瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:中世製塩


前回に15世紀末の小豆島では、塩浜での製塩が活発に行われていたことを見ました。小豆島で生産された塩が、畿内に向かって大量に輸送されていたことが兵庫北関入船納帳(1445年)からは分かります。しかし、生産されていた塩の量と、運び出されていた塩の量に大きな差があるようです。今回は、その点を見ていきたいと思います。テキストは、 「橋詰茂  瀬戸内水軍と内海産業  瀬戸内海地域社会と織田権力」

製塩 小豆島1内海湾拡大
中世の内海湾の塩浜

前回に見た旧草壁村の塩浜「大新開、方城、午き」の浜数と塩生産量は次の通りでした。
利貞名(大新開) 浜数六十五  生産高五十三石五斗一升
岩吉名(方城) 浜数十六、  生産高十三石六升
久未名(午き) 浜数利貞分十八、生産高十四石一斗一升
3つの塩浜の合計生産高は94石7斗2升です。15世紀末の草壁エリアの塩の生産高は年間百石足らずだったことを最初に押さえておきます。
それから約半世紀後には、どれだけの塩が小豆島から運び出されていたのでしょうか?
兵庫北関入船納帳 塩の通関表
兵庫北関入船納帳に「塩」と記されてた船荷の通関量を示したものが表7になります。ここからは、塩飽・嶋(小豆島)・引田・平山・方本・手嶋船籍の船が塩輸送をおこなっていたことが分かります。嶋が小豆島のことで、1年間の入管回数は25回、通関量は5367石です。これが嶋(小豆島)船籍の船が1445年に、小豆島産の塩5357石を積んで兵庫北関を通過したことが分かります。小豆島は、塩飽と並ぶ塩の大生産地だったようです。しかし、小豆島で生産されていた塩はこれだけではないのです。

兵庫北関入船納帳 地名指示商品と輸送船
上表に「積荷欄記載地名」とあります。兵庫北関入船納帳には、船の積荷に「嶋330石」などと出てきます。これが「嶋産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。産地によって塩の価格が違うので、掛けられる関税も違っていました。そのためこのような表記になったようです。つまり「嶋○○石」と表記されていれば、小豆島産の塩を他の港の船が運んでいたことになります。
上表8からは、嶋(小豆島)塩について、次のようなことが分かります。
①「嶋(塩)」を積んだ他国船が54回入港したこと
②その合計積載量は7980石になること
③嶋(塩)を、積みに来島したのは牛窓39、連島12、地下1、尼崎1、那波1であること
ここからは、小豆島船で運ばれた量よりも、さらに多くの塩が牛窓船などで運び出されていたことが分かります。


兵庫北関入船納帳 船籍地毎の塩通関
上表9からは次のようなことが分かります。
④小豆島船以外の牛窓船が嶋(小豆島)塩の5910石を運んでいること
⑤牛窓船の塩の全輸送件数は43件の内の39件が嶋(小豆島)塩を運んでいいること。
⑥牛窓船の嶋(小豆島)塩占有率9割を越えて、牛窓船は「嶋塩専用船」ともいえること
小豆島船は、小豆島で生産された塩を運んでいるけれども、それだけで輸送できなくて対岸の備前牛島の船が小豆島に塩輸送のためにやって来ていたようです。以上から小豆島から運び出されていた塩の総量は次のようになります。

