瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:中寺廃寺と空海

本日の授業

ハイキングで中寺の遺構をめぐっています。前回は展望台と、B(祈りゾーン)で「授業」を行いました。今日は3限目をA(仏ゾーン)で行います。

中寺廃寺 エリア分類
中寺廃寺の3つのゾーン
Aゾーンの遺跡は、旧郡境尾根の東側のテラスに点在します。このあたりが前々回に見た江戸時代末の絵図には、「中寺」と表記されていた所になります。ここには、次のように本堂と仏塔があったとされます。
「平安時代のたたずまい」 仏堂と塔

中寺廃寺 A(祈り)ゾーンの復元図
仏塔跡で3限目の「授業」を始めます。

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3時間目 中寺廃寺A(仏ゾーン)の塔跡にて
塔跡の発掘時野の写真を見ておきましょう。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
 中寺廃寺A(仏ゾーン) 塔跡の発掘時写真
正方形に礎石が並んでいます。4つの礎石なので三間×三間の正方形です。真ん中にしかっりした石があります。これを心礎と研究者は判断します。心礎があるので塔跡になります。礎石の並びや大きさからして五重塔ほどは大きくない三重塔だとします。そして、この心礎から出てきたのが、次の土器です。

中寺廃寺 心礎地鎮用2
中寺廃寺Aゾーン 塔跡地鎮
中寺廃寺塔跡の心礎から出土した甕と須恵器

中央に甕(かめ)、その周囲に胴の長い須恵器の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。
①地鎮祭用に埋められたもので、10世紀前半のもの。
②製作場所は、綾川町陶の十瓶山の国衙が管理する官営の窯。
③特徴しては、赤みが強いこと
②からは、地鎮祭用に作られたとすると、この塔が作られたのも10世紀前半のことになります。時期的には、国司としてやって来ていた菅原道真が帰った後のことです。③からは、このような赤みを出すには特別の粘土を使ったり、最後の行程で酸素を大量に供給するなどの手の込んだ仕上げが必要になるようです。どうやら、この壺も国衙の発注で焼かせた可能性が高いようです。そうすると、ここにも讃岐国衙の力が及んでいること、別の言い方をすると、中寺が国衙の管理下に置かれていたと研究者は考えています。

次に仏塔の上の仏堂(本堂)跡を見ておきましょう。
中寺廃寺 A遺構仏塔2
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡

最初は掘立柱建物で、後世に礎石建物へ建て替えられています。その礎石がでてきています。
礎石の数から大きさは3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0m)です。いまから見ると非常に小さい本堂になります。小さなお堂のようです。ここからは、10~11世紀の遺物が出土しています。さきほど見た塔と同じ時期に建てられたようです。
①平面図を見ると本堂と塔は、両方とも真南を向いています。
②本堂は小さく、その中で儀式を行う事はできません。
③そこで考えられたのが本堂前に広場をつくり、野外で儀式を行うこうことです。
④全国の類例を探すと、古代の山林寺院には、この規模の本堂があるようです。
⑤山林寺院として出発した屋島寺の創建時も、この規模だったことが分かっています。現在の我々の目から見ると、小さすぎると思えるかもしれませんが、これが古代の山林寺院の姿だったようです。
⑥そして伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺様式だと研究者は考えています。
中寺廃寺 A 本堂から塔跡
中寺廃寺 A(仏)ゾーン 本堂跡から見る仏塔跡中寺廃寺 Aゾーン 塔と仏堂
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡の復元図

以上の情報をまとめて、推察します。
中寺廃寺への国衙の関与2
中寺廃寺の出土品が物語る国衙の関与

A地区の伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺式でした。また、心礎下に埋められて須恵器壷群は、讃岐国衙直営の陶邑窯(十瓶山窯)製品です。その上、発色する胎土を用いて焼くという他には例がないものです。つまり、地鎮用の須恵器は、国衙がこの寺のために作らせた特注品です。
以上から、中寺建立には国衙や国分寺の力が働いていたことがここからも裏付けられます。しかし、このAゾーンの仏教施設が登場するのは、Bゾーン(遙拝所)の割拝殿より半世紀後のことになります。歴史的に云うと、山林修行者が活動していた霊場に、国衙が仏施設を後からプレゼントしたとも考えられる関係になります。言い方を換えるなら、霊場大川山の遙拝所に、仏教施設が国衙によって接ぎ木されたとも云えます。このあたりの関係が面白い所です。

