瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:中世の白峯寺

金刀比羅宮を訴えた白峯寺

本日いただいたテーマは、大変重いもので私にこれに応える力量はありません。テーマの周辺部を彷徨することになるのを初めにお断りしておきます。さて、このテーマの舞台となるのが、白峯寺の頓證寺(とんしょうじ)殿です。門の奥に見えるのが頓證寺です。その奥に崇徳上皇の陵墓があります。ここでは、白峯寺の中には、頓證寺という別の寺があったことを押さえておきます。

白峯寺 謎解き

本日のテーマに迫るための「戦略チャート 第1」です。このテーマの謎解きのために、つぎのようなステップを踏んでいきたいと思います。 
①どうして、もともと白峯寺にあったお宝が、今は金刀比羅宮にあるのか。→ 明治の神仏分離の混乱期に 
②どうして白峯寺に沢山の宝物があったのか →
 崇徳上皇をともらう寺院として、天皇など有力者の信仰を集め、寄進物があつまってきたということです。
③どうして、崇徳上皇は白峯山に葬られたのか
 白峯山が山林修行者の霊山であり行場であったからでしょう。
④中世の白峯寺とはどんな寺院だったのでしょうか。
そこで、④→③→②→①のプロセスで見ていくことにします。

白峯寺古図3

まず見ていただくのが白峯寺古図です。これは中世の白峯寺の姿を近世になって描かせたものとされます。右下から見ていくと
① 綾川 ② 雌山・雄山・青海の奥まで海が入り込んでいたこと ③ふもとに高屋明神と紺谷明神が描かれています。このエリアまで白峯寺の勢力の及んでいたと主張しているようです。④海からそそり立つのが白峰山 そこから稚児の瀧が流れおち、断崖の上に展開する伽藍 ⑤崇徳上皇陵 本堂 いくつもの子院 三重塔 白峰山には権現とあります。
 書かれている内容については、洞林院が近世になって中世の栄華を誇張したものとされていました。だから事実を描いたものとは思われていませんでした。その評価大きく変わったのは最近のことです。そのきっかけとなったのは、四国遍路のユネスコ登録のために、各霊場での発掘発掘です。白峯寺でも発掘調査が行われた結果、この絵図に書かれている本堂横と別所から塔跡が出てきたのです。いまでは、ここに書かれている建物群は実際にあったのではないかと研究者は考えています。それを裏付ける資料を見ておきましょう。

白峯寺子房跡

白峯寺の測量調査も行われました。白峯寺境内の実測図 
①駐車場の ②本坊 ③崇徳上皇陵 ④頓證寺 ⑤本堂 
注目して欲しいのは、白い更地部分です。本堂の東側と川沿いにいくつものにならんでいます。これが中世の子院跡だというのです。ここからも中世には21の子院があったという文献史料が裏付けられます。もう少し詳しく白峯寺古図を見ておきましょう。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峰寺古図 拡大 本堂周辺
①白峰山には「権現」とあります。「権現=修験者によって開かれた山」です。ここからはこの地が修験者にとって聖地であり、行場であったことが分かります。

白峯寺 別所5
白峰寺古図拡大 別所
②三重塔が見える所には「別所」とあります。ここは根香寺への遍路道の「四十三丁石」がある所です。現在の白峯寺の奥の院である毘沙門窟への分岐点で、ここに大門があったことになります。別所は、中世に全国を遍歴する修験者や聖などが拠点とした宗教施設です。ここからも数多くの山林修行者が白峯山にはいたことがうかがえます。

次に、中世の白峯寺の性格がうかがえる建物を見ておきましょう。
白峯寺は、中世末期に一時的に荒廃したのを、江戸時代になって初代高松藩主の松平頼重の保護を受けて再建が進められました。藩主の肝いりで建てられた頓證寺などは、当時の藩のお抱え宮大工が腕を振るって建てたものもので、いい仕事をしています。それが認められて、数年前に9棟が一括で重文に指定されました。そのなかで、中世の白峯寺を物語る建物を見ておきます。

白峯寺 阿弥陀堂
白峯寺阿弥陀堂
①本堂北側にある阿弥陀堂です。
宝形造りの小さな建物です。中には阿弥陀三尊、その後ろの壁に高さ16cmの木造阿弥陀如来像が千体並べられているので「千体阿弥陀堂」とも呼ばれていたようです。真言宗と阿弥陀信仰は、現在ではミスマッチのように思えますが、中世には真言宗の高野山自体が念仏聖たちによって阿弥陀信仰のメッカになっていた時期があります。その時期には白峯寺も阿弥陀念仏信仰の拠点として、多くの高野聖たちが活動していたことが、この建物からはうかがえます。「真言系阿弥陀念仏」の信仰施設だったと研究者は考えています。

白峯寺行者堂

本堂・阿弥陀堂よリー段下がった斜面に立つ行者堂です。
これも重文指定です。現在は閻魔などの十王が祀られています。
しかし、この建物は「行者堂」という名前からも分かるとおり、もともとは役行者を奉ったものです。役行者は、修験道の創始者とされ、修験者たちの信仰対象でもありました。修験者が活動した拠点には、その守護神である不動明王とともに、役行者がよく奉られています。これも、白峯寺が修験者の霊山であったことをしめしています。
今まで見てきた白峯寺の性格をまとめておきます。

中世の白峯寺の性格

次に白峯寺縁起で、本尊の由来を見ておきましょう。

白峯寺本尊由来2

 ここには次のようなことが記されています。
①五色台の海浜は、祈念・修行(行道)の修験者の行場であった。
②補陀落山から霊木が流れてきたこと。
③その霊木から千手観音を掘って、4つの寺に安置したこと。
④4つの寺院とは、根来寺・吉永寺(廃寺)・白牛寺(国分寺)・白峯寺
この4つのお寺の本尊は同じ霊木が掘りだされものだというのです。共通の信仰理念をもつ宗教集団であったことがうかがえます。それでは、その本尊にお参りさせていただきます。

