瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:中世讃岐の港町


6宇多津1
香川県立ミュージアムの特別展『海に開かれた都市~高松-港湾都市九〇〇年のあゆみ~』で提示された一五世紀~一六世紀前半の宇多津の景観復元図を見ていくことにしましょう
この復元のためには、次のような作業が行われているようです。
①幕末の『讃岐国名勝図会』・『安政三年奉納宇夫階神社に七』・『網浦眺望 青山真景図絵馬』から町割など近世後期の景観を復元する
②そこから延享二年(1745)頃に作られた古浜塩田、浜町・天野新開を消す
③塩田工事と同時に行われた大束川河口部の付替工事を、それ以前の景観にもどす
④伊勢町遺跡発掘調査から近世前期にできた形成を消す
⑤大足川を近世以前の位置にもどす
これらの作業を経てできあがった14世紀の復元図を見てみましょう。
6宇多津2
①青ノ山北麓と聖通寺山北端部を突端部とし、大きく湾入するように海域が入り込む
②その中央付近に大束川が流れ込む。
③河口入江には東と西に突端した砂堆がある(砂堆2・3)
④大束川河口部をふさぐように砂堆が細長く延び(砂堆I)、先端付近では背後に潟がある
⑤砂堆Iの海側には遠浅地形が広がっていた
⑥居住可能なエリアは、青ノ山山裾とそこから海際までの緩斜面地と砂堆、
⑦平山では聖通寺山と平山の山裾の狭陰な平坦地
                
宇多津地形復元図
中世宇多津の復元図
宇多津の中心軸(道路)の  両端には宇夫階神社と聖通寺が鎮座します
①宇多津の中心軸は、西光寺がある砂堆Iの真ん中を東西方向伸びる道路である。
②河口部は、深く入り込んだ入江に沿って聖通寺山の麓の平山まで続く。
③内陸部へ伸びる南北道路は、砂堆1の付根で東西道路と交差し東西・南北の基軸線となる。
④東西道と南北道の交差点付近に港があり、海上交通と陸上交通の結節点となり最重要エリアになる
④東西軸は丸亀街道、南北道路は金毘羅街道へと継承されていく主要路である。
宇多津の東西に位置する聖通寺と宇夫階神社を見ておきましょう
聖通寺の建立時期の古さは何を物語るのか?
 大束川の河口は深く入り込んだ入江となっていて、宇多津と聖通寺山とは湾で隔てられています。その山裾に修験道の醍醐寺開祖・理源大師と関係が深いとされる聖通寺(真言宗)があります。寺伝では貞観10年(868)の創建、文永年間の再興を経て、貞治年間に細川頼之の帰依を受けて復興したとあります。創建時期が、宇多津の諸寺院よりもはるかに古いこを研究者は指摘します。
  聖通寺には、長享二年(1488)に常陸国六反田(茨城県水戸市)六地蔵寺の僧侶が聖通寺で書写したという記録が残っています。
ここからはこの寺が、各地の僧侶が集まる様々な書籍や情報を所蔵した「学問所」であったことがうかがえます。理源大師も若い頃に、この寺で学んだと伝えられます。道隆寺や金蔵寺なども学問所であったと云われ、諸国からの修験者たちがやってきたお寺です。この寺も奥の院は、聖通寺山の山中にあり、大きな磐座(いわくら)が聖地となっていたようです。同時に、この地域には沙弥島・本島・聖通寺山・城山と理源大師に関係の深い「聖地」が残っていて、修験者が活発な活動を行っていた形成がうかがえます。
宇夫階神社も勧請時期は古く、聖通寺の同じ時期に従五位に叙せられています
この神社は、産土神として古くから宇多津の総鎮守的な存在です。復元地図で見ると、大束川を挟んだ宇多津の領域の両端に宇夫階神社と聖通寺が鎮座していることになります。ここからも宇多津における両者の重要性がうかがえます。九世紀後半の宇多津において、この両者が登場してくる「事件」があったのかもしれません。
6宇多津2135
 宇多津の中世集落は、どのあたりにあったのでしょうか
①東西・南北道路が交差する場所(集落I・現西光寺周辺)
②郷照寺の門前周辺で砂堆1と砂堆3が形成する湾入部の一番奥の付近(集落2)、
③砂堆Iの背後の潟周辺で、長興寺(安国寺)の門前周辺(集落3)、
④宇夫階神社の門前で、砂堆3の付根(集落4)
の4つに分かれて集落があったようです。伊勢町遺跡の調査報告書には、各集落が港湾施設(船着場)を伴っていた可能性が高く、『兵庫北関入船納帳』にある「中丁」「西」「奥浜」という三つの集落の存在との対応関係」があることを記しています。