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礎石に座って一休み 仏塔跡にて 当時は前の木々も切り払われ、大川山が目の前の見えたはず・・

私が面白いと思ったのは、本堂の後の頂上の平たい空間です。これが菜園だというのです。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺 Aゾーンの塔跡と仏堂跡の復元図 上のテラスには菜園があった?

発掘以前には、仏堂の後ろにあるので、講堂などが出てくるのでは期待していたそうです。しかし、出てくるのは、直線的に並ぶ小さな穴だけでした。その用途が最初は分からなかったようです。しかし、山林寺院には自給用の畑などがあったことが報告されています。また、中学校で習った兼好法師の徒然草には、山林寺院の僧侶の暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子(こうじ:みかん)の木の廻りを柵で囲んであるのを見て興ざめしたことが記されていました。ここからはこの時代にもイノシシや鹿の対策に柵が必要だったことが分かります。中寺でも生活のために野菜などが、日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っています。また、麓の江畑集落には、中寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っています。

 それでは午前中のまとめに入ります。パンフレットの表紙をもう一度見てください。

中寺廃寺と空海

ここには、いままで見てきた建物などの出現期が表にまとめられています。中寺に最初の建物が現れるのはBゾーンの割拝殿と僧坊です。これが8世紀末でした。また、ここから発見された三鈷杵や錫杖などの破片は、それ以前に遡るものでした。これを空海の年表と比べてみましょう。空海が大学をドロップアウトして山林修行を開始したのが793年、そして唐に渡るのが803年で、この間が謎の10年で、空海の20歳台のことです。 謎の10年とBゾーンの出現期は重なります。空海自身は太龍寺や室戸・石鎚で修行したと記します。この間に中寺を訪れていたことは十分考えられます。

空海、中寺廃寺修行説
空海 中寺廃寺修行説
 もうひとつのチャンスは、821年の満濃池改修工事の時です。

満濃池 古代築造想定復元図2
空海による満濃池修復想像図(大林組) ①が、護摩祈祷を行う空海
この時に空海は讃岐に帰ってきたと伝えられます。後の史料には工事成就と安全祈願のために護摩壇岩で護摩を焚いて祈祷を行ったと記します。その時に、どんな神様に祈願したのでしょうか。先ほど見たように、満濃池の正面に見えるのが大川山です。
満濃池と大川山2
満濃池から見上げる大川山
空海は、大川山に向かって祈ったと私は思います。当然、祈祷の前には中寺に参籠し、大川山に行道していたことが考えられます。満濃池修復の際に、空海は大川山に向かって祈願した可能性はあります。

これで3限目は終わりです。
予定していた4限目のC(願い)ゾーンについては、時間がないので現場には行かずに「リモート」で、次のようなお話しをしました。
パンフレットの地図を見てください。
中寺廃寺 3つのゾーン2

A・Bゾーンから谷を隔てて、向かいに河原場があります。そこにあるのがいくつもの石積み(塔)です。
中寺廃寺Cゾーン 石組み

この石組は、平安時代にさかのぼるものであることが分かりました。平安時代中期からは、石を積んで石塔として御参りすることが民衆の中にも広がっていた。河原に石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為(=供養・願掛け)の一つとされました。人々が霊山である大川山への参拝の時に、ここを訪れ、石を積んで石塔を作り、祈った場所と研究者は考えています。
 平安時代に丸亀平野に棲むの人たちは、春にはその年の豊作を願う「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などに、霊山である大川山に参拝にやって来ました。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、山桜の咲く頃に、豊作祈願にやってきた人達が、参拝道の周辺にある河原を訪れて、願いや供養を込めて石を積んだというのです。それが1200年前のままで残っています。平安時代の人々の息づかいを感じることが出来る所と云えるかもしれません。
 このような平安時代に庶民が積んだ石塔が見つかるのは、ここが初めてでした。ふつうは後世の人達によって石が転用されたり、破壊されることが多いのです。それがここには残っています。忘れ去られた場所だったから、そのままの姿で残ったと云えるのかもしれません。
   Cゾーン「石塔」は、大川山や中寺に参詣する俗人達の祈りの場であり交流の場であったとしておきます。これで午前のお話しを終わります。午後は、大川山でお待ちしています。

