瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:中世の港

 中世の絵巻に出てくる港を見ていると、護岸などの「港湾施設」が何も描かれておらず、砂地の浜に船を乗り上げていた様子がうかがえます。しかし、発掘調査からは石積護岸工事を行った上で、接岸施設を設けた川港も出てきているようです。今回は、宇治川太閤堤を見ていくことにします。テキストは「畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」
 その前に法然上人絵図に描かれた湊を見ておきましょう。
鳥羽の川港.離岸JPG
                  鳥羽の川湊(法然上人絵伝 巻34第2段)
長竿を船頭が着くと、船は岸を離れ流れに乗って遠ざかっていきます。市女笠の女が別れの手を振ります。私が気になるのが、①の凹型です。人の手で堀り込まれたように見えます。この部分に、川船の後尾が接岸されていて、ここから出港していたように思えます。そうだとすれば、これは「中世の港湾施設」ということになります。しかし、石垣などの構造物は何もありません。この絵伝が描かれたのは、法然が亡くなった後、約百年後の14世紀初頭のことです。当時の絵師の鳥羽の川湊とは、こんなイメージであったことがうかがえます。
次は兵庫浦(神戸)のお堂の前の湊です。

高砂
   
海に面したお堂で法然で経机を前に、往生への道を説いています。法然が説法を行うお堂の前は、すぐに浜です。その浜に⑤⑥の漁船が乗り上げていますが、ここにも港湾施設は見当たりません。

兵庫湊
法然上人絵伝 巻34〔第3段」  経の島
 
馬を走らせてやってきた武士が、お堂に駆け込んで行きます。家並みの屋根の向こう側にも、多くの人がお堂を目指している姿が見えます。ここにも何隻かの船が舫われていますが、港湾施設らしきものはありません。砂浜だけです。
兵庫湊2

つぎに続く上の場面を見ると、砂浜が続き、微高地の向こうに船の上部だけが見えます。手前側も同じような光景です。ここからはこの絵に描かれた兵庫湊にも、港湾施設はなく、砂州の微高地を利用して船を係留していたことがうかがえます。手前には檜皮葺きの赤い屋根の堂宇が見えますが、風で屋根の一部が吹き飛ばされています。この堂宇も海の安全を守る海民たちの社なのでしょう。後には、これらの社の別当寺として、寺院が湊近くに姿を見せ社僧達によって湊を管理するようになります。そこから得る利益は莫大なものになっていきます。
私が気になるのが浜辺と船の関係です。ここにも港湾施設的なものは見当たりません。
砂浜の浅瀬に船が乗り上げて停船しているように見えます。拡大して見ると、手前の船には縄や網・重石などが見えるので、海民たちの漁船のようです。右手に見えるのは輸送船のようにも見えます。また、現在の感覚からすると、船着き場周辺には倉庫などの建物が建ち並んでいたのではないかと思うのですが、ここにもそのような施設もなかったようです。
  当時日本で最も栄えていた港の一つ博多港を見てみましょう。
博多湊も砂堆背後の潟湖跡から荷揚場が出てきました。それを研究者は次のように報告しています。

「志賀島や能古島に大船を留め、小舟もしくは中型船で博多津の港と自船とを行き来したものと推測できる。入港する船舶は、御笠川と那珂川が合流して博多湾にそそぐ河道を遡上して入海に入り、砂浜に直接乗り上げて着岸したものであろう。港湾関係の施設は全く検出されておらず、荷揚げの足場としての桟橋を臨時に設ける程度で事足りたのではなかろうか」

ここからは博多港ですら砂堆の背後の潟湖の静かな浜が荷揚場として使われていたようです。そして「砂浜に直接乗り上げて着岸」し、「港湾施設は何もなく、荷揚げ足場として桟橋を臨時に設けるだけ」だというのです。日本一の港の港湾施設がこのレベルだったようです。12世紀の港と港町(集落)とは一体化していなかったことを押さえておきます。河口にぽつんと船着き場があり、そこには住宅や倉庫はないとかんがえているようです。ある歴史家は「中世の港はすこぶる索漠としたものだった」と云っています。ここでは港湾施設が港に現れる時期を、押さえておきます。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀
③階段状雁木は18世紀
ここからが今日の本題です。発掘調査から出てきている①②の遺構を見ていくことにします。
宇治川太閤堤築堤
宇治川太閤堤
 秀吉によって作られた宇治川太閤堤です。
 文禄元年(1592)に、豊臣秀吉は伏見城の築城に着手します。この城は、当初は隠居所と考えられていたので大規模なものではなかったようです。それが文禄3年(1594)に、淀城を廃して、一部の建物を伏見に移築して本格的城郭として体裁を整えていきます。城下には宇治川の水を引き入れた船入も造成され、城下町が整備されています。そして8月には伏見城は完成し、秀吉は伏見に移っています。築堤工事は伏見築城と並行して行われていて、10月には前田利家が宇治川の付け替え工事を命じられているほか、織田秀信は伏見・小倉間の新堤を築堤し、宇治橋を破却しています。

