瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:中寺廃寺

本日の授業

ハイキングで中寺の遺構をめぐっています。前回は展望台と、B(祈りゾーン)で「授業」を行いました。今日は3限目をA(仏ゾーン)で行います。

中寺廃寺 エリア分類
中寺廃寺の3つのゾーン
Aゾーンの遺跡は、旧郡境尾根の東側のテラスに点在します。このあたりが前々回に見た江戸時代末の絵図には、「中寺」と表記されていた所になります。ここには、次のように本堂と仏塔があったとされます。
「平安時代のたたずまい」 仏堂と塔

中寺廃寺 A(祈り)ゾーンの復元図
仏塔跡で3限目の「授業」を始めます。

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3時間目 中寺廃寺A(仏ゾーン)の塔跡にて
塔跡の発掘時野の写真を見ておきましょう。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
 中寺廃寺A(仏ゾーン) 塔跡の発掘時写真
正方形に礎石が並んでいます。4つの礎石なので三間×三間の正方形です。真ん中にしかっりした石があります。これを心礎と研究者は判断します。心礎があるので塔跡になります。礎石の並びや大きさからして五重塔ほどは大きくない三重塔だとします。そして、この心礎から出てきたのが、次の土器です。

中寺廃寺 心礎地鎮用2
中寺廃寺Aゾーン 塔跡地鎮
中寺廃寺塔跡の心礎から出土した甕と須恵器

中央に甕(かめ)、その周囲に胴の長い須恵器の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。
①地鎮祭用に埋められたもので、10世紀前半のもの。
②製作場所は、綾川町陶の十瓶山の国衙が管理する官営の窯。
③特徴しては、赤みが強いこと
②からは、地鎮祭用に作られたとすると、この塔が作られたのも10世紀前半のことになります。時期的には、国司としてやって来ていた菅原道真が帰った後のことです。③からは、このような赤みを出すには特別の粘土を使ったり、最後の行程で酸素を大量に供給するなどの手の込んだ仕上げが必要になるようです。どうやら、この壺も国衙の発注で焼かせた可能性が高いようです。そうすると、ここにも讃岐国衙の力が及んでいること、別の言い方をすると、中寺が国衙の管理下に置かれていたと研究者は考えています。

次に仏塔の上の仏堂(本堂)跡を見ておきましょう。
中寺廃寺 A遺構仏塔2
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡

最初は掘立柱建物で、後世に礎石建物へ建て替えられています。その礎石がでてきています。
礎石の数から大きさは3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0m)です。いまから見ると非常に小さい本堂になります。小さなお堂のようです。ここからは、10~11世紀の遺物が出土しています。さきほど見た塔と同じ時期に建てられたようです。
①平面図を見ると本堂と塔は、両方とも真南を向いています。
②本堂は小さく、その中で儀式を行う事はできません。
③そこで考えられたのが本堂前に広場をつくり、野外で儀式を行うこうことです。
④全国の類例を探すと、古代の山林寺院には、この規模の本堂があるようです。
⑤山林寺院として出発した屋島寺の創建時も、この規模だったことが分かっています。現在の我々の目から見ると、小さすぎると思えるかもしれませんが、これが古代の山林寺院の姿だったようです。
⑥そして伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺様式だと研究者は考えています。
中寺廃寺 A 本堂から塔跡
中寺廃寺 A(仏)ゾーン 本堂跡から見る仏塔跡中寺廃寺 Aゾーン 塔と仏堂
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡の復元図

以上の情報をまとめて、推察します。
中寺廃寺への国衙の関与2
中寺廃寺の出土品が物語る国衙の関与

A地区の伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺式でした。また、心礎下に埋められて須恵器壷群は、讃岐国衙直営の陶邑窯(十瓶山窯)製品です。その上、発色する胎土を用いて焼くという他には例がないものです。つまり、地鎮用の須恵器は、国衙がこの寺のために作らせた特注品です。
以上から、中寺建立には国衙や国分寺の力が働いていたことがここからも裏付けられます。しかし、このAゾーンの仏教施設が登場するのは、Bゾーン(遙拝所)の割拝殿より半世紀後のことになります。歴史的に云うと、山林修行者が活動していた霊場に、国衙が仏施設を後からプレゼントしたとも考えられる関係になります。言い方を換えるなら、霊場大川山の遙拝所に、仏教施設が国衙によって接ぎ木されたとも云えます。このあたりの関係が面白い所です。

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礎石に座って一休み 仏塔跡にて 当時は前の木々も切り払われ、大川山が目の前の見えたはず・・

私が面白いと思ったのは、本堂の後の頂上の平たい空間です。これが菜園だというのです。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡の復元図 上のテラスには菜園があった?

発掘以前には、仏堂の後ろにあるので、講堂などが出てくるのでは期待していたそうです。しかし、出てくるのは、直線的に並ぶ小さな穴だけでした。その用途が最初は分からなかったようです。しかし、山林寺院には自給用の畑などがあったことが報告されています。また、中学校で習った兼好法師の徒然草には、山林寺院の僧侶の暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子(こうじ:みかん)の木の廻りを柵で囲んであるのを見て興ざめしたことが記されていました。ここからはこの時代にもイノシシや鹿の対策に柵が必要だったことが分かります。中寺でも生活のために野菜などが、日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っています。また、麓の江畑集落には、中寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っています。

 それでは午前中のまとめに入ります。パンフレットの表紙をもう一度見てください。

中寺廃寺と空海

ここには、いままで見てきた建物などの出現期が表にまとめられています。中寺に最初の建物が現れるのはBゾーンの割拝殿と僧坊です。これが8世紀末でした。また、ここから発見された三鈷杵や錫杖などの破片は、それ以前に遡るものでした。これを空海の年表と比べてみましょう。空海が大学をドロップアウトして山林修行を開始したのが793年、そして唐に渡るのが803年で、この間が謎の10年で、空海の20歳台のことです。 謎の10年とBゾーンの出現期は重なります。空海自身は太龍寺や室戸・石鎚で修行したと記します。この間に中寺を訪れていたことは十分考えられます。

空海、中寺廃寺修行説
空海 中寺廃寺修行説
 もうひとつのチャンスは、821年の満濃池改修工事の時です。

満濃池 古代築造想定復元図2
空海による満濃池修復想像図(大林組) ①が、護摩祈祷を行う空海
この時に空海は讃岐に帰ってきたと伝えられます。後の史料には工事成就と安全祈願のために護摩壇岩で護摩を焚いて祈祷を行ったと記します。その時に、どんな神様に祈願したのでしょうか。先ほど見たように、満濃池の正面に見えるのが大川山です。
満濃池と大川山2
満濃池から見上げる大川山
空海は、大川山に向かって祈ったと私は思います。当然、祈祷の前には中寺に参籠し、大川山に行道していたことが考えられます。満濃池修復の際に、空海は大川山に向かって祈願した可能性はあります。

これで3限目は終わりです。
予定していた4限目のC(願い)ゾーンについては、時間がないので現場には行かずに「リモート」で、次のようなお話しをしました。
パンフレットの地図を見てください。
中寺廃寺 3つのゾーン2

A・Bゾーンから谷を隔てて、向かいに河原場があります。そこにあるのがいくつもの石積み(塔)です。
中寺廃寺Cゾーン 石組み

この石組は、平安時代にさかのぼるものであることが分かりました。平安時代中期からは、石を積んで石塔として御参りすることが民衆の中にも広がっていた。河原に石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為(=供養・願掛け)の一つとされました。人々が霊山である大川山への参拝の時に、ここを訪れ、石を積んで石塔を作り、祈った場所と研究者は考えています。
 平安時代に丸亀平野に棲むの人たちは、春にはその年の豊作を願う「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などに、霊山である大川山に参拝にやって来ました。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、山桜の咲く頃に、豊作祈願にやってきた人達が、参拝道の周辺にある河原を訪れて、願いや供養を込めて石を積んだというのです。それが1200年前のままで残っています。平安時代の人々の息づかいを感じることが出来る所と云えるかもしれません。
 このような平安時代に庶民が積んだ石塔が見つかるのは、ここが初めてでした。ふつうは後世の人達によって石が転用されたり、破壊されることが多いのです。それがここには残っています。忘れ去られた場所だったから、そのままの姿で残ったと云えるのかもしれません。
   Cゾーン「石塔」は、大川山や中寺に参詣する俗人達の祈りの場であり交流の場であったとしておきます。これで午前のお話しを終わります。午後は、大川山でお待ちしています。

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中寺廃寺から旧郡境尾根を笹ケ田尾へ向かう
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追補 中寺廃寺の石組遺構については、次のように集団墓地説もあります。
  集団墓地の成立を考える上で非常に示唆的な遺構が、まんのう町の中寺廃寺跡に所在する。この遺跡では平面方形状の集石遺構を合計37基検出した。四方の側壁はほぼ垂直に人頭大の角傑を積み、内部には拳大の角傑を充填する。この集石遺構は、集団墓地中隻石墓と群構造・規模・形状・構築方法などが類似している。
 遺構の密集している景観は、普遍的な集団墓地景観そのものと言えよう。中寺廃寺跡集石遺構については、類似遺構がある山岳寺院との比較などから、塔の可能性が指摘されている。塔は本来釈迦の遺骨である仏舎利を祀る施設なので、たとえ遺体や遺骨が埋納されてなくても墓と認識されていた。また同様の集石遺構としては、経塚の上部遺構に集石を伴う事例がある。 この時期には塔や経塚、墳墓の機能が完全に分化しておらず、いずれも聖地・霊地における象徴的な装置の役割を担っていた。このように塔あるいは塔に伴う信仰や、聖地・霊場の重要な装置という位置付けから派生して、中世段階の集団墓地中に塔を模倣した集石墓や集団墓地の景観が形成されたという解釈も可能ではないだろうか。
 海港 博史 讃岐の中世屋敷墓・集団墓 中寺廃寺        香川歴史紀行52P
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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中寺・大川山でお話しした時間割です。

本日の授業


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中寺展望台での1限目授業
1時間目の中寺展望台では、こんなお話しをしました。

山林寺院の役割

 仏教伝来以前には、死者の霊は里から見える神奈備(かんなび)山に集まり漂い、時間をおいて天上世界に帰っていくと考えられていたと民俗学は云います。里から見上げられるおむすび型の甘南備山は、死霊が集まり漂う所です。例えば、善通寺の大麻山や五岳、三豊の弥谷さん・七宝山などです。そこには後になると山林修行者がやってきて、死霊を供養するようになります。同時に、彼らはそこを拠点として行場を開いて行きます。こうして死霊の集まる山は、山林修行者の集まる霊山や行場へと成長して行きます。その際に、霊場になるには麓からよくみえる山であることが条件でした。そういう意味では、丸亀平野一円から見える大川山は、霊山に相応しい山でした。
霊山では、修行の折り目折り目に、山頂で大きな火が焚かれました。

富士山頂の柱源護摩供(はしらもとごまく)
富士山頂の柱源護摩供(はしらもとごまく)
これが密教に取り入れられると護摩祈祷になります。古代の山林修行者は、修行が一区切り終わると夜に山頂で周囲の木を切ってバンバン燃やしたようです。燃える焔は神秘的で、その山が特別視されるようになります。徳島の霊場・焼山(しょうざん)寺や、五岳の火山、火上山・護摩山などの山名は、頂上で大きな火(護摩)が焚かれたことに由来するとされます。焼山寺の火は紀伊からも見えたようです。大川山で焚かれた火も、讃岐一円から見えたことになります。それが霊山の信仰エリアとなります。
③3番目は、前回に見たとおり、里が見渡せる国見山として戦略的な意味を持つこと
④4番目は平安時代になると山林資源をどのように囲い込むのかが課題になります。
その管理拠点の役割を担ったのが山林寺院です。この尾根の西側の尾根には尾背寺があります。尾背寺の由緒には、空海の実家佐伯直氏の氏寺で、善通寺建立の際の材木を提供した山林寺院と書かれています。つまり、佐伯氏が森林確保の役割を含めて尾背寺を保護したことがうかがえます。このように、古代の山林寺院は、宗教的役割の他にも経済的・軍事的な役割を担って登場してきたことを押さえておきます。 
 若い時代に空海が行った修行とは、どんなものだったのでしょうか?
若き日の空海は、平城京の大学をドロップアウトして山林修行者になり、大滝山や室戸で修行を行ったと記します。当時の山林修行者が行っていた修行とは、次のようなものでした。

空海が行っていた修行

①まず巌籠(いわごもり)です。魑魅魍魎の現れる異界の入口である洞窟に一人で座り込み、生活するというのは勇気の要ることです。そこで五穀を断ち、草の根などを食べます。洞窟などが生活空間となり、その周辺に庵や寺院が現れます。
②次に行道です。これは奇岩や聖なる樹木の周りを歩くことから始まります。伊吹山の行道の行場は、行道岩が訛って、今は平等岩と呼ばれるようになっています。この岩の周りを百日回り続けるのが百日行です。チベットのラマ教とは、聖なる山カイラスの廻りを五体投地をしながら何日もかけて廻ります。これも行道です。ここでは、この中寺と大川山を回る行道が行われていたと私は考えています。

誓願捨身2 高野空海行状図画
空海の誓願捨身行 五岳の我拝師山にて (弘法大師行状絵詞)

4 どうして、こんな厳しい修行を行ったのでしょうか。

山林寺院出現の背景

それは朝廷や貴族に仕える僧侶が求められたのは、高尚な仏の教えだけでなかったからです。旱魃の時に、雨を降らしたり、病気を治したり、祟りや呪いを追い払うことが求められます。そのためには修行で「験(げん)」を積むことが必要です。今風に云うと、ボスキャラ退治のためには、高いパワーポイントが必要で、それがダンジョンでの修行だったということでしょうか。
 ③こうして、東大寺などの中央の官寺や、地方の国分寺などでも山林修行をおこなう僧侶が出てきます。④これに応えて、中央政府や地方の国衙も山林修行の拠点としての寺院建立を始めます。⑤こうして姿を見せた山林寺院は、国境警備や森林資源保護センターの役割を果たすようになります。山野を駆け回る山林修行者は、国衙の警備や山林保護の任務も担うことになります。ここでは空海が山林修行を始めた頃に、中寺は山林寺院として姿を現し始めていたことを押さえておきます。
 これで一時間目の終了です。2時間目は、B祈りゾーンです。移動します。

中寺廃寺 3つのゾーン2


上地図で現在地点の展望台を確認してください。
①東への稜線沿いに30m下げ鞍部が「きた坂
②北阪から南東尾根、左手は平坦地 20m下げた尾根の突端部がBゾーン
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           Bゾーン(祈りの空間) 尾根先端の盛土と、その向こうに大川山

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見上げると大川山
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2時間目の始まりです。教室は、大川山を見上げる割拝殿跡です。
この空間の持つ意味を、次のようにお話しをしました。
神社の建物ができる前は、山自体が信仰対象でした。神社という建物ができると、それに向かって拝むようになります。今では祈りの対象が山から、神社の建物に替わってしまっています。しかし、山が信仰対象であったことを思い出させてくれる場所があります。例えば、石鎚山のロープウエイ側の成就社です。
石鎚山が礼拝対象 
成就社からの石鎚山
ここは本殿に入ると、祭壇の向こうに石鎚山です。ここから石鎚山にお参りします。 横峰寺の場合だと、星ヶ峯の遙拝所に石鎚山を拝む方向に鳥居があります。鳥居の間から、石鎚山が見えます。明治維新の神仏分離以前は横峰寺や前神寺などの山林寺院が信仰の中心で、神仏混淆の空間でした。社僧たちが、朝に夕に、石鎚山に祈りを捧げていたのです。これと同じ空間が、このBゾーンと云うことになります。
 ここで山林修行者たちは、朝夕に大川山への祈りを捧げるだけでなく、金剛界と見立てた大川山と、胎蔵界と見立てた中寺を、一体化するために往復行道を毎日、何度も行っていたと私は考えています。その中に若き日の空海もいたかもしれません。B地区は大川山への遙拝所ということで、「祈り」のエリアと名付けられました。それを裏付けるものが発掘調査で見つかっています。

この割拝殿前の広場から出てきた青銅器の破片です。

三鈷杵と柵状の破片

これは古い密教法具の破片であることが分かりました。左は三鈷杵といい、山林修行者を外敵から守ると共に、修行者の弱い心を打ち砕くとされる仏具です。右が錫杖の一部です。

飛行三鈷杵との比較

左の空海が唐からもたらしたとされる三鈷杵と比べると、古い様式のものだと研究者は指摘します。つまり、空海が唐から持ち帰る以前のモデルだというのです。ここからは、割拝殿や僧坊が建てられる前から小屋掛け生活して、「修行」をしていた山林修行者がいたことがうかがえます。壊れた密教法具の破片は、激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を物語っているようにも思えます。そして、こわれた破片を大切にここに埋めたのでしょう。その中に若き空海の姿もあったかもしれません。そんなことをイメージできる雰囲気がここにはあります。

この基壇からは、次のような礎石が並んで出てきました。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿4
Bゾーンの割拝殿と広場、その下の僧坊

ここには柱跡が何本ありますか、その間は? 8間×3間の長い礎石建物であるようです。特徴的なのは、中央に通路があるように見えることです。そこで、研究者は次のように復元しました。

割拝殿とは・・
Bゾーンの割拝殿
ここから霊山大川山を仰ぎ見て祈りを捧げる拝殿ということになります。

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そして、中央に通路があって分かれているので「割拝殿」と呼ばれます。

そして、割拝殿の下の斜面を平らにして造られた僧坊跡を見ます。

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2限目 中寺廃寺 Bゾーンの僧坊跡にて
ここからは柱穴から変わった瓶が出てきました。
中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
いくつもの口があります。これは日常生活に使われるものではなく、仏事に使われたものです。これを復元すると下のようになります。

中寺廃寺 Bゾーン多口瓶
現在の考古学では、土器編年体表が整備され、いつどこで作成されたかが専門家には分かります。
多口瓶(屋島寺・法勲寺)
中寺周辺の寺院から出てきた多口瓶の類例

この多口瓶が物語ることを整理しておきます。
①多口瓶は仏具なので、この建物が僧坊であったこと
②この多口瓶が播磨の工房でつくられたもので、類例品のない特注品であること
③この多口瓶は普通の人間には手に入らない高級品で、威信財だったこと。
④中寺で修行する僧侶が、財力や地位をもった高僧であったこと
⑤見方を変えると、中寺は高級僧侶が修行する山林寺院だったこと

最後に1・2限目のまとめを行っておきます

割拝殿 祈りの場

①大川山は仏教伝来以前から霊山で信仰の山であった。
②そこに山林修行者がやってきて中寺に遙拝所を開いて活動を始めた。
③その痕跡が、古いタイプの三鈷杵や錫杖の破片である。
④その後、割拝殿や僧坊が姿を見せるようになる。
⑤僧坊から出てきた多口瓶からは、高い地位の僧侶が修行していたことがうかがえる。


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中寺の建造物の出現期(Bゾーンの仏堂は割拝殿のこと)
⑥割拝殿空海以前から大川寺を霊山として活動する山林修行者がいた。
⑦8世紀末に割拝殿や僧坊が中寺で最初に建築物として出現する
⑧空海が平城京の大学をドロップアウトして山林修行の道に入ったときには、Bゾーンは存在していた。
⑨9世紀半ばになって、讃岐国衙や国分寺の保護を受けてAゾーンの仏教施設が現れる。

ここからは、中寺で活動をはじめたのは山林修行者であったこと、その信仰の中心はBゾーンであったことが分かります。佛教的要素は、それに遅れて入ってきたことになります。また、若き空海が中寺で修行を行った可能性が生まれてきます。

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2限目終了です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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 11月16日(日)の勤労者山岳連盟のハイキングに招かれて、中寺と大川山でお話しすることになりました。本隊は江畑から登りますが、体力に自信のない私は笹の田尾(峠)の駐車場まで車で登ります。そこから車道を歩いて下って、中寺展望台で合流するという流れです。その模様をアップしておきます。
中寺廃寺 アクセス

中寺・大川山マップ
中寺・大川寺ハイキングマップ(まんのう町教育委員会) 各登山口に置いてあります。

 登山口の中通の野口から車で40程度で大川山への分岐を越えて、阿波大平の県境稜線尾根に出ました。ここではもう落ち葉が車道を埋めています。

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大川山西側の大平の県境尾根
このあたりのことについては、江戸時代末に高松藩主が鷹狩りと称して、大川山周辺の阿波との国境視察をおこなった時の模様が造田村庄屋の西村文書に記されています。そのルートは、次の通りです。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾

西村文書 髙松藩鷹狩りコース添付図
A『西村家文書』「殿様御鷹野被仰出候二付峯筋御往来道法方角絵図指出之控絵図」
この絵図からは次のようなことが分かります。
①大山社の西側の尾根筋には鳥居があったこと。
②この鳥居ルートが江畑・塩入や阿波の大平からの参道になっていたこと
③絵図の右端(西側)の尾根の分岐が「笹ケ多尾(タオ=峠)」と呼ばれていたこと
④「笹が多尾」から北西に伸びる尾根が中寺へのルートであったこと。
⑤大川山と笹が多尾を結ぶ県境尾根の北側は「新御林」とあって新たに藩の管理する山林に指定されたこと
この辺りの山林は髙松藩の藩有林で、それが明治維新に国有化され、一部は個人や各村に払い下げられたようです。
 大平への車道を一旦下って、分岐を笹ケ多尾へと登っていきます。高原キャベツ畑の奥の稜線上に中寺駐車場があります。