牛窓船他での塩輸送・7980石 + 小豆島船での塩輸送・5367石=13347石

ここからは約1、3トンの塩が小豆島から運び出されていたことになります。
本当に一万石以上の塩が、小豆島で生産されていたのでしょうか?
15世紀末の明応年間の地検帳から「大新聞・方城・午き(馬木)」で、生産されていたのは塩は年間約95石しかありませんでした。内海湾以外の池田・土庄地区でも生産されていたとしても、当時の小豆島での生産量を千石程度と研究者は推測します。50年後の兵庫北関入船納帳が書かれた時代には、それが1,3万石に増えていたことになります。
  慶長12(1607)の草壁部村宛人野治長大坂城人塩請取状には、草壁村全体で910石の塩の生産があったことが記されています。草壁一村で千石足らずなので、小豆島全体では1万石近い数値になるかもしれません。しかし、それは150年後のことです。明応年間から50年足らずで100石が900石に、生産量が拡大できたのでしょうか。
 これに対して研究者は、次のように考えているようです。
①明応年間の塩の生産高は地「大新聞・方城・午き(馬木)」など内海湾の一部のエリアの集計にしか過ぎない。
②内海湾周辺意外にも土庄・池田や北岸地域でも生産されていたことが考えられる
③小豆島では近世に入って多くの塩田が開かれており、中世にもある程度の塩田が各地区に存在した。
④江戸時代最盛期の小豆島の塩生産高は4万石近くあったので、中世の生産高も1万石を越えることもあったと推定できる。
小豆島 周辺地図 牛窓
牛窓と小豆島の関係
そして、島の北部海岸でも製塩が行われていたのではないかという仮設を出します。
それをうかがわせるのは、牛窓船の存在です。内海湾や池田・土庄などの南部の海岸には、嶋(小豆島)船籍の船が担当し、屋形崎や小江や福田集落など北部から西部の塩輸送には牛窓船や連島船が担当したというのです。確かに地図を見れば分かるように、小豆島北部は牛窓とは海を通じてつながっていました。牛窓船が伊喜末や小梅・福田などの港を、自己の活動エリアにしていたというのは説得力はあります。あとはこれらのエリアで中世に製塩が活発に展開されていたことをしめす証拠です。残念ながら、それはないようです。

小豆島 地図

 内海や池田など小豆島の南側の港が、髙松や志度・引田とつながっていたことは、小豆島巡礼の札所にもでてきます。小豆島の南側にある札所には、東讃の人たちからの寄進物が数多く残されています。また嶋の寺社の年中行事にも東讃の人々が自分たちの船に大勢乗り合わせてやって来ていたようです。ここからは、小豆島の南側は海に面して、東讃と一体化した経済圏を形成し、北側は備前との経済圏を形成していたことがうかがえます。
 中世も嶋(小豆島)塩の輸送には、次のようなテリトリーがあったことはうかがえます。
①北部海岸で作られる塩は牛窓の船
②南部海岸で作られる塩は、小豆島の地元船
小豆島の南と北では、別の経済圏に属していたということになります。そして、中世から製塩が北部や西部の集落でも行われ、そこに牛窓や連島の船がやって来て活発な交易活動が行われていたという話になります。

南北朝時代に書かれた『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』(応安三年(1370)2月に、讃岐で初めて獅子が登場します。
「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」
というあまり目出度くない記事ですが、これが讃岐では獅子の登場としては一番が古いようです。
この縁起の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面を塗り直した」と記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。行道(ぎょうどう)とは、大きな寺社の法会等で行われる行列を組んで進むパレードのようなものです。獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は、人と物が流れる「瀬戸内海のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内から小豆島にやってきたようです。その財力の背景に、島一帯に広がっていた製塩があり、廻船業があったとしておきます。製塩は嶋の一部だけでなく、全域に拡がり1万石を越える塩を生産していたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献

20190824113006b36.png

  柱島(はしらじま)は、安芸灘の南西に並ぶ柱島群島の本島です。北は倉橋島、江田島、南は屋代島とその属島、東は中島をはじめとする忽那諸島に囲まれ、これらの島々のちょうど真ん中にあります。今は岩国市に属しますが、中世末までは山口県大島郡に属し、南北朝のころは伊予の中島を中心とした忽那七島のひとつになっていました。当時の忽那七島は松山市の野忽那島・睦月島・中島・怒和島・津和地島・二神島と、周防大島郡の柱島で構成されていたようです。つまり、周防と伊予という国境を越えての「連合」になります。このように柱島の所属がいろいろ変わるのは、この島が陸からやってきた人たちによって開拓されたものではなく、「海民」の手によって開拓されたことに由来すると研究者は考えているようです。

この島は古くは、讃岐・仁尾と同じ京都賀茂神社社領のひとつでした。
賀茂神社は瀬戸内海に早くから進出し、多くの社領を持っていました。「賀茂注進雑記」によると、全国各地に42カ所を数える社領の中で瀬戸内海にあるものが次の16ケ所です。
播磨安志庄、林田庄、室塩屋御厨、備前山田庄、備後竹原庄、有福庄、伊予菊万庄、佐方保、周防伊保庄、矢島(八島)、竃戸関(上関)、柱島、和泉深日庄、箱作庄、淡路佐野庄、生穂庄

このほかにも「賀茂社古代庄園御厨」には、寛治四年(1090)年7月12日付文書に月供料として次の6つが記されています。
播磨同伊保崎・伊予国宇和郡六帖網・伊予国内海・讃岐国内海・豊後国水津・周防国佐河(佐合)・牛島御厨

