瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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丸亀城  山﨑時代の城郭絵図2
①が現在の裁判所付近
前回は大手町が明治以後は丸亀12連隊の兵舎や倉庫、病院になっていたことを見ました。今回は発掘地点の丸亀裁判所には、江戸時代には誰の屋敷があって、住人がどのように移り変わっていったのかを見ていくことにします。
丸亀連隊 西端
内堀の向こうに見えるのが丸亀十二連隊 

そのために、まずやらなければならないことは発掘地点が絵図のどの辺りにあたるかを確定しなければなりません。普通は道路などで簡単に現在位置との関係が分かるのですが、ここではそうは行かないようです。明治の連隊建設の際に、敷地が奇麗さっぱりと更地にされているからです。調査地周辺は、目印になるものがほとんど残っていません。街路も近世には鉤状に屈曲する部分がありましたが、近代の連隊建設の際に、街路は直線的な道路へと作り替えられました。そのため街路も基準になりません。そうなると、基準点は現在の道路にも引き継がれる外堀くらいになります。
   外堀を基準に、基準線を引くプロセスは以下の通りです。
①西隣の郵便局の西側から出土している①外堀遺構を基準点にする
②発掘エリアから出てきた2本の屋敷割の溝②までの距離の確認
③のマンション建設の発掘調査区から石組みの護岸を持つ溝の西側の肩の確認
以上のような基準点を地図上に落としたものが次の下図①②③になるようです。

丸亀城大手町屋敷割り

報告書は、これを嘉永8年の絵図と比較し、基準線を次のように決めていきます。
①西側の外堀(旧R11号)から外堀沿いの屋敷地・屋敷地東の街路を超え、今回調査地が位置する屋敷地の大区画の西端に至るには、街路②の距離を仮に数間程度と見積もると、10間以上(約18m)の距離が想定される。
②最も西端の岩間長屋の区画の東西幅は27間(48.6m)なので、全体では70m弱になります。
③外堀のラインから今回調査地までの距離を計測し、その条件に最も近いものは2区の区画施設である(約75m)。
以上から検出された溝②を、屋敷間の区画施設(ライン)と考えます。
次のような理由を挙げてこの溝②が区画であることを補足します。
①この溝の近辺から多く廃棄土坑がでてくること
②溝のすぐ東に丼戸があること
③溝を境として出土する陶磁器破片の組成が違うこと
こうして区画②が屋敷間の区画であるとします。
 以上からこの発掘地点は、嘉永7年絵図の「岩間長屋」「高宮」にあたると結論づけます。こうして、江戸時代の絵図から裁判所周辺の屋敷変遷を見ることが出来るようになります。
丸亀城 大手町居住者19jpg

上の絵図は享和2年(1802年)作成のもので、裁判所付近の屋敷を切り取ったものです。
①は「林求馬」と読めます。彼は以前にお話ししたように、多度津陣屋や湛甫の建設に尽力し、藩政改革を進めた多度津藩の家老です。そして、その屋敷と背向かいにあるのが②「御用所」です。これは多度津藩の政庁になります。多度津藩は、分家しても陣屋を構えずに丸亀城下内のここに政庁を置いていたのです。つまり本家への「間借り状態」にありました。それが、幕末がちかづくにつれて自立心が高まり、本家丸亀藩からの自立・独立路線を指向するようになります。その動きが新たな陣屋建設でした。この後多度津藩は、家老林求馬によって完成した陣屋に移って行くことになります。この周辺は家臣の氏名から、多度津藩に関係のある家臣の屋敷が多いと研究者は指摘します。
江戸時代の8つの絵図資料に記された屋敷図を模式化して示すと次のようになります。
丸亀城 大手町居住者変遷表

絵図を簡略化し、居住者が書かれています。例えば山崎藩時代の正保の「讃岐国丸亀城絵図」には、屋敷の主の名前はなく「侍屋敷」としか書かれていませんのでこうなります。
次の「元禄年間丸亀城下図」には、林求馬の屋敷の所が「壱岐守」となっています。これは、分家して成立したばかりの多度津藩藩主のことです。多度津藩藩主は、本家京極藩の家老の屋敷よりもはるかに小さい屋敷です。別の所に本宅はあったのかもしれません。そして、多度津藩の「御用所」は「御配所」とあります。これは当時丸亀藩に預けられていた、日蓮宗の僧日尭、日了の配流地だったことを示しています。

1832(天保3)年の絵図に記された住人達を視てみましょう。
多度津藩御用所のあった部分が空白になっています。それ以外の区画についても住人変更があったようです。これは、さきほと述べたように陣屋完成に伴って、多度津藩の藩士達が多度津に住居を移したためと考えられます。一方、一番西の「岩万長屋」の住人は、多度津藩士でなかったのでしょう。

次のような居住者の変更があったことが分かります。
①1692年(?⇒原田、実態不明)
②1692年~1802年(原田⇒伴)
③1802~1830年代(伴⇒高宮)
④1865年前後(高官⇒連隊建物)
この4つのタイミングで居住者の変更が起こっています。
大手町の丸亀地裁エリアの遺構がどんな変遷を経ているのか、またそれにはどんな事件が背景に考えられるのかを報告書は教えてくれます。その変更背景を、報告書は次のような図に整理して提示しています。表の左側が遺物や遺構の整理から導かれる年代、右側が、丸亀城下町や大手前の出来事です。
丸亀城大手町 裁判所付近時代区分表

第一の画期は、京極家による「城下の再整備」が考えられます。丸亀城Ⅰ期です。
 山崎藩時代には城の南側にあった大手門を付け替え、北側に移したことです。これに伴い城下の再整備計画が行われ、屋敷地や拝領地にも変更がうまれ、スクラップ&ビルドが行われたことが考えられます。この時期に、廃棄された瓦が大量に出てくることがそれを裏付けます。新しい主の京極氏によって、建物の建て替えなどが行われたとしておきましょう。
第2の画期は、18世紀後半代から始まり、19世紀の初めごろまで続きます。
この時期に、瓦などの廃棄物を埋めた土坑が屋敷の中にいくつも掘られています。これはこの時期に屋根の葺替えと、それに伴う瓦の廃棄があったことが考えられます。安永7年(1777年)に、二の守の修理が行われたことが、銘が刻まれた瓦から分かっています。その「大工事」に伴って瓦の大きな需要や生産体制の変化があったこと推測できます。それに伴い城下での瓦の消費拡大が起き、廃棄瓦の増加という形になったことが考えられます。
 それ以外には、先ほど述べたように多度津藩が自前の陣屋を築いて丸亀城下町から出ていったことです。ここでも住民異動によるリフォームなどで古い瓦の大量廃棄が起きたことが考えられます。これが第2の画期と報告書は指摘します。それは、この発掘エリアの一番西側の岩間長屋では、この時期の遺構は少なく、この変動が及ばなかったことが裏付けとなります。
第3の画期は、明治になっての陸軍歩兵12聯隊の建設です。
これは前回にお話ししたように、大手町全体の屋敷地引き払いを伴う大規模な接収でした。具体的には城の北側の内堀と外堀に挟まれた広大なエリアが国に摂取されます。そして、そこに建っていた家臣団の屋敷は解体破棄されたのです。そのエリアをもう一度地図で確認しておきましょう。
丸亀連隊 エリア地図
ピンクの部分が連隊用地として買い上げれたエリア
 
 建物の解体ももちろんですが、道の形状もそれまでの城下町特有の折れ曲がったりしたところが直線化されています。そのため街路に面していた区画も取り壊された所があるようです。
 例えば発掘エリアの岩間長屋からは、土塀瓦のほかに、京極家の家紋が施された軒九瓦、軒平瓦が出てきます。この付近には京極家と関係のある屋敷はありません。これはかつての多度津御用所や、周辺の塀などの解体が同時に進み、それが併せてここに掘られた廃棄穴に投棄されたものと報告書は推測しています。

以上をまとめておくと
①山崎氏から京極氏に藩主が変わり、城の大門が南から北に移設されたに伴い城下町の再編成が行われ、建築群もスクラップ&ビルドが行われた。
②裁判所周辺には多度津藩の政庁が置かれ、周辺には多度津藩士の屋敷が集まっていた。それが多度津陣屋の建設で退去し、大幅な寿運変更が行われた。その際にも廃棄瓦の量が増えている。
③明治になって十二連隊が設置されることに成り、大手町全体が国により買収された。藩士は屋敷を売り、全員がここから退去した。
④その後に、丸亀十二連隊の施設が作られ敗戦まで設置されていた。⑤丸亀城下町は、そういう意味では「軍都」であった。
⑥戦後、その後に市庁舎などの公共的な建築物が立ち並ぶエリアとなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高松家裁・地裁丸亀支部庁舎新営工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 丸亀城(大手町地区)2018年

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丸亀連隊 裁判所

  丸亀城の北側の大手前地区は市役所や裁判所などの公的施設が多いエリアです。そこでは近年の建て替え工事に伴う発掘調査が行われ、その報告書も何冊か出ています。今回は丸亀裁判所の発掘調査報告書(2018年)を見てみたいと思います。
 このエリアは内堀と外堀に挟まれて大手町の西の端です。郵便局の西側を通る旧R11号がかつての外堀にあたります。郵便局の発掘の際に、その遺構も確認できているようです。大手前エリアでは中心部から離れているので、二百石前後の中級家臣団の屋敷が並んでいたようです。
このエリアを発掘して、まず顔を覗かせてくる遺構は何でしょうか? 
わたしはぼんやりと、京極時代の屋敷跡が出てくると思っていました。しかし、それは大間違い。年表を確認しておきましょう。
1597年(慶長2年)に、生駒親正が西讃岐支配の拠点として丸亀城築城開始
1615年(慶長20年)一国一城令により、丸亀城はいったん廃城
1643年(正保元年)山崎家治が幕府からの許可を得、丸亀城の再築開始。
1658年(万治元年)山崎家断絶により京極氏が入封。城の整備と城下町の開発を継続
1670年(寛文10年)大手門を南側から北側に移し、「再開発」事業展開。
1688年(元禄元年) 丸亀藩から多度津藩分封。
1827年 多度津藩の陣屋完成 多度津藩家臣団の丸亀城下寄りの退去
1875年 丸亀歩兵第12連隊設置 
16世紀末に、生駒氏によって丸亀城は開かれ、その後一国一城令で廃城。その後、西讃の領主として入ってきた山崎氏によって、再築。しかし、築城途中で山崎藩は廃絶。替わって、京極氏の下で大門の移動など「再編整備」が進んだことが分かります。また、このエリアは、多度津藩主の邸宅や御用所、家臣の屋敷があったようです。

