瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:丸亀の歴史散歩

金毘羅領の成立    県史
上の表は『新編香川叢書・史料篇・』に収められた金毘羅大権現別当金光院への寄進地一覧です。ここからは次のような情報が読み取れます。
①金光院への寄進は、関ヶ原の戦い後の慶長12(1607)年に、生駒家3代の当主たちによって行われた。
②慶安元(1648)年に、生駒家の寄進地が幕府朱印地330石に統合されたこと。
③寛文13(1673)年に、松平頼重が三条村(丸亀市三条町)に50石を寄進した。
②の社領330石を統合したのは、初代髙松藩藩主の松平頼重です。
③については、金刀比羅宮史料八巻には、次のように記します。
寛文十三(1673)発丑年霊元天皇御宇
 一、正月十日讃岐高松城主松平讃岐守頼重、那珂郡三条村に於て、御供領、不体仏堂領、神馬領として、高五十石を献ず  
ここからは1673年に松平頼重が、仲郡三条村で神馬料高30石・千休仏頷10石・御供田10石、合計50石を寄進したことが分かります。この中の「御供田(ごくでん、おともだ、おくだなど)」とは、神仏に供えるお米(神饌米)を栽培するために使われた田んぼのことです。
 三条村は、もともとは木徳村の中の「三条免場」と呼ばれた所です。ここには元和四年三月に生駒正悛から寄進されていた23石5斗の社領がありました。それに並んだ所に、頼重は50石の土地を寄進したようです。そのため後世になると「三条村の御供田」とか「三条村の朱印地」と呼ばれるようになります。
今回は③の松平頼重が寄進した三条村の御供田と寺領を見ていくことにします。テキストは「丸亀の歴史散歩」237Pです。
 
金刀比羅街道 与北茶屋 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会 与北茶屋と皇宮神社(美屋)と御供田
この絵図からは次のような情報が読み取れます。
①金毘羅街道沿いに与北の茶屋があったこと
②手前が与北の皇宮(美屋)神社の社叢と社人の家があること
③左隅に「金ヒラ(金毘羅) 御供田」と書かれて、松並木道が続いていること
この三条の御供田は、どのあたりにあったのでしょうか。金刀比羅宮に残された地図を見てみましょう。
金刀比羅宮寺領 三条御供田2
          三条御経田絵図(金刀比羅宮蔵)  伊与勢池が見える
この絵図には、右隅に伊予勢池が書き込まれています。この池の東側から北に向けて一帯が寺領と御供田があったことが分かります。それを簡略図で表すと次のようになります。
金刀比羅宮の寺領 丸亀三条
この地図からは次のような情報が読み取れます。
①寺領(金光院に寄進)がA~Hと南北にならんでいたこと。
②その中のEが御供田であったこと。
③伊予勢池の南側が、三条村(現丸亀市)と与北村(現善通寺市)の境界であったこと。
④広さは数町歩(数㌶)
③はかつては、髙松藩と松亀藩の境界でもありました。ここでは、松平頼重は自藩の一番西の三条村の土地を金毘羅に寄進したこと、その土地は伊予勢を水源としていたこと、寺領の中の一部(E)が御供田だったことを押さえておきます。

