瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割
丸亀平野は古代の鵜足郡、那珂郡、多度郡にあたり、整然とした一辺約110mの方格地割がみられます。しかし、よく見ると土器川や金倉川沿いなどには乱れがあります。それでも、全体としてみると統一性のある方格地割になっているようです。この地割は、古代の条里制との関わりで説明されています。律令体制の「班田収受制」を行うための整備という位置づけです。しかし、条里制の格地割形成については、次のような説や見解が出されています。
①班田制と方形地割形成を別個に考えて、両者が備わった段階を「条里プランの成立」とする金田章裕氏の説
②発掘調査からみて灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできないという説
③当初の方格地割と現在の地割にはずれがあり、段階的に成立したとする説

丸亀平野の広がる「条里型地割」の施工がどこまで遡り、 またどのような変遷をたどるのかを考古学的に見ておきましょう。テキストは「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」です。
丸亀平野 旧練兵場遺跡
       善通寺王国の旧練兵場遺跡の復元図

丸亀平野では、1983(昭和58)から高速道路の発掘調査が大規模に行われました。広範囲な発掘調査が行われたことで、土地条件・地質環境に情報も格段に増え次のような事が分かってきました。
①丸亀平野の形成時期は、3万年以前の更新世に遡ること
②完新世以後は高燥化が進んで、河川岸に段丘崖を形成し、平野面は剥削環境にあったこと
③そのため旧河道などの低地帯を除くと、用水路以外の地割痕跡は考古学上の遺構としては把握することはできない
これは、地割を考古学的に追究する上でのデメリットですが、あえて発掘調査で出てきた「溝」に研究者はこだわります。土器川西岸に接する川西北鍛冶屋遺跡を一番東側として、西は旧多度郡の乾遺跡まで、高速道路建設での発掘調査の行われたで延長約6kmの東西に長い15遺跡のデータを並べたのが第2表です。
丸亀平野の条里制3
高速道路建設ルート上の丸亀平野の各遺跡

すべての遺跡の調査範囲の中には合計57箇所の坪界線が机上では想定されます。それが、発掘では溝として、どのように出現しているのかを見ていきます。
第2図からは、Ⅰ期(7世紀以前)にかなり広範囲に溝の分布があったことが分かります。各遺跡毎に見ると、次のようになります。
①Ⅰ期の溝が少ないのが、川西地区、龍川地区、永井・中村地区
②Ⅰ期の溝が多いのが、郡家地区、金蔵寺地区、稲木地区
ここからは、①が条里制施行が遅れたエリア、②が先行したエリアであったことがうかがえます。②は郡衙や準郡衙的な遺構があった所で、前時代からの首長の拠点と目されるエリアです。条里制地割溝には、早く施工された地域と遅れて施工された地域に偏りがあるようです。押さえておきたいことは、丸亀平野全体が一斉に、条里制工事が行われたわけではないことです。中世になって開かれた所もありますし、土器川や金倉川に至っては近代になって開墾された所もあるの以前にお話ししました。それでは、地図の東側から順番に各エリアを見ていくことにします。各遺跡図はクリックで拡大します。

丸亀 川西遺跡
a.川西北鍛冶屋遺跡(13).川西北七条Ⅱ遺跡(14)(第3図)