丸亀連隊

年表の一番最後に注目。
明治になって大手町地区は、陸軍歩兵第12聯隊の兵舎が造営されているのです。これは大手町全体の接収と屋敷地の引払いを伴う大規模な工事でした。具体的には城の北側の内堀と外堀に挟まれた広大なエリアが国に接収されます。その経緯は次の通りです。
明治6(1873)年4月、旧武家屋敷地一番丁から四番丁(旧丸龜縣庁、旧藩刑法局、元家老・佐脇邸、他元藩士87家)に丸龜營所の設置を決定、名東縣(現、香川県)に通達します。
名東縣高松支所は区長・戸長に命じて、該当用地59,463坪を45,243円(土地16,908円、移転費用27,375円、輸送費960円)で買収(費用は大蔵省が負担)
12月20日、御用地は陸軍省に受領され、営所・練兵場の建設開始
明治7(1874)年夏、五番丁から十番丁を新たに御用地に指定。五番丁を作業場用地として買収。
明治7(1874)年9月、丸龜營所が竣工、
12月4日、第十六、第二十四大隊が高松營所から移駐、
明治8(1875)年5月10日、両大隊により歩兵第十二聯隊編成

大手前の家臣団屋敷は、解体破棄されたのです。そのエリアを明治38年の地図で確認しておきましょう
丸亀連隊 明治38年

 この地図からは次のようなことが分かります。
①大手町地区は、東側が病院、西側が連隊駐屯地となったこと
②お城の東側に練兵場があったこと
③城下町特有の折れ曲がったりしたところが直線化されていること。そのため街路に面していた区画も取り壊された所があること。
  京極さんの家臣団が住んでいた大手町は駐屯地になったのです。お城の上から見てみましょう。ちなみに戦前は「軍事機密」のために一般人は、本丸などには登れなかったようです。
丸亀連隊 合体版
ここには12連隊兵舎の西半分が写されています。その右側は兵舎が並びます。
丸亀連隊8

 左側(西)は、真ん中の空地を囲むように兵舎が立ち並びます。こちらは倉庫群だったようです。さらに西側を拡大して見ましょう。
丸亀連隊 西端

とまどうのは手前の内堀の内側にも建物が数多くあることです。現在の芝生公園も建物で埋まっています。内堀の外側に沿っては兵舎倉庫が並びます。その西の突き当たりは外堀でが、すでに半分は埋め立てられ道路になっています。そのコーナーが現在の郵便局付近になります。裁判所は、その東側の兵舎の始まりあたりになりそうです。これだけの予備知識を持って、発掘現場を見てみましょう。

丸亀連隊 裁判所発掘地点
丸亀裁判所発掘エリア(白い空白部)
上図が今回の裁判所の発掘地点になるようです。
 ここからは、聯隊兵舎3棟が出てきました。建物1は第一大隊の倉庫で、その西端の一部のようです。建物1については、多度津町資料館に聯隊建設の際の設計図が残されていて、建物の構造が分かります。それを参考にして建物1の下部構造を模式的に復元したのが下図です。
丸亀連隊 倉庫下部構造

報告書はこれについて次のように述べています。
溝を掘り基盤を補強したのちに、レンガ積みにて外壁基礎を構築している。上部は、漆喰の壁を用いていたようである。床支えの柱が存在しており、それらが桁行2間存在し、その内側に外壁と同様の構造をもつ基礎と、屋根支えの柱列を2列立て、柱と柱の間を廊下としている。

この模式図を建物1に当てはめてみると、出土したのは外壁の基礎と床支えの柱穴だったことが分かります。図面に残される寸法では、外壁と柱の間隔が1、5mであり、遺構の間の距離と合致します。
建物1は、明治8年に建設され敗戦まで使われた第一大隊の倉庫としておきましょう。
丸亀連隊 正面
 丸亀十二連隊正面玄関 
 建物1に先行する建物2、3については、明治26年以降火災で消失したものを、再建したという記録があるようです。そのため建物2、3は焼失した明治8年段階の建物である可能性が高いと指摘します。建物2と3は軸を一にして並んでいたことから、同時に建っていた可能性が高いようです。発掘からは、明治8年にこれらの兵舎群が一斉に立ち並び始めたことがうかがえます。
面白いのは埋甕が出てきています。これを便所遺構と報告書は考えています。
丸亀連隊 発掘図
十二連隊の倉庫跡

それでは、取り壊された屋敷群の残土などはどのように処理されたのでしょうか。
それをうかがわせる廃棄穴が、発掘されています。発掘エリアの岩間長屋から出てきた廃棄穴からは、土塀瓦のほかに、京極家の家紋が施された軒九瓦、軒平瓦が出てきます。この付近には京極家と関係のある屋敷はありません。これはかつての多度津御用所や、周辺の塀などの解体が連隊建設のために同時に進み、それらが併せてここに掘られた廃棄穴に投棄されたものと報告書は推測しています。こうして、ここからは大量の瓦が出てくることになります。これは発掘者にとっては「宝の山」です。高松城に比べて遅れていた丸亀城の瓦の編年編成資料の貴重なデーターとなるようです。

丸亀連隊 瓦変遷
 
こうして明治に建てられた十二連隊の兵舎跡層をはぐることによって、江戸時代の層が出てきたことになります。そして、それは明治の兵舎建設のために更地にされた破棄現場だったのです。
 その下に眠る江戸時代の屋敷跡については、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高松家裁・地裁丸亀支部庁舎新営工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 丸亀城(大手町地区)2018年



 丸亀港と云えば福島港を連想します。しかし、福島港が丸亀城下町の看板港になるのは19世紀になってからのようです。福島港がどのように発展してきたのかを絵図で追いかけて見ようと思います。
まずは、時代をぐーんと遡って、丸亀平野の地質から始めましょう。

丸亀平野の扇状地

丸亀平野は、①土器川と②金倉川の扇状地をベースにできています。この二つの川が、暴れ狂う龍のように流れを変えながら扇状地を形成します。それが黄色で現されています。④の丸亀競技状付近がその先端になることが発掘調査からも分かっています。そこから北は、その後の縄文海進や堆積作用で氾濫平野が形成されていきます。つまり、丸亀城のある亀山は、湿原の中にぽっかりと浮かぶ小島のような形であった可能性があります。山北八幡神社の由緒書きには、満潮時には亀山までの波が打ちよせていたと記されているのは前回見たとおりです。裏付け史料として丸亀平野の条里制遺構を見ておきましょう
丸亀平野北部 条里制

 ⑥が丸亀城です。この周囲は真っ白で、条里制遺構はありません。湿地帯で耕地には適さなかったようです。ついてに、亀山が鵜足郡と那珂郡の境界上にあること、③の金倉川流域にも条里制遺構がないことを押さえておきます。 

それでは、亀山の北はどうなっていたのでしょうか。拡大して見ましょう。
丸亀平野 地質図拡大版

  亀山(丸亀城)から北には、氾濫平野が広がりますが、古代には満潮時には海面下になりますので人が住むことは出来ません。人が住めるのは、亀山から西に伸びる微髙地です。現在の南条町あたりになります。
 ここで注目したいのは、海際には砂州①と砂州②が東西に伸びていることです。これは、流路を変えながら金倉川と土器川が運んできた砂が海岸線に沿って堆積したものです。古代には、土器川と金倉川の河口は、砂州で結ばれていたようです。よく見ると砂州①と②は、丸亀駅付近で途切れています。ここが西汐入川の海への出口となります。そうすると砂州①が現在の御供所、平山町になります。そして砂州②の東先端付近が福島町になるようです。
古代丸亀周辺の砂州と流路を見てみましょう。
丸亀の砂嘴・砂堆

砂州①②以外にも、砂州③④⑤があります。この砂州と川の流路の関係を考えて見ます。現在この流域を流れているのは、上金倉を源流とする西汐入川です。この川は、北に向かって流れず東に向かって流れて、丸亀駅の西北で海に流れ出しています。どうして真っ直ぐに北に流れないのか不思議に思っていました。この地質図を見て納得することができます。東西に伸びる砂州が幾重にも待ち構え、西汐入川は北上できないのです。そこで東に流れ砂州①と②の間まで行って、やっと海へ出れることになります。

 この砂州①②は、近世初頭の絵図には、どのように描かれているのでしょうか?

丸亀城周辺 正保国絵図
1644年に丸亀藩山崎家が幕府に提出した正保国絵図です。
通目したいのは、丸亀城の北にある③と④の半島のような地形です。その先端には「舟番所」とあります。実は、③と④が先ほどの地質で見た砂州①②にあたると研究者は指摘します。
これを、同時期に作られた正保城絵図と比べて見ましょう
讃岐国丸亀絵図 拡大

 地質図で見たように砂州①②の間を⑤西汐入川が海に流れ出しています。そして、砂州1・2の先端には、それぞれ舟番所が描かれています。この絵図からは、砂州1の上には、宇多津から移住してきた三浦(御供所・西平山・北平山)の家並みが海沿いに続きます。
 一方、砂州2には番所があるだけで民家の姿は見えません。この砂州2は、西汐入川によって隔てられ「中須賀」と呼ばれていました。この無人の砂州が福島町に発展していくようです。そのプロセスを追ってみましょう。
延宝元年(1673)になって、大工七左衛門ら16人が、藩に中須賀に家を建てたいと願い出ます。

丸亀城下町比較地図41

具体的には、南側の波打ち線際から八間下がったところに幅三間の道を東西に伸ばし、その道に沿い表口10間奥行25間を一屋敷とし、屋敷は船作事場と菜園にしたいという願い出でした。「船作事場」を行うのですから申し出た大工は、船大工だったことが分かります。当時は、塩飽が幕府の海上輸送を独占し、船の需要がうなぎ登りの時代です。その波及効果が海を越えて丸亀城下町にも及んでいたようです。船大工にとって海に近い方が何かと便利だったのでしょう。

 六年後の延宝七年になって、 一戸につき表口五間、裏へ二〇間の屋敷と、西の方では五間に二〇間の菜園場が認められることになりました。その代わりとして、 一屋敷12匁の納入を求められます。これを16戸が負担し、計192匁を町役銀として納入することになります。その際に、戸数が増えても、この金額は変わらないという約束を取り付けます。
丸亀城下町比較地図51

こうして貞享元年(1684)から砂州の上に家の建築が始まります。
3年後には、最初に申し出た16屋敷とほかに8屋敷増えて、計24屋敷がそれまで無人だった砂州に軒を並べることになります。同時に、新しい街の氏神様として天満官を勧進し、共同井戸も掘り、4年後の元禄元年(1688)には弁財天も祀るようになります。
  しかし、浜町から海を隔てた洲浜の地で生活することは何かと不便です。その上、いざというときの藩船の御用にも間に合わないこともあります。
そこで、元禄三(1690)年、濱町と結ぶ橋の架橋願いを出します。
丸亀城 福島町

