瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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ソラのお堂

阿波の「ソラの村」と呼ばれる村々には、小集落毎にお堂が今も祀られています。そして、そこでは祭礼と芸能が行われています。端山88ヶ所廻りをしていて、出会ったお堂は魅力的でした。どうして、このお堂は作られたのだろうか。また、そこで踊られる「盆踊り」は、どこからやってきたのだろうか、疑問はつきません。その都度、思うところや考えたことを載せてきましたが、地元の史料や研究だけでは、なかなか分かりません。もう少し大局的な「見取り図」が必要なようです。今回もテキストは「 山路興造 中世芸能の底流  第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に」です

唐招提寺の舞楽

唐招提寺の舞楽 
奈良時代には東大寺を中心に国家鎮護を目的に仏教の法会が行われるようになります。それが国分寺建立などによって、地方にも拡大していきます。これは「国家的規模の意図的伝播」です。
 平安時代になると真言宗などの密教寺院の地方進出が進みます。これには仏教以前のわが国古来の山岳宗教が大な役割を演じ、その拠点ともいえる山岳寺院を足がかりに勢力を伸ばしていきます。四国では、この中から焼山寺や太龍寺のように、四国辺路の寺へと成長して行く寺院が現れます。密教系寺院の中には、地方豪族の信仰を背景に、多くの寺僧・社僧をかかえて繁栄し、地方の大寺院に成長して行く寺も現れます。このような寺社では、善通寺のように中世後半のある時期までは、経済的裏付けを確保して、規模にあった専業の宗教者を抱え、年中の法会を行うようになります。
1年中法会

一方、中央の大社寺勢力や貴族達も荘園支配という形での地方進出を進めます。それにともなって、荘園鎮守社やその神宮寺が創建されるようになります。そこでは、荘園領主は「イデオロギー的荘園掌握の方法」として寺社は活用されます。これは、中世ヨーロッパの修道院と荘園と同じです。鎮守社の祭礼では、領主が中央で行っていた祭祀や芸能構成が、そのまま地方の荘園にもちこまれます。祭礼準備を行うのは荘民の役目として義務づけられるようになります。そのため荘園内に仏神田や祭祀田が確保され経済的な裏付けがされた上で、専門の宗教者などが祭祀にあたるようになります。
 このような祭礼・芸能の地方進出には、山岳密教系の寺社や荘園鎮守社寺によってそれぞれ独自のスタイルがあったようです。その系統の宗教者によって、祭祀構成や法会、芸能などに共通した特色が残されています。その特徴は、正月三ヵ日の祭祀である元三や、修正会、修二会など新春に行なう行事に重点を置いた祭祀です。ほかに毎月一日ごとの朔幣の奉幣、三月三日・五月五日・七月七日・九月九日の節供ごとの奉御供、仏事に重きを置く所では仁王会・法華八講・車厳会・蓮幸会・維摩会など、加えて年一度の正祭になります。これらを地方の大寺と呼ばれる寺は、整備していくことに苦心するようになります。
旅探(たびたん)】参加できる日本の祭り「醍醐寺の五大力尊仁王会」

 その中で、時代が下るにつれて地方独自のものも盛り込まれ、地域に根付いていくことになります。特に新春にあたっての修正会には、村落生活の中で伝えられた祖霊祭や、豊穣予祝の切実な願いが、前面に押し出されてきます。
惣郷」(そうごう)さんの名字の由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典・人名力
 中世社会が進むにつれて、人為的な空間エリアであった荘園や行政単位としての郷とは別に、地縁的集落結合が大きな意味をもつようになります。それが惣郷や惣村と呼ばれる地縁結合体です。ここでは精神的拠り所として、自分たちの信仰する神仏を選び、自分たちの手で祭祀を行なう寺社を勧請するようになります。つまり、一宮や善通寺のように専業祭祀者を中心とした地方有力社寺とは別に、新たに登場してきた惣郷は、自分たちの手で寺や神社を建立し、運営するようになるのです。そして、それまでの専業祭祀者を中心とした地方有力社寺とは別に、惣郷(集落)ごとに祀られた小祠・小堂が村落生活の中心として定着していくことになります。この時点では、まだ鎮守の森には建造物はなかったかもしれません。
それでは、新たに登場した惣郷の社で行われるようになった祭祀と芸能とは、どんなものだったのでしょうか。また、どんな宗教者が関わったのでしょうか
大千度行者(だいせんどぎょうじゃ),日光山伏(にっこうやまぶし) ,里山伏(さとやまぶし)

 この時期の郷村の社寺経営に関わったのは、高野山系系(山岳密教系)の下級宗教者たちだったと研究者は考えているようです。それは、里山伏・里修験、聖などに分類された宗教者です。彼らは、修行遍歴の中で縁があって定着し、次第に村の有力者として祭祀や郷村内での相応の位置を確保していった者がいるようです。その際に、修行で得た胆力や実践力は集団を動かすのに大きな力となったかもしれません。
 三河の田楽(みかわのでんがく)
三河の田楽
しかし、郷村の社で行われた祭祀や芸能スタイルに、新しい工夫があったわけではないようです。それまで地方の有力社寺が、中世前期を通じて徐々に育ててきた年中行事の中から民衆の求める行事を選択して持ち込んだようです。地域の人々が求めるスタイルに変化アレンジさせることが彼らの手腕で、工夫の見せ所だったようです。これを民族化・土着化と呼ぶのかも知れません。
 次に今まで述べてきたことを、具体的に「フィルドワーク」で見ていくことにしましょう。
1修正会 東大寺

