瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:丸亀城下町の形成

  国立公文書館には正保城絵図と呼ばれ、三代将軍徳川家光の命によって、全国の大名に提出を命じた城の絵図があります。その中に「讃岐国丸亀絵図山崎甲斐守」と題された一枚があります。これが山崎藩が丸亀へやってきた四年後の正保二年(1645)には提出させたものとされています。この絵図は国立公文書館のデジタルアーカイブスで自由に見ることができ、拡大・縮小も思いのままです。以前には、丸亀城の城郭を見ました。今回はこの絵図で、山崎藩によって再興された当時の城下の様子を見てみましょう。
テキストは 丸亀市史です。 
丸亀城 正保国絵図注記版

①城の東側では内堀が東汐入川に続き、北へ浜まで伸びて、土器川河口と合流して海へ注いでいます。
②西側では外堀から分かれた堀が西へ延び(現玄要寺墓地南端)、 現在の北向地蔵堂から北へ曲がり、船頭町(現本町西端)のところで海に続いています。海との境はなぜかぼやかされています。
③内堀内にある城の北麓には、東西九〇間、南北五〇間の山下屋敷があります。ここが藩主の居館だったようで、現在の大手門の南側の観光案内所付近になるようです。生駒時代の山下屋敷は東西八〇間、 南北三〇間で、 山麓以外の三方は高さ八間の石垣で囲まれた高台となっていて、侍の出入りはできなかったようです。山崎氏時代には、この図のように高台ではなかったことは前回に見たとおりです。山崎藩は、東と西では山麓まで内堀を貫入させ、藩主の館である山下屋敷の東・北・西の三方はすべて堀になっています。山崎家治が城を築く際、生駒時代にあった山下屋敷の高台の土を、山頂に運び、また内堀を貫入させたときに出た土も築城に利用したようです。
④外堀内は士族屋敷で、侍屋敷・歩者屋敷・足軽量敷と記されています。一区画が一戸建てであったかどうかは分かりませんが、足軽は一区画に数戸で住んだと研究者は考えているようです。
丸亀城 正保国絵図古町と新町

⑥「古町」と書かれているところは、上南条町・下南条町・塩飽町、横町(現本町)、船頭町(現西本町)と、三浦(西平山・北平山・御供所)になります。つまり山崎藩がやって来る前に、生駒藩時代に作られた街並みを指します。古町で最初に街並みができたのは南条町だと云われます。南条町は地勢的には、亀山から西に伸びる微髙地の上にあり、中世以来の集落があった可能性があります。南条町が中心となり、その周辺に移住してきた人たちが順次、街並みを形成していったようです。
丸亀市 西汐入川と外堀

南条町の発展の起点になったのが、上の地図の②金毘羅灯籠です。
グーグルマップで「丸亀市南条町石灯籠」と献策すると出てきます。
丸亀市南条町塩飽町

③にある灯籠です。現在は道路になっていて、④北向神社と①の外堀を結んでいますが、これはかつては西堀でした。

丸亀市南条町の金毘羅燈籠3
    旧西堀に立って北向地蔵方向を望む
かつての西堀の上に立って西方面と北方面を見てみるとこんな風に見えます。
丸亀市南条町石灯籠説明版

説明版によると、この常夜灯は明和元年(1764) 12月に、南条町と農人町 (現在の中府町五丁目)の人々によって建てられています。この燈籠南側の東西に延びる現在の道は、古地図の通り丸亀城の外堀につながる堀で、ここには橋がかけられていました。また、ここから西には、玄要寺 の広大な敷地が広がっていました。それも絵図で見ておきましょう。
丸亀市 玄要寺3
玄要寺 
この絵図を見ると琴平街道から⑥西堀(現城乾小学校前の道路)までが、玄要寺の山内だったことが分かります。それもそのはずで、この寺は京極さまの菩提寺として建立されたのです。城下では、もっとも広い敷地と規模を備えるようなるのは当然のことです。玄要寺の山門は、西堀に面して建っています。つまり、現在の北向地蔵の辺りが玄要寺の西南コーナーであったことになります。現在は、玄要寺の北側には多度津街道が敷地を抜けて通されています。また、敷地の中に幼稚園やコミュニティーセンターなどが割り込んできています。
丸亀市南条町塩飽町