土器川西岸にある上図2つの遺跡群では、はっきりとした地割が見えます。弥生時代前期以降の小規模な南北方向の溝が多くあり、6世紀後半から7世紀末まで使用された出水状遺構(SX-01)があります。出水状遺構は、伏流水を灌漑用に利用するために微高地上に掘られた土坑(井戸?)で、いくつもの用水路で水田に導かれています、
 調査区内には5本の縦方向坪界と、1本の横方向坪界が見えます。
縦方向は東SR01・SD11・ SD13と2町間隔で、比較的大型の灌漑水路が想定坪界線に沿って見えます。これらは10~11世紀頃に掘られたものです。その前段階の8~9世紀と考えられる溝が、SD-12やSD-10などの斜め方向に伸びる溝です。そして、各所で南北に派生する溝が付属しています。
 これらの溝は条里型地割の方向性に一致していて、田地区画は地割に沿った方向であったことがうかがえます。したがって、平安期に坪界溝が掘削される以前にすでに、出水状遺構(SX01)を水源とする地割施工があったと研究者は考えています。
出水状遺構(SX-01)から伸びる各溝が、あるときに南北方向から地割にそった方向へ変化していることに研究者は注目します。
 出水状遺構(SX-01)が埋没するのは7世紀末~8世紀初頭頃です。ちょうど南海道が伸びてきて、丸亀平野に条里制が施行される時期になります。SD70が現状地割を基準として、半町の位置にある点、また斜めに走行するSD40・41が南北半町の位置で坪界線に合致する点からみて条里型地割のようです。ここからは、7世紀末~8世紀初頭までには地割が行われた後も、引き続き出水状遺構(SX01)を水源とする灌漑水路を維持されたことがうかがえます。それが平安期になって、大型の灌漑水路が坪界に整備されることで、その使命を終えて埋められたと研究者は考えています。

b.郡家原遺跡(19)(第4図)

丸亀平野 宝幢寺池水系
郡家周辺の旧河川跡(清水川)

郡家原遺跡は、大規模な旧河道域(清水川)の周辺に広がる遺跡です。
旧河道を遡ると宮池・大池を経て旧河道を利用して築堤された宝幢寺池があります。この池の中には白鳳期の宝瞳寺跡があることは、以前にお話ししました。南海道も、この池のすぐ南を通過しているので、郡家という地名から、この旧河川の岸のどこかに、那珂郡の郡衙があったと研究者は考えています。
丸亀 郡家原遺跡
郡家原遺跡

 郡家原遺跡は、5坪分(A~E坪)にまたがって調査区が設定されています。弥生時代後期後半に集落が営まれ、地形に従って溝が緩やかにカーブしながら伸び、古墳時代の溝も微髙地を反映した方向をもっていたようです。
坪界にあたる溝は、縦軸がSD-140・148、SD-191・189で、横軸がSD-231になります。
溝出土の遺物は7世紀末~8世紀初頭以降のもので、これが掘削時期を示しています。このうちSD-140・148は、中世以後も使用された堆積状況を示します。その他の溝は10世紀前半頃までに一旦は埋没し、その後13世紀頃に再掘削されたり、隣接地へ水路変更されています。中世になって、新たな用水路が整備されたようです。
 8世紀の奈良時代の集落がA・C・D坪にあります。
 同じ規模の建物・倉庫など等質的な3グループだったようです。出水状遺構はA坪とC坪にあります。出水状遺構が集落にあるので、井戸として使われていた可能性がありますが、この場合は坪界の水路より出水状遺構の溝の方が深く掘られているので、坪界にある基幹的水路をリレー的に結ぶ灌漑用の水源として使われていたと研究者は考えているようです。
 研究者が注目するのは、出水状遺構から伸びる用水路です。
一坪を縦に5分割した場合の東から2本目のラインと一致します。特にSD77は、南北半町の位置まで斜めに走行し、そこから屈曲してラインに合わせています。C坪では出水状遺構は見られませんが、SD175がSD77と同じ位置で北流しています。このようにみてくると、各グループの建物の配置も、東西3区画と南北半町の範囲に限定されて計画的な村落景観が地割整備と共に現れたことが分かります。

郡家原遺跡の出水状遺構は、北方に広がる水田用のものとされます。
土地条件に応じて小規模水源を組み合わせ、微高地の水田に導水していたようです。用水路は遠くまで延ばす際には、深い水路と浅い水路を立体交差させる必要が生じてきます。そのためには、高松市太田下須川遺跡、同市浴・松ノ木遺跡で出土した長さ3mほどの木管が水路を立体交差させる場合に必要となります。 
 条里制施工後の状況については、A坪の出水状遺構は平安期まで続い利用されています。ただしSD77は、9世紀代遺構には埋没して、SD73に付け替えられています。SD77等に見られたきちんとして坪内区画は、9世紀以降には見えなくなります。また、この時期になると建物配置にも、方向性やその内容に規格性がなくなります。それでも、坪界の地割溝は残ります。坪内の区画は乱れても、坪界を中心とする条里型地割には影響を与えていないようです。ここに全体として、丸亀平野の条里制的な景観が残った秘密がありそうです。
丸亀平野遺跡分布図4
丸亀平野遺跡分布図 西部版