 
研究者がここで紹介するのは、三河・信濃・遠江の国境一帯の山深い山村の小祠・小堂に伝承された修正会(しゅっしょうえ=オコナイ)を中心とした祭祀と芸能です。「田遊び」とか「田楽」「おこない」などの名で呼ばれる行事は、天竜川沿いだけでも、現在十三カ所に伝承されているようです。「田遊び」とか「田楽」という言葉だけを見ると、田植えと関係あるように思って今しますが、そうではありません。その年の豊作豊穣を願う新年の儀式です。

高松神社 (浜岡)---御前崎市観光ガイド『駿河湾☆百景』

この地区の祭祀と芸能が、いつ頃に定着したのかを知る史料はないようです。しかし、遠江国小笠郡浜岡町門屋の高松神明社(高松神社)の社家中山家文書(元弘3年(1333)八月)に次のように記されています。
「遠江笠原庄一宮長日仏性並色々御供料米拾六石下行之時納量十御宝蔵随千其当役令配分注文」
ここには年間一六石の仏神事料の配分先が次のように記されています。
元三十三ヶ日御供料一石八斗
元三十三ヶ日参籠のため一石七斗
正月七日歩射料二斗
一石 同十五修正導師・同供僧井参籠神人等御神楽井田遊井得元・秋貞両御百姓社参祝新陶
 笠原荘の鎮守社として一宮を称したこの社は、熊野権現社の名でも呼ばれたことからうかがえるように山岳密教系の信仰が入りこんだ神社です。正月行事を中心に、毎月一日の朔幣、二月一日・七月七日の祭祀に対する御供料、毎月四斗五升宛の長日仏性料などが配分されていることが分かります。
 祭祀の中心は社僧・神人など専業宗教者です。その中に荘域内の得元や秋貞名の百姓も参加して、その年の豊穣を祈る「神楽」「田遊び」が正月の修正会の中で行われています。14世紀前半には、このような行事が地方の神社にも定着していたことが分かります。
  東海地方の荘園鎮守社や、旧仏教系の大寺院には、鎌倉期から南北朝にかけて修正会が行なわれています。その際に注意したいのは、開催目的です。その内容は東大寺や国分寺で行われていた国家的祈願の法会という古代的な発想ではありません。新春にあたっての祈願である五穀豊穣と延命忠災で、芸能内容も民俗化されアレンジされたものに変化しています。これを土着化と云うのかも知れません。
田楽踊りとのぼうの城
のぼうの城に登場する田楽踊り

どうして修正会に田楽踊りが演じられるようになったのでしょうか
田楽踊りは平安時代中期頃から鎌倉時代にかけての流行芸能でした。それが一種の延年の芸能として取入れられるようになったようです。醍醐寺三宝院の『賢俊僧正具註暦』貞和二年(1146)正月一日条には次のように記されています。
御神供以下如例、修正如例、(中略)田楽新座社頭役如例了

この他にも日光山輪王寺修正会の顕夜や、多武峯、毛越寺、秋田県鹿角郡(現鹿角市)八幡平大日堂の修正会に田楽踊りは演じられています。ここからは平安末期から中世にかけて、密教系を中心とする寺院の修正会・修二会に、本来の呪師芸だけでなく翁猿楽を含む猿楽芸、田楽踊り・田遊びなどの諸芸能が取り入れられるようになっていたことが分かります。
のぼうの城』つづき - ジョルジュの窓

これらの芸能が山間の村々に浸透して定着するのには、どのようなプロセスがあったのでしょうか
①まず地方の大社寺の行事として定着
②その後、村々に活躍した里修験者などの手によって伝播
という過程が考えられます。修正会・修二会が民俗化していく過程では、その行事をこの地方ではオコナイの名で呼ぶようになります。三河の猿投神社文書の延慶一年(1309)三月九日付「中条景長寄進文書」に「行(オコナイ)」という字で記されています。三・信・遠の山間部の小祠・小堂のオコナイの場合は、系譜的には中央寺社の修正会などと同一線上にあると研究者は考えているようです。

 それが早くから開発の進んだ東海地方の荘園鎮守社や、旧仏教の地方拠点とされた寺院に持ちこまれ定着、民俗化して中世村落民の民俗行事として受け入れられます。これが第一段階です。さらに開発の進められた山間村に、開発領主の手で持ち込まれるというのが第2段階のようです。
第16回日本史講座まとめ③(院政期の文化) : 山武の世界史


それでは、具体的なお堂や祠を訪ねてみましょう。
伊豆神社(長野県下伊那郡阿南町新野) - Yahoo!ロコ

長野県阿南町新野の二善寺観青堂(伊豆神社)は、御神事(雪まつり)を伝えます。新野には伊豆権現の信仰を持って、この地に定着した伊東氏の伝承があります。伊東氏は伊豆権現の神主を務めると同時に、この地域の開発領主として大きな力を持っていたようです。修正会の祭事も、この伊東氏とその下に属する内輪衆と呼ぶ神人組織によって執り行われ、神事も彼等によって行なわれていたようです。その費用も、伊東氏の負担でした。芸能は上手衆と呼ぶ東西に分けられた組織があり、その世襲によって奉納されていました。二善寺観音もこの伊豆権現に「本地壱本分神成はとて」(『熊谷家伝記』)勧請されたと伝えられます。
新野の雪祭
伊豆神社の御神事(雪まつり)