藩はこれを認めて、銀一貫五〇〇匁を支給します。こうして、藩の普請奉行のもと人足600人が架橋工事に当たります。資金が不足したので、大坂の安古町さかいや惣兵衛から丁銀で一貫目を借りています。さらに町から上納する192匁をこの橋のため用立てることが許されたます。こうして元禄四(1691年2月に橋は完成します。当時の藩主高豊がこの橋を「福島橋」と命名します。この橋名にちなんで、中須賀の町は以後は福島町と呼ばれるようになります。橋の長さは15間5尺で、場所は現在のJR丸亀駅の東の重元果物店の西北の所にありました。
坂本龍馬が渡った福島橋の欄干と常夜燈(丸亀市) | 自然、戦跡、ときどき龍馬
福島橋の欄干と常夜灯
福島橋と町の変遷を、「古法便覧」は、次のように記します。
宝永四年(1707)、福島橋床石垣普請、人足千人ご用立をし、福島側より普請。
享保四年(1719)、福島橋新たに仕替えるため銀五貫目拝借し、無利子十年返済の達しあり
享保六年(1721)福島橋の石垣が崩れ落ちた。橋が長くなったためで、修理のために町と三浦から費用の半分負担を申せ付けられた。
享保十年(1725) 福島にて相撲を行う。
元文二年(1737)正玄寺・善龍寺にて芝居興行が許可、これまで芝居は停止されていたが、福島町は橋修復資金のために興行許可が下りた。
元文三年(1738)橋架け替えのため藩の舟子の道具を拝借したいと、藩の船頭に申し出た。
元文四年(1739)福島橋の銀については大年寄も承知しておくこと。
宝暦三年(1753)、橋修復のため芝居興行を願いでたが不許可。その代わり銀二貫目、無利子拝借し七年返済とした。
同年六月、福島橋開通記念の時に、大年寄・御用聴役らが行列の押えに出るよう求められ、祝儀に 樽一荷、生鯛一折をいただいた
天明元年(1781、橋架掛替と山北八幡官の御祭礼があり、お上より御祝儀として白銀10枚下
された。

これを見るとたびたび架け替え修復が必要だったことが分かります。改修費は福島町の住民負担でした。公共事業だから藩が面倒見ると云うわけではないようです。そのため間役銀・棒役は免除されています。また橋の維持費をひねり出すために芝居興行をひんぱんに催しています。

福島橋の掛け替えについては、次の文書もあります。
一福島橋の儀、先年は春秋両度芝居の徳用銀等を以て、掛替修覆等仕り来り候の処、去る天保午歳掛替の節は入用銀調達相成り難く、拠んどころ無く十八貫目拝借御願ひ中上候の処、 貧町の事故、 その後上納も三、四度にて柳の上納、その余の処は今以て上納に相成中さず候の処、その後弘化三午歳板替の節も過分の入箇に御座候えども、最早拝借の儀も中上げ難く、町内にて色々心配仕り漸く出来に相成り……(中略)
……最早近年の内には、板・欄干等取替中さずては相成り難く、貧町にて右様過分の入箇まで引受け罷りあり候儀も御座候につき何様にても、以来の通り定間割に仰せつけなされ下され度く候事
安政三丙辰十一月                     福島町
意訳変換しておくと
福島橋の件について、前回は春秋の度芝居の徳用銀収入で、掛替修覆費を賄いました。また天保の掛替の時にはは入用銀調達が困難で、仕方なく十八貫目を拝借しての掛け替えとなりました。貧しい町のことですので、 その後の上納も未だ完済できていません。その後、弘化三の橋の板替の時も過分の援助をいただいており。これ以上拝借することもできません。町内では、色々と心配しております。(中略)
……最早近年の内には、板・欄干などの取替を行わなければなりません。貧町の福島町には過分の出費を負担することもできませんので、これまで通りの定間割を仰せつけていただけるようにお願い申し上げます。
安政三(1856)年十一月                      福島町

 ここからは、福島橋の修復が町民のおおきな負担であると同時に、橋修理費を捻出するために芝居や相撲の勧進を町を挙げて行っていたことが分かります。それが町民の団結力となっていたのかもしれません。

 西讃府志には、戸数198、人口989(男490、女499),馬3。寺は白蓮社・大師堂・庵、神祠は天満宮2・弁財天、白蓮社が玄要寺院内より移されています。庵は西山寺へ、天満宮と弁財天は寛保元年に合祀(現市杵島神社)して、福島弁天として信仰を集めるようになります。町の東側に船着き場があったので、金毘羅参拝客の増加と共に繁栄するようになります。
福島町が表玄関になるのは、文化3年に福島湛甫が作られてからです。

丸亀城 福島町3

福島湛甫は東西61間・南北50間・入口18間・満潮時水深1丈余で、役夫延5万人余・此扶持米485石余・石工賃銀18貫の経費で完成します。丸亀繁昌記には、材木問屋が軒を並べて賑わう湛甫近辺の様子が記されています。福島湛甫の完成で、丸亀港の航行が容易となり安全性も高まります。さらに、金毘羅船で上陸した旅客は福島町内を通り浜町方面へと向かうため、町内の旅籠、土産物屋などが急増し福島町は、その目抜き通りとしてにぎわうことになります。それまでは、御供所の東汐入川の川口に入港していた客船は、この福島湛甫を目指すようになり、西汐入川川口に繋留されるようになります。金毘羅船の船着き場も移動したようです。

丸亀城 福島湛甫

 以後、金毘羅船の発着で幕末に向けて飛躍的な発展を遂げることになります。その利益をもとに、持舟をもち、海上商品輸送などに乗り出していく商人も増え、丸亀の商業的中心になっていきます。
丸亀城 今昔比較図

この橋がなくなるのは、浜町と福島町の間の西汐入川が埋め立てられてからのことになります。それは、明治43(1910)年の西汐入川付け替え工事が始まるまで待たなければなりませんでした。これについては以前にお話ししましたので、絵図だけ紹介しておきます。
丸亀市実測図明治 注記入り

明治34年 鉄道が通過し丸亀駅が完成。その裏を西汐入川が流れています。

11929年(昭和4年)

丸亀駅の裏を流れていた西汐入川のルートが変更されました。そして旧川跡は埋め立てられ新町となります。
以上をまとめておくと
①古代の丸亀城のある亀山は、湿地の中に浮かぶ島で、海岸線には東西に砂州が伸びていた。
②そのため古代は耕作地としては適さず、条里制遺構も残っていない。
③近世には砂州①の背後は畑地として耕作されるようになり、砂州①上には宇多津からの移住者の家並みが海沿いにならぶようになった。
④西側の砂州②は中須賀とよばれる無人の砂地であった
⑤そこに船大工たちが家と作業所を建てて暮らし始めると、人々が移り住むようになった
⑦不便なために藩に申し出て橋を建設し、その橋を藩主は福島橋と命名した。そのため町の名前も福島町と呼ばれるようになった。
⑧福島湛甫ができると金比羅船の発着として発展するようになり繁華街となった。
⑨資本蓄積を重ねた商人の中には、持ち舟を持ち商業資本として活躍する者も現れた。
⑩明治になって鉄道が通過するようになり駅裏開発のために西汐入川が埋めたてられ「新町」となった。
⑪こうして福島橋は、お役御免と成り撤去された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史4近世 

  
 「寺社の由緒記・縁起等は一般には信じ難い」といいながら丸亀市史は、山北八幡神社の由緒記を参考にして、お城が出来る前の丸亀周辺のことを探ろうとします。史料がないので、使えるものは批判的に使わなければ書けません。
山北八幡官の由緒記には、古代の丸亀浦について、次のように記されています。
①神功皇后が三韓へ出兵した帰途、この地の波越山(亀山=丸亀城)に風波を避けた折、土地の人が清水を献じ、船も修理した。
②波越山(亀山)の山麓は近くまで潮の満干があり、船造りや修理などをし、舟山神も祀っていた。
③波越山の形は円く、朝日によって西の方に長く影ができ、亀の這うのに似ており、土地の人は円亀山・神山と書き、「かみやま、かめやま」と呼んだ。
④国司讃岐守藤原楓磨が宝亀二年(771)宇佐八幡官に準じて祠をつくり祀った。この祠を土地の人は石清水八幡と尊崇し氏神とした。
ここからは、古くは亀山まで潮の干満が押し寄せていたこと、そこに浪越神が祀られていたこと、さらに八幡神が勧進され八幡神社が鎮座していたことが記されます。この八幡神社が山北八幡神社のようです。つまり「神山=亀山」として霊山でもあったことがうかがえます。
『万葉集』には、柿本人麻呂が丸亀の西にある「中之水門」から舟出して佐美島へ渡りつくった歌「玉藻よし 讃岐の国は国柄か……」があります。「中之水門=那珂郡の湊=中津」と考える人も多いようです。
「道隆寺温故記」には、延久五年(1073)国司讃岐守藤原隆任が、円亀の山北八幡を旧領に造営したと記されています。堀江港の交易管理管理センターとして機能した道隆寺の傘下に置かれていたようです。山北八幡神社を氏子して信仰する集団が、周辺にはいたこともうかがえます。
 古代の条里制遺構を見てみましょう
丸亀平野北部 条里制

⑥の丸亀城は、鵜足郡と那珂郡の境に立地することが分かります。条里で呼ぶと那珂郡1条24里あたりになるようです。しかし、丸亀城のある亀山周辺には条里制遺構は残っていません。23里より北に条里制が残っているのは微高性の尾根上地域が北に続く2条や4条だけです。
 現在の標高5mラインを仮想海岸線だったすると亀山の麓は海浜で、確かに満潮時には波が打ち寄せていたことが想像できます。そこに浪越神が祀られ、後には八幡宮が勧進されたというストーリーが考えられます。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

以前に見たように地質図からも丸亀城周辺は、砂州であったことが分かります。

南海通記には 『南海通記』、 次のように記します。
①享徳元年(1452)、 細川勝元が室町幕府の管領職となった
②その後に、細川家四天王と称せられた香川・香西・安富・奈良の四氏に讃岐の地を与えた。
③鵜足・那珂の旗頭になった奈良元安は、畿内を本領としていたが、子弟を讃岐に派遣し鵜足津の聖通寺山に居城させた。
④その下に、長尾・新目・本目・法勲寺・金倉寺・三谷寺・円亀の城があった
 ここには、15世紀半の奈良氏統治下の那珂郡には、円亀山に支城があったと記されています。しかし、考古学的には確かめられていません。
その後、阿波三好勢力の侵入の中で、鵜足津エリアは篠原氏が支配することになますが、これもわずかのことで、長宗我部元親の制圧を経て、豊臣秀吉の四国統一の時代に入っていきます。

短期間の仙石・尾藤氏の讃岐支配に代わって、 生駒親正が讃岐の領主としてやってきます。彼の下で讃岐は中世から近世への時代の転換をとげていくことになります。
生駒親正がやってきた頃の丸亀の様子は、どうだったのでしょうか?
『西讃府志』の「市井」には次のように記されています。
此地 今ノ米屋町ヲ限り東側ハ鵜足郡津野郷二属キ、西側ヨリ那珂郡杵原郷二属開城以前ハ海浜ノ村ニテ、杵原郷ハ丸亀浦卜唱ヘテ高四百六石八斗九升三合ノ田畝アリ 津野郷ハ土居村トイヒケルフ、慶長六年(1601)其北辺二宇多津ナル平山ノ里人フ移シ 始テ三浦卜呼テ高百七十二石八斗八升ノ田畝アリヽ(以下略)
 意訳変換しておくと
この地は、今の米屋町から東は鵜足郡津野郷に属し、西側は那珂郡杵原郷に属する。丸亀城が開城される前は、海浜の村で杵原郷ハ丸亀浦と呼ばれていた。石高は468石8斗9升3合の田畝があった。一方津野郷は土居村と呼ばれ、慶長六(1601)年に、この北辺に宇多津の平山の里人を移住させて三浦と呼ぶようになった。その石高は172石8斗8升である。(以下略)