グーグルで「丸亀市南条町」を献策すると、赤く囲まれた南条町のエリアが出てきます。
  この灯籠③が建つ所は、南条町の一番南で、西堀にかかる橋を渡る手前に建てられていたことが分かります。金比羅に向かう人たちにとっては、丸亀城下町からのスタート地点だったのかも知れません。
この地図からは、次のようなことも分かります。
①南条町の東側は住民居住区
②西側は寺が南北に4つ並ぶ寺町エリア
③寺の西側を西掘(運河)が通り、その向こうは「田地(水田)が広がっていた
金毘羅街道を境にして南条町の東と西では、性格が異なる街だったようです。 
丸亀城 正保国絵図古町と新町

⑦それに対して新町は、現在の富屋町から霞町辺りにあたります。このエリアはお城の真北になります。その東は「畑」と記され東汐入川まで続いています。畑は霞町東部・風袋町・瓦町・北平山・御供所の南部になります。これらの新町は、山崎家治によって新たに計画されたので「新町」なのでしょう。東汐入川の東は田地が土器川まで広がっています。この辺りは水田地帯だったようです。こうしてみると丸亀城下町は南よりも海に面した北側、そして西汐入川から海に面した西側から東に向けて発展していったことが分かります。 

丸亀市東河口

海岸線から見ていきましょう
海との境はぼかされていて、そこに「遠浅」といくつも書き込まれています。このあたりが砂州であったことを物語ります。砂上の上に丸亀城下町は築かれているのです。
 海岸線に沿って古町と書かれた家並みが続きます。これが生駒氏時代に宇多津からやってきた三浦の人たちの家々です。その南の畑の中に寺の字が三つ並んで書かれています。これが三浦の水夫の檀那寺で鵜足津(宇多津)から一緒に移ってきた寺です。
 御供所の砂州の東の先端は、真光寺東で東汐入川と土器川が合流した河口になります。ここには番所が描かれています。さらに、東汐入川を少し遡った所に「舟入」の文字がみえます。ここに船着きが場あったようです。
この絵図から約50年後の京極時代の元禄十年(1697)の「城下絵図」の略図です。

丸亀市東河口 元禄版
 ここには真光寺の東南と東北の二か所に番所が増えています。どうして、二つの番所があるのでしょうか?  研究者は次のように考えているようです。
①東汐入川河口番所 土器川を渡る人たちからの通行税徴収
②土器河口番所  港に出入りする船からの通行税徴収
 近世初期の丸亀港は、現在の福島町ではなく、土器川河口の東川口だったようです。二代藩主京極高豊が初めて丸亀へ帰った延宝四年(1676)7月朔日には、次のように記されています。
備中様御入部、御船御供所へ御着、御行列にて御入城遊ばされ候

とあります。三浦の海上交易者が利用する湊がここにあり、公的な湊も御供所に置かれていたようです。
また「丸亀繁昌記」の書き出しは、次のように始まります。
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参亀す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幡は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の宗造りは、のぞきみえし。二軒茶屋のかゝり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かゝり船、ふね引がおはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば
意訳変換しておくと
 玉藻なる丸亀湊の賑いは、昔も今も変わらない。神霊ありがた象頭山金毘羅へ向かう道は丸亀に集まる。数多(あまた)の船宿が集まり、諸国の引合目印の幟が軒にひるがえり、○金印がのぞきみえる。二軒茶屋のあたりや、土器川河口の船着場の繁雑し、出船入り船や舫いを結ぶ船に、「お早いおつきで・・」と正月言葉が」かけられると、船子(水夫)は安堵の帆をおろす。三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば・・・

