瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:中辺路

四国遍路形成史の問題として「大辺路、中辺路・小辺路」があります。熊野参拝道と同じように四国辺路にも、大・中・小の辺路ルートがあったことが指摘され、これが四国遍路につながって行くのではないかと研究者は考えているようです。今回は、この3つの辺路ルートについての研究史を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 四国辺路における大辺路・中辺路・小辺路 江戸時代の四国遍路を読む 49P」です。

江戸時代の四国遍路を読む | 武田 和昭 |本 | 通販 | Amazon

 大辺路・中辺路・小辺路の存在を最初に指摘したのは、近藤喜博です。
伊予の浄土寺の本堂厨子には、
室町時代の辺路者の次のような落書が残されています。

浄土寺厨子落書き
浄土寺の落書き(赤外線撮影)
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」
B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」
C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国中辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることが分かります。このような「四国中辺路」と書かれた落書きが、讃岐の国分寺や土佐一之宮からも見つかっています。
この落書きの「四国中辺路」について、近藤喜博はの「四国遍路(桜風社1971年)」で、次のように記します。

四国遍路(近藤喜博 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
古きはしらず、上に示した室町時代の四国遍路資料に、四国中遍路なるものが見えてていたことである。即ち
四国辺路(大永年間) 讃岐・国分寺楽書
四国辺路(永世年間)  同上
四国遍路(慶安年間)  伊予円明寺納札
とあるのがそれである。時期の多少の不同はあるにしても、この中遍路とは、霊場八十八ケ所のほぼ半分の札所を巡拝することを指すのであるのか。それとも四国の中央部を横断するミチの存在を指したものなのか、熊野路には、大辺路に対して中辺路が存在していたことに考慮してくると、海辺迂回の道に対して中辺路といった、ある短距離コースの存在が思われぬでもない。四国海辺を廻る大廻りの道は困難を伴う関係から、比較的近い道として中辺路が通じたのではなかったろうか。

ここでは土佐から伊予松山に貫ける道を示し、このルートが中辺路としてふさわしいとします。近藤氏は熊野に大辺路、中辺路があるように、四国にも、次のふたつの大・中辺路があったとします。
①足摺岬を大きく廻るコースを大辺路
②土佐の中央部から伊予・松山に至るコースを中辺路
①が足摺大回りルートで、②はショートカット・コースになるとしておきます。

Amazon.co.jp: 四国遍路: 歴史とこころ : 宮崎 忍勝: 本
宮崎忍勝『四国遍路』(朱鷺書房1985年)

宮崎忍勝氏は『四国遍路』(25P)で、49番札所の伊予・浄土寺の本堂厨子の墨書落書に書かれた「中辺路」について、次のように記します。

この「四国中邊路」とあるのは、ほかの落書にも「四国中」とあるので、四国の「中邊路(なかへじ)」ということではなく、四国中にある全体の邊路(へじ)を意味する。四国遍路の起源はこのように、四国の山岳、海辺に点在する辺地すなわち霊験所にとどまって、文字通り言語に絶す厳しい修行をしながら、また次の辺路(修行地)に移ってゆく、この辺路修行の辺路がいつのまにか「へんろ」と読まれるようになり、近世に入ると「遍路」と文字まで変わってしまったのである。

ここでは「四国中 邊路」と解釈し、邊路(へじ)とは、ルートでなく四国の修行地や霊地の場所のこととします。熊野路の「大辺路」、「中辺路」のような道ではなく、四国全体の辺路(修行地)が中辺路だというのです。
土佐民俗 第36号(1981) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
土佐民俗36号(土佐民俗学会)

高木啓夫は『土佐民俗』46号 1987年)に「南無弘法大師縁起―弘法人師とその呪術・その1」を発表し、その中で大遍路・中遍路・小遍路について、次のように解釈します。
①南無弘法大師縁起に、高野山参詣を33回することが四国遍路一度に相当するとの記載があること
②ここから小遍路とは高野山三十三度のこと
③「逆打ち七度が大遍路」
つまり遍路の回数によって大遍路・小遍路を分類したのです。しかし、中遍路については何も触れられていません。その後「土佐民俗」49号 1987年)の「大遍路・中遍路・小遍路考」で、次のように記されています。