中寺廃寺 駐車場
笹ケ多尾の中寺駐車場

ここからの車道は一般車は通行できません。急勾配なコンクリート道を下って行きます。

西村家文書 柞野絵図2

中寺廃寺跡周辺の造田村杵野谷の絵図です。先ほどの絵図と同じように、殿様の国境視察時に時に、藩の求めに応じて造田村の庄屋西村市大夫が作成し提出したものです
①左下隅に天川大明神(天川神社)、そこから中央に伸びていく柞野川
②左上隅に「大川御社(神社)」、そこから真っ直ぐ西に「笹ケ田(多)尾」
③「笹ケ田尾」から江畑へ伸びる郡境尾根上に中寺・犬頭・三ツ頭
同時に次のような報告書も提出しています。
 一筆啓上仕り候、鷹狩りコース中に、名所古跡があるかについて回答いたします。この度の塩人村からの道筋上には、名所古跡はありません。ただ、笹ケ多尾周辺に、それらしきものがございます。これは那珂郡の領域になります。ただ、鵜足郡造田村には、以下のものがあります。
一 犬の墓
一 中寺堂所  但し寺号なども分かりません
この外には、何もありません。これとても大したものではありませんが、通行筋には当たります。御書の作成に当たり、記載するかどうかは賢慮の上、取り計らい下さい。
ここには、造田村の中には無いが、笹ヶ多尾の周辺に「犬の墓」と「中寺堂所」という寺跡があることが報告されています。幕末の庄屋西村市大夫の認識は「これとても指し為る事二て御座無く候」とあります。中寺跡の存在や位置は知っていたが、その内容や規模については知らなかったことがうかがえます。これに対して、藩はさらに詳しく知らせよと求めてきます。それに対しての造田村庄屋・西村市太郎の返答書です。
飛脚の速達便を拝見しました。造田村の中寺は、長曽我部の兵火で焼失した寺跡だというが、何免(村)にあるのかという問い合わせでした。これに対して、以下の通りお答えします。
一 中寺跡
 大川社坊の阿波境の笹ケ多尾の少し下に位置しますが、東西南北ともにいくつもの山が続く中なので、何免と答えることが困難です。強いて云えば、樫地免より手近の場所なので、樫地免としてもいいのではと思います。右の通リニ御座候間、宜しく御申し出で仕るべく候、以上
九月七日            西付市大夫
十河亀五郎様
以上の西村市大夫の書状からは、彼が中寺廃寺のことを次のように認識していたことが分かります。
①江戸時代末には、「寺の名前がわからない」「昔から石があったとされる」程度の認識であったこと
②名所・古跡として挙げているので、寺があったことは民衆の間に言い伝えられていたこと
③「笹ヶ多尾 → 中寺 → 江畑」の尾根ルートは、かつては那珂郡と阿野郡の郡境であったこと。
④このルートは、江戸時代末の江畑からの大川山への参道となっていて西側には鳥居もあったこと

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笹ケ田尾から急な車道を30分ほど下ると見えてくるのが休憩所です。
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中寺休憩所
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この休憩所は避難所の役割もあるようですが、バイオトイレがあるのがありがたいところです。
この休憩所のそばを通って林の中を抜けて行きます。

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中寺展望台と仏ゾーンへの分岐点
北側が明るくなると展望台はすぐそこです。休憩所からは5分弱です。
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中寺展望台
ここからの展望は「丸亀平野を見下ろす随一の展望」とありますが、そのとおりだと思います。
中寺廃寺 髙松方面展望
         髙松方面 屋島・その後ろの小豆島・峰山・その間にサンポート 

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                     髙松方面 
伊方原発など西からと、阿波の水力発電所からの高圧送電線が変電所に集まる。その向こうが屋島と小豆島。
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坂出方面 五色台・城山・飯野山 手前の尾根は長尾の城山から大高見峰

中寺廃寺展望台1
     丸亀・善通寺方面 直下に満濃池・その向こうが象頭山・その左が荘内半島
空海の生まれた善通寺と五岳も見えます。善通寺と満濃池と大川山が一直線に結べます。満濃池は、空海が改修したといわれ、工事中は護摩壇を築いて祈祷を続けたとされます。その間も空海は、この山を見上げ睨み続けていたのかもしれません。
 瀬戸に浮かぶ島々としては、小豆島・瀬戸大橋・本島・広島・高見島・荘内半島・紫雲出山・伊吹島がそれがパノラマのように一望できます。塩飽の島々や備讃瀬戸を行き交う船も見えます。瀬戸内海は古代から富と人の通る大動脈。ここを押さえることは、戦略的意味があります。中寺には髙松藩の殿様も鷹狩りと称して阿波藩との国境視察のために訪れたことはさきほど見た通りです。初めて江戸から帰国した若殿に対して、育成係はここでどんなことをレクチャーしたでしょうか。
こんな山を国見山とよびます。
国見山とは、領地が一望出来て、領内の異変などをいち早くとらえて通報することのできる場所でもあります。その意味では大川山は戦略的な意味を持つ山でした。支配者としては、監視人を置いておきたい場所です。 

中寺展望台から丸亀平野
中寺展望台からの満濃池と、その左手の象頭山
快晴の中、展望台でボケーとしながら考えていると、江畑からの本隊が登ってきました。一休みした後で「授業」開始です。
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中寺展望台での1時間目授業
本日の時間割は次の通りです。
本日の授業


与えられたテーマは 中寺廃寺と大川山についてですが、この2つに空海を搦ませてお話ししたいとおもいます。時間割は上図の通りです。昼食後の5限目に大川山にいって、大川山と中寺が神仏混淆下で、一体であった痕跡を探そうと思います。こんな時間割で進めていきたいと思います。
以下は、また次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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   最後に中寺が退転した後の大川山がどうなっていくかを見ておきます。

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大川山は丸亀平野だけでなく瀬戸内海の島々からも眺められ、霊山として信仰されてきました。そして、神仏混淆下にあっては中寺の社僧たちが管理運営を担っていました。中寺には、遙拝所が設けられ、大川山との間で厳しい行道が行われていたのです。その間には、今は忘れ去られたいくつもの行場が会ったことが考えられます。こうして霊山大川山の神宮寺としての中寺の性格が定着していったと私は考えています。
 しかし、中寺は国衙や国分寺の保護によって創建され、管理運営されてきた古代の山林寺院です。平安末になり、古代国家が解体すると国衙機能も弱体化し、中寺に対する支援保護も失われたのでしょう。中寺は平安末には姿を消して、活動を停止していきます。しかし、人々の大川山信仰が失われたわけではありません。大川山には中寺に代わる宗教集団・施設が周辺部に姿を見せるようになります。それが備中児島の五流修験だと私の師匠は考えています。それを仮説としてお話ししておきます。

大川山と五流修験1
児島五州修験(新熊野修験者集団)
上の仮説を2つ出しておきます。これが現在の五流修験の拠点です。丸亀平野には五流修験者の痕跡が色濃く残っているようです。五流修験については以前にお話ししましたので、ここでは簡単に押さえておきます。
五流修験は、自らを紀伊の熊野神社の修験者の亡命集団と称します。それが、熊野神社の社領のあった備中児島にやってきて、分社したのが五流です。修験者の開祖とさえる役行者の5人の弟子が開いた寺院が中心になっているので五流です。この修験者集団にとっての課題は、近くに行場がないことでした。山林寺院は行場の近くに開かれるのが普通ですが、社領に分社されたので霊山がないのです。そこで彼らが開山したのが伯耆大山や石鎚です。後には小豆島も行場化します。さらに熊野水軍のお先棒を担いで、瀬戸内海や九州にも活発な布教活動を展開します。そのような中で、彼らは対岸の讃岐にもかすみ(テリトリー)を形成するようになります。その教線ラインは、大川山にものびてきます。そして古代末には衰退した中寺に代わって、五流が大川山を影響下にいれたようです。その痕跡が残るのが金剛院です。

「増補三代物語」にも、大川大権現(山)のことが次のように記されています。
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、
 寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也、)、


意訳変換しておくと
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。
 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
ここから得られる情報を列挙しておきます。
①社名を「大山大権現社」と「権現」しており、修験者の霊山となっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと → 中寺のこと?
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと
①④⑤などからは、里人から信仰を集めた霊山が、山林修行の僧侶(修験者)たちによって行場となり、そこに雨乞い伝説が「接木」されていく様子が見えてきます

中世の大川山の修験活動の中心拠点が金剛院集落にある金剛寺だったとという説を見ておきましょう。

坊集落金剛院1
金剛寺(まんのう町金剛院集落)
裏山が金華山です。ここからは中世の経塚が数多く出てきました。この集落には「空海はここに大伽藍をつくろうとした」という伝承が伝えられています。近寄ってみてみましょう。

金剛院石塔
金剛寺十三重塔(まんのう町金光院)
参道の十三重の石塔は、鎌倉時代中期に天霧石で、弥谷寺の石工達によって作られたものです。
よく似たものが白峰寺の十三重塔石塔(西塔)であることは以前にお話ししました。白峯寺や弥谷寺は、中世においては讃岐最大の山林寺院で「別院」などもあり、修験者(廻国山林修行者)の拠点でもありました。それらの寺(行場)と金光院は結ばれていたようです。

また先ほど見た裏山の金華山の頂上からは、こんな石で覆われた穴がいくつも発掘されました。
金剛院経塚2018報告書
金剛院の経塚

金剛院金華山
これが経塚の構造です。

経塚 経筒

穴を掘って石組みして、そこに経典を陶器や金銅制の筒に入れて奉納します。その際に、周囲には鏡や刀などの副葬品が埋葬されていることもあります。左が金光院の経塚からでてきた経筒です。このような経塚が金光院には何十と見つかっています。これは当時の修験者が金華山が霊場と認識していたことを示します。同時に、多くの山林修行者がここにやってきていたことが分かります。彼らは、写経して経筒を奉納するだけではありません。奉納するまでに長い修行を行って、それが成就したからこれを奉納したのです。つまり、この金剛院の周辺の山々は、行場でもあったのです。当然、大川山も行道コースの一部だったことが考えられます。

坊集落金光院2
坊集落としての金剛院集落
金剛院集落には、いまも何軒かの農家があります。その多くが藤尾坊・華厳坊・中ノ坊・別当坊と云うように坊名をもっています。これは彼らの祖先が修験者であったことを示しています。つまり、この集落にやって来た修験者たちがこの地に定着し、周辺の山野を開墾・開発してできた集落だと研究者は判断します。
「金剛院部落の仏縁地名が多いこと + 金華山が経塚群 = 金剛寺を中心とした坊集落」

 北の阿弥陀越や法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って修行を行う。そして霊山大川寺への行道を繰り返す。さらに看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていく姿が見えてきます。
 さらに視野を拡げて「霊山大川山」をとりまく状況を考えてみます。

五流修験による大川山開山

児島五流修験は、周辺に行場がなかったことは先ほど触れました。そのため早くから行場を求めて各地に修験者たちが「探索活動」を行います。そして、伯耆大山や伊予石鎚などを行場化していきます。同時に、讃岐方面にも塩飽諸島の本島を足がかりに、多度津の道隆寺・白方海岸寺などに拠点地を開きます。そして、金倉川沿いの金倉寺を経て、丸亀平野の霊山大川山を大山大権現として「開山」します。そのため大山神社の由縁には、蔵王権現や役行者が登場します。また、三代記には「大川は、伊予大三島の大山祇神社の転化」とも書かれます。大山祇神社も中世には五流修験の影響力が大きかったことは以前にお話ししました。
以上を整理しておきます。

五流修験による大川山開山説

①古代の山林寺院である中寺が鎌倉時代初期には退転した
②しかし、人々の霊山大川山にたいする信仰心はなくなることはなかった
③中世になると、児島五流修験が大川山を「権現」化し、行場化した。
④熊野行者でもある五流修験は、大川権現を熊野三山に例えた
⑤そして、その北の入口を吉野、南の入口を勝浦と呼んだ
⑥コリトリ場としては、造田に天川(てんかわ)が現れ、ここで禊ぎをおこなって大川山行道に入った。
⑦このラインは、阿波街道の要衝であり勝浦や真鈴峠・二双越えなどには、修験者が定住するようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事

中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から見た中寺廃寺と丸亀平野
空海が中寺で修行したといえるのかどうかを「時代考証」するために、中寺の建物跡や特色を見ています。今回はAゾーンを見ていくことにします。最初に復元図を見ておきます。

「平安時代のたたずまい」 仏堂と塔
中寺廃寺Aゾーン 仏ゾーンの復元図
ここからは、尾根の斜面を造成して仏堂跡と塔跡が出てきました。まず、塔の方から見ていきます。

中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺塔跡
復元された礎石跡です。4つの礎石が、正方形に並んでいます。4つの礎石なので三間 × 三間の正方形の建物だったことが分かります。そして、真ん中にも礎石があります。発掘当時の写真を見ておきましょう。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
中寺廃寺塔跡

真ん中にしかっりした石があります。これを心礎と研究者は判断します。心礎があるので塔跡になります。礎石の並びや大きさからして五重塔ほどは大きくない三重塔だとします。

中寺廃寺 心礎
中寺廃寺塔跡の心礎
この心礎の下から出てきたものがこれです。

中寺廃寺 心礎地鎮用2

中寺廃寺Aゾーン 塔跡地鎮
            中寺廃寺塔跡の心礎から出土した甕と須恵器
中央に甕(かめ)、その周囲に胴の長い須恵器の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。これは地鎮祭用に埋められたものと研究者は判断します。須恵器を詳しく調べると、10世紀前半に綾川町陶の十瓶山の国衙が管理する官営の窯で焼かれたことが分かりました。そうするとこの塔が作られたのも10世紀前半ということになります。この時期の十瓶山周辺には、阿野郡の郡司綾氏によって最先端技術を持つ須恵器工房が開かれ、讃岐全域のみならず畿内にも瀬戸内海交易を通じて搬出していたことは以前にお話ししました。
 須恵器の特徴しては、赤みが強いことです。このような色を出すには特別の粘土を使ったり、最後の行程で酸素を大量に供給するなどの特別の仕上げが必要になると研究者は指摘します。普通の須恵器ではなく、国衙の発注で特別に焼かせた可能性が高いようです。そうすると「国司 → 綾氏 → 十瓶山官営窯 → 国分寺 → 中寺廃寺」という発注・納品ラインが考えられます。ここにも国衙の力が及んでいること、別の言い方をすると、中寺が国衙の管理下に置かれていたことが裏付けられます。

  次に仏堂(本堂)跡を見ておきましょう。

仏ゾーン 仏堂跡 発掘時の様子
中寺廃寺仏堂(本堂)跡
最初は掘立柱建物で建てられ、後に礎石建物へ建て替えられています。その礎石がでてきています。礎石を数えると縦が4つ、横が3つなので、3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0m)の建物が復元できます。。ここからは10~11世紀の遺物が出土しているので、さきほど見た塔と同じ時期に建てられたことが分かります。また、礎石のない掘立柱式のものは、それ以前の9世紀末からあったことになります。
仏堂の平面図を見ておきましょう。

中寺廃寺 A遺構仏塔2

Aゾーン 平面図
中寺廃寺 Aゾーン 塔と仏堂
中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔の復元図
仏堂は塔よりも少し上にありますが、両方とも真南を向います。また、両者共に10世紀前半には姿を見せました。つまり、ひとつの伽藍として作られたようです。この伽藍配置は讃岐国分寺と同じ大官大寺式だと研究者は指摘します。

中寺廃寺 大官大寺式伽藍
中寺廃寺と同じ大官大寺式伽藍
大官大寺式伽藍配置の寺(右下が讃岐国分寺)
規模は小さいながら伽藍配置の数式からも、大官大寺様式であることが分かるようです。ここからも中寺Aゾーンの伽藍創建については、讃岐国分寺の僧侶や国衙のコントロールが働いていたことがうかがえます。
 私が仏堂(本堂)について、最初に疑問に思ったのは小さすぎることです。
この大きさでは本尊を安置するだけのお堂と同じです。これでは、この中で仏教的な儀式・法会を行う事はできません。しかし、同規模の本堂を持つ山林寺院があるようです。

中寺廃寺と同じ規模の金堂

全国の類例を探すと山林寺院には、この規模の本堂があります。また屋島寺の創建時の本堂である千間堂も、この規模だったことが分かっています。現在の我々の目から見ると、小さすぎると思えるかもしれませんが、当時はこれが普通だったようです。Aゾーンの全体復元図を見ておきましょう。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺 Aゾーンの復元図
この復元図に書き込まれている情報を読み取ります。
①仏堂と本堂は、大官大寺式で10世紀後半に同時に建立されたこと
②地鎮用の壺や甕が国衙直営の工房で造られた特注品なので、国衙の保護を受けていたこと
③本堂が小さかったので、仏教的な儀式はその前の広場で行われていたこと
中寺廃寺への国衙の関与

私が面白いと思ったのは、本堂の後の頂上の平たい空間で、菜園と表記されている所です。
発掘以前には、一番広いテラスで仏堂の後ろにあるので、講堂などが出てくることをは期待していたそうです。しかし、出てきたのは直線的に並ぶ小さな穴だけでした。その用途が最初は分からなかったようです。調べると、山林寺院には自給用の畑などがあったことが報告されています。また、中学校で習った兼好法師の徒然草には、山林寺院の僧侶の暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子(こうじ:みかん)の木の廻りを柵で囲んであるのを見て興ざめしたことが記されていました。ここからはこの時代にもイノシシ対策などの柵が必要だったことが分かります。中寺でも僧侶や修験者たちの生活のために野菜などが、稜線上の開けた日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っています。また、麓の江畑集落には、中寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っているようです。

それではテーマに立ち返って、空海が中寺で山林修行を行ったと云えるのかどうかを「時代考証」しておきましょう。

中寺廃寺と空海

右の表が前回にも見た建物などの出現期を表にまとめたものです。
①中寺に最初の建物が現れるのはBゾーンの割拝殿と僧坊です。これが8世紀末です。
②Bゾーンの広場から発見された三鈷杵や錫杖などの破片は、それ以前に遡るものでした。
これを空海の年表と比べてみましょう。空海が大学をドロップアウトして山林修行を開始したのが793年、そして唐に渡るのが803年で、この間が謎の10年です。 謎の10年とBゾーンの出現期は重なります。空海自身はこの間に太龍寺や室戸・石鎚で修行したと記します。この前に中寺を訪れていたことは十分考えられます。
 Aゾーンに仏塔と本堂が姿を現すのが9世紀末です。これと菅原道真が国司とやって来た時期も重なります。道真の指示でAゾーンの塔や本堂などの山林寺院が着工したことも考えられます。この時代考証を背景に、小説を書くならこんな風になります。

空海、中寺廃寺修行説
空海 中寺廃寺修行説

一族の期待を背負って平城京の大学へ進学した空海であった。しかし、官吏養成のための四書五経や儒教などへの興味は薄れていく。そんな中で、空海の心を捉えたのが仏教であった。当時の仏教は、宗教だけでなく医学や哲学・科学も含めた壮大な世界をもっていた。また、暗記力増進のためにと進められてやってみた虚空蔵求聞持法の修行は強烈な体験であった。自分のこれからの生きる道を考えた空海は19歳にして、大学をやめて、山林修行の道を歩むことを決意する。そのためには故郷の父母や一族に、自分の決意を伝え、理解と支援を得る必要があった。そこで、善通寺に帰ってくる。

 父は母は驚きながらも、空海の決意を受入て支援を約束する。空海はその間も、幼年期に修行した我拝師山に籠もる。そんな中で、大川山に山林修行をおこなう修行者がいることを知る。空海は、善通寺の杣山(そまやま)木材供給地の尾背山から塩入を経て中寺に向かった。そこには大川寺に向かって割拝殿が建てられ、そこから大川山を霊山として修行に励む修験者たちがいた。空海も彼らと共に大川山をめぐる行道を行い、僧坊で寝泊まりした。修行生活の中でで、四国辺路の大龍寺や室戸・石鎚などの情報を手に入れた。そして、旅立ちの準備が整うと下僕たちと供に阿讃の峰峰を東にへと向かった。これが空海の四国辺路への旅立ちであった。
私は四国辺路に旅立つ前に、空海は善通寺に帰ってきたと思っています。それは一族への報告のためと、今後の方針決定のためでもあります。もう一つは経済的な理由です。古代の辺路修行は、何人もの下僕を連れての修行でした。食事の準備などは下僕の仕事でした。室戸の海蝕洞窟の御厨人窟(みくろ)の「みくろ」は、調理スタッフのことだと研究者は指摘します。ここからも、修行者が下僕をつれていたことがうかがえます。修行者は修行だけに集中していたのです。そういう意味では、有力な富裕層の子弟でないと古代の山林修行はできるものではなかったようです。辺路修行には多額の資金や、人的なスタッフをそろえる必要があったことになります。その準備は父親の佐伯直田公の手で準備されたと私は考えています。
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その後の中寺は、平安期は国衙の保護を受け、大川山信仰の中宮寺として存続したようです。しかし、源平合戦の混乱や国衙機能の低下によって、保護者を失った中寺は平安末には退転していきます。それでも霊山である大川山への信仰は途絶えることはなかったようです。中寺に替わってあらたな山林修行者(修験者・修験道者)が登場します。彼らは、ここに権現を祀り、権現信仰の山としてリニューアルしていきます。大川山を取り巻く情勢については次回にお話しします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

  中寺廃寺について、次のような三部構成でお話ししています。今回は、②についてです。
①若き空海が、どんな山林修行をしていたのか
②山林修行の場として作られた中寺の構造・特色は、どんなものであったのか
③中寺衰退後の霊山大川山には、どんな修験者ネットワークが形作られたのか
忘れ去られていた中寺廃寺が再発見されるに至った経緯は、次の通りです。

中寺廃寺発見の経緯

大川山にお寺があったという話は、いろいろな形で伝えられていました。中でも髙松の殿様の国境視察調査のルートを決めるために書かれた絵図の写しが造田村の庄屋西村家に残っていました。

西村家文書 柞野絵図2
造田村柞野谷 西側の江畑道(旧郡境)に「中寺」とある
そこには中寺という地名が書き込まれています。これらを手がかりに、旧琴南町の文化財協会の人達が粘り強い調査活動を行い「再発見」につなげます。これを受けて町による本格的な発掘調査が行われ、古代に遡る山林寺院と評価されます。そして国の史跡に指定され、保存整備が進められてきました。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺跡の展望台から望む「阿讃山脈NO1の絶景」
 江畑口駐車場から2時間ほどで、高圧鉄塔を越え最後の階段を登ると展望台が迎えてくれます。パンフレットには中寺展望台と記されています。ここまでが90分ほどでしょうか。この説明板には「阿讃山脈NO1の展望」と書かれていますが、その通りです。素晴らしい眺望が楽しめます。左手(西北)に見えているのが満濃池です。

中寺廃寺からの展望
中寺廃寺展望台からの眺望
どこが見えているか分かります?
眼下に見えるのが満濃池、その向こうが象頭山。その左手(西)に瀬戸内海に伸びているのが庄内半島、そして紫雲出山です。本島や広島やなど塩飽の島々、そして備讃瀬戸を行き交う船も見えます。このロケーションが霊山にとっては大事なのです。逆から見ると、大川山は丸亀平野だけでなく、塩飽や庄内半島から見えていたということになります。これが聖なる山・霊山の条件です。山林修行者は、修行の折り目毎に山頂で大きな火を燃やしました。それが徳島の霊場・焼山(しょうざん)寺や、五岳の火山などの山名として伝わっています。焼山寺の火は、紀伊からも見えたようです。この火が見える範囲がその霊山の信仰エリアとなります。

