瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:中寺展望台

中寺・大川山でお話しした時間割です。

本日の授業


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中寺展望台での1限目授業
1時間目の中寺展望台では、こんなお話しをしました。

山林寺院の役割

 仏教伝来以前には、死者の霊は里から見える神奈備(かんなび)山に集まり漂い、時間をおいて天上世界に帰っていくと考えられていたと民俗学は云います。里から見上げられるおむすび型の甘南備山は、死霊が集まり漂う所です。例えば、善通寺の大麻山や五岳、三豊の弥谷さん・七宝山などです。そこには後になると山林修行者がやってきて、死霊を供養するようになります。同時に、彼らはそこを拠点として行場を開いて行きます。こうして死霊の集まる山は、山林修行者の集まる霊山や行場へと成長して行きます。その際に、霊場になるには麓からよくみえる山であることが条件でした。そういう意味では、丸亀平野一円から見える大川山は、霊山に相応しい山でした。
霊山では、修行の折り目折り目に、山頂で大きな火が焚かれました。

富士山頂の柱源護摩供(はしらもとごまく)
富士山頂の柱源護摩供(はしらもとごまく)
これが密教に取り入れられると護摩祈祷になります。古代の山林修行者は、修行が一区切り終わると夜に山頂で周囲の木を切ってバンバン燃やしたようです。燃える焔は神秘的で、その山が特別視されるようになります。徳島の霊場・焼山(しょうざん)寺や、五岳の火山、火上山・護摩山などの山名は、頂上で大きな火(護摩)が焚かれたことに由来するとされます。焼山寺の火は紀伊からも見えたようです。大川山で焚かれた火も、讃岐一円から見えたことになります。それが霊山の信仰エリアとなります。
③3番目は、前回に見たとおり、里が見渡せる国見山として戦略的な意味を持つこと
④4番目は平安時代になると山林資源をどのように囲い込むのかが課題になります。
その管理拠点の役割を担ったのが山林寺院です。この尾根の西側の尾根には尾背寺があります。尾背寺の由緒には、空海の実家佐伯直氏の氏寺で、善通寺建立の際の材木を提供した山林寺院と書かれています。つまり、佐伯氏が森林確保の役割を含めて尾背寺を保護したことがうかがえます。このように、古代の山林寺院は、宗教的役割の他にも経済的・軍事的な役割を担って登場してきたことを押さえておきます。 
 若い時代に空海が行った修行とは、どんなものだったのでしょうか?
若き日の空海は、平城京の大学をドロップアウトして山林修行者になり、大滝山や室戸で修行を行ったと記します。当時の山林修行者が行っていた修行とは、次のようなものでした。

空海が行っていた修行

①まず巌籠(いわごもり)です。魑魅魍魎の現れる異界の入口である洞窟に一人で座り込み、生活するというのは勇気の要ることです。そこで五穀を断ち、草の根などを食べます。洞窟などが生活空間となり、その周辺に庵や寺院が現れます。
②次に行道です。これは奇岩や聖なる樹木の周りを歩くことから始まります。伊吹山の行道の行場は、行道岩が訛って、今は平等岩と呼ばれるようになっています。この岩の周りを百日回り続けるのが百日行です。チベットのラマ教とは、聖なる山カイラスの廻りを五体投地をしながら何日もかけて廻ります。これも行道です。ここでは、この中寺と大川山を回る行道が行われていたと私は考えています。

誓願捨身2 高野空海行状図画
空海の誓願捨身行 五岳の我拝師山にて (弘法大師行状絵詞)