国分寺・白峰寺・根来寺の本尊
国分寺・白峰寺・根来寺の本尊
①国分寺の観音さまです。讃岐で一番大きな観音さまで約5mのいわゆる「丈六」の千手観音立像で、平安時代後期の作とされます。その大きさといい風格といい、他の寺院の観音さまを圧倒する風格です。奈良の長谷寺の観音さまと似ていると私は思っています。
②次が白峯寺の観音さまです。崇徳上皇の本地仏とされ、頓證寺の観音堂(本地堂)に安置されていました。③次は根来寺です。天正年間(西暦1573年~1592年)の兵火で本尊が焼失したので、末寺の吉水寺の本尊であった千手観音をお迎えしたと伝えられています。吉水寺も同じ霊木から掘りだされた観音さまが安置されたと縁起には書かれていました。
こうしてみると確かに3つの観音さまは、共通点があります。そして五色台周辺の四国霊場は、みな観音さまが本尊で観音信仰で結ばれていたことになります。ところがこれだけでは終わりません。四国霊場の屋島寺を見ておきましょう。

屋島・志度寺の本尊観音
屋島寺と志度寺の本尊
屋島寺も千手観音です。この観音さまは、平安時代前期のものとされ、県内でもとくに優れた平安彫刻とされています。
次の志度寺は、山号を「補陀落山」と称しています。そして、志度寺の本尊も千手観音です。この観音さまの由来を、志度寺縁起7巻には次のように記します。

近江の国にあった霊木が琵色湖から淀川を下り、瀬戸内を流れ、志度浦に漂着し、・・・・24・5歳の仏師が現れ、霊木から一日の内に十一面観音像を彫りあげた。その時、虚空から「補陀落観音や まします」という大きな声が2度すると、その仏師は忽然と消えた。この仏像を補陀落観音として本尊とし、一間四面の精合を建立したのが志度寺の始まりである。

霊木が志度の浜にたどり着いた場面です。

志度寺縁起
志度寺縁起 霊木の漂着と本堂建立
流れ着いた霊木が観音さまに生まれ変わっている場面です。観音の登場を機に本堂が建立されています。寺の目の前が海で、背後には入江があります。砂州上に建立されたことが分かります。本尊は補陀落観音だと云っていることを押さえておきます。

最後に志度寺の末寺だったとも伝えられる長尾寺を見ておきましょう。近世の初めの澄禅の四国辺路日記には、次のように記します。

四国辺路日記 髙松観音霊場

こうしてみると、現在の坂出・高松地区の四国霊場は、中世には千手観音信仰で結ばれていたことになります。別の言い方をすると、観音信仰を持つ宗教者たちによって開かれ、その後もネットワークでこれらの7つの霊場は結ばれていたということです。それでは、これらの寺を開いたのは、どんな宗教者達なのでしょうか。それを解く鍵は、今見てきた千手観音さまにあります。
 千手観音信仰のメッカが熊野の那智の浜の補陀落山寺です。

補陀落渡海信仰と千手観音.2JPG

 ①補陀落信仰とは観音信仰のひとつです。②観音菩薩の住む浄土が補陀落山で、それは南の海の彼方にあるとされました。③これが日本に伝わると、熊野が「補陀落ー観音信仰」のメッカとなり、そこで熊野信仰と混淆します。こうして熊野行者達によって、各地に伝えられます。そして、足摺岬などで修行し、補陀落渡海するという行者が数多くあらわれます。それでは、補陀落信仰のメッカだった熊野の補陀落山寺のその本尊を見ておきましょう。

補陀落渡海信仰と千手観音

これが補陀落山寺の本尊です。
以上の補陀落・観音信仰の讃岐での広がりを跡づけておきます。
①熊野水軍の瀬戸内海進出とともに、船の安全を願う祈祷師として、瀬戸内海に進出 各地に霊山を開山・行場を開きます。
②その拠点になったのが、児島の新熊野(五流修験)です。児島を拠点に、小豆島や讃岐方面に布教エリアを拡げていきます。
③熊野行者達は、背中の背負子の中に千手観音さまを入れています。そして新しく行場や権現を開き。お堂を建立するとそこには背負ってきた観音さまを本尊としたと伝えられます。
④それが高松周辺の7つの観音霊場に成長し、七観音巡りがおこなわれていたことが見えて来ます。
こうしてみると、白峯寺や志度寺は孤立していたわけではないようです。「補陀落=観音信仰」のネットワークで結ばれていたことになります。それが後世になって高野聖達が「阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰」をもたらします。そして、近世はじめには四国霊場札所へと変身・成長していくと研究者は考えています。
七つの行場で山林修行者は、どんな修業をおこなっていたのでしょうか? 
山林修行者の修行

①修業の「静」が禅定なら、「動」は「廻行・行道」です。神聖なる岩、神聖なる建物、神木の周りを一日中、何十ぺんも回ります。円空は伊吹山の平等岩で行道したと書いています。「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになったようです。江戸時代には、ここで百日「行道」することが正式の行とされていました。
②行道と木食は併行して行われます。③そのためそのまま死んでいくこともあります。これが入定です。④そして修業が成就したとおもったらいよいよ観音浄土の補陀落めざして漕ぎ出していきます。これが補陀落渡海です。この痕跡が五色台や屋島の先端や志度寺には見られます。五色台の海の行場を見ておきましょう。