「遍路一度仕タル輩ハ、タトエ十悪五ジャクの罪アルトモ、高野ノ山工三十三度参リタルニ当タルモノナリ」
の記述によって、高野山へ三十三度参詣した者を、四国遍路一度に相当するとして「小遍路」と称する。次に順打ちの道順での四国遍路二十一回するまでを「中遍路」と称する。次に、この中遍路三十一回を成就した上で、逆打ち七度の四国遍路をなした者、或はなそうとして巡礼している者を「大遍路」と称する。

ここでの解釈を要約しておくと、次のようになります。
①小遍路とは高野山へ33度の参詣
②中遍路は順打ち21度の四国遍路
③大遍路は中遍路21度と逆打ち7度
つまり高野山の参詣と逆打ちを関連づけて、遍路する場所と回数に重点をおいた説で、単に四国の札所だけを巡るものでなく、高野山も含めて考えるべきだとしました。

遊行と巡礼 (角川選書 192) | 五来 重 |本 | 通販 | Amazon

 五来重氏は『遊行と巡礼』(角川書店、1989年、119P)で、室戸岬の周辺を例に挙げて次のように記します。

辺路修行というのは、海岸にこのような巌があれば、これに抱きつくようにして旋遍行道したもので、これが小行道である。これに対して(室戸岬の)東寺と西寺の間を廻ることは中行道になろう。そしてこのような海岸の巌や、海の見える山上の巌を行道しながら、四国全体を廻ることが大行道で、これが四国辺路修行の四国遍路であったと、私は考えている。

つまり辺路修行の規模(距離)の長短が基準で、小辺路はひとつの行場、中辺路がいくつかの行場をめぐるもの、そして四国全体を廻る大行道の辺地修行が四国遍路とします。

四国遍路とはなにか」頼富本宏 [角川選書] - KADOKAWA

頼富本宏『四国遍路とはなにか」(角川学芸出版、1990)は、「四国中辺路」について次のように記します

遍路者を規定する言葉として、多くは「四国中辺路」や「四州中辺路」などという表現が用いられる。この場合の「中辺路」とは熊野参詣にみられる「大辺路」「中辺路」「小辺路」とは異なり、むしろ「四国の中(の道場)を辺路する」という意味であろう。なわち複数霊場を順に打つシステムとして、先に完成した四国観音順礼が四国の遍路の複数化に貢献したと考えられる。なおこの場合の「辺路」は「辺地」を修行する当初の辺路修行とは相違して「順礼」と同義とみなしてよい。

ここでは四国中辺路とは「四国中の霊場を辺路する」の意味で、四国全体を巡る「四国中、辺路」ということになります。
 

   
     四国遍路と世界の巡礼 最新研究にふれる八十八話 上 / 愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター/編 : 9784860373207 : 京都  大垣書店オンライン - 通販 - Yahoo!ショッピング                     

21世紀になって四国霊場のユネスコ登録を見据えて、霊場の調査研究が急速に進められ、各県から報告書が何冊も出され、研究成果が飛躍的に向上しました。その成果を背景に、あらたな説が出されるようになります。その代表的な報告書が「四国八十八ケ所霊場成立試論―大辺路・中辺路・小辺路の考察を中心として」 愛媛大学 四国辺路と世界の巡礼」研究会編」です。その論旨を見ていくことにします。
①霊場に残された墨書落書について、従来から論争のあった「四国、中辺路」か「四国中、辺路」について、「四国、中辺路」と結論づけます。
②中辺路は八十八ケ寺巡り、大辺路は八十八ケ所成立前からある「辺地修行」の系譜を引く広範なものとします。
③小辺路についてはよく分からないが、阿波一国参り、十ケ所参り、五ケ所参りなどの地域限定版の遍路があったことの可能性を指摘します。
ここでは小辺路とは、小地域を巡る規模の小さな辺路という考えが示されます。そして16世紀前半期の墨書落書きの「中辺路」の関係について、次のように指摘します。
①室町時代の落書きに見る「中辺路」は八十八ケ所成立前夜のこと
②大師信仰を背景に、霊場を巡る「辺路」が誕生したこと
③それはアマチュアの在家信者も行える「辺路(中辺路)」であったこと
④それに対してプロ修行者の「辺地修行」は「大辺路」であったこと
これは「室町時代後期=八十八ケ所成立説」になります。
 四国遍路の八十八 の札所の成立時期については、従来は次の3つがありました。
①室町時代前期説
②近世初期説
③正徳年間(1711-1716)以降説、
①については高知県土佐郡本川村越裏門地蔵堂の鰐口の裏側には「大旦那村所八十八ヶ所文明三(1471年)天右志願者時三月一日」とあります。