4 どうして、こんな厳しい修行を行ったのでしょうか。

山林寺院出現の背景

それは朝廷や貴族に仕える僧侶が求められたのは、高尚な仏の教えだけでなかったからです。旱魃の時に、雨を降らしたり、病気を治したり、祟りや呪いを追い払うことが求められます。そのためには修行で「験(げん)」を積むことが必要です。今風に云うと、ボスキャラ退治のためには、高いパワーポイントが必要で、それがダンジョンでの修行だったということでしょうか。
 ③こうして、東大寺などの中央の官寺や、地方の国分寺などでも山林修行をおこなう僧侶が出てきます。④これに応えて、中央政府や地方の国衙も山林修行の拠点としての寺院建立を始めます。⑤こうして姿を見せた山林寺院は、国境警備や森林資源保護センターの役割を果たすようになります。山野を駆け回る山林修行者は、国衙の警備や山林保護の任務も担うことになります。ここでは空海が山林修行を始めた頃に、中寺は山林寺院として姿を現し始めていたことを押さえておきます。
 これで一時間目の終了です。2時間目は、B祈りゾーンです。移動します。

中寺廃寺 3つのゾーン2


上地図で現在地点の展望台を確認してください。
①東への稜線沿いに30m下げ鞍部が「きた坂
②北阪から南東尾根、左手は平坦地 20m下げた尾根の突端部がBゾーン
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           Bゾーン(祈りの空間) 尾根先端の盛土と、その向こうに大川山

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見上げると大川山
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2時間目の始まりです。教室は、大川山を見上げる割拝殿跡です。
この空間の持つ意味を、次のようにお話しをしました。
神社の建物ができる前は、山自体が信仰対象でした。神社という建物ができると、それに向かって拝むようになります。今では祈りの対象が山から、神社の建物に替わってしまっています。しかし、山が信仰対象であったことを思い出させてくれる場所があります。例えば、石鎚山のロープウエイ側の成就社です。
石鎚山が礼拝対象 
成就社からの石鎚山
ここは本殿に入ると、祭壇の向こうに石鎚山です。ここから石鎚山にお参りします。 横峰寺の場合だと、星ヶ峯の遙拝所に石鎚山を拝む方向に鳥居があります。鳥居の間から、石鎚山が見えます。明治維新の神仏分離以前は横峰寺や前神寺などの山林寺院が信仰の中心で、神仏混淆の空間でした。社僧たちが、朝に夕に、石鎚山に祈りを捧げていたのです。これと同じ空間が、このBゾーンと云うことになります。
 ここで山林修行者たちは、朝夕に大川山への祈りを捧げるだけでなく、金剛界と見立てた大川山と、胎蔵界と見立てた中寺を、一体化するために往復行道を毎日、何度も行っていたと私は考えています。その中に若き日の空海もいたかもしれません。B地区は大川山への遙拝所ということで、「祈り」のエリアと名付けられました。それを裏付けるものが発掘調査で見つかっています。

この割拝殿前の広場から出てきた青銅器の破片です。

三鈷杵と柵状の破片

これは古い密教法具の破片であることが分かりました。左は三鈷杵といい、山林修行者を外敵から守ると共に、修行者の弱い心を打ち砕くとされる仏具です。右が錫杖の一部です。

飛行三鈷杵との比較

左の空海が唐からもたらしたとされる三鈷杵と比べると、古い様式のものだと研究者は指摘します。つまり、空海が唐から持ち帰る以前のモデルだというのです。ここからは、割拝殿や僧坊が建てられる前から小屋掛け生活して、「修行」をしていた山林修行者がいたことがうかがえます。壊れた密教法具の破片は、激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を物語っているようにも思えます。そして、こわれた破片を大切にここに埋めたのでしょう。その中に若き空海の姿もあったかもしれません。そんなことをイメージできる雰囲気がここにはあります。

この基壇からは、次のような礎石が並んで出てきました。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿4
Bゾーンの割拝殿と広場、その下の僧坊

ここには柱跡が何本ありますか、その間は? 8間×3間の長い礎石建物であるようです。特徴的なのは、中央に通路があるように見えることです。そこで、研究者は次のように復元しました。

割拝殿とは・・
Bゾーンの割拝殿
ここから霊山大川山を仰ぎ見て祈りを捧げる拝殿ということになります。

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そして、中央に通路があって分かれているので「割拝殿」と呼ばれます。