五色台 大崎の鼻

ここは五色台の先端の大崎の鼻から見える光景です。目の前に、大槌・小槌の瀬戸が広がります。補陀落渡海をめざす行者達の行場に相応しい所です。ここから見えるのが大槌と小槌島で、この間の瀬戸は古代から知られた場所でした。大槌・小槌は海底世界への入口だというのです。以前にお話しした神櫛王の悪魚退治伝説の舞台もここでした。瀬戸の船乗り達にとっては、ランドマークタワーで名所だったようです。そこに突き出たようにのびるのが大崎の鼻。中世の人々で知らないものはない。ここと白峰山の稚児の瀧を往復するのが小辺路だったのかもしれません。そこに全国から多くの廻国行者や聖達が集まってくる。その一大拠点が白峯山の別院であり、多くの子院であったということになります。これをまとめておくと、古代から中世の白峰寺は、次のような性格を持った霊山だったことになります。

中世の白峯寺2

こういう霊山だったから崇徳院は、白峯山に葬られたとしておきます。ここまでが今日の第一ステップです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「武田和昭  讃岐の七観音   四国へんろの歴史15P」
「松岡明子  白峯山古図―札所寺院の境内図 空海の足跡所収」
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白峯寺古図 地名入り
江戸時代になって中世の白峯寺の姿を描いた「白峯山古図」

前回は、中世の白峯寺には行人(行者)たちが拠点とする多数の子院があったことを見てきました。白峰寺の「恒例八講人数帳」及び「恒例如法経結番帳」には、戦国期の白峯寺には次の21の坊があったと記します。
持善坊・成就坊・成実坊・法花坊。新坊・北之坊(喜多坊)・円乗坊・西之坊・宝蔵寺・一輪坊・花厳坊・洞林院・岡之坊・宝積院・普門坊・一乗坊・明実坊・宝光坊・実語坊・千花坊・谷之坊

この子院の中で、台頭してくるのが洞林院です。
洞林院が台頭してきたのは、どんな背景があったのでしょうか。
今回はそれを見て行きたいと思います。テキストは、「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」です。

白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峰寺古図拡大版(部分)
洞林院が最初に史料に登場するのは『親長卿記』の文明4年(1472)の記事で、次のように記されています。
○六月廿日条
(前略)白峯寺文書紛失、可申請 勅裁之由奏聞、勅許、
○六月十二日条
(前略)白峯寺住僧、洞林院僧都、同中 勅裁、有御不審事子細今日奏聞也、於洞林院分者雖不被成、
白峯寺同事歎之由有仰、之(申ヵ)子細了、
○六月廿三日条
(前略)洞林院中 勅裁事、典白峯寺院領各別之旨中之、然者可被成 勅裁云々、同仰元長令書遣之、
意訳変換しておくと
○六月廿日条 (前略)白峯寺が文書を紛失し、その再発行を申請し、勅裁を得た
○六月十二日条
 白峯寺住僧からの文書再発行申請にについて、洞林院僧都から「この土地には洞林院分寺領が含まれている」との異議があり、その子細が提出された。
○六月廿三日条
(前略)洞林院の申し出を受けて、白峯寺院領と洞林院領とはそれぞれ別に扱われることになった。同仰元長令書遣之、

ここからは次のようなことが分かります。
①当時の洞林院には、僧官を有した「洞林院僧都」がいたこと、
②洞林院には院領があり、これについて「洞林院僧都」が自ら主張するだけの実力をもっていたこと
③洞林院は、15世紀後半の室町時代の白峯寺における有力な子院であったこと
戦国期以降、洞林院は文書にも登場するようになりますが、それらの文書は後世の写しで、慎重に検討しなければならないと坂出市史は指摘します。
例えば白峯寺に古来より大切に伝存してきた古文書の中に「白峯寺崇徳院政所下文」永正11(1515)年があります。
この下文の発給者は、洞林院代の宗円です。彼は洞林院の住持で、白峰寺の院家代表の立場にもありました。後に洞林院は、白峰寺の院号とされ、綾松山洞林院白峯寺と公称されるようになります。下文の内容を要約すると次のようになります。
①白峯寺が永正11(1515)年に崇徳院という院号を使用して、白峰寺の寺僧に少僧都職を与えていること
②具体的には白峯寺のトツプの洞林院代宗円が、同じ白峯寺の僧権律師秀和に少僧都という僧官の職位を与えたこと。
③しかも「国宜承知敢勿違失」と讃岐国中に号令をかけていること。
 ①律令体制下では僧正・僧都・律師などの僧官は、朝廷(玄蕃寮)に任命権がありました。中央政府が任命していたのです。それが鎌倉時代には、売官も行われるなど権威も通俗化していく中で、仏教各宗派の勢力維持・拡張のために各宗派が独自に僧位を任命するようなります。②ここでは洞林院代宗円が、白峯寺の僧権律師秀和に少僧都の僧位を与えています。ここからは、白峰寺よりも洞林院の方が高い立場にあることを伝える内容です。
一方、白峰寺も「白峯寺崇徳院政所」という名で身内の僧侶を少僧都職に任じています。
崇徳院という院号は、あくまで崇徳という天皇一人に追贈された院号であって、崇徳院政所という家政機関が存在したことはありえません。それを重々承知した上で発給したものと研究者は考えています。分かっていてありもしない機関名を名乗っているということです。ここに当時の白峰寺の権勢の強さや高圧ぶりを感じます。こうなると、白峰寺と洞林院の関係は分からなくなります。
 応永19(1413)年の北野社一切経書写に参画した増吽は、当時「讃州崇徳院住僧」と自らの肩書きを記しています。これは崇徳院御影堂のことで、白峰寺全体の住持ではないようです。
 この他にも「白峯寺崇徳院政所下文」は様式や内容からみて疑問が残る文書だと研究者は考えています。後世に洞林院や白峯寺の権威を高めるためにつくられた偽書だと云うのです。この文書の内容は、白峰寺ではなく洞林院が頓證寺の寺務を掌握していたと主張しています。白峰寺よりも洞林院の方が優位な立場にあったという結論に導く意図が見え隠れします。

