瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:中世の瀬戸内海航路

瀬戸内海航路3 16世紀 守龍の航路

16世紀半ばに京都の東福寺の寺領得地保の年貢確保のために周防に派遣された禅僧守龍の記録から瀬戸内海の港や海賊の様子を前回は見ました。守龍は周防では、陶晴賢やその家臣毛利房継、伊香賀房明などのあいだを頻繁に行き来して寺領の安堵を図っています。大内家の要人たち交渉を終えた守龍は、年があけて1551(天文20)年の3月14日、陶晴賢の本拠富田を出発して陸路を「尾方」に向かい、往路と同じように厳島に渡ってから、堺に向かう乗合船に乗船します。北西風が強く吹く冬は、中世の舟は「休業」していたようです。春になって瀬戸内海航路の舟が動き出すのを待っていたのかも知れません。今回は守龍の帰路を見ていくことにします。テキストは 「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」です
守龍が宮島からの帰路に利用した船の船頭は「室ノ五郎大夫」です。
瀬戸の港 室津

 室は現在の兵庫県の室津で、この湊も古代以来の重要な停泊地でした。1342(康永元)年には、近くの東寺領矢野荘(兵庫県相生市)に派遣された東寺の使者が、矢野荘の年貢米を名主百姓に警固をさせて室津に運び、そこから船に積み込んで運送したことが「東寺百合文書」に記されています。室津が矢野荘の年貢の積出港の役割を果たしていたことがうかがえます。
1室津 俯瞰図
室津

また「兵庫北関入船納帳」(1445年)には、室津舟は82回の入関が記録されています。これは、地下(兵庫)、牛窓、由良(淡路島)、尼崎につぐ回数で、室津が活発な海運活動を展開する船舶基地になっていたことが分かります。室津船の積荷の中で一番多いのは、小鰯、ナマコなどの海産物です。これは室津が海運の基地であると同時に漁業の基地でもあったことがうかがえます。いろいろな海民たちがいたのでしょう。

1室津 絵図
室津
室津にも多くの船頭がいたことが史料からも分かります。
南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が記されています。室津が当時の人々に、兵庫とならぶ「船頭の本場」と認識されていたことがわかります。室の五郎大夫は、こんな船頭の一人だったのでしょう。
 守龍は周防からの帰路に五郎大夫の船を利用します。
宮島から堺までの船賃として支払ったのは、自分300文、従者分200文です。当時の瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして広範囲に「客船」を運航する船頭たちがいたことが分かります。同時に宮島が塩飽と同じように瀬戸内海客船航路のターミナル港であったことがうかがえます。
 宮島を出た舟は順風を得ることができずに、一旦立ち戻ったりもしています。その後は順調に船旅を続け、
平清盛の開削伝承のある音戸瀬戸
宋希環が海賊と交流した蒲刈島
などをへて、三月晦日には安芸の「田河原」(竹原)に着きます。
瀬戸の港 竹原
竹原 賀茂川河口が竹原湊
ここは賀茂御祖社(下鴨社)領都宇竹原荘のあるところで、荘内を流れる賀茂川の川口に港が開かれていました。竹原の港で一夜を明かした翌日の4月1日、守龍の乗った船は竹原沖で海賊と遭遇します。
守龍の記録には次のように記されています。
未の刻午後2時関の大将ウカ島賊船十五艘あり、互いに端舟を以て問答すること昏鵜(こんあ)に及ぶ、夜雨に逢いて蓬窓に臥す、暁天に及び過分の礼銭を出して無事

意訳変換しておくと
未の刻(午後2時頃) 海賊大将のウカ島賊船十五艘が現れた、互いに端舟下ろして交渉を始めた。それは暗くなって続き、夜雨の中でも行われた。明け方になって過分の礼銭を出すことでやっと交渉が成立し、無事通過できた。

 海賊遭遇から得た情報を研究者は、次のように解析します。
「関の大将」とは、なんなのでしょうか。文字通り関所(通行税徴収)の大将がやってきたと思うのですが別の解釈もあるようです。薩摩の武将島津家久の旅日記『中書家久公御上京日記』にも
「ひゝのとて来たり」「のう島(能島)とて来たり」