新野の場合は、二善寺観音を習合した伊豆権現、則ち伊東家の影が強く、新野平野開拓時には、伊豆国の走湯権現の信仰を持った宗教人の活動が見えてきます。伊豆の走湯権現は、今ではその伝統をなくしてしまっていますが、中世期には修験系の信仰を集めた大きな集団として勢力を持っていたようです。奥州平泉や日光山と同じくらいの規模で、天台系信仰が伝えられ、常行堂では修正会が行われ、磨多羅神を祀ったことも知られています。この宗教人の影は、遠州側のオコナイを残す地帯と重なり合います。たとえば静岡県浜松市北区引佐町寺野では、その地帯の開発が伊豆の伊東氏の手によって行われたと伝えます。そしてオコナイの伝わる観音堂も、その開発主によって建てられたと云います。
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 オコナイを残す小堂のうち、峰神沢(現浜松市大竜区)の大日堂には、延徳一年(1491)正月四日の再建棟札が残ります。正月四日が、この堂のオコナイが行われる日です。川名葉師堂(引佐町)は、応永二十二年の再建記録があり、文安四年(1447)二月十六日の年号のある鰐口が保管されています。これらの祭祀はいずれも村の開発者と思われる家が担当したらしく、堂の近くに鍵取の屋敷や屋敷跡が残る所が多いようです。
西浦田楽(にしうれでんがく) - 水窪情報サイト|水窪観光協会
西浦観音堂の田楽踊り

静岡県浜松市天竜区水窪町西浦観音堂はその典型で、観青堂のすぐ下に別当の家があります。祭祀はこの別当を中心に、公文衆・能衆と呼ばれる村の草分け二十数軒の家が世襲で行なってきました。西浦には中世の史料はありません。延宝九年(1681)の年号がある翁猿楽の詞章が最も古いものです。しかし、祭祀形態や芸能から見て、中世には確実に遡ることが出来ると研究者は考えているようです。研究者の調査によると、西浦だけでなく、近辺各所の集落に、観音堂・大日堂・薬師堂などの小堂が祀られ、近世末まではオコナイを修していた痕跡が見られるようです。そしていずれも別当・鍵取りなどの名で小堂の祭祀を司る家筋があり、それらの家が土地の開拓者か、それに近い伝承を持ちます。それがこの地域の一つの特色となっているようです。つまり開発者達が持ち込んだ信仰と芸能が、そのまま残っていると考えられるようです。
2021年 鳳来寺 [ほうらいじ] はどんなところ?周辺のみどころ・人気スポットも紹介します!
鳳来寺
もうひとつの特色は、三河側の修正会には、田楽踊りが加わることです。この背景については、次の2点を研究者は考えているようです。
①近くに鳳来寺という大きな密教系の山岳寺院があったこと
②戦国時代を通じて菅沼氏等の有力豪族が、祭礼に影響を与えたこと
古刹である鳳来寺と、村々で祀る小堂とが、どのような関係にあったかを明らかにする史料はないようです。しかし、近世には鳳来寺領である浅畑・下平・寺林・人峠・引地・橋平・湯谷(以上、東郷と称す)、吉村・岡・大草・黒谷・峯・田代・塩谷・塩平・為・栃下(以上、西郷と称す)の村々が、五人の鳥帽子役、大峠・引地・大草・峯の四人と新加の玖老勢の統率のもとに鳳来寺の諸行事を勤めています。鳳来寺の修正会は、正月三日の本堂(薬師堂)庭において行なわれるのが最も盛大で、田楽踊りは常行堂と本堂庭の行事として行われました。これが、各集落でも舞われるようになったようです。寺林の大日堂では、東郷の人のみによって修正会が行なわれています。これは、周辺の村々が、鳳来寺からの影響を受けて各地域に田楽踊りを取り入れたものと研究者は考えているようです。
 鳳来寺での田楽踊りは早くに行われなくなります。しかし、戦国時代の各集落では、有力土豪たちの助力によって、村人たちによる宮座が組織され続けられます。本家の踊りは消えても、それを取り入れた周辺集落のものは、村人に根付いて生き残ったことになります。
田峯観音浄水 (愛知県設楽町) - ちょこっと日帰り旅行~伊豆の田舎より~
田峯観音堂

 愛知県北設楽郡設楽町田峯観音堂の修正会の芸能は、戦国武将との関係を伝えます。『遣銘書』は比較的信頼のおける小野川家の伝書で、次のように記されています。
永禄二末年、田峯村大般若経御調中候、田楽大輪村道津具薬師堂ョリ、高勝寺へ御引取中候
ここからは、有力土豪菅沼氏が、自分の信仰する田峯観音堂高勝寺の大般若経を揃えた時に、祭祀芸能として大輪村道津共葉師堂の田楽を引きとったとあります。菅沼氏はもともと津具城に居た土豪で、文明二年(1470)菅沼三郎有衛門尉貞吉の時に田峯城に移っています。
設楽町】 田峯城|歴史を感じる|したらん♪トレイル
菅沼氏は本願の地の祭祀と芸能を、のちに田峰に移して演じさせたことになるようです。ここからは道津具薬師堂と菅沼氏の関係は、単なる信仰者という関係を超えていたことがうかがえます。本来は新野伊豆権現における伊東氏や、西浦の高木氏のなど深いつながりをもった土豪が、のちに有力武将となって、本願の地を離れて田峰にやってきたと研究者は考えているようです。この菅沼氏は田峯観音ばかりでなく、鳳来寺の祭礼も庇護しています。また長篠に城を築いた別流の菅沼氏は、設楽町長江観音堂の修正会に力を貸しているようです。ここには、三河山間部の諸堂の祭祀と芸能には、集落を越えて勢力を伸ばした地元の有力豪族の力が働いて、他の地域とは異なる歴史をたどったことがうかがえます。
三河の田楽(田峯田楽)【みかわのでんがく(だみねでんがく)】