そして、割拝殿の下の斜面を平らにして造られた僧坊跡を見ます。

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2限目 中寺廃寺 Bゾーンの僧坊跡にて
ここからは柱穴から変わった瓶が出てきました。
中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
いくつもの口があります。これは日常生活に使われるものではなく、仏事に使われたものです。これを復元すると下のようになります。

中寺廃寺 Bゾーン多口瓶
現在の考古学では、土器編年体表が整備され、いつどこで作成されたかが専門家には分かります。
多口瓶(屋島寺・法勲寺)
中寺周辺の寺院から出てきた多口瓶の類例

この多口瓶が物語ることを整理しておきます。
①多口瓶は仏具なので、この建物が僧坊であったこと
②この多口瓶が播磨の工房でつくられたもので、類例品のない特注品であること
③この多口瓶は普通の人間には手に入らない高級品で、威信財だったこと。
④中寺で修行する僧侶が、財力や地位をもった高僧であったこと
⑤見方を変えると、中寺は高級僧侶が修行する山林寺院だったこと

最後に1・2限目のまとめを行っておきます

割拝殿 祈りの場

①大川山は仏教伝来以前から霊山で信仰の山であった。
②そこに山林修行者がやってきて中寺に遙拝所を開いて活動を始めた。
③その痕跡が、古いタイプの三鈷杵や錫杖の破片である。
④その後、割拝殿や僧坊が姿を見せるようになる。
⑤僧坊から出てきた多口瓶からは、高い地位の僧侶が修行していたことがうかがえる。


HPTIMAGE

中寺の建造物の出現期(Bゾーンの仏堂は割拝殿のこと)
⑥割拝殿空海以前から大川寺を霊山として活動する山林修行者がいた。
⑦8世紀末に割拝殿や僧坊が中寺で最初に建築物として出現する
⑧空海が平城京の大学をドロップアウトして山林修行の道に入ったときには、Bゾーンは存在していた。
⑨9世紀半ばになって、讃岐国衙や国分寺の保護を受けてAゾーンの仏教施設が現れる。

ここからは、中寺で活動をはじめたのは山林修行者であったこと、その信仰の中心はBゾーンであったことが分かります。佛教的要素は、それに遅れて入ってきたことになります。また、若き空海が中寺で修行を行った可能性が生まれてきます。

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2限目終了です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
関連記事


 11月16日(日)の勤労者山岳連盟のハイキングに招かれて、中寺と大川山でお話しすることになりました。本隊は江畑から登りますが、体力に自信のない私は笹の田尾(峠)の駐車場まで車で登ります。そこから車道を歩いて下って、中寺展望台で合流するという流れです。その模様をアップしておきます。
中寺廃寺 アクセス

中寺・大川山マップ
中寺・大川寺ハイキングマップ(まんのう町教育委員会) 各登山口に置いてあります。

 登山口の中通の野口から車で40程度で大川山への分岐を越えて、阿波大平の県境稜線尾根に出ました。ここではもう落ち葉が車道を埋めています。

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大川山西側の大平の県境尾根
このあたりのことについては、江戸時代末に高松藩主が鷹狩りと称して、大川山周辺の阿波との国境視察をおこなった時の模様が造田村庄屋の西村文書に記されています。そのルートは、次の通りです。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾

西村文書 髙松藩鷹狩りコース添付図
A『西村家文書』「殿様御鷹野被仰出候二付峯筋御往来道法方角絵図指出之控絵図」
この絵図からは次のようなことが分かります。
①大山社の西側の尾根筋には鳥居があったこと。
②この鳥居ルートが江畑・塩入や阿波の大平からの参道になっていたこと
③絵図の右端(西側)の尾根の分岐が「笹ケ多尾(タオ=峠)」と呼ばれていたこと
④「笹が多尾」から北西に伸びる尾根が中寺へのルートであったこと。
⑤大川山と笹が多尾を結ぶ県境尾根の北側は「新御林」とあって新たに藩の管理する山林に指定されたこと
この辺りの山林は髙松藩の藩有林で、それが明治維新に国有化され、一部は個人や各村に払い下げられたようです。
 大平への車道を一旦下って、分岐を笹ケ多尾へと登っていきます。高原キャベツ畑の奥の稜線上に中寺駐車場があります。