中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から見た中寺と丸亀平野や瀬戸内海

中寺廃寺 各ゾーン名称

 中寺廃寺の各ゾーンを確認しておきます。ここが展望台です。
①展望台の下がAゾーン
②展望台から北に伸びる尾根の先端がBゾーン  
③谷を挟んだ向こう側河原にCゾーンになります。
④Dゾーンは、この下になります。
大川山からみると以下のようなレイアウトになります。

中寺廃寺  全景
大川山から見た中寺廃寺
注意しておいて欲しいのは、中寺は大川山にあったのではないことです。大川山を見上げる山の頂上附近にあったことを押さえておきます。
なぜ大川山の頂上に作らなかったのでしょうか? それを石鎚山を例に考えて見ます。

石鎚山が礼拝対象 
成就社からの石鎚山
ロープウェイを降りて成就社の拝殿に入ると、見えてくるのはこの景色です。正面に石鎚山がどーんとあります。思わず手を合わせます。ここからは石鎚山自体が祈りを捧げる信仰対象であったことが体感できます。京都に行ったときにタクシーの運転手さんから教えられたのは、こんなことでした。

「神社ができる前は、山を拝んでいたこと。霊山自体が信仰対象だったこと。それが神社ができると、神を祀った建物に拝むようになったこと。拝む対象が山から、神社の建物に替わってしまったです。けったいなことですわ。

学者の難しい説明よりも、分かりやすかったのでよく憶えています。

横峯山 星ヶ峯遙拝所からの石鎚山
横峯寺の星ヶ峯遙拝所から見る石鎚山
山林修験者が、ここで石鎚山への祈りを朝夕捧げていたことが納得できます。これと同じような空間が中寺にもあります。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山.2JPG

Bゾーンの尾根の上から見えるのは大川山です。大川山(標高1043m)は、丸亀平野から見える山の中では一番高い山です。そして里からはどこから見えます。その姿もポツンと先端が飛び出していてよくわかる山です。讃岐の霊山と呼ぶのにふさわしい山です。柳田國男の民俗学では仏教が伝来する前から、人々は山を神とあがめてきたとします。そうだとすると、中寺ができる前からは、ここは大川山を信仰対象と仰ぎ見る遙拝所であったことが考えられます。
ここを発掘調査したときの写真を見ておきましょう。


中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
Bゾーン 割拝殿跡の発掘現場 正面は大川山

礎石が並んで出てきました。これではよく分からないので平面図に落としたものを見てみます。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿4
Bゾーンの遙拝所と僧坊

南に伸びた尾根の先端部のテラスに建物跡と広場、尾根の下に斜面を整地して僧坊跡がでてきました。割拝殿の方を見ておきましょう。礎石が横に6ヶ並んでいるので五間、縦に4ケなので三間の建物です。しかし、同規模の建物が2つ並んで建っているようにも見えます。よく分からない建物でした。そのため、最初に書かれた復元図はこれでした。

割拝殿 最初の復元図

五間×三間の仏堂として復元されました。しかし、礎石の配置から見ると真ん中に通路があるようです。その事例をさがしてみると、このような割拝殿とよばれるタイプの拝殿があります。

割拝殿とは・・

これが割拝殿だとすると本殿が北側にあり、その前に割拝殿であること、その真ん中が通路となって、その前に広場が配置されています。こうして見ると、「本殿ー割拝殿ー広場ー大川山」が一直線に結ばれる祈りの空間だったことになります。まさに遙拝所としてふさわしい空間です。山林修行者達は、朝夕に大川山への祈りを捧げ、大川山への行道を毎日、何度も行っていたことが考えられます。その中に空海もいたというストーリーになります。こうして、Bゾーンは、「祈りのエリア」と名付けられました。

もうひとつ、この割拝殿周辺が出てきたものがあります。

三鈷杵と柵状の破片
三鈷杵と錫杖の破片(中寺廃寺Bゾーン)
これは何だと思いますか? 素材は青銅製です。これを研究者は、密教法具の破片と判断します。①左は最初に見た空海が手にしていた三鈷杵です。右は錫杖です。

飛行三鈷杵との比較
飛行三鈷杵と中寺廃寺出土の三鈷杵

空海の絵伝には 唐からの帰国の際に明州(寧波)から三鈷法を投げる話があります(高野空海行状図画)。「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。この時の「飛行三鈷杵」とされているものが高野山にはあります。それがこれです。これと中寺廃寺のものを比べて見ると、空海以前の古い様式のものであることが分かります。
中寺廃寺 三鈷杵破片3

ここからは、割拝殿や僧坊が建てられる前から小屋掛け生活して、大川山との行場往復をしながら「修行」をしていた修験者がいたことがうかがえます。壊れた密教法具の破片は、激しい修行を繰り広げていた山林修行者の格闘の日々を、物語っているようにも思えます。壊れた仏具の破片を埋めるには、ふさわしい場所です。そんなことをイメージできる雰囲気が、ここにはあります。
割拝殿の下の僧坊を見ておきましょう。

祈ゾーン 僧房跡 保存整備後の様子
僧坊跡(中寺廃寺)
この柱が礎石のあった場所で、柱跡になります。ここからは2つの建物が並んであったことが分かります。礎石は縦が4つ、横が4つですから「三間 × 二間」の建物になります。ここから出てきたものを見ておきましょう。

僧坊 Bゾーン


②は、柱穴に埋められた地鎮用の陶器です。③は威信財で、普通の人々が持てるものではありません。有力な僧侶がここで修行していたことがうかがえます。④からは、ここが山林修行者の僧坊であったことが分かります。同時に、8世紀末の調理具が出てくると言うことは、僧坊がその時期には姿を見せていたこと、山林修行者の活動がこの時期まで遡れることを意味します。 研究者が注目するのは②の多口瓶です。
中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
中寺廃寺 多口瓶

中寺廃寺 Bゾーン多口瓶

多口瓶(屋島寺・法勲寺)
周辺の遺跡で出土した多口瓶
多口瓶は仏具で、一般人が使うものではなく僧侶が用いるものです。多口瓶が出てきたことで、この建物が僧坊であったことが裏付けられます。この瓶がどこで作られたかを探るために発掘担当者が播磨まで行って、播磨の窯で作られたものと確認しています。あまり類例品のない特注品であることも分かりました。これも普通の人間には手に入らない威信財なのです。つまり、この僧坊で修行を行っていたのは、財力や地位をもった山林修験者であったことになります。中世の山伏の姿をイメージしてはいけいなようです。見方を変えると、中寺は国衙や国分寺の保護・管理を受けたお寺と研究者は考えています。  

以上で、Bゾーンを振り返っておきます。

割拝殿 祈りの場
HPTIMAGE

① Bゾーンは、「本殿→割拝殿→広場」が一直線に配された大川山の遙拝所であった。
② 割拝殿や僧坊は8世紀末には姿を見せていて、中寺で最初に現れた宗教施設であった。
③ 空海が大学をドロップアウトして山林修行の道に入ったときには、Bゾーンは存在していた。
④ 空海が中寺で修行を行った状況証拠にはなる。
⑤ Aゾーンに本堂や塔などの仏教施設が現れる百年前に、Bゾーンは姿を見せていた。

参考文献
中寺廃寺発掘調査報告書NO3 琴南町教育委員会
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 以前にお話しした西村市太夫が髙松藩に報告した殿様の「鷹狩りルート」の絵図中に、「中寺」と「犬頭」という地名がありました。

西村家文書 柞野絵図2
まんのう町造田の柞野周辺の絵地図(中寺・犬塚・三つ頭が見える)

中寺は中寺廃寺跡のことで、19世紀前半の地元の庄屋がここに寺院があったことを知っていた史料として意味があることをお話ししました。もうひとつの「犬頭(塚)」については、その由来を物語る伝説が琴南町誌の中にあります。今回は「大林英雄 高清左衛門の伝説と畑恒信の犬の塚 琴南町誌1068P」を見ていくことにします。髙松藩は殿様の鷹狩りの際に、造田村庄屋・西村市太夫へ「ルート上の名所旧跡を報告せよ」と命じています。それに対しての報告書が以下の文書です。(意訳変換)
一 鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、その子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋には別紙のような墓も建てられました。格別子細も伝承していないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上
「末寺の岡 犬の墓」が地図上の「犬頭」のようです。そうだとすると、位置的には中寺の手前のピークあたりになります。
犬塚については、堀川碧星の「美合村」に収録された「甲瀬(高清)左衛門の話」(琴南町誌1068P)を、少し長いですが全文を見ていくことにします。

甲瀬は甲瀬村にて此甲瀬の左衛門なるに付世人甲瀬左衛門と言ふ。初め大川山の怪物が居るとの事を聞き打ち取らんとて尋ね来りしが居らざりしかば造田村の柞木野(柞野)に来り松字ケ岡と言へる山の上にて一つの大松の根本に腰打ちかけ疲労の為居眠りなし居りたり。然るに連れ来りし一匹の大が突然大声にて吠へて止まず。左衛門目覚めいくら静止なしたれども其効なく左衛門の心持よき眠りを醒し尚且静上をきかぎれば大いに怒り持ちたる刀を抜きて犬の首を切りたり。首飛びて後の大松に飛び行けり。左衛門ふり返り眺むれば一匹の三つ頭ある大蛇其大松の枝に跨り目は違々と輝き大なる口をあけ火の如き赤き舌を出し今にも左衛門に飛びかヽらんとする気配なり。左衛門驚きよく眺むれば件の犬の首大蛇の喉に食ひ付きゐるなり。左衛門直に鉄砲のねらひ定めよく撃ちたり。然れども大蛇は死さずして傷き何処へか逃げ行きたり。
 
  若しこの時犬吠へざれば左衛門の命はなかりしなり。左衛門初めてその犬の吠へて止まざりし所以を知り深く憐み厚くその地に葬りたり。即ち犬は主人の危難を救ひて身代りとなりて死したるなり。これ三つ頭にある犬の塚俗称犬の墓にして大蛇の頭三つありたるに付この地を三つ頭と言ふ。又その近くに蛇のくぼ(窪)と言へる所あり。こゝに大蛇が棲み居しなり。これ中寺と言へる山の下にしてこの山最もこの辺にては高く山上に一つの寺ありたればこの山を中寺と言ひ又下の谷にかねのくばと言へる所あり、この寺の鐘を埋めたりければこの地をかねのくば(鐘の窪)と今も言ふなり。その大蛇は俗称猫また山猫の年古りて人を食ひ人をばかすものがばけたるものなりしなり。

意訳変換しておくと
阿波の甲瀬村に甲瀬左衛門という狩人がいた。大川山に怪物が現れると聞いて、探索したが見つけられず、造田村の柞野の松字ケ岡というる山の上の大松の根本に腰を下ろして、疲れ果てて眠り込んでしまった。ところが連れて来た2匹の犬が突然、吠へたてた。左衛門は目覚めて、静止させるが云うことを聞かない。左衛門は眠り覚まされた上に、云うことを聞かないことに激怒して、刀を抜きて犬の首を切った。首は後の大松に飛んだ。左衛門が、ふり返ると三つ頭がある大蛇がその大松の枝に跨り、目を輝かせ、大きな口をあけ、火のような赤き舌を出しで。今にも左衛門に飛びかかろうとしていた。左衛門は驚きながらよく見ると、切り落とした犬の首が大蛇の喉にくらいついている。そこで左衛門はすぐに、鉄砲のねらいを定め撃った。しかし、大蛇は傷つきながら果てず何処へか逃げ去った。

もし、犬が吠へなければ左衛門の命はなかったはずだ。左衛門は、犬の吠へ止まなかったことの理由を知って、深く憐んで厚くその地に葬った。犬は主人の危機を救って身代りとなりて死んだことになる。これが三つ頭にある犬の塚(俗称犬の墓)で、現れた大蛇の頭が三つあったので、この地を三つ頭と呼ぶ。その近くには「蛇のくぼ(窪)」と云うところもある。ここが大蛇が棲みついていたところである。これは中寺と呼ぶ山の下にあたる。中寺の山上には、一つの寺があったので、この山を中寺と呼んだ。また、下の谷に「かねのくぼ」という所がある。ここは、中寺の鐘を埋めたので「鐘の窪」と今でも呼んでいる。その大蛇は「猫また」と呼ばれ、山猫が年老いて怨霊となり、人を食ひ、人をばかすようになったものが化身したものだったという。

ここには地名の由来について、次のように記されています。
①現れた大蛇の頭が三つあったので、この地を三つ頭と呼ぶ。
②三つ頭には犬の塚(俗称犬の墓)がある
③犬塚の近くには大蛇が住み着いていた「蛇のくぼ(窪)」がある
④「蛇の窪」は、中寺と呼ぶ山の下にあたる。
⑤中寺の山上には、一つの寺があったので、この山を中寺と呼んだ。
⑥下の谷の「かねのくぼ」は、中寺の鐘を埋めたので「鐘の窪」と今でも呼んでいる
続いて見ていきますが、以下は意訳のみを挙げたおきます。

 左衛門は、討ち逃した大蛇の傷口から点々と落ちた血の跡を道々追いかけて造田村柞野の大家までやってきた。すると、大蛇はその家の老婆を食ひ老婆に化けていた。左衛門はこの老婆こそが魔物の化け物と見抜いて、一気に打ちとろうとした。しかし、当家の者たちは、我が家の老婆に何をする。老婆は魔物ではないと左衛門を留めた。そこで左衛門は、この老婆は夜中に便所へ行ったかどうかと訊ねた。すると家人は行ったと答えた。その時に魔物に食われ、魔物が老婆となりて化けているにちがいないと云って、直ちに老婆を打ち殺した。家人は大いに驚き怒り、集まってきた附近の者と、手に手に棒刃物等を持って左衛門をたたき殺そうとした。左衛門は、これ魔物の化けたるものだ。今は夜なれば二十四時間待てば、必ずその正体あらはすと説明したが、聞き入れられずに大勢にたたき殺されそうになった。左衛門は一目散に逃げて上内田まで逃れた。しかし。経緯を聞いた近隣の者達が大勢集まり、左衛門を大川(土器川)で石こづめにして殺した。

 石こづめとは、川へ追ひ込み四方より石を投げつけて埋め殺すことである。昔は鹿などをこのやり方で捕えたいたと云う。左衛門は死に際に、「我を殺せば必ず将来この上内田の土地には門倉たてさせぬ」と言い残し、怨み死んだ。「門倉たてさゝぬ」とは、資産家を輩出させないことで、俗に言ふ「はんじょうさヽぬ」である。そのため、左衛門の霊が祟っているためか上内田の地には今も資産家が現れない。今までにも財産家が現れ門倉が建ち始めると、その家に災難が起り、「門倉のたちたる家なし」と云う。

ここまでを要約しておくと
①大蛇は、三つ頭から里の造田村柞野に逃げ、老婆を喰らい老婆に化けた
②左衛門はそれを見抜いて老婆を撃ち殺した。
③しかし、家族や住民の怒りを受けて、上内田まで逃げてきた。
④上内田の住民たちは、 左衛門を土器川で「石こずめ」にして殺した。
⑤左衛門は、祟りとなって「上内田の土地には門倉たてさせぬ」と言い残し怨み死んだ。
続いて、もう一匹の犬のその後を追います。
 二匹いた犬の内で、一匹は松字岡にて大蛇の首に食らいついて死んだ。残りの一匹の犬は、主人の死を阿波国甲瀬村の留守宅へ知らせようとした。左衛門の足の指は一本曲っていたが、これを印にするために噛み切って口に咥えて一目散に走りだした。造田村上内田から美合村中通の下木戸、西桜、本村、本名、野口、皆野の地を過ぎ川東村淵野まで帰ろうとした。このルート上には皆野と淵野の界に土器川があり、ここには橋がなかった。加えて大雨の後で増水し、川幅が広くなっていてた。渡れそうな所を探して、犬は行きつ戻りつを繰り返した。ここが今は「犬の馬場」と呼ばれるようになった。そして、橋を犬の馬場橋と言ふ。犬はついに意を決し濁流の土器川に飛び込み水流に流されながらも、辛うじて向岸へたどり着いた。そして、堀田、尾井手、明神を経て勝浦村を越えて阿波国甲瀬村の留守宅へたどり着いた。
 留守を守りし左衛門の妻は、犬が咥えて持ち帰った曲がった指を見て、主人の身に起こったことを悟った。悲しみながらも主人の最期を確認しようと犬を連れて、造田村上内田の地へ向かった。土地の者に、事件の顛末を聞きいて、大いに悲しみ髪をそり尼となりて左衛門の石こづめにされたる土器川の支流天川に飛び込み主人の後を追った。そのためこの川を尼の川(尼川)と呼ぶようになった。されが転じて天の川(天川)となった。また、この時の犬の墓が、上内田の犬の塚(俗称上内田の犬の墓)である。つまり、犬の塚は三つ頭と上内田と二箇所にあることになる。


こうして見るとこの物語は、次のような地名の由来説きの役割を果たしていることに気がつきます。

中寺・犬塚・三つ頭の由来

この物語を聞くと、地元の地名の由縁がストンと心の中にしまい込まれていく気がします。これを語ったのはどんな人達だったのでしょうか?「地名説き説話」は、全国各地にある物語で、遍歴の聖や修験者がその土地に定着して語ったとされます。庚申講などでは、夜明けまで「日待ち」として、いろいろな話が語られました。その主役となったのは各地を遍歴して「民話収集」していた山伏たちです。荒唐無稽の驚く話も山伏が得意とする所です。そして、大川山周辺には、山伏たちが数多く定着していた痕跡があります。集められた旧琴南町の昔話に出てくる山伏たちの活動も、それを裏付けます。

以上をまとめておくと
①甲瀬(高清)左衛門の話として、大川山周辺に出没した大蛇退治の伝説が語られていた。
②この伝説には、「地名由来説話」としての側面があり、中寺や犬塚などの地名が大蛇退治とともに語られている。
③これを創作して語ったのは山伏たちと考えられる
④同時に、江戸時代後半になっても古代の山岳寺院中寺の記憶は、地元の人達に残っていたことが分かる。
実は、伝説と思われていたこの物語には実在の人物がいたことが、研究者の現地調査により分かります。次回は、史実としての「大蛇退治」を見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献



中寺廃寺講演会ポスター

まんのう町図書館の郷土史講座を担当しています。8月は中寺廃寺についてお話しします。
日時 8月24日(日)10:30~12:00
場所 まんのう町図書館会議室
興味と時間のある方の参加を歓迎します。なお会場が狭いので事前予約をお願いします。
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中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から望む中寺廃寺と、その向こうの丸亀平野

江戸時代末に高松藩主が鷹狩のために中寺廃寺跡付近を訪れたことが造田村庄屋の西村文書に記されています。ここからは鷹狩り準備のために、地元の庄屋が藩の役人と、どんなやりとりをしながら進めたのかが分かります。鷹狩りルートは、次の通りです。

①まんのう町塩入 → 中寺 → 笹ケ田尾 → 大川山

このルートには、大川山や中寺廃寺の周辺も含まれていています。今回は、造田村(旧琴南町)の庄屋文書『西村家文書』の鷹狩り記事に出てくる中寺廃寺を見ていくことにします。テキストは「まんのう町内遺跡発掘調査報告書第3集 中寺廃寺跡 第6章文献調査(80P) 2007年」です。
 鷹狩り記事が出てくるのは、天保6(1835)2月の冬のことです。2月末に行われることになった鷹狩りのために造田村庄屋と鵜足郡の大庄屋・髙松藩の間でやりとりされた文書の控えが西村家に残されています。この中に次のようなルート図が添えられています。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾
A『西村家文書』「殿様御鷹野被仰出候二付峯筋御往来道法方角絵図指出之控絵図」

造田村庄屋の西村市大夫が大庄屋に提出した鷹狩の際の道筋を示した絵図(控)です。
左(東)に、大川山に鎮座する大川社が描かれ、そこから西(右)に向かって阿讃山脈の主稜線が伸びています。右端が「笹ケ多尾(たお)」です。「タオ」は「垰」で「田尾・多尾」とも表記されます。
 「新御林・御林守下林・塩入御林」と書き込まれています。「御林」とは、藩の管理する山林のことです。国境附近には版の管理する御林が配置されていました。ここには、一般の人々は立ち入りも出来ず、御林管理者が指名されていました。「御林守下林」というのは、下林氏の管理する御林ということになります。「塩入御林」は、塩入分の御林です。
 もう少し詳しく、何が書かれているのか見ておきましょう。

西村文書 髙松藩鷹狩りコース添付図
付箋には「笹ヶ多尾から大川社への道2丁(218m)は阿波、そこから1町(約109m)は松平藩領、そこから11町(約1,200mは阿波。道は狭い道であったが今回新道を願い申し出た」とあります。 絵図中には古道と新道が平行して描かれています。現在の地図と比較して見ます。

中寺廃寺 周辺の地名2
塩入から中寺を経て大川山まで
①右下隅が大川山です。
②大川山から讃岐山脈(阿讃国境)の主稜線を西に進むと「笹の田尾」
③笹の田尾から北に伸びる稜線を下ると中寺、
④この稜線は、行政的にはかつての那珂郡と阿野郡の郡境
⑤中寺から鉄塔沿いの東谷尾根を下ると塩入へ
殿様の鷹狩りコースは、この逆で塩入から出発して大川山まででした。

B『西村家文書』文化2(1805)年丑2月「絵図(まんのう町造田杵野谷付近)」

西村家文書 柞野絵図2

中寺廃寺跡周辺の造田村杵野谷の絵図です。
①左下隅に天川大明神(天川神社)、そこから中央に伸びていく柞野川
②左上隅に「大川御社(神社)」、そこから真っ直ぐ西に「笹ケ多尾」
③「笹ケ多尾」から江畑へ伸びる郡堺尾根上に中寺・犬頭・三ツ頭
中寺廃寺 アクセス


次に『西村家文書』天保6年「日帳」を見ていくことにします。
 文章A~Dは、造田村庄屋が大庄屋らに古道の詳細について書き送ったものです。    
A 一筆啓上仕り候、然らハ御通筋麓の道筋は樹木生茂り、御道具障リハ御座無く候
峯筋御通行二相成り候得ハ、杵野新御林の内二、右の障り木御座有るべくと存じ奉り候二付、跡より委く申し上ぐべく候、先ず右の趣申し上げ度、斯くの如く二御座候、以上
二月三日     西村市大夫
宮井清上様
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候、連絡いただいた殿様の鷹狩ルートについては、樹木が覆い茂っていますが、道具等を運ぶことに問題はありません。稜線上を通行する場合、杵野の新御林の中に、通行に障害となる木がありますが問題はありません。後ほど詳しく申し上げます。先ずは、通行可能であることをお伝えします。以上
二月三日        西村市大夫
宮井清上様
まずは、真冬の2月3日に藩からの問い合わせが、大庄屋を通じて西村市大夫のもとにとどいたようです。それに対して、とりあえず「通行可能」との返答がされています。
B 日付は上と同日です。内容が詳細になっていて、宛先が藩の役人になっています。 (意訳のみ)

