬戸内海の港町への布教方法を見ると、そこに住む人びとを対象とした布教活動とともに、流通拠点となる港町に拠点をおいて円滑に瀬戸内海交易を行おうとする各宗派のねらいがあったことが分かります。僧侶は、中世の荘園を管理したように、港町の寺院を「交易センター」として管理していたのです。
6宇多津の寺院1
各宗派の進出状況を時期別にまとめると、次のような表になります
①鎌倉期には真言宗寺院、
②南北朝~室町前期には守護細川氏と関連が深い禅寺、
③室町後期にも細川氏の帰依を受けた法華宗寺院、
④戦国期には浄土真宗寺院
が年代順に建立されていて、各宗派の寺院が段階的に進出したことが分かります。一度に姿を現したのではないのです。このことは13世紀後半~16世紀代を通して、宇多津が成長し続けたことを物語ると同時に、各時代の歴史的なモニュメントとも言えます。
本妙寺(法華宗)の建立については以前も取り上げました。
宇多津本妙寺
本妙寺
この寺はの開祖日隆は、細川氏の保護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教活動を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立します。いずれも内海屈指の港町で、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動を展開したことがうかがえます。細川氏が本妙寺を保護していたことは、守護代安富氏が寺中諸課役を免除したことからも分かります。(『本妙寺文書』)。
戦国期には青ノ山南東麓にあった寺院が、西光寺と名前を変えて町内に移転してきます。
 西光寺は、それまでの寺院が青ノ山の山裾に建立されていたのに対し、河口の港のそばに寺域を設けます。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津の西光寺 港のそばに立地
その背景には、浄土真宗寺院の海上流通路掌握といった動きがうかがえます。西光寺は石山合戦に際して本願寺顕如の依頼に応えて、物資を援助をするなど、経済力も高いものがあったようです。
これらの14世紀後半期の法華宗寺院、15世紀後半期における浄土真宗寺院の動きは瀬戸内海各地の港町と同時進行の動きで、当時の瀬戸内海港町で共通する動向だったようです。
宇夫階神社の担った役割は?
宇多津では、このように多くの宗派が林立したために、住民がひとつの寺院の下に集まり宗教活動を行い結集の機会を作り出すことはありませんでした。集落や諸宗派・各寺院の檀家といったレベルのちがう単位がモザイク状に並立した状況だったのです。こうしたある面でばらばらな集団単位を結びつける役割を担ったのが宇夫階神社だったようです。

utadu_02 宇夫階社・神宮寺・秋庭社・神石社:
産土階神社(宇多津)

この神社は、祭礼をとおして複数の集落や単位を統合させる宇多津の重要な核として機能します。そのことは、宇多津の中心軸である東西道路の西端正面に鎮座する立地が示しています。総鎮守的な単一の神社であるを宇夫階神社は宇多津の大きな求心力として機能していたようです。
領主勢力は、直接的に宇多津を支配していたのか?
 宇多津には守護所が置かれたと云われますが、これについては研究者は慎重な態度のようです。『兵庫北関入船納帳』にみる国料船や本妙寺・長興寺・普済院・聖通寺等守護細川氏との関わりが深い寺院の建立・再興などに、守護勢力の影はうかがえます。しかし、宇多津町内に城郭があった形成はありません。封建勢力が港町宇多津への直接的支配権を持っていたとは云えないようです。
 守護所跡と考えられる円通寺・多聞寺、南隆寺の城郭的施設も領主勢力の居城としては、根拠が弱いのです。集落内にも領主の平地居館は、見当たりません。つまり、守護を中心とした領主勢力の宇多津への直接的な関与はあまり感じられないのです。それよりも寺社勢力や「弾正」や「法徳」などの有力海運業者を通じて間接的に関与していたと研究者は考えているようです。