宇治川太閤堤築堤2
宇治川太閤堤の石積護岸

 宇治川太閤堤築堤の目的は、次の2点です
①宇治川の治水ではなく、伏見港の機能を高めるためで、朝鮮半島への派兵を行うための水運の拠点を築くこと
②大和街道を伏見城下に移し、大坂と伏見を結ぶ京街道が整備し、伏見を水陸交通の要衝として機能させること
発掘調査地点は、宇治橋下流側の宇治川右岸300mにわたって続いています。
宇治川堤防1
宇治川太閤堤
護岸遺構からは川側に向けて「石出し」が4ケ所、「杭出し」が2ケ所突き出ています。
宇治川太閤堤築堤4
宇治川太閤堤築堤 石積み護岸
石積み護岸は、馬踏(天端)幅2m、敷(護岸底辺)幅が約5m、高さは2、2m。石積み護岸は上半の石張りと下半の石積みの2段構造です。簡単な整地後、板状の割石を直接張り付けただけです。

宇治川太閤堤築堤3

杭止め護岸は、杭などの木材を用いて垂直に岸を造る工法です。
杭止め護岸は上図3-2のとおり、かせ木・横木(頭押え)支え柱で構成され、裏側に拳から頭くらいの石が詰め込まれています。

 宇治川太閤堤築堤5
宇治川太閤堤は、石出で水流を弱めて護岸の侵食を防ぐ目的がありました。その下流の杭出しは、杭が何本も建ち並び、船着き場として使われていたようです。つまり、この工事は護岸工事であると同時に、船着き場設置工事でもあったようです。

宇治川太閤堤築堤 杭だし(船着場)
杭出し(船着場)復元
  中世から近世にかけての石材を用いた河川護岸施設の多くは、船着き場や物資の集積流通拠点だったと研究者は考えています。そのために巨額の資金と労働力が投下されたようです。
  宇治川太閤堤築堤 石出し

 また宇治川太閤堤の石出しの石垣には、城郭の石垣技術が援用されていることを研究者は指摘します。
城郭と治水・利水施設は目的は違いますが、技術は相互に援用されたようです。例えば、徳川家康の家臣で深溝(愛知県幸田町)を本拠とした松平家忠は、数多くの城普請を手掛けたことが『家忠日記』から分かります。その技術は、領地である永良や中島での築堤工事によって培われたようです。
 満濃池再築を果たした西嶋八兵衛が、若い頃は藩主藤堂高虎の下で二条城や大阪城の天下普請で土木工事技術を身につけていたのも、このような文脈の中で理解すべきようです。それが讃岐での治水工事やため池築造に活かされます。ここからは、築城と築堤が密に関係していたことを押さえておきます。

 宇治川太閤堤跡は、秀吉の伏見築城の付帯工事として着工された河川改修工事です。
そのため秀吉の命により配下の大名達が分担する「天下普請」でした。この工事の重要性は
①文禄3年という時期が分かること
②大名クラスの治水についての思想や技術が込められていること
つまり、時期と築造階層が特定できる点で、非常に重要な遺跡だと研究者は考えています。例えば、甲斐の信玄堤や、加藤清正による肥後での河川工事などの実態についてはよく分かっていません。具体的にどのような工事が行われたのかは、はっきりせず「俗説」が一人歩きしている状態だと研究者は指摘します。そのなかでこの宇治川太閤堤は、用いられた資材や施行内容までもが具体的に分かります。そういう意味でも、中世以来の治水技術の到達点であると同時に、近世の治水技術の出発点の指標となる遺跡です。同時に、川湊という視点からは、石積護岸化と川湊の関係が見えてくる遺跡とも云えます。
 次回は、宇治川太閤堤に作られた川湊の原点とも云える徳島市の川西遺跡の石積護岸を見ていくことにします。
川西遺跡3