 なお田峯観音堂の祭祀には、近世までそれぞれの役に扶持が付いていたようです。これも戦国時代の土豪によって保護された名残だったのでしょう。
1田峰田楽

以上をまとめておきます
①天竜川流域の山村の小祠・小堂でも中世に成ると修正会(しゅっしょうえ=オコナイ)が行われていた。
②その際の芸能は、神降し・王の舞、呪師系の呪術舞、田遊び、田楽踊り、翁猿楽、猿楽系芸能、巫女神楽系の舞が演じられていた。
③その特徴は、村の開拓者と思われる一族が、鍵取・禰宜・別当などを名乗って祭祀の中心となり、堂字を守ってきた。芸能も、それらの人々か中心となって伝承されてきた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 いつの時代も農民にとって、実りの秋は何よりうれしい季節です。古代以来、彼らは自分たちの精神的依り処を、先祖の神や自然神を祀ることに求め、里から見上げる甘南備山を霊山として崇めてきました。そこに、国家や領主によって鎮守社が勧請されると、その氏子の一員に組織されるようになります。中世になり、国衙や荘園の力が衰えるようになると、上層農民たちは、この社を精神的紐帯として、血縁や地縁による地域集団を形成するようになります。そして、結束を固めるために祭祀組織を再構成するようになります。これが宮座の誕生につながるようです。
今回は、宮座の果たした役割について見ていこうと思います。
    テキストは「 山路興造 中世芸能の底流  第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に」です
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 国衛や荘園領主などが、所領に鎮守社を勧請して祭祀するのは、神に豊穣を祈るという精神的「勧農」が目的だったようです。その場合には、荘園領主によって「神田」などが設定されて、祭礼のための経済的裏付けがなされていました。つまり、古代の祭礼は、荘園領主たちの経費で賄われ、そこで行われる伎楽や舞楽も専門演技者が雇われてやってきました。つまり古代の地方寺院の祭礼運営には、農民たちが関わるものはなかったようです。しかし、中世後半になると古代システムが崩壊しはじめます。新たなる神祭りの方策が必要に成ってきます。そこで登場してくるのが宮座のようです。
京都府京都市西京区 松尾大社
松尾神社(京都市西京区)

宮座の一番古い記録は、山城国葛野郡の松尾神社(京都市西京区)とされています。
渡来系の氏族秦氏の氏神を祀った松尾社は、古代末には葛野郡一郡の神社に成長していました。朝廷から奉幣のある四月祭をはじめ、六月の御田代神事(御川植祭り)や九月の九日会などは、平安京の右京西七条に、在家や田畠を持つ富裕な者を座衆とする祭祀集団のなかから経費が集められています。そして、その年の一切の祭祀の責任を持つ頭人が差配するというスタイルが出来上がっていたことが史料から分かります。(元久元年(1204)3月5日付「官宣旨」松尾大社文書)
 神社祭祀や寺院法会を、頭人を定めて行ういう制度は早くからみられます。それを社寺周辺の有力住民に座を組織させ、その中から頭人を選んで行わせるというスタイルは新システムです。これは都周辺の農村部が早かったようです。
 宮座に関して残る松尾寺文書の最初の記録は、神社側が座衆の運営上の問題点を指摘した内容です。ここからは、農民側がこの組織を自分たちの結束に利用しようとする気配は、まだうかがえません。上層農民側が自らの土地を自らの手で守るという自治意識が生まれるには、もう少し時間がかかるようです。
松尾大社 | 京都の観光スポット | 京都観光情報 KYOTOdesign
         松尾神社(京都市西京区)