宇多津地形復元図

隣接する港町 平山の役割は?
 湾内を隔てて、聖通寺山の麓にある平山も港町だったようです。『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てきます。宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。自立した港ですが、機能面では連動した相互補完的関係にあったと研究者は考えているようです。
平山の集落は砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近(集落5)、
聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近(集落6)
が想定できるようです。
 『兵庫北関入船納帳』の記載からも平山に本拠地を置く船主の姿がいたようで、小さいながらも港町が形成されていたことが分かります。また、宇多津よりも沖合いに近い立地や、広域的な沖乗り航路とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。


川津と宇多津の関係は?
 一方、宇多津は後背地となる大束川流域の丸亀平野に抱かれていました。それは、高松平野と野原の関係と同じです。大束川の河口の東側には「角山」があります。近くに津ノ郷という地名があることなどから考えると、もともとは「港を望む山」で「津ノ山」という意味だったと推察できます。角山の麓には、下川津という地名があります。これは大束川の川港があったところです。下川津から大足川を遡ったところにある鋳物師屋や鋳物師原の地名は、この川の水運を利用して鋳物の製作や販売に携わった手工業者がいたことをうかがわせます。さらに「蓮尺」の地名は、連雀商人にちなむものとみることもできます。

連雀商人

連雀商人
連雀商人の活動と衰退
連雀商人の衰退要因

このように宇多岸は、海に向かって開けた港であるばかりでなく、大足川を通じて背後の鵜足郡と密接に結び付いた港であったと研究者は考えています。
 坂出市川津町は、中世の九条家荘河津荘でした。そうすると尾道のや倉敷のように、宇多津も荘園の倉敷地の役割を果たす港町の機能も持っていたのかもしれません。そして広いエリアからの集荷活動を行い、備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する塩飽を背景に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。

4344102-42宇多津海側
宇多津の海側(讃岐国名勝図会)

     江戸時代になっての宇多津は?
 天正期には豊臣配下の仙石氏が平山に聖通寺山城を築きます。しかし、それも一時的でその後にやって来た生駒親正は、讃岐支配の新たな拠点として高松と丸亀に城を築城し、城下町を開きます。その際に、宇多津や平山からは多くの寺院、町が高松と丸亀に移転させました。港町宇多津は重要な機能を失うことになります。その背景には商人の街である港町宇多津が、新たな領主にとっては解体すべき対象であったのでしょう。同時に、宇多津から「引抜」いていかないと、新たな城下町として高松や丸亀の建設は難しかったとも考えられます。
 大足川の埋積作用は河口部や砂堆前面を着実に埋没させて行きました。讃岐を代表する港町宇多津は、政治的経済的な中心性だけでなく、港湾機能も奪われていくことになり、やがて地方的な港町になっていきました。
江戸期になると高松藩米蔵が設置され、新たな展開をむかえます。
髙松藩米蔵一覧

高松藩米蔵は、東讃の志度・鶴羽・引田・三本松に置かれますが、宇多津は他の米蔵を圧倒する量を誇りました。ここでは鵜足郡や那珂郡の年貢米を管理し、集荷地・中継地としての機能します。これにともない現在の地割が整備されていきます。

宇多津 讃岐国名勝図会2
大束川沿いに置かれた米蔵(讃岐国名勝図会)
 しかし、大束川の堆積作用は、港に深刻な状況をもたらします。それを克服するため18世紀前半には、他の港町に先駆けて湛甫形式の港湾施設を完成させ、港湾機能の維持に努めます。しかし、やがては金比羅詣での船が寄港するようになった多度津や丸亀にその役割も譲ることになります。
  参考文献
Amazon.co.jp: 中世讃岐と瀬戸内世界 (港町の原像 上) : 市村 高男: 本
   中世讃岐と瀬戸内世界 所収    中世宇多津・平山の景観 松本和彦

浄土真宗の中讃への布教は、阿波の安楽寺が布教センターだったことを前回にお伝えしました。それは阿波ルートの興正寺派の教線でした。しかし、真宗の伝播には、もう一つ本願寺による「海のルート」があります。