中寺廃寺 駐車場
笹ケ多尾の中寺駐車場

ここからの車道は一般車は通行できません。急勾配なコンクリート道を下って行きます。

西村家文書 柞野絵図2

中寺廃寺跡周辺の造田村杵野谷の絵図です。先ほどの絵図と同じように、殿様の国境視察時に時に、藩の求めに応じて造田村の庄屋西村市大夫が作成し提出したものです
①左下隅に天川大明神(天川神社)、そこから中央に伸びていく柞野川
②左上隅に「大川御社(神社)」、そこから真っ直ぐ西に「笹ケ田(多)尾」
③「笹ケ田尾」から江畑へ伸びる郡境尾根上に中寺・犬頭・三ツ頭
同時に次のような報告書も提出しています。
 一筆啓上仕り候、鷹狩りコース中に、名所古跡があるかについて回答いたします。この度の塩人村からの道筋上には、名所古跡はありません。ただ、笹ケ多尾周辺に、それらしきものがございます。これは那珂郡の領域になります。ただ、鵜足郡造田村には、以下のものがあります。
一 犬の墓
一 中寺堂所  但し寺号なども分かりません
この外には、何もありません。これとても大したものではありませんが、通行筋には当たります。御書の作成に当たり、記載するかどうかは賢慮の上、取り計らい下さい。
ここには、造田村の中には無いが、笹ヶ多尾の周辺に「犬の墓」と「中寺堂所」という寺跡があることが報告されています。幕末の庄屋西村市大夫の認識は「これとても指し為る事二て御座無く候」とあります。中寺跡の存在や位置は知っていたが、その内容や規模については知らなかったことがうかがえます。これに対して、藩はさらに詳しく知らせよと求めてきます。それに対しての造田村庄屋・西村市太郎の返答書です。
飛脚の速達便を拝見しました。造田村の中寺は、長曽我部の兵火で焼失した寺跡だというが、何免(村)にあるのかという問い合わせでした。これに対して、以下の通りお答えします。
一 中寺跡
 大川社坊の阿波境の笹ケ多尾の少し下に位置しますが、東西南北ともにいくつもの山が続く中なので、何免と答えることが困難です。強いて云えば、樫地免より手近の場所なので、樫地免としてもいいのではと思います。右の通リニ御座候間、宜しく御申し出で仕るべく候、以上
九月七日            西付市大夫
十河亀五郎様
以上の西村市大夫の書状からは、彼が中寺廃寺のことを次のように認識していたことが分かります。
①江戸時代末には、「寺の名前がわからない」「昔から石があったとされる」程度の認識であったこと
②名所・古跡として挙げているので、寺があったことは民衆の間に言い伝えられていたこと
③「笹ヶ多尾 → 中寺 → 江畑」の尾根ルートは、かつては那珂郡と阿野郡の郡境であったこと。
④このルートは、江戸時代末の江畑からの大川山への参道となっていて西側には鳥居もあったこと

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笹ケ田尾から急な車道を30分ほど下ると見えてくるのが休憩所です。
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中寺休憩所
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この休憩所は避難所の役割もあるようですが、バイオトイレがあるのがありがたいところです。
この休憩所のそばを通って林の中を抜けて行きます。

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中寺展望台と仏ゾーンへの分岐点
北側が明るくなると展望台はすぐそこです。休憩所からは5分弱です。
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中寺展望台
ここからの展望は「丸亀平野を見下ろす随一の展望」とありますが、そのとおりだと思います。
中寺廃寺 髙松方面展望
         髙松方面 屋島・その後ろの小豆島・峰山・その間にサンポート 

