中寺・大川山でお話しした時間割です。

4 どうして、こんな厳しい修行を行ったのでしょうか。
それは朝廷や貴族に仕える僧侶が求められたのは、高尚な仏の教えだけでなかったからです。旱魃の時に、雨を降らしたり、病気を治したり、祟りや呪いを追い払うことが求められます。そのためには修行で「験(げん)」を積むことが必要です。今風に云うと、ボスキャラ退治のためには、高いパワーポイントが必要で、それがダンジョンでの修行だったということでしょうか。
この基壇からは、次のような礎石が並んで出てきました。

最後に1・2限目のまとめを行っておきます。

①大川山は仏教伝来以前から霊山で信仰の山であった。
②そこに山林修行者がやってきて中寺に遙拝所を開いて活動を始めた。
③その痕跡が、古いタイプの三鈷杵や錫杖の破片である。
④その後、割拝殿や僧坊が姿を見せるようになる。
⑤僧坊から出てきた多口瓶からは、高い地位の僧侶が修行していたことがうかがえる。


中寺展望台での1限目授業
1時間目の中寺展望台では、こんなお話しをしました。 仏教伝来以前には、死者の霊は里から見える神奈備(かんなび)山に集まり漂い、時間をおいて天上世界に帰っていくと考えられていたと民俗学は云います。里から見上げられるおむすび型の甘南備山は、死霊が集まり漂う所です。例えば、善通寺の大麻山や五岳、三豊の弥谷さん・七宝山などです。そこには後になると山林修行者がやってきて、死霊を供養するようになります。同時に、彼らはそこを拠点として行場を開いて行きます。こうして死霊の集まる山は、山林修行者の集まる霊山や行場へと成長して行きます。その際に、霊場になるには麓からよくみえる山であることが条件でした。そういう意味では、丸亀平野一円から見える大川山は、霊山に相応しい山でした。
霊山では、修行の折り目折り目に、山頂で大きな火が焚かれました。
富士山頂の柱源護摩供(はしらもとごまく)
これが密教に取り入れられると護摩祈祷になります。古代の山林修行者は、修行が一区切り終わると夜に山頂で周囲の木を切ってバンバン燃やしたようです。燃える焔は神秘的で、その山が特別視されるようになります。徳島の霊場・焼山(しょうざん)寺や、五岳の火山、火上山・護摩山などの山名は、頂上で大きな火(護摩)が焚かれたことに由来するとされます。焼山寺の火は紀伊からも見えたようです。大川山で焚かれた火も、讃岐一円から見えたことになります。それが霊山の信仰エリアとなります。③3番目は、前回に見たとおり、里が見渡せる国見山として戦略的な意味を持つこと
④4番目は平安時代になると山林資源をどのように囲い込むのかが課題になります。
その管理拠点の役割を担ったのが山林寺院です。この尾根の西側の尾根には尾背寺があります。尾背寺の由緒には、空海の実家佐伯直氏の氏寺で、善通寺建立の際の材木を提供した山林寺院と書かれています。つまり、佐伯氏が森林確保の役割を含めて尾背寺を保護したことがうかがえます。このように、古代の山林寺院は、宗教的役割の他にも経済的・軍事的な役割を担って登場してきたことを押さえておきます。
若い時代に空海が行った修行とは、どんなものだったのでしょうか?
若き日の空海は、平城京の大学をドロップアウトして山林修行者になり、大滝山や室戸で修行を行ったと記します。当時の山林修行者が行っていた修行とは、次のようなものでした。
若き日の空海は、平城京の大学をドロップアウトして山林修行者になり、大滝山や室戸で修行を行ったと記します。当時の山林修行者が行っていた修行とは、次のようなものでした。
①まず巌籠(いわごもり)です。魑魅魍魎の現れる異界の入口である洞窟に一人で座り込み、生活するというのは勇気の要ることです。そこで五穀を断ち、草の根などを食べます。洞窟などが生活空間となり、その周辺に庵や寺院が現れます。
②次に行道です。これは奇岩や聖なる樹木の周りを歩くことから始まります。伊吹山の行道の行場は、行道岩が訛って、今は平等岩と呼ばれるようになっています。この岩の周りを百日回り続けるのが百日行です。チベットのラマ教とは、聖なる山カイラスの廻りを五体投地をしながら何日もかけて廻ります。これも行道です。ここでは、この中寺と大川山を回る行道が行われていたと私は考えています。
空海の誓願捨身行 五岳の我拝師山にて (弘法大師行状絵詞)
4 どうして、こんな厳しい修行を行ったのでしょうか。
それは朝廷や貴族に仕える僧侶が求められたのは、高尚な仏の教えだけでなかったからです。旱魃の時に、雨を降らしたり、病気を治したり、祟りや呪いを追い払うことが求められます。そのためには修行で「験(げん)」を積むことが必要です。今風に云うと、ボスキャラ退治のためには、高いパワーポイントが必要で、それがダンジョンでの修行だったということでしょうか。
③こうして、東大寺などの中央の官寺や、地方の国分寺などでも山林修行をおこなう僧侶が出てきます。④これに応えて、中央政府や地方の国衙も山林修行の拠点としての寺院建立を始めます。⑤こうして姿を見せた山林寺院は、国境警備や森林資源保護センターの役割を果たすようになります。山野を駆け回る山林修行者は、国衙の警備や山林保護の任務も担うことになります。ここでは空海が山林修行を始めた頃に、中寺は山林寺院として姿を現し始めていたことを押さえておきます。
これで一時間目の終了です。2時間目は、B祈りゾーンです。移動します。
これで一時間目の終了です。2時間目は、B祈りゾーンです。移動します。
①東への稜線沿いに30m下げ鞍部が「きた坂
②北阪から南東尾根、左手は平坦地 20m下げた尾根の突端部がBゾーン
Bゾーン(祈りの空間) 尾根先端の盛土と、その向こうに大川山
2時間目の始まりです。教室は、大川山を見上げる割拝殿跡です。
この空間の持つ意味を、次のようにお話しをしました。
見上げると大川山
2時間目の始まりです。教室は、大川山を見上げる割拝殿跡です。
この空間の持つ意味を、次のようにお話しをしました。
神社の建物ができる前は、山自体が信仰対象でした。神社という建物ができると、それに向かって拝むようになります。今では祈りの対象が山から、神社の建物に替わってしまっています。しかし、山が信仰対象であったことを思い出させてくれる場所があります。例えば、石鎚山のロープウエイ側の成就社です。