金倉寺下所遺跡(第5図) 
金倉川西岸は、条里型地割が広範に乱れた地域になっています。
善通寺 金倉下所
金倉川下所遺跡周辺の旧河道

金蔵寺下所遺跡は、遺跡の西側に蛇行する小さな旧河道と金倉川の間の狭い微高地上に立地します。
西側の旧河道は最大幅6、5mの自然河川です。遺構の北側には、微高地上を穿って流れていて、南側の自然河川から水を引くための用水路であった可能性が高いと研究者は考えています。同じ位置に古墳時代の溝もありますが、弥生時代のものより溝底が高いことから、自然河川の堆積による水位の上昇に対応して掘り直されたようです。小規模河川の蛇行部から取水し、微高地上に用水路を掘開して下流の水田に導水するというやり方です。どちらにしても、この遺跡が弥生から古墳・律令期と長い期間にわたって存続していたことが分かります。
善通寺 金倉下所
           金倉川下所遺跡

 この微髙地には、次の3つの建物群があります。
①7世紀末~8世紀初頭の溝(SD04)を挟んで東西両側に正方位をもつグループ。建物は合計9棟で、その内総柱倉庫が溝の東に2棟ある。
②同時期の遺物が出土する溝(SD-06)の両側に、現状地割と同一の方向性をもつグループ。合計8棟で、総柱倉庫は、やや大きさが小さくなり、溝の東に1棟。
建物方位によって区分できる①②群は、建物の規模や構成点で共通性があり、前後関係は柱穴の切り合いからみて、①から②へ変化したと考えられます。建て直された時期は、7世紀末~8世紀初頭で、従来の建物構成を維持したまま条里型地割の方向性に沿って建て直されたと報告書は記しています。これも、時期的に見て条里制施行に伴う集落の再編成事業の一環のようです。

  SD06の東には、建物を区画するような5~7条の溝が並行して掘削されています。
 ここからは9世紀までの遺物が出土しているので、建物群も9世紀頃までは存続したことが推測できます。建物群の東端には最大幅10mの溝がありますが、ここには鎌倉時代前半期頃までの遺物が包まれています。そのため次の時期の小規模柱穴で作られた建物群と研究者は考えています。これが三つ目の建物群になります。
 
以上から、7世紀末~8世紀初頭の集落の再編成時において、建物や溝は条里制地割の方向性に沿って建て直された。しかし、中世になると、人々の意識の中には、地割の意識はなくなり建物はバラバラの方向に建つようになった。それでも溝は、地割ラインが残ったと云えそうです。


d 稲木遺跡(第6・7図)    
善通寺 稻木遺跡
稲木遺跡
稻木遺跡は、遺跡の中央を斜めに旧河道が横切っていました。
これが6世紀末までに埋没して水田域となります。また東肩部の微髙地では竪穴住居群が廃絶した後に一帯が水田化しています。西岸は比較的高燥な微高地で弥生時代には、方形周溝墓や竪穴住居が営まれています。微髙地の南では、7世紀後半から8世紀前半の掘立柱建物群が出ています。 
善通寺 稻木遺跡3
稲木遺跡(東側)