御供田(図のE)を耕作していたのが香西氏です。その子孫の方が次のように述べています。

 御供田が他と異なる点は濯漑用水である。この付近の田は通常伊予勢池と桝池の水を使用するのであるが、社領地はその外に与北にある買田池の水も引くことができた。御供田はさらに買田池の寸ノ水までも使えることになっていた。寸ノ水というのは池底に残る少量の水のことで、一般の濯漑用水には使用せず、旱魅の際に翌年の種籾を採るためにのみ使われるものであった。
 旱天で御供田に買田池の水を入れなければならなくなった場合には、与北部落の人々とともに早朝から水路に立ち、池から水が流れ出せば赤い旗を立て、水の流れに従って旗を下流へ次々に掲げ、御供田へ水を引く。夕方、八反歩の御供田が満水となれば、逆に順次水上へ 旗を倒して終了となる。この日には終日、赤い旗が買田池までの水路に立ち並んだ。日照りが続く時には「水一升金一升」といわれるほど、水は農家にとって貴重であったので、亀裂している隣接の田に水が盗まれないよう監視したのである。
 最後に赤い旗が並んだの場1939年大旱魃の時だったようです。
御供田は金毘羅宮の神前に供える稲穂を献納したので、耕作には特別の配慮が払われた。
図のEの土地には昭和の初め頃まで松の大木が東側に四本、西側木徳町との境に五、六本並んでいたようです。昔はもっと多く、北側にもあって東・北・西の三方を囲んでいたと伝えられます。
  御供田は神に供える稲を作るために穢れをきらいました。 「金毘羅山名所図絵」には、御供田について次のように記します。
御供田 金刀比羅宮社領地と御供 金毘羅参詣名所図絵

御供田  高松太守御寄附五十石 六十三石
 御神田 三条村にあり。東西北の三おもては、なみまつにてかこめり。扨、田うゝるとて、地をかへすに、牛のくそましりなむことをいミて、しりに、ふごといふものをつけり。また並松には、しめ繩引はへて、年おひたるかきりの女をつとひてかく。よのつねのこやしをもちゆる事なく、象頭山の下草をかりて、こやしにかへ用ゆ。もとより秋さくのミにして、あたしものをうゆる事なし。

意訳変換しておくと

御供田  高松藩主(松平頼重)公の御寄附五十石 六十三石
御神田は、三条村にある。東西北の三面は、松並木に囲まれている。神に奉納する扨を収穫するために、田植えの時に、耕しするときにも、牛の糞が入ることを忌み、牛の尻に「ふご」をつける。また松並木には、しめ繩を引いて、年寄りの女を集めて田植えを行う。人糞や堆肥を使うことはなく、象頭山の下草を刈敷として肥やしにして用いる。もちろん一回だけの耕作で、二毛作は行わない。
雪の色を うはひて見ゆる 真しらかの おうなかうゝる みとしろの小田   青 野
守糸に題いろ糸や 御山の露の したゝりに 名物三八餅 苗田村ニアリ    碧 松
鐘の声 また幽かなり 春の旅  
ここからは次のような情報が読み取れます。
①穢れを嫌うために、代かき時の牛の尻には「ふご」をつける。
②堆肥は使わずに、象頭山から刈ってきた刈敷の芝草が使用された。
③田植えの日には周囲の松の木に注連縄を張り巡らし、近村からも老婆の参集を求めた。
④耕作は神に捧げる稲だけで、二毛作はしない

秋になると、収穫に先立ちよく稔った稲穂を一反に、一束ずつ集め、支配人が羽織袴に威儀を正して金毘羅宮へ奉献し、その後で社領地の米と同じ様にお山蔵へ納めました。お山蔵は善通寺街道に沿う地図上のM点にあったようです。
 現在の伊予勢周辺をGoogleマップで見ておきましょう。
御供田 金刀比羅宮社領地と御供2
丸亀市三条町伊予勢池 
伊予勢池と中池の東側に寺領と御供田が南北に並んでいたことになります。それは髙松藩と丸亀藩の境界でもありました。また、一帯は条里制跡が良く残っています。「三条」自体が、那珂郡の三条にあたります。三条は上図の東側のと西側の赤いラインに挟まれたエリアになります。条里制復元図を見ておきましょう。
三条の金刀比羅寺領 珂郡条里三条14里
那珂郡条里三条附近復元図
この復元図では19坪が、御供田だったことになります。そして伊予勢池の南側の実線には、余剰帯があります。余剰帯がともなう条里は、かつてそこが「大道」であったことが各地から報告されています。
この余剰帯を東にたった飯山の岸の上遺跡、西に辿った四国学院遺跡からも余剰帯が出てきています。これは東西に一直線につながります。このラインが古代の南海道だと近年の発掘調査は語るようになっています。

