瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:中世の瀬戸内海

瀬戸内海航路3 16世紀 守龍の航路

16世紀半ばに京都の東福寺の寺領得地保の年貢確保のために周防に派遣された禅僧守龍の記録から瀬戸内海の港や海賊の様子を前回は見ました。守龍は周防では、陶晴賢やその家臣毛利房継、伊香賀房明などのあいだを頻繁に行き来して寺領の安堵を図っています。大内家の要人たち交渉を終えた守龍は、年があけて1551(天文20)年の3月14日、陶晴賢の本拠富田を出発して陸路を「尾方」に向かい、往路と同じように厳島に渡ってから、堺に向かう乗合船に乗船します。北西風が強く吹く冬は、中世の舟は「休業」していたようです。春になって瀬戸内海航路の舟が動き出すのを待っていたのかも知れません。今回は守龍の帰路を見ていくことにします。テキストは 「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」です
守龍が宮島からの帰路に利用した船の船頭は「室ノ五郎大夫」です。
瀬戸の港 室津

 室は現在の兵庫県の室津で、この湊も古代以来の重要な停泊地でした。1342(康永元)年には、近くの東寺領矢野荘(兵庫県相生市)に派遣された東寺の使者が、矢野荘の年貢米を名主百姓に警固をさせて室津に運び、そこから船に積み込んで運送したことが「東寺百合文書」に記されています。室津が矢野荘の年貢の積出港の役割を果たしていたことがうかがえます。
1室津 俯瞰図
室津

また「兵庫北関入船納帳」(1445年)には、室津舟は82回の入関が記録されています。これは、地下(兵庫)、牛窓、由良(淡路島)、尼崎につぐ回数で、室津が活発な海運活動を展開する船舶基地になっていたことが分かります。室津船の積荷の中で一番多いのは、小鰯、ナマコなどの海産物です。これは室津が海運の基地であると同時に漁業の基地でもあったことがうかがえます。いろいろな海民たちがいたのでしょう。

1室津 絵図
室津
室津にも多くの船頭がいたことが史料からも分かります。
南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が記されています。室津が当時の人々に、兵庫とならぶ「船頭の本場」と認識されていたことがわかります。室の五郎大夫は、こんな船頭の一人だったのでしょう。
 守龍は周防からの帰路に五郎大夫の船を利用します。
宮島から堺までの船賃として支払ったのは、自分300文、従者分200文です。当時の瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして広範囲に「客船」を運航する船頭たちがいたことが分かります。同時に宮島が塩飽と同じように瀬戸内海客船航路のターミナル港であったことがうかがえます。
 宮島を出た舟は順風を得ることができずに、一旦立ち戻ったりもしています。その後は順調に船旅を続け、
平清盛の開削伝承のある音戸瀬戸
宋希環が海賊と交流した蒲刈島
などをへて、三月晦日には安芸の「田河原」(竹原)に着きます。
瀬戸の港 竹原
竹原 賀茂川河口が竹原湊
ここは賀茂御祖社(下鴨社)領都宇竹原荘のあるところで、荘内を流れる賀茂川の川口に港が開かれていました。竹原の港で一夜を明かした翌日の4月1日、守龍の乗った船は竹原沖で海賊と遭遇します。
守龍の記録には次のように記されています。
未の刻午後2時関の大将ウカ島賊船十五艘あり、互いに端舟を以て問答すること昏鵜(こんあ)に及ぶ、夜雨に逢いて蓬窓に臥す、暁天に及び過分の礼銭を出して無事

意訳変換しておくと
未の刻(午後2時頃) 海賊大将のウカ島賊船十五艘が現れた、互いに端舟下ろして交渉を始めた。それは暗くなって続き、夜雨の中でも行われた。明け方になって過分の礼銭を出すことでやっと交渉が成立し、無事通過できた。

 海賊遭遇から得た情報を研究者は、次のように解析します。
「関の大将」とは、なんなのでしょうか。文字通り関所(通行税徴収)の大将がやってきたと思うのですが別の解釈もあるようです。薩摩の武将島津家久の旅日記『中書家久公御上京日記』にも
「ひゝのとて来たり」「のう島(能島)とて来たり」