 この遺跡でも7世紀末頃に、それまでの建物構成を維持ながら村落の再編が行われたようです。これも条里制施行に伴う再編事業の一環のようです。建物の一部には、区画溝があるのも金蔵寺下所遺跡と似ています。また、建物区画溝が坪界に一致しない点も共通します。灌漑水路をみると、周辺縦軸の水路については10m内外の誤差が認められますが、おおむね坪界と一致します。横軸については、溝はないようです。
善通寺 永井遺跡
永井遺跡                   
 永井遺跡は、縄文時代後晩期の自然河川が埋没して作られた微高地上に立地します。
弥生時代以降、遺跡中央の浅い凹地をカーブを描きながら走行する多数の溝があります。凹地にあった水田の導排水のための灌漑水路と考えられます。これらは7世紀前半頃に埋没しています。その後の水路は、遺跡東端の水路に移っていきます。遺跡の東側とされる段丘肩部を等高線に沿って2~3条の溝が走行します。埋土の中には8世紀後半から平安期の遺物が含まれています。この溝は段丘下にあった自然河川から取水し、微高地上に新たに拓かれた水田に導水する用水路と研究者は考えています。先の浅谷部も埋没して平坦化され、遺跡の東側一帯が耕地化したようです。
 ここで研究者は注目するのは、遺跡東端の溝群が坪界の交点で屈曲して、坪界線に沿って北流することです。同じような川西北鍛冶屋遺跡でもありましたが、地形・水利上の制約を受けながらも、可能な所は坪界に合致させています。溝の掘削段階には、すでに地割の企画があって、それに基づいて田地形状や溝の位置が決められたことがうかがえます。
遺跡中央部のSD42は、8世紀中頃以前に掘削された坪界の溝(SD45)が埋没した後に、逆に等高線に沿ってカーブをを描きながら伸びていきます。これは地形・水利上の問題が当初設計よりも深刻であったので、新しく削し直したと研究者は考えています。

遺跡西側には鎌倉~室町時代の区画溝をもつ宅地が広がっています
横軸は坪界線|こ、坪界線と一致する溝が2町以上にわたって続いています。しかし、縦軸は宅地区画溝とは、合致しません。平安期の溝が埋没した後に、周辺の田地形状がどのように編成されたかを示す材料乏しいのですが、縦方向にも多少ずれた地割があった可能性は残ります。

こうして研究者は、現在の条里型地割に一致する溝を拾い出して、宅地や潅漑水路の変遷を見ることによって、現在の地割の位置づけを行いました。その上で、改めて条里型地割の変遷を見ていきます。
 条里制地割が行われ時期が分かるものとして、研究者が挙げるのは次の資料です。
①川西北鍛冶屋遺跡の出水状遺構
②郡家原遺跡の地割に沿った溝と、それに先行する建物
③金蔵寺下所遺跡や稲木遺跡の宅地の再編成時期
  これら遺構は、7世紀末~8世紀初頭に施工された条里制遺構である可能性が最も高いと指摘します。
宅地から見ていきましょう。
 稲木遺跡、金蔵寺下所遺跡では、集落がそれまでと同じ構成・規模のままで、新しい条里制地割にあわせて再編成されています。郡家原遺跡では縦横軸ともきちんと坪界に一致して、3つの坪にきわめて整然とした宅地が配置されていました。坪内も半折型を基調とした区画を示す材料が揃っているので、計画的村落と云えそうです。それまでの建物群が「小規模散在的」なので、集落単位の再編成というよりも、「新計画集落」の建設と捉えた方がよさそうです。7世紀末~8世紀初頭頃に、条里制とともに集落の再編成も併せて行われたようです。この際に、1つの集落単位の再編成にとどまる遺跡は、地割との整合性にやや欠ける部分があります。それに対して、複数の集落を越える規模で再編成されたと考えられる郡家原遺跡には、厳密な計画性と整合性が見られます。

灌漑水路の整合を見ておきましょう。
どの遺跡でも、この時期に灌漑技術が飛躍的に発展したことを示すものはありません。小河川や出水状遺構などの小規模水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものです。「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」という説を改めて確認するものです。ここからは、古代の満濃池について、もう一度見直す必要がありそうです。大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力は古代にはなかったことを考古学的な資料は突き付けています。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」というのは「古代の溝」を見る限りは、現実とかけ離れた話になるようです。

 出水遺構については、川西北鍛冶屋遺跡で1基、郡家原遺跡で2基ありました。
どちらもそこから水路が伸びているので、灌漑に使用されたことは疑いありません。川西では6世紀後半以前に掘削された水路で、弥生期の溝と同一の方向から、8世紀初頭に地割に方向を合わせた水路へと掘り直され、その後は埋没しています。郡家原遺跡では、宅地割りの一角にあり、南北半町の地点まで斜めに導水した後、現在の地割方向に曲げられています。これらは坪界に合致するものではありませんが、すぐ横に坪界に位置するやや浅い水路が伸びています。坪界水路が田地へ用水を供給するポイントでは、再び屈曲させて坪界に一致して走行した可能性が高いと研究者は考えています。