 ここからは、先ほど見たように丸亀は鵜足郡と那珂郡の境に位置して、米屋町より西は、那珂郡杵原郷に属する丸亀浦で、東は鵜足郡津郷の上居村だったことが分かります。生駒時代までに、海→海浜→農漁村へと「成長」していったようです。
 周辺の地形復元でも、那珂郡の海岸線には、いくつかの砂堆が南北に走っていたことが分かっています。扇状地としての丸亀平野が終わるとそこには、東西に砂堆が広がっていたことは、以前にもお話ししました。
丸亀城周辺 正保国絵図

元禄十年(1697)の「城下絵図」には、現在の通町の中ほどまでが入海となっています。③の砂州上に、三浦からやって来た人たちが人々が住み着きます。④の中洲は「中須賀」と呼ばれ、後に福島町に発展していきます。
 関ヶ原の戦いの後に、西国雄藩を押さえるために生駒親正・一正父子は高松城と丸亀城・引田城の同時築城を始めます。
それは瀬戸内海を北上してくる毛利軍や豊臣恩顧の大名達を仮想敵としての対応でした。このような緊張関係の中で、丸亀城や高松城は築かれたことは以前にお話ししました。生駒親正は西讃岐の鎮として亀山に築城し、この地を円亀と称すようになります。これが丸亀城の誕生になります。
 築城に先だって土器川と金倉川のルート変更を行ったことが指摘されています。
 亀山の東にある鵜足・那珂両郡の境界を流れていた土器川を約800mほど東へ移した。その川跡が外堀であるという説もあるようです。この外堀は、東汐入川によって海に連なります。
一方西側では、金倉川が北にある砂州によって流れを東へ東へと変えて、現在の西汐入川のルートでを流れていたようです。
金倉川流路変更 

これも上金倉で流路変更を行い、現在のルートにしたことが指摘されています。そして、外堀よりL字形の掘割をつくり海に連絡するようにします。こうして、土器川と金倉川の流路変更を行うことで、外堀の東西から海に続く東汐入川と西の掘割の間が城下となります。

丸亀城 生駒時代

尊経閣文庫の所蔵する生駒時代の丸亀城の絵図「讃州丸亀」を見てみましょう。
亀山の山頂には矢倉が設けられ、山下の北麓には山下屋敷があり、それらを囲んで内堀があります。内堀とその外にある外堀との間を侍屋敷とし、外堀の北方を城下町としています。築城以前は、こここは、海浜の砂堆で畑もあったかもしれません。
山下屋敷は、藩主一族かそれに次ぐ高級武土の居館だと研究者は考えているようです。この山下屋敷は、東・北・西の三方は高さ八間の石垣に囲まれた高台で、南は山腹に連なっています。広さは東西八〇間、南北三〇間の長方形の台地で、そこに屋敷があったようです。現在の紀念碑・観光案内所・うるし林の南の部分にあたるエリアです。この高台の北端は内堀より約20間南に当たります。
 丸亀城築城に伴い城下町形成も行われます。
そのために移住政策がとられます。記録に残る移住者達を視ておきましょう
①那珂郡の郡家に大池をつくり、南条郡国分村の関池を拡張し、香西郡笠井村の苔掛池などを掘ったと伝えられます。このとき、関池付近の住人が城下へ移されところが南条町であると云われます。南条町は地形的には亀山の西に続く高地にあたり、丸亀浦ではもっとも高く、もっとも早く人々が住み着き人家のできたところのようです。
丸亀市南条町塩飽町

また、南条町は西汐入川と外堀を結ぶ運河が城乾小学校の東側から北向地蔵堂を経て外堀にもつながっていました。いわゆる運輸交通網に面していたエリアです。ここに最初の人々が居を構えるのは納得できます。
② 豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に、生駒氏が朝鮮に出兵した時には、塩飽の水夫や鵜足津の三浦の水夫が従軍したと云われます。水軍整備の一環として、塩飽島民の一部が城下へ移されたと伝えられます。これらの人々は、南条町の東側に定住地が指定されたようです。これが塩飽町と呼ばれるようになります。

宇多津平山からの三浦漁夫の移住 
慶長六年(1601)、関ヶ原の戦いの後も、これで天下の行方に決着が着いたと考える人の方が少なかったようです。もう一戦ある。それにどう備えるかが大名たちの課題になります。ある意味、軍事的な緊張中は高まったのです。瀬戸内海沿いの徳川方の大名達は、大阪に攻め上る豊臣方の大名達を押しとどめ、大阪への進軍を防ぐことが自らの存在意義になると考えます。徳川秀忠をとうせんぼした真田家の瀬戸内版と云えばいいのでしょうか。そのための水城築城と水軍の組織強化が進められたと私は考えています。生駒氏が、丸亀・高松・引田という同時築城を、関ヶ原以後に行ったのは、このようなことが背景にあるようです。

丸亀市平山

 丸亀城築城中の生駒一正は、城下町形成のため、鵜足郡聖通寺山の北麓にある三浦から漁夫280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に移住さています。この三浦とは現在の御供所・北平山・西平山の三町になります。彼らをただの漁民とか水夫と見ると、本質は見えなくなります。塩飽の人名とアナロジーでとらえた方がよさそうです。この3つの浦は、中世には活発に交易活動を営んでおり、多くの廻船があり、交易業者がいた地区です。彼らはこれより前の文禄元年(1592)、 豊臣秀吉の命により朝鮮へ出兵した生駒親正に、 塩飽水夫650人、三浦の水夫280人が従軍しています。塩飽水軍と共に、水夫としてだけでなく、後方物資の輸送などにも関わっていたようです。彼らを城下町の海沿いエリアに「移住」させるということは何を狙っていたのか考えて見ましょう。
①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫
②瀬戸内海交易集団の拠点
③商業資本集団
これらは生駒氏にとっては、丸亀城に備えておくべき要素であったはずです。そのために、鵜足津から移住させたと研究者は考えているようです。
妙法寺(香川県丸亀市富屋町/仏閣(寺、観音、不動、薬師)(増強用)) - Yahoo!ロコ
妙法寺
 生駒氏以前には、丸亀にはお寺はほとんどなかったようです。
古いお寺としては文正元年(1466)に、鵜足津から中府へ移り東福寺と称し、さらに天正年間高松へ移り見性寺と改称された寺があるくらいです。多くの寺社は、生駒氏の城下町形成に伴って移って(移されて?)きたようです。その例として丸亀市史が挙げるのが、次の寺院です。
①豊田郡坂本村から日蓮宗不受不施派であった妙法寺
②鵜足津から丸亀へ、さらに高松へと移った日妙寺
③聖通寺山麓から280人の水夫の移住に伴い、真光寺・定福寺・大善院・吉祥院・威徳院・円光寺などが丸亀の三浦に移ってきます
これらの寺のうち定福寺・大善院・吉祥院・威徳院は、丸亀城の鎮護として鬼門に当たる北東に並んで建立され、俗に寺町四か寺と称されるようになります。
山北八幡宮と御野屋敷跡(丸亀市) | どこいっきょん?
山北八幡神社
亀山の南にあるのに、山北八幡と云うのはどうして?
 先ほど見たように山北八幡宮は、もともとは亀山の北麓に鎮座していました。そのため「山北」と呼ばれていました。ところが築城のために移転させられ、現在の杵原村の皇子官の社地に移りました。この結果、亀山の南に鎮座ずることになりました。しかし、社名は「山北八幡」のままです。
富屋町の稲荷大明神も田村から慶長四年(1599)に移ってきたと伝えられます。
移転してきた時は、社殿のすぐ北まで海水が満ちていたと云います。築城とともに人が集まり、上下の南条町を中心に、塩飽町、 さらにその東に兵庫町(現富屋町)、 北に横町(現本町)、浜町へと人家が広がり、その家々に飲み込まれていったようです。
「生駒記」には慶長七年、一正が丸亀城から高松城に移り、城代を置いたとあります。このときには、町人の中から高松へ殿様に付いていった人たちもいたと云われます。現在高松にある商店街丸亀町は、このときに丸亀からの移住者によって作られた町とされます。私には「希望移住」と云うよりも「指名移住」であったようにも思えます。
お城ウンチク(松江城・萩城)│inazou blog

 元和元(1615)年に大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると一国一城令が出され、丸亀城は廃城になります。
私は、これに伴い城下町も消滅したのかと思っていました。しかし、どうもそうではないようです。生駒時代の末期に当たる寛永十七年(1640)に記された「生駒高俊公御領分讃州郡村丼惣高覚帳」の丸亀城下に関係のある所を見てみましょう。
那珂郡の内
一高四〇六石八斗九升一合    円(丸)亀浦
内 一八石 古作              見性寺領
四七石三斗五升七合          新田悪所
鵜足郡の内
一高一七二石八斗八升            三浦
翌十八年の「讃岐国内五万石領之小物成」に、
仲郡之内
一 銀子二一五匁 但横町此銀二而諸役免許      円亀村
一 米三石 但南条町上ノ町此米二而諸役免許    同 村
一 米五石 但三町四反田畑共二請米          同 村
一 塩八五一俵二斗九升六合 但一か月二      同 村
宇足郡之内
一 千鯛一〇〇〇枚                三浦運上
一 鱗之子一五〇腸               同 所
このとき、田村の総高が803石余です。円亀浦は406石ですので、農地は、田村の約半分ぐらいはあり、相当広い農地がお城の北側に広がっていたことが想像できます。同じように、三浦は172石です。これは円亀浦の約四割強に当たります。ここにも、ある程度の広さの農地があったことがうかがえます。農地が広がるなかに街並みが続いていたようです。
ここで丸亀市史が指摘するのは、小物成(雑税)として円亀村では銀子や米を上納していることです。丸亀村からは「銀子二一五匁」が収められ、その内の「横町此銀二而諸役免許」と「諸役免許」の特権が与えられています。ここからは商人や海運者などが廃城後も住み着いていたことがうかがえます。
 また塩851俵とあります。これは塩屋村からの上納品と考えられますが、すでにこれだけの塩の生産力があったことを示します。また、三浦からは運上(雑税)として「干鯛・鱗之子」が納めています。これは東讃大内郡の「煎海鼠・海鼠腸」とともに讃岐の特産物で、江戸・京では珍重されていたようです。三浦に移住してきた水夫達は、漁民として活動し、特産品の加工なども行っていたことが分かります。
   私は、政治的に強制力を持って集められた集団なので、一国一城令による丸亀城の取り壊しと共に、人々は去り、町は消えたように思っていました。しかし、ここからうかがえるのは、生駒藩が形成した旧城下町には、集められた住民はそのまま丸亀に残って、経済活動を続けていた者の方が多かったことが分かります。それは、横町のようにここに住む限りは、様々な特権や免除が約束されていたからでしょう。城は消えたも、街は残ったとしておきましょう。
丸亀城 正保国絵図注記版