などと、「関」がやってきたと記しています。この「関」は関所を意味する言葉ではないようで、ここでは「関」を海賊そのものとして使っているようです。海賊が関所を設けて金銭を徴収することは、小説「海賊の娘」でよく知られるようになりました。当時は、関所と海賊が一体のものとして認識されていて、「関」という言葉が海賊そのものを意味するようになったようです。

7 御手洗 航路ti北

 明代の中国人の日本研究書である『日本風土記』には「海寇」のことを「せき(設机)」と記します。ポルトガル語の辞書『日葡辞書』には、「セキ(関)」の項に「道路を占拠したり遮断したりすること」「通行税(関銭)などを収りたてて自由に通行させない関所、また通行税を取る人々」という語義の他に「海賊」意味があると記されています。関とは、海賊が一般社会に向けていた表向きの顔と研究者は考えているようです。
竹原近海で守龍たちの舟に接近してきた「関の大将」は、海賊でした。
海賊の大将「ウカ島」とは、尾道水道にある宇賀島(現在は岡島、JR尾道駅の対岸)を本拠とする海賊衆です。
瀬戸の港 尾道対岸の岡島
尾道水道の向こう側にある岡島(旧宇賀島)小さな子山
彼らは宇賀島を中心に周辺海域で航行船舶から礼銭、関料を徴収していたようです。応永27年(1420)7月、朝鮮の日本回礼使・宋希璟は尾道で海賊船十八隻の待ち伏せを受けて食料を求められたと記します。 宇賀島衆は向島の領主的地位も持っていたようです。しかし、このあとすぐの天文23年(1554)ごろに、因島村上氏と小早川氏によって滅ぼされています。
ここから分かることは、因島村上氏は16世紀半ばまでは尾道水道周辺を自分のナワバリに出来ていなかったということです。つまり、村上水軍は芸予諸島の一円的な制海権を、この時点では握っていなかったことになります。村上水軍の制海権は小早川隆景と結ぶことによって、急速に形成されたことがうかがえます。

 向島とつながる前の岡島(小歌島)
「ウカ島」の海賊大将は、15艘もの船を率いて、船頭五郎大夫の舟を取り囲む有力海賊だったようです。
船頭五郎大夫は、さっそく通行料について「問答」(交渉)を始めます。両者は互いに端舟を出して交渉します。往路の日比では交渉が決裂し、交戦に至りましたが、今度は15艘の艦隊で取り囲まれています。逃げ出すわけにもいきません。船頭の五郎大夫はねばりにねばります。
 未の刻(午後二時)に始まった交渉は、「昏鵜」(日ぐれ)になってもまとまりません。さらに夜を徹して続けられ、翌日の「暁天」になってやっと交渉はまとまります。それは、船頭側が「過分の礼銭」を出すことに応じたからでした。
船頭が海賊に支払った銭貨がなぜ「礼銭」と呼ばれるのでしょうか?
 海賊に対して航行する船の側が「礼」をしていることになります。これは通行の自由が認められている私たちからすれば、分かりにくいことです。ある意味、中世人独特の世界観が表わされているのかもしれません。
 「礼銭」という言葉の背後にあるのは、守龍らの船が本来航行してはいけない領域、なんらかのあいさつ抜きでは航行できない領域を航行したという意識だと研究者は考えているようです。それでは、公の海をなぜ勝手に航行してはいけないのか。それは、おそらく、そこが海賊と呼ばれるその海域の領主たちの生活の場、いわばナワバリだったからでしょう。海賊のナワバリの中を通過する以上は、通行料を支払うのが当然という意識が当時の人々にはありました。それが、「礼銭」という言葉になっているようです。海賊(海民や水軍)からみれば、ナワバリの中を通過する船から通行料を取るのは当然の権利ということになります。

 目に見えないナワバリを理解することができない通行者には、通行料を求める海賊の行為が次第に不当なものと思われるようになります。守龍の旅の往路でも、塩飽の源三が「鉄胞」で海賊を撃退し、復路において室の五郎大夫が礼銭を出し渋ってねばりにねばったのは、そのことを示しているのかもしれません。
 風雲の革命児信長は、それまでのナワバリを取っ払う「楽市楽座」を経済政策の柱として推し進めます。それを継いだ秀吉は、海の刀狩りとも云うべき「海賊禁止令」をだして、海上交通の自由を保障するのです。それに背いた村上武吉は能島から追放され、城は焼かれることになります。自由な海上交通ができる時代がやってきたのです。それを武器に成長して行くのが塩飽衆だったようです。
 守龍はその後、鞆、塩飽、縄島(直島か)、牛窓、室津、兵庫などと停泊を重ね、17日には堺津に上陸して、翌日18日には東福寺に帰り着いています。