などと、「関」がやってきたと記しています。この「関」は関所を意味する言葉ではないようで、ここでは「関」を海賊そのものとして使っているようです。海賊が関所を設けて金銭を徴収することは、小説「海賊の娘」でよく知られるようになりました。当時は、関所と海賊が一体のものとして認識されていて、「関」という言葉が海賊そのものを意味するようになったようです。

7 御手洗 航路ti北

 明代の中国人の日本研究書である『日本風土記』には「海寇」のことを「せき(設机)」と記します。ポルトガル語の辞書『日葡辞書』には、「セキ(関)」の項に「道路を占拠したり遮断したりすること」「通行税(関銭)などを収りたてて自由に通行させない関所、また通行税を取る人々」という語義の他に「海賊」意味があると記されています。関とは、海賊が一般社会に向けていた表向きの顔と研究者は考えているようです。
竹原近海で守龍たちの舟に接近してきた「関の大将」は、海賊でした。
海賊の大将「ウカ島」とは、尾道水道にある宇賀島(現在は岡島、JR尾道駅の対岸)を本拠とする海賊衆です。
瀬戸の港 尾道対岸の岡島
尾道水道の向こう側にある岡島(旧宇賀島)小さな子山
彼らは宇賀島を中心に周辺海域で航行船舶から礼銭、関料を徴収していたようです。応永27年(1420)7月、朝鮮の日本回礼使・宋希璟は尾道で海賊船十八隻の待ち伏せを受けて食料を求められたと記します。 宇賀島衆は向島の領主的地位も持っていたようです。しかし、このあとすぐの天文23年(1554)ごろに、因島村上氏と小早川氏によって滅ぼされています。
ここから分かることは、因島村上氏は16世紀半ばまでは尾道水道周辺を自分のナワバリに出来ていなかったということです。つまり、村上水軍は芸予諸島の一円的な制海権を、この時点では握っていなかったことになります。村上水軍の制海権は小早川隆景と結ぶことによって、急速に形成されたことがうかがえます。

 向島とつながる前の岡島(小歌島)
「ウカ島」の海賊大将は、15艘もの船を率いて、船頭五郎大夫の舟を取り囲む有力海賊だったようです。
船頭五郎大夫は、さっそく通行料について「問答」(交渉)を始めます。両者は互いに端舟を出して交渉します。往路の日比では交渉が決裂し、交戦に至りましたが、今度は15艘の艦隊で取り囲まれています。逃げ出すわけにもいきません。船頭の五郎大夫はねばりにねばります。
 未の刻(午後二時)に始まった交渉は、「昏鵜」(日ぐれ)になってもまとまりません。さらに夜を徹して続けられ、翌日の「暁天」になってやっと交渉はまとまります。それは、船頭側が「過分の礼銭」を出すことに応じたからでした。
船頭が海賊に支払った銭貨がなぜ「礼銭」と呼ばれるのでしょうか?
 海賊に対して航行する船の側が「礼」をしていることになります。これは通行の自由が認められている私たちからすれば、分かりにくいことです。ある意味、中世人独特の世界観が表わされているのかもしれません。
 「礼銭」という言葉の背後にあるのは、守龍らの船が本来航行してはいけない領域、なんらかのあいさつ抜きでは航行できない領域を航行したという意識だと研究者は考えているようです。それでは、公の海をなぜ勝手に航行してはいけないのか。それは、おそらく、そこが海賊と呼ばれるその海域の領主たちの生活の場、いわばナワバリだったからでしょう。海賊のナワバリの中を通過する以上は、通行料を支払うのが当然という意識が当時の人々にはありました。それが、「礼銭」という言葉になっているようです。海賊(海民や水軍)からみれば、ナワバリの中を通過する船から通行料を取るのは当然の権利ということになります。