宇多津
宇多津(讃岐国名勝図会)
そして、さらに次のように推論しています
①「中丁」は集落I、
②「西」は集落2ないし4、
③「奥浜」は集落3ないし2
に当たると研究者は考えているようです。
 内陸・海上交通の結節点になる集落1が、宇多津の中心集落のようです。『兵庫北関入船納帳』に出てくる船頭の「弾正」は、ここを本拠地に活動したのかもしれません。さらに、集落1の発掘調査からは、次のような集団がいたことが分かっているようです。
①鍛冶屋等の職人がいたこと
②大規模で多様な漁労活動を行っていた集団がこと
③いち早く「灯明皿」を使うなど「都市的なスタイル」を取り入れた「先進的生活」を送っていた人たちが生活していたこと
このように4つの港湾施設をもる集落が複合体として、宇多津という港町を形成していたと研究者は考えているようです。

6宇多津2213
中世の船着き場の変遷 
中世宇多津の港(船着場)は、どんなものだったのでしょうか?
伊勢町遺跡からは、14世紀初めの石を積み上げた護岸と、16世紀の礫敷きが出てきました。石積み護岸は絵画資料では『遊行上人縁起絵』など、15世紀の室町期になって描かれるようになります。この遺跡も15世紀頃のものなのでしょう。研究者が注目するのは、海際の集落が港湾施設を持ち、それが石材を用いて整備されている点です
6宇多津2
  宇多津への寺社勢力の進出の背景は・
 青野山の山裾や、南北道路の高台、砂堆Iの背後の潟(河口部)に各宗派の寺院が立ち並んでいます。このような景観は『義満公厳島詣記』や文献資料からも見えますし、今でも同じ光景を見ることが出来ます。
宇多津に多くの宗派の寺院がそろっているのはどうしてなのでしょうか。
 まず挙げられるのは、港町宇多津の経済力の高さでしょう。各寺院の瀬戸内海の港町への布教方法を見ると、そこに住む人びとを対象とした布教活動とともに、流通拠点となる港町に拠点をおいて円滑に瀬戸内海交易を行おうとする各宗派のねらいがあったことが分かります。僧侶は、中世の荘園を管理したように、港町の寺院を「交易センター」として管理していたのです。
6宇多津の寺院1
各宗派の進出状況を時期別にまとめると、次のような表になります
①鎌倉期には真言宗寺院、
②南北朝~室町前期には守護細川氏と関連が深い禅寺、
③室町後期にも細川氏の帰依を受けた法華宗寺院、
④戦国期には浄土真宗寺院
が年代順に建立されていて、各宗派の寺院が段階的に進出したことが分かります。一度に姿を現したのではないのです。このことは13世紀後半~16世紀代を通して、宇多津が成長し続けたことを物語ると同時に、各時代の歴史的なモニュメントとも言えます。
本妙寺(法華宗)の建立については以前も取り上げました。
宇多津本妙寺
本妙寺
この寺はの開祖日隆は、細川氏の保護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教活動を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立します。いずれも内海屈指の港町で、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動を展開したことがうかがえます。細川氏が本妙寺を保護していたことは、守護代安富氏が寺中諸課役を免除したことからも分かります。(『本妙寺文書』)。
戦国期には青ノ山南東麓にあった寺院が、西光寺と名前を変えて町内に移転してきます。
 西光寺は、それまでの寺院が青ノ山の山裾に建立されていたのに対し、河口の港のそばに寺域を設けます。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津の西光寺 港のそばに立地
その背景には、浄土真宗寺院の海上流通路掌握といった動きがうかがえます。西光寺は石山合戦に際して本願寺顕如の依頼に応えて、物資を援助をするなど、経済力も高いものがあったようです。
これらの14世紀後半期の法華宗寺院、15世紀後半期における浄土真宗寺院の動きは瀬戸内海各地の港町と同時進行の動きで、当時の瀬戸内海港町で共通する動向だったようです。
宇夫階神社の担った役割は?
宇多津では、このように多くの宗派が林立したために、住民がひとつの寺院の下に集まり宗教活動を行い結集の機会を作り出すことはありませんでした。集落や諸宗派・各寺院の檀家といったレベルのちがう単位がモザイク状に並立した状況だったのです。こうしたある面でばらばらな集団単位を結びつける役割を担ったのが宇夫階神社だったようです。

utadu_02 宇夫階社・神宮寺・秋庭社・神石社:
産土階神社(宇多津)