一 ルートは塩入村の脇野馬場を出発点として、那珂郡の「社人の尾」を通過し、鵜足郡の中寺堂所で稜線に取り付きます。そこからは鵜足郡造田村を通行して、大川山に到着するという手はずになります。この間の距離は、50丁(5,5㎞)ほどです。なお、郡境の中寺附近は足場が悪く、継ぎ更えは難しいと思われます。
  昔からこのルートを年寄・郡奉行や山奉公が通る際には、塩人村の御林守伊平が案内しました。その際は笹ヶ多尾で継ぎ替えし、そこから大川までは造田村がお送りしています。昨日申し出た樹木が生い茂った古道でもあります。新道に出れば乗馬にて通行が可能であり、少々荷物を積んでも通行できます。以上をお伝えしますが、詳細は現地調査の上、お達しの通り絵図を添えて報告いたします。まずは簡略にお伝えします。
二月三日              西村市大夫
宮井清上様
十河亀五郎様

C 翌日2月4日のものです
一筆啓上仕り候、殿様御通筋二相成る二ても、麓の道筋二は樹木生茂り、御道具障リハ御座無く候
一 峯筋阿州御堺目御通行二相成り候得は、杵野新御林の内、諸木伐り払い申さず候ハてハ、新道付き申さざる義二御座候、尤も未だ雪三尺位も積もり居り申し候二付、様子も委く相別り難き義二御座候、先ず有の段申上げ度、斯くの如く二御座候、以上
二月四日      西村市大夫
杉上加左衛門様
徳永二郎八郎様
  意訳変換しておくと  
C 一筆啓上仕り候、殿様がお通りになることについては、道筋二は樹木が覆い茂っていますが、道具類を運び上げることはできます。
一 なお阿波との国境尾根を通行するためには、杵野の新御林の木を伐り払って新道をつける必要があります。ただ、今は雪が1m近くも積もっていて、現地の状態を調査することができません。とりあえず、以上のことを連絡します。
二月四日     西村市大夫
杉上加左衛門様
徳永二郎八郎様
この時代には、大川山頂上附近には1m近くの雪が積もっていたことが分かります。

D 今までに送った情報の修正です
一 部方へ右役所へ申し出での通り、同日申し出で仕り候、尤も追啓左ノ通り
       宮井清上様
       十河亀五郎様
尚々、本文の通り役所へ今日申し出で仕り候、併しながら御境松本の松木もこれ有り、何様六ケ敷き新道二て、大二心配仕り居り申し候、仔細ハ右役所へ罷り出で候組頭指し出し申し候間、御聞き成られ下さるべく候、山方役所へも申し出で仕り候、且つ又、昨日塩人村より大川迄、道法五拾丁位と申す義申し上げ候得共、山道の事故七拾丁二も積もりこれ有る様相聞へ申し候、何様雪深き事二て、委細相別り申さざる義二御座候、并び二馬少々の荷物ハ苦しからざる様申し上げ候得共、此の義も阿州馬ハ随分六十位付口候得共、讃州の馬二てハ覚束無き様二相聞へ申し候間、右様両段二御聞き置き成られ下さるべく候、右念のん申し上げ度、斯くの如く二御座候、以上
二月四日
意訳変換(簡略版)しておくと

D 先日は塩入村から大川までの距離は50町(約5。5km)と伝えたが、山道のため(約7、6km)になります。また馬には少々荷物を積んでも問題なく通行できると伝えましたが、これは阿波の馬の場合で、讃岐の馬は、あまり荷物は積めません。

E 殿様の通行のために、柞野の新御林の中に道を敷設したいとの要望書です。その際、支障となる木の伐採が必要な場所が多くあるとしています。
一筆啓上仕り候、然らハ殿様御順在、峯筋御通行遊ばせられ候御様子二付き、御道筋収り繕ろい候様の見債もリニ罷り□候所、杵野新御林の内へ新道付け申さず候てハ、阿州の分へ相懸り、甚だ心配仕り居り申し候、又新道二付き申し候時ハ、御林諸木伐り払い候場所多くこれ有り、是れ又心配仕り居り申し候間、何様早々御見分の上、宜しく御取り計らい成され下さるべく候、尤も雪三尺位も積もり居り申し候二付き、様子も相別り難き義二御座候、先ず右の段申し出で度、斯くの如く二御座候、以上
´二月四日    庄屋 西村市大夫
安富弥右衛円様
森 人右術円様
尚々、御堺松等段々伐り払い候様二相見へ申し候間、何様御見分二指し出し下さるべく候
 
F 今回の鷹狩りルート中に名所・旧跡は無いか? 笹が田尾の絵図とともに報告せよ。
笹ケ多尾の絵図御指し出し成され相達し申し候
一 此の度御山分御通筋名所古跡等はこれ無き哉、吟味の上否委細明後七日早朝迄二御申し出で成なさるべし 以上
 二月五日     十河亀五郎
       宮井清七
西村市太夫様
意訳変換しておくと
笹ケ多尾周辺の絵図を提出すること。この度の鷹狩りコース上で名所・古跡があれば、明後日中に報告すること指示があった。
 この絵図提出指示で、作成されたのが最初に笹ケ多尾周辺の絵図なのでしょう。また、ルート上の名所のリストアップも指示されています。鷹狩りだけでなく、様々な気配りがされていることがうかがえます。
G 申請した柞野の御林に新道をつけるための聞き取り調査についての連絡です。
飛脚ヲ以て申し進め候、然はハ殿様御順二付き、御通筋御林の諸木障り木の義二付き、□□致す御間、能相心得居り申し候組頭壱人、此の飛脚着き次第、御役所へ御指し出し成らるべく候、其の為申し進め候、以上
二月五日       森 太右衛円
       安富弥右衛門
西村市大夫 様
意訳変換しておくと
飛脚で直接連絡する。殿様の鷹狩りのために、新道設置のために御林の木を伐採するについて、現地の状況を熟知する組頭を一人、この飛脚が着き次第、役所へ出頭させること。
御林の伐採については、各部局と事前連絡をとって置かなければなりません。そのために現地の状況を熟知した者を出頭させよとの通知です。これに基づいて、御林が伐採され、新道が設置されたのでしょう。
Hは、藩の名所問い合わせに対する返答です
一筆啓上仕り候、然らハ御鷹野御通行筋名所古跡等これ有り候得ハ、申し出で仕り候様二と、達々仰せ聞かされ候様承知仕り候、此の度塩人村より御通行筋、当村の内二名所古跡ハ御座無く候、尤も笹ケ多尾近辺二少々申し出で仕るべき様成る土地御座候得共、是は那珂郡の内二て御座候、鵜足郡造田I村の内二は、
一 犬の墓
一 中寺堂所 但し寺号も相知れ申さず候
右二ケ所より外二は何も御座無く候、是辿(これとて)も指し為る事二て御座無く候へ共、御通行筋二付き申し出で仕り候間、御書き出し候義ハ御賢慮の上御見合わせ二、御取り計らい成され下さるべく候、右の段申し上げ度斯くの如くに御座候 以上
二月六日        西村市大夫
宮井清七様
十河亀五郎様
意訳変換しておくと
 一筆啓上仕り候、鷹狩りコース中に、名所古跡があるかについて回答いたします。この度の塩人村からの道筋上には、名所古跡はありません。ただ、笹ケ多尾周辺に、それらしきものがございます。これは那珂郡の領域になります。ただ、鵜足郡造田村には、以下のものがあります。
一 犬の墓
一 中寺堂所  但し寺号なども分かりません
この外には、何もありません。これとても大したものではありませんが、通行筋には当たります。御書の作成に当たり、記載するかどうかは賢慮の上、取り計らい下さい。
ここには、造田村の中には無いが、笹ヶ多尾の周辺に「犬の墓」と「中寺堂所」という寺跡があることが報告されています。幕末の庄屋西村市大夫の認識は「これとても指し為る事二て御座無く候」とあります。中寺跡の存在や位置は知っていたが、その内容や規模については知らなかったことがうかがえます。
I 上の報告に対する大庄屋の返書です
殿様此の度御鷹野御通行筋、共の村方の古跡二ケ所御書き出し相達し申し候、然ル所右の分御道筋とハ申すものヽ、たとい壱弐丁の御廻リニても、矢張り道法ハ入用二これ有り、近日御申し出で成らるべく候、并古跡と申す古可又ハ何そ以前の形二ても、少々ハ相残リ居り申し候と申す欺、何れ由来御詳き出し成らるべく候、甚だ指し急キ申し四郎候、何分明朝御書き出し成らるべく候、以上
二月六日       十河亀五郎
       宮井清七
西村市大夫様
意訳変換しておくと

殿様の鷹狩りコース上の古跡についての報告について、(中寺)への分岐道筋については、例え一丁でも、その距離は明記しておく必要がある。よって、近日中に報告すること。また、古跡は少しでも残っているのであれば、その由来を詳しく記して報告すること。急がせるようだが、明朝までには届けるように。以上

大庄屋は造田村庄屋に、名所・古跡に関しての詳しい説明を求めています。仕事がていねいです。

J 上記に対する西村市大夫の返書です。
一筆啓上仕り候、然らハ御通行筋二これ有り候犬の墓并寺地えの道法出来等も、申し出で候様二達々仰せ開かされの趣承知仕り候、左二申し上げ候
一末寺ノ岡犬の基
御通行筋より道法凡そ五丁位、尤も御立ち帰リニ相成り候得ハ、拾丁位二相成り申すべく候、且つ籠末の稟印往古よりこれ有り候所、子孫の者とこれ有り、天明年中内田免人道筋へ別紙碑銘の通リニて、引墓二仕り御座候、併しながら格別子細も伝承仕らざる義二御座候
一 中寺堂所
御通行筋より凡そ弐丁位、尤も立ち帰リニ相成り候時ハ四丁位、往古は石の□等相尋ね居り申し候、併しながら寺号等も相知れ申さず候義二御座候
右の通リニ御座候、以上
                   庄屋 西村市大夫
宮井清七様
十河亀五郎様
意訳変換しておくと

一筆啓上仕り候、鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋に別紙のような碑銘です。格別子細も伝承していないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上

ここからは、中寺の所在地までの距離を把握しています。ということは、どこにあったかも知っていたことになります。中寺廃寺Aゾーンの塔と仏堂までは、稜線分岐から約300mほどです。この記述と合致します。「石の□等」については、よく分かりません。

K 再度、中寺に対する大庄屋からの問い合わせです(意訳のみ)
急ぎ問い合わせるが、先日報告のあった長曽我部時代に兵火で退転した中寺という寺は、何造田村の何免にあったのか。中寺について、この書状を受け取り次第、至急連絡いただきたい以上
九月六日       十河亀五郎
西村市大夫様
尚々、飛脚二て御意を得度二て御申し出で成らるべく候、以上
L 上記に対する返答書です。(意訳変換しておくと
⑭飛脚の速達便を拝見しました。造田村の中寺は、長曽我部の兵火で焼失した寺跡だといううが、何免にあるのかという問い合わせでした。これに対して、以下の通りお答えします。
一 中寺跡
 大川社坊の阿波境の笹ケ多尾の少し下に位置しますが、東西南北ともにいくつもの山が続く中なので、何免と答えることが困難です。強いて云えば、樫地免より手近の場所なので、樫地免としてもいいのではと思います。右の通リニ御座候間、宜しく御申し出で仕るべく候、以上
九月七日            西付市大夫
十河亀五郎様

  笹ケ多尾は、先ほどの絵図で見たとおり、旧琴南町・旧仲南町・徳島県旧三野町の3町が接する付近になります。また、中寺が那珂郡と阿野郡の境界線上近くにあり、強いて言うなれば阿野郡の造田村に属すと返答しています。これは、発掘後に姿を現した中寺廃寺の伽藍レイアウトに矛盾しません。

以上の西村市大夫の書状からは、彼が中寺廃寺のことを次のように認識していたことが分かります。
①中寺は江戸時代末には、「寺の名前がわからない」「昔から石があったとされる」程度の認識であったこと
②しかし、名所・古跡として挙げているので、寺があったことは民衆の間に言い伝えとられていたこと
③「笹ヶ多尾 → 中寺 → 江畑」尾根ルートは、かつての那珂郡と阿野郡の郡境であったこと。
④またこのルートは、江戸時代末の江畑からの大川山への参道となっていたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町内遺跡発掘調査報告書第3集 中寺廃寺跡 第6章文献調査(80P) 2007年
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中寺廃寺は次の表のように、8世紀末に起源を持つ古代の山林寺院です。

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中寺廃寺の3つのゾーンの建物出現期
最初に開かれたのはBゾーンで、そこには下の復元図のように霊山である大川山に祈りを捧げる信仰施設としての割拝殿と生活拠点としての僧坊があったことを前回お話しました。

「平安時代のたたずまい」 割拝殿と僧房
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿と僧坊跡復元図


今回はAゾーンを見ていきたいと思います。テキストは「上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。

中寺廃寺  全景

Bゾーンは大川山を正面に見る尾根上に開かれています。Aゾーンは「中寺谷」の最上部にあります。
Aゾーンの3つの建築物を確認しておきます。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)

中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔の復元図
①仏堂跡   三間×二間 (桁行6,7m×梁間4m)
②塔跡    三間×三間の塔跡
③大炊屋(おおいや)跡 仏堂跡・塔跡の下段
これらは、Bゾーンの割拝殿(仏堂)や僧坊に比べると、半世紀以上遅れて9世紀の半ばの同時期に姿を現しているようです。
まず仏堂跡から見ていきます。

仏ゾーン 仏堂跡 発掘時の様子
中寺廃寺Aゾーン 仏堂跡 礎石が出てきた
①傾斜地の山側を切り崩して谷側を盛土した平坦地に建てられ、山側には排水溝が巡らす。
②広さは3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0mの東西棟)
③最初は掘立柱建物で、後世に礎石建物へ建て替えられたこと
③遺構からは10~11世紀の遺物が出土
④仏堂は塔と共に真南を向いて建てられ、仏堂の南には広場が造成
⑤仏堂と塔の位置関係は讃岐国分寺の伽藍配置と相似で大官大寺式
中寺廃寺 A遺構仏塔2
           中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔

 仏堂は3間×2間と小規模ですが真南を向いて、正面に礼拝・法会用の広場が造成されています。ここに本尊が安置されたのでしょう。讃岐の山林寺院は「髙松七観音」のように、千手観音など観音像が多いので、観音さまが本尊だったのかもしれませんが、史料がないので分かりません。

続いて塔跡を見ていくことにします。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
中寺廃寺
Aゾーン 塔跡
①傾斜地の山側を切り崩して谷側を盛土した基壇状の平坦地に建てられている。
②広さは3間×3間
③塔中央の心礎石の下から10世紀前半の土師器壺5個杯1個が出土
④壺5個は赤く、陶の十甕山窯で特注品として焼かれたもの
③④については、中央に長胴甕を、その周囲に赤く焼かれた10世紀前半の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。
中寺廃寺 Aゾーン 塔跡須恵器G
中寺廃寺Aゾーン 塔跡から出てきた甕と壺(地鎮祭用?)
これは地鎮祭の祭礼用に用いられた特別な甕と坪と研究者は考えています。壺が作られたのは綾川町の十瓶山(陶)の官営工場のようです。当時の陶には、讃岐国衙が管理する官営工場があり、綾川を通じて、讃岐だけでなく、畿内にも提供されていたことは以前にお話ししました。赤みが強いのが印象的ですが、このような色を出すには特別の粘土を使ったり、最後に酸素を大量に供給して赤色に仕上げる行程が必要になると研究者は指摘します。どうやら、この壺は国衙の発注で特別に焼かせた可能性が高いようです。ここでは地鎮祭の壺が国衙によって準備されていること、見方を変えると中寺廃寺は国衙の影響下に置かれていたことを押さえておきます。

中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺Aゾーン 塔跡(整備後)
以上で、仏堂跡とその正面の広場、そして塔跡の位置が分かりました。研究者は、これだけの情報で中寺廃寺の伽藍配置が、讃岐国分寺と同じ大官大寺式であると推察します。仏堂と塔の配置だけで、伽藍形式を、どうして推察出来るのでしょうか? 

まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔(復元図)
まず、私が疑問に思ったのは中寺廃寺の仏堂が、3間×2間という小さいものであることです。研究者は、これを次の古代の山林寺院の仏堂と比較します。
中寺廃寺と同じ規模の金堂
               海竜王寺西金堂と海住山寺文殊堂

①奈良市海王寺西金堂(8世紀) 桁行8.87m、 梁間5.96m(下図上)
②京都府加茂町海住山寺文殊堂(鎌倉時代)桁行7.28m、 梁間4.25m(下図下)
③崇福寺跡南尾根の小金堂跡(7世紀後半)桁行8.1m、 梁間5.4m
④高松市屋島北嶺の千間堂(屋島寺前身寺院) (10世紀前半) 桁行6.7m、梁間4.5m
ここからは古代の山林寺院の金堂は、中寺廃寺の仏堂より少し大きい規模であったことが分かります。
屋島の千間堂跡礎石建物と、中寺廃寺の仏堂は桁行長が同じです。
屋島寺は、寺伝では唐僧鑑真が都に向かう途中に立ち寄り、一宇を建立し普賢菩薩を安置したのがはじまりとされます。初期の寺域は、千間堂の地名が残る北嶺芝生広場です。屋島寺の前身である千間堂跡については、長らくその実体がよく分かりませんでした。2009年度の調査で芝生広場北側の森の中で基壇をもつ礎石建物跡が確認されました。基壇は東西に長く高さ40㎝、基壇上には10個の礎石が確認されました。礎石の位置から東西3間、南北2間の建物とされます。基壇内部からは須恵器の多口瓶(たこうへい)が破片で出てきました。
屋島の千間堂跡礎石建物の多口瓶(たこうへい)
多口瓶は仏具なので、寺跡であることが裏付けられ、ここが寺伝にある千間堂跡の一部であることがわかりました。建物の性格としては仏像を安置するための仏堂とされます。これ以外の建物跡は周辺からは見つかっていないので「北嶺千間堂跡の伽藍配置は仏堂を中心に小規模な建物が点在していた」と調査報告書は記します。(高松市教委2003年) 
 中寺廃寺の仏堂も、これが金堂でここに本尊が安置されていたと研究者は判断します。しかし、3間×2間の仏堂では狭すぎて、その中での法会はできません。そこで仏堂の南に広場を設けます。これによって、中心金堂としての機能を果たすことができたと研究者は考えています。
 そうすると、仏堂(金堂)と広場、それに塔跡と併せて、Aゾーンは讃岐国分僧寺と同じ大官大寺式伽藍配置となると研究者は考えます。まず、大官大寺式伽藍を押さえておきます。
①中門・金堂間の回廊内東に寄せて塔を置く大官大寺式は、文武朝(697 - 707年)に藤原京内で造営した大官大寺(藤原京大安寺)に初めて採用
②天平13年(741)の国分寺造営の詔を受けて、南海道や西海道の西日本国分僧寺の多くが採用した伽藍配置であること。
 次のような大官大寺式伽藍寺院と中寺廃寺を比較してみます。を行います。
 
中寺廃寺 大官大寺式伽藍

大官大寺式伽藍寺院と中寺廃寺の比較

金堂・塔規模は、平地伽藍の大官大寺や各地の国分寺は、数倍の大きさを持ちます。それは、国家が威信をかけて造営した官寺だから当然かもしれません。堂塔規模は、平地に立地した大寺伽藍が山林寺院例を圧倒します。しかし、H/L×100値に注目すると、中寺廃寺の134は、大官大寺の106と美濃・紀伊・讃岐国分僧寺の158 ・ 168 ・ 208の中間値で、平地寺院の大官大寺式伽藍配置の範躊の中にあります。
中寺廃寺と同じ大官大寺式伽藍
讃岐国分寺など大官大寺式伽藍配置の寺 

例えば観音寺の中心堂宇は、南に庇を広くのばし、仏堂前面に外陣的な礼拝空間を確保しています。これがあれば、金堂前に露天広場は必要としません。この構造が平安時代以降は一般的な構造になり、古代的な金堂建築を駆逐します。つまり、「中寺廃寺Aゾーンで、仏堂前面に盛土で広場を確保しているのは、古代平地寺院の伝統を色濃く踏襲しているため」と研究者は指摘します。 その仏堂が3間×2間と小規模で、本尊を安置する必要最小限の空間しか確保していないのも、讃岐国分僧寺に習って堂前の法会を重視した結果とします。そういう意味では、中寺廃寺は讃岐国分寺の影響を強く受けているのかもしれません。ここでは、Aゾーン全体を見ると、大官大寺伽藍を志向して仏堂・塔が計画的に造営された中枢伽藍であったことを押さえておきます。
 発掘で、第三テラス(平坦地)に塔跡、第二テラスに仏堂跡が発見され、大官大寺式伽藍であることが推測できるようになると、その上の第一テラスが注目を集めるようになります。

中寺廃寺 エリア分類
 
 第1テラスは、中心伽藍となる仏堂と塔の背後の空間に当たります。もしかしたら講堂などがあるのではという期待もあったようです。

中寺廃寺Aゾーン 第一テラス 菜園
中寺廃寺Aゾーン 第一テラス 建物跡は出てこなかった

しかし、ボーリング調査では礎石は見つかりません。またトレンチを入れても、まとまりのない小規模で密に並ぶ掘立柱列が出てきただけでした。つまり建物はなかったようです。それでは、ここには何があったのでしょうか。僧侶達の菜園だと研究者は考えています。
 例えば四国霊場の山林寺院には、伽藍近くの平場を利用して、疏菜・穀物・堅果などを栽培している光景に出会います。寺の周囲で穀物などを栽培する姿は、古代寺院でも行われていたはずです。
天平宝字5年(761)の班田の結果を受けて製作された「額田寺伽藍並条里図」(国立歴史民俗博物館蔵)を研究者は提示します。
額田寺伽藍並条里図 寺院の周りの寺領