四国真宗伝播 寛永3年安楽寺末寺分布

興正寺派の阿波安楽寺の末寺分布図(寛永3年)
讃岐に数多くの末寺があったことが分かる。

 古代から瀬戸内海は東西を結ぶ「海のハイウエー」の役割を果たしてきました。島の湊はそのサービスエリアでもありました。この瀬戸内海を通じて真宗は入ってきます。これが本願寺のルートです。
 讃岐への真宗の伝播は、興正寺からのルートと本願寺からのルートの二つがあったことになります。讃岐の真宗寺院の分布状況を見ると、海岸線に本願寺系が多く、内陸部には興正寺系は多く存在しています。それは、海から伝わったか、阿波から伝わったかの伝播ルートのちがいによるようです。

 真宗と讃岐の結びつきはいつ頃から?

「天文日記」は、本願寺第十世證如が21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けた19年間の日記です。その中の天文12(1543)5月10日条に、次のように記されています。 
『天文日記』天文十二年五月十日・七月二十二日
十日 就当番之儀、讃岐国福善寺以上洛之次、今一番計動之、非何後儀、樽持参第二七月二十二日 従讃岐香西神五郎、初府致音信也。使渡辺善門跡水仕子也。
ここには、天文十二(1544)に「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあります。福善寺は高松市にありますが、本願寺へ樽を持参していたことが記されています。福禅寺が本願寺の末寺となっていたようです。この16世紀半ばの天文年間に、本願寺と関係がある真宗寺院が髙松にはあったことが分かります。
 また、
七月二十二日「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」とあります。これは、香西氏が初めて本願寺を訪れた記録になるようです。香西氏の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたようです。讃岐の武士団の中に真宗信者が現れ、本願寺と結びつきを深めていく者もいたのです。

どうして、香西氏は本願寺の間に結びつきができたのでしょうか?

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 当時、讃岐は「阿波三好氏の支配下」にありました。そして、阿波三好氏の実権を握っていたのが重臣の篠原長房でした。そこで香西氏は長房に率いられて上洛し、本願寺へと赴くようになるのです。それは長房の夫人が、堺の真宗のお寺の娘さんという関係があったからのようです。それを縁に本願寺と長房は、深い結びつきを持つようになります。こうして、篠原長房に従った讃岐武士団のなかにも、真宗に改宗し、真宗を保護する者もあらわれます。
讃岐に真宗寺院が、増加するのは享禄から天文年間にかけてです。

四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗創建年代一覧
讃岐の真宗寺院の郡別創建年代一覧
応永・明応年間  1368年から1375年 1492年から1501年
②文亀・大永年間  1501年から1504年 1521年から1528年
③天文年間 1532年から1555年
④天正年間 1573年から1593年
上表から分かることをあげておくと
①の15世紀末時期に創建された4寺は、興正寺系末寺である
②になると三木郡の常光寺や阿波郡里の安楽寺の興正寺の教線がラインが伸びてくる。
③天文年間になると、瀬戸内海ルートで本願寺からの教線ラインが伸びてくる。
④大水上神社の信仰圏である大内・寒川・三木や、善通寺・弥谷寺など真言系修験道の信仰圏である多度郡・三野郡・豊田郡などは、この時期に設立された真宗寺院が少ない。