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                     髙松方面 
伊方原発など西からと、阿波の水力発電所からの高圧送電線が変電所に集まる。その向こうが屋島と小豆島。
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坂出方面 五色台・城山・飯野山 手前の尾根は長尾の城山から大高見峰

中寺廃寺展望台1
     丸亀・善通寺方面 直下に満濃池・その向こうが象頭山・その左が荘内半島
空海の生まれた善通寺と五岳も見えます。善通寺と満濃池と大川山が一直線に結べます。満濃池は、空海が改修したといわれ、工事中は護摩壇を築いて祈祷を続けたとされます。その間も空海は、この山を見上げ睨み続けていたのかもしれません。
 瀬戸に浮かぶ島々としては、小豆島・瀬戸大橋・本島・広島・高見島・荘内半島・紫雲出山・伊吹島がそれがパノラマのように一望できます。塩飽の島々や備讃瀬戸を行き交う船も見えます。瀬戸内海は古代から富と人の通る大動脈。ここを押さえることは、戦略的意味があります。中寺には髙松藩の殿様も鷹狩りと称して阿波藩との国境視察のために訪れたことはさきほど見た通りです。初めて江戸から帰国した若殿に対して、育成係はここでどんなことをレクチャーしたでしょうか。
こんな山を国見山とよびます。
国見山とは、領地が一望出来て、領内の異変などをいち早くとらえて通報することのできる場所でもあります。その意味では大川山は戦略的な意味を持つ山でした。支配者としては、監視人を置いておきたい場所です。 

中寺展望台から丸亀平野
中寺展望台からの満濃池と、その左手の象頭山
快晴の中、展望台でボケーとしながら考えていると、江畑からの本隊が登ってきました。一休みした後で「授業」開始です。
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中寺展望台での1時間目授業
本日の時間割は次の通りです。
本日の授業


与えられたテーマは 中寺廃寺と大川山についてですが、この2つに空海を搦ませてお話ししたいとおもいます。時間割は上図の通りです。昼食後の5限目に大川山にいって、大川山と中寺が神仏混淆下で、一体であった痕跡を探そうと思います。こんな時間割で進めていきたいと思います。
以下は、また次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事

  中寺廃寺について、次のような三部構成でお話ししています。今回は、②についてです。
①若き空海が、どんな山林修行をしていたのか
②山林修行の場として作られた中寺の構造・特色は、どんなものであったのか
③中寺衰退後の霊山大川山には、どんな修験者ネットワークが形作られたのか
忘れ去られていた中寺廃寺が再発見されるに至った経緯は、次の通りです。

中寺廃寺発見の経緯

大川山にお寺があったという話は、いろいろな形で伝えられていました。中でも髙松の殿様の国境視察調査のルートを決めるために書かれた絵図の写しが造田村の庄屋西村家に残っていました。

西村家文書 柞野絵図2
造田村柞野谷 西側の江畑道(旧郡境)に「中寺」とある
そこには中寺という地名が書き込まれています。これらを手がかりに、旧琴南町の文化財協会の人達が粘り強い調査活動を行い「再発見」につなげます。これを受けて町による本格的な発掘調査が行われ、古代に遡る山林寺院と評価されます。そして国の史跡に指定され、保存整備が進められてきました。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺跡の展望台から望む「阿讃山脈NO1の絶景」
 江畑口駐車場から2時間ほどで、高圧鉄塔を越え最後の階段を登ると展望台が迎えてくれます。パンフレットには中寺展望台と記されています。ここまでが90分ほどでしょうか。この説明板には「阿讃山脈NO1の展望」と書かれていますが、その通りです。素晴らしい眺望が楽しめます。左手(西北)に見えているのが満濃池です。