成就社からの石鎚山
ここは本殿に入ると、祭壇の向こうに石鎚山です。ここから石鎚山にお参りします。 横峰寺の場合だと、星ヶ峯の遙拝所に石鎚山を拝む方向に鳥居があります。鳥居の間から、石鎚山が見えます。明治維新の神仏分離以前は横峰寺や前神寺などの山林寺院が信仰の中心で、神仏混淆の空間でした。社僧たちが、朝に夕に、石鎚山に祈りを捧げていたのです。これと同じ空間が、このBゾーンと云うことになります。 ここで山林修行者たちは、朝夕に大川山への祈りを捧げるだけでなく、金剛界と見立てた大川山と、胎蔵界と見立てた中寺を、一体化するために往復行道を毎日、何度も行っていたと私は考えています。その中に若き日の空海もいたかもしれません。B地区は大川山への遙拝所ということで、「祈り」のエリアと名付けられました。それを裏付けるものが発掘調査で見つかっています。
この割拝殿前の広場から出てきた青銅器の破片です。

この割拝殿前の広場から出てきた青銅器の破片です。

これは古い密教法具の破片であることが分かりました。左は三鈷杵といい、山林修行者を外敵から守ると共に、修行者の弱い心を打ち砕くとされる仏具です。右が錫杖の一部です。

左の空海が唐からもたらしたとされる三鈷杵と比べると、古い様式のものだと研究者は指摘します。つまり、空海が唐から持ち帰る以前のモデルだというのです。ここからは、割拝殿や僧坊が建てられる前から小屋掛け生活して、「修行」をしていた山林修行者がいたことがうかがえます。壊れた密教法具の破片は、激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を物語っているようにも思えます。そして、こわれた破片を大切にここに埋めたのでしょう。その中に若き空海の姿もあったかもしれません。そんなことをイメージできる雰囲気がここにはあります。

左の空海が唐からもたらしたとされる三鈷杵と比べると、古い様式のものだと研究者は指摘します。つまり、空海が唐から持ち帰る以前のモデルだというのです。ここからは、割拝殿や僧坊が建てられる前から小屋掛け生活して、「修行」をしていた山林修行者がいたことがうかがえます。壊れた密教法具の破片は、激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を物語っているようにも思えます。そして、こわれた破片を大切にここに埋めたのでしょう。その中に若き空海の姿もあったかもしれません。そんなことをイメージできる雰囲気がここにはあります。
この基壇からは、次のような礎石が並んで出てきました。

Bゾーンの割拝殿と広場、その下の僧坊
ここには柱跡が何本ありますか、その間は? 8間×3間の長い礎石建物であるようです。特徴的なのは、中央に通路があるように見えることです。そこで、研究者は次のように復元しました。
①多口瓶は仏具なので、この建物が僧坊であったこと②この多口瓶が播磨の工房でつくられたもので、類例品のない特注品であること③この多口瓶は普通の人間には手に入らない高級品で、威信財だったこと。④中寺で修行する僧侶が、財力や地位をもった高僧であったこと⑤見方を変えると、中寺は高級僧侶が修行する山林寺院だったこと
最後に1・2限目のまとめを行っておきます。

①大川山は仏教伝来以前から霊山で信仰の山であった。
②そこに山林修行者がやってきて中寺に遙拝所を開いて活動を始めた。
③その痕跡が、古いタイプの三鈷杵や錫杖の破片である。
④その後、割拝殿や僧坊が姿を見せるようになる。
⑤僧坊から出てきた多口瓶からは、高い地位の僧侶が修行していたことがうかがえる。

中寺の建造物の出現期(Bゾーンの仏堂は割拝殿のこと)
⑥割拝殿空海以前から大川寺を霊山として活動する山林修行者がいた。
⑦8世紀末に割拝殿や僧坊が中寺で最初に建築物として出現する
⑦8世紀末に割拝殿や僧坊が中寺で最初に建築物として出現する
⑧空海が平城京の大学をドロップアウトして山林修行の道に入ったときには、Bゾーンは存在していた。


















