この中ある周防の佐合島も牛島も小さい島です。それは後の弘安元(1278)年に讃岐・仁尾の蔦島が、同じように賀茂神社の御厨に指定されたのとよく似ています。こうした小さい島が御厨として寄進されたのは海産物の供進のためです。供物を採取・提供していたのが「供祭人」です。
「御厨供祭人者、莫卜附要所令中居住一之間、所じ被免・本所役也、傷櫓樟通路浜、可為当社供祭所・」

ここには「莫卜附要所令中居住一之間」とあるので御厨の供祭人が定住しないで海上漂泊をしていたことが分かります。柱島や蔦島も、そうした海人が漁業シーズンにやって来て漁労を行なった漁場の一つであったようです。
 これらの島の産土神が賀茂神社なので、御厨(みくろ)の海人が次第に島に定住するようになったことがうかがえます。そういう人たちの定住は、採塩の作業と結びついていると研究者は考えているようです。おなじ賀茂神社の社領であった八島・佐合島・牛島などにも、おなじように製塩跡がみられるからです。
 例えば上関島(長島または竃島ともいう)の蒲井には、山地の均等地割が見られるので、塩木山があったことがうかがえます。これは前回もお話ししたように、「海人が陸上がりして採塩した」ことを示すものです。
9柱島地図
 
その後の柱島をめぐる情勢を見ておきましょう
「柱島旧記」からは、室町後期には桑原氏がこの島の支配者になっていたことが分かります。桑原氏の先祖は、青山五郎兵衛といって備後田島の出身者のようです。その先祖は、芸予諸島・能島村上氏の御部屋(隠居分家)と記されています。つまり、備後の田島は、村上氏が地頭だったようです。ここからは桑原氏が、能島村上氏につながる系譜に絡んでいたことが見えてきます。
 初め青山五郎兵衛は倉橋島を拠点としていましたが「法体」となって柱島にきて、「辻本」を勤めたと云います。辻本というのは島の僧役を勤める者のようです。同時に、年貢を取り立て領主に納める役目を果たしています。その年貢が誰に納められたかは分かりません。しかし後には毛利元清に納めたとありますから、元清の所領になったこともあるようです。
9柱島と大島の西芳寺地図

 青山五郎兵衛の弟四兵衛は陶晴賢の小姓となっていましたが、厳島合戦に敗れて柱島に帰り、出家して僧となり、周防大島へ渡って森村の西方寺を創建したと記します。しかし、桑原氏系図(「萩藩閥閲録」)では、桑原五郎兵衛元国が、朝鮮侵略の後、森村に退隠して僧となり寺を建てたのが西方寺だとあります。
  一方、周防大島の森にある西方寺の「西方寺縁起」には、
桑原四兵衛が兄で、五郎兵衛は弟、厳島合戦に敗れて柱島に渡り、五郎兵衛は島司富永角兵衛の養子となり、四兵衛は森村に居住して西方寺を建てたとあります。どちらが正しいかは分かりませんが、備後田島から来た青山という者が、周防大島の桑原氏と姻戚関係を持ち、桑原氏が大島海賊の統領の一人であったことから、その配下に属して桑原を名乗ったと研究者は考えているようです。
9柱島地図拡大

 青山五郎兵衛との関係はよく分からないのですが、桑原杢之助という者が島司を勤めていたときのことです。
中富弾右衛門という者が杢之助を頼って来て島に住みついていまします。ところがこの男は、荒者で周りのものも手を焼くようになったようです。そこで、そのままにしておいては、どんなことを仕出すかわからないと、みんなで相談して、柱島西ノ浜へ網漁に行ったとき、杢之助の指図で大勢で討ち取ってしまいます。討たれた弾右衛門には、小次郎という子があり、能島の「海賊大将」の村上武吉に仕えていました。
 父が討たれたと聞いて、小次郎はひそかに桂島にやってきて、杢之助夫婦を夜討ちにします。そこで能島武吉は柱島を中富小次郎に与えたというのです。小次郎には子がなったので、末弟万五郎が跡を継ぎます。彼は、毛利元清に仕えた後に、柱島庄屋になっています。また、中富氏一族の者で桑原氏の跡をたて、桑原氏も庄屋を中富氏と交代で勤めています。
「柱島旧記」は江戸中期に中富氏一族の者が、口述と過去帳を頼りに書いたもので、叙述に混乱はあるようです。しかし、そのなかに信憑性のあるものもあります。この史料から分かることは
①桂島の支配者層は、島外から新しく来た者であり、武力で容易に島民を支配することができた
②支配者が、さらに強力な島外の勢力(村上氏)かに結びつくことによつて、その島が島外支配者の所領になった
こういう支配体制は平安末期にすでに、真鍋島・忽那島でも見られるので、瀬戸内海では珍しいことではなかったようです。その中で、柱島には古い住民の組織が残ったようです。その背景には島の製塩がありました。
9柱島砂浜