地割の整合について郡家原遺跡と稲木・金蔵寺下所遺跡で違いがありました。
この差がどこから来るのかを研究者は次のように考えます。
郡家地区は、宝帷寺周辺にあったとされる那珂郡衙と同一の小河川(清水川)水系に位置します。善通寺地区においても、仲村廃寺や善通寺跡などの古代寺院が集中するエリアにある生野本町遺跡では、7世紀末~8世紀初頭の条里型地割の中に、規格的な建物群が建っていたことは以前にお話ししました。このように、郡衛周辺エリアでは、規格性の高い地割施行が行われたようです。

条里制地割施行後の変遷には、次の2点がポイントになると指摘します。
①平安末頃に大規模な灌漑水路が掘開される段階
②近世になって「皿池」が出現する段階

まず①について、平安末頃以降になると各所で大規模な溝が掘開されるようになります。
川西地区、郡家地区、龍川地区では地割に沿った位置に、大きな溝が見られます。大規模な溝が掘られるようになった背景には、それまでの小規模水源からの灌漑技術の革新がうかがえます。この時期の水路は坪界に位置しないものも多く、郡家原遺跡など前代の坪界の水路から横方向にずれて設置されたものもあります。この理由を研究者は次のように考えています。
 たとえば小河川の付替工事の場合を考えると、より広い潅漑エリアに配水するためには、それまでは、小規模な溝を小刻みに繋いでいく方法が取られていました。それが大規模用水路を作る場合には、横方向の微妙な位置調整が必要となります。田地割がすでに完成している地域では、それまでの地割との大きなずれは避け、地割に沿って横方向に導水する水路が必要が出てきます。これが平安期以後に横軸の溝が多く作られるようになった理由と研究者は考えています。

 地形的条件だけでなく、地割に関する規制が薄れたことも考えられます。
金倉寺下所、永井の各遺跡では、平安期以降になると宅地配置に地割と整合しないものが出てきます。軸のズレだけでなく、方向の異なる掘立柱建物も各所で現れます。これは、郡家原遺跡の出水を源とする水路が、平安前半段階になると、区画を無視して掘り直しされている時点からすでに現れています。この時点では、律令国家の土地政策の変容が始まっていたことがうかがえます。それが受領国司の登場であり、郡衙廃止という動きであることも以前にお話ししました。
受領国司

江戸時代になって新たに採掘された水路はほとんどありません。
その理由は、条里制施工時に作られた灌漑用水路が、姿を変えながら現在の幹線水路となり維持管理されているからと研究者は考えています。ということは、現在の灌漑用水路網は、条里制施工時にほぼ形成されていたことになります。
 近世になって造られた満濃池を頂点とする丸亀平野の灌漑網も基本的には、それまでの地割を引き継ぐ水路設定がされています。そのため古代以来未開発であった条里制の空白地帯や地割の乱れも、従来の条里制の方向性に従った地割になったようです。つまり従来の地割に付け加えられるような形で整備されたことになります。これが、現在も条里制遺構がよく残る丸亀平野の秘密のようです。しかし、繰り返しますが、この景観は長い時間を経てつくられたもので、7世紀末の条里制施工時に全てが出来上がったものではないのです。

 7世紀末~8世紀初頭段階で横軸の設定が厳密でなかった稻木遺跡や金蔵寺下所遺跡周辺では、今でも地割の乱れが見られます。
これが現在でも「乱れ」として分かるということは、条里制施行当時に統一的な地割規格があったことを示すと同時に、「乱れ」の形成要因が古代の施工時まで遡るものであったことを示すと研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
①丸亀平野の条里制地割の施工開始時期は、7世紀末~8世紀初頭
②この工事は、それまでの潅漑技術を応用する形で地形条件を克服し、宅地地割と水田地割を同時に行うものであった。
③そこには灌漑技術の革新があった痕跡はない。
④そのため施工されなずに放置された「空白地帯」も多くあった。
⑤条里制施行エリアは、現在の条里型地割とほとんど一致する。
⑥郡の範囲を超えて、一元的企画が地割施工開始以前にあった
⑦その意味では、条里制規格プランが7世紀後半まで遡る可能性がある。
⑧地割の基準や工法については、坪界縦軸の整合が高い