この絵図を見ると額田氏の氏寺(額田寺)の周囲には、公田や個人宅地と入り組みながら、「寺畠」「寺田」「寺栗林」「額寺楊原」「寺岡」などの寺領が広がっています。これから類推すると、山林寺院の平場(テラス)には、蕎麦畑や疏菜、畑、栗などの堅果類の栽培林があったことがうかがえます。そうすると、中寺廃寺Aゾーン第1テラスから出てきた柱列は畑の区画施設ということになります。
中学校で習った兼好法師の徒然草には、山里での暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子の木の周囲に設けた柵を見てに興ざめしたことが記されていました。[『徒然草』上巻第11段]。ここからは昔から山間の畑ではイノシシ対策などの柵木などは必要だったことがうかがえます。中寺廃寺でも僧侶や修験者たちの生活のために野菜などが、稜線上の開けた日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っているようです。また、麓の江畑集落には、中寺廃寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っています。
最後に、大炊屋を見ておきましょう。

仏ゾーン 大炊屋跡 発掘時の様子
中寺廃寺Aゾーン 大炊屋
①掘立柱建物で、山側を切り崩して谷側へ盛土した平坦地に建てられ、山側には排水溝が巡らされている
②規模は正面3間(約5.6m)×奥行き2間(約3.6m)で約20㎡。
③建物跡からは土師器杯・椀、須恵器杯などの食器類や煮炊き用の土師器長胴甕が出土
④竈跡と思われる遺構も出てきたので調理を行った大炊屋跡
⑤近畿産黒色土器や西播磨産須恵器が出土し、遠方との交流を物語る。
⑥建造時期は10世紀前後で、塔跡・仏堂跡と同時期の造営
 この建物からは、食器や調理具が出土しています。床面から竃の痕跡も確認できたので、大炊屋跡(供物の調理施設)と研究者は判断します。なお、Aゾーンから僧坊は出てきていません。僧坊があるのはBゾーンだけです。Aゾーンは、公的な仏教儀式の場で、僧侶達の日常生活の場はBゾーンであったようです。
以上を整理しておきます。
①中寺廃寺廃寺Aゾーンは、9世紀半ばに整備された山林寺院の伽藍跡である。
②主要施設は、仏堂(本堂)、広場、塔で、大官大寺式伽藍を志向していた。
③仏堂は小さいが、その前の広場を使って公式行事や儀式は行われていた。
④Aゾーンは、仏教的な公的儀式が行われるハレの場でもあった。
⑤塔の心礎下からは、国衙が陶の官営陶器工場で焼かせた特注制の赤い壺が地鎮祭祭具として埋められていた。
⑥ここからは、中寺廃寺が讃岐国分寺や国衙の影響下のあったことがうかがえる。
⑦稜線上のテラス1には講堂はなく、菜園として利用されていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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中寺廃寺 3つのゾーン2


中寺廃寺は、次の3つのゾーンから構成されています。
Aゾーン(仏)  仏堂と塔のある宗教的な中核エリア
Bゾーン(祈り) 霊山大川山への祈りを捧げる割拝殿と僧坊
Cゾーン(願い) 祈りのための石塔が人々によって捧げられた谷間の空間
3つのゾーンの前後関係を年表で押さえておきます。

HPTIMAGE

この年表からはABCの3つのゾーンに、いつ頃、どんな建物が現れたかが分かります。
最初に建物が建造されるのはBゾーンで、そこに仏堂(割拝殿)・僧坊が姿を現します。その時期は8世紀末のことです。これは、前回お話ししたように空海が大学をドロップアウトして、虚空蔵求聞持法修得のために山林修行を始める頃と重なります。今回はB(祈り)ゾーンについて見ていくことにします。テキストは「上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。
中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
Bゾーンの割拝殿の発掘現場 大川山が正面に望める

Bゾーンからは、次のような建築物跡が出てきました
割拝殿(仏堂跡?)   尾根上
僧房跡数棟           下の2つのテラス
中寺廃寺B祈りゾーン 平面図 
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿跡と僧坊
尾根先端を造成して造られた割拝殿から見ておきましょう。
①割拝殿(仏堂跡?)は、桁行五間(20、3m)、梁間三間(6m)
②建物中央に通路の基礎となる礎石がある大型の建物
③出土遺物より造成年代は、10世紀後半以降
④テラス中央の溝を挟み同方向の建物が同時に建っていた
     
 盛土中から10世紀後半の遺物が出土しているので、それ以降に建てられたことになります。最初はこの建物は「仏像を安置した修弥壇の基礎の石を確認したので仏堂」とされていたようです。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺Bゾーン 仏堂説にもとづく復元図(南側に広場)

しかし、堂内の須弥壇礎石は側柱礎石と大きさがあまり変わりません。そのため3間×2間の同じ大きさの東西棟が並んで建つ双堂建物ではないかという意見が出されます。双堂建築は、東大寺法華堂など雑密的な仏像を本尊とする古代建築に多く使われています。山林寺院の施設として、ふさわしい建築構造です。
 しかし、次のような点を考慮して、現在では双堂建築ではなく、5間×3間の南北棟説(割拝殿)とされています。 
①双堂なら、一方は正堂、一方は礼堂で、北北東もしくは南南西を向くことになる。  
②北北東向きとすると、谷を囲んで施設が対面する中寺廃寺の遺構配置に相反する。
③南南西向きとすると、掘立柱建物群が分布する平場が、その正面をふさぐことになる。
⑤礎石建物の広場が、建物の正面ではなく側面にくる
⑥尾根端を利用した建物は、尾根の先端を正面とするのが普通
⑦双堂とすると正堂・礼堂は近接し、十分な軒の出を取りにくい。          
「平安時代のたたずまい」 割拝殿と僧房
中寺廃寺Bゾーンの割拝殿
中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡

 以上から、この建物は5間×3間で、その前の広場を通して、真っ正面に大川山を臨んでいたとします。この広場で、朝夕に霊峰大川山への祈りが捧げられていたことが考えられます。このことからB地区は山岳信仰と関係が深いので、「祈り」のエリアと名付けられました。

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 山林寺院を考える際に、避けて通れないのが「山岳信仰」との関係です。
仏教伝来以前から、列島では山を神とあがめていたとされます。山は信仰対象だったのです。 山林修行や山林斗藪の拠点となった山林寺院は、インド起源です。しかし、一方で列島固有の山岳信仰が仏教と融合しながら変形されてきました。以前にお話ししたように、高野山金剛と狩場明神・丹生津姫神社の関係や、比叡山延暦寺と日吉大社の関係など、山林寺院が土地の神(地主神)や山自体を御神体とする神社が祀られ、寺と神社が深い関係にありました。ここでは大川山と中寺廃寺がどんな関係だったのかが問われます。
 霊山の山頂には、いろいろな神々が祀られ、祭礼施設があります。しかし、山頂に山林寺院が造られることはありません。霊峰・霊山信仰を持つ寺院も、その中腹や麓近く、あるいは霊峰を望む景勝地に造られるのが普通です。それは、石鎚山と前神寺や横峰寺の関係を見れば分かります。霊山の峰々が修行の舞台となったとしても、山林寺院はその拠点なので、生活困難な山頂に建てる必要はないのです。ここでは、中寺廃寺は霊峰大川山信仰の拠点として造られた、そのためBゾーンの割拝殿は、大川山を向いて建てられ、その前の広場で祈りが捧げられたことを押さえておきます。

 それを裏付けるのが、流土の中から8世紀後半~12世紀までの長期の土師器・黒色土器・須恵器類が出土していることです。割拝殿の造営年代は、基壇築成土中の遺物から10世紀後半のものとされます。しかし、尾根端の地盤は不安定で、いくつかの礎石も滑べり落ちていました。ここからは割拝殿は、それ以前から何度も建て替えて、発掘されたものが10世紀後半のものになると研究者は考えています。
  
 次に、割拝殿下のテラスの掘立柱住居跡5棟を見ておきましょう。

祈ゾーン 僧房跡 保存整備後の様子
中寺廃寺Bゾーンの僧坊跡
①三間(6,2)m×二間(3m)
②柱穴から西播磨産の須恵器多口瓶
③建物の西北隅をめぐる雨落溝から中国の越州窯系青磁碗破片が出土
④第3テラスは、掘立柱建物跡、三間(4m)×二間3,2m)
⑤第2・第3テラスの建物は数回の建替えが行われている
⑥建物内部から9世紀末~10世紀前半の調理具・日常食器類が出土
以上からこれらの掘立柱建物跡は、僧房跡と研究者は判断します。
僧坊は掘立柱建物で数回建て替えています。また埋土からは須恵器・土師器・黒色土器の日常食器類(8世紀後半~12世紀)が多量に出土しているので、僧侶が生活していた僧坊跡と推測できます。ちなみに、Aゾーンからは僧坊跡は発見されていません。Bゾーンから僧坊が出てくることについて、山岳信仰に基づく場として、B地区がまず開発されたからと研究者は考えています。以上からB地区は、割拝殿と僧房がある生活と修行の場であり、中寺廃寺の出現の先駆けとなったエリアであったことを押さえておきます。

この中で研究者が注目するのは、僧房跡から出土した西播磨産の須恵器多口瓶です。

中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
須恵器多口瓶の出土状況(Bゾーン 僧坊跡)

発掘当時のことを担当者は次のように記しています。

「普通の須恵器の甕か」と思いきや、取り上げてみると、なで肩の肩部に突帯が巡る広口壷であることが判明しました。突帯が巡る壷は特殊なもので、県内では出土例に乏しい資料になります。もしかすると多口瓶(たこうへい)かもしれません。多口瓶とは、広口壺の肩部に四方向の注ぎ口がある不思議な形の壷です。出土した広口壺の製作された時期は正確には分かりませんが、10世紀前後のものと考えています。多口瓶は仏具と言われているため、開法寺跡との関連も想定できます。その一方、多口瓶ではなく、肩部に突帯が巡る特殊な貯蔵具である可能性もあり、国府で使用された可能性も否定できません。とても小さな破片ですが、興味深い遺物です。(11月8日)

その後、復元すると次のような姿になりました。

中寺廃寺跡の多口瓶

中寺廃寺 多口瓶

 多口瓶は奈良・平安時代の寺院遺跡から多く出土しています。中には平城京薬師寺跡例のような奈良三彩の製品もある仏具です。ちなみに、香川県では高松市千間堂跡の礎石建物跡から、須恵器多口瓶が体出土していますが、こちらは地元の綾川町の陶(十瓶山)甕窯跡群で造られた物です。


屋島寺千間堂跡 多口瓶

讃岐周辺で出土している多口瓶 屋島寺前身の千間堂からも出土

これに対して中寺廃寺のものは、研究者の調査活動の結果、西播磨の窯で造られたことが分かりました。中寺廃寺は、わざわざ仏具である多口瓶を、西播磨から取り寄せたことがうかがえます。
 もうひとつ注目される土器破片が越州窯系青磁碗です。
 僧房跡を取り巻く溝から出土した中国浙江省越州窯産の青磁碗は、艮質の土を用いた精製品と研究者は評します。形状から9世紀後半から11世紀中葉までのもののようです。これは非常に高価なもので、国府・郡衙などの国の関係施設や、大規模な港などの遺跡から出てくるもののようです。非常に貴重な中国製青磁を所有していた中寺廃寺の財政基盤がうかがえます。ここでは、②③の遺物は海を越えて持ち込まれたもので、大変貴重な品です。中寺は、このような品を取り寄せることのできる力を持っていたことを押さえておきます。
 最後に、前回お話ししたように雑密の古式三鈷杵・錫杖頭の破片です。 

中寺廃寺 三鈷杵破片2

Bゾーンの僧房跡付近から出土した三鈷杵と錫杖頭は、空海らが伝えた密教より古い特徴を持ちます。古密教(雑密)の修法に使われていたものが、荒行の中で壊れ捨てられたことが考えられます。これも初現期の中寺廃寺が、古密教の拠点であったことを裏付ける材料になります。

以上をまとめておきます。
①霊山大川山への山岳信仰の拠点として、中寺廃寺のBゾーンは現れた。
②そこには、他に先駆けて8世紀末に割拝殿や僧坊が姿を見せる。
③割拝殿は、正面(東)を大川山に向け、その前の広場が祈りの空間となっていた。
④割拝殿の下には、僧坊が並び、長期間にわたって建て替えられ、活動拠点となっていた。
⑤僧坊跡からは、仏具として西播磨産の多口瓶や、中国の越州窯系青磁碗が出土している。
⑥これらは当時としては貴重品で、それを手に入れるだけの財力やネットワークを中寺廃寺がもっていたことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
関連記事

   

大川山は、たおやかに連なる阿讃山脈の中にポツンと抜け出たピラミダカルな姿が印象的です。古くから霊山として人々の信仰対象になっていたことがうかがえます。その前衛峰P753mの直下に、古代の山林寺院がありました。

中寺廃寺地図10

中村廃寺の展望台から望む景色は絶景です。足下には、満濃池が横たわり、輝く湖面を見せています。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺の展望台 満濃池が足下に見える
丸亀平野には飯野山・五岳・象頭山など、おむすび山の甘南備山がいくつも顔を見せ、箱庭のようです。遙かには塩飽諸島や庄内半島も望めます。

中寺廃寺 大川からの遠望

修験者にとて展望がある霊山というのは魅力であったようです。空海の若い頃に行った阿波の大滝山や土佐の室戸での修行を見てみると、座禅と行道が中心です。行道は行場と行場を早駆けすることです。この中寺廃寺と霊山である大川山でも、何度も往復する行道が行われていたはずです。それが中世には中寺廃寺を別当寺(神宮寺)、大川山山頂の神社を信仰する神仏混淆の山岳信仰のスタイルが出来上がっていきます。今回は、中寺廃寺が現れる以前の信仰を見ていくことにします。テキストは「上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。 

中寺廃寺 エリア分類
中寺廃寺の4つのゾーン
中寺廃寺は、次の4つのゾーンから構成されています。
Aゾーン(仏ゾーン)  仏堂と塔のある宗教的な中核エリア
Bゾーン(祈りゾーン) 霊山大川山への祈りを捧げる割拝殿と僧坊
Cゾーン 祈りのための石塔が人々によって捧げられた谷間の空間
Dゾーン 古代中世の中寺廃寺が退転した後の宗教空間
この中で最も早く登場するのがBゾーンです。初期の山林修行の活動痕跡が残っているBゾーンから見ていくことにします。

中寺廃寺  全景


Bゾーンは大川山に向かって張り出した尾根上に位置します。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
発掘中のBゾーン 割拝殿

Bゾーンからはm上中下三段の平場において、割拝殿(仏堂跡?)と僧房跡数棟が出てきました。
その発掘の過程で出てきたのが、次の銅製の破片です。

中寺廃寺 錫杖


IMG_0054
これを何だと思いますか? ヒント 空海も使っていたものです。

中寺廃寺 三鈷杵・錫杖破片

これは、三鈷杵と錫杖の破片だそうです。しかし、空海がもたらしたとされる三鈷杵とは、少し形がちがいます。空海伝説で語られる「飛行三鈷杵」を見ておきましょう。
飛行三鈷杵 弘法大師行状絵詞
飛行三鈷杵 明州から三鈷法を投げる空海(高野空海行状図画)
空海が唐からの帰国の際に明州(寧波)の港から「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて三鈷杵を投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。この時の「飛行三鈷杵」とされているものが高野山にはあります。

飛行三鈷杵2

飛行三鈷杵3

この「飛行三鈷杵」は御影堂宝庫に秘蔵され、50年ごとの御遠忌のときに、参詣者に披露されてきたとされます。現在は重文になっています。この三鈷杵とさきほどの中寺廃寺跡からでてきたものを比べると、形が少し違います。研究者は中寺廃寺跡出土のものの方が古く、空海以前の雑密(雑多な密教修験者)修行者が使っていたスタイルだと指摘します。そうすると中寺廃寺では、空海が現れる前から山林修行者が活動していたことになります。

中寺廃寺 三鈷杵破片2


この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。髙松周辺の四国霊場は、観音霊場巡りで結ばれていたことは以前にお話ししました。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったでしょう。
延暦16(797)年、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽(太龍寺)
②土佐室戸岬(金剛頂寺)
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
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中寺廃寺のB地区の割拝殿や僧坊は、8世紀末まで遡るとされる。

中寺廃寺が8世紀末期には、すでにあったとすれば、それはまさに四国で空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。善通寺に近い中寺を、若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。平城京の大学をドロップアウトした後の空海の足取りは謎とされています。しかし、雑密の山林修行者の集団の中に身を投じたことに間違いはないようです。そのひとつが故郷の讃岐で最も著名であった山林寺院の中寺廃寺であったという説です。

空海入唐 太政官符
  延暦24年(805)9月11日付太政官符(平安末期の写し)

ここには「延暦22年4月7日 出家」と見えます。補足して意訳変換するとすると次のような意になります。
「空海が出家し入唐することになったので税を免除するように手続きを行え」

ここから分かるように、古代律令国家では、出家得度認可権は国家が握っていました。得度が認められた僧尼は国家公務員として、徴税免除となり鎮護国家を祈願しました。国家公務員としての高級僧侶たちに「庶民救済」という視点は薄かったのです。鎮護国家の祈願達成のために、多くの僧が国家直営寺院で同じ法会を行いました。一方で、僧は清浄を保ちながらも、かつ山林修行を通じて個々の法力を強化することが求められました。高い法力を示すためには、厳しい修行が必要とされたのです。ゲームの世界に例えると、ボスキャラを倒すためには、ダンジョンで修行してパワーポイントを貯めることが攻略法の第一歩なのと似ているかもしれません。そのような視点で、中寺廃寺のBゾーンを見てみると、8世紀後半の土器類や、古式の三鈷杵や錫杖が出土していることに研究者は注目します。
 養老「僧尼令」禅行条は、禅行修道のために籍のある寺を離れて山居を求める場合の手続きについて、以下のように規定します。

在京の僧尼の場合は、三綱の連署をもらい、僧綱・玄蕃寮を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。地方の僧尼の場合は、三綱と国郡司を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。その山居の場となる国郡は、僧尼の居る山を把握しておかねばならず、勝手に他所に移動してはならない

ここからは律令国家が国家公務員としての僧侶が山林行を行う事を法的に認めていたことが分かります。また、「山居の場となる僧尼の居る山を把握し、山林修行の場を、国衙や郡衙は把握せねばならない」という規定は、修行拠点となる山林寺院を国衙や郡衙は把握しておかなければならなかったことになります。最澄や空海も、こうした法的規制下にあったはずだと研究者は考えています。。 
 山林寺院にかかわる養老「僧尼令」の非寺院条を見ておきましょう。
ここには僧尼が所属する寺院以外に道場を建てて、衆を集めて教化し、みだりに罪福を説くことを禁じています。この道場を山林寺院とみなし、天平宝字8年(764)の詔勅で、逆党の徒が山林寺おいて僧を集めて読経悔過するのを禁じたとする説があります。つまり、当時の山林寺院が律令国家の仏教政策に背いたためだと云うのです。しかし、この法令は道鏡政権が、勝手な布教活動や反国家政治集会を禁止したもので、山林寺院の存在そのものを否定したものではないと研究者は考えています。
 『続日本紀』宝亀(770)10月丙辰には、次のように記します。
天平宝字8年の禁制の結果、

「山林樹下、長く禅差を絶ち、伽藍院中、永く梵響を息む」

山林修行が行われなくなり、修行を行う僧侶がいなくなり弊害が生じたことを嘆き、山林修行の復活を願い出ています。これに応えて、光仁・桓武政権は浄行禅師による山林修行を奨励するようになります。山林寺院を拠点とした山林修行は、国家とって必要な存在とされていたことを押さえておきます。
 
 中寺廃寺は、讃岐・阿波国境近くにあります。古代山林寺院が律令制下の国境近くに立地する意味について、次のようなことが指摘されています。
①兵庫県の山林寺院の分布を総合的に検討した浅両氏は、その間に摂津・播磨・丹波三国の国境線をむすぶ情報網があったこと
②加賀地域の山林寺院を検討した堀大介は、8・9世紀の山林寺院が国境・郡境沿いに展開すること
国境管理と山林寺院が密接な関係にあったことを押さえておきます。

律令時代の国境は、次のように国街が直接管理すべき場所でした。
A 大化「改新之詔」では、京師・畿内について、「関塞設置」の規定があります。
B 『日本書紀・出雲国風土記』は、隣接する伯香・備後・石見国との国境に、常設・臨時設置の関があったことを記します。
C 関を通過するための通行手形(過所木簡)などの史料から、7世紀後半以降、9世紀に至るまで、国境施設が具体的に機能していたことが分かります。
   中寺廃寺が讃岐と阿波の国境近くに建てられたのも、国衙が直接管理する施設が国境近くにあったことと無関係ではないようです。つまり、国境パトロールの役割が中寺廃寺にはあったという説です。行場から行場への厳しい行道を繰り返す山林修行者に、その役割が担わされていたのかもしれません
以上を整理しておくと
①大川山は丸亀平野から仰ぎ見る霊山として古代から信仰を集めていた
②8世紀後半になると、山林修行者が大川山周辺で山林修行を行っていたことが分かる。
③それは山林修行者の拠点となった中寺廃寺跡から8世紀後半の土器や、雑密時代の古式法具が出てきていることが裏付けとなる
④8世紀末は空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の群れの中に身を投じる時期と重なる。
⑤四国の大滝さんや室戸・石鎚の行場で、修行した空海は、讃岐国衙管理下にあった中寺廃寺で修行したことが考えられる。
⑥真言・天台の密教勢力が強くなると、護摩祈祷のためには強い法力が必要で、そのためには修行を行い験を高めることが必要とされるようになった。
⑦そのため国家公務員のエリート僧侶の中にも、空海に習って山岳修行を行うものが増えた。
⑧それに対応するために、讃岐国衙主導で中寺廃寺は建立された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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 「この季節の中寺廃寺は紅葉がいいですよ。江畑道からがお勧めです」とある人から言われて快晴の秋空の下、原付バイクを江畑の登山口めざして走らせました。グーグルマップで「江畑道駐車場」と検索すると出てくる駐車場が中寺廃寺への登山口になります。

中寺廃寺 江畑登山口HPT
中寺廃寺 江畑登山口

すぐに尾根にとりつきます。しばらくは急勾配が続きますが、この道はもともとは江畑から大川山への参拝道でもあり、徳島側の大平集落を経て阿波との交易路でもあった道です。さらに旧満濃町と仲南町の町境でもあった旧街道で、歴史を経た道は歩きやすい、しっかりとした道でハイキングにはもってこいです。しかも、迷い込み易い分岐には標識がつけられているので安心して歩けます。