この神社は、祭礼をとおして複数の集落や単位を統合させる宇多津の重要な核として機能します。そのことは、宇多津の中心軸である東西道路の西端正面に鎮座する立地が示しています。総鎮守的な単一の神社であるを宇夫階神社は宇多津の大きな求心力として機能していたようです。
領主勢力は、直接的に宇多津を支配していたのか?
 宇多津には守護所が置かれたと云われますが、これについては研究者は慎重な態度のようです。『兵庫北関入船納帳』にみる国料船や本妙寺・長興寺・普済院・聖通寺等守護細川氏との関わりが深い寺院の建立・再興などに、守護勢力の影はうかがえます。しかし、宇多津町内に城郭があった形成はありません。封建勢力が港町宇多津への直接的支配権を持っていたとは云えないようです。
 守護所跡と考えられる円通寺・多聞寺、南隆寺の城郭的施設も領主勢力の居城としては、根拠が弱いのです。集落内にも領主の平地居館は、見当たりません。つまり、守護を中心とした領主勢力の宇多津への直接的な関与はあまり感じられないのです。それよりも寺社勢力や「弾正」や「法徳」などの有力海運業者を通じて間接的に関与していたと研究者は考えているようです。

宇多津地形復元図

隣接する港町 平山の役割は?
 湾内を隔てて、聖通寺山の麓にある平山も港町だったようです。『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てきます。宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。自立した港ですが、機能面では連動した相互補完的関係にあったと研究者は考えているようです。
平山の集落は砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近(集落5)、
聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近(集落6)
が想定できるようです。
 『兵庫北関入船納帳』の記載からも平山に本拠地を置く船主の姿がいたようで、小さいながらも港町が形成されていたことが分かります。また、宇多津よりも沖合いに近い立地や、広域的な沖乗り航路とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。


川津と宇多津の関係は?
 一方、宇多津は後背地となる大束川流域の丸亀平野に抱かれていました。それは、高松平野と野原の関係と同じです。大束川の河口の東側には「角山」があります。近くに津ノ郷という地名があることなどから考えると、もともとは「港を望む山」で「津ノ山」という意味だったと推察できます。角山の麓には、下川津という地名があります。これは大束川の川港があったところです。下川津から大足川を遡ったところにある鋳物師屋や鋳物師原の地名は、この川の水運を利用して鋳物の製作や販売に携わった手工業者がいたことをうかがわせます。さらに「蓮尺」の地名は、連雀商人にちなむものとみることもできます。

連雀商人

連雀商人
連雀商人の活動と衰退
連雀商人の衰退要因

このように宇多岸は、海に向かって開けた港であるばかりでなく、大足川を通じて背後の鵜足郡と密接に結び付いた港であったと研究者は考えています。
 坂出市川津町は、中世の九条家荘河津荘でした。そうすると尾道のや倉敷のように、宇多津も荘園の倉敷地の役割を果たす港町の機能も持っていたのかもしれません。そして広いエリアからの集荷活動を行い、備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する塩飽を背景に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。

4344102-42宇多津海側
宇多津の海側(讃岐国名勝図会)

     江戸時代になっての宇多津は?
 天正期には豊臣配下の仙石氏が平山に聖通寺山城を築きます。しかし、それも一時的でその後にやって来た生駒親正は、讃岐支配の新たな拠点として高松と丸亀に城を築城し、城下町を開きます。その際に、宇多津や平山からは多くの寺院、町が高松と丸亀に移転させました。港町宇多津は重要な機能を失うことになります。その背景には商人の街である港町宇多津が、新たな領主にとっては解体すべき対象であったのでしょう。同時に、宇多津から「引抜」いていかないと、新たな城下町として高松や丸亀の建設は難しかったとも考えられます。
 大足川の埋積作用は河口部や砂堆前面を着実に埋没させて行きました。讃岐を代表する港町宇多津は、政治的経済的な中心性だけでなく、港湾機能も奪われていくことになり、やがて地方的な港町になっていきました。
江戸期になると高松藩米蔵が設置され、新たな展開をむかえます。
髙松藩米蔵一覧

高松藩米蔵は、東讃の志度・鶴羽・引田・三本松に置かれますが、宇多津は他の米蔵を圧倒する量を誇りました。ここでは鵜足郡や那珂郡の年貢米を管理し、集荷地・中継地としての機能します。これにともない現在の地割が整備されていきます。