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中寺廃寺から旧郡境尾根を笹ケ田尾へ向かう
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追補 中寺廃寺の石組遺構については、次のように集団墓地説もあります。
  集団墓地の成立を考える上で非常に示唆的な遺構が、まんのう町の中寺廃寺跡に所在する。この遺跡では平面方形状の集石遺構を合計37基検出した。四方の側壁はほぼ垂直に人頭大の角傑を積み、内部には拳大の角傑を充填する。この集石遺構は、集団墓地中隻石墓と群構造・規模・形状・構築方法などが類似している。
 遺構の密集している景観は、普遍的な集団墓地景観そのものと言えよう。中寺廃寺跡集石遺構については、類似遺構がある山岳寺院との比較などから、塔の可能性が指摘されている。塔は本来釈迦の遺骨である仏舎利を祀る施設なので、たとえ遺体や遺骨が埋納されてなくても墓と認識されていた。また同様の集石遺構としては、経塚の上部遺構に集石を伴う事例がある。 この時期には塔や経塚、墳墓の機能が完全に分化しておらず、いずれも聖地・霊地における象徴的な装置の役割を担っていた。このように塔あるいは塔に伴う信仰や、聖地・霊場の重要な装置という位置付けから派生して、中世段階の集団墓地中に塔を模倣した集石墓や集団墓地の景観が形成されたという解釈も可能ではないだろうか。
 海港 博史 讃岐の中世屋敷墓・集団墓 中寺廃寺        香川歴史紀行52P
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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中寺廃寺 大川山からの眺望・丸亀平野
大川山から見た中寺廃寺と丸亀平野
空海が中寺で修行したといえるのかどうかを「時代考証」するために、中寺の建物跡や特色を見ています。今回はAゾーンを見ていくことにします。最初に復元図を見ておきます。

「平安時代のたたずまい」 仏堂と塔
中寺廃寺Aゾーン 仏ゾーンの復元図
ここからは、尾根の斜面を造成して仏堂跡と塔跡が出てきました。まず、塔の方から見ていきます。

中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺塔跡
復元された礎石跡です。4つの礎石が、正方形に並んでいます。4つの礎石なので三間 × 三間の正方形の建物だったことが分かります。そして、真ん中にも礎石があります。発掘当時の写真を見ておきましょう。

仏ゾーン 塔跡 発掘時の様子
中寺廃寺塔跡

真ん中にしかっりした石があります。これを心礎と研究者は判断します。心礎があるので塔跡になります。礎石の並びや大きさからして五重塔ほどは大きくない三重塔だとします。

中寺廃寺 心礎
中寺廃寺塔跡の心礎
この心礎の下から出てきたものがこれです。

中寺廃寺 心礎地鎮用2

中寺廃寺Aゾーン 塔跡地鎮
            中寺廃寺塔跡の心礎から出土した甕と須恵器
中央に甕(かめ)、その周囲に胴の長い須恵器の壷五個が完全な形で並べられて見つかりました。これは地鎮祭用に埋められたものと研究者は判断します。須恵器を詳しく調べると、10世紀前半に綾川町陶の十瓶山の国衙が管理する官営の窯で焼かれたことが分かりました。そうするとこの塔が作られたのも10世紀前半ということになります。この時期の十瓶山周辺には、阿野郡の郡司綾氏によって最先端技術を持つ須恵器工房が開かれ、讃岐全域のみならず畿内にも瀬戸内海交易を通じて搬出していたことは以前にお話ししました。
 須恵器の特徴しては、赤みが強いことです。このような色を出すには特別の粘土を使ったり、最後の行程で酸素を大量に供給するなどの特別の仕上げが必要になると研究者は指摘します。普通の須恵器ではなく、国衙の発注で特別に焼かせた可能性が高いようです。そうすると「国司 → 綾氏 → 十瓶山官営窯 → 国分寺 → 中寺廃寺」という発注・納品ラインが考えられます。ここにも国衙の力が及んでいること、別の言い方をすると、中寺が国衙の管理下に置かれていたことが裏付けられます。