 ここからは、御供所の川口に上陸した金毘羅参拝客は東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が描かれています。三浦は水夫街で漁師町と思っていると大間違いで、彼らは金毘羅船の船頭として大坂航路を行き来する船の船主でもあり、船長でもあり、大きな交易を行う者もいたようです。以前にお話ししたように、弥次喜多が乗った金毘羅船は、御供所の川口に着きます。そして、船頭が経営する旅籠で一泊を過ごします。道中記では、讃岐弁とのやりとりが面白おかしく展開していきます。三浦の水夫たちは、瀬戸内海を舞台に活躍する船主であったことを押さえておきます。
 話を元に戻します。土器川河口の東川口が公的な丸亀の港であったことです。物資を積んだ船は、東川口の番所を通り、東汐入川をさかのぼり、木材や藁などは風袋町の東南にある藩の材木置場や藁蔵へ運ばれました。
丸亀市米蔵

 昭和の初期ころまでは、東汐入川の両岸にある材木商に丸太などの木材が東河口から運ばれていたようです。米なども、満潮干潮を見ながら外堀の水位を考慮しつつ、外堀の北側中央の市民会館北交差点の東方付近にあった米揚場の雁木から荷揚げし、その南にある米蔵(旧市民会館付近)に納入していたと丸亀市史には書かれています。

 それが変化するのは、案外新しく文化三年(1806)に、福島湛甫ができて以後になるようです。天保初年には新堀湛甫も構築され、東川口は旅客の港としては寂れていきます。金毘羅船は福島方面に着くようになり、賑わいは移っていきます。
丸亀城 今昔比較図

  以上をまとめておくと
①丸亀城下町は南条町が起点となって発展した。
②「微髙地 + 西堀」という好条件に、「強制移住者」が南条町に居を構えた
③南条町は、金毘羅街道の東側が住民、西側は寺院が配置され寺町でもあった。
④金毘羅街道はお城を北から西に迂回し、南条町を通って中府町に南下していた
⑤お城の北側の舟入は、丸亀城の公的湊ではなく小規模なものであった。
⑥公的な湊は土器川河口の東川口にあった。
⑦ここからは東汐入川を通じて外堀にまで川船が入って行け、米などもこの運河で米蔵に運び込まれた。
⑧19世紀初頭に福島湛甫や新堀湛甫ができて、丸亀の玄関港は福島に移っていく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  
 「寺社の由緒記・縁起等は一般には信じ難い」といいながら丸亀市史は、山北八幡神社の由緒記を参考にして、お城が出来る前の丸亀周辺のことを探ろうとします。史料がないので、使えるものは批判的に使わなければ書けません。
山北八幡官の由緒記には、古代の丸亀浦について、次のように記されています。
①神功皇后が三韓へ出兵した帰途、この地の波越山(亀山=丸亀城)に風波を避けた折、土地の人が清水を献じ、船も修理した。
②波越山(亀山)の山麓は近くまで潮の満干があり、船造りや修理などをし、舟山神も祀っていた。
③波越山の形は円く、朝日によって西の方に長く影ができ、亀の這うのに似ており、土地の人は円亀山・神山と書き、「かみやま、かめやま」と呼んだ。
④国司讃岐守藤原楓磨が宝亀二年(771)宇佐八幡官に準じて祠をつくり祀った。この祠を土地の人は石清水八幡と尊崇し氏神とした。
ここからは、古くは亀山まで潮の干満が押し寄せていたこと、そこに浪越神が祀られていたこと、さらに八幡神が勧進され八幡神社が鎮座していたことが記されます。この八幡神社が山北八幡神社のようです。つまり「神山=亀山」として霊山でもあったことがうかがえます。
『万葉集』には、柿本人麻呂が丸亀の西にある「中之水門」から舟出して佐美島へ渡りつくった歌「玉藻よし 讃岐の国は国柄か……」があります。「中之水門=那珂郡の湊=中津」と考える人も多いようです。
「道隆寺温故記」には、延久五年(1073)国司讃岐守藤原隆任が、円亀の山北八幡を旧領に造営したと記されています。堀江港の交易管理管理センターとして機能した道隆寺の傘下に置かれていたようです。山北八幡神社を氏子して信仰する集団が、周辺にはいたこともうかがえます。
 古代の条里制遺構を見てみましょう
丸亀平野北部 条里制