 目に見えないナワバリを理解することができない通行者には、通行料を求める海賊の行為が次第に不当なものと思われるようになります。守龍の旅の往路でも、塩飽の源三が「鉄胞」で海賊を撃退し、復路において室の五郎大夫が礼銭を出し渋ってねばりにねばったのは、そのことを示しているのかもしれません。
 風雲の革命児信長は、それまでのナワバリを取っ払う「楽市楽座」を経済政策の柱として推し進めます。それを継いだ秀吉は、海の刀狩りとも云うべき「海賊禁止令」をだして、海上交通の自由を保障するのです。それに背いた村上武吉は能島から追放され、城は焼かれることになります。自由な海上交通ができる時代がやってきたのです。それを武器に成長して行くのが塩飽衆だったようです。
 守龍はその後、鞆、塩飽、縄島(直島か)、牛窓、室津、兵庫などと停泊を重ね、17日には堺津に上陸して、翌日18日には東福寺に帰り着いています。

以上をまとめておきます。
①16世紀半ばには、堺港と宮島を200石船が300人の常客を載せて往復していた。
②旅客船の船頭(母港)は、塩飽や室津などの有力港出身者が務めていた。
③旅客船は自由に航海が出来たわけではなく、海賊たちから通行量を要求されることもあった。
④海賊たちのナワバリには大小があった。村上氏や塩飽衆によって制海権が確保させれ安心安全な航海が保証されていたわけではなかった。
⑤は旅客船も有事に備えて、鉄砲などで武装していた。
⑥宮島や塩飽は、瀬戸内海航路のターミナル港の機能を果たしていた。そのため周辺からの小舟が
やってきたことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」

瀬戸内海航路3 16世紀 守龍の航路

1550(天文19)年9月、一人の禅僧が和泉国堺の港を船で、瀬戸内海を西に向かいました。禅僧の名は守龍(しゅりゅう)。京都東福寺の僧です。守龍の旅の記録(『梅一林守龍周防下向日記』)を、手がかりにして、当時の瀬戸内海の港や海賊たちを見ていくことにします。  テキストは「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」です。
守龍の人物像についてはよく分からないようです。
ただ、1527(大永7)年の年末、1529(享禄2)年の立冬、翌30年の夏に、東福寺に参禅して修行したことが記録から確認できます。1550年の堺港からの出港も、寺領の年貢収取について、周防国に行って大内氏をはじめとする周防国の有力者と交渉するためだったようです。得地保は東福寺領の有力荘園で、その年貢収入は東福寺にとって欠かせないものでした。しかし、戦国時代になると以前にも増して、年貢収取が困難になっていたのでしょう。

守龍は1550年9月2日に京都を発ち、14日に堺津から出船しています。
乗船したのは、塩飽・源三の二端帆の船です。当時は舟の大きさは排水量や総重量でなく帆の大きさで表現したようです。そこに3百余人の乗客が乗り込み、「船中は寸土なき」状態であったと記されています。常客を満載した状態での航海です。

讃岐国絵図 正保国絵図.2jpg

塩飽本島 上が南

船頭である塩飽の源三について見ておきましょう。
 この船の船籍地である塩飽(丸亀市本島)は、備讃諸島海域の重要な港であり、同時に水運の基地でした。1445(文安2)年に兵庫北関に入関した上り船の記録である「兵庫北関入船納帳」には、塩・大麦・米・豆などを積み込んだ塩飽船が37回に入関していることが記録されています。これは宇多津に続いて、讃岐の湊では2番目に多い数です。ここからは塩飽を船籍地とする船が、備讃諸島から畿内方面に向けて活発な海上輸送活動を行っていたことが分かります。

兵庫北関1
 塩飽の水運力は、のちに豊臣秀吉・徳川家康らの目を付けられ、御用船方に指名され統一権力の成立にも貢献するようになります。それは、この時代からの活動実績があったことが背景にあるようです。後に、江戸幕府の保護を受けた塩飽の船方衆は、出羽・酒田地方の幕領の年貢米の海上輸送に携わり莫大な富をこの島にもたらします。その塩飽の船方衆の先祖の姿が、船頭の源三なのかもしれません。