宇多津 讃岐国名勝図会2
大束川沿いに置かれた米蔵(讃岐国名勝図会)
 しかし、大束川の堆積作用は、港に深刻な状況をもたらします。それを克服するため18世紀前半には、他の港町に先駆けて湛甫形式の港湾施設を完成させ、港湾機能の維持に努めます。しかし、やがては金比羅詣での船が寄港するようになった多度津や丸亀にその役割も譲ることになります。
  参考文献
Amazon.co.jp: 中世讃岐と瀬戸内世界 (港町の原像 上) : 市村 高男: 本
   中世讃岐と瀬戸内世界 所収    中世宇多津・平山の景観 松本和彦

     前回、讃岐中世の港町めぐりで引田を紹介したら、もう少し詳しく知りたいというリクエストを頂きました。そこで、引田について見ていきます。引田は、戦国末に生駒氏が讃岐領主として入ってきて最初に築城したところで、城下町も整備されたようです。そのために、生駒氏以前と以後では、街の姿が大きく変わりました。生駒藩以前と、新たに引田城が築かれた後の引田を比べることで見えてくるものを探したいと思います。
1引田城3

 まずは現在の引田を見ておきましょう。
引田の目の前は播磨灘が広がります。かつては島だった城山に向かって南東から北西に弓なりに海岸が湾曲します。地図だけ見ていると、伯耆の米子から境港に伸びる弓ヶ浜とよく似ているように見えてきます。
3引田

平成10年(1998)に、この弓なりの上に位置する本町三丁目で、防火水槽設置工事が行われました。その掘削断面から、ここが砂堆であることが分かりました。引田の街は、大きな砂堆(砂堆1)の上に形成されているようです。砂堆上には海岸線に沿って、北から川向、小海川を挟んで松の下、魚の棚、中ノ丁、本町一丁目~七丁目、木場(きば)、大明神などが並んでいます。
5引田3
 小海川河口部をはさんで北側(川向側)と南側(松の下側)では、北側の方がやや高いことから、北側がより安定した地形のようです。砂堆の最も高い所を、通る旧街道が縦断するように伸びて松の下、中ノ丁、本町一~七丁目の街並みが続きます。この旧街道は、昭和30年代に新しく国道11号線が開通するまでは阿讃の主街道で、この街道に面してマチスジ(町筋)、オカと呼ばれる商家や住宅が建ち並ぶ商店街を形成されていました。
中世引田の復元図から見えてくることを挙げておきましょう。
砂堆Iの上に街並みが形成され、その東西両側に向かって地形は広がっています。
②砂堆Iの西側には潟湖跡(潟湖Ⅰ)があります。
『元親記』では土佐の長宗我部群が「引田の町」を囲んで陣取ったとあり、続いて「本陣と町の間に深き江」があり、潮が満ちているとありました。引田の「町」と城は、「江」によって隔てられていたことが分かります。
③この「江」は城山の南側にある安戸から引田港まで入り込んでいた潟1と砂堆2のことで、現在は陸地となっていますが、明治までは塩田だったようです。
④この「江」は安戸塩田(砂堆3)で作られた塩を引田港まで運ぶ運河でもあったと地元では伝えられています。中世には小型船の往来や船着場として利用していたようです。
⑤『元親記』に記された引田の「マチ」は、引田城と「江」の対岸の宮の後や川向の集落Iと集落2にあたるようです。ここは安定した地形ですから、当時の引田の港町があったのはここのようです。

5引田八幡神社
⑥川向の亀山と呼ばれる高台に、引田の氏神である誉田八幡宮が鎮座します。この八幡宮は延久元年1069)に現在地に遷座したと伝えられます。県の自然記念物に指定の社叢が生い茂っているため、今は引田港は見えません。が、かつては眼下に引田港が見下ろせたはずです。この八幡宮は海上の安全を願って建立されたもので、航海や漁師にとって当て山となっていたようです。

5引田7
 今の八幡宮本殿は南面していますか、かつては北面していたと伝えられています。それはこの神社の北側に引田城があったからでしょう。八幡宮が北面していたは、引田城に向かって鎮座していたということになります。ここにも八幡宮が引田沖や潟1を往来する船の管理や引田城の鎮護を担う役割があったことがうかがえます。この神社を中心に、中世の港は形成されていたようです。
5引田unnamed (1)