⑥の丸亀城は、鵜足郡と那珂郡の境に立地することが分かります。条里で呼ぶと那珂郡1条24里あたりになるようです。しかし、丸亀城のある亀山周辺には条里制遺構は残っていません。23里より北に条里制が残っているのは微高性の尾根上地域が北に続く2条や4条だけです。
 現在の標高5mラインを仮想海岸線だったすると亀山の麓は海浜で、確かに満潮時には波が打ち寄せていたことが想像できます。そこに浪越神が祀られ、後には八幡宮が勧進されたというストーリーが考えられます。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

以前に見たように地質図からも丸亀城周辺は、砂州であったことが分かります。

南海通記には 『南海通記』、 次のように記します。
①享徳元年(1452)、 細川勝元が室町幕府の管領職となった
②その後に、細川家四天王と称せられた香川・香西・安富・奈良の四氏に讃岐の地を与えた。
③鵜足・那珂の旗頭になった奈良元安は、畿内を本領としていたが、子弟を讃岐に派遣し鵜足津の聖通寺山に居城させた。
④その下に、長尾・新目・本目・法勲寺・金倉寺・三谷寺・円亀の城があった
 ここには、15世紀半の奈良氏統治下の那珂郡には、円亀山に支城があったと記されています。しかし、考古学的には確かめられていません。
その後、阿波三好勢力の侵入の中で、鵜足津エリアは篠原氏が支配することになますが、これもわずかのことで、長宗我部元親の制圧を経て、豊臣秀吉の四国統一の時代に入っていきます。

短期間の仙石・尾藤氏の讃岐支配に代わって、 生駒親正が讃岐の領主としてやってきます。彼の下で讃岐は中世から近世への時代の転換をとげていくことになります。
生駒親正がやってきた頃の丸亀の様子は、どうだったのでしょうか?
『西讃府志』の「市井」には次のように記されています。
此地 今ノ米屋町ヲ限り東側ハ鵜足郡津野郷二属キ、西側ヨリ那珂郡杵原郷二属開城以前ハ海浜ノ村ニテ、杵原郷ハ丸亀浦卜唱ヘテ高四百六石八斗九升三合ノ田畝アリ 津野郷ハ土居村トイヒケルフ、慶長六年(1601)其北辺二宇多津ナル平山ノ里人フ移シ 始テ三浦卜呼テ高百七十二石八斗八升ノ田畝アリヽ(以下略)
 意訳変換しておくと
この地は、今の米屋町から東は鵜足郡津野郷に属し、西側は那珂郡杵原郷に属する。丸亀城が開城される前は、海浜の村で杵原郷ハ丸亀浦と呼ばれていた。石高は468石8斗9升3合の田畝があった。一方津野郷は土居村と呼ばれ、慶長六(1601)年に、この北辺に宇多津の平山の里人を移住させて三浦と呼ぶようになった。その石高は172石8斗8升である。(以下略)

 ここからは、先ほど見たように丸亀は鵜足郡と那珂郡の境に位置して、米屋町より西は、那珂郡杵原郷に属する丸亀浦で、東は鵜足郡津郷の上居村だったことが分かります。生駒時代までに、海→海浜→農漁村へと「成長」していったようです。
 周辺の地形復元でも、那珂郡の海岸線には、いくつかの砂堆が南北に走っていたことが分かっています。扇状地としての丸亀平野が終わるとそこには、東西に砂堆が広がっていたことは、以前にもお話ししました。
丸亀城周辺 正保国絵図