DSC03651
兵庫沖をいく廻船 一遍上人図

 塩飽船は、瀬戸内の塩や米のような物資輸送に従事したことで知られています。
しかし、ここでの源三は、旅客を運ぶ人船=「客船」の船頭です。彼の船は、三百人を載せることができる二端帆の船でした。当時は、筵をつなぎ合わせた帆が一般的でした。幅三尺(約90㎝)、長さ六尺ほどの筵を何枚かつないで、それを一端(反)と呼びます。二端帆の船とは、幅10mほどの筵帆を備えていた船ということになります。『図説和船史話』には、九端帆が百石積、十三端帆が二百石積とあるので、源三船は百~二百石積の船だったことになります。

中世 瀬戸内海の海賊 海賊に遭遇 : In the pontoon bridge
     中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。
(石井謙治「図説和船史話」)


 室町から戦国にかけての時期は、日本の造船史上の大きな画期で、遣明船などには千石石積前後の船も登場します。それらと比べると、源三船は従来型の中規模船ということになるようです。乗組員が何人かなのは記されていません。
和船とは - コトバンク
         遣明船 当時の最大客船

 堺津を出港した守龍の船に、話を戻しましょう。
9月14日の辰の刻(午前八時)に堺を出港した船は、順風を得て酉の刻(午後六時)には兵庫津に着きます。翌日には「迫坂浦」に舟はたどり着きます。「迫坂浦」には、守龍は「シャクシ」と読み仮名をつけているので現在の赤穂市坂越のことのようです。ここで風雨が激しくなって、天候の回復を待つために三日間逗留しています。18日に「迫坂」を発って、その日は牛窓に停泊です。ここまでは順調な船旅でした。

瀬戸の港 坂越

ところが翌19日の午の刻(正午)、「備前比々島」の沖にさしかかったころに、海賊船が一艘接近してきます。
守龍は、その時も様子を次のように記します。
此において賊船一般来り、本船と問答す、少焉賊矢を放ち、本船衆これを欺て鏃を双べ鉄胞を放つ、賊船疵を蒙る者多く、須史にして去る、同申の刻塩飽浦に着岸して一宿に投ず
意訳変換しておくと
接近してきた賊船は、本船と「問答」をした。「問答」の内容は分かりません。おそらく通行料の金額についての交渉だろうと研究者は考えているようです。海賊が接近したときに、交渉することは船頭の重要な役目だったようです。この時には、交渉不成立で賊船は矢を放って攻撃してきました。これに対して鉄砲で応戦しています。賊船は多くの負傷者を出して撤退していきました。船は、そのまま航行を続けて申の刻(午後4時頃)に塩飽に入港します。塩飽は船頭源三の本拠港です。海賊との遭遇記事は短いものですが、ここからは瀬戸内の船旅や海賊についての重要な情報が得られるようです。

瀬戸の港 日比1
日比港 明治の国土地理院地図

まず守龍が「比々島」と表現している日比(岡山県王野市)の港です。
日比は、備前国児島の南端東寄りにある港で、半島状に突出してた先端部の小さな入江です。東北西の三方を山に囲まれ、南だけが備讃瀬戸に向かって開けています。人江の北半分が近世に塩田化され、それが現在では埋め立てられて住宅地や工場敷地となっています。本来は瓢箪型の入江であったことが地形図や絵図からうかがえます。人江の西側にはかつては遊郭もあったという古い町並みが残り、東側の丘陵上には中世城郭の跡も見られます。城主の名をとって四宮城と呼ばれるこの山城は、標高八五メートルの通称城山を本丸とし、南に向かって細長く遺構を残している。もちろん日比の港を選んで立地した城であるが、同時に城跡からは、直島諸島や備讃瀬戸を一望のもとにおさめることができる。日比の港の景観は、中世の港の姿をよく伝えています。
同じような地形的条件を持った港としては、室の五郎大夫の本拠室津、守龍や、がこのあと立ち寄ることになる備後国鞆(広島県福山市)などがあります。
瀬戸の港 室津

室津は、播磨国東部の、播磨灘に向かって突き出した小さな半島の一角に開けた港でです。三方を山に囲まれ、西側だけが海に向かって開かれています。この港について、『播磨国風上記』は、次のように記します。
「室と号るゆえは、この海、風を防ぐこと室の如し、かれ、よりて名となす」