以上をまとめておきます。
①16世紀半ばには、堺港と宮島を200石船が300人の常客を載せて往復していた。
②旅客船の船頭(母港)は、塩飽や室津などの有力港出身者が務めていた。
③旅客船は自由に航海が出来たわけではなく、海賊たちから通行量を要求されることもあった。
④海賊たちのナワバリには大小があった。村上氏や塩飽衆によって制海権が確保させれ安心安全な航海が保証されていたわけではなかった。
⑤は旅客船も有事に備えて、鉄砲などで武装していた。
⑥宮島や塩飽は、瀬戸内海航路のターミナル港の機能を果たしていた。そのため周辺からの小舟が
やってきたことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」

  「海民」は、どんな活動をしていたのか?
室町時代になると、瀬戸内海を生活の場として生きる「海民」の姿が史料の中に見えるようになります。彼らは、漁業・塩業・水運業・商業から略奪にいたるまで、いろいろな生業で活動します。しかし、荘園公領制の下の鎌倉時代には、彼らの姿はありません。荘園公領制の下では農民との兼業状態だったので、見えにくかったのかもしれません。それが南北朝の内乱を経て荘園公領制が緩んでくると、海民たちは荘園領主からの自立し、専門化し活発な活動を始めるようになります。瀬戸内海の「海民の専業化」過程を見てみることにしましょう。
まずは、海運業者です。海運業者といえば「兵庫北関入船納帳」
3兵庫北関入船納帳

 「兵庫北関入船納帳」には、文安二(1445)年の一年間に東大寺領兵庫北関(神戸市)に入船した船舶一般ごとに、船籍地、関銭額、積荷、船頭、問丸などが記されています。この史料の発見によって、船頭がどこを本拠にしたのか、何を積んでどのような海運活動を行っていたのかなどが分かるようになりました。 例えば讃岐船籍の舟を一覧表にすると次のようになります。
兵庫北関1
ここからは中世讃岐で、どんな港活動していたのか、また、その活動状況が推察できます。ここに地名がある場所には、瀬戸内海交易を行っていた商船があり、船乗りや商人達がいた港があったと考えることができます。
  芸予諸島の伊予国弓削島(愛媛県弓削町)を拠点に活動した船頭を見てみましょう。
3弓削荘1
弓削島は「塩の荘園」として、多くの塩を生産して荘園領主東寺のもとへ送りつづけていました。鎌倉時代になると、弓削島荘からの年貢輸送は、梶取(かんどり)とよばれる荘園の名主級農民のなかから選ばれた、操船に長けた人たちが「兼業」として行っていたようです。
 彼らは、中下層農民のなかから選ばれた数人の水夫とともに100~150石積の船に乗りこみ、芸予諸島から大坂をめざします。輸送ルートは、備讃瀬戸・播磨灘・大坂湾をへて淀川をさかのぼり、淀(京都市伏見区)で陸揚げするのが一般的だったようで、所要日数は約1ヵ月です。
siragi

  それが室町時代には、どのように変化したのでしょうか。 
貨客船の船頭太郎衛門の航海
 弓削島船籍の船は、「兵庫北関入船納帳」には、一年間に26回の入関が記録されています。
2兵庫北関入船納帳2
同帳記載の船籍地は約100が記されていますが、そのうちで二〇位以内に入る数値です。ここからも弓削島は、室町中期のおいては、ランクが上位の港であったことが分かります。
 「兵庫北関入船納帳」には船頭の名前もあります。そこで弓削籍船の船頭を見ると九名います。そのなかでもっとも活発に航海しているのは太郎衛門です。「兵庫北関入船納帳」から彼の兵庫湊への入港記録を拾い出してみると、次のようになります。