②については、一つの集落を単位とした宅地・水田の再編成と、ある一定の地域を広範に、規格化・再編成する2つのねらいがあったようです。この背景には、施行を行った政治勢力の本質的な差が現れていると研究者は指摘します。それは中央政府と首長層から転進した郡長ということになるのでしょうか。地域の「律令化」を考える上で、重要な視点になりそうです。
 ⑧の坪界縦軸について、歴史地理学は南海道のルートが先ず決められ、直線的に額坂と大日越を結び、それに直角に郡境が引かれ、それが縦軸になったとします。これが考古学的に発掘された各遺跡の溝の方向からも実証された結果となります。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 
  「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」
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前回に続いて丸亀扇状地が、どのようにして丸亀平野になったのかを見ておきたいと思います。最初に下図に丸亀扇状地を重ねながら大きなターニングポイントを確認しておきましょう。

丸亀平野 形成史1
丸亀平野 扇状地から平野へのプロセス

上の順番で丸亀扇状地が丸亀平野になっていく過程を追って見ることにします。
まずは①の扇状地がいつ形成されたかについてです。
 丸亀平野 姶良カルデラ
29000~26000年前 鹿児島湾の姶良(あいら)カルデラ火山が噴火し,火山灰(AT)を大量に日本列島に振らせました。この時期は、地球は最終氷河期で海水面が現在より約100m下がったようです。
丸亀平野 旧石器時代の日本図

そのためこの時期は、間宮海峡,宗谷海峡が陸つづきとなり、朝鮮海峡,津軽海峡は冬期に結氷し,アイスブリッジが架かった状態となります。
丸亀平野 旧石器時代の瀬戸内

瀬戸内は草原が広がり,湖沼が発達し、そこにナウマン象などの大型ほ乳類が大陸からやってきます。私たちのご先祖さん達は、現在の瀬戸内海の島々の頂上からやってくる獲物達を見張っていたようです。瀬戸大橋の橋脚となった島々の頂上からは、国分台や坂出市の金山のサヌカイトの石器破片が数多く出てきます。これらは中国地方にも搬出されています。
 以前にお話ししましたように、発掘調査では、丸亀扇状地の礫状の上から姶良カルデラの火山灰は見つかっています。この時代の土器川は、現在の平池や聖池のラインまで礫を運んできて、すでに丸亀扇状地の形成を終えていたことになります。その後に、火山灰は降り積もりました。氷河期は雨が少ないので、土器川の浸食・堆積作用は弱まります。この時期の丸亀扇状地は、現在の土器川の瓦のように礫岩が重なり積もる姿を見せていたのでしょう。土器川は北流し、岡山の高梁川などと合流し西に流れ、現在の佐田岬を迂回して足摺岬の西方で太平洋に流れ込んでいたようです。
これが一変するのが13000年前です。温暖化進み最終氷期が終わり,完新世が始まります。
 亜寒帯針葉樹林は年々少なくなり,広葉樹林,照葉樹林が広がり、草原もなくなっていきます。こうして寒冷気侯に適応し,草原を食料源にしたナウマン象,オオツノジカ等は絶滅します。代わって森林の堅果類,芽等をえさにするた中小哺乳類のニホンシカ,イノシシ,ツキノワグマ,キツネ,タヌキ,ノウサギ,ニホンザルなど、私たちに馴染みのある動物たちが登場します。地球が暖かくなるに従って、海水面は上昇し、鳴門海峡から海水が瀬戸内草原に注ぎ込み内海としていきます。
 このころには,日本列島は黒潮の流れ込みを受けて、夏季多雨,冬期多雪の気侯が形成されていきます。この時期のご先祖さまの住居は、洞穴,岩陰を利用したものが多いようです。瀬戸内平原でのナウマン象狩りから山間部の林の中での鹿や野ウサギ狩りへと生活スタイルを変えなければならなくなったようです。