鰐口の図解
裏門地蔵堂の鰐口
ここから室町時代の 1471 年(文明 3)以前に、八十八カ所が成立していたとされてきました。しかし、この鰐口については、近年の詳細な調査によって「八十八カ所」と読めないことが明らかにされています。①説は成立しないようです。
③は、1689 年(元禄 2)刊行の『四国遍礼霊場記』には 94 の霊場が載せられていることです。その一方で、正徳年間以降の各種霊場案内記には、霊場の数は88 になっています。そのため札所の数が88 になるのは正徳年間以降であろうとする説です。しかし、この説も近年の研究によって『四国遍礼霊場記』には名所や霊験地も載せられ、それらを除外すると霊場数は88 となることが明らかにされていて、③説も成り立ち難いと研究者は考えているようです。そうなると、最も有力な説は②の「近世初期説」になります。
 そのような中で先ほど見た「大辺路・中辺路・小辺路」の研究史は「室町時代後期=八十八ケ所成立説」をとります。この点は、一度置いておいて研究史をもう少し見ておくことにします。

寺内浩は「古代中世における辺地修行のルートについて」(『四国遍路と世界の巡礼』第五号、四国遍路・世界の巡礼研究センター、令和2年、17P)で、 次のような批判を行っています。
「中辺路」は八十八ケ所巡り、「大辺路」は八十八ケ所成立前からある「辺地修行」の系譜を引く広範なものであって、むしろ奥深い山へ踏み込むことが多かった」として、「小辺路」はのちに各地で何ケ所参りと呼ばれるようになる地域的な巡礼としている。このうち、大辺路・中辺路については基本的に支持できるが、小辺路については賛成できない。同じ辺路なのに大辺路・中辺路は四国を巡り歩くが、小辺路だけ特定の地域しか巡らないとするのは疑問である。
 (中略)大辺路と中辺路の違いが、訪れる聖地・霊験地の数にあるならば、小辺路も、同じく四国を巡り歩くが、訪れる聖地・霊験地の数が中辺路より少ないものとすべきであろう。
ここでは「小辺路が特定の地域しか巡らないとするのは疑問」「小辺路も、同じく四国を巡り歩くが、訪れる聖地・霊験地の数が中辺路より少ないものとすべき」と指摘します。
 その上で小島博巳氏は、六十六部の本納経所の阿波・太竜寺、土佐・竹林寺、伊予・大宝寺、讃岐・善通寺を結ぶ行程のようなものが小辺路ではないかとの説を提示します。

これらの先行研究史の検討の上に、武田和昭は次のような見解を述べます。
①「大辺路・中辺路・小辺路」がみられるのは、1688(元禄元)年刊行の『御伝記』が初出であること。そして『御伝記』は『根本縁起』(慶長頃制作)を元にして制作されたもの。
②『根本縁起』には「辺路を三十三度、中辺路を七度させ給う」とあり、大・中・小辺路は見られない。「大辺路・中辺路・小辺路」の文言は『御伝記』の作者やその周辺の人達の造語と考えられる。
③胡光氏の「中辺路は八十八ケ所、大辺路はそれを上回る規模の大きなもの、小辺路は小地域の辺路」の解釈は、澄禅、真念、『御伝記』などの史料から裏付けれる
④小辺路については1730(享保十五)年写本の『弘法大師御停記』に「大遍路七度、中遍路二十一度、小辺路と申して七ケ所の納る」とあり、小辺路について「七ケ所辺路」と記していることからも、胡氏の説が裏付けられる。
⑤しかし、室町後期の墨書は「四国辺路」と「四国中辺路」に分けられ、大辺路、小辺路はみられない。
⑥「四国中辺路」は、『根本縁起』に「辺路を三十三度、中辺路を七度させ給う」とあるので、辺路よりも中辺路の方が距離や規模が大きい
⑦『御伝記』の「大辺路・中辺路・小辺路」の「中辺路」と室町後期の墨書「中辺路」とは成立過程が異質。
以上から八十八ケ所の成立を室町時代後期に遡らせることは、現段階での辺路資料からは難しいと武田和昭は考えているようです。
以上、「大辺路・中辺路・小辺路」の研究史を通じて、四国遍路の成立時期を探ってみました。その結果、現在では四国遍路の成立については2つの説があることを押さえておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭 四国辺路における大辺路・中辺路・小辺路 江戸時代の四国遍路を読む 49P」
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  今は四国霊場の本堂に落書をすれば犯罪です。しかし、戦国時代に退転していた霊場札所の中には、住職もおらず本堂に四国辺路者が上がり込んで一夜を過ごしていたこともあったようです。そして、彼らは納経札を納めるのと同じ感覚で、本堂や厨子に「落書き」を書き付けています。今回は500年前の四国辺路者が残した落書きを見ていくことにします。
テキストは    「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