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」
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 昔の港というと鞆や御手洗、室津などの北前船が出入りした港を私はイメージします。そこには石積みの突堤があり、灯台がわりの大きな灯籠が建ち、雁木に横付けされた船着場には何艘もの小舟が横付けされ、忙しげに人夫達が荷物の積み卸しを行う・・こんな姿が私の港イメージでした。しかし、このような港が姿を現すのは19世紀になってからのことのようです。
それでは中世の港とは、どんな姿だったのでしょうか。
それに応えてくれるのが、新高松駅やサンポート開発の際に発掘された野原(現高松)の調査報告書です。そこからは16世紀末期に高松城が生駒氏によって築城される前の中世の港の姿が現れました。それをイラスト化したのが下の景観図です。ここには次のような事が描き込まれています。
野原の港 イラスト
中世の高松港復元図(野原)
①元香東川河口の東西からのびる砂堆が発達して、自然の防波堤の役割を果たしていた。
②その背後には奥深く潟湖が入り込んできており、そこが積荷の積み下ろしが行われる港湾施設でであった

中世の高松港
中世高松港拡大図

③荷揚げの時の安定した足場を確保するために波打ち際には赤い板石が敷き詰められている。
④イラスト左側(西側)の船着場は杭と横木を組み合わせてある。
⑤船着場の周辺には倉庫や管理施設・住居などはない
⑥潟湖の内側の水深は浅く、大型船は入ってこれないため沖合に停泊し、小型船に積荷を載せ替えて入港していた。沖合の女木島には大型船が停泊している。

①については、旧香東川は近世までは栗林公園を経て現在のホテル・クレメント辺りが河口であったようです。
野原の港 俯瞰図イラスト

②の船着場があったのは、新高松駅と中央通りの間のエリアになります。
野原・高松・屋島復元地形図jpg

そして、③④⑤を見ると、雁木も突堤も灯台もありません。近世の鞆港とはイメージが大きくちがいます。ある意味港湾施設が何もなく貧弱におもえてきます。中世の港とは、どこもこんな感じなのでしょうか?
  当時の日本で最も栄えていた港の一つ博多港の遺跡を見てみましょう。
ここも砂堆背後の潟湖跡から荷揚場が出てきました。それを研究者は次のように報告しています。
「志賀島や能古島に大船を留め、小舟もしくは中型船で博多津の港と自船とを行き来したものと推測できる。入港する船舶は、御笠川と那珂川が合流して博多湾にそそぐ河道を遡上して入海に入り、砂浜に直接乗り上げて着岸したものであろう。海岸線の白磁一括廃棄が出土した第十四次調査においても、港湾関係の施設は全く検出されておらず、荷揚げの足場としての桟橋を臨時に設ける程度で事足りたのではなかろうか」

ここからは、博多港も砂堆の背後に広がる潟湖の波打際に立地して、砂堆が波除けの役割を果たし、静かな水域の浜が荷揚場として使われていたようです。そして「砂浜に直接乗り上げて着岸」し、「港湾施設は何もなく、荷揚げ足場として桟橋を臨時に設けるだけ」だというのです。日本一の港の港湾施設がこのレベルだったようです。
「⑤船着場の周辺には倉庫や管理施設・住居などはない」についても、
12世紀の港と港町(集落)とは一体化していなかったようです。河口のぽつんと船着き場があり、そこには住宅や倉庫はないのです。ある歴史家は
「中世の港はすこぶる索漠としたものだった」
と云っています。
 ここに建物(浜之町遺跡)の形成が始まるのは13世紀末になってからのようです。それは、福山の草戸千軒遺跡や青森の十三湊遺跡と同時期です。この時期が中世港町の出現期になるようです。それまで、港は寂しい所であったようです。