四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗転宗一覧
讃岐郡別の真宗への転宗寺院数
上図は、この時期に旧仏教(真言・天台)から真宗に転宗した郡別寺院数を一覧化したものです。上の④で指摘したように、修験道系の旧仏教勢力の強いところでは、転宗寺院は少ないようです。
真言・天台の旧勢力が衰えていた地域に真宗が入り込んで、真宗に宗派替えをするようになっていることがうかがえます。地域的に見ると中讃地域に多いようです。改宗時期を見ると、讃岐で真宗寺院が増える天文年間(1532. ~1555年)のようです。
 ここからは、私の仮説です。
 この時期は、西長尾城主の弟・宥雅が流行神である金毘羅神を産み出し、金毘羅堂を象頭山に建立した時期にもあたります。宥雅の中には、讃岐山脈を越えて丸亀平野に入ってくる郡里安楽寺の布教僧侶たちの姿が目に入っていたはずです。土器川の奧の百姓たちに根付いて、各地で道場を開いていく真宗の僧侶たち。宥雅は善通寺で修行を修めた真言僧侶です。彼らは、丸亀平野の奥から次第に、門徒を増やして行く真宗の布教活動を見て、なんとかしなければならないという危機意識を膨らませます。その答えが、新たな霊力ある神を祭り、信者を獲得することでした。そのために地元に伝わる悪魚退治伝説の悪魚を、善進化しクンピーラとして登場させます。
 つまり、宥雅による流行神である金毘羅神の創出は、那珂郡や鵜足郡で急速に門徒を増やす真宗への対抗措置であったと私は考えています。
土器川沿いに上流から中流へと道場をふやしていく動きとは、別の動きが真宗にはありました、それが本願寺自らが開拓していた教線ルートである瀬戸内海ルートです。

その中の一つに宇多津の西光寺があります。

この寺の「縁起」を見てみましょう。『諦観山西光寺縁起』
天文十八年、向専法師、本尊の奇特を感得し、再興の志を起し、経営の功を尽して、遂に仏閣となす。向専の父を進藤山城守といふ。其手長兵衛尉宣絞、子細ありて、大谷の真門に帰して、発心出家す。本願寺十代証知御門跡の御弟子となり、法名を向専と賜ふ。
天文十八年(1550)に本願寺・証知の弟子になって、向専という名前を与えられています。そして、この寺に当時の支配者であった阿波の篠原長房が出した禁制(保護)が西光寺に残っています。  
  史料⑤篠原長絞禁制〔西光寺文書〕
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」と記載があります。
 鍋屋というのは地名です。その付近に最初は「道場」ができたようです。それが「元亀貳年正月」には西光寺道場」と寺院名を持つまでに「成長」しています。
イメージ 6

西光寺の門扉の紋章
本願寺派に属する宇多津の西光寺の前は、かつては海でした。

宇多津 西光寺

中世の宇多津
江戸時代になって塩田が作られ、現在ではそれが埋め立てられて海は遙か北に退きましたが、この時代は西光寺の前は海でした。小舟であれば直接に、この寺の船着き場にこぎ寄せることが出来ました。本願寺から「教線拡大」のための僧侶が海からやってきたのです。
 宇多津は中世は管領細川氏の拠点で当時の「県庁所在地」で、讃岐で最も繁栄する「都市」であり「湊」でした。その山手には各宗派の寺院が、建ち並んでいました。このような「宗教激戦地」の中で本願寺は、どんな形で布教活動を進めたのでしょうか? 興正寺派が農村で進めた布教活動とは、どんな点がちがっていたのでしょう。

まず、布教対象です。どのような人々が門徒になったかです。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世の復元図の中の西光寺 湾内に突き出た砂州上に立地

 先ほど史料で見たように、西光寺の付近に鋳物師原とか鍋屋といった鋳物に関わる地名が残っています。手工業に従事する人々が、この付近に住んでいたことが分かります。この地域には、今も西光寺の檀家が多くいるそうです。
 また宇多津は港町として繁栄しますが、水運業に関わる人たちのなかにも門徒が増えていくようです。非農業民の真宗門徒をワタリと称しています。宇多津は経済力の大きな町で、それを支えるのがこのような門徒たちであり、また西光寺も支えていたのです。

宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津 西光寺(江戸時代後半)