⑦当時の引田の町の中心は、この八幡宮周辺の川向や宮の後でした。現在の中ノ丁から本町があるマチ(砂堆1)には、家屋は少なかったようです。
⑧今度は西南の塩屋方面を見てみましょう。ここには低湿地でかつての潟(潟2)が埋積したものとのようです。この潟の西には塩屋や小海(おうみ)という製塩やその景観を表す地名が残っていて、古代・中世にはここまで海が入り込んで入江を形成してたことがうかがえます。『入船納帳』にみえる引田船の塩は、この塩屋付近で作られたのかもしれません
引田が大きく変化するのは、生駒親正の引田城の築城です 。
讃岐領主として、やってきた生駒氏は最初に引田の城山に築城を始めます。一緒にやって来た家臣団も生活のためには屋敷を構えなければなりません。城下町の整備は火急の重要課題です。引田には、その際の屋敷割りが、現在の町割や地名に残っています。

5hiketaHPTIMAGE
 引田の城下町復元図から見えてくることを挙げてみましょう。
碁盤目状の町割りがされている。
②道幅は狭く十字路も筋違いになっているところがいくつかある
③本町六丁目には箸箱町と呼ばれる地域がある。これは建物の並びが、箸箱の蓋のように出し入れできるのが一方だけで行き止まりとなっていることを表すもの。
以上からは城下町として、防衛上のために造られていることがうかがえます。
 その他にも引田のマチには魚の棚や草木町、大工町といった城下町によく見られる市場や職人町を示す地名も残ります。また中ノ丁や本町というように村役人や町人・商人が居住する地域や、寺町のようにまとまって寺院が配置された地域もあります。
引田城下町の中心はどこだったの?
 生駒親正が引田城の後に築いた高松城下や丸亀城下では、侍屋敷が並ぶ地域を一番丁や二番丁のように「丁」、町人町を「町」と表記して区別しています。引田の中ノ丁も武家町であったと考えられます。中ノ丁には生駒時代に庄屋役を仰せつかり、以降明治まで引田村庄屋を勤めた日下家や、松の下には先祖が生駒氏に仕えたという佐野家や岡田家などの有力商家がありました。これらの家が中ノ丁や松の下に集まっていることは、この地区が引田の政治の中心であり、城下町がここを中心に整備されたことがうかえます。本町は北から一丁目・二丁目・三丁目……七丁目と並びます。これは北側の中ノ丁を基点に、順序に付けられたと考えられます。
 さらに北後(きたうしろ)町や南後(みなみうしろ)町は地名からすると、中ノ丁や大工町・草木町から次第に広がっていった地域のようです。このように引田城下町は中ノ丁を中心に町が展開していったと研究者は考えているようです。