元禄十年(1697)の「城下絵図」には、現在の通町の中ほどまでが入海となっています。③の砂州上に、三浦からやって来た人たちが人々が住み着きます。④の中洲は「中須賀」と呼ばれ、後に福島町に発展していきます。
 関ヶ原の戦いの後に、西国雄藩を押さえるために生駒親正・一正父子は高松城と丸亀城・引田城の同時築城を始めます。
それは瀬戸内海を北上してくる毛利軍や豊臣恩顧の大名達を仮想敵としての対応でした。このような緊張関係の中で、丸亀城や高松城は築かれたことは以前にお話ししました。生駒親正は西讃岐の鎮として亀山に築城し、この地を円亀と称すようになります。これが丸亀城の誕生になります。
 築城に先だって土器川と金倉川のルート変更を行ったことが指摘されています。
 亀山の東にある鵜足・那珂両郡の境界を流れていた土器川を約800mほど東へ移した。その川跡が外堀であるという説もあるようです。この外堀は、東汐入川によって海に連なります。
一方西側では、金倉川が北にある砂州によって流れを東へ東へと変えて、現在の西汐入川のルートでを流れていたようです。
金倉川流路変更 

これも上金倉で流路変更を行い、現在のルートにしたことが指摘されています。そして、外堀よりL字形の掘割をつくり海に連絡するようにします。こうして、土器川と金倉川の流路変更を行うことで、外堀の東西から海に続く東汐入川と西の掘割の間が城下となります。

丸亀城 生駒時代

尊経閣文庫の所蔵する生駒時代の丸亀城の絵図「讃州丸亀」を見てみましょう。
亀山の山頂には矢倉が設けられ、山下の北麓には山下屋敷があり、それらを囲んで内堀があります。内堀とその外にある外堀との間を侍屋敷とし、外堀の北方を城下町としています。築城以前は、こここは、海浜の砂堆で畑もあったかもしれません。
山下屋敷は、藩主一族かそれに次ぐ高級武土の居館だと研究者は考えているようです。この山下屋敷は、東・北・西の三方は高さ八間の石垣に囲まれた高台で、南は山腹に連なっています。広さは東西八〇間、南北三〇間の長方形の台地で、そこに屋敷があったようです。現在の紀念碑・観光案内所・うるし林の南の部分にあたるエリアです。この高台の北端は内堀より約20間南に当たります。
 丸亀城築城に伴い城下町形成も行われます。
そのために移住政策がとられます。記録に残る移住者達を視ておきましょう
①那珂郡の郡家に大池をつくり、南条郡国分村の関池を拡張し、香西郡笠井村の苔掛池などを掘ったと伝えられます。このとき、関池付近の住人が城下へ移されところが南条町であると云われます。南条町は地形的には亀山の西に続く高地にあたり、丸亀浦ではもっとも高く、もっとも早く人々が住み着き人家のできたところのようです。
丸亀市南条町塩飽町

また、南条町は西汐入川と外堀を結ぶ運河が城乾小学校の東側から北向地蔵堂を経て外堀にもつながっていました。いわゆる運輸交通網に面していたエリアです。ここに最初の人々が居を構えるのは納得できます。
② 豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に、生駒氏が朝鮮に出兵した時には、塩飽の水夫や鵜足津の三浦の水夫が従軍したと云われます。水軍整備の一環として、塩飽島民の一部が城下へ移されたと伝えられます。これらの人々は、南条町の東側に定住地が指定されたようです。これが塩飽町と呼ばれるようになります。

宇多津平山からの三浦漁夫の移住 
慶長六年(1601)、関ヶ原の戦いの後も、これで天下の行方に決着が着いたと考える人の方が少なかったようです。もう一戦ある。それにどう備えるかが大名たちの課題になります。ある意味、軍事的な緊張中は高まったのです。瀬戸内海沿いの徳川方の大名達は、大阪に攻め上る豊臣方の大名達を押しとどめ、大阪への進軍を防ぐことが自らの存在意義になると考えます。徳川秀忠をとうせんぼした真田家の瀬戸内版と云えばいいのでしょうか。そのための水城築城と水軍の組織強化が進められたと私は考えています。生駒氏が、丸亀・高松・引田という同時築城を、関ヶ原以後に行ったのは、このようなことが背景にあるようです。