次に、桂島の製塩組織について見てみましょう。
柱島は柱十二島とよばれてきたように、次の12の島からなっています。
本島・端島・小柱島・続島。長島・フクラ島・鞍掛島・黒島・伊ケ子島(伊勢小島)・中小島・手島・保高島

近世初期までは本島に人が住んでいただけで、他は無人島でした。そしてその土地利用は
①黒島・伊勢ガ小島が、牧島(牧場)
②その他は桂島の揚浜塩田の「薪島」
でした。
『玖珂郡志』によると、
「柱島本屋敷四十五軒ナリ。御討入(中富弾正が)ノ後、田畠塩浜山ヲモ厚薄組合セ、割方有之。今以其通ニテ、夫ヨリ一カマチ(一株内)卜云。右四十五軒ノ内、内証不勝手二付テ、売方仕候連モ半カマチ迄、売ラセ申候。半カマチ過候テハ売方不レ被差免候由。悉ク売方候ハ勝手次第り本屋敷ノ者、一カマチノ内ヲ四分一計所持仕候テハ御役目不・得仕二一付テ也。但手島・ホウ高・端島・続島モ塩付ノ山配ノ内也。珂子屋敷四十五軒、内一軒歓喜寺、内一軒庄屋、内二軒両刀爾、内一軒山守、内一軒小触。右六軒現人差出ナシ。残九人役目相勤候也」
意訳すると
「柱島本屋敷には45軒の家があり、御討入(中富弾正が)の後は、田畠塩浜山を組合せて、均等に所持するシステムで運営してきました。今でもその通りで、この1単位を「一カマチ(一株内)」と呼びます。45軒の中で、経済的な困窮のために、売りに出すものもいますが、それは「半カマチ」までです。それ以上を売ることはできません。
 ただし、手島・ホウ高・端島・続島の塩付も「カマチ」に含まれます。45軒の内で歓喜寺、庄屋、両刀爾、軒山守、小触。右六軒は今は差出がありません。残九人役目で勤ています」
ここからは次のような事が分かります。
①塩焼(製塩)を行いながら、藩の水夫役を勤めていたこと
②「享保村記」には、何子屋敷四二軒の石高八石四斗は引石、すなわち無税になっていること。

同じ郡志には、次のような記述もあります。
「今津草津屋吉左衛門屋敷ハ、柱島船子、今津へ罷出候時ノ屋敷也。是ハ或時、船子、御用二付テ罷出、滞溜仕候処、誠、野伏体ニテ罷居中ヲ、今津ノ御一人被見付、御領ノ者雨露二触レテハ不相済候間止宿ノ場所支配可レ致トテ、日屋掛ノ所、今ノ草津屋々敷 支配有レ之候。然処二吉左衛門先祖、草津ョリ柱島へ罷越滞溜イタシ候。島中ノ者申様、今津ノ船子屋敷へ普請仕罷居候得バ此後船子御用二付テ罷出候時、宿二可レ仕候卜申談.草津屋、今津へ移居申候。依レ之何子御用二付テ罷出、吉左衛門処二滞留仕候テモ、宿銭卜申事ハ無レ之、今以其分ノ由也。」とある。
意訳すると
今津の草津屋吉左衛門の屋敷は、柱島船子たちが、今津へ出向いたときに使用する屋敷です。これは昔、船子が御用で出向いて、滞在しなければならなくなったときに、小屋掛けしたのが始まりです。今津の人がこれを見て、賀茂神社の御領の者が雨露に濡れているのは忍びないと、宿の場所を提供した所へ小屋掛けしたものです。今の草津屋敷は、このようにして出来ました。
 ところが草津屋吉左衛門の先祖が草津から柱島へやってきて、住み着くようになりました。島中の者がいうには、草津屋が今津の船子屋敷へ新たな屋敷を構え、その後は船子御用を申しつけられ、今津へ移居しました。これより「何子御用」について今津に出向いた際にも、吉左衛門屋敷に滞留しても、宿銭を支払うことはありませんでした。今以其分ノ由也。」とある。
ここからは次のような事が分かります。
①「船子屋敷」は桂島の船子たちが、今津に出向いたときの仮小屋だった。
②それを今津の者が小屋掛けをし、柱島の者が普請して建てた。
つまり、藩の制度として作れたものではないことが分かります。ここからも、桂島の島民が、陸の住人ではなく、「海民・海人」の流れをくむ人たちであったことが分かります。