 生駒氏以前の中世の引田は、集落1と集落2にあたる川向や宮の後が町の中心でした。それが生駒親正による城下町の整備で、砂堆の南側にも家臣団の屋敷が「町割り」されて建ち並ぶようになります。そして、町の中心が松の下や中ノ丁に移ります。川向は「川の向こう」という意味ですから小海川の南側の地域が中心となってから使われるようになったのでしょう。
 また北面していた八幡宮を、南面に改めたのも生駒親正と伝えられます。南面させて引田のマチを望む方向に変えたのは、八幡宮の役割が引田城の鎮護から引田のマチの鎮護に変わったことを示しているのでしょう
 復元図には魚の棚や草木町・大工町といった城下町によく見られる市場や職人町が見えます。魚の棚には江戸後期まで魚問屋があったようです。また、本町の旧街道に面したマチスジは近世にも数十件の商家が建ち並び、最近まで商店街を形成していました。ここに住んでいた商工業者たちが、このマチの経済的な役割を担っていたようです。
引田の寺町は?           
寺町には積善坊(真言宗)・善覚寺(浄土真宗)・萬生寺(真言宗)の三つの寺院が一列に建ち並んでいます。小規模ですが寺町を形成していたようです。積善坊は、もともとは内陸部の吉田にあったがいつのころか現在地に移り、天正年間の長宗我部勢の兵火により焼失したようです。それを生駒親正が修復したといいます。
 善覚寺も小海にあったのを明暦年中(1655)゛に中興沙門乗正が現在地に移したと伝えられます。萬生寺は天文10年(1541)に当時引田城主であった四宮氏の菩提所として建てられたという縁起が残ります。
 このようにそれぞれ異なる縁起を持つ寺院が寺町に集まっていることは、誰かが意図的に移転・配置したのでしょう。寺町は引田では、西の入口にあたります。東の入口にも本光寺(真言宗)があります。東西入口に、防御施設として寺院が配置されたようです。
 このように引田は、生駒親正による都市計画により城下町が整備され、町の中心が移り武家町や職人町・商人町・寺町が形成されたことが分かります。
 しかし、生駒親正の都市計画は町割の整備だけではなかったようです。最も大事業でだったのが小海川の付け替え工事でした。
 小海川は川向と松の下を隔てるように流れます。この川は、今は丘陵部に沿って直線的に播磨灘に流れていますが、元々は安戸方面(潟1・砂堆3)に流れて「運河」の役割も果たしていました。それを砂堆Iを切り開いて直線的に海に出るルートにしたようです。これだけ見ると、この河口が果たしていた運河や船着き場の役割が果たせなくなることになります。
なんのための大規模な河川付け替え工事だったのでしょうか?
潟1と砂堆2・砂堆3にあたる小海川の旧河道の安戸には、明治44年(1912)まで塩田があり、大正年間に耕地整理が進められ現在は田地となっています。つまり旧河道は塩田に姿を変えたようです。
  大内郡松原村(東かがわ市松原)の教蓮寺に伝わる享保11年(1726)の『松雲山教蓮寺縁起』によると、
天正15年(1587)に生駒親正が引田に入部した際、播磨国赤穂から人民数十人を松原村に移住させ、塩浜を拓いたと記します。同じように引田の安戸でも、赤穂から住民が移住して塩田を造ったと伝わっています。中世以来、引田では塩屋(潟2)で製塩が行われていましたが、より海水を引き入れやすい安戸(潟I・砂堆3)で大規模な製塩を行おうとしたことがうかがえます。小海川の付け替え工事は、安戸への淡水の流入や洪水の被害を防止し、新たな塩田開発のためだったようです。
 さらに安戸だけでなく『元親記』でみた「江」も塩田に拓いた可能性もあります。安戸塩田の開発の背景には、塩屋の潟が上流からの埋積で埋まり塩田が仕えなくなった可能性もあります。
 小海川の付替工事は、塩田開発だけでなく、潟を排水することによる水害防止、そして堀として城下の防御の三点が考えられます。小海川付け替え工事に関する文献史料はありません。そのため年代などは明確にできませんが、この工事は生駒親正の城下町の整備と同時期に行われ、以前からあった製塩業を城下町の重要産業として発展させたと研究者は考えているようです。

引田に残る伝承からも、生駒親正による城下町の整備をうかがえるものがあります。
坂ノ下にある岩崎観音には、次のような伝承が伝えられます。
この辺りは船泊まりで、餓鬼が度々出没していました。生駒親正が引田にやって来たときに、この訴えを聞き、安全を願って祠を建て、聖観世音を安置した。これが岩崎観音である
というものです。ここには「岩崎観音付近が船泊まり」だったとあり、小海川が付け替えられる前の景観を裏付けるものとなります。同時に、小海川旧河道(潟I)には、船が行き来していたこと分かります。
 また八幡宮の秋祭りには、引田の各地区で獅子連や奴連が、大明神にあるお旅所まで旧街道往復2㎞を練り歩きます。八幡宮に奉納される奴の起源は、天正年間に生駒親正によって八幡宮が再建されたのを喜んだ引田の人々が「やり踊り」を奉納したのが始まりと伝えられています。ここにも数百年経った現在も引田の人々の記憶に城下町整備を行った生駒親正が「郷土の恩人」として、後世にも語り継がれています。

 ところで生駒親正が引田を拠点としたのどのくらいの期間だったのでしょうか?
資料的には数力月で引田から宇多津に移っています。彼の引田時代はきわめて短期間でした。引田から宇多津に移った理由は『生駒家始末興廃記』には次のようにあります。
生駒雅楽頭近規ハ、永禄・元亀・天正等之兵乱、太閤秀吉公幕下に属し、数度之武功依之有、天正十五年讃岐之守護尾藤甚右衛門没落之跡 高十七万六平石受封して、讃岐国大内郡引田之城え入部被成候所、引田ハ国之東端ニて、西方難治より、鵜足郡聖通寺山の城に居住、此城往昔仙石権兵衛殿築被申由伝候、然ルに近規国政被仰付るに、当国先々衆呼出し、相応之扶助を宛て国務被仰付、当地境内狭故、天正十六年、香東郡野原庄二初て城を築、天正之頃迄は、在々小城共多故、海辺仁保・多度津・笠居・津田・三本松・引田杯船付二ハ商売人有之、其外在々分散して繁昌之地も多くハなし、
ここには次のようなことが記されています
①生駒氏が秀吉から讃岐国領主に任じられ、最初は引田を拠点とした
②しかし「引田は讃岐の東端で、西方が治め難し」として 宇多津の聖通寺山に移ったこと
③さらに聖通寺山では手狭になったために香東郡野原(高松)で新城に着工したこと
④天正の頃までは仁保(仁尾)・多度津・笠居・津田・三本松・引田が有力な港町で、ここに商人達がいたようです。この引田の商人たちが居住していたのが『元親記』で仙石氏に包囲された引田の町なのでしょう。