浄土寺
浄土寺
伊予の49番浄土寺の現在の本堂を建立したのは、伊予の河野氏です。
河野通信が源義経の召しに応じて壇ノ浦の合戦に軍船を出して、熊野水軍とともに源氏を勝利に導きました。この時に熊野水軍が500隻ぐらいの船を出しだのに対して、河野水軍はその半分の250隻ほど出したといわれています。その後、河野氏は伊予の北半分の守護になりました。その保護を受けて再興されたようです。

空也上人像と不動明王像の説明板 - 松山市、浄土寺の写真 - トリップアドバイザー

この寺の本尊の釈迦如来はですが秘仏で、本堂の厨子の中に入っています。
浄土寺厨子
浄土寺の厨子

その厨子には、室町時代の辺路者の次のような落書が残されています。
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」
B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」
C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることを押さえておきます。

浄土寺厨子落書き
浄土寺の落書き(赤外線照射版)
本尊厨子には、この他にも次の落書があります。
D 金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国
E 金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年二月九日
F 左恵 同行二人 大永八(1528)年八月
ここからは次のようなことが分かります。
④翌年2月には、金剛峯寺(高野山)山谷上の善空という僧が6人で四国辺路を行っていたこと
⑥同年8月にも左恵が同行二人で四国辺路をしていること。
「本尊厨子に、書写山や高野山からやって来た宗教者が落書きをするとは、なんぞや」と、いうのが現在の私たちの第1印象かも知れません。まあ倫理観は、少し横に置いておいて次を見ていきます。

土佐神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
土佐神社(神仏分離前は札所だった)

30番土佐一宮拝殿には、次のような落書きが残されています。
四国辺路の身共只一人、城州之住人藤原富光是也、元亀二年(1571)弐月計七日書也
あらあら御はりやなふなふ何共やどなく、此宮にとまり申候、か(書)きを(置)くもかたみ(形見)となれや筆の跡、我はいづく(何処)の土となるとも、
ここからは次のようなことが分かります。
①単身で四国遍路中だった城州(京都南部)の住人が、宿もなく一宮の拝殿に入り込み一夜を過ごした。
②その時に遺言のつもりで次の歌を書き残した。
この拝殿の壁に書き残した筆の跡が形見になるかもしれない。私は、どこの土となって眠るのか。

同じ年の6月には、次のような落書きが書かれています。
元亀二(1571)年六月五日 全松
高連法師(中略) 六郎兵衛 四郎二郎 忠四郎 藤次郎 四郎二郎 妙才 妙勝 泰法法師  為六親眷属也。 南無阿弥陀仏
 元亀2年(1571)には高連法師と泰法法師とともに先達となって六親眷属の俗人を四国辺路に連れてきています。法師というのは修験者のことなので、彼らが四国辺路の先達役を務めていたことがうかがえます。時は、長宗我部元親が四国制圧に乗り出す少し前の戦国時代です。最後に「南無阿弥陀仏」とあるので、念仏阿弥陀信仰をもつ念仏聖だったことがうかがえます。そうだとすれば、先達の高連法師は、高野の念仏聖かも知れません。

国分寺の千手観音
千手観音立像(国分寺) 
80番讃岐国分寺(高松市)の本尊千手観音のお腹や腰のあたりにも、次のような落書きがあるようです。
同行五人 大永八(1528)年五月廿日
①□□谷上院穏□