白峯寺 別所
白峰寺古図 本堂の東側稜線上には多くの子院が描かれている

「建長年中当山勤行役定」(建長年中(1249~56)は、白峯寺の勤行等について後世にまとめたものです。
その末尾に「再興洞林院代 阿閣梨宋有」とあります。「再興洞林院」とあるので、ここからは洞林院が一度退転した後に再興されていたことが分かります。この文書は年紀がないので、洞林院がいつ再興されたかは分かりません。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)

讃岐国名勝図会の白峰寺
それを埋めてくれるのが『讃岐国名勝図会』です。この図会の「頓證寺」の項には、宝物の「大鼓筒」の書上げとして、次のように記されています。

大鼓筒(往古鼓楼大鼓と云ふ、筒内銘あり、「讃州白峯寺千手院常什物也、永禄十年丁卯卯月十四日、作岡之坊宗林、書料当寺院主宗政弟子生年丹五歳、再興洞林院代宝積院阿閣梨宋有、天正八庚辰年三月十八日、敬白、筆者薩摩国住重親」)

意訳変換しておくと
(頓證寺の宝物に大鼓筒(往古鼓楼大鼓)があり、その筒内には次のような銘がある。
「これは讃岐の白峯寺千手院の宝物である。永禄十(1567)年4月14日、岡之坊宗林が作り、書は当寺の院主宗政の弟子生年が担当した。洞林院を再興した宝積院阿閣梨宋有、天正8(1580)年3月18日、敬白、筆者薩摩国住重親」)

ここからは、次のようなことが分かります。
①「再興洞林院代 阿閣梨宋有」が宝積院の宋有のことであること
②天正8年(1580)以前には、洞林院が再興されていたこと
以上からは、洞林院は戦国末期において衰退した時期があり、16世紀後半の戦国時代に再興されたことが分かります。洞林院を再興するにあたって、由緒となる史料が作成・整理されたのでしょう。その一つが「白峯寺崇徳院政所下文」ではないかと研究者は考えています。

白峯寺古図 別所拡大図
白峰寺古図 別所拡大図
以上を裏付けるものとして、研究者は次の史料を挙げます。
①戦国期における白峯寺の記録「恒例八講人数帳」が、天正6年を最後に記事が見えなくなること、
②白峯寺の記録「恒例如法経結番帳」も、天正8年を最後に記事が見えなくなること
これは、両記録は天正8年をさほど下らない時期に、洞林院の再興にあわせて作成されたためと研究者は考えています。
③慶長9年(1604)の棟札には、次のように記されていること。

再興千手院一宇並御厨子大願主洞林院大阿閣梨別名尊師」

ここには本堂・千手院の再興願主が洞林院になっています。
白峰寺院主に代わって、洞林院が台頭していたことがうかがえます。これ以降、諸堂棟札の多くに洞林院の名が見えるようになります。寺院運営において洞林院が中心的な役割を担ったことが推察できます。
慶長9年まで姿を消していた千手院の再興を担ったと考えられるのが、棟札にみえる洞林院の「大阿闍梨別名」です。別名について慶長6年4月6日と13日の文書に次のように記されています。
【史料1】生駒一正寄進状32
白峯之為寺領、山林竹木青海村五拾石、一色二進帶可有者也、
慶六 卯月六                  (花押)
別名
〔史料1】は生駒一正が白峯寺へ青海村の50石を寺領として寄進し、山林竹木の進退を認めたことを別名坊に伝えたものです。 花押だけで一正の署名はありません。ここからは、生駒一正の保護を別名が受けていることが分かります。
次からの【史料2】【史料3】【史料4】は、東京大学史料編纂所架蔵の影写本からのもので、これまでに紹介されていなかった史料で、坂出市史が初めて紹介するもののようです。
【史料2】佐藤掃部助書状鮨
已上
白峯寺院主被仰付候上、御知行方同寺物何も如先々御居住在之候、此旨、我等より申入候へとの御詑候、為後日如件、
慶六  卯月六日       佐藤掃部 (花押)                       
  白峯寺院主 別名尊師 尊床下
意訳翻訳しておくと
白峯寺に次のことを仰せつける。すでに寄進した御知行方(寺領)や寺の運営管理権についてもこれまで通り認めるとの沙汰が(生駒一正様より)あったので、私(佐藤掃部助)から連絡する。
【史料2】をみると、末尾宛先に「白峯寺院主別名尊師」とあります。ここからは別名が白峯寺院主であったことが分かります。そして生駒一正は、寺領の寄進と同時に、これまで通り別名を院主として認め、寺領の知行や寺物の管理を行うよう、有力家臣である佐藤掃部助を通じて命じています。
史料3 佐藤掃部助書状34
己上
しろミね山中はやし卜大門卜申内、谷中竹木一切令停止候以来少も伐取候者きゝ立次第可成御成敗候、近日殿様御判可給候へ共、御上洛之事候間、御下向次第御判可給候、猶寺中坊主中以上二可被申候、恐々謹言
慶六 卯月十三日             掃部 (花押)
本四大夫殿
太郎右衛門殿
次郎左衛門殿
助兵衛殿
意訳変換しておくと
己上
白峰山中の大門内側の谷中の竹木については、一切の伐採禁止を命じていがこれを守らずに伐採するものがいる。今後は、見つけ次第に成敗する。(生駒一正)殿様が御判断することではあるが、今は、上洛中で不在であるので、帰国次第に判断を仰ぐ次第である。なお白峰の寺中の坊主たちにも以下のことは連絡済みである。、恐々謹言
慶六                佐藤掃部(花押)
卯月十三日                     
本四大夫殿
太郎右衛門殿
次郎左衛門殿
助兵衛殿
【史料3】からわかることは
①先ほども出てきた生駒藩の重臣佐藤掃部助が白峯山中の林中の「大門」から内の「谷中」での、竹木の刈り取りの停止を再度確認し、順守することを命じている。
②あて先は周辺の村の有力者4名になっている。
③「(白峰)寺中坊主中以上二可被申候」とあり、白峰寺や洞林院の名前は出てこない。
④寺中坊主中とは、白峰全体の子院を指しているように思えること
この文書が出された背景を推測すると次のようになります。
従来から白峰寺山中や大門の内側に里の村々の人々が入り込んで、木材や下草の伐採や採取を行っていた。それに対して、白峰寺の方から宗教的な聖地であるので禁足地としてほしいという要望が生駒藩に出さた。それを受けて生駒藩は出入禁止令を出すが、村人はそれを守ろうとしない。そこで再度、白峰寺から厳禁令を出してほしい請願があった。それを受けて、禁足地へ入るものは成敗するという厳禁令が村々の指導者に出された。