中寺廃寺 江畑道
江畑道と柞木道の合流点
 傾きが緩やかになると標高700㍍付近です。気持ちのいい稜線を歩いて行くと鉄塔が現れ、さらに進むと左手から柞野(くにぎの)道との合流点と出会います。最後の階段を登ると展望台です。ここからの展望は素晴らしい。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺の展望台 
説明板に「讃岐山脈随一の展望台」と書かれています。確かに180度以上のワイドな展望が広がります。象頭山を枕に満濃池がゆったりと横たわる姿。その彼方には荘内半島や燧灘に浮かぶ伊吹島。そして丸亀平野には神がなびく山である飯野山。1時間弱の山道を頑張って登ってきたことへの天からのご褒美かもしれません。

中寺廃寺からの満濃池
中寺廃寺展望台からの満濃池
 東屋で、この絶景を独り占めしながら昼食。その後は中寺廃寺跡の散策です。この辺りは、「中寺」という地名が残り大川七坊といわれる寺院が山中にあったと伝えられてきました。しかし、寺院のことが書かれた文書はなく、長らく幻の寺院だったのです。それが発掘調査の結果、展望台の周辺から仏堂、僧坊、塔などの遺構が出てきました。現在では「仏・祈り・願」の3つのゾーンを遊歩道で結び、山上の文化公園として整備されています。

中寺廃寺跡地図1
 中寺廃寺は3つのゾーンに分かれている
まずは「祈り」ゾーンへと向かいましょう。
ここには割拝殿と小規模な僧の住居跡があったようです。

中寺廃寺からの大川神社
割拝殿跡から見上げる大川権現(大川山)
僧侶達は、ここに寝起きして聖なる大川山を仰ぎ見て、朝な夕なに祈りを捧げていたのでしょう。昔訪れた四国霊場横峰寺の石鎚山への礼拝所の光景が、私の中では重なってきました。

大川山 中寺廃寺割拝殿
割拝殿と小規模な僧の住居跡

 松林の間を抜けて、今度は「仏ゾーン」へ向かいます。
ここには、仏堂と塔があったようです。遺構保護のため、埋め戻して元の礎石によく似た石で礎石の位置が示されています。その礎石に腰掛けて、千年前のこの山中に建っていた塔をイメージしようとしました。がなかなか想像できません。どちらにしても、この寺は平安期においては讃岐においては、有力な山岳寺院でした。

まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺の仏堂と塔
 最後に訪れたのが避難所兼お手洗い。なんとバイオトイレです。まんのう町では、初お目見えではないでしょうか。紅葉の季節、落葉の絨毯を踏みしめての中寺廃寺参拝は如何ですか?
まんのう町報2018年12月原稿分
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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(詳細版)




   四国88ヶ所霊場の内の半数以上が、空海によって建立されたという縁起や寺伝を持っているようです。しかし、それは後世の「弘法大師伝説」で語られていることで、研究者達はそれをそのままは信じていないようです。
それでは「空海修行地」と同時代史料で云えるのは、どこなのでしょうか。

延暦16(797)、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽
②土佐室戸岬
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
そこには、今は次のような四国霊場の札所があります。
①大滝嶽には、21番札所の大龍寺、
②室戸崎には24番最御崎寺
④石峯(石鎚山)には、横峰寺・前神寺
この3ケ所については『三教指帰』の記述からしても、間違いなくと研究者は考えているようです。

金山 出石寺 四国別格二十霊場 四国八十八箇所 お遍路ポータル
金山出石寺(愛媛県)

ちなみに③の「金巌」については、吉野の金峯山か、伊予の金山出石寺の二つの説があるようです。金山出石寺については、以前にお話したように、三崎半島の付け根の見晴らしのいい山の上にあるお寺で、伊予と豊後を結び航路の管理センターとしても機能していた節があります。また平安時代に遡る仏像・熊野神社の存在などから、この寺が「金巌」だと考える地元研究者は多いようです。どうして、この寺が札所でないのか、私も不思議に思います。さて、これ以外に空海の修行地として考えられるのはどこがあるのでしょうか? 今回は讃岐人として、讃岐の空海の修行地と考えられる候補地を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」です。
武田 和昭

 仏教説話集『日本霊異記』には、空海が大学に通っていた奈良時代後期には山林修行僧が各地に数多くいたことが記されています。その背景には、奈良時代になると体系化されない断片的な密教(古密教=雑密)が中国唐から伝えられます。それが山岳宗教とも結び付き、各地の霊山や霊地で優婆塞や禅師といわれる宗教者が修行に励むようになったことがあるようです。空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の道に入るのも、そのような先達との出会いからだったようです。
 人々が山林修行者に求めたのは現世利益(病気治癒など)の霊力(呪術・祈祷)でした。
その霊力を身につけるためには、様々の修行が必要とされました。ゲームに例えて言うなれば、ボス・キャラを倒すためには修行ダンジョンでポイントやアイテム獲得が必須だったのです。そのために、若き日の空海も、先達に導かれて阿波・大滝嶽や室戸崎で虚空蔵求聞持法を修したということになります。つまり、高い超能力(霊力=験)を得るために、山林修行を行ったとしておきます。
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 2万6千人を鑑定!9割以上が納得の ...

 以前にお話ししたように、求聞持法とは虚空蔵吉薩の真言

「ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」

を、一日に一万遍唱える修行です。それを百日間、つまり百万遍を誦す難行です。ただ、唱えるのではなく霊地や聖地の行場で、行を行う必要がありました。それが磐座を休みなく行道したり、洞窟での岩籠りしながら唱え続けるのです。その結果、あらゆる経典を記憶できるという効能が得られるというものです。これも密教の重要な修行法のひとつでした。空海も最初は、これに興味を持って、雑密に近づいていったようです。この他にも十一面観音法や千手観音法などもあり、その本尊として千手観音や十一面観音が造像されるようになります。以上を次のようにまとめておきます。
①奈良時代末期から密教仏の図像や経典などが断片的なかたち、わが国に請来された。
②それを受けて、日本の各地の行場で修験道と混淆し、様々の形で実践されるようになった
③四国にも奈良時代の終わり頃には、古密教が伝来し、大滝嶽、室戸崎、石鎚山などで実践されるようになった。
④そこに若き日の空海もやってきて山林修行者の群れの中に身を投じた。
 讃岐の空海修行地候補として、中寺廃寺からみていきましょう。
大川山 中寺廃寺
大川山から眺めた中寺廃寺
中寺廃寺跡(まんのう町)は、善通寺から見える大川山の手前の尾根上にあった古代山岳寺院です。「幻の寺院」とされていましたが、発掘調査で西播磨産の須恵器多口瓶や越州窯系青磁碗、鋼製の三鈷杵や錫杖頭などが出土しています。

中寺廃寺2
中寺廃寺の出土品
その内の三鈷杵は古密教系に属し、寺院の建立年代を奈良時代に遡るとする決め手の一つにもなっています。中寺廃寺が八世紀末期から九世紀初頭にすでにあったとすれば、それはまさに空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。ここで若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。
 この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったようです。
 讃岐と瀬戸内海をはさんだ備前地方には平安時代初期の千手観音像や聖観音立像などが数体残されています。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト

その中の大賀島寺(天台宗)の千手観音立像(像高126㎝)については、密教仏特有の顔立ちをした9世紀初頭の像と研究者は評します。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト
大賀島寺(天台宗)の千手観音立像

この仏からは平安時代の初めには、規模の大きな密教寺院が瀬戸内沿岸に建立されていたことがうかがえます。中寺廃寺跡は、これよりも前に古密教寺院として大川山に姿を見せていたことになります。

 次に善通寺の杣山(そまやま)であった尾野瀬山を見ていくことにします。
中世の高野山の高僧道範の「南海流浪記」には、善通寺末寺の尾背寺(まんのう町春日)を訪ねたことを、次のように記します。

尾背寺参拝 南海流浪記

①善通寺建立の木材は尾背寺周辺の山々から切り出された。善通寺の杣山であること。
②尾背寺は山林寺院で、数多くの子院があり、山岳修行者の拠点となっていること。
 ここからは空海の生家である佐伯直氏が、金倉川や土器川の源流地域に、木材などの山林資源の管理権を握り、そこに山岳寺院を建立していたことがうかがえます。尾背寺は、中寺廃寺に遅れて現れる山岳寺院です。中寺廃寺の管理運営には、讃岐国衙が関わっていたことが出土品からはうかがえます。そして、その西側の尾背寺には、多度郡郡司の佐伯直氏の影響力が垣間見えます。佐伯家では「我が家の山」として、尾野瀬山周辺を善通寺から眺めていたのかもしれません。そこに山岳寺院があることを空海は知っていたはずです。そうだとすれば、大学をドロップアウトして善通寺に帰省した空海が最初に足を伸ばすのが、尾野瀬山であり、中寺廃寺ではないでしょうか。
 ちなみにこれらの山岳寺院は、点として孤立するのではなく、いくつもの山岳寺院とネットワークで結ばれていました。それを結んで「行道」するのが「中辺路」でした。中寺廃寺を、讃岐山脈沿いに西に向かえば、尾背寺 → 中蓮寺跡(財田町) → 雲辺寺(観音寺市)へとつながります。この中辺路ルートも山林修行者の「行道」であったと私は考えています。
 しかし、尾背寺については、空海が修行を行った時期には、まだ姿を見せていなかったようです。
 さらに大川山から東に讃岐山脈を「行道」すれば、讃岐最高峰の龍王山を越えて、大滝寺から大窪寺へとつながります。
 大窪寺は四国八十八ケ所霊場の結願の札所です。

3大窪寺薬師如来坐像1

大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
以前にお話したように、この寺の本尊は、飛鳥様式の顔立ちを残す薬師如来坐像(座高89㎝)で、胴体部と膝前を共木とする一本造りで、古様様式です。調査報告書には「堂々とした姿態や面相表現から奈良時代末期から平安時代初期の制作」とされています。

4大窪寺薬師側面
        大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理後)

 また弘法大師が使っていたと伝わる鉄錫杖(全長154㎝)は法隆寺や正倉院所蔵の錫杖に近く、栃木・男体山出上の平安時代前期の錫杖と酷似しています。ここからは大窪寺の鉄錫杖も平安時代前期に遡ると研究者は考えています。
 以上から大窪寺が空海が四国で山林修行を行っていた頃には、すでに密教的な寺院として姿を見せていたことになります。
 大窪寺には「医王山之図」という寺の景観図が残されています。
この図には薬師如来を安置する薬師堂を中心にして、図下部には大門、中門、三重塔などが描かれています。そして薬師堂の右側には、建物がところ狭しと並びます。これらが子院、塔頭のようです。また図の上部には大きな山々が七峰に描かれ、そこには奥院、独鈷水、青龍権現などの名称が見えます。この図は江戸時代のものですが、戦国時代の戦火以前の中世の景観を描いたものと研究者は考えています。ここからも大窪寺が山岳信仰の寺院であることが分かります。
 また研究者が注目するのが、背後の女体山です。
これは日光の男体山と対比され、また奥院には「扁割禅定」という行場や洞窟があります。ここからは背後の山岳地は山林修行者の修行地であったことが分かります。このことと先ほど見た平安時代初期の鉄錫杖を合わせて考えれば、大窪寺が空海の時代にまで遡る密教系山岳寺院であったことが裏付けられます。

 空海の大学ドロップアウトと山林修行について、私は、最初は次のように思っていました。
 大学での儒教的学問に疑問を持った空海は、父・母に黙ってドロップアウトして、山林修行に入ることを決意した。そして、山林修験者から聞いた四国の行場へと旅立っていった。
しかし、古代の山林修行は中世の修験者たちの修行スタイルとは大きく違っている点があるようです。それは古代の修行者は、単独で山に入っていたのではないことです。
五来重氏は、辺路修行者と従者の存在を次のように指摘します。
1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。「勧進帳」の安宅関のシーンで強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。

空海も従者を伴っての山岳修行だったと云います。例えば、修行者は食事を作りません。従者が鍋釜を担いで同行し、食料を調達し、薪を集め食事を準備します。空海は、山野を「行道」し、石の上や岬の先端に座って静かに瞑想しますが、自分の食事を自分で作っていたのではないと云うのです。
それを示すのが、室戸岬の御蔵洞です。
御厨人窟の御朱印~空と海との間には~(高知県室戸市室戸岬町) | 御朱印のじかん|週末ドロボー

ここは、今では空海の中に朝日入り、悟りを開いた場所とされています。しかし、御蔵洞は、もともとは御厨(みくろ)洞で、空海の従者達の生活した洞窟だったという説もあります。そうだとすれば、空海が籠もった洞は、別にあることになります。どちらにしても、ここでは空海は単独で、山林修行を行っていたわけではないこと、当時の山岳修行は、富裕層だけにゆるされたことで、何人もの従者を従えての「特権的な修行」であったことを押さえておきます。
五来重氏の説を信じると、修行に旅立つためには、資金と従者が必要だったことになります。
それは父・田公に頼る以外に道はなかったはずです。父は無理をして、入学させた中央の大学を中退して帰ってきた空海を、どううけ止めたのでしょうか。どちらにしても、最終的には空海の申し入れを聞いて、資金と従者を提供する決意をしたのでしょう。

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出釈迦寺奥の院(善通寺五岳 我拝師山)
 その間も空海は善通寺の裏山である五岳の我拝師山で「小辺路」修行を行い、父親の怒りが解けるのを待ったかもしれません。我拝師山は、中世の山岳行者や弘法大師信仰をもつ高野聖にとっては、憧れの修行地だったことは以前にお話ししました。歌人として有名で、高野聖でもあった西行も、ここに庵を構えて何年か「修行」を行っています。また、後世には弘法大師修行中にお釈迦様が現れた聖地として「出釈迦」とも呼ばれ、それが弘法大師尊像にも描き込まれることになります。弘法大師が善通寺に帰ってきていたとした「行道」や「小辺路」を行ったことは十分に考えられます。
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出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 父親の理解を得て、善通寺から従者を従えて目指したのが阿波の大瀧嶽や土佐・室戸崎になります。そこへの行程も「辺路」で修行です。尾背寺から中寺廃寺、大窪寺という山岳辺路ルートを選び、修行を重ねながら進んだと私は考えています。

  以上をまとめておきます
①空海が修行し、そこに寺院を開いたという寺伝や縁起を持つ四国霊場は数多くある。
②しかし、空海自らが書いた『三教指帰』に記されているのは、阿波大滝嶽・土佐室戸岬
金巌(金山出石寺)・石峰(石鎚山)の4霊場のみである。
③これ以外に讃岐で空海の修行地として、次の3ケ所が考えられる
  善通寺五岳の我拝師山(出釈迦)
  奈良時代後半には姿を見せて、国が管理下に置いていた中寺廃寺(まんのう町)
  飛鳥様式の本尊薬師如来をもち、山林修行者の拠点であった大窪寺

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」

 大川山 割拝殿から
中寺廃寺割拝殿跡から見上げる大川山

大川山を仰ぎ見る中寺廃寺の礎石に座って考えたことが今回のお題です。中寺廃寺からは銅製の密教法具である錫(しやく)杖(じよう)や三鈷杵(さんこしよう)の破片が出土しています。そこから修験者が、寺院が建てられる前から小屋掛け生活して、周辺の行場を回りながら「修行」をしていたことがうかがえます。また、出土した法具は、空海が唐から持ち帰る以前の古い様式のものです。つまり「空海以前」に中寺廃寺は存在し、行者達の修行が行われていたようです。

大川山 中寺廃寺

 空海が密教を志した8世紀後半は、呪法「虚空蔵求聞持法(ごくぞうぐもんじほう)」の修得のため、山林・懸崖を遍歴する僧侶が現れた時期でした。中寺廃寺は、これにうってつけの場所で壊れた法具の破片は厳しい自然環境の中、呪力修得にむけ厳しく激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を、物語っているようにも思えます。そして、その中に若き空海の姿もあったかもしれません。

まんのう町中寺廃寺仏塔
中寺廃寺の仏塔復元図
 大川山信仰に始まるこの聖地に、仏堂・割(わり)拝(はい)殿(でん)や僧房などが建てられ、讃岐国の中で重要な山岳寺院に発展していくのが十世紀頃とされます。ところで山岳修行は、寺院というハコモノがなくともできます。
ではなぜ、この時期に、この山奥に寺院が建立されたのでしょうか。
 まず、その立地条件です。今は「山奥」ですが、かつては讃岐と阿波をつなぐ「街道」がいくつも近くを通っていました。また周辺山間部は、炭・漆・粉板(屋根葺き材)などの産地として有名で、豊富な山の資源が得られる場所でもありました。平安時代には、地方豪族や大寺院による山野の囲い込みと開発が進んだと云われます。こうした動きと山岳寺院の建立とは深い関わりがあるようです。同時期の金倉寺や道隆寺など、平野部での新たな寺院建設も、平野や海浜部での開発と関係します。これらが十世紀前後からの「第二の寺院建設ブーム」を生みだし、学問寺や修行道場(山岳寺院)といった今までにないスタイルの「思索の場としての寺院」が生まれる背景があります。その整備が後の空海をはじめとする讃岐出身の高僧輩出を、もたらすことにつながります。

大川山 中寺廃寺割拝殿
中寺廃寺割拝殿復元図

 中寺廃寺が、修行の場から山岳寺院へと変貌し、建物が建設されはじめるのが十世紀前後です。
それは、山岳寺院のネットワーク形成のスタートでもありました。この寺の西には野口ダムの谷を挟んで尾野背寺、さらに讃岐山脈の稜線をたどれば中蓮寺から雲辺寺と山岳寺院が山上に続きます。それは遠く石鎚まで伸びています。そして目を里に向ければ、種子には宗教荘園が開かれ金剛院が、その宗教センターとして機能するようになります。これらの山岳密教寺院は孤立していたのでなく、行(ぎよう)場(ば)ネットワークとして結ばれていたのです。各地に開かれた行場を「辺路修行」することが「四国遍路」につながります。つまり、ここは四国霊場の原初的な姿が見える所でもあるのです。
参考文献

 大川神社の本殿が改修されることになり、壊す前に本殿の調査が京都大学工学部建築史学講座によって行われたようです。その調査報告書を図書館で見つけましたので、読書メモ代わりにアップしておきます。
  テキストは 大川神社本殿・随身門調査報告書 京都大学工学部建築史学講座です。この題を見て、大川神社に随身門なんてあったかいな? というのが第一印象でした。
大川神社の随身門は、どこにあるのでしょうか? 
大川神社 1

幕末の「讃岐国名勝図会」には、大川山の頂上に大川神社が鎮座しているのが描かれています。しかし、山頂付近には随身門は見当たりません。随身門があるのは、麓の中通(なかと)村から野口川沿いの参道を登った中腹です。
まずは、今まで見逃していた随身門から見ていきましょう

大川神社随身門1
大川神社 随身門 車道の上に鎮座 
随身門があるのは、野口からの登山道コースの途中です。この門は、中通から野口川を遡って大川神社へ至る参道にあり、幕末期に高松藩主が鷹狩の際に登った記録があります。近世には、野口ルートが大川神社参拝の正式ルートであったようです。

大川神社 随身門3
大川神社 随身門 登山道下から

 かつて集団登山で、このコースを歩いていたことを思い出しました。その時に、この門を通過し、車道を横切って山頂へと歩んだはずなのですが、記憶にないのです。その頃はこの門に気を配るだけの心のゆとりはなかったのかもしれません。

大川神社 随身門正面図
随身門について報告書は、次のように記します
構造形式
桁行正面三間 梁間二間 
入母屋造 セメント瓦葺
角柱 床枢 内法貫 中央間のみ虹梁形内法貫 
組物なし
中備正背而中央間のみ慕股 
一軒疎垂木 妻飾縦板壁
建立年代 19世紀中期
大川神社 随身門全景図

研究者の説明は次の通りです
随身門は比較的小規模な八脚門である。
桁行三間の中央間を九尺強、両脇間を五尺強と、中央間を相当広くとっている。その中央間を通路とし、両脇間には床を張って、後方一間四方に随身を祀る。随身の周りは側・背面を板壁、正面を両開きの格子戸とする。随身の前の一間四方は床張りで、現状では妻側に板壁がある以外、残る二面の柱間は開放である。

IMG_0016

正面・棟通り,背面の中央間は内法貫を虹梁形としており、正面両端間は直材であるが、絵様を彫って虹梁風に仕上げている。正面や通路部分を飾ろうという意識で造られていると考えられる。正背面の虹梁形内法貫には中備の募股を置く。
  しかし組物は組まず、妻飾も板張りで、装飾的な要素は極めて少ない。

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内部は天丼を張らず、東組の小屋組が見えている。
松材を用いており、通常とは異なる位置で継いでいる部材もあって、上質とは言えない。また正面両脇間には格子を填めていた痕跡があるが、格子そのものは一本も残していない。建立後の傷みは少なくない。
  痛みも進み、組み物もないようです。いたってシンプルな随身門です。どんな随身様がいらっしゃるのでしょうか?
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お参りをした後で覗かせていただきました。

大川神社 随身門15
大川神社 随身門の格子
赤い格子には「悦子 安産祈願」と黒く書き込まれています。近世の大川神社は安産祈願所と信者を集めていたなごりでしょう。

大川神社 随身門4
              大川神社 随身門の随身さん

棟札など建立年代が分かるものはないようです。ただ、門の前には「天保六未歳六月古日」|(1835)の刻銘のある燈籠が建っています。この燈籠の造られた頃に、随身門も同時に建立されたと研究者は考えているようです。そうすると19世紀半ばあたりで、幕末の頃になります。

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  この門から向こうが「神の山」、つまり神域と当時の人たちは思っていたのでしょう。ここで一息入れて、足下、身なりを整え、同時に心も参拝バージョンに入れ替えたのでしょう。門の向こうには鳥居が見えます。
大川神社 随身門2
大川神社の随身門横の大山祇神社
 大山祇神社が祀られています。三代記には、「大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。」と記されています。大川山がもともとは「大山」と表記されていたことを押さえておきます。ここにも手を合わせて「だいせんみち」を頂上に向かって歩み出していきます。

大川山 割拝殿から
中寺廃寺跡から望む大川山
次に大川神社の由来について見ていきます
大川神社については、確実な史料はありません。近世の地誌や縁起が残るだけです。
「讃岐国名勝図会」には、次のように記されています。