丸亀市平山

 丸亀城築城中の生駒一正は、城下町形成のため、鵜足郡聖通寺山の北麓にある三浦から漁夫280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に移住さています。この三浦とは現在の御供所・北平山・西平山の三町になります。彼らをただの漁民とか水夫と見ると、本質は見えなくなります。塩飽の人名とアナロジーでとらえた方がよさそうです。この3つの浦は、中世には活発に交易活動を営んでおり、多くの廻船があり、交易業者がいた地区です。彼らはこれより前の文禄元年(1592)、 豊臣秀吉の命により朝鮮へ出兵した生駒親正に、 塩飽水夫650人、三浦の水夫280人が従軍しています。塩飽水軍と共に、水夫としてだけでなく、後方物資の輸送などにも関わっていたようです。彼らを城下町の海沿いエリアに「移住」させるということは何を狙っていたのか考えて見ましょう。
①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫
②瀬戸内海交易集団の拠点
③商業資本集団
これらは生駒氏にとっては、丸亀城に備えておくべき要素であったはずです。そのために、鵜足津から移住させたと研究者は考えているようです。
妙法寺(香川県丸亀市富屋町/仏閣(寺、観音、不動、薬師)(増強用)) - Yahoo!ロコ
妙法寺
 生駒氏以前には、丸亀にはお寺はほとんどなかったようです。
古いお寺としては文正元年(1466)に、鵜足津から中府へ移り東福寺と称し、さらに天正年間高松へ移り見性寺と改称された寺があるくらいです。多くの寺社は、生駒氏の城下町形成に伴って移って(移されて?)きたようです。その例として丸亀市史が挙げるのが、次の寺院です。
①豊田郡坂本村から日蓮宗不受不施派であった妙法寺
②鵜足津から丸亀へ、さらに高松へと移った日妙寺
③聖通寺山麓から280人の水夫の移住に伴い、真光寺・定福寺・大善院・吉祥院・威徳院・円光寺などが丸亀の三浦に移ってきます
これらの寺のうち定福寺・大善院・吉祥院・威徳院は、丸亀城の鎮護として鬼門に当たる北東に並んで建立され、俗に寺町四か寺と称されるようになります。
山北八幡宮と御野屋敷跡(丸亀市) | どこいっきょん?
山北八幡神社
亀山の南にあるのに、山北八幡と云うのはどうして?
 先ほど見たように山北八幡宮は、もともとは亀山の北麓に鎮座していました。そのため「山北」と呼ばれていました。ところが築城のために移転させられ、現在の杵原村の皇子官の社地に移りました。この結果、亀山の南に鎮座ずることになりました。しかし、社名は「山北八幡」のままです。
富屋町の稲荷大明神も田村から慶長四年(1599)に移ってきたと伝えられます。
移転してきた時は、社殿のすぐ北まで海水が満ちていたと云います。築城とともに人が集まり、上下の南条町を中心に、塩飽町、 さらにその東に兵庫町(現富屋町)、 北に横町(現本町)、浜町へと人家が広がり、その家々に飲み込まれていったようです。
「生駒記」には慶長七年、一正が丸亀城から高松城に移り、城代を置いたとあります。このときには、町人の中から高松へ殿様に付いていった人たちもいたと云われます。現在高松にある商店街丸亀町は、このときに丸亀からの移住者によって作られた町とされます。私には「希望移住」と云うよりも「指名移住」であったようにも思えます。
お城ウンチク(松江城・萩城)│inazou blog