【史料4】佐藤掃部助書状,35
己上
御寺五拾石之百姓郡役外二何二も一切公事仕間敷候、少も仕候者、其百姓曲事二可仕者也、
慶六                         掃部助
卯十三日                       (花押)
しろミね寺
百姓中
意訳変換しておくと
己上
白峰寺の50石の寺領内の百姓については、郡役以外には一切の公事を負担させないので、百姓の一切の紛争を禁止する、
慶六                         掃部助
卯十三日                       (花押)
白峰寺
百姓中

ここでは、白峯寺領の百姓に特権を与えるとともに、一切の紛争の禁上を命じています。
この他にも、年未詳の文書ながら、宛先を別名とするものが2通あります。この中で研究者が注目するのは[三左馬書状]の宛先が「松之別名様」となっていることです。「松之」とは、元禄8年(1695)の白峯寺末寺荒地書上に出てくる「松之坊」のことのようです。そうだとすると別名は、もともとは松之坊を拠点に活動していた僧侶で、その後に洞林院に移ったことがうかがえます。または、松之坊が、洞林院を継承した子院だった可能性もあります。
 以上のような文書からは、次のようなことが分かります。
①慶長6年に生駒一正が白峯寺の別名に対して寺領の寄進など保護を加えていたこと
②この時期の白峯寺では本堂・千手院の再興といった大きな課題に直面していたこと
③一正の有力家臣・佐藤掃部助が白峯寺院主の洞林院別名とともにその再興を図ろうとしたこと
④洞林院の別名は、院主の正当性を一正に保障されることにより、さらに強固にしたこと
その後の慶長9(1604)年に、佐藤掃部助と洞林院別名の手によって千手院の再興が実現します。このことを記す棟札には周辺地域の人々の名前も見え、多くの人々の勧進奉加があったことがうかがえます。さらに3年後の慶長12年には観音堂造立のため、讃岐11の郡から計53石の勧進を行うことが白峯寺に伝えられています。研究者が注目するのは、この段階で生駒藩の主導による勧進・造営体制へと変化していることです。それが可能となったのは、生駒氏が院主洞林院を直接的に掌握していたことが背景にあると研究者は考えています。そのキーマンが別名だったようです。別名は生駒氏の支援を受けながら地域有力者も巻き込み、白峯寺の観音堂造立の勧進を成功させます。これは民衆に生駒氏をあらたな公権力として、印象づけるには格好のモニュメントにもなります。生駒藩は治世安定を目に見える形で示すために、有力寺社を保護支援して堂宇の再興を行っていました。白峰寺だけではなかったのです。金毘羅大権現も弥谷寺も伽藍整備が行われていました。このような中で白峯寺の観音堂勧進に見せた勧進手腕を見て、生駒藩は別名に弥谷寺を兼帯させたと私は考えています。
 こうして生駒藩からの強い信頼を得て、観音堂(本堂)復興を成し遂げた別名の山内での力は大きくなります。同時に、洞林院は他の子院を圧倒するようになります。洞林院の復興とその後の成長は別名の力に依るところが多いとしておきます。

元禄2年(1689)に、寂本が著した『四国偏礼霊場記』の挿図を見てみましょう。
白峯寺絵図 四国遍礼霊場記2
白峰寺 四国遍礼霊場記(1689年)
上図の左ページの建物配置は、太子堂が現在地に移動した以外には大きな変化はないようです。右ページからは次のようなことが分かります。
①現在の本坊には円福寺があり、洞林院は本堂の東側にあったこと。
②洞林院のほかに円福寺や一乗坊などが描かれ、江戸時代前期にも白峯寺に複数の子院があったこと


次に江戸時代になって中世の白峯寺境内を描いたとされる「白峰寺古図」を見てみましょう。
白峯寺 白峯寺古図(地名入り)
白峰寺古図
中世の白峰山を描いたというこの絵に描かれるのは洞林院だけです。伽藍の間には数多くの屋根が見え、他の子院があるように見えます。しかし、洞林院との間に明らかに「格差」が付けられています。研究者は次のように述べています。
「何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても意識しながら読み解く」

という視点からすると、この絵の作成意図には、次のようなねらいがあったと研究者は指摘します。
①山上にある他の子院を略して洞林院だけを描くことで、
②洞林院の由緒を目に見える形で伝え、寺中における優位性を示そうとする意図のもとに描かれた
さらに推察を加えるとすれば、そのような主張が必要であった時期に制作されたと考えられます。そのような時期とは、いつだったのでしょうか? 
  洞林院は戦国時代末期に一時衰退しますが、その後に再興したことは見えてきたとおりです。その際に、洞林院の由緒を示すための文書や絵図が作成されたようです。白峯寺古図には、復興された洞林院の「由緒」を見る人に視覚的にイメージさせる力があります。制作意図もその辺にありそうです。

白峯寺本坊 弘化4年(1847)金毘羅参詣名所圖會:

金毘羅参詣名所図会(1847年)道林寺(洞林院)が白峰寺本坊として現在地に描かれている。その奧には明治まであった子院がいくつか見える

以上をまとめておきます。
①中世に21あった子院の内で、洞林院は15世紀後半には白峰寺に肩を並べる大きな存在となっていた。
②しかし、その後の戦乱の中で洞林院は一時的に退転した
③それが復興されるのが16世紀末のことである。
④洞林院院主別名は、生駒藩の支援を受け白峯寺観音堂(本堂)の再建勧進を行い、藩主の信頼を得た
⑤別名は、弥谷寺の兼帯をまかされ、その復興勧進活動にも関わることなる。
⑥藩主生駒一正の信頼を得た別名の山内での権勢は高まり、同時に洞林院の力も大きくなった。
⑦以後近世は、洞林院を中心に白峯寺は運営されていくことになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。」
参考文献
  上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会
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白峯寺の頓證殿
白峰寺の紫陽花が見頃ですよと教えていただいて、花見ついでに境内や奥の院の毘沙門窟を歩いてきました。境内に咲き誇る紫陽花は見事なもので、古い堂宇を引き立てていました。ところで紫陽花の背後の堂宇に近づいて眺めていると、どれもが「重要文化財」と書かれています。白峰寺に重要文化財の建物がこんなにあったのかなと不思議に思っていると、2016年に白峰寺の7つの堂宇が国の重要文化財に一括して指定されていたようです。何も知りませんでした。お恥ずかしい話です。それらの重要文化財の縁側に腰を下ろして、紫陽花を眺めながら白峯寺の報告書を読みました。

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白峯寺の柏葉紫陽花
訪れる人も少なく、ヤブ蚊に悩まされることもなく至高の時間を頂きました。その時に読んだ報告書の内容を、私なりに要約すると次のようになります。

 白峰寺や根香寺がある五色台は、国分寺背後の霊山で、そこは三豊の七宝山のように修験者たちの「中辺路」の行場ルートがありました。海と山と断崖の窟の行場を結んで行者たちは「行道」と「瞑想」を日夜繰り返します。その行場の近くに山林修行者がお堂や庵が姿を現します。行場の一つである稚児の瀧の近くに建てられたお堂が白峯寺の起源だと研究者は考えています。白峰寺は、行場に造られたお堂から発展してきたお寺なのです。これは根香寺も同じです。

今回は中世の白峯寺が、どんな僧侶たちの集団によって構成されていたのかを見ていくことにします。
比較のために以前にお話しした善通寺の僧侶集団のことを見ておきましょう。中世の善通寺には次のような僧侶達がいました。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。

白峯寺 構成メンバーE
大寺院の構成メンバー 
寺院の中心層は、学僧や修行僧たちです。
しかし、彼らに仕える堂衆(どうしゅう)・夏衆(げしゅう)・花摘(はなつみ)・久住者(くじゅうさ)などと呼ばれた存在や、堂社や僧坊の雑役に従う承仕(しょうじ)公人(くにん)・堂童子(どうどうじ)、さらにその外側には、仏神を奉じる神人やその堂社に身を寄せる寄人や行人たちが数多くいたようです。特に経済力があり寺勢が強い寺には寄人や行人が集まってきます。また武力装置として僧兵も養うようになっていきます。

   弥谷寺の「中世の構成員」も見ておきましょう。
  鎌倉時代の初めに讃岐に流刑となった道範から弥谷寺の中世の様子が見えてきます。道範は高野山で高位にあった僧侶なので、善通寺が彼を招き入れます。道範は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えた人物でもあるようです。道範が「弥谷上人」からの求めで著した『行法肝葉抄』(宝治2年(1248)の下巻奥書に、次のような記述があります。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草 庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。
書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
意訳変換しておくと
宝治二(1248)年2月21日、善通寺の弘法大師御誕生所の庵で書き終える。この書は弥谷ノ上人の勧進でできたものである。(弥谷上人からの)依頼を受けて、すぐさまに書き上げたもので、流刑の身で手元に参考書籍などがないために、細部については落ち度があるかもしれない。もし後日に誤りが見つかれば修正したい。是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
 ここで研究者が注目するのは「弥谷の上人の勧進によってこの書が著された」と記されている箇所です。普通は、上人とは高僧に対する尊称です。しかし、ここでは、末端の堂社で生活する「寄人」や「行人」たちを「弥谷ノ上人」と記していると研究者は指摘します。また「弥谷寺」ではなく「弥谷」であることにも注意を促します。ここからは、行人とも聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、この時点では行場が中心で、善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかったと研究者は考えています。また、この時点では、弥谷寺と善通寺は本末関係もありません。善通寺と曼荼羅寺のような一体性もありません。弥谷(寺)は、善通寺の「別所」であり、行場でした。そこに阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいたのです。
行人層は、寺領によって日々の糧を保障されている上部僧の大衆・衆徒とは違って、自分の生活は自分で賄わなければなりません。
そのため托鉢行を余儀なくされたでしょう。その結果、地域の人々との交流も増え、行基や空也のように、橋を架け、水を引くなどの土木・治水活動にも尽力します。さらに治病にも貢献し、死者の供養にも積極的に関わっていったようです。そうした活動の中で、庶民に中に入り込み、わかりやすい言葉で口称念仏を広めていきます。高野山が時衆念仏で阿弥陀信仰に染まった時期には、高野聖たちによって弥谷寺や白峯寺も阿弥陀信仰の布教拠点となります。それは、現在でも白峰寺境内に阿弥陀堂があることからもうかがえます。