中寺廃寺からの展望
中寺廃寺展望台からの眺望
どこが見えているか分かります?
眼下に見えるのが満濃池、その向こうが象頭山。その左手(西)に瀬戸内海に伸びているのが庄内半島、そして紫雲出山です。本島や広島やなど塩飽の島々、そして備讃瀬戸を行き交う船も見えます。このロケーションが霊山にとっては大事なのです。逆から見ると、大川山は丸亀平野だけでなく、塩飽や庄内半島から見えていたということになります。これが聖なる山・霊山の条件です。山林修行者は、修行の折り目毎に山頂で大きな火を燃やしました。それが徳島の霊場・焼山(しょうざん)寺や、五岳の火山などの山名として伝わっています。焼山寺の火は、紀伊からも見えたようです。この火が見える範囲がその霊山の信仰エリアとなります。

中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から見た中寺と丸亀平野や瀬戸内海

中寺廃寺 各ゾーン名称

 中寺廃寺の各ゾーンを確認しておきます。ここが展望台です。
①展望台の下がAゾーン
②展望台から北に伸びる尾根の先端がBゾーン  
③谷を挟んだ向こう側河原にCゾーンになります。
④Dゾーンは、この下になります。
大川山からみると以下のようなレイアウトになります。

中寺廃寺  全景
大川山から見た中寺廃寺
注意しておいて欲しいのは、中寺は大川山にあったのではないことです。大川山を見上げる山の頂上附近にあったことを押さえておきます。
なぜ大川山の頂上に作らなかったのでしょうか? それを石鎚山を例に考えて見ます。

石鎚山が礼拝対象 
成就社からの石鎚山
ロープウェイを降りて成就社の拝殿に入ると、見えてくるのはこの景色です。正面に石鎚山がどーんとあります。思わず手を合わせます。ここからは石鎚山自体が祈りを捧げる信仰対象であったことが体感できます。京都に行ったときにタクシーの運転手さんから教えられたのは、こんなことでした。

「神社ができる前は、山を拝んでいたこと。霊山自体が信仰対象だったこと。それが神社ができると、神を祀った建物に拝むようになったこと。拝む対象が山から、神社の建物に替わってしまったです。けったいなことですわ。

学者の難しい説明よりも、分かりやすかったのでよく憶えています。

横峯山 星ヶ峯遙拝所からの石鎚山
横峯寺の星ヶ峯遙拝所から見る石鎚山
山林修験者が、ここで石鎚山への祈りを朝夕捧げていたことが納得できます。これと同じような空間が中寺にもあります。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山.2JPG

Bゾーンの尾根の上から見えるのは大川山です。大川山(標高1043m)は、丸亀平野から見える山の中では一番高い山です。そして里からはどこから見えます。その姿もポツンと先端が飛び出していてよくわかる山です。讃岐の霊山と呼ぶのにふさわしい山です。柳田國男の民俗学では仏教が伝来する前から、人々は山を神とあがめてきたとします。そうだとすると、中寺ができる前からは、ここは大川山を信仰対象と仰ぎ見る遙拝所であったことが考えられます。
ここを発掘調査したときの写真を見ておきましょう。


中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
Bゾーン 割拝殿跡の発掘現場 正面は大川山

礎石が並んで出てきました。これではよく分からないので平面図に落としたものを見てみます。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿4
Bゾーンの遙拝所と僧坊

南に伸びた尾根の先端部のテラスに建物跡と広場、尾根の下に斜面を整地して僧坊跡がでてきました。割拝殿の方を見ておきましょう。礎石が横に6ヶ並んでいるので五間、縦に4ケなので三間の建物です。しかし、同規模の建物が2つ並んで建っているようにも見えます。よく分からない建物でした。そのため、最初に書かれた復元図はこれでした。

割拝殿 最初の復元図

五間×三間の仏堂として復元されました。しかし、礎石の配置から見ると真ん中に通路があるようです。その事例をさがしてみると、このような割拝殿とよばれるタイプの拝殿があります。