室というのは、穴ぐらのような部屋、あるいは山腹などを掘って作った岩屋などを指します。室津の港はまさに播磨灘に面したが穴ぐらのように小さな円弧状に湾入してできた港です。室津や日比のようなタイプの港は、他のどのタイプの港よりも波静かな海面を確保できます。周囲を山に囲まれているので、どの方向からの風も防ぐことができるし、狭い出口で外海と通じているだけなので、荒い波が港に入ってくることもありません。自然条件としては、最も優れた条件を持っています。
 室津や日比の港を見て不思議に思うのは、その規模の小ささです。
今の港を見慣れた目からすると、とても小さなスペースしか確保されていないように思えます。しかし、規模の小ささがポイントだった研究者は指摘します。小さい「室」であることと、小さな半島の先端に位置していることが重要な意味を持っているというのです。それは、すぐ港の外を通っている幹線航路へのアプローチの問題です。
中世の航海者たちは、風待ち、潮待ちのために日比や室津に入港しました。逆にいえば、風や潮の状況がよくなれば、すぐに港を出て幹線航路に乗ろうと待ち構えていたわけです。「月待てば潮もかないぬ 今は漕ぎいでな」の歌がぴったりときます。奥深い入江からゆっくりと出てきて幹線航路に向かうのでは間に合いません。すばやく幹線航路に出て、待っていた潮や風に乗る必要があります。そのためには、少々手狭でも、あまり奥の深くない入江のほうが都合がよかったと研究者は考えているようです。半島の先端で、すぐ目の前に航路がある方が、潮を利用して沖に出やすいということになります。
 それを裏付ける例を探してみましょう。
牛窓や室津の近くには大規模で、ゆったりと停泊できそうな入江や湾が他にあります。例えば山陽道沿いの相生です。

相生湾と室津

ここには奥深い入江があり、東寺領でのちに南禅寺領になった矢野荘那波浦のあったところで、矢野荘の倉敷地(年貢の積出港)の役割を果たしていました。ところが瀬戸内海の幹線航路を行き来する船が立ち寄った形跡はありません。また、鞆の港の東隣は、現在は埋め立てられていますが、かつては広大な入江がありました。そこには草戸千軒などの港町がありましたが、やはり幹線航路を行き来する船舶が停泊することはなかったようです。
 ここからは中世の瀬戸内海では、奥深い湾や入江よりも小さい″室″が船頭たちの求める港の条件だったことがうかがえます。そしてそのような港には、日比のように、港を見下ろす近くの丘陵上に港に、出入りする船を監視するための山城が築かれていました。波静かな小さな入江とそれを見下ろす山城はセットになって、中世の港は構成されていたようです。

 海賊との遭遇場面に戻ります
日比の沖で塩飽の船頭守龍の舟に接近してきた海賊は、日比の四宮城の城主で、この海域の領主であった四宮氏だったと研究者は推測します。四宮氏は、戦国期には児島南部の小領主、海賊として活動し、その姿は軍記物語などに登場します。
たとえば『南海通記』には、1571(元亀二)年に日比の住人四宮隠岐守が讃岐の香西駿河守宗心を誘って児島西岸の本太城(倉敷市児島塩生)を攻めて敗れたことが記されています。この記事は、記事に混同があり、そのまま事実とうけとるわけにはいかないようですが、このころの四宮氏の姿を知る一つの手がかりにはなります。
 また、 1568年には、伊予国能島の村上武吉が家臣にあてた書状のなかに、「日比表」での軍事行動について指示しています。この年、四宮氏は海賊能島村上氏の拠点本太城を攻めて失敗し、逆に能島村上氏に逆襲を受けたようです。

守龍の船に接近してきた海賊について、もう一つ重要な点はその勢力範囲です。
海賊船が船頭たちの反撃で引き上げていった後に、守龍たちの船は塩飽に入港しています。ここで不思議に思えるのは、塩飽と日比は、それほど離れていないのです。
瀬戸の港 日比と塩飽