南海道 金倉川
那珂郡三条十四里が南海道
南海道 郡家
 郡家の古代寺院の宝幢寺跡の南を通過している南海道
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「丸亀の歴史散歩」237P
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 中世後半に丸亀平野の開発は進められますが、最後まで手がつけられず残されたのは土器川や金倉川の氾濫原でした。
二つの川の氾濫原は台風などの洪水の度に、水に流され湿地化していたことが想像できます。その開発に着手するのが生駒藩です。生駒藩は築城技術を民生の土木工事に転用し、霞堤防などの新技術を用いて、土器川・金倉川の流路変更をおこないつつ、コントロール下に置くことに成功します。こうして17世紀初頭に丸亀平野の両河川の氾濫原の開発が急速に進みます。その際に、生駒藩が取ったのが「入植者や開発した耕地は、入植者のものになる」という原則です。この結果、讃岐だけでなく他国からも氾濫原への入植者たちがやってきます。

芸予海賊木谷氏の多度津葛原への移住

金倉川沿いの葛原開発を行った木谷氏は、芸予諸島の村上水軍の出身だとされますが、秀吉の海賊禁止令を受けて早い時期に海賊稼業に見切りをつけて、多度津にやってきて開発定住者となっていきます。その際に、資金と一族の団結が大きな力となったことは以前にお話ししました。前置きが長くなりました。
 そういう目で土器川流域を見てみると、小谷氏と同じような他国からの有力開発者集団の痕跡が見えて来ます。今回はそれを「丸亀の歴史散歩」で追いかけてみようと思います。

丸亀の歴史散歩(直井武久) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
丸亀の歴史散歩 直井武久 昭和58年

 土器川の氾濫原を開いた開拓者一族として「丸亀の歴史散歩」が挙げるのが堀田氏です。
 県道4号(長尾線)とR11号が交差する西村の南東に堀田家本家はあります。

土器川下流 西村 上分 堀田家
                   明治39年測量図
土器川下流 西村 上分 堀田家2
土器川
下流の土地条件図 西村周辺に旧河道があることが分かります。
 江戸時代の初め、堀田英直は丸亀藩主山崎家に仕え農人町に住んでいたが、山崎家が絶家となったのでやむなく①土器の西村へ移り住んだ。そこで初代英直、二代忠直は、西村の荒れ地を開拓した。②直行の弟直道は、土器川の東を開き、本家から分かれて上分に住み為光安太夫と名乗り、③後に高松藩の大森家に仕え百十石の騎馬役となった。④本家四代目の弥三郎直美も牛窪家の騎馬役となった。五代目を弥三郎直俊といい、関口新心流兵法の居合免許を持ち、大森家の与力となっていた。
このころ著された進藤政量の讃岐廻遊記に「堀田家の庭は、その風景並びなく、庭に茶庭もあり……」と記されている通り、直俊は武術だけでなく風流もたしなんだ。遠心流生花伝授の資格を持ち、茶道にも造詣が深く、茶会をしばしば催し、挿花、床飾りにも通暁していた。
さらに敬神の念が厚く、④今日吉岡神社の参道入り口にある一対の常夜燈にその名が残っている。
 直俊は天保六年(1835)に亡くなった。その墓には次の辞世の歌がある。
  彼岸へ行そ楽しきさゝの舟 常無風の吹に任せて
ここからは堀田家の土器川開発について次のような情報が読み取れます。
①堀田家は,山崎藩断絶後に土器川左岸(西側)の土器町西村を拠点に開発に着手した
②その後、分家が右岸の土器町上分を開拓した。
③本家・分家ともに、髙松藩の有力家臣の騎馬役や与力を務めた。
④吉岡神社の参道入口の一対の常夜灯を寄進している
こうしてみると、堀田家が丸亀城内から西村にやってきて帰農したのは山崎藩断絶後のことで17世紀後半になるようです。その時点でも土器川両岸の西村や上分には氾濫原の原野が拡がっていたことになります。堀田家は、髙松藩の騎馬役に取り建てられることによって、家格を安定させています。
香川叢書第二(名著出版1972年)には「高松領郷中帯刀人別」には騎馬役として次のようなリストが挙げられています。