正保の城絵図です。これは山崎藩時代に幕府に提出されたものです。
地図では古町を黒く塗りつぶしています。
⑥「古町」と書かれているところは、上南条町・下南条町・塩飽町、横町(現本町)、船頭町(現西本町)と、三浦(西平山・北平山・御供所)になります。つまり山崎藩がやって来る前からあった街並みを指します。古町は微髙地の南条町を中心に、生駒時代に移住してきた人たちが順次、街並みを形成していった所といえるようです。
 お城がなくなっても、水夫や海運業者や商人たちは残って経済活動を続けていたことが裏付けられます。

丸亀城 正保国絵図古町と新町
⑦新町は、現在の富屋町から霞町辺りにあたります。
このエリアはお城の真北になります。その東は「畑」と記された広い場所が東汐入川まで続いています。畑は霞町東部・風袋町・瓦町・北平山・御供所の南部になります。これらの新町は、山崎家治によって、計画された町なのでしょう。東汐入川の東は田地が土器川まで広がっています。この辺りは水田地帯だったようです。こうしてみると丸亀城下町は南よりも海に面した北側、そして西汐入川から海に面した西側から東に向けて発展していったことが分かります。
20200619074737

  以上をまとめておくと
①丸亀城築城以前は、亀山まで海が迫り、遠浅の砂浜が土器川から金倉川まで続いていた。
②このエリアが、古代の条里制施行の範囲外となっていることも「低湿地」説を裏付ける
③そのため生駒氏は、土器川・金倉川のルート変更を行い、水害からの防止策を講じた
④その上で、亀山を中心とする縄張りと城下町造りが始まった
⑤最初に街並みが形成されたのは亀山から西の城乾小学校に続く微髙地で、ここに南条町が出来た。
⑥その後、この南条町を中心とする微髙地に、塩飽町などの街並みが形成される。これが「古町」であった。
⑦一国一城令で殿様が高松に去った後も、古町の住人達はこの地を去らずに、丸亀での生活を続けた。
⑧讃岐東西分割後に、西讃に入ってきた山崎藩は、旧城下町の経済活動が活発に行われていた丸亀にお城を「復興」することにした。
⑨そして、古町の東側に新町を計画した。しかし、その東は畑や水田が続いていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 



 満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

明治維新になって決壊していた満濃池を改修した後の水掛かり図と用水路を描いた絵図です。これは、丸亀平野のそれぞれの藩図や天領が色分けされていて、その領域がよく分かります。
草色 → 丸亀領
桃色 → 高松領
白色 → 多度津領
黄色 → 池御領(天領)
赤色 → 金毘羅大権現 金光院寺領(朱印地)
 これを見ていて、改めて思うのは丸亀城のすぐ南は、高松藩の領土だということです。高松藩と丸亀藩の「自然国境」は、土器川でなくて金倉川だということです。そして丸亀城は領土の一番東の隅にあります。どうして、領域の中央でなく東端が選ばれたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「直井武久 丸亀城について  県立文書館紀要創刊号」です。

まずは、生駒騒動後に讃岐は東西に分けられることになります
生駒家は生駒騒動で寛永17年(1640)秋田の矢島へ転封になります。幕府は讃岐の接収と次の領主への引渡準備のために、摂津国尼崎城主の青山幸成を讃岐国御使として派遣します。
 この時に幕府は青山に「讃岐を東二、西一の割合に分割」せよと指示しています。讃岐へやってきた青山幸成は各地を検分した後に、幕府の指示に従って、分割ラインを引きます。「東二、西一」の割合だと、だいたい鵜足郡と那珂郡の郡境が境になります。具体的には土器川を越えて那珂郡の半分は、東讃高松藩の領地になります。これだと土器村は鵜足郡なので、生駒氏が城を築いていた亀山の東三分の一くらいは東領になってしまいます。

讃岐国郡名 那珂郡

 次に西讃領主としてやってくる山崎氏には「城地は見立てて決定」と指示しています。お城をどこに置くかは入国後に調査して決定させるという方向だったようです。そのため青山は、亀山にお城を築く場合の事も考えて、土器村は鵜足郡に属していましたが西讃に入れます。さらに、土器川の西側とお城の北側までも、西讃に入れて線引きを行います。
 こうして、土居村(現土居町)や風袋町、霞町などは鵜足郡ですが西讃に入りました。その分の代償として、松亀城の南側では土器川を越えて金倉川まで高松藩領になります。丸亀の南部では、国境線が金倉川となったのです。こうして、東讃は12万石、西讃は5、3万石という石高で讃岐の分割ラインが決められました。西讃の領地は豊田郡、三野郡、多度郡、那珂郡のうち中府・塩屋・津森・今津・田村・山北・金倉・櫛梨・佐文・西七箇村、鵜足郡の土居村で計53000石になります。
青山幸成は、那珂郡で線引仕置を終えた後に、こんな感想を漏らしたと伝えられます。
「西讃の城地は、観音寺の琴弾山がよい。在所は穀物も豊かだし、もっともよいところだと思う。けれども箱のみさき(庄内藩半島)が突き出て、そのうえ隧灘を受けている。ここに決めるのは、後の領主の意見によるべきである。このほかでは、丸亀の亀山がよいと思うが、五万三〇〇〇石では維持するのがむずかしいであろう。しかし大志のある領主は、これを望むかもしれないから、東讃領に近接していて不適当ではあるが、亀山を西讃に入れておく。城地としては多分、三野郡下高瀬か、多度郡下吉田辺りが選ばれるだろう」
 
 丸亀城を維持するには、五万石ぐらいの大名では無理だという見方をしていたことが分かります。。

西讃の城主としてやって来ることになった山崎家を見ておきましょう
成羽愛宕大花火の起源

 山崎堅家は、もともとは彦根の出身です。彦根の西に荒神山という山と山崎山という山があります、この山崎山に本拠を構えていたようです。天正10(1582)年4月21日の本能寺の変直前に織田信長が、堅家の館へ来て茶を飲んだということが『信長公記』に記されています。堅家の子が家盛、家盛の長男に家勝、次男に家治と続きます。この次男・家治が、丸亀にやってくることになります。
 長男の家勝は、関ヶ原の戦いに大坂方の西軍につきました。そして今の三重県の津市にある安濃城を攻め落としますが、西軍は関ヶ原で負けてしまいます。それで、家勝は伊吹山へ逃れそこで隠れ住みます。
 一方、弟の家治の方は東軍の徳川方について、その後とんとん拍子に次のように出世していきます。
①彦根の山崎山
②兵庫県の三田
③三田から鳥取県の若桜
④岡山県の成羽へ、
⑤成羽から肥後天草郡富岡城4万石の城主として、島原の乱後の戦後処理・整理(富岡城の修築など)
 島原の乱で焼け落ちた富岡城を修復して、わずか3年で寛永十八年(1641)に西讃の城主に指名されます。丸亀にやって来たのは翌年寛永19年9月のことです。家治が丸亀へ来たときは、生駒さんの時の城は、一国一城令でこわされています。寛永四年(1627)の隠密の報告書にも、丸亀に城があったという記録はありません。幕府からは「城地は見立てて決定」と指示されているので、どこに城を構えても良かったのです。家治の築城術を評価していたようにも思えます。
成羽愛宕大花火の起源

それでは、どこに作るのか?
 
周囲のお城の立地条件を参考にしてみると、高松城、今治城・岡山城・福山城・三原城は、水城がほとんどです。近世に入って瀬戸内沿いに築かれたお城は、海に開かれた性格を持ちます。海上交通を監視・防衛すると同時に、交易拠点としての機能ももった水城が主流になっていたのです。さらに、山崎家治は、彦根出身で琵琶湖の水上交通の重要性は肌身で感じていたはずです。内陸にお城(城下町)を築こうという考えは、なかったでしょう。近世の城は、海に開けて、背後に経済的後背地を持つという条件で選ぶというのが流行になっています。
 家治は、初め三野郡勝間(高瀬町)の仮の館に住み、 城地を決めるため琴弾山(観音寺市)・下高瀬(三野町)・下吉田(善通寺市)を中心に領内を見てまわります。候補地としてあがったのは次の4ヶ所だったようです。
①観音寺の琴弾山
②高瀬の下高瀬
③多度津
④丸亀の亀山
4つの候補地のプラス面とマイナス面を検討しておきましょう。
①の観音寺については、琴弾八幡の門前町として活発な海上交易行う港があります。生駒時代には観音寺に枝城もありました。しかし、地理的に西に偏ります。また、瀬戸内海の海上交易路という海のハイウエーからは、庄内半島などがあり奥まった位置になります。
②の高瀬は、地理的には領土の真ん中です。しかし、当時は三野平野は大きな入り江でした。後背地が小さく将来性的には不安が残ります
③は、中世は香川氏が拠点としていた所で、居館(山城は天霧城)があった現在の桃陵公園が候補地となります。
④は領地の中で、最も東の端ですぐ東は高松藩です。地理的な偏りはありますがヒンターランドは広大な丸亀平野が金毘羅に向かって広がります。また、目の前の塩飽は海のハイウエーのサービスエリアとして、繁栄しています。家治の中では、③と④が最終候補として残り、最後に「亀山に城を築く」という決定がされたのではないかと私は考えています。 老臣たちは青山幸成の意見を参考にするよう進言しますが、家治は自説を守り亀山を選んだと伝えられます。

 家治は新城建設地を丸亀として幕府に報告します。
そして、幕府から下の「丸亀城取立に付いて老中連署状」ををもらっています。ここには次のように書かれています。
丸亀城取立に付いて老中連署状

丸亀城取立候について、銀三〇〇貫目これを下され候、すなわち大坂御金奉行衆え、添状相調え越候間受け取らるべく候、然れば差し当たり普請の外は、連々以て申しつくべきの旨仰せいだされ候、因って故当年参勤の儀は御赦し置きなされ候間、其意を得られ可く候、恐々謹言
二月六日                 阿部対馬守重次(花押)
阿部豊後守忠秋(花押)
松平伊豆守信綱(花押)
山崎甲斐守殿

「丸亀に城を築くについて銀三百貫をお前にやる。大坂の御金奉行からもらえ、そこへ添状は出してあるから」といった意味です。最後に当時の老中3人の花押があります。新城建設の補助金300貫が幕府から出されていることは驚きです。各藩のことは各自で取り仕切れという建前から、お城は全て自己負担で建てられるものと思っていたのですが、そうではないようです。
幕府からの「銀三百貫」というのは、どのくらいの価値なのでしょうか?
家治が富岡にいた頃の記録に「米一石=銀35匁」というのがあります。一石=一両で計算すると300貫÷35匁=8571石で約8570両ということになります。山崎藩の年間税収の1/3程度のようです。3人の老中の名前と花押が並び、最後にあて先の山崎甲斐守殿と記されています。これが家治のことのようです。

 家治が作った丸亀城がどんなものだったのか見ていきましょう
幕府は正保元年(1644)、二回目の国絵図・郷帳の提出を諸大名に命じて、同時に城絵図も出させています。
これが絵図が、正保の国絵図と城絵図です。山崎家治が丸亀城の再築城を開始するのは寛永19(1642)年9月のことでした。
1 讃岐国丸亀絵図
丸亀城(正保の城絵図) 
再建が進む丸亀城の様子が幕府に提出した城絵図には描かれているはずです。この絵図は、国立公文書館のデジタルアーカイブスでも見ることができて拡大・縮小が自由にできます。
1丸亀城 縄張図G
城郭部分を拡大すると上図のようになります