3弓削荘2
 積荷の「備後」というのは、塩のことです。塩は特産地の地名で呼ばれることが多く、讃岐の塩も方本(潟元)とか島(小豆島)と記されています。備後・安芸・伊予三国にまたがる芸予諸島も、古くから製塩の盛んな地域で、その周辺で生産された塩は「備後」という地名表示でよばれていたようです。
  太郎衛門の航海活動から見えてくることを挙げていきます。
定期的に兵庫北関に入関しています。
1~2ヶ月毎にはやってきています。弓削から淀までの航海日数が約1ヶ月でしたので、ほぼフル回転で舟はピストン輸送状態だったことが分かります。これを鎌倉時代と比べると、かつては梶取(船頭)が百姓仕事の合間をぬって年一回の年貢輸送に従事していました。しかし、室町時代の太郎衛門の舟は、定期的に弓削と京・大坂の間を行き来するようになっています。
北西風が吹き航海が困難とされていた冬の3ヶ月は動いていませんが、それ以外は約2ヶ月サイクルで舟を動かしています。専門の水運業者が定期航路を経営しているようなイメージです。
②太郎衛門の積荷はすべて備後=塩で統一されています
 専門の水運業者とはいっても、現在の宅急便のように何でも運んでいるのではないようです。弓削島周辺の塩を専門に運ぶ専用船のようです。塩の生産地という背景がなければ、太郎衛門のような専業船乗りは登場してこなかったかもしれません。専業船と生産地は切り離せない関係にあるようです。
③積載量が150~170石と一定しています。
 これは、太郎衛門の船の積載能力を示しているのでしょう。彼の舟が200石船であったことがうかがえます。この時代の200石舟というのは、どんなランクなのでしょうか。讃岐の舟と比べてみるましょう。
兵庫北関2
ここからは200石船は、当時としては大型船に分類できることが分かります。太郎衛門は大型の塩専用船の船長で経済力もあったようです。
   客船の船長と運航 
「兵庫北関入船納帳」とは別に、畿内方面からの下り船に対して税を課した記録も東大寺には残っています。「兵庫北関雑船納帳」で、ここには「人船」と記された舟が出てきます。これは客船のようです。船籍地は、堺(大阪府堺市)、牛窓(岡山県牛窓町)、引田(香川県引田町)、岩屋(兵庫県淡路町)なが記されています。ここからは室町時代になると客船が瀬戸内海を行き交っていたことがうかがえます。
   戦国時代天文十九(1550)年に瀬戸内海を旅した僧侶の記録を見てみましょう。京都東福寺の僧梅霖守龍の「梅霖守龍周防下向記」で、ザビエルが鹿児島にやって来た翌年の九月二日に、京都を発ち、十四日に堺津から舟に乗っています。乗船したのは「塩飽の源三」の十一端帆の船です。その舟には
「三〇〇人余の乗客が乗りこみ、船中は寸土なき」
状態であったと記します。短い記述ですが、このころの瀬戸内の船旅についての貴重な情報です。ここから得られる情報は
一つは、船頭源三の本拠、塩飽(香川県)についてです。
塩飽は備讃瀬戸海域の重要な港ですが、同時に水運の拠点でもありました。上の「兵庫北関入船納帳」には、塩・大麦・米・豆などを積みこんだ塩飽船が37回も入関しています。上の表を見ると200石積み以上の大型船が17隻、400石以上の超大型船も3隻いたようです。この大型船の存在は、塩飽の名を瀬戸の船乗り達に知らしめたのではないでしょうか。
 2つめは、源三の船は300人を乗せることができる十一端帆の船だったことです。 十一端帆の船とは、どの程度の大きさなのでしょうか。積石数と趨帆の関係表(『図説和船史話』至誠堂1983年)によると
①九端帆が100石積、
②十三端帆が200石積
程度のようです。源三船は積載量に換算すると100~200石積の船だったようです。
   室町から戦国にかけては、日本造船史上の大きな画期と研究者は考えているようです。
商品流通の飛躍的な進展や遣明船の派遣数の増加などにで船舶が急激に大型化します。そして構造船化された千石積前後の船が登場するのもこの時期のようです。その点では、源三船は従来型の中規模船ということになるのでしょう。それに300人を詰め込み「船中は寸土なき」状態で航海したのでから、今から見ると定員オーバーで乗せ過ぎのように思えたりもします。しかし、それだけの「需要」があったということになります。塩飽の船頭源三のような客船は、このころには各地にみられるようになっていたようです。
   守龍が帰路に利用した船の船頭は「室の五郎大夫」でした。
3室津