 中世農民は、生きるために仕事に追いまくられる生活でした。そういう意味では彼らの日々の生活は単純です。一年を単位とする自然の巡りを相手に、一日中労働に追いまくられる以外の生活は考えられなかったはずです。秋の収穫しても、神を頼りの一喜一憂を繰り返すので、これといった手立てを講じる術もありません。また、襲いかかってくる戦乱や収奪に対しても、天災と同じように諦めと、生活の知恵でしたたかに対抗するのが精一杯だったのかもしれません。
 それだけに、ケの日々とは正反対の異次元世界である「ハレ」の日に、思い切り精神を開放させる知恵を彼らは生み出していました。ケの日々が苦しければ苦しいほど、また単調であれば単調であるほど、ハレの目を待ちわびる思いは大きく、その爆発力も大きかったようです。
 一年の巡りを区切る最大のハレの日は、鎮守の祭礼です。もともとは領主の側で一切の準備をしたこの行事が、その設営・運営が有力農民の力に委ねられるようになります。そうなると農民の側は、神の出現する異次元世界を、地域住民の結束の場として積極的に取り込み、惣村の精神的紐帯を生み出し、強めていくイヴェントして活用するようになります。なにかしら現在の「町興し行事」と重なる部分があるような気がしてきます。
 ここに新しい宮座が誕生し、中世から近世ににかけて機能していくことになるようです。それでは、いろいろな郷村を尋ねて、宮座の運営方法などを覗いてみましょう。  
上鴨川住吉神社 - 加東市/兵庫県 | Omairi(おまいり)
上鴨川の住吉神社 茅葺きの割拝殿の向こうに朱塗りの本殿
最初に訪れるのは兵庫県加東市)社町上鴨川の住吉神社です
この神社を研究者は次のように紹介します。
黄金色の稲穂がなびく谷田の外れ、集落からはやや離れた小高い杜に、住吉神社は鎮座している。その境内に続く石段を登りきって振り返ると、そこには何世紀も変わらないなつかしい村の風景がある。幾百年も前から、村人が祭りのたびに営々と踏み固めた境内に入ると、正面の一段高い石積みの上に、萱葺きの割拝殿が建つのが目に人る。その奥に鎮まる朱塗りの本殿は、明応二年(1493)の造営で、重要文化財の指定を受けるが、近年の解体修理ですっかり新しく甦っている。石段の脇、拝殿と対峙して建つ舞台は、風雪にやや傾きかけてはいるが、萱葺きの屋根に曼珠沙車がぼつんと咲いているのが印象的である。境内の奥に大きく場所を占める吹き抜けの長床。本殿や境内を囲むようにひっそりと並ぶ小宮。どの一つをとっても、時間を超越した物のみが持つ存在感を宿して、しっかりとそこに在る。
住吉神社 (加東市上鴨川) - Wikiwand
朱塗りの本殿
 この神社は中世の研究者にとっては、一度は訪れてみたい神社のようです。10月4日・5日の祭礼になると、研究社たちが全国から大勢集まってくるようです。その目的は、この神社の祭礼に残る宮座行事と、それにともなう芸能です。そこには鎌倉時代末期から南北朝期にかけての惣村の姿が、垣間見られるからのようです。
加東遺産巡礼コース | 加東市観光協会

 この地は、今では高速道路の中国道がすぐ南を通るようになって便利になりましたが、近世には播磨の丹波国境に近い辺境の村でした。しかし中世は、村の東にある清水寺が西国三十三所の札所の一つで、京都からほぼ真西にルートをとって、亀山(現亀岡市)から丹波篠山を通り、南西に丹波古市―小野原を経て播磨海岸部で山陽道と結ぶ裏街道が、この上鴨川を抜けていました。源義経が平家を追って、一ノ谷に向かったコースなるようです。つまり、中世は交通の要衝にあったことになります。

この地は、名前の通り古代以来、摂津住吉大社の荘園でした。
住吉大社の『住吉大社神代記』には、播磨国賀茂郡の椅鹿山(はしかやま)を杣山(森林資源)として領有していたとあります。椅鹿杣山は播磨から有馬・丹波に亘る広大な地域で、この杣山の一部がのちの多紀郡小野原荘となったとされます。『住吉大社神代記』には奈良時代に「播磨国賀茂郡椅鹿領地田畠九万八千余町」を神領としたと記します。「椅鹿領」の一部が上鴨川になるようです。

播磨・丹波の住吉神社
    丹波・播磨の境の住吉神社の分布図 朱○が住吉神社

 これは播磨と丹波の両国に跨がる広いエリアになります。
このエリアには、住吉神社が村ごとに鎮座しています。住吉神社の密集地帯です。これは、この地域が摂津住吉大社の荘園「小野原荘」であったからのようです。鎌倉時代の文保年間(1317~19)に、小野原荘の氏神として 住吉大社の分霊が小野原の地に勧請、創建されます。その後、13世紀半ばの『続左丞抄』所収の注進状によると、椅鹿領は「大河荘・久米荘・古井荘・比延荘・小野原」などの荘園に分割されています。すると、分割された荘園にも、住吉神社は分社・勧進されていきます。こうしてこのエリアには住吉神社が広まったようです。
⛩上鴨川住吉神社|兵庫県加東市 - 八百万の神
上鴨川住吉神社

 上鴨川は、付近の下鴨川・馬瀬・畑・池ノ内とともに、大河荘を形成していました。上鴨川の住吉神社は、大河荘の鎮守社として領主の摂津住吉入社を勧請した社になります。現在の社殿が明応2年(1493)の造立ですが、その棟札からはそれ以前の正和五年(1316)、永享六年(1434)にも造立されていることが分かります。現在は重要文化財に指定されています
 中世末期には、荘園の細分化が進みます。そして大河荘は、上鴨川・下鴨川・馬瀬・畑・池ノ内と小村に分化して近世を迎えます。同時に、神社もそれぞれの近世村にさらに分社されます、そのため、上鴨川に鎮座した大河荘の荘鎮守住吉神社も、上鴨川一村の村鎮守となって今日に至ったようです。
 そういう意味では、現在の宮座の形態は、必ずしも中世宮座そのものではないようです。細分化され小型化した宮座なのです。上鴨川の宮座は、古くは「二十四軒株」と呼ばれた宮座株の家のみが、左座・右座に分かれて運営してきたようです。宮座を開放してからは、二十四軒株の者が左座、それ以外の者が右座に付くようになっています。この二十四軒株も、近世初頭に村宮座に変化した時に固定された可能性が高いと研究者は考えているようです。