これで、丸亀城の当時の縄張りを見てみると次のようになります。
①亀山の周囲に、東西に28間、南北は東は216間・西190間、幅20間の堀をめぐらし
②山に石垣を積み立てて三ノ丸、その上にまた石垣を積み本丸とニノ丸がつくられ
③本丸・ニノ丸の隅には二層の櫓を建て、櫓の間は渡り廊下をもつ多聞塀で連絡されていた。
④本丸は山頂西寄りにあり、南北29間、東西は南方で23間、北方では南より約10間の長い鍵形で、
⑤北側中央には三層の櫓(矢倉、現在の天守閣)が設けられ、
⑥ニノ丸の南側中央には二層の櫓、東側には櫓門がつくられていた。
⑦当時の大手門は南東にあり、三ノ丸の南に続いていた。
⑧山の北側には藩主の居館と思われる山下屋敷の記載がある。
1 丸亀城 生駒時代

生駒時代の丸亀城


これを生駒時代と比べてみる比べて見て、研究者は次のように指摘します。
①天守台などのある位置が違っている。
②二の丸が生駒時代よりも狭くなっている。
③山崎城は、本丸と二の丸の周りに新しく三の丸が作られている
④「五の郭」が山下屋敷となっている
⑤生駒時代の城は「一の郭、二の郭、三の郭、四の郭、五の郭」とあったのが、山崎時代の城では、本丸、二の丸、そして三の丸が回りを取り囲んでいるようになっている。
ちなみに現在の丸亀城では、山下屋敷はありません。
 次に、丸亀城の断面図を見てみましょう。
1 丸亀城断面図

黒い部分が生駒時代のもので、白い部分が山崎時代のもので、東側から見ている図です。
①生駒時代の黒い部分は、天守台が一番上にあって、その下に一の郭があります。
②山崎さんの城は、この一の郭より5,6mぐらい上げて本丸を造っていることが分かります。
③二の丸は本丸の東側と北側にあって南側にはありません。
④三の丸は二の丸と本丸の周囲に造られています。
発掘調査で、現在の石垣側の端から3mぐらい入ったところを掘ってみると、生駒時代の城の石垣の跡が出てきました。ここからは山崎時代の本丸が5,6mかさ上げしたことがうかがえます。

出来上がった石垣の上に建ち上がった天守閣はどんな姿だったのでしょうか?
1 丸亀城天守閣 山崎時代

資料⑧「天守復元立面図」は、左の図が西側から見た天守閣で、右が南側から見たものです。左の図の一階の部分に白いところがありますが、これは多聞櫓のあったところで、幅二間半の廊下のような多聞櫓がこの天守閣に続いていたところです。
もう一度、山崎藩時代の城郭図を見てみましょう 
讃岐国丸亀絵図2

よく見ると斜面であった城の北側(海側)部分に、石垣が見えます。
 張り出して石垣を築いたので、そのために必要な土や石は、方々から集めています。たとえば内堀を東と西で山麓まで広げた際に掘り出した土や、山下屋敷の土をとって上へ運んだようです。こうして山麓直下まで堀を造れば、山下屋敷へ山伝いに入ってくることを防げます。張り出した石垣は上手な石工が見事な勾配を造りました。扇の勾配といって全国でも有名な石垣になっています。
   これは瀬戸内海をゆく船からは、良い目印となったでしょうし、モニュメントの役割も果たしたかもしれません。古墳時代に明石に築かれた五色塚古墳の石葺が、沖ゆく船への権威モニュメントとなったのと同じような効果があったのかもしれないと勝手に考えています。
丸亀城 正保国絵図拡大

丸亀城は、石垣の美が特色の一つとして挙げられます。    
先ほど見たように家治は、徳川家が復興した大阪城の天守閣石垣の入口周辺を担当しています。石垣作りには定評があったようです。丸亀城に石垣にも、それは活かされたのでしょう。この石垣を築くのに、家治が用いたのが羽坂重三郎だと伝えられています。
丸亀散歩~丸亀城を訪ねて(2015 11 21) - なかちゃんの断腸亭日常
伝重三郎の墓
彼の墓は、城の石垣の余材を用いたと云われる「伝重三郎の墓」が南条町の寿覚院にはあります。墓は全面に字が刻まれていたようですが、今は読み取れる字は少なく、「南無阿弥陀仏・為・第二回忌・正保三年八月三日」がかろうじて読みとれるようです。
  ここからは「南無阿弥陀仏」とあるので、真宗信者であったこと、正保3年が2回忌になることなどがうかがえます。お城の再建中に亡くなっていることになります。彼の生・没年、経歴等素性は、史料がないのではっきりとしないようです。石工ではなく、山崎時代の普請方で、城の縄張りをした人ではなかろうかという説もあることを丸亀市史は紹介しています。
   この石垣は、技術的に難しい急勾配の工事だったようです。そのためか石垣が何度も崩れます。家治に続いて俊家の時代には、石垣の修理工事や、堀を浚い、櫓を建てるなどの普請真性が幕府に出されています。幕府に修理を申し出て許されたのが資料⑩の史料です。
折りたたんだ文書なので、下側は逆向きになります。これが「修築についての老中の連署状」です。
1丸亀城 修築についての老中の連署状

丸亀の城の三の丸坤の角の石垣破損について、同所の櫓の壊れた石垣の築き直し、櫓立てること、並びに親甲斐守家治が上意を伺ってあった所々の普請の内、石垣・櫓門・多門・山下の屋敷構えの石垣等、同じく東南の堀浚えの事、絵図のとおり其意を得侯、もっとも前の奉書の趣を守られ、普請連々以て申し付けられ可く候、恐々謹言
慶安二丑正月二十三日                 阿部豊後守忠秋(花押)
  阿部対馬守重次(花押)
山崎志摩守殿                             松平伊豆守信綱(花押)
意訳変換しておくと
丸亀城の三の丸坤の角の石垣破損について、この箇所の櫓の壊れた石垣の築き直しと、櫓を建てること、について以前に家治から伺いがあった。これに対して石垣・櫓門・多門・山下の屋敷構えの石垣や東南の堀浚えの件についても、絵図のとおり普請を行う事を申しつける。

先ほど見た再建許可所である「丸亀城取立に付いて老中連署状」と差出人の3人の老中名は同じです。しかし、あて先は山崎志摩守となっています。初代の家治が亡くなって二代目俊家に代替えしています。この文書が出された前年の慶安1(1648)3月17日に、初代丸亀藩主山崎家治は55歳で亡くなっています。つまり家治によって築かれた石垣は、すぐに崩れたことになります。 お城の改修には幕府の許可が必要です。この文書は、丸亀藩からの許可申請に対する幕府からの許可状です。この達しに従って普請が行われ、堀浚えには八月初めから取り掛かり九月に終わり、橋も九月末には完成したようです。
山崎家三代の城主の統治年数を見ると、僅かな期間で交替したことが分かります。
丸亀藩山崎家領主一覧

山崎家治は慶安元年(1648)に55歳で没し、子の俊家が跡を継ぎますが、俊家も三年後の慶安4年に35歳で没します。このとき嗣子虎之助治頼は三歳です。そして、治頼も明暦三年(1557)3月6日に没し、山崎家は所領没収されます。これに先だって、俊家の弟の豊治が、6000石を分けられて仁保(仁尾)に居住してました。彼は備中成羽で五〇〇〇石を賜り、 以来その子孫は成羽領主として明治維新を迎えることになったようです。
  さて、山崎藩によって再建・改修された丸亀城はどうなっていくのでしょうか。それはまた、別の機会に・・・
丸亀城絵図3.33jpg

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「直井武久 丸亀城について  県立文書館紀要創刊号」

 
1 讃岐国丸亀絵図
山崎藩が提出した丸亀城絵図

正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図です。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。他にも城下の町割・川筋などが載されています。各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出し、幕府はこれを紅葉山文庫に保管・収蔵していたようです。幕末には131図が所蔵されていたようですが、現在は63の正保城絵図があります。この絵図は、山崎藩が提出した丸亀城絵図です。これを山崎藩が提出したのは、幕府の指示があった翌年、つまり1645年とされます。しかし、これについては、私は疑問を持っています。その疑問の背景を年表から見てみましょう
丸亀城を、年表で見ておきましょう。(香川県史の年表より作成)
1600年 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦
1601年  生駒一正,徳川家康より讃岐17万1800石余を安堵       生駒親正・一正父子,鵜足郡聖通寺山北麓の浦人280 人を丸亀城下へ移住させる
1602年  生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
1610年  生駒一正没する.56歳 生駒正俊,家督を継ぎ高松城に居住.この時に丸亀の町人を高松城下に移し丸亀町と称す
1615年  徳川家康,大坂再征令を発し,大坂夏の陣おこる.
     一国一城令公布.これにより丸亀城廃城となる.
1621年  生駒正俊,没する.36歳.生駒高俊,家督を継ぐ.外祖父藤堂高虎,生駒藩政の乱れを恐れて後見する
1626年  間旱魃となり,飢える者多数出る
1628年  西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
     西島八兵衛,山田郡三谷池を修築する
1640年  幕府は生駒藩騒動の処分として生駒高俊を,出羽国矢島1万石に移す.
1641年  肥後天草の領主山崎家治,西讃5万石を与えられる。城地は見立てて決定するよう命じられる
1642年  松平頼重,常陸下館から讃岐高松12万石へ移封を命じられる。山崎家治,丸亀の古城を修築し居城にすることを許される
1644年 幕府は諸藩に城下町地図の作成提出を命じる
1648年  初代丸亀藩主山崎家治,没する.55歳 山崎俊家,丸亀藩第2代藩主となる。幕府,丸亀藩主山崎俊家に丸亀城修復・普請などの指示を出す
  生駒騒動後に、肥後天草からやって来たのが山崎藩で、1641年のことです。居城をどこにおくかについては、後ほど幕府に報告せよとの指示でした。引渡手続きに当たっていた要人達は、観音寺・多度津・丸亀を候補地としていましたが、丸亀に居城を置く可能性は低いと推察していたようです。
満濃池水掛村々の図

 その理由は、上の絵図を見ると分かります。これは明治初頭の「満濃池水掛かり村々図」で、丸亀平野の領地区分が次のように色分けされています。丸亀平野は、国割りの境界線が金倉川沿いに引かれ、領地区分けは次のようになりました。
①ピンク 高松藩
②草色  丸亀藩
③白色  多度津藩(京極家分家)
④黄色が天領 池御領
⑤赤色  金毘羅大権現金光院寺領
これを見ると分かるように、丸亀は高松藩の領地の中に取り込まれたような形になります。丸亀城から南に見える水田は、ほとんどが高松藩のものになります。丸亀は、西讃の東端になるだけでなく、戦略的にも問題があります。そのために、ここにお城を構えることはないだろうというのが、大方の見方でした。しかし、山崎家治は生駒時代の丸亀古城跡を改修し、新たな居城とすることを選択します。