同行五人 大永八年五月廿日
四州中辺路同行三人
六月廿□日 三位慶□

①の「□□谷上院穏□」は消えかけています。しかし、これは先ほど見た伊予の浄土寺「金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四国」と同一人物で、金剛峯寺惣職善空のことのようです。どこにでも落書きして、こまった高野山の坊主やと思っていると、善空は辺路したすべての霊場に落書をのこした可能性があると研究者は指摘します。こうなると落書きと云うよりも、納札の意味をもっていた可能性もあると研究者は考えています。
ちなみに伊予浄土寺の落書きが5月4日の日付で、讃岐国分寺が5月20日の日付です。ここからは松山から高松まで16日で辺路していることになります。今とあまり変わらないペースだったことになります。ということは、善空は各札書の奥の院などには足を運んでいないし、行も行っていないことがうかがえます。プロの修験者でない節もあります。 
 讃岐番国分寺には、本尊以外にも落書があります。
落書された本堂の板壁が、後世に屋根の野地板に転用されて残っていました。
①当国井之原庄天福寺客僧教□良識
②四国中辺路同行二人 ③納申候□□らん
④永正十年七月十四日
ここからは次のようなことが分かります。
①からは「当国(讃岐)井之原庄天福寺・客僧教□良識が中辺路の途中で書いたこと。
②良識が四国中辺路を行っていたこと
③「納申候□□らん」からは、板壁などに墨書することで札納めと考えていた節があること
④永正十年(1513)は、札所に残された落書の中では一番古く、これを書いたのが良識であること。

①の「当国井之原庄天福寺客僧良識」についてもう少し詳しく見ていくことにします。
「当国井之原庄」とは讃岐国井原庄(いのはらのしょう)で、高松市香南町・香川町から塩江町一帯のことです。その庄域については、冠尾八幡宮(現冠櫻神社)由緒には、川東・岡・由佐・横井・吉光・池内・西庄からなる由佐郷と、川内原・東谷・西谷からなる安原三カ山を含むとあります。
岡舘跡・由佐城
天福寺は中世の岡舘近くにあった
「天福寺」は、高松市香南町岡の美応山宝勝院天福寺と研究者は考えています。この寺は、神仏分離以前には由佐の冠櫻神社の別当寺でした。

天福寺
天福寺

天福寺由来記には、次のような事が記されています。
①創建時は清性寺といい、行基が草堂を構え、自分で彫った薬師像を祀ったことに始まること、
②のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎としたこと、
③円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学としたこと
ここでも真言・天台のふたつの流れを含み込む密教教学の場であると同時に、修験者たちの寺であったことがうかがえます。それを裏付けるように、天福寺の境内には、享保8年(1723)と明和7年(1770)の六十六部の廻国供養塔があります。ここからは江戸時代になっても、この寺は廻国行者との関係があったことが分かります。

 次に「天福寺客僧教□良識」の「客僧」とは、どんな存在なのでしょうか。
修行や勧進のため旅をしている僧、あるいは他寺や在俗の家に客として滞在している僧のことのようです。ここからは、31歳の「良識」は修行のための四国中辺路中で、天福寺に客僧として滞在していたと推察できます。
 以前にお話ししましたが、良識はもうひとつ痕跡を讃岐に残しています。
白峰寺の経筒に「四国讃岐住侶良識」とあり、晩年の良識が有力者に依頼され代参六十六部として法華経を納経したことが刻まれています。
経筒 白峰寺 (1)
良識が白峰寺(西院)に奉納した経筒

 中央には、上位に「釈迦如来」を示す種字「バク」、
続けて「奉納一乗真文六十六施内一部」
右側に「十羅刹女 四国讃岐住侶良識
左側に「三十番神」 「檀那下野国 道清」
更に右側外側に「享禄五季」、
更に左側外側に「今月今日」
経筒には「享禄五季」「今月今日」と紀年銘があるので、享禄5年(1532)年に奉納されたことが分かります。ここからは、1513年に四国中辺路を行っていた良識は、その20年後には、代参六十六部として白峰寺に経筒を奉納していたことになります。
 さらに、良識はただの高野聖ではなかったようです。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」のことが次のように記されています。
高野山金剛三味院の住持で、讃岐国に生まれ、弘治2年(1556)に74歳で没した人物。