篠山市の今田住吉神社(篠山市今田町)は、は虚空蔵山麓に鎮座し、兵庫陶芸美術館がすぐ南にあります。本殿は葺春日造に唐破風付き、垂木は二軒、斗供は三手先組、精緻な彫り物が木鼻・蛙股・妻飾などに施されています。今は覆屋根に囲まれていますが、野晒しの期間が長かったためか傷みが目立つようです。
 この神社は今でも小野原荘の荘官であった公文・下司・田所の後裔という「三職」が宮座の祭祀権を持っています。宮座に残る「三職党書」には、康永二年(1343)に荘官が私領を付近の和田寺に寄進して摂津に引き揚げた時、その祭祀権を在地の有力武士であった三軒の家に託したとあります。この三職を核に、荘域内各村の有力農民がそれを補佐する形で、北座・中座・南座の三座を構成されています。

大河荘の中世宮座も、荘官などを中心とした荘域有力農民層によって構成されていたはずです。その時代の宮座の形を知る史料は残されていません。しかし、祭礼の際に繰り広げられる芸能には、年齢階梯によって決められた宮座運営の方式が残り、中世宮座の面影がうかがえると研究者は考えているようです。その宮座をみていくことにしましょう。

上鴨川住吉神社の宮座

 上鴨川の住吉神社の宮座は、長男のみで構成されいます。
7、8歳で「若い衆の座」に入って、12、3歳前で与えられた役目を勤めあげると、それからの八年間を「清座」に在籍します。それを済ませてはじめて「年寄」として、村政などを決定する正式の座に加人することが認められます。「若い衆の座」は、村落共同体の運営に直接関わることはないようですが、祭りに関する権限の一切は彼ら「若い衆」に委ねられています。入座以降、若い衆の座の総責任者である「横座」として、祭りの一切を指揮して「清座」に入るまで、それぞれに年齢序列によって多くの役々が綿密に決められています。その過程の一つずつに責任を持たすことで、共同体の必要とする人材育成と教育の意味を兼ねていると研究者は指摘します。座の先輩が先生であり、卒業者たる清座がそれを監督する役目のようです。 若い衆に任せた祭礼については、「年寄」衆は一切口出しをすることはありません。
舞堂に集まった宮座の座衆。堂内で衣装を整え、笛や鼓を奏でる=加東市上鴨川
舞堂に集まった宮座の座衆。堂内で衣装を整え、笛や鼓を奏でる

 よそ者が調査研究と称して、重要文化財に指定されている猿楽能の面を調べに来ても、その年の「オンソク番」(祭りの衣装や道具を1年間管理する役)を勤める二人の少年の立合いなしには、それを収める箱の蓋をあけることさえできなかったようです。この2人の「オンソク番」のうち上位の少年は、その年の祭りで直会の宿を受け持ち、翌年は頭屋の控え、その翌年には頭屋として一家を挙げて神儀など祭礼の準備を担当します。そして、三年目には禰宜控え、四年目に禰宜 (副横座)を勤め、五年目に横座として祭りの総指揮にあたるという運びになります。この役がまわってくるのは、二十歳を過ぎてからになります。この大役を無事果たし、祭りの終了後に横座の象徴である太刀が副横座に渡され、年寄衆の座での報告が済むと、はじめて清座入りを果たすことになります。清座の初年度には一年間を通じて神社のお守りをする「神主」の役があり、それを勤めあげねば一人前にはなれません。ここには詳細でしっかりとした役割分担があります。このような行事を担う中で、村落を担う次の世代の人材が養成されていったようです。「祭りの準備」は、人作りの一環であったともいえます。
そして、研究者が注目するのは、この中で彼らの一生の評価が決まる晴舞台でもあったことです。先輩達の評価が将来の共同体での役割を決定し、嫁の世話にまで影響があったと云います。

上鴨川住吉神社の宮座行事
宮座「若い衆」の祭礼行事一覧

上鴨川住吉神社の祭礼に伝わる芸能も中世色が濃いと、研究者は次のように指摘します。
①副横座が鳥甲(とりかぶと)に太刀を帯び、鼻高面を付けて舞う「リョンサン」と呼ぶ舞は、平安時代末期から鎌倉期にかけての祭礼芸能である「上の舞」
②ビンザサラ四人・締太鼓三人・鼓一人・銅拍子(チョボ)一人の計九人の少年が躍る田楽躍りや、曲芸をみせる高足、獅子舞、御神楽(神主役が宵宮で鳳女舞を舞う)など、いずれも中世期に中央の大社の祭礼に演じられた芸能
であるぐ
③「いど・万歳楽・六ぶん。翁・宝物・冠者・父尉」と呼ぶ「翁猿楽」が、市北朝頃の作品である面とともに伝承されている。
③については、南北朝期に大和猿楽の観阿弥・世阿弥が能の様式を大成した頃の翁舞とは別の、その原型ともいえるもので、語りを主とした芸態を残しているようです。「いど」は現在の露払、「万歳楽」は三番聖、「六ぶん」「翁」「宝物」は翁舞に相当します。冠者・父尉は中央の翁舞ではすでに演じなくなっています。これらの芸能は、その一つずつが中世期の流行芸能です。そして、ただ伝承されているだけでなく神楽(巫女舞)・王の舞・獅子舞・田楽という芸能群とセットで残っているのは非常に珍しく貴重だと研究者は指摘します。
兵庫県加東市 上鴨川住吉神社 神事舞 on 2015-10-4 その5 田楽 - YouTube

たとえば後白河法皇が勧請したと伝える京都新日吉神社の小五月会の祭礼には、「神楽・王舞・師子・田楽・流鏑馬」が演じられています。(『経俊卿記』建長八年(1256)五月九日条)、同じく後白河法阜が描かせたという『年中行事絵巻』の祗園御霊会の行列には「王舞・巫女・田楽・師子・細男」などの姿がみえます。いまは、他では見ることの出来ない舞楽がここでは、今も村の若者達によって受け継がれているのです。
上鴨川住吉神社の神事舞、厳かに奉納 : KOTOコレ2017