それでは島に42軒の家のあったころは、いつごろなのでしょうか
それは慶長検地の時と、研究者は考えているようです。
寛永三年検地のときは「屋敷四五軒共」とあります。そこには庄屋・寺・刀爾なども含まれているので、寛永よりさらにさかのぼった時代と考えられます。そして家が増えていっても、船子屋敷として石高を免ぜられたのは「四二屋敷」で、その屋敷の広さは一戸当り三畝でした。この屋敷はもともとは慶長以前から受け継がれてきた揚浜塩田でした。慶長当時に分割したものではありません。それ以前からこの島に住む者が、分家する時には、均等に三畝ずつの塩田を与えられたようです。その中でも、寺は倍の六畝です。そして、刀爾といえども屋敷の広さは三畝で、一般百姓と同じです。
 ここからは「四二軒」の人たちは、海から島上がりして定住したものの子孫だと研究者は考えているようです。これらの人々は、漁民として網漁も行なっていました。
それは先ほど見たように
「島にやって来た暴れん坊の中富弾右衛門を、みんなで相談して、柱島西ノ浜へ網漁に行ったときに討ち取った」

という記述からも分かります。
また、享保九年(1724)に、桂島には
「六端帆1隻、三端帆11隻、十二端帆船1隻」

の船がり、あると記されています。十二端帆というのは大きさから見て船曳船で地引網漁に使われていた船と考えられます。ここからもこの島が、網漁の島であったことが裏付けられます。網漁業を行なうためには網代が必要になります。地曳網ならば、どうしても船を寄せる島または海岸が必要です。柱島島民は周囲の島々に網代を求め、同時にそこへ占有権を確立していったようです。
このようにして桂島の海民達は、周囲の島を属島にしていきます。
それが製塩の「薪島=塩木島」としての利用にもつながるようになります。一つの島を中心にして無人島を11も属島に持つということは、瀬戸内海にも珍しい例のようです。それは、もともとはこの島が網漁業の島であることを物語るようです。百姓島ならば薪島を1つや2つは持っている例はあります。しかし、桂島のように広域にわたって島を持つ例はあまりありません。

柱島は近世に入って岩国藩に属することになり、その海上生活技術が買われて岩国藩の何子(船子)役を仰せつかったようです。
 桑原氏が、この島に来住したころから、忽那七島の連合体から離脱していきます。桑原氏の厳島合戦参加とその敗北がひとつの契機となって、島民が武器を捨て、完全に生産民化していきます。「柱島旧記」にも、桑原氏が持っていた刀を林某に与えて、武士ををやめた記事があります。
 岩国藩の何子(船子)になっても、操舟技術と労力を夫役として藩に提供する立浦式の船子にすぎなかったようです。岩国藩には、安芸浦から今津に移った水夫が別にいました。それらは足軽の資格を持ち、扶持五石を与えられ武士の下層に属していました。桂島の支配者達は、生産民の道を選ぶしかなかたのです。

 柱島は慶長検地の行なわれた時に、山林および農地の割替が行なわれ42等分されます。さらに寛永三年の検地の時のことを「享保村記」は、次のように記します
「田畠塩浜トモニ厚薄組合セ、本屋軒四五軒二分配、山ヲモ塩浜二応ジテ夫々分割方被仰付申タル也、付田畠塩浜井二山ヲ軒別へ割付被下候、尤一軒別ノ割方ヲ一トカマチト島人イヘリ」
意訳すると
田畠や塩浜を組合せて本屋軒の45軒に均等分配した。山も塩浜に応じて、それぞれ均等に分割した。田畠・塩浜(塩田)並びに、山を一軒毎に均等分割し、その一軒の単位を「一トカマチ」と島の者は云う」