大川神社(略)社記曰く、当社は天平四年、天下大早して五穀登らず、六月朔日国務国司、神社を建立せり、社は南に向ふ、社前に小池あり、往古天台宗の寺あり、大早には土人集まり、鐘をならして雨を乞ふに霊応あり、寺は今廃せり、その後応安年中長尾某社殿を造営す、永禄年中生駒一正朝臣、元和・寛永年間高俊朝臣も造営あり、承応二年国祖君修造なしたまふ、その後焼失せしを、寛文十二年経営あり、今に至るまで世々の国君度々造営あり、一々挙ぐるに違あらず、往古より雨乞の時必ずここに祈るなり、寛保元年、国君より念仏踊の幣料として、毎歳米八斗をたまへり。
意訳変換しておくと
大川神社(略)の社記には次のように記されている。
 当社は天平四(732)年、大干ばつが全国を襲い、五穀が実らなかったので、六月朔日に国司が、大川山に神社を建立したのが始まりである。社は南面し、社前に小池があった。古くから天台宗の寺があったが今は廃絶した。旱魃の時には、地元の人たちが集まり、鐘をならして雨乞いを行うと霊験があり雨が降った。その後、
応安年中(1368年から1375年)に(西長尾城城主?)・長尾某氏が社殿を造営し
永禄年中(1558年から1570年)生駒一正朝臣(生駒親正の子で、生駒藩2代)
元和・寛永年間には、高俊朝臣も造営し、生駒藩の時代には代々に渡って保護を受け、改修が行われた。
承応二年(1653)には、高松藩国祖の松平頼重も修造を行った。
その後に焼失したが寛文十二年に再建された。このように今に至るまで、その時代の藩主によって繰り返し造営されてきており、一々挙げることができないほどである。いにしえより雨乞いの時には、当社で必ず祈った。寛保元年には、国君より念仏踊の幣料として、毎歳米八斗をいただいている。
ここには次のような事が主張されています
①奈良時代に国司が祈雨のために建てた神社であること
②天台宗寺院が近隣にあって、大川神社の祭祀を執り行っていたが、近世には廃絶したこと
③中世には地元の有力者長尾氏の庇護も受けたこと
④生駒藩3代の藩主によって保護され、改修や修理などが行われたこと
⑤高松藩初代松平頼重も改修を行い、その後は歴代高松藩主の保護を受けていること。

大川山 中寺廃寺割拝殿
中寺廃寺の大川山を拝む遙拝殿
①②からは、以前にお話しした中寺廃寺のことが思い浮かびます。
8世紀後半の空海の時代には、大川山の北の尾根上には国衙によって、官営的な山岳寺院が活動を行っていたことが発掘から分かっています。彼らは大川山を霊山として崇めながら山林修行をおこなっていたようです。神仏混淆の時代には、中寺廃寺の修験者たちが別当として、大川神社を管理していたのでしょう。注目しておきたいのは、ここではその寺院を天台寺院としていることです。どうして、そのような由来が語られるようになったのが気になるところです。
  雨乞いには伝統と霊験があり、古くから雨乞いの神社として歴代の藩主等の保護を受けていたことが語られています。
「増補三代物語」にも、ほぼ同様のことが次のように記されています。
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、
 寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也)
長いですがこれも一応、意訳しておきます
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。
 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。

ここから得られる情報ポイントを挙げていきましょう。
①社名を「大山大権現社」と「権現」しており、修験者の霊山となっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと
①④⑤などからは、里人から信仰を集めた霊山が、山林修行の僧侶(修験者)たちによって行場となり、そこに雨乞い伝説が「接木」されていく様子が見えてきます。
すこし寄り道、道草をします。⑤の大川山の由来について、すこし考えて見ます。
 仏教以前は、神が現れるのは自然のふところに抱かれた依り代と呼ばれる岩であり、岩窟であり、瀧であり、泉などでした。神は山川に周く満ちていました。仏教の伝来後は、人は神社や寺院などの建物の中に神仏を安置し、閉じ込めようとします。そのような中で人為的な社寺に対して、自然崇拝の霊場として「名山大川」という言葉が用いられるようになります。そこでは、土俗と習合したいろいろな雨乞いの方法が行われていたようです。律令政府の宗教政策で、自然崇拝は社寺に取り込まれていきますが、すべて消え去ることはありません。それらは民衆の信仰であり続けたし、官においても正式の社寺の祈雨で効果がないときは最後の頼みの綱ともなったのです。

大川山 中寺廃寺
平安時代の中寺廃寺のたたずまい

『続日本紀』などには「名山大川」という言葉が、雨乞い祈祷とともに出てきます。
そのひとつが室生龍穴で、古来から水神の霊地でした。ここは後に、室生寺が建立されて脚光を浴びるようになります。『日本紀略』延喜十年(910) 7月条「日来炎旱。詔諸國神社山川奉幣投牲。」のように、牲牛を龍穴に投じて犠牲として雨乞いを行ったようです。生け贄をともなう雨乞いは中国の道教系の雨乞いとされます。このように雨乞いが行われていた霊山が「名山大川」なのです。
「名山大川」の表現は延喜10年(910)が最後に、正史からは姿を消します。しかし、祈雨祭祀がおこなわれなくなったのではありません。自然の中での雨乞いは、それ以後も続きます。「名山大川」は元々中国の表現で、日本の実情とはちがったので「名山大川」という表現も使われなくなったと研究者は考えているようです。
 ここからは、もしかすると「大川山」という地名は「名山大川」に由来するのではないかという思いが湧いてきます。中寺廃寺から毎日、この山を崇拝する山林修行者が「名山大川」にちなんで、この山を「大川山」と呼ぶようになり、それがいつしか雨乞いの霊山とされるようになっていたとしておきましょう。

大川神社の由来に話をもどします。
⑥の歴代藩主の保護についてです
大川神社 棟札

『讃岐社寺の棟札』・『琴南町神社棟札』には、大川神社に残された棟札5枚が掲載されています。ここからは18世紀になって歴代高松藩の藩主の支援を受けて堂舎が「再興」されたことが分かります。
また、寛永五年(1628)には、讃岐藩生駒高俊の命によって雨乞い祈願のための鉦鼓三十数枚が寄進されたことが、残された寛永五年刻銘の鉦鼓から分かります。これらは大川神社や念仏踊を伝承する川東・中通・造田の各村に伝えられていて、記録を裏付けます。

 14世紀後期の長尾氏の社殿造営はともかくとしても、16世紀末以降、歴代藩主の庇護を受けて、社殿の造営がくり返されてきたことは事実のようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  修験道と山岳信仰の歴史を読書ノートとして、残しておきます。
テキストは   宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収です。
民俗学者は山岳信仰と宗教を次のように説明します。
生活の場所である「里」に対して、「お山」は「別の空間」で「聖なる空間」と、古代の人たちはとらえてきた。そして、どこに行っても山岳が見られる我が国では、山を聖地として崇拝する山岳信仰が昔からあり、それが、神道、仏教など影響を与えてきた。さらに山岳信仰を中心とする修験道も生み出してきた。
1出釈迦寺奥の院
善通寺市我拝師山
 
「お山」が崇拝の対象となるための条件とは何なのでしょうか?
それは、里から仰ぎ見られる場所にあることがまずは必須の条件だったようです。里の遠くかなたに見られるコニーデ型の美しい山、長く続く山系、畏怖感をひきおこす異様な山、噴煙をあげる火山などが、俗なる里に住む人々から聖地として崇められたのです。
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丸亀市八丈池からの飯野山

そうだとすれば丸亀平野には、飯野山をはじめ善通寺の五岳山、大麻山、城山、讃岐山脈の大川山など甘南備山がいたるところにあります。
 また里近くの小高い丘、こんもり茂った森山も崇拝の対象とされたようです。山の尾根が平野に下りてくる端に位置する小丘を端山(葉山)と呼んで拝んだりもしています。

1高屋神社
観音寺市七宝山稲積山
お山への信仰は、生活のあらゆる面に浸透していました
誕生の際の産神としての山の神、四月の山あそび、そして死後は死霊として山岳に帰り、浄よって祖霊からさらに川神になっていきます。
年間の行事をとって見ても、
正月の初山入り、
山の残雪の形での豊凶うらない、
春さきの田の神迎え、
旱魅の際山上で火を焚いたり、
山上の池から水をもらって帰る雨乞、
盆の時の山登りや山からの祖霊迎え、
秋の田の神送りなど、
主要な年中行事はほとんどお山と関係していたことが分かります。山岳やそこにいるとされた神霊は、里人の一生や農耕生活に大きな影響を与えていたのです。
「お山」は、稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されていました。
山から流れる水は、飲料水や濯漑用水として里人にとって大切なものでした。こうして山にいる神は、水を授けてくれる水分神として崇めるようになります。以前にお話しし三豊市・二宮川上流の式内社・大水上神社(二宮)は、水分神の住処がどんなところであるのかを、教えてくれる神社です。
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大水上神社の奥社
 水分神に代表される水の神は竜神とされ、蛇や竜がその使いとして崇められることが讃岐では多かったようです。これは善女龍王信仰として真言密教に取り込まれて寺院でも儀式化され、善通寺では藩主の要請で雨乞いが行われていくようにもなります。
5善通寺
善通寺境内の善女龍王社

 山岳の山の神は農民のみでなく、山中で仕事を行う木こり、木地屋などにも信仰されました。木こりは春秋二回、山の神にオコゼを供えて山仕事の安全などを祈りました。
漁民たちも山岳の神を航海の安全を守ってくれるものとして崇拝します。
これはお山が航海の目標(山立て)になるとこともありました。北前船の船頭達が隠岐の焼火山や、中国や琉球への航路の港としてさかえた薩摩の坊津近くの開聞岳などは航海の目標として崇められた山です。瀬戸内海にも船頭達が目印とした山が数多くありました。讃岐のおむすび型の甘南備山は、航海の目印にはぴったりでした。金毘羅大権現が鎮座した象頭山(大麻山)も、そのひとつとされます。

 里から見えるお山は、死霊・祖霊・諸精霊・神々のすむ他界、天界や他界への道、それ自体が神や宇宙というように、人間が住む俗なる里とは別の聖地であると信じられたようです。
日本の聖山ベスト30 修験道・山岳信仰のメッカと鉱物分布・忍術分布など比較して楽しむ 秦秦澄「飛び鉢」伝説 : 民族学伝承ひろいあげ辞典

  どのようにして修験者は登場したのか?
 古代の山麓には銅鐸・銅剣などの祭祀遺物が埋められていることから神霊の鎮まるお山を里から拝んで、その守護を祈るというスタイルがとられていたようです。お山は神霊や魔物の住む所として怖れられ、里人がそこに入ることはほとんどなかったようです。わずかに狩猟者などが山中に入っていくにすぎなかったのです。
 こうした狩猟者の中から、熊野の干与定、立山の佐伯有頼、伯者大山の依道などのように、山の神の霊異にふれて宗教者となって山を開いた者も出てきます。やがて仏教の頭陀行や道教の入山修行の影響を受けた宗教者や帰化人が山岳に入って修行をするようになります。彼らが修行した山岳は、一般の里人たちからは、死霊、祖霊、を与えるものとして畏れられていた所です。そこに入り、修行する行者たちは畏敬の念をもって見られ、宗教者として崇められるようになったと研究者は考えているようです。
修験道2

仏教と修験者の混淆
 奈良時代の山岳修行者は、山中で法華経や陀羅尼を唱えて修行することによって超自然力を獲得できると信じていました。お山を下りた後は、その力を用いて呪術的活動を行なうようになります。彼らの大部分は半僧半俗の優婆塞・優婆夷で政府から公認されぬ私度僧でした。のちに修験道の開祖とされる役小角も、こうした宗教者の一人にすぎませんでした。平安時代に入ると最澄、空海によって山岳仏教が提唱され、比叡山、高野山などの山岳寺院が修行道場として重視されるようになります。

4大龍寺2
阿波太龍寺の行場に座する空海像

    天台・真言の密教僧たちは、山岳に寵って激しい修行を行うようになります。
修行者だけでなく、信者の間でも、山岳で修行すれば呪験力をえ、すぐれた密教僧になることができると信じられるようになります。山岳修行によって験をおさめた密教僧(験者)は、加持祈祷の効果がいちしるしいと信じられもした。験を修めることが修験と呼ばれ、験を修めた宗教者は修験者と呼ばれるようになります。

四国辺路3 

現在のゲームの世界で云うと、ダンジョンで修行しポイントを貯めて、ボスキャラを倒してアイテムを揃えて「験を修め」、霊力を増していくという筋書きになるのでしょうか。
こうして修行のための山岳寺院が各地に建立されるようになります。以前にお話ししたまんのう町の大川山中腹に建立された中寺廃寺も国庁の公認の下に建立された山岳寺院です。ここでも大川山を霊山とする山岳信仰があったようです。
石鎚山お山開き4
 
全国各地の霊山と呼ばれるお山にある寺社には修験者が集まるようになります。
東北の羽黒山、北陸の立山、白山、関東の富士山、大和の金峰山、紀州の熊野、伯香の大山、四国の石槌山、豊前の彦山などはその代表的なものでしょう。これらのお山はそれぞれ独自の開山を持ち、それぞれの地域の修験者の拠点として栄えるようになります。そのなかで全国区の霊山に成長・展開していくのが、熊野と白山です。この二つは、全国各地に末社が勧請されて、全国展開を行います。
修験道 - ジャパンサーチ
修験者

 こうして平安時代に畿内に近い吉野の金峰山や熊野三山には、皇族や貴族たちも参詣するようになります。
中でも藤原道長の御岳詣、宇多法皇をはじめ歴代の院や皇族、公家などの熊野詣は有名です。この際に山中の道にくわしい先達(案内人)が必要でした。これを勤めたのが当時の「スーパー修験者」たちでした。
寛治四年(1090)、白河上皇の能野御幸の先達を勤めた園城寺の長吏増誉が、熊野三山検校に任ぜられます。その後は、熊野三山検校職が園城寺長吏の兼職となます。こうして能野関係の修験者は天台宗寺門派の園城寺が握るようになります。つまり、熊野信仰のチャンネルを天台系の寺院が独占したということです。
 鎌倉時代来になると、園城寺に替わって聖護院が熊野関係の修験者を統轄するようになり、本山派と呼ばれる集団を作りあげます。 

 これに対して、吉野側の金峰山からは、大和の法隆寺、東大寺松尾寺、伊勢の世義寺などの大和を中心とする近畿地方の諸寺院を拠点とした修験者が大峰山を修行の場としていました。これらの修験者は大峰山中の小笹を拠点にして、当山三十六正大先達衆といわれる修験集団を形成していきます。
こうして室町時代末になるとふたつの修験道集団が組織されます
①聖護院を本寺とする本山派、
②醍醐の三宝院と結びつく当山三十六正大先達衆
二つの修験集団は、峰人を中心とした教義や儀礼を次第にととのえていきます。また羽黒山、白山、彦山など地方の諸山も大きな勢力を持つようになります。まさに、中世は修験者が活躍した時代なのです。
当山派と本山派の装束の違い

室町時代末なると修験道は教義・儀礼・組織を整備し、教団として確立されます。
 修験道の教義は、修行道場である山岳の宗教的意味づけや峰人修行による験力の獲得に論理的根拠を与えるためのものでした。金峰山や熊野をはじめ、羽黒山・白山・彦山などにも縁起が作られ、それぞれの起源、開山の伝承、山中の霊所などの説明が行われるようになります。
現在の黒瀬ダム周辺

 お山を阿弥陀、観音、弥勒などのどの浄土とするかなどが絵解きで説明されるようになります。修験者は、本来仏性を持つ聖なる存在であるから、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・縁覚・菩薩・仏の十界に分けられ、懺悔、業秤(修行者を秤にかけてその業をはかる)、水断、開伽(水汲みの作法)、小木(護摩木の採集)、穀断などの正濯頂の十種の修行をすれば成仏することができるのだという思想も語られ始めます。彼らは「死」の儀礼ののちに峰中に入り、十界修行をすれば仏として再生しうると信じて修行に励んだのです。
第5節 修験道文化の民俗(t047_049.htm)

仏としての「能力・験力」を身につけた修験者は、それを誇示するために出峰後は「験競べ」を行ないます。
「験競べ」には、火の操作能力や剣の階段を昇って天界に達することを示す刃わたりなどのような奇術めいたものが多かったようです。神霊や魑魅魍魎が住むとされたお山で修行をし、全国各地を渡り歩いてきた修験者は不思議な呪験力を持つ宗教者として怖れられるようになります。当時は「祟り神」が畏れられた時代でもありました。多くの災厄が修験者の邪悪な活動のせいにされます。同時に、修験者の呪力に頼れば、除災招福、怨霊退散などの効果をもたらしうると信じられるようにもなります。
 源平の争い、南北朝時代など戦乱が相続き、人々が不安におののいた時、験力を看板にした修験者は宗教界のみでなく、政界にも大きな影響を与えるようになります。
修験道とは?天狗を山神に!?【修験道入門編】 | 宗教.jp

さらに修験者は山中の地理にくわしく、敏捷だったこともあって武力集団としても重視されるようになります。

源義経が熊野水軍を、南朝が吉野の修験を、戦国武将が間諜として修験者を用いたのは、こうした彼らの力に頼ろうとしたからだと研究者は考えているようです。
 江戸時代に入ると、修験道の力を警戒した江戸幕府は修験道法度を定め、全国の修験者を次のように分断していきます。
①聖護院の統轄する当山派と
②醍醐の三宝院が統轄する当山派
に分割し、両者を競合させる修験道の分断政策をとります。また羽黒山は、比叡山に直属し、彦山も天台修験別本山として独立させるなど、各勢力の「小型化」を計ります。
さらに幕府は修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとします。
 自由に全国を回って各地の霊山で修行を行うという「宗教的自由」は制限されます。移動の自由を奪われた修験者たちは、村や街に住み着く以外に術がなくなります。こうして修験者は、地域の霊山を漁場として修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになります。また加持祈祷や符呪販売など、いろいろな呪術宗教的な活動を行い、それらを生活の糧とするようになります。次第に修行をせずに神官化するような修験者も多くなります。
 江戸時代の讃岐の3藩の戸籍台帳を見ていると、どこの村にも修験者(山伏)がいたことがうかがえます。
江戸時代中期以後になって成立した村祭りのプロデーュスを行ったのは、山伏たちだった私は考えています。例えば、以前にお話しした獅子舞などは、山伏たちのネットワークを通じて讃岐に持ち込まれ、急速に普及したのではないと思えます。

明治五年、政府は権現信仰を中心とし淫祠をあずかる修験道を廃止します。
 修験者を聖護院や三宝院の両本山に所属したままで天台・真言の僧侶としました。その際に還俗したり、神官になった修験者も少なくなかったようです。例えば吉野修験は仏教寺院として存続しますが、熊野・羽黒山などは、神社に組織替えします。
 また全国各地の修験者が運営権を握っていた諸山の社寺・権現でも、明治政府の後ろ盾を得た神社に主導権を奪われていきます。こうして教団としての修験道は姿を消します。しかし、全国的な組織の解体を、逆手にとって新たな地方組織として再出発する霊山もありました。それが四国では、剣山の修験組織です。独自の組織を立ち上げ教勢を維持するのです。

梅原猛はこれを「廃仏毀釈という神殺し」と呼んで、次のように述べています。
 仏教は千数百年の間、日本人の精神を養った宗教であった。
廃仏毀釈はこの日本人の精神的血肉となっていた仏教を否定したばかりか、
実は神道も否定したのである。つまり近代国家を作るために必要な国家崇拝あるいは天皇崇拝の神道のみを残して、縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教を殆ど破壊してしまった。
江戸時代までは、・・・天皇家の宗教は明らかに仏教であり、代々の天皇の(多くは)泉涌寺に葬られた。廃仏毀釈によって、明治以降の天皇家は、誕生・結婚・葬儀など全ての行事を神式で行っている。このように考えると廃仏毀釈は、神々の殺害であったと思う。

「縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教」に、最も深く関わっていたのが修験道であり、山伏たちだったのかもしれないと思うようになったこの頃です。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収
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満濃池から南を望むと低阿讃の山々が低く連なります。
その東奥の方に、周りから少し高くなったピラミダカルな山が目に付きます。これが大川山です。讃岐では2番目に高く、丸亀平野から見える山としては一番高い山になります。そして、土器川の源流にもなります。
①ピラミダカルな山容
②丸亀平野で一番高い山
③土器川の源流 
という3点からしても、この山が古代から霊山として丸亀平野の人たちから崇められてきたことが頷けます。

大山山から金毘羅地図
大川山と阿讃山脈の山々

大川神社の社伝には、この山を最初に祀ったのは、修験者が祖とする
役小角とされています。
彼が諸国を巡歴してこの大川山頂に達した時に、 一人の老翁が忽然と現れて
「われこそは大山祗神なり、常にこの山を逍遥し、普く国内の諸山を視てこれを守る。子わがために祠を建てよ」

と言ったと伝えられます。この神の御告げを受けて、小角は祠を建ててこの神を祀ります。ついで木花咲耶姫命をあわせ祀り、大川大権現と称し奉ったとされているようです。
 ここからは次のようなことが分かります。
①開祖が修験者の役小角であること
②山頂に祀られてのが大山祗神と、その娘の木花咲耶姫命であること
③祀られた神社は、大川大権現と呼ばれたこと
開祖を役小角とするということは、修験者たちの聖地や行場とされていたということでしょう。③の「大川大権現」と呼び名についても、中世に霊山が開かれるという事(=開山)は、権現が勧進されるということです。その勧進の主役は、修験者達だったことは以前にお話ししました。


大川神社 秋葉神2社
大川神社の中の秋葉神社

大川山信仰にも、石鎚信仰と同じようなスタイルが見えるようです
共通点を見ると、「役小角と権現勧進」でです。
さらに②からは、芸予諸島・大三島の大山祗神神社周辺で活躍した修験者達の影が見えてきます。彼らは熊野系で吉備児島・五流修験の流れとされています。五流修験は、修験道開祖の役行者が国家からの弾圧を受けた際に、弟子達が熊野を亡命し、新コロニーを児島に打ち立ててたと称する修験集団です。「新熊野」を名乗り、本島を始め瀬戸内海周辺に影響力を伸ばしました。
南無金毘羅大権現(-人-) | 【天禄永昌】大美和彌榮・天敬会 今泉聖天<圓密宗量剛寺>