 ここからは古代には中央の大寺院や神社で奉納されていた伎楽や舞楽が、地方に分社された神社にもたらされて、演目も変わりない形で演じられていたことが分かります。同時にそれを演じるのは、かつてのように旅芸人たちによるものではないのです。祭りの準備は「若い衆」と呼ばれる地元の若者達の手によって担われるようになります。    若者達は祭りを担当するだけでなく、その準備・運営を行う事によって将来の「村落共同体」の指導者を育成する役割も果たしていました。
上鴨川住吉神社の神事舞

 このようにして祭礼を通じて、惣郷のメンバー達は村落共同体への帰属心を高め、団結心を育んだのです。まさに祭りは「人を育て、村をまとめる」ためのイベントして機能していたことが分かります。
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 参考文献             山路興造 中世芸能の底流
 第四章 中世村落と祭祀‐中世の宮座祭祀を中心に

惣郷」(そうごう)さんの名字の由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典・人名力

中世も時代が進むと、国衛や荘園領主の支配権は弱体化します。それに反比例するように台頭するのが、「自治」を標榜する惣郷(そうごう)組織です。惣郷(そうごう)は、寄合で構成員の総意によって事を決します。惣郷が権門社寺の支配を排除するということは、同時に惣郷自らが、田畑の耕作についての一切の責任を負うということです。つまり灌漑・水利はもとより、祈雨・止雨の祈願に至るまでの全ての行為を含みます。荘園制の時代には、検注帳に仏神田として書き上げられ、免田とされていた祭礼に関する費用も、惣郷民自身が捻出しなければならなくなります。雨乞いも国家頼みや他人頼みではやっていられなくなります。自分たちが組織しなくてはならない立場になったのです。この際の核となる機能を果たしたのが宮座です。
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 中世期の郷村には「宮座」と呼ぶ祭祀組織が姿を現します。
宮座は、もともと寺社の祭祀の負担すべきことを、地域共同体や商工業者に担わせるために、支配者の側が率先して作らせたものでした。その宮座組織を拠り所にして、民衆側は逆に自分たちの精神的紐帯として活用するようになります。そして郷村自治の拠点としていきます。鎮守社の祭礼を行う中で共同体意識を培い、結束力を高める場と宮座はなります。鎮守社の祭礼は、惣郷民の結束の確認の機会としても機能するようになるのです。
中世の「宮座」の面影を伝える行事~久井稲生神社の御当~ - 祭り歳時記 - 文化庁広報誌 ぶんかる

 宮座の組織が早くから発達する近畿地方の郷村では、春秋の一期に、定期的祭礼を行なうのが通例でした。そこでは共通の神である先祖神を勧請し、祈願と感謝と饗応が、共同体の正式構成員(基本的には土地持ち百姓)によって行なわれました。また同時に、神社境内に設けられた長床では、宮座構成員の内オトナ衆による共同体運営の会議が開催されます。
宮座 日根野荘
日根野荘の宮座

同時に、あらかじめ契約を結んでいた猿楽者などの芸能者がやって来ます。彼らは翁姿に変じた先祖の神として現れ、翁舞(翁猿楽)を舞うことで、郷民を祝福します。余興として、当時の流行芸能であった狂言や猿楽能も演じられたようです。
ルーツの伝来(源流)|歴史|ユネスコ無形文化遺産 能楽への誘い
田楽と猿楽

また正月の祭りでは、その年の秋の豊穣を正月の神(先相神)に祈る様々な行事が行なわれました。それらの費用は、古くは領主の側の負担でした。そのため領主の居館跡からは、酒を酌み交わしたかわらけの破片が数多く出土するようです。郷民達は、領主居館でただ酒を飲んでいたようです。しかし、時代が下るに従いこの習慣はなくなります。自治とは自腹でもあります。郷民自身が順番に負担する「頭屋」の制度などによって賄うようになります。
 これら恒例の祭りとは別に、旱魃の時に行なわれたのが雨乞祈願です。郷村の祈雨祈願のスタイルは、竜神に祈るという点では、古代と変わりません。寺院僧による読経であり、牛馬を殺して竜神の池に投げ込み、怒らせるという方式です。

日根荘の移りかわり | 和泉の国(泉州)日根野荘園 | 中世・日根野荘園-泉州の郷土史再発見!