「室」は室津(兵庫県室津)のことで、古代からの瀬戸内を航行する船舶の停泊地として有名です。南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が並んでいます。室津が当時の人びとに兵庫とならぶ船頭の所在地として知られていたことが分かります。このとき守龍は、宮島から堺までの船賃として自身の分三〇〇文、従者の分二〇〇文を室の五郎大夫に支払っています。
1文=75円レートで計算すると 300文×75円=22500円
現在の金銭感覚で修正すると、この3倍~5倍の運賃だったようです。当時の船賃は、現在からすると何倍も高かったのです。自分と従者では船賃が違うのは、この時代から一等・二等のようにランクがあったことがうかがえます。瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして「客船」を運航する船頭たちが現れていたのです。

3兵庫北関入船納帳4
  客船のお得意さんは、どんな人たちが、何のために利用していたのでしょうか。
もっともよく利用していたのは京都や堺の商人たちであったようです。彼らは南九州の日向・薩摩にやってくる中国船から下ろされた「唐荷」を堺まで運んで莫大な利益を得ていました。その際に、利用したのが室や塩飽の客船だったのです。
 梅霖守龍が「室の五郎大夫」で京に戻った翌年の天文二十年九月、陶晴賢が主君大内義隆を攻め滅ぼします。西瀬戸内海の実権を握った晴賢は翌年に、厳島で海賊衆村上氏が京・堺の商人から駄別料を徴収するのを停止させます。その見返りとして京・堺の商人たちに安堵料一万疋(100貫文)を負担することを要求します。
 この交渉にあたった厳島大願寺の僧円海です。彼は陶晴賢の家臣に対して海賊衆の駄別料徴収を禁止したため逆に海賊船が多くなり、室・塩飽の船にたびたび「不慮の儀」が起きて、京・堺の商人が迷惑していると訴えています。ここからも京・堺の商人が室・塩飽の船を利用していることが分かります。このように、室・塩飽の船頭たちは、
大内氏(陶晴賢)ー 海賊衆村上氏 ー 京・堺の商人
の三者の複雑な三角関係を巧みにくぐりながら瀬戸内海で活動していたようです。
  室・塩飽の船頭の活動は、戦国末期から織豊期にかけてさらに広範囲で活発化します。
信長は石山本願寺との石山合戦を通じて、瀬戸内海の輸送路の重要性を認識し、村上水軍への対抗勢力として塩飽を影響下に置き、保護していきます。秀吉の時代になってもそれは変わらず「四国征伐」の際に豊臣方の軍隊や食料などの後方物資の輸送に活躍します。それは「九州征伐」でもおなじです。
 天正14(1586)年 讃岐領主仙石秀久は、豊後の戸次川の戦いで薩摩の島津氏に大敗します。この時に土佐の長宗我部などの四国連合部隊を輸送したのは、塩飽の舟だとされています。これは「朝鮮征伐」まで続きます。このように、信長・秀吉にとって毛利下の村上水軍に対抗するために塩飽の海上輸送能力が評価され、それが江戸時代の「人名」制度へとつながります。
3村上水軍2