高松藩帯刀人 他所牢人。郷騎馬
高松領郷中帯刀人別 郷騎馬・他所牢人代々帯刀

郷騎馬は武士ではなく在郷の帯刀人です。注記を意訳しておくと、
(藩主の)年頭の御礼・御前立の間に並ぶことができる。扇子五本入りの箱がその前に置かれ、お目見えが許される。代官を召し連れる。
一 総領の子は親が仕えていれば、引き続いて帯刀を許す。
一 役職を離れた場合は、帯刀はできず百姓に戻る。
郷騎馬は、連枝や家老格に従う騎乗武士で、馬の飼育や訓練に適した村から選ばれたようです。役職を離れた場合には百姓に戻ると書いてあります。郷騎馬として出陣するためには、若党や草履取などの従者と、具足や馬具・鈴等の武装も調えなければなりません。相当な財力がないと務まらない役目です。また馬場などの広い土地も必要でした。開発後も、土器川周辺にはそのような原野が残っていたことが考えられます。ちなみに髙松藩の騎馬役は6名で、この時には堀田家の名前は見えません。

堀田家よりも少し上流の二子山の東側で開発を進めた
進藤家を見ていくことにします。

丸亀市二子山 明治39年

 双子山から土器川の間の氾濫原を開発したのが進藤家です。その墓地が土器川堤防の下にあります。ここは進藤家の江戸時代以降の墓で観音堂もあったようです。このあたりは土器町の南端にあたり、小字は樋渡です。
この墓地からさらに約300m北にも墓があります。この墓が、進藤家の初期のもののようです。進藤家の由来は次のように記します。
①京の近衛家に仕えていたが、近衛家の播州姫路や丹波へ亡命を守護し、土着
②その後、讃岐へ一族郎党36名で移ることになった
③姫路から土器川河口まで船でやってきて、河口からは小舟に乗り換え、川を遡って樋渡に着いた。
④36人とは武田、大西、河西、岩崎、上村、村上、高倉氏らをいう。
⑤ここに屋敷を構えた一族は荒れ地を開いたが、堤防がなかったので土器川の氾濫で屋敷や田畑はしばしば水害に見舞われた。
⑥先ほど見た初期の墓は、五代高信と六代高利のもので、高利は元和四年(1618)没
⑦それ以後の墓は水害の少ない南方へ移した。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①近衛家護衛集団の一族と称しますが、集団で生駒藩の時代に国外からやってきた武士集団であったこと
②土器川河口が湊で、二子山辺りまでは川船が遡っていたこと
③荒れ地を拓いたときには堤防はなく、洪水のたびに舘や田畑がながされたこと
④一族の墓が土器川沿いに作られ、その後その前に堤防が作られたこと。
⑤初期の墓からは川西への入植が生駒藩時代だったこと
その後、進藤家は、享保20年(1735)から高松藩の庄屋や大庄屋並みの役を五代にわたって務めています。
最後に、寺院が開発の核となった丸亀南中学校周辺を見ておきましょう。

南中周辺
丸亀南中周辺 左が明治39年地理院発行 右が土地条件図 
このふたつの地図からは次のような情報が読み取れます。
①丸亀南中学校は、ふたつの池を埋めた上につくられていること
②馬池や宮池は、旧土器川跡に作られた溜池であること。
③南中の南には、原、大林(おおばえ)など、かつての原野を連想する地名が残ること
④原集落は微高地の上に立地し、その真ん中に東光寺があること。
まず東光寺について見ていくことにします。
 