 元和元(1615)年に大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると一国一城令が出され、丸亀城は廃城になります。
私は、これに伴い城下町も消滅したのかと思っていました。しかし、どうもそうではないようです。生駒時代の末期に当たる寛永十七年(1640)に記された「生駒高俊公御領分讃州郡村丼惣高覚帳」の丸亀城下に関係のある所を見てみましょう。
那珂郡の内
一高四〇六石八斗九升一合    円(丸)亀浦
内 一八石 古作              見性寺領
四七石三斗五升七合          新田悪所
鵜足郡の内
一高一七二石八斗八升            三浦
翌十八年の「讃岐国内五万石領之小物成」に、
仲郡之内
一 銀子二一五匁 但横町此銀二而諸役免許      円亀村
一 米三石 但南条町上ノ町此米二而諸役免許    同 村
一 米五石 但三町四反田畑共二請米          同 村
一 塩八五一俵二斗九升六合 但一か月二      同 村
宇足郡之内
一 千鯛一〇〇〇枚                三浦運上
一 鱗之子一五〇腸               同 所
このとき、田村の総高が803石余です。円亀浦は406石ですので、農地は、田村の約半分ぐらいはあり、相当広い農地がお城の北側に広がっていたことが想像できます。同じように、三浦は172石です。これは円亀浦の約四割強に当たります。ここにも、ある程度の広さの農地があったことがうかがえます。農地が広がるなかに街並みが続いていたようです。
ここで丸亀市史が指摘するのは、小物成(雑税)として円亀村では銀子や米を上納していることです。丸亀村からは「銀子二一五匁」が収められ、その内の「横町此銀二而諸役免許」と「諸役免許」の特権が与えられています。ここからは商人や海運者などが廃城後も住み着いていたことがうかがえます。
 また塩851俵とあります。これは塩屋村からの上納品と考えられますが、すでにこれだけの塩の生産力があったことを示します。また、三浦からは運上(雑税)として「干鯛・鱗之子」が納めています。これは東讃大内郡の「煎海鼠・海鼠腸」とともに讃岐の特産物で、江戸・京では珍重されていたようです。三浦に移住してきた水夫達は、漁民として活動し、特産品の加工なども行っていたことが分かります。
   私は、政治的に強制力を持って集められた集団なので、一国一城令による丸亀城の取り壊しと共に、人々は去り、町は消えたように思っていました。しかし、ここからうかがえるのは、生駒藩が形成した旧城下町には、集められた住民はそのまま丸亀に残って、経済活動を続けていた者の方が多かったことが分かります。それは、横町のようにここに住む限りは、様々な特権や免除が約束されていたからでしょう。城は消えたも、街は残ったとしておきましょう。
丸亀城 正保国絵図注記版

正保の城絵図です。これは山崎藩時代に幕府に提出されたものです。
地図では古町を黒く塗りつぶしています。
⑥「古町」と書かれているところは、上南条町・下南条町・塩飽町、横町(現本町)、船頭町(現西本町)と、三浦(西平山・北平山・御供所)になります。つまり山崎藩がやって来る前からあった街並みを指します。古町は微髙地の南条町を中心に、生駒時代に移住してきた人たちが順次、街並みを形成していった所といえるようです。
 お城がなくなっても、水夫や海運業者や商人たちは残って経済活動を続けていたことが裏付けられます。

丸亀城 正保国絵図古町と新町
⑦新町は、現在の富屋町から霞町辺りにあたります。
このエリアはお城の真北になります。その東は「畑」と記された広い場所が東汐入川まで続いています。畑は霞町東部・風袋町・瓦町・北平山・御供所の南部になります。これらの新町は、山崎家治によって、計画された町なのでしょう。東汐入川の東は田地が土器川まで広がっています。この辺りは水田地帯だったようです。こうしてみると丸亀城下町は南よりも海に面した北側、そして西汐入川から海に面した西側から東に向けて発展していったことが分かります。
20200619074737

  以上をまとめておくと
①丸亀城築城以前は、亀山まで海が迫り、遠浅の砂浜が土器川から金倉川まで続いていた。
②このエリアが、古代の条里制施行の範囲外となっていることも「低湿地」説を裏付ける
③そのため生駒氏は、土器川・金倉川のルート変更を行い、水害からの防止策を講じた
④その上で、亀山を中心とする縄張りと城下町造りが始まった
⑤最初に街並みが形成されたのは亀山から西の城乾小学校に続く微髙地で、ここに南条町が出来た。
⑥その後、この南条町を中心とする微髙地に、塩飽町などの街並みが形成される。これが「古町」であった。
⑦一国一城令で殿様が高松に去った後も、古町の住人達はこの地を去らずに、丸亀での生活を続けた。
⑧讃岐東西分割後に、西讃に入ってきた山崎藩は、旧城下町の経済活動が活発に行われていた丸亀にお城を「復興」することにした。
⑨そして、古町の東側に新町を計画した。しかし、その東は畑や水田が続いていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 


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