 引田か短期間で拠点を移動させた理由は、次の2点のようです
①引田は瀬戸内海東部での軍事拠点としては機能するが、讃岐を治める拠点としては東に偏りすぎていること、
②本格的な城下町建設には、砂堆Iの地域は狭すぎて大規模な埋め立て造成工事を行わないと、岡山や姫路のような城下町は造れないという地形的制約があった
とされているようです。 
 生駒親正は引田から移った翌年の天正2(年(1588)には香東郡野原に高松城の築城に着手します。
そして慶長2年(1597)には丸亀に高松城の支城を築き、ここには親正の子・一正を入れます。これは西讃地方の支配のための支城的な役割もありました。東讃地方にも支城が必要であるという認識があったようです。当時は、関ヶ原の戦い直前で、臨戦態勢が整えられていく時期でもあります。
 享保年間(1716)の『若一王子大権現縁起』や寛政四年(1792)の『小神野夜話』では、慶長年間に生駒甚助(一正の次男)が大内郡一万石を領し、引田城に拠ったとあります。引田城が東讃地方の支城として整備が続けられたことがうかがえます。
 また発掘調査によっても数多く出てくる瓦は、関ヶ原直前のもので、入部当時のものではないことが分かってきました。引田城や城下町の工事は、関ヶ原の直前に活発化したと研究者は考えているようです。
 以上をまとめておくと
①中世の引田の町は、八幡宮周辺を中核として川向や宮の後に集落があり、現在マチと呼ばれる中ノ丁から本町がある砂堆には集落が限定的であった。
②駒親正の引田城と城下町の整備により景観は一変する。
③町の中心が八幡宮周辺から現在のマチに移り、武家町や職人町・商人町、そして寺町が計画的に配置された
④小海川付替え工事が行われ、安戸塩田の開発などの殖産事業も実施された。
⑤しかし、生駒氏の拠点は短期間で宇多津を経て高松に移された。⑥そのため引田城や城下町整備は、関ヶ原直前から本格化した
以上、生駒氏による引田の城下町整備についてでした。
萩野憲司 参考文献中世讃岐における引田の位置と景観  中世讃岐とと瀬戸内海世界 所収
1584 天正12 (甲申)
 県内  6・11 土佐の長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡
 1585年 天正13 (乙酉)
   4・26 仙石秀久および尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し屋島に上陸,喜岡城・香西城攻略
   5・15 仙石秀久,阿波より讃岐に引揚げ牟礼・高松に陣取る(仙石家譜)
   7・25 秀吉と長宗我部軍との和議が成立し,長宗我部元親は土佐へ退却
   7・- 仙石秀久,秀吉から讃岐を与えられる.ただし2万石は十河存保の支配
   仙石秀久,抵抗した香東郡安原山百姓100余人の首領13人を聖通寺山麓で処刑する
   この年 フランシスコ・パシオ,上京の途中塩飽に寄る(イエズス会日本年報)
1586年 天正14 (丙戌)
   12・13 仙石秀久,戸次川で島津軍と戦って大敗し,十河存保ほか多くの讃岐武將戦死
   12・22 仙石秀久,戸次川の戦いでの不覚を責められ豊臣秀吉とり讃岐国没収
   12・24 尾藤知宣,豊臣秀吉より讃岐国を与えられる
1587年 天正15 
   6・- 尾藤知宣,日向国根白坂の合戦で豊臣秀吉の怒りをかい讃岐国没収
   8・10 生駒親正,豊臣秀吉より讃岐国を与えられる(生駒家宝簡集)
   8・17 加藤清正,讃岐の平山城(聖通寺城カ)を生駒親正に引き渡す
   12・- 播磨国赤穂から数十人が白鳥の松原に移住し塩田を開く(教蓮寺文書「教蓮寺縁起」)
1588年 天正16 (戊子)
   この年 生駒親正,香東郡野原庄の海浜で高松城築城に着手する
1589年 天正17 (己丑) 2・晦 豊臣秀吉,塩飽1250石の領知を船方衆650人に認める
   3・- 生駒親正,5000余人の軍勢を率い北条氏討伐に参陣
   この年 豊臣秀吉の北条氏討伐に際し,塩飽船,兵糧米を大阪より小田原に運ぶ,
1591年 天正19 (辛卯)9・24 豊臣秀吉,朝鮮出兵を命じる
1592年 文禄1 12・8 (壬辰)
   3・- 生駒親正・一正父子,秀吉の命で5500人を率いて朝鮮半島へ出兵する
   10・23 豊臣秀次,塩飽に大船建造を命じ船大工・船頭を徴用