 ちなみに、宇多津の沖の本島・広島には多くの寺院がありましたが真宗寺院はありません。小豆島もそうです。讃岐の島々は旧勢力の真言宗が強く、真宗の入っていく余地はなく「布教活動」は成功しなかったようです。
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宇多津の西光寺が成長していく永禄年間というのは戦国時代の真最中です。
 当時の讃岐の状況は、阿波の三好氏が侵入してきてその支配下になっていました。また中央では、大坂の石山本願寺をめぐって織田信長と本願寺の対立が目増しに激しくなっていく時期です。その渦に、讃岐の真宗寺院が巻き込まれていくのです。
 当時は真宗の門徒たちが一致団結して、権力者に立ち向かっていく状況が各地で見られました。一向一揆ですが、その「司令本部」が石山本願寺(現大阪城)でした。石山本願寺と信長が直接対決するようになるのが元亀元年からで、この戦いを「石山戦争」と呼んでいます。この「石山戦争」に建立されたばかりの讃岐の真宗寺院が巻き込まれていきます。
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西光寺

 大阪石山本願寺の顕如が阿波の慈船寺に当てた次の文書が残っています。顕如書状〔慈船寺文書〕
近年信長依権威、爰許へたいし度々難題いまに其煩やます候、此両門下之輩於励寸志者、仏法興隆たるへく候、諸国錯乱の時節、卸此之儀、さためて調かたなく覚候へとも、旨趣を申候、尚様鉢においては上野法眼・別邸郷法橋可申候、あなかしこあなかしこ
     十月七日
      阿波               顕如花押
       坊主衆中へ
       門徒衆中へ
「阿波坊主衆中 門徒衆中」となっています。本願寺から直接阿波の寺院へ出したものです。内容は
「信長の非道を責めつつ、信長と本願寺がついに戦いを始めたから、各地の門徒たちは本願寺を援助しろ」
ということです。しかし、信長と戦うにも本願寺が自前の軍隊をもっているわけではありません。本願寺の要請によって各地の門徒たちがこぞって応援にかけつけることになります。また兵糧・軍資金の要請もします。このような顕如の手紙を「置文」といい、全国に多く残っています。
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西光寺本堂

 そして、讃岐でそれに応じたのが西光寺です。

 下間頼廉書状〔西光寺文書〕
  回文「詳定」
  一 青銅七百貫
  一 法米五十解
  一 大麦小麦格解貳斗
 今度御門跡様織田信長と就御鉾楯不大方、依之其方以勧化之働、右之通獣上述披露候所、懇志之段神妙思召候、早奉仰御利運所也、弥法儀相続無出断仏恩称名可披相嗜事、白河 以肝要愉旨、能々相心得可申候由御意愉、則披顕御印愉悦
             別邸郷法橋
     五月十三         頼廉(花押)
         西光寺 専念
これは本願寺の財務方の「法橋」からの礼状になります。
「青銅七百貨、植木五十解、大麦小麦捨百二斗」を、西光寺が支援物資として本願寺へ送ったことに対する礼状です。青銅七百貨は銭です。西光寺がそれだけの資金を準備できるお寺であり、それを支える門徒衆の存在がうかがえます。これは西光寺だけでなく、阿波の安楽寺や安芸門徒(広島)などの寺院も送っています。全国各地から多額の軍資金や兵糧が本願寺へ送られるのです。
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西光寺 白壁の塀には「銃眼」が開けられています

 信長は本願寺と戦うだけでなく、あちこちで一向一揆と壮絶な戦いを繰り広げています。本願寺にとってみれば、長島・越前など各地のの一向衆の一揆がたたき潰されていくのですから、生き残りをかけた戦いで敗れるわけにはいきません。ここで敗れることは本願寺王国の壊滅というせっぱつまった状況にあったのです。信長にとってみれば、本願寺をたたき潰すことにより、長年の一向一揆との戦いに終止符をうつことになるのです。お互いに負けることができない戦いがこの石山戦争なのです。そして、同時展開で西欧で展開されていた「宗教戦争」とも似ていました。
 そして本願寺は戦いの向こうに展望が開けて行くことになります。

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西光寺 東側はかつては海だった
どちらにしても、真宗の讃岐への伝播は
① 阿波ルートで「真宗興正寺派」が山から平野に
② 瀬戸内海ルートで「真宗本願寺」が海岸の港町を拠点に
讃岐に「教線拡大」していくのです。

参考文献 橋詰 茂 「讃岐における真宗の展開」
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