 中世は修験者たちが活躍した時代です。
 現在の金毘羅山(大麻山)も修験者の修行ゲレンデで、多くの修験者たちが集まる「天狗の山」でした。彼らの中には、高野山で修行を積んだエリートもいました。その中から流行神としての金比羅神も生み出され、大権現として勧進され、金毘羅大権現として祀られるようになります。そして、大麻山の南半分は金比羅神の住処として象頭山と呼ばれるようになります。当時の修験者(山伏・時には密教僧侶)たちにとっては、金毘羅さんも大川山も権現で、自分たちの修行場であり聖地であったのでしょう。
 ここからは大川山が霊山として崇められていたことがうかがえます。しかし、中世に活躍した山伏や修験者たちは、大川山に古代の山岳寺院があったことは知らなかったようです。彼らの作った社伝には、一切でてきません。

 大川信仰の拠点となっていた古代の山岳寺院が発掘されて、その姿を現しています。中寺廃寺跡です。
大川山 中寺廃寺
中寺廃寺

大川山から北に伸びる尾根上に周辺の東西400m、南北600mの範囲に、仏堂、僧坊、塔などの遺構が見つかっています。創建時期は山岳仏教の草創期である9世紀にまでさかのぼるとされています。だとすると若き日の空海が、この山に登ってきて修行を重ねた可能性もあります。
中寺廃寺跡地図1

 割拝殿跡とされる空間からは、5×3間(10.3×6.0m)の礎石建物跡が出てきました。面白いのは、その中央方1間にも礎石があるのです。このため仏堂ではなく、割拝殿と研究者は考えているようです。割拝殿とは何なのでしょうか???
大川山 中寺廃寺割拝殿

上のイラストのように建物の真ん中に通路がある拝殿のことを割拝殿と呼ぶようです。この建物の東西には平場があります。一方の平場は本殿の跡で、一方の平場が大川山への遙拝場所と研究者は考えています。その下にある掘立柱建物跡2棟は小規模で、僧の住居跡だったようです。
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中寺廃寺 遺跡配置

僧侶達は、ここに寝起きして周辺の行場で修行を重ねながら大川山を仰ぎ見て、朝な夕なに祈りを捧げていたようです。空海がもたらした密教は、祈祷や霊力を認めました。その霊力パワーのアップのためには、聖地での修行でポイントをため込む必要がありました。霊験・霊力の高い密教系僧侶(=修験者)は、天皇の近くで重用されることになります。この時代の密教系僧侶は、出世のためには聖地での修行が欠かせなかったのです。そのために国家や、国衙も官営の山岳寺院の建立を行うようになるのが10世紀後半です。この仲村廃寺は、規模や出てくる遺物などから地元の有力者などが建立したものではなく、讃岐国の官営山岳寺院として建立されたものと研究者は考えているようです。ここは多くの密教僧侶や修験者たちが修行を積んだ拠点でもあったのです。
大川山 割拝殿から
割拝殿から望む霊山 大川山

  なぜお寺は、大川山の山頂に建立されなかったのでしょうか?
 大川山は神が宿る霊山で、信仰の山でした。そして中寺廃寺は、遙拝所でした。霊山の山頂には、神社や奥院、祭祀遺跡や経塚が建てられますが、寺院が建立されることはありません。石鎚信仰の横峰寺や前神寺を見ても分かるように、頂上は聖域で、そこに登れる期間も限られた期間でした。人々は成就社や横峰寺から石鎚山を遙拝しました。つまり、頂上には神社、遙拝所には寺院が建てられたのです。

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中寺廃寺 仏塔

 また、生活レベルで考えると山頂は、水の確保や暴風・防寒などに生活に困難な所です。峰々は修行の舞台で、山林寺院はその拠点であって、あえて生活不能な山頂に建てる必要はなかったようです。

大川山 中寺廃寺

 B地区が大川山の遙拝所として利用され始めるのが8世紀
割拝(わりはい)殿や僧房などが建てられるのは10世紀頃になってからのようです。そして、律令体制が崩壊し、国衙の援助が受けられなくなった12世紀には衰退し、13世紀には活動痕跡がなくなるようです。ちなみに、中寺廃寺から讃岐山脈を、
東に向かえば、
大瀧寺 → 大窪寺 → 水主神社(東かがわ市)
西に向かえば、
尾野瀬寺(まんのう町春日 → 中蓮寺(三豊市財田町) → 雲辺寺(観音寺市大野原町)へ
と続き、さらに伊予の山岳寺院につながってました。このようなネットワークを利用して、熊野修験者や高野聖たちが「四国辺路」をめぐっていたようです。そのようなネットワークの一つが大川山であり、その拠点が中寺廃寺であったようです。
   中寺廃寺は中世には廃絶しています。しかし、寺院はなくなっても人々にとって聖地であり、霊山であり続けたようです。
それが分かるのがCゾーンに残された「石組遺構」です。調査報告書は、これを「石塔」としています。仏舎利やその教えを納めるという仏教の象徴としての「塔」です。「塔」を建てる行為は、功徳であり「作善行為」とという教えがあったようです。それは、野に土を積んで仏廟としたり、童子が戯れに砂や石を集めて仏塔とする行為まで含みます。つまり、「小石を積み上げただけでも塔」で「作善行為」だったというのです。

大川山 中寺廃寺石組遺構
石組遺構は作善の「塔」

童子が戯れに小石を積んで仏塔とする説話は、『日本霊異記』下巻に
村童、戯れに木の仏像を刻み、愚夫きり破りて、現に悪死の報を得る

と見えます。平安時代中頃には、石を積んで石塔とする行為が、年中行事化していたようです。「三宝絵」下巻(僧宝)は、二月の行事として、次のように記します。
  石塔はよろづの人の春のつつしみなり。
諸司・諸衛は官人・舎大とり行ふ。殿ばら・宮ばらは召次・雑色廻し催す。日をえらびて川原に出でて、石をかさねて塔のかたちになす。(中略)
 仏のの玉はく、『なげくことなかれ。慈悲の心をおし、物ころさぬいむ事をうけ、塔をつくるすぐれたる福を行はば、命をのべ、さいはひをましてむ。ことに勝れたる事は、塔をつくるにすぎたるはなし。
石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為として、階層を越えた人々に広がっていたようです。この中寺廃寺について言えば、石塔を積み上げたのは、讃岐国衙の下級官人や檀越となった有力豪族というよりも、大川山を霊山と仰ぐ村人・里人が「石塔」を行なったのではないかと研究者は考えているようです。
 中寺廃寺のAゾーンの本堂や塔などは、僧侶主体で「公的空間」であるのに対して、このCゾーン「石塔」は、大川山や中寺廃寺に参詣する里人達の祈りの場であり交流の場であったのかもしれません。ここで、大川権現に対しての祈りの後には、宴会が行われていたとしておきましょう。
 こうして、中世に中寺廃寺が姿を消しても、大川山が霊山であることに変わりはなかったようです。そして、この山を修行ゲレンデする修験者たちの姿が消えることもなかったのです。 
 ちなみに、この中寺廃寺周辺の山々は春は山桜が見事です。
「讃岐の吉野山」とある人は私に教えてくれました。是非、その頃に大川山詣でをして、この谷の河原で石積みを行いたいと思います。
大川山 中寺廃寺石組遺構2

 中世に霊山が開かれるという事(=開山)は、権現が勧進されるということでした。
その勧進の主役は修験者達でした。そして、権現を管理することになるのは里の別当寺でした。石鎚山を見てみると、役小角伝説が広がり、その門弟を祖とする「修行伝説」を生み出されます。その結果、どこの霊山も開祖は役小角となっていきます。そして、里には横峰寺や前神寺などの別当寺が姿を現すようになります。
 それでは、大川山信仰の別当寺はどこにあったのでしょうか?
残念ながらこれに答えられるような史料はありません。状況証拠を集め、候補のお寺を挙げてみましょう。
尾ノ背寺跡発掘調査概要 (I)
① 尾ノ背寺(まんのう町本目)
 大川山の西北の財田川を見下ろす尾根の上にある尾野瀬神社の境内にあった山岳寺院です。
尾瀬神社 - 仲多度郡まんのう町/香川県 | Omairi(おまいり)
尾野瀬神社(尾背廃寺跡)
この寺については、高野山の学僧道範が讃岐に追放されていた宝治二年(1248)11月に、ここを訪れ『南海流浪記』に次のように記しています
「此ノ寺ハ大師善通寺建立之時ノ杣山云々、本堂三間四面、本仏御作ノ薬師也、三間ノ御影堂・御影井二七祖又天台大師ノ影有之」
とに書いている。ここからは、尾ノ背寺が善通寺建立の際には、木材を提供するなど森林管理と同時に、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。
江戸時代に、金毘羅金光院に仕えた多聞院が編集した〔古老伝旧記〕に
「尾ノ背寺之事 讃州那珂郡七ケ村之内 本目村上之山 如意山金勝院尾野瀬寺右寺領
新目村 本目村  本堂 七間四面 諸堂数々、仁王門 鐘楼堂 寺跡数々、南之尾立に墓所数々有 呑水之由名水二ヶ所有(後略)」
とあります。
また大正七年(1918)の『仲多度郡史』には「廃寺 尾背寺」として
「今の尾瀬神社は、元尾ノ背蔵王大権現と称し、この寺の鎮守なりしを再興せるなり、今も大門、鐘突堂、金ノ音川、地蔵堂、墓野丸などの小地名の残れるを見れば大寺たりしを知るべし」
「古くは尾脊蔵王大権現と称えられ、雨部習合七堂伽藍にて甚だ荘厳なりしが、天正七年兵火に罹り悉く焼失。慶長十四年三月、その跡に小祠を建てて再興
(中略)
明治元年 尾ノ背に改め尾の瀬神社と奉称」
ここからは「尾脊蔵王大権現」と呼ばれ、山伏たちの活動拠点となっていたことがうかがえます。尾ノ背寺は、中寺廃寺が活動を停止した後も、中世を通じて活発な書写活動が行われていたことが萩原寺の経典などからも分かります。中寺廃寺に代わって、大山エリアまでテリトリーにおさめていたのではないかという仮説です。しかし、尾野瀬山からは、大川山を仰ぎ見ることはできません。遙拝所としては、弱いようです。
大川山 金剛院
炭所東の金剛院 裏山は全体が経塚

第二候補は、まんのう町炭所東の金剛院です。
  金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、楼門前の石造十三重塔は、鎌倉時代中期に建立されたものです。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれ、山全体が経塚だったことが発掘調査で分かっています。部落の仏縁地名や経塚の状態から見て、当寺は修験道に関係の深い聖地であったと研究者は考えているようです。
 想像を膨らませると、全国から阿弥陀越を通り、法師越を通ってこの地区に入った修験者の人々が、それぞれの所縁坊に杖をとどめます。そして、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に参籠し、看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者に言伝(伝言山)を残し、次の霊域を目指して旅立って行きます。それが「辺路修行」だったのです。これが、空海伝説と結びついていくと「四国遍路」になっていくと研究者は考えているようです。

大川山 金剛院2

 修験者たちは写経などのデスクワークだけをやっていたのではありません。霊山行場で修行も求められました。大川山は、最適の修行ゲレンデです。山での荒行と、写経がミックスされた修行を、この地で行い、写経が終わると、次の行場に向かって「辺路修行」に旅立って行ったのでしょう。 大川山の里の別当寺としては、こちらの方が可能性が高いようです。金剛院は、大川山信仰の別当寺だったという仮説を出しておきましょう。
中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺跡 仏塔跡
全国からやってきた修験者(山伏)たちの中には、里の寺院を拠点に周辺の村々に布教活動を行う者も現れます。
 高野聖の念仏聖たちは里の人々と交流を続けながら自分たちの聖地に、信者達を参拝に連れてくるという方法を採用します。それは熊野詣に始まり、立山詣や、富士詣につながっていく先達が信者達を聖地に誘引するというやり方です。これは、今の四国霊場巡りにもつながるスタイルです。
 死者の霊の集まるといわれた三野町の弥谷寺に住み着いた高野聖は、先祖詣りを勧め、そしてその延長に高野山への先祖納骨活動を展開します。それが三豊では弥谷寺でした。
 また、近世になると石鎚信仰や剣信仰のように先達が里の信者を誘引して、霊山への集団登山という活動を展開する別当寺も現れるようになります。
  それでは、大川山周辺の修験者や山伏たちは、大川山をどのように売り出そうとしたのでしょうか。
  それは、また次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  琴南町誌747P 宗教と文化財 大川神社
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中寺廃寺の石組遺構は、なんのために積まれたの  

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中寺廃寺遊歩道
中寺廃寺はA・B・Cの3つのゾーンに分けられています。
ここまで来たらCゾーンにも行かねばならぬと足を伸ばすことにします。Cゾーンは、塔のあるAゾーンから谷をはさんだ南の谷間にあります。
 お手洗いの付属した休憩所の上から谷間に下りていく急な散策路を下っていきます。人が通ることが少ないようで、これでいいのかなあと思う細い道を下っていくと・・・猪除けの柵が現れ、進むのを妨げます。「石組遺構」らしきものはその向こうの平場にあるようです。柵を越えて入っていきます。
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中寺廃寺Cゾーン

あちらこちらに石組跡らしきものはありますが、崩れ落ちていて石を積んだだけに見えます。その配列や大きさにも規則性はないようです。私が最初の推察は「墓地」説でした。この寺院の僧侶の墓域ではないかと思いました

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中寺廃寺石組遺構
後日に手に入れた報告書を読むとこう書かれていました。
「当初、「墓地」の可能性を考え下部に蔵骨器や火葬骨などの埋葬痕跡の有無に注意を払った。しかし、外面を揃えて大型の自然石を積み、内部に小振りの自然石を不規則に詰め込むという手法に、墓地との共通性はあっても、埋葬痕跡はまったくなく、墓の可能性はほぼ消滅した。」
 山林寺院に墓地を伴う例はありますが、墓地が形成されるのは中世(平安後期)以降のことのようです。この中寺廃寺は中世には廃絶しています。

それでは何のために作られたものなのだろう?

報告書にはそれも書かれていました。読んでいて面白かったので紹介します。
報告書の推論は「石塔」説です。仏舎利やその教えを納めるという仏教の=象徴としての「塔」、あるいは象徴としての「塔」を建てる行為は功徳であり「作善行為」とという教えがあったようです。
  『法華経』巻2「方便品」には次のように記します。
在家者が悟りを得る(小善成仏)のために、布施・持戒などの道徳的行為、舎利供養のための仏塔造営と荘厳、仏像仏画の作成、華・香・音楽などによる供養、礼拝念仏などを奨励する。
その仏塔造営には、万億種の塔を起し=て金・銀・ガラス・宝石で荘厳するものから、野に土を積んで仏廟としたり、童子が戯れに砂や石を集めて仏塔とする行為まで、ランクを付けて具体例を挙げる。つまり、「小石を積み上げただけでも塔」なのである。
 童子が戯れに小石を積んで仏塔とする説話は、『日本霊異記』下巻に次のように見えます。
村童、戯れに木の仏像を刻み、愚夫きり破りて、現に悪死の報を得る
 平安時代前期には民間布教に際に語られていたようです。また、平安時代中頃までに、石を積んで石塔とする行為が年中行事化していた例もあります。 「三宝絵」下巻(僧宝)は、「正月よりはじめて十二月まで月ごとにしける、所々のわざをしるせる」巻です。その二月の行事として「石塔」のことが次のように記されています。
石塔はよろづの人の春のつつしみなり。諸司・諸衛は官人・舎人とり行ふ。殿ばら・宮ばらは召次・雑色廻し催す。日をえらびて川原に出でて、石をかさねて塔のかたちになす。『心経』を書きあつめ、導師をよびすへて、年の中のまつりごとのかみをかざり、家の中の諸の人をいのる。道心はすすむるにおこりければ、おきな・わらはみななびく。功徳はつくるよりたのしかりけば、飯・酒多くあつまれり。その中に信ふかきものは息災とたのむ。心おろかなるものは逍邁とおもへり。年のあづかりを定めて、つくゑのうへをほめそしり、夕の酔ひにのぞみて、道のなかにたふれ丸ぶ。 しかれどもなを功徳の庭に来りぬれば、おのづから善根をうへつ。『造塔延命功徳経』に云はく、「波斯匿王の仏に申さく、「相師我をみて、『七日ありてかならずをはりぬべし」といひつ。願はくは仏すくひたすけ賜へ』と。仏のの玉はく、『なげくことなかれ。慈悲の心をおし、物ころさぬいむ事をうけ、塔をつくるすぐれたる福を行はば、命をのべ、さいはひをましてむ。ことに勝れたる事は、塔をつくるにすぎたるはなし。
意訳変換しておくと
石を積んで石塔を作ることは、すべての人達の春のたしなみである。諸司・諸衛はもとより、官人・舎人までが行う。殿ばら・宮ばらなどの貴人は、召次・雑色に石を積ませる。吉日を選んで川原に出でて、石を積んで塔のかたちにする。『心経』(経典)集めて、導師(僧侶)を呼んで、年中行事で祈願したお札を飾って、家内安全を祈る。大人たちが信心するので、翁や童もみんな従う。御供えなどを作るのも功徳なので、飯・酒が多く集まってくる。その中の信心深いものは、息災を祈る。心愚かな者は、好機到来と思う。年のあづかりを定めて、並べられた食事をほめそしり、夕の酔ひにふけり、道に倒れ込んでしまう者も現れる。
 しかし、功徳の庭がやってくれば、おのづから善根が心に宿る。『造塔延命功徳経』は次のように諭す。「波斯匿王の仏が申すには、「我を見て、『七日ありてかならずをはりぬべし」といひつ。願はくは仏救い助けたまへ』と。
 仏のおっしゃるには『嘆くことなかれ。慈悲の心を起こして、殺生せずに、
塔をつくる福(積善)を行えば、長生きし、幸福が増す。、そのためには、塔をつくることだ。」と

ここからは石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為とされていたことが分かります。
山に登って、ケルンを積むのも「作善」とも言えるようです。わたしも色々なところで石を積み無意識に「作善」してきたことになるのかもしれません。さて、この『三宝絵詞』が描く年中行事としての「石塔」の記録から分かることがいろいろあります。 報告書は次のように続けます。

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中寺廃寺石組遺構
 まず、重要なのは、「石塔」を積む場が「川原」であることです。
 川原は葬送の地、無縁・無主の地で、彼岸と此岸の境界でもあります。そして「駆込寺」が示すように、寺院はアジールであり、時には無縁の地ともなります。中寺廃寺C地区は、仏堂・塔・僧房などの施設があるA地区やB地区とは、谷を隔てた別空間を構成しています。C地区は葬地でなくても「川原」だと考えられます。石組遺構が、谷地形に集まっているのも、それを裏づけるとします。これは後世の「餐の河原」に通じる空間とも言えます。
このC地区に37残る石組遺構は、年中行事である[石塔]として毎年春に作られて続けたものだと研究者は推測します。。   
次に報告書が注目するのは「石塔」が「よろずの人の春のつつしみ」とあることです。
『三宝絵詞』は、石塔を積んだ人たちを「諸司・諸衛の官人・舎人」や「殿ばら・宮ばら」配下の「召次・雑色」が、「石を重ねに塔の形にする」した人々とします。しかし、この中寺廃寺について言えば、石塔を積み上げたのは、讃岐国衙の下級官人や檀越となった有力豪族だけでなく、大川山を霊山と仰ぐ村人・里人も、「石塔」を行なったはずです。Aゾーンの本堂や塔などの法会は僧侶主体で「公的空間」であるのに対して、このCゾーン「石塔」は、大川山や中寺廃寺に参詣する俗人達の祈りの場であり交流の場であったのではないでしょうか。

ここでは、祈りと宴会が行われていた? 
そうすると「春」という季節や、単に石を積むだけでなく「飯・酒多くあつまれ」という饗宴行為もぴったりと理解できます。春にその年の豊饒を願う「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などの中に「石塔」もあったようです。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、山桜の咲く頃に、豊作祈願や大川|山からの国見を兼ねて中寺廃寺に参詣します。その時に、C地区で石を積む姿が見えてくるようです。
 ちなみに、この中寺廃寺周辺の山々は春は山桜が見事です。「讃岐の吉野山」とある人は私に教えてくれました。その頃に大川山詣でをする人たちがこの谷に立ち寄って、石を積み上げていたのかもしれません。その石組みが今にそのまま伝わっていることになります。
 大川山を霊峰と仰ぐ里の住民は、官人・豪族・村人の階層を問わず、中寺廃寺に参詣したはずです。中寺廃寺C地区の石組遺構群は、そうした地元民衆と寺家との交流の場だったのかもしれません。

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 報告書は更にこう続けます。  
「石塔」行事の場である「川原」が、平安京に隣接する鴨川などの川なら、官人や雑色が積み上げた「石塔」が遺構として残る可能性は限りなくゼロに近い。平安代後期まで存続せず、炭焼が訪れる以外は、人跡まれな山中に放置された中寺廃寺の方形石組構であるからこそ残ったのである。もし、中寺廃寺が中世まで存続したら、付近で墓地が展開した可能性は高く、埋葬をともなわない「石塔」空間を認識することは困難になったかもしれない。
つまり「平安時代のまま凍結した山寺院関係の遺跡=中寺廃寺」だからこそ残った遺構なのです。そして「石塔」とすれば、はじめての「発掘=発見」となるようです。

追補 中寺廃寺の石組遺構については、次のように集団墓地説もあります。
  集団墓地の成立を考える上で非常に示唆的な遺構が、まんのう町の中寺廃寺跡に所在する。
この遺跡では平面方形状の集石遺構を合計37基検出した。四方の側壁はほぼ垂直に人頭大の角傑を積み、内部には拳大の角傑を充填する。この集石遺構は、集団墓地中隻石墓と群構造・規模・形状・構築方法などが類似している。
 遺構の密集している景観は、普遍的な集団墓地景観そのものと言えよう。中寺廃寺跡集石遺構については、類似遺構がある山岳寺院との比較などから、塔の可能性が指摘されている。塔は本来釈迦の遺骨である仏舎利を祀る施設なので、たとえ遺体や遺骨が埋納されてなくても墓と認識されていた。また同様の集石遺構としては、経塚の上部遺構に集石を伴う事例がある。 この時期には塔や経塚、墳墓の機能が完全に分化しておらず、いずれも聖地・霊地における象徴的な装置の役割を担っていた。このように塔あるいは塔に伴う信仰や、聖地・霊場の重要な装置という位置付けから派生して、中世段階の集団墓地中に塔を模倣した集石墓や集団墓地の景観が形成されたという解釈も可能ではないだろうか。
 海港 博史 讃岐の中世屋敷墓・集団墓 中寺廃寺        香川歴史紀行52P
 参考文献 
上原 真人 中寺廃寺跡の史的意義 調査報告書第3集


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