本島が瀬戸大橋のすぐ西側にあり、日比は直島の西側で、直線距離だと20㎞足らずです。塩飽と日比とは同じ備讃瀬戸エリアの「お隣さん」的な存在の思えます。その日比の海賊が塩飽の舟に手を出しているのです。私は村上水軍のように、塩飽衆が備讃瀬戸エリアの制海権を持ち、敵対勢力もなく安全に航行をできる環境を作っていたものと思い込んでいましたが、この史料を見る限りではそうではなかったようです。また、日比の海賊のナワバリ(支配エリア)も狭い範囲だったことがうかがえます。四宮氏と思える日比海賊は、限られた範囲の中で活動する小規模な海賊だったようです。
 以上を整理しておくと瀬戸内海には、村上氏のように広範囲で活動する有力海賊がいる一方、日比の海賊のように限られたナワバリの中で活動する、浦々の海賊とでも呼ぶべき小規模な海賊が各地にいたとしておきましょう。
海賊撃退に塩飽客船は、「鉄胞」を使用しています。
鉄胞の伝来については、1543(天文12)年に種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられたとするのが通説です。それから7年しか経っていません。高価な鉄砲を塩飽の船頭たちは所有し、それを自在に使いこなしていたことになります。本当なのでしょうか?
  宇田川武久の『鉄胞伝来』には、鉄砲伝来について次のように記されています。
①鉄胞を伝えたのはポルトガル人ではなく倭寇の首領王直である
②その鉄胞はヨーロッパ系のものではなく東南アジア系の火縄銃である
③伝来した鉄胞が戦国動乱の中でたちまち日本全国に普及したとする通説は疑問がある
として、鉄砲は次のように西国の戦国大名から次第に合戦に利用されるようになったとします。
①1549年 最初に使用したのは島津氏
②1557年頃に、毛利氏が使い始め
③1565年の合戦に大友氏が使用
1550年(天文19)年に、塩飽の源三の船が「鉄胞」を使ったとすると、これらの大名用と同時か、少し早いことになります。種子島に最も近い南九州の島津氏が、やっと合戦に鉄胞を使い始めたばかりの時に、備讃瀬戸の船頭が鉄胞を入手して船に装備していたというのは、小説としては面白い話ですが、私にはすぐには信じられません。
しかし、その「鉄胞」が火縄銃ではないとしても、海賊船の乗組員に打撃を与える強力な武器であったことは確かなようです。村上水軍のように海賊たちは「秘密兵器」を持っていたとしておきましょう。
 少し視点を変えれば、塩飽の源三は、ここでは船頭として300人を載せた客船を運行していますが、場合によっては、自ら用意した武器で海賊にもなりうる存在だったことがうかがえます。
 このような二面性というか多面性が海に生きる「海民」たちの特性だったようです。

源三の舟は、9月19日、その母港である塩飽本島に停泊しました。それが本島のどこの港だったのかは何も記していません。笠島が最有力ですがそれを確かめることはできません。
 9月14日に堺を出ていますから順調な船旅です。しかし、塩飽がゴールではありません。常客は乗り降りを繰り返しながら翌日には出港し、20日には鞆に入港しています。そして23日には安芸国厳島に着きました。源三の船は、停泊地に少しちがいはありますが、航路は、次の場合とほとんど同じことが分かります。
①平安末期に厳島参詣の旅をした高倉院の航路
②南北朝時代に西国大名への示威をかねて厳島へ出かけた足利義満の航路
③室町時代に京都に向かった朝鮮使節宋希環の一行
守龍は、このあと厳島で小船に乗り換えて安芸の「尾方」(小方、広島県大竹市)に渡り、そこからは陸路をとっています。そして周防国柱野(山口県岩国市)、同富田(周南市)をへて28日に山口に着いています。半月ばかりの旅路だったことになります。
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 守龍は山口では、彼に課せられた課題である東福寺領得地保の年貢確保のために精力的に活動します。要人である陶晴賢やその家臣毛利房継、伊香賀房明などのあいだを頻繁に行き来しています。時あたかも、陶晴賢が主君大内義隆に対してクーデターをおこす直前でした。そのようなきな臭い空気を感じ取っていたかも知れません。
 大内家の要人たち交渉を終えた守龍は、年があけて1551(天文20)年の3月14日、陶晴賢の本拠富田を出発して陸路を「尾方」に向かい、往路と同じように厳島に渡ってから、堺に向かう乗合船に乗船します。帰路の航海については、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年
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