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白峯寺阿弥陀堂
 このように地方の有力寺院の場合、学侶(学問僧)・行人・聖などで構成されていたようです。まず学侶(学頭)については、寺院の僧侶身分の中で最も上位に立つ存在で、中心的な位置を占めていました。学業に専念する狭義の学頭がいたようです。しかし、白峰寺や根来寺では、学問僧の影は薄いようです。
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白峯寺薬師堂
白峯寺で多くを占めたとみられるのは「衆徒」です。
『白峯寺縁起』に「衆徒中に信澄阿閣梨といふもの」が登場します。また元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」には、中世まで活動していたと考えられる「白峯寺山中衆徒十一ケ寺」が書き上げられています。この他、天正14年(1586)の仙石秀久寄進状の宛所は「しろみね衆徒中」となっています。一般には武装する衆徒も多かったようです。当時の情勢からして、白峯寺が僧兵的な集団を抱え込んでいた可能性は充分にあることは以前にもお話ししました。

白峯寺縁起 巻末
白峯寺縁起 巻末部分

13世紀半ばの「白峯寺勤行次第」には、次のようなことが書かれています。
①浄土教の京都二尊院の湛空上人の名が出てくること
②勤行次第の筆者である薩摩房重親は、吉野(蔵王権現)系の修験者であること
③勤行次第は、修験者の重親が白峯寺の洞林院代(住持)に充てたものであること
 ここからは、次のような事が分かります。
①子院の多くが高野聖などの念仏聖の活動の拠点となっていたこと
②熊野行者の流れをくむ修験者たちが子院の主となっていたこと
③修行に集まってくる廻国修行者を統括する中核寺院が洞林院であったこと
 鎌倉時代後期以降の白峯寺には、真言、天台をはじめ浄土教系や高野系や熊野系、さらには六十六部などの様々の修行者が織り混じって集住していたと坂出市史は記します。その規模は、弥谷寺などと並んで讃岐国内で最大の宗教拠点でもあったようです。
 それぞれの子院では、衆徒に対して奉仕的な行を行う行人らが共同生活をしていたと研究者は考えています。
白峯寺における行人の実態は、よくわかりません。おそらく山伏として活動し、下僧集団を形成したと研究者は考えています。たとえば若狭国の有力寺院である中世の明通寺では、寺僧は「顕・密・修験」を兼ねていました。白峯寺における衆徒の中にも修験に通じ、山岳修行を行っていた人々もいたはずで、集団としての区分も曖味であったかもしれません。彼らにとっては、真言・天台の別はあまり関係なかったかもしれません。

白峯寺 境内建物変遷表2
白峰寺境内実測図
上の白峰寺の実測図を見ても、数多くの子院跡があったことがうかがえます。
学侶の代表として、一山全体を統括したのが「院主」です。
先ほど見た高野山の高僧・道範は、讃岐での8年間の滞在記録を「南海流浪記」として残しています。この日記の中で白峰寺が登場する部分は、建長元年(1249)8月に道範が流罪を許されて高野山へ還る途上のことです。そこには、善通寺から白峯寺へ移り、白峯寺院主の静円(備後阿閣梨・護念房)の求めに応じて伝法しています。その後、本堂修理供養の曼茶羅供で大阿闊梨を勤めたことが記されています。
 ここからは次のようなことが分かります。
①静円が院主であったことから、当時の白峯寺が院主を中心に、子院連合で運営されたこと
②院主静円は、高野山の高僧・道範から伝法されているので高野山系の真言僧侶であったこと。
また室町期の応永21年(1414)に後小松上皇が廟所・頓證寺の額を収めていますが、その添書は「院主御坊」宛になています。ここからも中世の白峯寺は、院主を中心とした体制であったことが裏付けられます。比較のために若狭国の明通寺を見てみると、戒薦によって一和尚から五和尚までの位階があり、一和尚が院主に補任されることとなっています。暦応5年(1342)の白峯寺の記録にも「一和尚法印大和尚位頼弁」と見えます。ここからは、戒蕩によって院主が補任されていたことが裏付けられます。
 中央の顕密寺院では三綱や政所などの運営組織がつくられ、寺務を担っていました。しかし、中世の白峯寺の場合は、そうした組織は史料には出てこないようです。若狭国の明通寺の場合などは、年行事が寺僧から選ばれ、一年交代で一山の寺務を行ったのではないかと研究者は考えています。このような運営が白峯寺でも行われていたことが推察できます。なお、江戸時代末期の納経帳には「白峯寺政所」の記述がありますが、これが中世までさかのぼるとは研究者は考えていないようです。

白峯寺古図拡大1
白峯山古図(部分)

聖については「白峯山古図」に、阿弥陀堂や別所が見えているので、聖集団が存在したようです。
発掘調査でも、現在の境内からはやや離れた山の中に別所があったことが分かっています。ここからも白峯寺の周縁部に聖集団がいたことが裏付けられます。

白峯寺 別所
白峰山古図に描かれた別所 
白峯寺には中世の連歌作品が「崇徳院法楽連歌」として残されています。
期間は天文17年(1548)から天正4年(1576)までの約30年間のものです。これについて研究者は、この連歌会は、白峯寺僧らによって運営されていたと指摘しています。この連歌会によく登場する「良宥、宥興、宗盛、宗意、宗繁、増盛、宗伝、宗源、惣代、増鍵、勢均」です。また永禄(1558~70)ころ以降に登場する者には「恰白、宗任、増厳、宗快、増徳、増政、宋有」らがいます。名前を見ると「宥」「宗」「増」などの字が多いことに気がつきます。「これらは多分白峯寺かもしくは近隣の僧侶や神官たちであったのではないか」と研究者は考えています。その裏付けは以下の通りです。
 戦国期の白峯寺については、「宗」のつく人物として永禄10年(1567)の「岡之坊宗林」が『讃岐国名勝図会』の「大鼓筒」の筒内銘で確認できます。ここには「院主宗政」や「再興洞林院代宝積院阿閣梨宋有」の名もあります。このほか慶長9年(1604)の棟札には、一乗坊宥延・花厳坊増琳・円福寺増快・西光寺宗円・円乗坊宥春・南之坊宗伝・宝林坊増円が名を連ねています。「宥」「宗」「増」を通字とした白峯寺僧がいたことが分かります。ここからは戦国期の「崇徳院法楽連歌」は白峯寺の僧やその周辺にいた有力者人たちによって担われ、彼らに支えられて戦国期の白峯寺は綾北平野の文化活動の拠点となっていたと研究者は考えています。