 和泉国日根野荘の郷民による雨乞踊りは
公家の九条政基が和泉国日根野荘(現大坂府泉佐野市)で見た雨乞いの様子が彼の日記『政基公旅引付」の文亀元年(1501)七月二十日条には、次のように記されています。
 この付近の村々は、葛城山系の灯明岳から流れ出す大鳴川の水を水源として耕地を拓いていて、その源流には修験の寺である犬鳴山七宝滝寺がありました。
犬鳴山七宝瀧寺 | 構成文化財の魅力 | 日本遺産 日根荘
犬鳴山七宝滝寺
この寺は天長年間(824~)に、淳和天皇がこの地域の源流にある7つの滝に雨を祈って霊験があったという伝承のある霊山で、祈雨の寺院です。中世後期にここで行われていた雨乞は、九条政基の日記を要約すると次のようになります。
①最初に入山田村の郷社である滝宮(現火走神社)で、七宝滝寺の僧が読経を行う
②験のない場合は、山中の七宝滝寺に赴いて読経を行なう
③次には近くの不動明王堂で沙汰する
④次の方法が池への不浄物の投人で、鹿の骨が投げ込まれた
⑤それでも験のない場合は、四ヵ村の地下衆が沙汰する
という手はずになっていたようです。
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「雨乞いして雨が降らなかったためしはない。なぜなら綾子踊りは、雨が降るまで踊る」というのが、私の住む地域に伝わる雨乞い綾子踊りの鉄則です。ここでも雨が降るまで、いろいろな手段が講じられていたようです。しかし、やることは、古代の雨乞いと変化はないようです。ところが、大きく違っているのは、雨が降った後のお礼です。
文亀元年夏の時には、雨乞いをすると直ぐに霊験があり、一日後の22日条には「未刻に及び滝宮の嶺に陰雲強く鮮興り、雷鳴一声霜ち聞き入る」と記されています。この降雨に対し入山田村では、祈願成就に対する御礼を行なっています。それが地区単位で行われた「風流」なのです。雨乞いのために行なうヲドリを、私たちは「雨乞踊り」と呼んでいます。しかし、ここでは「踊り」は祈雨のためにではなく、祈願成就の御礼のために行なうものであったようです。本来的には祈願が成就したあとに時間を充分にかけて準備し、神に奉納するのが雨乞踊りの基本だったと云うのです。このような風流やヲドリを、雨乞に演じるということは、律令制の時代や、中世前期の荘園にはありませんでした。中世後期に始めて登場するイベントです。
  「勝尾寺請雨勤行日録」には、次のように記されています。
請雨、嘉吉三年七月十九日、外院庄ヨリ付之、同日末刻開向在之、丁丑日別院衆モ大般若読了、(中略)同時ヨリ庭ニテ大コヲ打、ツヽミ、ヤツハチ、フエ、サヽラニテ、ヰキヤウ(異形)無尽ノク

ここからは、雨乞いが成就した後に、大鼓・鼓・八撥・笛・摺リササラなどの囃子が使われて、踊りが奉納されています。
鷺宮囃子 | 中野区公式観光サイト まるっと中野

このようなヲドリは、「風流の囃子物」とも呼ばれていたようで、民衆が自ら演じる芸能として、京都・奈良の近郊農村部を中心に、近畿一円に登場していました。それまで芸能といえば、郷村の祭礼における猿楽者の翁舞のように、その専門家を呼んで演じられていました。ところがこの時期を境に、一般の民衆自らが演じるようになります。その背景として考えられる要因を、挙げておきましょう。
①が郷村における共同体の自治的結束と、それによる彼らの経済力の向上。
②新仏教の仏教的法悦の境地を得るために民衆の間に流布させた、「躍り念仏」の流行
③人の目を驚かせる趣向を競う、「風流」という美意識が台頭
そしてなにより「惣郷の自治」のために、当事者意識を持って祭礼に参加するようになっていることが大きいようです。このヲドリは、もともと雨乞のために工夫されたものではありません。先祖神を祀る孟蘭綸会の芸能として、また郷民の祀る社の祭礼芸能として、日頃から祭礼で踊られていたものです。それを郷民が、雨乞の御礼踊りに転用したと研究者は考えているようです。
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「政基公旅引付」には雨乞い以外の風流の様子も、記されています。
雨乞祈願が成功した同じ年の孟蘭盆会、入山田郷の郷民は念仏風流を行なっています。同日記の七月十三日条に、次のように記されています。
「今夜船淵村之衆風流念仏、又堂の庭に来る、念仏以後種々の風流を尽す

この風流を観た政基は、その趣向の風情や使われている言葉が、都のものにも劣らないと感嘆しています。
翌日14日には土丸村の風流があり、
翌々日15日は高蒲村の衆による念仏風流と、大木村の衆による風流が、政基の居る堂の庭にやってきて踊っています。
16日の夜には四ヵ村がともに滝宮社に赴いており、土丸と入木、菖蒲と船淵というそれぞれ二村の立合で芸が披露されています。
風流の本流は囃子物だったようですが、社頭では猿楽能の式三番と能「鵜羽」が郷民の手で演じられています。その能を観た政基は、「誠に柴人之所行希有之能立を作る也」と驚いています。ここからは16世紀初頭には、畿内では郷民による祭礼芸能が、相当に浸透していたことがうかがえます。
この年は神社の秋の祭礼でも風流が演じられています。  
演じられたのは入山田村の神社である滝宮の祭礼ではなく、式内社であった大井関神社(現日根神社)の祭礼です。
日根神社
大井関神社(現日根神社)
この神社は、古代には日根神社として呼ばれていましたが、日根庄が成立すると、その荘園鎮守社となり、日根野荘一帯の田畑を潤す水を、樫井川から取水する大堰に近かったこともあり、大井関神社と名を替えて祀られるようになります。日根野荘が解体しても、住民にとつての信仰は続き、八月十五日の祭礼には、入山田からも参加していたようです。
 政基はこの祭礼の様子を、次のように記しています。
「当国五社宮祭礼也、大井関社第四之社也、抑も高蒲・船淵之衆一昨夜不参之条、今日十六日態卜風流企て推参、事の外人儀之風流也」

風流以外にもその後には船淵の百姓である左近太郎という者が、猿楽能の式三番を演じており、その演技の確かさにも驚いた様子が記されています。郷民の中には、玄人はだしで演じる者がこの時代には現れていたのです。
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 参考文献
 山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌  

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