ここからは慶長・寛永の江戸時代初期に「田畑+塩田+塩木山」を45軒で割って、均等に分割したことが分かります。
ここからは桂島の当時の人たちが「構成員の平等性・均等性」に、価値観を置く集団であったことうかがえます。これは、陸の人間の発想にはない「海民」の価値観です。
船乗りとして、東シナ海を荒らし回った倭寇軍団の組織原理の中にも見られますし、村上水軍の規範意識の中にも見えます。それを、海からやって来た桂島の人たちは受け継いていたことを示すと研究者は考えているようです。

この島の塩浜は揚浜で、総面積は三町五反二八歩です。
塩田の枚数は、北浜14枚、長浜3枚、中浜・西浜46枚で、合計63枚で、島の周辺全体に分布していました。浜に赤土をたたきつけて塀のように塗り、その上に砂をまき、潮を打って日にさらします。塩屋は23軒しかありませんから、一枚一軒の制ではなかったようです。
人口増加と土地不足に、どのように対応したのか?   
寛永三年の割替の後は、土地割替は行われていませんので、本家四五戸の株は固定しました。しかし、製塩が順調に発展すると戸数は増えます。寛文年間(1661~)のころには108戸に増えています。そして、飽和状態になり享保1年(1777)年には、89戸に減っています。
 こうして増えた家は間脇(分家)とよび、本家に附属する家として、独立した一戸とは見なされなかったようです。しかし、実際には屋敷・耕地なども同じように分けたために、分家を出すためにその家の土地所有は細分化されます。この結果、土地所有の「階層分化」がおきます。しかし、それは農村部のように有力な者が耕地を買い集めた結果の階層分化ではありません。そのため大土地所有者は、島には現われません。
 このような人口増加や分家問題、ひいては土地不足に対して、取られた方策が移民です。
文政13(1830)年、黒島ヘの分村移住が始まります。その際にも、徹底した土地の平等分割が行われています。このように、柱島に住みついた海民たちは「均等性」を求めるのです。上にたつ支配力があまり強くなかったためか、後々まで引き継がれていったようです。柱島は江戸時代には外からの刺激が少なく、生産条件が、農業主体とならず、漁業と製塩に重点をおいたことで、中世以来の古い構造を残したとも云えます。

これと対照的なのが、隣島の端島です。
 
9柱島と端島

端島は柱島の属島ですが、ここを開いたのは柱島島民ではありませんでした。明暦4(1659)に、能美島大原の農民・安宅又右衛門の一族が、やってきて6軒の家を建てて住み着きます。その後、開墾も進み、享保12(1727)年には、石高80石余りになり家屋数も23軒に増えています。
しかし、この島が目指したスタイルは柱島とはちがいます。
この島に移住したのは農民で、農民の性格を強く持っていました。耕地は平等分割されず、未開地を開墾できるだけの力のある者が、本家から分け与えられた土地を併せ持って分家します。そのため耕地をひらくことのできない家は、分家することもなく、叔父坊主と言って、兄の家で働きつつ一生を終わったようです。したがって、 一家の家族員は7、8人が多く、10人を超えるものも数多くあったことが残された戸籍から分かります。
 そして習俗を異にする、桂島の通婚も少なかったようです。島が小さく、その上、南半のミカベ山が柱島の塩木山で、柱島民によって四五に等分せられていたため、そこに入りこみ開墾することも許されません。「享保村記」には、船はわずかに一隻あるだけで、それも漁労用ではなく、島外との連絡に用いられているにすぎなかったと記されます。海に出て、漁を行うという姿勢は 、端島には明治になるまで見えません。
 この二つ島の違いをどう見ればいいのでしょうか。
並んだ近隣の島で、地理的条件が似ていても、生産方法や社会構造が似てくるとは限らないことが分かります。そこには、主体となる人間集団の価値観や理念も関わってくるようです。それは「新大陸」と呼ばれるアメリカ大陸でもラテン世界とアングロサクソン世界では、その後の発展過程が大きく違っていくのと同じなのかもしれません。
 海上生活から陸上がりした「海民」が、製塩や農耕に従った島嶼社会には、柱島と相似た現象がみられると研究者は指摘します。これが庄内半島や塩飽・直島・屋島・小豆島などの中世揚浜塩業が行われた地域にも当てはまるのかどうか、今後の課題となりそうです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献  宮本常一    塩の民俗と生活 

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