 しかし、ご先祖さまはこの環境変化に適応すべく、次のような新たな「技術」を生み出します。
これが縄文時代の幕開けとなっていきます。
   土器の発明(堅果類,肉の煮沸)
   弓矢の発明(狩猟)釣針の発明(漁撈)
   尖頭器の改良―有舌尖頭器の出現(狩猟)
   石皿,磨石の増加(堅果類の調理)
   磨製石斧の増加(木器の製作)
   磨製石斧の出現.
 この過程で,どのような地形変化があったのでしょうか。
丸亀平野 気温変化
 
更新世はかつて「洪積世(こうせきせい)」とも呼ばれていました。  更新世末期の最後の寒冷期(ヤンガー・ドリアス寒冷期)が終わると、長期的で大規模な温暖化が始まりました。これを完新世の始まりとします。完新世には急激な温暖化により、氷床や氷河が解け、世界的に5m前後の海水面上昇が起こりました。特に今から約7000年前には、現在よりも温暖化していたため、海水面の高さは今よりも約3メートル高かったと推定されています。
 その後、海水面がやや低下して現在の位置になりました。海水面が上昇したことによって、それまで陸上の低地にあった河川に海水が流れ込んできて、河川の堆積物の上に海の堆積物が重なるという事態も起こりました。 これが丸亀扇状地の末端部やその下の三角州で起こったことです。

次に弥生集落と地形の変遷を淀川流域の例で見ておきましょう。
丸亀平野 地形変化

  上の説明を図示化すると下のようになります。
丸亀平野 平野形成

これを参考にしながら以前お話しした善通寺市の旧練兵場遺跡の集落の変遷について簡単に「復習」しておきます。

丸亀平野 旧練兵場遺跡
善通寺市旧練兵場遺跡 弥生時代の復元図

丸亀平野 扇状地から平野へ
①丸亀扇状地(平野)は,土器川の流路が東西に変遷を繰り返して氾濫し、網の目のように流れ自然堤防を形成したため,微髙地に富んでいた。
②西からやってきた弥生人たちは、この微髙地を利用して定着し稲作を始めた。
③自然堤防上に集落、その後背湿地に小さくて不規則な水田が開かれた
④定期的に低地部分には洪水が襲ってきた。その結果,地形の逆転がしばしば起こった。
⑤大規模な洪水の際には起伏が増し,反対に小規模な場合には起伏差がなくなっていった。
⑥弥生時代中期末~後期,古墳時代後期には後背湿地部分の埋積が徐々に進んだ。
⑦7世紀末には、それまでの微髙地を含む起伏が少なくなり、今のような平坦な状態になった。
その平坦になった時期に、条里型土地割の水田が拓かれていきます。
背景には、この時期に土器川の堆積作用が激減したことがあるようです。
丸亀扇状地帯の一部で段丘化が生じたと研究者は考えているようです。分かりやすく云うと、段丘崖が出来ることによって、土器川の流れが限定化され安定化します。それに応じて、人々は土地利用や土地開発の方法を変えていくようになります。平面化した扇状地は、洪水が発生しなくなり堆積が停止ます。
これは何をもたらしたのでしょうか?その影響や結果を列挙していきましょう。

丸亀扇状地で起きた段丘化がもたらしたもの

  ①地下水位が低下し土地が高燥化した。
このため,土地条件が安定し水害を受け難くなった。一方で地表面の更新が行われなくなり,同じ地表面を長い期間にわたり利用し続けなければならなくなった。
  ②地下水位の低下は湿田を、乾田化させ生産力を向上させた。
湿田と比較した場合,乾田は水管理がうまくできれば、裏作に麦をつくる二毛作が可能になったり,畜力を利用した耕作や、長鋤の利用も可能になります。これは、土地生産性を飛躍的に高めることにつながります。実際に、大阪府の池島・福万寺遺跡の中世旧耕土からは、鋤の痕跡やヒトや牛と考えられる馬蹄類の足跡が見つかっています。