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白峯寺の「別所」の現在位置
 歌人として著名な西行も「本職」は高野聖でした。
讃岐では白峯御陵を訪ねた後は、善通寺の我拝師山の捨身ケ岳で修行を3年行っています。連歌師として活躍する高野聖が多かったことは、いろいろな史料から分かります。この時代の白峰寺周辺には、連歌会に参加する僧侶が何人もいて、彼らが子院の居住者であったことが推察できます。ここからも中世の白峯寺に多数の子院があったことが事実であったことが裏付けられます。さらに、香西氏の一族が定期的に参加する連歌会が行われていた史料もあります。ここからは、香西氏などの有力者を保護者としていたこともうかがえます。

中世には活発な海上交通などを背景として讃岐でも熊野信仰が定着し、熊野参詣者(檀那)も増えます。
文明16(1484)年の熊野那智大社の檀那売券に「福江之玉泉坊」があります。ここからは福江(坂出市)には熊野参詣へ赴く旦那がいたことが分かります。さらに天文22(1553)年の「中国之檀那帳」には、旦那がいた地域として「賀茂 氏部 山本 林田 松山」の「綾北条五郷」があげられています。このように中世後期には、綾北平野の有力者が熊野参詣を行っていたことが分かります。熊野詣では、個人参拝ではなく先達に率いられて行く集団参拝でした。つまり、それを率いていく先達(熊野行者)が周辺部にいたことになります。
 文明5(1473)年には、紀州熊野那智社の御師光勝房が、相伝してきた讃岐国の旦那権・白峯寺先達権を銭18貫文、年季15年で花蔵院へ売り渡している記録があります。ここからは、白峰寺の子院の中には、熊野詣での先達を務める行者がいたことが分かります。熊野行者をはじめ、多くの廻国する聖や行者らが白峯寺を拠点に活動していたことが、ここからも裏付けられます。
 このように中世の白峯寺は、古代に引き続いて山岳仏教系の寺院として展開していたようです。さらに近世になっても行者堂が再建立されています。白峯寺は山岳信仰の拠点として長らく維持されたといえます。
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白峯寺行者堂
 白峰寺の「恒例八講人数帳」及び「恒例如法経結番帳」には、戦国期の白峯寺には次のような21の坊があったと記します。

持善坊・成就坊・成実坊・法花坊。新坊・北之坊(喜多坊)・円乗坊・西之坊・宝蔵寺・一輪坊・花厳坊・洞林院・岡之坊・宝積院・普門坊・一乗坊・明実坊・宝光坊・実語坊・千花坊・谷之坊

これらの子院は、どのように形成されたのでしょうか。
研究は、『白峯寺縁起』(応永13年(1406)の次の部分に注目します。
「建長四年十一月の比、唐本の法華経一部をくりまいらせさせ給、翌年松山郷を寄られ、御菩提のため十二時不断の法花の法を始をかれ二十一口の供僧勅請として、各二十一通の御手印の補任を下さる、(中略)又六年より法華会を行はる」

意訳変換しておくと
「建長4(1252)年11月頃に、唐本の法華経一部が寄贈され、翌年には松山郷が寄進された。これ以後、御菩提のため不断法花の法が開始され、21人の供僧勅請として、各21通の御手印の補任が下された。(中略)又六年からは法華会が行われるようになった。

ここからは、室町時代中期の白峯寺では建長4年(1252)頃から法華経を講説する法会が行われるようになり、それに伴って21の供僧が置かれたとする認識があったことが分かります。例えば京都鳥羽の安楽寿院の場合を見てみると、天皇の菩提を弔う供僧がそのままその寺院を構成する院家となって、近世まで受け継がれています。天皇の墓を核とした寺院では、こうした寺院組織の形成と継承が行われていたようです。
 また、元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」にも荒廃する以前の状況として「白峯寺山中衆徒廿一ケ寺」が書き上げられています。そこには、18か寺が荒廃した結果、残っているのは3か寺のみと記されます。棟札などから考えると、江戸時代の白峯寺には洞林院・真蔵院(新坊力)・一乗坊・遍照院(北之坊)・円福寺(円乗坊)・宝積院が存続していて、洞林院がその中心的な位置を占めるようになっていたことが分かります。

以上をまとめておきます。
①古代の五色台は霊場で、各地に行場が点在し、それを結ぶ「中辺路」ルートが形成されていた。
②各行場には行者たちが集まり、次第にお堂が姿を見せ、白峯寺の原型が姿を見せるようになる。
③中世白峰寺は、21の子院の連合体であり、そこには行者や聖たちが拠点とした別所や阿弥陀堂もあった。
④彼らは白峯寺を拠点に周辺の郷村への念仏や浄土阿弥陀信仰を広め、有力者の支持を受けるようになった。
⑤16世紀の連歌会史料からは、地域の有力者を集めて拓かれた連歌会を取り仕切っているのは、白峰寺を拠点とする聖たちで、彼らが地域の文化的な担い手であったことがうかがえる。
⑥戦国時代に荒廃した白峯寺の復興を担ったのも、地域の有力者の支持を得ていた聖たちで、彼らは勧進僧としての役割をいかんなく発揮している。
⑦そのような子院の中で、台頭してくるのが洞林院である。
洞林院については次回に見ることにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」です
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