  次に仏堂(本堂)跡を見ておきましょう。

仏ゾーン 仏堂跡 発掘時の様子
中寺廃寺仏堂(本堂)跡
最初は掘立柱建物で建てられ、後に礎石建物へ建て替えられています。その礎石がでてきています。礎石を数えると縦が4つ、横が3つなので、3間×2間(桁行6.7m、梁間4.0m)の建物が復元できます。。ここからは10~11世紀の遺物が出土しているので、さきほど見た塔と同じ時期に建てられたことが分かります。また、礎石のない掘立柱式のものは、それ以前の9世紀末からあったことになります。
仏堂の平面図を見ておきましょう。

中寺廃寺 A遺構仏塔2

Aゾーン 平面図
中寺廃寺 Aゾーン 塔と仏堂
中寺廃寺Aゾーンの仏堂と塔の復元図
仏堂は塔よりも少し上にありますが、両方とも真南を向います。また、両者共に10世紀前半には姿を見せました。つまり、ひとつの伽藍として作られたようです。この伽藍配置は讃岐国分寺と同じ大官大寺式だと研究者は指摘します。

中寺廃寺 大官大寺式伽藍
中寺廃寺と同じ大官大寺式伽藍
大官大寺式伽藍配置の寺(右下が讃岐国分寺)
規模は小さいながら伽藍配置の数式からも、大官大寺様式であることが分かるようです。ここからも中寺Aゾーンの伽藍創建については、讃岐国分寺の僧侶や国衙のコントロールが働いていたことがうかがえます。
 私が仏堂(本堂)について、最初に疑問に思ったのは小さすぎることです。
この大きさでは本尊を安置するだけのお堂と同じです。これでは、この中で仏教的な儀式・法会を行う事はできません。しかし、同規模の本堂を持つ山林寺院があるようです。

中寺廃寺と同じ規模の金堂

全国の類例を探すと山林寺院には、この規模の本堂があります。また屋島寺の創建時の本堂である千間堂も、この規模だったことが分かっています。現在の我々の目から見ると、小さすぎると思えるかもしれませんが、当時はこれが普通だったようです。Aゾーンの全体復元図を見ておきましょう。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿3(仏堂説)
中寺廃寺 Aゾーンの復元図
この復元図に書き込まれている情報を読み取ります。
①仏堂と本堂は、大官大寺式で10世紀後半に同時に建立されたこと
②地鎮用の壺や甕が国衙直営の工房で造られた特注品なので、国衙の保護を受けていたこと
③本堂が小さかったので、仏教的な儀式はその前の広場で行われていたこと
中寺廃寺への国衙の関与

私が面白いと思ったのは、本堂の後の頂上の平たい空間で、菜園と表記されている所です。
発掘以前には、一番広いテラスで仏堂の後ろにあるので、講堂などが出てくることをは期待していたそうです。しかし、出てきたのは直線的に並ぶ小さな穴だけでした。その用途が最初は分からなかったようです。調べると、山林寺院には自給用の畑などがあったことが報告されています。また、中学校で習った兼好法師の徒然草には、山林寺院の僧侶の暮らしに「あはれ」を感じていたところ、たわわに生った柑子(こうじ:みかん)の木の廻りを柵で囲んであるのを見て興ざめしたことが記されていました。ここからはこの時代にもイノシシ対策などの柵が必要だったことが分かります。中寺でも僧侶や修験者たちの生活のために野菜などが、稜線上の開けた日当たりのいい場所を開墾して栽培されていたと研究者は考えています。ちなみに、中寺廃寺周辺には「菜園場」という地名が残っています。また、麓の江畑集落には、中寺の僧侶が江畑で菜園を作っていたという伝承が残っているようです。