金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した将軍家の菩提寺のひとつです。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などの堂宇が整備されていきます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多かったようで、良識の前後の住持も、次のように讃岐出身者で占められています。
第30長老 良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水)
第31長老 良識(讃州之人)
第32長老 良昌(讃州財田所生 現三豊市財田町)
良識は良恩と同じように、讃岐の長命寺・金蔵(倉)寺を兼帯し、天文14年(1545)に権大僧都になっています。「良識」が、金剛三味院文書と同一人物だとすれば、次のような経歴が浮かんできます。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、良恩を継いで、金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
享禄3年(1530)に没した良恩の死後に直ちに長老となったのであれば、長老となった2年後の享禄5年(1532)に日本国内の六十六部に奉納経するために廻国に出たことになります。しかし、金剛三味院の50歳の長老が全国廻国に出るのでしょうか、また「四国讃岐住侶良識」と名乗っていることも違和感があります。どうして「金剛三味院第31世長老」と名乗らないのでしょうか。これらの疑問点については、今後の検討課題のようです。

以上から、良識は若いときに、四国辺路を行って讃岐国分寺に落書きを残し、高野山の長老就任後には、六十六部として白峰寺に経筒を奉納したことを押さえておきます。有力者からの代参を頼まれての四国辺路や六十六部だったのかもしれませんが、彼の中では、「四国辺路・六十六部・高野聖」という活動は、矛盾しない行為であったようです。

以上、戦国時代の四国辺路に残された落書きを見てきました。
ここからは次のようなことがうかがえます。
①16世紀は本尊や厨子などに、落書きが書けるような甘い管理状態下にあったこと。それほど札所が退転していたこと。
②高野山や書写山などに拠点を置く聖や修験者が四国辺路を行っていたこと。
③その中には、先達として俗人を誘引し、集団で四国辺路を行っているものもいたこと。
④辺路者の中には、納札替わりに落書きを残したと考えられる節もあること。
⑤国分寺に落書きを残した天福寺(高松市香南町)客僧の良識は、高野聖として四国辺路を行い、後には六十六部として、白峰寺に経筒を奉納している。高野聖にとって、六十六部と四国辺路の垣根は低かったことがうかがえる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
             「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

明治38年四国八十八ヶ所納経帳(讃岐国詳細) | 古今御朱印研究室
根香寺納経帳(明治38年)
根香寺の歴史を見てきましたが、もうひとつ踏み込んだ説明が欲しいなあと思っていると、報告書の最後に「考察」部がありました。ここに私が疑問に思うことに対する「回答」がいくつかありましたので紹介しておきたいと思います。テキストは「上野進  古代・中世における根香寺  根香寺調査報告書 香川県教育委員会2012年版127P」です。

 根香寺の開創は、縁起にどのように書かれているのか
根香寺の縁起としては『根香寺略縁起』(1)と『青峰山根香寺記』(2)があります。前者は住職俊海が著したもので、俊海の住職期間が享保17年(1732)~寛保元年(1741)なので、その頃に書かれたようです。後者は延享3年(1746)に次の住職である受潤が著したもので、開基円珍の事跡を物語風に延べ、寺歴も詳細に記されています。このふたつの縁起が近接して書かれた背景には、直前の大火があったようです。この時の大火でほとんどを消失いた根香寺は再建と同時に、失われた縁起などの再作成が課題となったのでしょう。それに二人の住職は、それぞれの立場で応えようとしたようです。
ふたつの縁起で、根香寺開創の事情を簡単に見ておきます。

根香寺 青峰山根香寺縁起
『青峰山根香寺略縁起』:

当山は円珍が初めて結界した地で、円珍が七体千手のうち千眼千手の像を安置し、さらに山内鎮護のために不動明王を彫り、安置した

『青峰山根香寺記』:

根香寺 青峰山根香寺記
根香寺は円珍の創立で、中国から帰国し、讃岐国原田村の自在王堂に円珍が数か月逗留した際、しばしば山野をめぐり、訪れた青峰において老翁(山の主である市瀬明神)と遊遁し、この老翁から「当地が観音応化の地で三谷があり、蓮華谷に金堂を造立して本尊を安置せよ」と告げられた。
 そこで円珍は香木で造った千手千眼の観音像を当山に安置し、また不動明王像も自作し安置した。神が現れた地には祠を立て、鎮守として祀った
どちらも「根香寺=円珍単独開創説」をとります。
円珍は金倉寺が誕生地で、母は空海の佐伯家から嫁いできていた伝えられます。唐から帰国後の円珍が讃岐に滞在する時間はあったのでしょうか。『讃岐国鶏足山金倉寺縁起』には、天安2年(858)9月、円珍が大宰府から平安京に向かう途中で、金倉寺の前身である道善寺に逗留したと伝えます。しかし、これを事実とみるのは難しいと研究者は考えています。ただし、3年後の貞観3年(861)、円珍が道善寺の新堂合の落慶斎会に招かれたとの寺伝があるようです。 この頃、円珍が故郷に帰省していた可能性はあると考える研究者もいるようです。 
 寛文9年(1669)の『御料分中宮由来。同寺々由来』にも根香寺が「貞観年中智証大師の造立」とあり、貞観年間(859~877)に円珍が根香寺を開創したとという認識があったことがうかがえます。しかし、円珍による根香寺開創を史料的に裏づけることは難しく、伝承の域を出ないと研究者は考えています。

P1120199根来寺 千手観音
根香寺本尊の千手観音
『根香寺略縁起』は、本尊千手観音の「複数同木説」を採ります。
これに対して後から書かれた『青峰山根香寺記』は、円珍と老翁(市瀬明神)の出会いに重点が置かれます。このちがいは、どこからきているのでしょうか?このことを考えるうえで参考となるのが、前札所の第81番札所白峰寺の『白峯寺縁起』(1406年)だと研究者は指摘します。『白峯寺縁起』には、次のように記されています。

空海が五色台に地を定め、貞観2年に円珍が山の守護神の老翁に会い、十体の仏像を造立し、49院を草創した。そして十体の仏像のうち、4体の千手観音が白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置された。

ここにからは『根香寺略縁起』は、円珍が同木から複数の仏像をつくったとする「複数同木説」を採っています。これは『白峯寺縁起』と共通していて、 このような見方が早くからあったことがうかがえます。

根香寺古図左 地名入り
青峰山根香寺記を絵図化した根香寺古図 右下に円珍と明神の出会い

 これに対して『青峰山根香寺記』は、複数同木説を採りません。
しかし、円珍と老翁の出会いをスタートにする点では『白峯寺縁起』と似ています。『青峰山根香寺記』は、老翁を地主市瀬明神として登場させることによって独自性を出そうとしているようにも見えます。ここからは『青峰山根香寺記』が作成された時期の根香寺が、独自な縁起を必要としていたことがうかがわせると研究者は指摘します。
以上のように、古代の根香寺について具体的に明らかにできることは少ないのですが『根香寺略縁起』と『青峰山根香寺記』は『白峯寺縁起』との類似性が認められること、そして前者は複数同木説を採用し、『白峯寺縁起』にみえる伝承を受け継いでいることを押さえておきます。

次に、山岳寺院としての根香寺を見ていくことにします
『白峯寺縁起』のなかに十体の仏像を造立し、このうち4体の千手観音を、白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置したとありました。ここに出てくる根来寺以外の3つの寺院を整理しておきます。
白峯寺は「五色台」の西方、白峯山上に位置する山岳寺院
吉水寺は近世に無住となったが、白峯寺と根香寺の間に位置した山岳寺院
白牛寺は、白牛山と号する国分寺のことで、「五色台」のすぐ南の平地にあること。