野原 陸揚げ作業イラスト
中世高松港 陶器の荷揚げシーン
このイラストは近畿圏から運ばれきた陶器を荷揚げしているシーンです。
野原の港からは多量の和泉型瓦器椀のかけらが出てきましたが、そこには摩滅の痕跡なく使用された跡がないといいます。新品を廃棄していたのでしょうか? どうもこれは近畿から運び込まれた器を荷揚げして選別し、不良品をその場で廃棄していたようです。チェックに合格したものだけが後背地に向けて出荷されていたのでしょう。
 この絵には海岸線に赤い石が敷き詰められています。これが③の「礫敷き遺構」です。
野原 礫敷発掘現場
平成8年(1996)の高松城下層遺跡(高松城跡西の丸町B・C地区)からは、波打際から礫敷き遺構が出てきました。潟湖の緩斜面に拳大の安山岩角礫を貼り付けるように構築し、平坦部は敷き詰められていました。上の図11の右側が海で、海から緩やかに陸に上がっていく緩斜面に石が敷かれているのが分かります。礫敷きは、時代を経て同じ所に何回も敷き詰め直されたようです。継続的な維持・管理が行われていたことがうかがえます。
  この敷石は、どこから運ばれてきたのでしょうか?
礫敷きに使われているのは安山岩角礫です。一番近い採取場所として考えられるのが、南約2kmの石清尾山塊です。石清尾山北麓の亀尾山には、山城の石清水八幡宮を勧請したと伝えられる石清尾八幡宮旧境内があり、その付近で節理の進んだ安山岩の露頭があります。ここから運ばれたと考えるのが自然のようです。それは、この港の管理運営に石清尾八幡宮が関わっていたことがうかがう材料になるようです。
 同じ角礫を用いた礫敷き遺構は、直島・積浦遺跡(12世紀)からもでてきています。
この遺跡は、直島南東部に湾人する小規模な潟の出入口にあり、自然の海岸線に安山岩角礫を貼り付けています。直島では花崗岩はありますが安山岩はありません。高松(中世は野原)から舟で運ばれてきた可能性もあると研究者は考えているようです。もしそうであえば、直島群島を経て児島あるいは牛窓に至る備讃海峡横断ルートが、野原を起点にこの時期に整備されたということになります。
 正応二年〈1289)に、播磨・魚住泊の修築料を室津・尼崎・渡辺などが負担している例があるようです。魚住泊を航路上の中継地として必要とした主要港町が、修築費を出しているのです。ある意味、受益者負担での原則で港湾整備が行われていたことを示す事例です。これが慣例的に行われていたのなら直島に、野原港(高松城下層遺跡)と同じ礫敷きが作られたのは、野原勢力による寄港地確保のための造営とも考えられるようです。
野原の港 木碇
礫敷きにの近くからは、木碇も出土しています。これに石などをくくりつけて碇にしていたようです。
野原の港 係留施設

この出土品は④の船着場に使われていた杭と横木です。この杭を浅い潟湖に打ち込んで、横木で固定し、その上に板木を載せていたようです。この板木と礫石が「湾岸施設」と言えるようです。「貧弱」とおもいますが、これが当時のレベルだったようです。


石井謙治氏は、近世の港について次のように述べています。
今日の港しか知らない人々には信じ難いものだろうが、事実、江戸時代までは廻船が岸壁や桟橋に横づけになるなんていうことはなかった。天下の江戸ですら品川沖に沖懸りしていたにすぎないし、最大の港湾都市大坂でも安治川や本津川内に入って碇泊していたから、荷役はすべて小型の瀬取船(別名茶船)や上荷船で行うよりほかなかった。(中略)
 これが当時の河口港の現実の姿だったのである。ただし船の出入りの多い瀬戸内の多数の港では、大きな河川も少ないため港湾の地形に応じた石組の波止を設けるという、大がかりな築港工事を行っている。これは日本の土木史上特筆すべき事業だと思うのだが、全く評価されてないのは残念である」(石井謙治「ものと人間の文化史」
それでは、雁木や灯台・灯籠などが港に現れるのはいつ頃からなのでしょうか。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀、
③階段状雁木は18世紀
雁木が現れるのは、江戸時代の後半になってからのようです。
灯台・灯標は、いつ現れるのでしょうか?
香川県仁尾宿人の木造金毘羅灯籠(寛政12年(1800)
鞆の石造金昆羅灯籠(安政六年(1859)
丸亀新堀湛市の太助灯籠(天保九年(1838)
などは、灯籠としては大き過ぎます。港内に置かれた位置からも灯台の役割を果たしたと研究者は考えているようです。
 一方、普通の石灯籠の形を取るもののは、ほとんどが金毘羅灯籠です。
波止の先端(多度津湛甫)
砂堆の先端(坂出浦)
湛市の港口(宇多津)
岬の先端(香川県与島浦城)
などには19世紀前半~中葉の年紀が刻まれています。やや先行する事例として和田浜湛甫では、寛政四年の石灯籠があります。
また高松城下では、 17~18世紀の絵画史料には東浜・西浜舟入などに灯標が描かれていませんが、19世紀前半~中葉には描かれるようになります。そして明治15年(1883)の古写真では北浜の本造灯籠と東浜舟入波止の石灯籠が写されています。
 以上から灯台・灯標の普及は、19世紀前半のようです。これは「19世紀前半の長大な波上による船溜まりの出現」と期を同じくするようです。
高松城122スキャナー版sim

ドック(船蔵)が姿を見せるのは16世紀末葉~17世紀前半の城下町建設からのようです。
「高松城下図屏風」には、藩専用の西浜舟入に多数の船蔵が描かれ、その背後の建物に材木が多数積まれています。商人たちが使用していた東浜舟入の背後でも船が作られている様子が描かれています。ドックの機能は、それ以前からもあったはずですが、特定の場所が船蔵あるいは焚場として「施設化」するのは、海に面した城下町が姿を荒らさすのと同じ時期のようです。
DSC02527
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
佐藤竜馬 前近代の港湾施設 中世港町論の射程 岩田書店
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