それではテーマに立ち返って、空海が中寺で山林修行を行ったと云えるのかどうかを「時代考証」しておきましょう。

中寺廃寺と空海

右の表が前回にも見た建物などの出現期を表にまとめたものです。
①中寺に最初の建物が現れるのはBゾーンの割拝殿と僧坊です。これが8世紀末です。
②Bゾーンの広場から発見された三鈷杵や錫杖などの破片は、それ以前に遡るものでした。
これを空海の年表と比べてみましょう。空海が大学をドロップアウトして山林修行を開始したのが793年、そして唐に渡るのが803年で、この間が謎の10年です。 謎の10年とBゾーンの出現期は重なります。空海自身はこの間に太龍寺や室戸・石鎚で修行したと記します。この前に中寺を訪れていたことは十分考えられます。
 Aゾーンに仏塔と本堂が姿を現すのが9世紀末です。これと菅原道真が国司とやって来た時期も重なります。道真の指示でAゾーンの塔や本堂などの山林寺院が着工したことも考えられます。この時代考証を背景に、小説を書くならこんな風になります。

空海、中寺廃寺修行説
空海 中寺廃寺修行説

一族の期待を背負って平城京の大学へ進学した空海であった。しかし、官吏養成のための四書五経や儒教などへの興味は薄れていく。そんな中で、空海の心を捉えたのが仏教であった。当時の仏教は、宗教だけでなく医学や哲学・科学も含めた壮大な世界をもっていた。また、暗記力増進のためにと進められてやってみた虚空蔵求聞持法の修行は強烈な体験であった。自分のこれからの生きる道を考えた空海は19歳にして、大学をやめて、山林修行の道を歩むことを決意する。そのためには故郷の父母や一族に、自分の決意を伝え、理解と支援を得る必要があった。そこで、善通寺に帰ってくる。

 父は母は驚きながらも、空海の決意を受入て支援を約束する。空海はその間も、幼年期に修行した我拝師山に籠もる。そんな中で、大川山に山林修行をおこなう修行者がいることを知る。空海は、善通寺の杣山(そまやま)木材供給地の尾背山から塩入を経て中寺に向かった。そこには大川寺に向かって割拝殿が建てられ、そこから大川山を霊山として修行に励む修験者たちがいた。空海も彼らと共に大川山をめぐる行道を行い、僧坊で寝泊まりした。修行生活の中でで、四国辺路の大龍寺や室戸・石鎚などの情報を手に入れた。そして、旅立ちの準備が整うと下僕たちと供に阿讃の峰峰を東にへと向かった。これが空海の四国辺路への旅立ちであった。
私は四国辺路に旅立つ前に、空海は善通寺に帰ってきたと思っています。それは一族への報告のためと、今後の方針決定のためでもあります。もう一つは経済的な理由です。古代の辺路修行は、何人もの下僕を連れての修行でした。食事の準備などは下僕の仕事でした。室戸の海蝕洞窟の御厨人窟(みくろ)の「みくろ」は、調理スタッフのことだと研究者は指摘します。ここからも、修行者が下僕をつれていたことがうかがえます。修行者は修行だけに集中していたのです。そういう意味では、有力な富裕層の子弟でないと古代の山林修行はできるものではなかったようです。辺路修行には多額の資金や、人的なスタッフをそろえる必要があったことになります。その準備は父親の佐伯直田公の手で準備されたと私は考えています。
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その後の中寺は、平安期は国衙の保護を受け、大川山信仰の中宮寺として存続したようです。しかし、源平合戦の混乱や国衙機能の低下によって、保護者を失った中寺は平安末には退転していきます。それでも霊山である大川山への信仰は途絶えることはなかったようです。中寺に替わってあらたな山林修行者(修験者・修験道者)が登場します。彼らは、ここに権現を祀り、権現信仰の山としてリニューアルしていきます。大川山を取り巻く情勢については次回にお話しします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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