この寺は天文年間に誓玄という僧が開基したとい伝えられます。その地点は、もともとは祚原の三本松(今の正面寺集落)で本光寺として建立されたのが始まりのようです。建立者について、寺の記録は「清水宗晴(長左衛門尉、後の宗洽)の次男釈清厳か讃州柿原郷に住居し本光寺を開基す」と記します。ここに登場する清水宗晴は、豊臣秀吉の備中高松城の水攻めの際に、清水宗治や兄の月清入道らを自刃させ、その代わりとして城兵を助け和議を結んだ人物のようです。その次男が開いたとします。つまり、武人出身者によって開かれた真宗寺院ということになります。
 祚原にあった本光寺は、元禄年間に寺の東に光り輝く霊光を見て現在の原に移され、名を東光寺と改めたとされます。現在丸亀南中学がある一帯について「丸亀の歴史散歩」は次のように記します。
この附近は、木や茅などの茂った未開の地で、今日地名として残っている郡家の原、大林、川西の原などは濯木の続く原野であったと思われる。その原野の一隅に東光寺ができてから人々が次第に姚まり聚落ができていったが、これは歴代住職の学徳に負うところが多い。

元禄年間(17世紀末に)に柞原から、原野の中の「原」に東光寺が移ってきて地域の開発センターの役割を果たすことになります。
七代住職了空は東光寺中興の高僧と慕われている。了空は児峰とも号し、仏典に精通していたので遠近を問わず教えを乞う仏弟子が多かった。また村民には農産業の知識技術を授け、希望する者には読み書きも教え、民衆から慈父の如く慕われた。  
 了空は安永七年(1778)80歳で没し、左の辞世の歌と詩を残している。
  ながき世の苦しき海は夢なれや 今宵は法の 舟にひかれて
  八十年来 何の為す所ぞ  すべて苦患に沈み 一事無し
  た’ゝ 今夜願船に乗るを喜ぶ しばしの間彼の地の蓮台に坐すべし
 七代住職了空のもとで、「農民に農作業の知識技術」を与えとありますが、原野の開発を進めたのもこの時期のことなのでしょう。つまり、南中一帯も元禄年果敢までは原野だった。それを開発したのが東光寺の了空と、その門徒集団だったと私は考えています。未開墾地の原や大林に、開墾拠点を移し、東光寺を中心に真宗門徒たちが団結し、周辺を開発していったことが見えて来ます。東光寺によって拓かれた南中周辺と云えそうです。
 幕末から明治の初めにかけて東光寺では、近隣の子弟に読み書きを教えていました。そのため、この塾が双山小学校になります。東光寺の双山小学校は、児童増加に対応して、春日神社の東の竜王へ移されたようです。

近世の土器川開発者

以上、堀田家と進藤家や東光寺による土器川氾濫原の開発について見てきました。共通しているのは近世になっても、土器川の氾濫原は放置されていたところが多かったと点を押さえておきます。そして江戸時代になって開発の手が入ります。その主体は、農民達ではなく有力な武士団が帰農して入植したり、寺院が開発センターの役割を果たしていることです。
古代からの丸亀平野開発の経緯をまとめておきます。
古代の丸亀平野は土器川や金倉川の作りだした扇状地で、その上をいくつもの川筋が「山田の大蛇」のように暴れていました。そのため古代人たちは、微高地に住居を建てて湧き出してくる湧水を水源として、限られた範囲を耕作していました。古代の丸亀平野は、照葉樹の森の中に切り開かれた耕地が展開するという光景だったようです。現在の全面水田が拡がる光景とはほど遠かったのです。発掘調査からは律令制の基盤となる条里制工事が行われたのは全体の3~4割程度で、半分は畑で、潅漑施設が整い水田化されていたのはその半分見も満たないとされています。
 それが大きく変化するのは中世になってからです。原因はよく分かりませんが地殻変動などで、それまでの河道が大きく変化し、固定化されるようになります。その結果、洪水危険範囲が狭まります。同時に、それまでの潅漑用水が使えなくなり、新たな用水開発が求められるようになります。それに対応したのが、中世の名主層です。また鎌倉時代に地頭や西遷御家人として讃岐にやってきた東国の武士団も治水潅漑工事を進めたことは以前にお話ししました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
直井武久 丸亀の歴史散歩  昭和58年 263P
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