年表でその後の流れを再確認すると、次のようになります
1642年 山崎家治,丸亀の古城を修築し居城にすることを許される
1644年 幕府が諸藩に城下町地図の作成提出を命じる
1648年 初代丸亀藩主山崎家治が没する.山崎俊家,丸亀藩第2代藩主となる。幕府,丸亀藩主山崎俊家に丸亀城修復・普請などの指示を出す
                   
最初に見た丸亀城の正保城絵図は、1645年に幕府に提出されたとされます。しかし、それに対する私の疑問点は以下の通りです。
①42年に「古城を修築」開始し、3年で完成していたのか。工期が短すぎる。
②48年に「丸亀城修復・普請などの指示を出す」とある。これが幕府からの正式の改修許可ではないのか。
③山崎氏の丸亀城は、48年以後に正式に大規模改修工事が始まり、それが完成したのは数年後のことではないのか
④丸亀城の正保城絵図は、1650年代半ばに完成した丸亀城を描いたものではないのか。
 当時は幕府の了承や指示なしで、お城に手を加えることは御法度です。それを破った安芸の福島正則がお取りつぶしになったことを、大名達は目の前で視ています。山崎家も廃城となっていた丸亀城を、居城とすることを幕府に伝えて、最低限の改修工事を行い、正式の許可が下りるのをじっと待っていたのではないでしょうか。その許可が下りたのが1648年ではないのかという仮説です。その指示を受けて、新城に向けた大規模工事工事が始まったのでしょう。そうだとすれば、工事終了はさらに後のことになります。
  「各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出」とありますので、各藩もすぐに提出したのではないようです。山崎藩の場合は、改修が完成した「晴れ姿」の丸亀城を描いて提出したかったはずです。そうだとすれば、提出が一番遅かった藩かも知れないと私は考えています。
そういう目でもう一度、生駒藩時代の丸亀城と、正保城絵図の丸亀城の拡大図を比べて見ましょう
       1 丸亀城 生駒時代
生駒藩時代の丸亀城
讃岐国丸亀絵図2
       山崎藩が提出した丸亀城絵図

この2枚の絵図から基本的な構図に変化はないようですが、建築物については、二の丸などの構造物も増えて大規模な改修が行われ、一新された姿になっていることが分かります。これは、肥後からやってきて2,3年で行えるものではないような気がします。仮説として、この絵図が作成されたのは1645年ではないこと、48年に幕府からの工事許可が出て、数年を経て完成した姿を描いたものである可能性があることを指摘しておきます。どちらにしても、復興した山崎藩の丸亀藩の姿を伝える貴重な絵図です。

この丸亀城の海側を見ながら読み取れる情報を挙げていきましょう。
讃岐国丸亀絵図 拡大

「讃岐国丸亀絵図」から海辺に近い部分を拡大したものです。
①東側(左)に土器川
②土器川から東側の外堀につながる東汐入川 河口の砂州の上に船番所
③北側の海岸線には、③砂州①が伸びて遠浅の浜辺を形成、
④西側にも砂州2があり、砂州1との間から⑤西汐入川が海に流れ出している
⑤の西汐入川は⑥舟入に船が入ることが出来る
⑥の外堀は⑧の寺町の水路を経て⑤西汐入川につながる
⑦古町と表記されたエリアが⑤西汐入川沿いにある
この絵図の④の砂嘴2が現在の福島町に発展していきます。福島町は、無人の砂嘴の上に作られた町場です。そして、③と④の砂嘴の尖端には、船番所が置かれています。

研究者が注目するのは、⑨の「古町」です。
丸亀城下町の海浜部
「古町」エリアを黒く塗りつぶしたのが上図になります。古町に当たる町名を、挙げると次のようになります。
上南条町  
下南条町  
塩飽町  
横町(現在の本町) 
船頭町 (現在の西本町)
西平山町 北平山町御供所町
これらの町は、山崎家入部以前の生駒時代にできた町です。だから「古町」なのでしょう。この絵図からは、丸亀城が廃城になっても、西汐入川の河口周辺には、漁師(水夫)や廻船関係者などが残り、浦や町場があったことが分かります。山崎氏が、ここを居城とした理由の一つかも知れません。
古町のルーツを見ておくと
①西平山・北平山・御供所の三町は、宇多津の聖通寺山麓の三浦から漁夫を、
②塩飽町は、沖合の塩飽諸島からの人たち
を生駒藩が丸亀城の築城の際に、この地に移住させて成立させたものです。
何のために、漁師達を城下に呼び寄せたのでしょうか? 
新鮮で美味しい魚が食べたかったという理由もあるかも知れません。しかし、当時の生駒藩を初めとする瀬戸内海の諸藩の課題は、九州平定や朝鮮出兵に向けた水軍の整備でした。そのため城下と一体になった湊の整備が求められていたようです。そのためには、水軍の主体となる水夫を城下に配置する必要があったと私は考えています。それは、高松城の場合にも見られる事です。
 「高松国絵図」に見えていた「町」は、このエリアのことでしょう。丸亀城廃城後も町場や浦(湊)が存続していたことが分かります。それは、東西の汐入川は、港(舟入)として用いられ、船番所も置かれています。また、この二つの川は、外堀につながっています。ここからは、城下町の整備と同時に建設された水路(運河)でもあったと研究者は考えているようです。これらが行われたのも山崎藩の時代になってからのようです。とくに西汐入川は、明治43年に河口に近い部分が付け替えが行われて、現在の流路となるまで、その役割を果たしていたことは以前にお話ししました。

丸亀城下町比較地図51

以後の丸亀城下町は、海に向かって発展していきます。先ほど見たように④の砂堆②に福間町が現れ、さらにその北に福島港が作られます。
1 文政11年(1828年)出典:丸亀市歴史資料館収蔵資料

そして、大坂からの金比羅船の受入港として発展していくことになります。
丸亀新堀1

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
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1丸亀城3

天正十三年(1585)、豊臣秀吉が四国を統一した時からが近世の始まりといわれます。秀吉が讃岐国を託した仙石氏と尾藤氏は、両者とも九州遠征に失敗し、短期間で罷免されます。
その後に生駒親正が天正十五年(1587)8月10日に讃岐領主としてやってきます。戦乱で荒廃していた讃岐国は生駒家によって、立て直されていくことになります。まさに讃岐の近世は生駒家と共に幕開けると云ってもいいと思うのですが、後世の評価は今ひとつ高くありません。それは、次にやって来る松平頼重の影に隠されたという面があるのではないかと私は思っています。

 生駒親正は、まず東讃の引田にやって来て城作りを始めます。
しかし、引田はあまり東の方に寄り過ぎると考えたのでしょうか、短期間で放棄して次候補を物色します。さてどこに城を築こうかと考え、宇多津の聖通寺山は狭過ぎる、丸亀はちょっと西に寄り過ぎ、由良山は水が足りないなどと考え、最後に決めた所が野原庄、現在の高松城がある所に決めたようです。この辺りのことは以前にお話ししましたので省略します。野原庄での城作りは天正十六(1588)年から始まったとされますが、近年の発掘調査から本格的な築城は関ヶ原の戦い後になると研究者は考えているようです。
  南海通記は、高松城は着工2年後の1590年には完成したとありますが、お城が完成したことに触れている史料はありません。ここから高松城については
①誰が縄張り(計画)に関与したか、
②いつまで普請(建設工事)が続き、いつ完成したか、
の2点が不明なままです。文献史料がない中で、近年の発掘調査からいろいろなことが分かってきました。天守台の解体修理に伴う発掘調査からは、大規模な積み直しの痕跡が見られず、生駒時代の建設当初のままであることが分かってきました。建設年代はについては
「天守台内部に盛られた盛土層、石垣の裏側に詰められた栗石層から出土した土器・陶磁器は、肥前系陶器を一定量含んでおり、全体として高松城編年の様相(1600 ~ 10年代)の特徴をもっている」

と報告書は指摘します。つまり、入国して10 ~20年ほど立ってから天守台は建設されたと考古学的資料は示しているようです。織豊政権の城郭では、本丸や天守の建設が先に進められる例が(安土城・大坂城・肥前名護屋城・岡山城)が多いので、高松城全体の本格的な建設は、関ヶ原の戦い以後に行われた可能性が出てきたようです。そして、同じように発掘調査から引田城も関ヶ原以後に、本格的に整備されたようです。
次に丸亀城がいつ築城されたのかを見てみましょう
   丸亀は、慶長二年(1597)に城の築城にとりかかったと「讃羽綴遺録」・『南海通記』・「生駒記」などに書かれています。これが現在の「定説」のようです。
年表で当時の政治情勢をを見てみましょう。
1590年天正18 生駒親正,5000余人の軍勢を率い北条氏討伐に参陣
1591年天正19 9・24 豊臣秀吉,朝鮮出兵を命じる
1592年文禄1 12・8 生駒親正・一正父子,5500人を率いて朝鮮半島出兵
1594年文禄3 生駒親正,大坂に滞在.一正は再び朝鮮に出兵
1597年慶長2 2・21 生駒一正,2700人の兵を率い渡海し昌原に在陣する
   春   生駒親正,一正と計り,亀山に城を築き,丸亀城と名付ける

 しかし、年表を見れば分かる通りこの時期は、秀吉の朝鮮出兵の時期と重なっています。多くの兵士が長期に渡って朝鮮半島で戦っています。軍事遠征費に莫大な費用がかかっている上に、親正や一正父子も兵を率いて遠征し讃岐には不在なのです。この様な中で、丸亀に新城を築くゆとりがあったのでしょうか。それに高松城も、まだ姿を見えていません。
 築城が急がれる軍事的な背景や緊張関係も見つかりません。 秀吉没後の慶長3年8月18日(1598年9月18日)以後に、東西の緊張関係激化に対応して築城したというのなら理由もつきますが、・・・・。
関ヶ原の戦い前後の生駒藩の動きを年表で見ておきます
1598年慶長3年9月18日)秀吉没
1599年 生駒藩の検地が始まる〔慶長7年頃まで〕
1600年慶長5 6・- 生駒一正・正俊父子,上杉景勝討伐のため従軍
 7・- 生駒親正,豊臣秀頼の命により丹後国田辺城攻撃のため,
     騎馬30騎を参陣させる.
 8・25 生駒一正,岐阜城攻撃の手柄により,徳川家康より感状
 9・15 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦する
 9・- 生駒親正,高野山で出家し家康に罪を謝る
1601年慶長6 生駒一正,家督をつぎ家康より讃岐17万1800石余を安堵
     生駒親正・一正父子,鵜足郡聖通寺山北麓の浦人280人を丸亀城下
     へ移住させる
1602年慶長7 生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
1603年慶長8 2・13 生駒親正,高松で没する.78歳

弘憲寺(生駒親正夫妻 墓所)「香川県指定史跡」 香川県高松市 ...
生駒親正夫妻墓所(高松市弘憲寺)

  生駒家も真田家と同じように、父子がそれぞれ豊臣と徳川に別れて付いて、お家の存続を図っています。そのお陰で、一正は家康より讃岐国を安堵されます。そして、一正は丸亀城から高松城に移り、父に代わり正式に領主となります。
生駒一正 - Wikipedia
生駒一正