  海民から海賊 、そして海の武士へ飛躍した村上氏
  室町期に活発に活動をはじめたのが海民の「海賊」行為です。
海賊行為は最初は、瀬戸内各地の浦々や島々ではじめられたようです。弓削島荘などもその一つです。南北朝の動乱の中、安芸国の国人小早川氏が芸予諸島に進出しはじめ、荘園領主東寺と対立するようになります。このような在地勢力の「押領」に対して、東寺は、さまざまな手段で対抗します。貞和五(1349)年には、室町幕府に訴えて、二名の使節を島に入部させています。そして下地を東寺の役人に打ち渡すことに成功していますが、それに要した費用を計算した算用状の中に、「野島(能島)酒肴料、三貫文」とあります。これを野(能)島氏の警固活動に対する報酬と研究者は考えているようです。
  このように海賊能島村上氏の先祖は、荘園を警固する海上勢力として姿をあらわします。
 しかし、それだけではありません。この警護活動から約百年後の康正二(1456)年には、安芸国の小早川氏の庶家小泉氏、讃岐国の海賊山路氏とともに、村上氏は弓削荘を「押領」している「悪党」と東寺に訴えられているのです。ここからは能島村上氏には、次の二つの顔があったことがうかがえます。
①荘園領主の依頼で警固活動をおこなう護衛役(海の武士)
②荘園侵略に精を出す海賊
 同じ弓削島荘には、海賊来島村上氏の先祖らしき人物たちの姿も見えます。
①応永二十七(1420)年に、伊予守護家の河野通元から弓削島荘の所務職(年貢納入を請け負った職)を命じられた村上右衛門尉、
②康正二(1456)年に東寺から所務職を請け負った右衛門尉の子の村上治部進
この二人は、「押領」を訴えられた能島村上氏とは対照的に、荘園の年貢納入を請け負うことによって、より積極的に荘園経営にかかわろうとしています。
  荘園の「押領」や年貢請負とは別に、水運に積極的にかかわろうとする海賊もいました。
弓削島の隣の備後国因島(広島県因島市)に拠点をおく因島村上氏です。15世紀前半に、高野山領備後国太田荘(広島県世羅町・甲山町付近)の年貢を尾道から高野山にむけて積み出した記録(高野山金剛峯寺文書)があります。因島村上市の一族が大豆や米を積んで、尾道から堺にむけて何回も航海しています。
 
 また前回に紹介した朝鮮国使として瀬戸内海を旅した宋希環の記録に、帰路に蒲刈(広島県上・下蒲刈島)に停泊した時のことが詳しく書かれていました。
 そこには同行した博多商人・宋金の話として次のようなことを聞いたといいます。瀬戸内海には東西に海賊の勢力分布があり
「東より来る船は東賊一人を載せ来たれば則ち西賊害せず、西より来る船は西賊一人を載せ来たれば則ち東賊害せず」
という海賊の不文律があるというのです。ここには、瀬戸内海を東西に二分した海賊のナワバリの存在、そのナワバリを前提とした海賊の上乗りシステムが示されています。
 同行していた博多の豪商宋金は、銭七貫文を払って東賊一人を雇っていましたが。その東賊が蒲刈島までやってくると西賊の海賊のもとに出向いて話をつけたので、宋希環は蒲刈の海賊とさまざまな交流を持つことになったのは前回紹介しました。
   この蒲刈の海賊は、下蒲刈島の丸屋城を本拠とする多賀谷氏とされます。
多賀谷氏は、もとは武蔵国を本貫とする鎌倉御家人でした。一族が鎌倉時代に伊予国北条郷(愛媛県東予市)に西遷し、さらに南北朝期に瀬戸内海へ進出して海賊化したようです。東国武士が西国で舟に乗り海に進出し、海賊化したのです
 宋希璋の記述からは、航行する船舶から通行料を徴収していたことが分かります。このように海賊の活動する浦々は、兵庫北関のような公的に認められた関とは異なる「私的な海の関所」があったようです。瀬戸内海では、海賊のことを「関」と呼ぶこともあったようです。
 以上のように、瀬戸内海では「海民」が、荘園の警固や「押領」、年貢の請け負い、さらには水運活動、黙綴(通行料)の徴収などさまざまな活動を展開していたことが見えてきます。
   強力な水軍力を有する村上水軍の登場 
戦国時代になると、浦々、島々の海賊が離合集散を繰り返しながら、さらに広範囲な海域を支配し、強力な水軍力をもつ勢力が台頭してきます。それが芸予諸島から生まれてきた、能島、来島、因島などの三村上氏です。

3村上水軍
 戦国期の能島村上氏は、単に本拠をおく芸予諸島ばかりでなく、周防国上関、備中国笠岡(岡山県笠岡市)、備前国本太(岡山県倉敷市)、讃岐国塩飽(香川県)などにも何らかのかたちで影響力を持っていたことがうかがえます。この範囲は、中部瀬戸内海をほぼ包みこんでしまいます。瀬戸内海が西日本の経済の生命線なら、それを握ったのが村上水軍と云うことになります。彼らは平時には、上乗りとよばれる警固活動をおこない、戦時には、水軍として軍事行動を展開することになります。つまり、彼らは「海の武士」でもあったのです。
やっと村上水軍の登場までたどりつくことが出来たようです。
今日はこのあたりで、
おつきあいいただき、ありがとうございました。

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