割拝殿とは・・

これが割拝殿だとすると本殿が北側にあり、その前に割拝殿であること、その真ん中が通路となって、その前に広場が配置されています。こうして見ると、「本殿ー割拝殿ー広場ー大川山」が一直線に結ばれる祈りの空間だったことになります。まさに遙拝所としてふさわしい空間です。山林修行者達は、朝夕に大川山への祈りを捧げ、大川山への行道を毎日、何度も行っていたことが考えられます。その中に空海もいたというストーリーになります。こうして、Bゾーンは、「祈りのエリア」と名付けられました。

もうひとつ、この割拝殿周辺が出てきたものがあります。

三鈷杵と柵状の破片
三鈷杵と錫杖の破片(中寺廃寺Bゾーン)
これは何だと思いますか? 素材は青銅製です。これを研究者は、密教法具の破片と判断します。①左は最初に見た空海が手にしていた三鈷杵です。右は錫杖です。

飛行三鈷杵との比較
飛行三鈷杵と中寺廃寺出土の三鈷杵

空海の絵伝には 唐からの帰国の際に明州(寧波)から三鈷法を投げる話があります(高野空海行状図画)。「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。この時の「飛行三鈷杵」とされているものが高野山にはあります。それがこれです。これと中寺廃寺のものを比べて見ると、空海以前の古い様式のものであることが分かります。
中寺廃寺 三鈷杵破片3

ここからは、割拝殿や僧坊が建てられる前から小屋掛け生活して、大川山との行場往復をしながら「修行」をしていた修験者がいたことがうかがえます。壊れた密教法具の破片は、激しい修行を繰り広げていた山林修行者の格闘の日々を、物語っているようにも思えます。壊れた仏具の破片を埋めるには、ふさわしい場所です。そんなことをイメージできる雰囲気が、ここにはあります。
割拝殿の下の僧坊を見ておきましょう。

祈ゾーン 僧房跡 保存整備後の様子
僧坊跡(中寺廃寺)
この柱が礎石のあった場所で、柱跡になります。ここからは2つの建物が並んであったことが分かります。礎石は縦が4つ、横が4つですから「三間 × 二間」の建物になります。ここから出てきたものを見ておきましょう。

僧坊 Bゾーン


②は、柱穴に埋められた地鎮用の陶器です。③は威信財で、普通の人々が持てるものではありません。有力な僧侶がここで修行していたことがうかがえます。④からは、ここが山林修行者の僧坊であったことが分かります。同時に、8世紀末の調理具が出てくると言うことは、僧坊がその時期には姿を見せていたこと、山林修行者の活動がこの時期まで遡れることを意味します。 研究者が注目するのは②の多口瓶です。
中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
中寺廃寺 多口瓶

中寺廃寺 Bゾーン多口瓶

多口瓶(屋島寺・法勲寺)
周辺の遺跡で出土した多口瓶
多口瓶は仏具で、一般人が使うものではなく僧侶が用いるものです。多口瓶が出てきたことで、この建物が僧坊であったことが裏付けられます。この瓶がどこで作られたかを探るために発掘担当者が播磨まで行って、播磨の窯で作られたものと確認しています。あまり類例品のない特注品であることも分かりました。これも普通の人間には手に入らない威信財なのです。つまり、この僧坊で修行を行っていたのは、財力や地位をもった山林修験者であったことになります。中世の山伏の姿をイメージしてはいけいなようです。見方を変えると、中寺は国衙や国分寺の保護・管理を受けたお寺と研究者は考えています。  

以上で、Bゾーンを振り返っておきます。

割拝殿 祈りの場
HPTIMAGE

① Bゾーンは、「本殿→割拝殿→広場」が一直線に配された大川山の遙拝所であった。
② 割拝殿や僧坊は8世紀末には姿を見せていて、中寺で最初に現れた宗教施設であった。
③ 空海が大学をドロップアウトして山林修行の道に入ったときには、Bゾーンは存在していた。
④ 空海が中寺で修行を行った状況証拠にはなる。
⑤ Aゾーンに本堂や塔などの仏教施設が現れる百年前に、Bゾーンは姿を見せていた。

参考文献
中寺廃寺発掘調査報告書NO3 琴南町教育委員会
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