  ③河川灌漑の場合には,従来の灌漑システムが段丘化により破壊されてしまうこともあった。
そのために段丘崖上まで水を引くためには、もっと上流側に取水口を設けることが必要となります。これにチャレンジしたのが中世に東国から西遷御家人としてやって来た東国武士集団だったことは以前にお話しした通りです。土器川右岸の飯山町には、そのような痕跡がいくつも残されています。

④段丘上では土地は高燥化し,より多くの灌漑用水が必要になります。濯慨がうまく行かない場合には,赤米のような耐乾品種の導入,あるいは水の管理しやすい小さな区画への変更が図られたかもしれません。また,水田から畠へ土地利用を転換せざるを得なかったかもしれません。最悪の場合,土地が放棄され荒廃した可能性もあります。
このような「耕地廃棄」と農民の移動は、中世では日常的であったとうです。 
⑤さらに,同じ土地で二毛作が行われると,程度の差こそあれ土地を疲弊させます。
このため施肥が不可欠となります。新灌漑システムは,荒廃しかけた土地の再開発には不可欠の条件になったでしょう。上流側への井堰の移動や溜池の築造などの方法がとられるようになります。
 これは善通寺の一円保絵図の中に描かれた有岡大池の築造過程で以前にお話ししましたので、省略します。
⑥一方、段丘下の現氾濫原面では、洪水が頻繁に起きます。
このため,堆積が急増し大規模自然堤防が形成されたり,砂州が急速大きくなったりします。例えば多度郡の港が、白方から堀江に移ったのも中世のこの時期です。弘田川の堆積作用で白方港は利用不能になり、代わって金倉川の堆積作用で形成された砂州の内側に堀江津が登場します。
洪水が集中する河原は「無主の地」として市が立つなどイベント広場として利用されるようになります。
例えば『一遍上人絵伝』に描かれた福岡の市は,吉井川(岡山県)の現氾濫原にできた定期市です。また,広島県福山市の草戸千軒遺跡は,芦田川の現氾濫原面に立地した河港でした。さらに,河川が上流から運んでくる土砂は海を遠浅にし,塩堤による干拓を可能にします。
 12世紀後半頃から干拓が成功し始めるのは,人々の土地開発に対する欲求,技術の進展だけでなく干拓が可能な場所ができたことと深い関わりがあると研究者は考えているようです。鹿田川(現在の旭川)の河口付近に開かれた備前国上道郡荒野荘絵図(1300年)は,まさにこのような様子を示したもののようです。

  丸亀平野は、平野と呼べるものではなく扇状地であったことが改めて分かります。
丸亀平野は、もともと扇状地の礫状の石が積み重なっていて、非常に水はけのよい土壌なのです。それが、完新世以後の洪水などで土砂が堆積して平面化しましたが、水はけがいいことには変わりありません。これは、稲作栽培には適さない土壌です。そのため善通寺一円保の寺領の水田率は、3割程度でした。そのような環境が讃岐の中世農民を、赤米の耕作や麦を重視する二毛作へと向かわせたのです。
 丸亀平野の水田化が進むのは、近世以後にため池と用水網が整備されて以後のことです。

 古代の用水網は貧弱でした。丸亀平野で最も進んだ勢力と技術力を持っていたと考えられる善通寺勢力(後の佐伯氏?)も、その水源は二つの湧水からの導水のみです。有岡大池が作られるのも中世になってからです。このような状況を見ると「満濃池」が古代に作られていたのかも疑問に思えてきます。中世の善通寺一円保は、金倉川からの導水も行えていない状態なのです。
古代に満濃池からどのようにして善通寺にまで水を運んできたのか。
池ができても用水路がなければ水は来ません。金倉川を通じて善通寺方面まで水は供給されたと簡単に考えていました。しかし、古代の土器川や金倉川の姿が見えてくれば来るほど、その困難さに気付くようになりました。地形復元なしで、土地制度や水利制度を語ることの「無謀」さも感じるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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