古代の根香寺は、白峯寺・吉水寺と同じように「五色台」の山岳寺院の一つとで、山林修行の行場であったと研究者は考えています。
僧侶の山林修行の必要性は早くから国家も認めていました。古代の支配者が密教に求めたものは、「悪霊から身を守ってくれる護摩祈祷」でした。空海の弟真雅は、天皇家や貴族との深いつながりを持つようになりますが、彼の役割は「天皇家の専属祈祷師」として「宮中に24年間待機」することでした。そこでは「霊験あらたかな法力」が求められたのであり、それは「山林修行」によって得られると考えられました。そのため国家や国府も直営の山林寺院を準備するようになります。
 それが讃岐では、まんのう町の大川山の山中に姿を現した中寺廃寺になつようです。
中寺廃寺跡 仏塔5jpg
中寺廃寺復元図(まんのう町)
ここにはお堂や塔も造られ、高級品の陶器や古代の独古なども出土しています。設立には、国衙が関わっていると報告書は記します。
 同じような視点で国分寺を見てみましょう。
『白峯寺縁起』には、白牛寺(国分寺)の名が、「五色台」の山林寺院と並んであげられていました。これは、平地部の国分寺が五色台の山岳寺院とセットとなっていたことを示すと研究者は推測します。
七宝山縁起 行道ルート3
七宝山の中辺路ルートと山林寺院
 例えば、三豊の七宝山は観音寺から曼荼羅寺までの「中辺路」ルートの修行コースで、そこに観音寺や本山寺などの拠点があったことは以前にお話ししました。善通寺の五岳も曼荼羅寺から弥谷寺への「中辺路」ルートであった可能性があります。同じように国分寺の背後の五色台にも、「中辺路ルート」があり、その行場の近くに根香寺は姿を見せたと私は考えています。

根香寺の山林寺院としての古代創建説を裏付ける文献史料はありませんが、次のような状況証拠はあるようです。
①根香寺に近い勝賀山北東麓に位置する勝賀廃寺は、白鳳期に創建された寺院跡とされます。根香寺が勝賀廃寺と同じ頃に草創された可能性はあります。
②根香寺の本堂裏の「根香寺経塚」の存在です。ここからは浄土教が広まり、仏縁を結んで救済されようとした人々がいたことが分かります。あるいは青峯山が修験の行場としての性格をもっていたのかもしれません。経典を写経し、周辺行場で修行し、それが終わると次の聖地に廻国していく修験者の姿が見えてきます。

四国遍路の成立については、近年の研究者は次のように段階的に形成されてきたと考えるようになっています。
①平安時代に登場する僧侶などの「辺路修行」を原型とし、
②その延長線上に鎌倉・室町時代のプロの修験者たちによる修行としての「四国辺路」が形成され
③江戸時代に八十八カ所の確立されてからアマチュア遍路による「四国遍路」の成立
つまり中世の「辺地修行」から近世の「四国遍路」へという二段階成立説が有力なようです。中世の「四国辺路」は、修行のプロによる修行的要素が強く残る段階です。「辺路修行を」宗教民俗学者の五来重は、行場をめぐる「大中小行道」の3つに分類します。
①海岸沿いに四国全体を回る「大行道(辺路)」
②近隣の複数の聖地をめぐる「中行道(辺路)」
③堂宇や岩の周りを回る「小行道(辺路)」
ここから海を望む「四国遍路」誕生を発想しました。例えば例として示すのが室戸岬の金剛頂寺(西寺)と最御崎寺(東寺)との関係です。近世の「遍路」は順路に従って、お札を納めて朱印を頂いて行くだけです。しかし、中世の行者たちは岩に何日も籠もり、西寺と東寺を毎日往復する行を行い、同時に西寺下の行道岩の周りをめぐったり、座禅を行ったりしていたようです。これが②③になります。それも一日ではなく、満足のいくまで繰り返すのです。それが「験(げん)を積む」ことで「修行」なのです。これをやらないと法力は高まりません。ゲーム的にいうならば、修行ポイントを高めないと「ボスキャラ」は倒せないのです。

どちらにしても中世のプロの行者たちは、ひとつの行場に長い間とどまりました。
そのためには、拠点になる建物も必要になります。こうしてお堂が姿を現し、「空海修行の地」と云われるようになると行者も数多くやって来るようになり、お堂に住み着き定住化する行者(僧)も出てきます。それが寺院へと発展していきます。これらの山林寺院は、行者によって結ばれ、「山林寺院ネットワーク」で結ばれていました。これが「中辺路」へと成長して行くと研究者は考えているようです。
 そこを拠点にして、弥谷寺のように周辺の里に布教活動を行う高野聖のような行者も現れます。当然、そこには浄土=阿弥陀信仰が入ってきて、阿弥陀仏も祀られることになります。それが七宝山や五岳、五色台では、同時進行で進んでいたと私は考えています。
以上から古代の根香寺については、「五色台」の山岳寺院の一つとして「中辺路」ルートの拠点寺となっていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「上野進  古代・中世における根香寺  根香寺調査報告書 教育委員会2012年版127P」
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