1594年 文禄3 (甲午)生駒親正,大坂に滞在.一正は再び朝鮮に出兵
   10・16 豊臣秀吉,生駒一正に来春の朝鮮出兵のための水主・船の準備を命じる
   7・12 夜,大地震.田村神社の神殿壊れる(讃岐一宮盛衰記)
1597年 慶長2 (丁酉)
   2・21 生駒一正,朝鮮出兵で第7番に属し,2700人の兵を率い渡海し昌原に在陣
   生駒親正,一正と計り,西讃岐支配のため亀山に城を築き,丸亀城と名付ける
   この頃 生駒藩の検地が始まる
  1600年 慶長5 (庚子)
   6・- 生駒一正・正俊父子,上杉景勝討伐のため家康軍に従い関東に赴く
   7・- 生駒親正,豊臣秀頼の命により丹後国田辺城攻撃のため,騎馬30騎を参陣
       この後,高野山に入り家康に罪を謝る
   9・15 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦
   9・- 生駒親正,高野山で出家
 生駒藩,香西加藤兵衛(往正)ほか20名を登用し,佐藤掃部に「国中ノ仕置」を命じる
1601年 慶長6 (辛丑)
1602年 慶長7 (壬寅)
    生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
    播磨国の人々が坂出(内浜・須賀)に移住する(西光寺文書)
1603年 慶長8 (癸卯)
   2・13 生駒親正,高松で没する.78歳
1605年 慶長10 (乙巳)
   9・- 生駒一正,初めて妻子を江戸へ住まわせる(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
1609年 慶長14 (己酉)
   5・23 生駒一正,妻子を江戸に住まわせたことにより,徳川秀忠より「半役」
       (国役を半分にする)を申しつけられる(生駒家宝簡集)
   2・2 生駒一正,国分寺より梵鐘を召し上げ,その代りとして荒田1町を寄進
   3・14 生駒藩,国分寺へ梵鐘を返却する(国分寺文書)
   この年 生駒一正,親正の菩提のために弘憲寺を建立し,寺領50石を寄進する
1610年 慶長15 (庚戌)
   (2)・8 駿府に参勤していた生駒一正,名古屋城築城を急ぐため名古屋へ赴く
   3・18 生駒一正没する.56歳(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   4・- 生駒正俊,家督を継ぎ高松城に居住.
この時に丸亀の町人を高松城下に移し丸亀町と称す
1611年 慶長16 (辛亥)
1613年 慶長18 (癸丑)
   10・1 徳川家康大坂征討の出陣を命じ,大坂冬の陣おこる.
   11・1 生駒正俊,大坂木津川口に陣をしく(徳川実紀)
   11・17 生駒正俊,住吉で家康に参見する.家臣森出羽・生駒将監・萱生兵部の活躍めざま しく家康・秀忠より感賞される
   8.- 全国的に踊りが広がり,これを伊勢神踊と号する(讃岐国大日記)
   10・25 大地震起こる(讃岐国大日記)
1596~1615年 慶長年間
   この頃 生駒藩,高松城下魚棚の住人の一部を野方町に引き移し,水主役を勤め
       させる(英公外記)
   この頃 金倉(蔵)寺の諸堂が復興する(金倉寺文書「由緒書」)
1615年 元和1 7・13 (乙卯)
  政治・経済
   2・12 小豆島草加部村の年寄ら,大野治長の命により塩910石を大坂城へ納め
       る(菅家文書)
   3・22 小豆島草加部村の年寄ら,大野治長の命により薪3500束を大坂城へ
       納める(菅家文書)
   4・6 徳川家康,大坂再征令を発し,大坂夏の陣おこる.
   夏   生駒正俊,大坂夏の陣で徳川方につき,軍用金5000両を家臣に配分して
       生玉庄に陣取る(生駒記)
   5・7 大坂城落城
   (6)・13 一国一城令により丸亀城廃城
1621年 元和7 (辛酉)
   6・5 生駒正俊,没する.36歳(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   7・- 生駒高俊,家督を継ぐ.外祖父藤堂高虎,生駒藩政の乱れを恐れて後見

このページのトップヘ