 この時に新領主となった一正に、家康が求めたこと何でしょうか。
それは、次の戦争に向けた瀬戸内海交易路の確保のための、海軍力増強と防備ラインの構築だったのではないでしょうか。周囲の姫路城や岡山城などの瀬戸内の城主は一斉に、水城の整備・増強を始めます。先ほど見たように発掘調査によっても高松城は、関ヶ原の戦い後に岡山城との同版瓦が使用されています。ともに、徳川時代になって作られているのです。姫路城には、強力な水軍基地があったことも分かってきました。この様な中で、生駒家は引田城の整備を行っています。丸亀に新城を築くとすれば、この環境下ではなかったかと私は考えています。ちなみに「讃羽綴遺録」では、丸亀城築城を関ヶ原の戦い後の、慶長7年としています。

生駒さんの丸亀城とは、どんな姿だったのでしょうか?
資料①「讃州丸亀城図」とある図面が生駒さんの丸亀城です。
1 丸亀城 生駒時代

 この絵図は、東京目黒の前田育徳会尊経閣文庫に所蔵されていたようです。「前田」と云えば、加賀百万石の前田家です。前田家の五代藩主前田綱紀が古今の書を広く収集し、それらの収集した書物を「尊経閣蔵書」といい、その文庫を「尊経庫」と呼んでいたようです。その中で、城絵図は有沢永貞という人が中心になって集めています。有沢は文武にすぐれていた金沢の藩士で、藩内にこの人に武芸を習わなかった者はいないとまでいわれていたようです。その人が絵図の収集にも精力的に動きました。そして、現在に伝わっています。

 丸亀城は亀山という山に築かれています。この山の岩質は輝石安山岩で、五色台や飯ノ山のと同じ系統の岩で、堅くて割れるとが非常に鋭い岩になります。
城図からは、次のような事を研究者は読み取っています。
①真ん中の黒く囲まれたのが郭一で、今でいえば本丸で、まん中に天守台があります
②図の左側が東で、天守台は入口が東向きにあり、今のお城と異なります。
③天守台を囲んだ郭一の南側から東側・北側にかけて二の郭が取り囲んでいます。
④さらに東側に郭があり、これが三の郭です。
⑤三の郭の南に続いて四の郭があります。四の丸は今はありません。
⑥二、三、四の郭があって、南西に大手門があります。
⑦三の郭の東北端と西北端から山麓へ石垣があり、北側の中腹くらいから平地になっており、ここが五の郭で、山下屋敷といわれた所です。
後に山崎さんによって、再築される丸亀城との比較は次回に行います。次に、お城ができた頃の丸亀城周辺は、どんな状態だったかを見ておきましょう。生駒藩お取りつぶし直前の寛永十七(1640)年「生駒高俊公御領讃州惣村高帳」を見てみましょう。
   鵜足郡
一 高百七袷貳石八斗八升      三浦
  高合 貳万貳千百六播八石四斗五升五合
 那珂郡
一 高四百六石八斗九升一合                  圓龜(丸亀)
一、高八百Ξ拾Ξ石四斗九升Ξ合    柞原
一 高八百三石八斗         田村
 鵜足郡の三浦は、予讃線の北側の西平山、北平山、御供所にあたる所です。ここで172石の米が取れたようです。そして圓龜(丸亀)には、406石余の土地があったと書かれています。今の丸亀の町は、お城周辺以外は、ほとんど田んぼだったということになりそうです。
 次の田村は現在の田村町で田村池周辺ですが、この村高が「八百三石八斗」とありますから、丸亀は、田村のほぼ半分くらの石高だったようです。
「讃岐国内五万石領之小物成」には「小物成」が記されています
小物成ですから雑税、米以外の税金になります。
  「銀子弐百拾五匁  圓龜村  但横町此銀二而諸役免許」

とあり、丸亀は215匁の銀を納め、これで横町は諸役を免除されていたことが分かります。また、
「米三石  圓亀村  但南条町上ノ町 此米二而諸役免許」
とあります。米三石を納めることで、南条町の上ノ町は諸役が免除されていたようです。それから「宇足郡之内」とある中に
一、干鯛(ほしたい)千枚  三浦運上
一 鰆之子百五拾腸     同所
とあります。三浦は先ほど見たように平山町や御供所のことです。ここからは干鯛と鰆の子が納められています。鰆の卵は、からすみにされて珍重されていたようです。江戸での贈答品にしたものでしょう。この地域が漁師町であったことがうかがえます。

亀山の小さな山の上に、お城が乗っていたのは、わずかの間でした。大坂夏の陣のあと軍事緊張がなくなると、幕府は一国一城令を出します。その結果、寛永初めころまでに丸亀城は廃城となったようです。
寛永4(1627)の8月に幕府隠密が讃岐を探索し、高松城と城下町の様子についての報告書が「讃岐探索書」として残っています。そこには高松城については、当時の状態が破損箇所も含めて詳細に絵図を付けて報告されています。しかし、丸亀城については、なにもありません。隠密にとって「報告価値なし」と判断したようです。関ヶ原の戦い後に、西国大名への備えとして作られた丸亀城は、ここに役割を終えたようです。
 ちなみに、この年の生駒藩の蔵入高は「9万4636石3斗4升,給知高12万63522石9斗8升」と報告されています。隠密は必要な情報を集めて、幕府に報告しています。ちゃんと仕事をしていたようです。
以上見てきたように、生駒さんは関ヶ原の戦い前後に、高松城と丸亀城と引田城を同時に建設しています。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、最近の調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かってきました。出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われていたようです。このことからこの時期になって、生駒氏は讃岐に対する領国支配の覚悟が固まったと見えます。信長・秀吉の時代は手柄を挙げ出世すると、領国移封も頻繁に行われていましたから讃岐が「終の棲家」とも思えなかったのかもしれません。讃岐への定住覚悟ができたのは関ヶ原後で、その時期から3つの城の工事が本格化したようです。
今回はここまでで、おつきあいいただき、ありがとうございました。

           
丸亀絵図5
『讃岐国丸亀絵図』(正保年間一六四四~一六四八年)です。
この城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させたものです。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。その他にも城下の町割・山川の位置・形も載されています。丸亀藩も幕府の命を受けてこの絵図を提出したと思われます。原図サイズは、東西217cm×南北255cmとかなり大きなものです。
  この絵図を見ていると私には分からないことがいくつもあるのですが、それは今は置いておいて基本的なことを確認しておきます。
①丸亀城下町は北に開ける瀬戸内海を意識した城造りがされている。そのため町割りも北には伸びているが東・西は外堀の外は田んぼや畑が広がっていた。
②西側には西南に延びる金毘羅街道沿いに市街位置が形成されている。
③外堀と汐入川を結ぶ運河は、現在の北向地蔵菩薩堂の所で直角に曲がり、城乾小学校の西側を通って汐入川とつながっていた
④汐入川河口は西から東に流れ現在の港公園付近を経由して海に流れ出ていた。
以前に、丸亀駅の北側は汐入川の河口で、その向こうには長い中洲があったこと、そこに人が住むようになり町になり、金比羅船が着く港が作られ大いに繁栄するようになったことをお話ししました。この上の地図では河口の右手(西側)の砂州にあたります。
今回は上(南)に向かって、城の方へ真っ直ぐに伸びている「運河」(水路)について見てみましょう。
この『讃岐国丸亀絵図』には「船入」書かれていることから城下町の奥深くまで船が入りこめるように、運河のような港がつくられていたようです。
丸亀市実測図明治
この「船入運河」は、現在のどこにあったのでしょうか? 
この絵図だけ見ていては分からないので、明治34年の『香川県丸亀市実測全図』と比べてみましょう.。明治34年と云えば日露戦争直前で善通寺に11師団が設立された直後になります。現在の東中学校や大手前高校、消防署・警察署丸亀城には、丸亀連隊が置かれ
明治天皇も視察に訪れたりしています。城の東側(労災病院周辺)には、広大な練兵場があったことが分かります。また、丸亀から高松への鉄道も開通し、丸亀駅も現在地点に移転しているので、江戸時代と現在を比較する際の「座標軸」の役割を果たしていくれるので私は重宝しています。
この地図で注目したいのは次の3点です
①汐入川は丸亀駅のすぐ裏を西から東に流れている
②東に流れる汐入川が直角に流れを返るあたりから南(上)が埋めたてられて「船入運河」が姿を消している
③埋め立てられた上を高松行きの鉄道が通っている。
丸亀市が西汐入川の附け替えと港湾の大改修に着手するのは、日露戦争後のことです。この時点では汐入川は江戸時代と同じ流路でした。
  この地図から推察できるのは、埋め立てられた「船入運河」が流路を東から北にかえるポイントの南への延長線上にあるということでしょうか。17世紀と20世紀の地図を拡大して比較してみると次のようになるようです。
丸亀実測図拡大版
この『香川県丸亀市実測全図』では「船入運河」の細長い港は線路より南(上)は埋め立てられています。その埋められた部分が、この地図でどこに当たるのでしょうか。ふたつの地図を眺めてみると現在の本町通りあたりまでが、埋め立てられた部分になりそうです。
丸亀城下町比較地図1
 現地調査を行って見ましょう。
線路上に「停車場」とあるのが丸亀駅です。駅前の本町通りに百十四銀行支店と記されています。現在はここには、ホテルアルファーワンが建っています。その西通は富屋通りで、南へ行くと妙法寺方面です。この通りは今でも健在です。さて、めざすホテルの東側の通りに入っていきます。はすかいの十字路を越えて丸亀市の商店会連合会事務局の前をなおも進むと、突き当たりになります。そして、左折(東)方向にしか進めない「L字道」になっています。

丸亀福島・新堀
手前左が新堀港・右が福島港 城方向に真っ直ぐ「船入運河」が伸びている
丸亀新堀湛甫3
上の拡大図

 そして、東に進むと、すぐに通町商店街に出て、そこで再び突き当たりとなってしまいます。その突き当たりからさらに東の松屋町の方へ進もうとすると、いったん右折してから、すぐに次の角で左折するというルートをたどらなければなりません。城下町として整然と区画された町割りの中で、この「L字道」は少し「ヘン」です。「地図上の比較 + 現地調査」の結果から「このL字道は、船入運河(港)の終点のコーナーであった」という結論が引き出せそうです。
2丸亀地形図
 江戸時代は、本通りの「ラーメンきらく」あたりまで港が入り込んでいたようです。明治になって鉄道が高松に伸びる頃になって、港の奥が埋め立てられ、本町通りは東に延びて通町で松屋町の方につながりました。しかし、運河によって隔てられていたために埋め立てた後に、本町通りは通町のところで突き当たって、そこから先は道が作られなかったということになります。

丸亀新堀1
 通町の真ん中あたりまで運河が入り込んで、船が出入りしていたということは新鮮な驚きです。満潮になると底の浅い川船に積み替えられた荷物が運ばれてきて、ここから荷揚げされていた光景がかつては見られたのかもしれません。
 丸亀も瀬戸の城下町として目の前の海に向かって開かれた町であり、直接に城下町の真ん中まで船が入ってくることの出来る港湾施設があったようです。

参考文献 井上正夫 丸亀本町通りの東はし 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収

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