瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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 今から二百年ほど前の文化年間の江戸では「旅」ブームが湧き上がっていました。
その中で大ベストセラーになったのが『東海道中膝栗毛』です。この売り上げに気をよくした版元は、続編の執筆を十返舎一九に依頼します。こうして、一九は、主人公の弥次郎兵衛と北八をそのまま使って、大坂から讃岐金毘羅へと向かわせる道中記を一気に書き上げ、翌年の文化七年(1810)に刊行します。それが『金毘羅参詣続膝栗毛初編(上下)』です。

13572十返舎一九 滑稽本 絵入 ■金毘羅参詣 続膝栗毛
  十返舎一九『金毘羅参詣続膝栗毛初編」の弥次さん北さんを描いた挿絵

 これに刺激されて全国的な金毘羅参詣が湧き上がって行きます。この本は、その後も版を重ねて読まれますが、明治以後はあまり顧みられなくなってしまったようです。
 この本で弥次・北コンビの金比羅詣の様子を追って見ましょう。
『東海道中膝栗毛』の主人公、弥次郎兵衛と北八は、江戸を出発して途中数々の滑稽な失敗を重ねながら、大坂は長町にたどり着き長い道中を終えます。そこで二人は帰国の旅支度を始めるのですが、たまたま相宿になった五太平という関東者から金比羅詣を誘われます。その誘いに乗り、足を伸ばして金毘羅参詣に赴くという設定で物語は始まります。
 ここに、弥次郎兵衛・北八なるもの、伊勢参りの刷毛(はけ)ついでに、浪花長町に来り逗留し、既に帰国の用意なしけるところに、相宿(あいやど)に野州の人の由、(名は五太平)泊り合わせたるが金毘羅参詣に赴くとて、一人旅なれば、この弥次郎・北八をも同道せんと勧むる。
 両人幸いのこととは思いながら、路用金乏しければと断わりたつるを、かの人聞きて、その段は気遣いなし、もしも不足のことあらば、償わんとの約束にて、讃州船のことかれこれと聞き合わせ、やがて三人打ち連れ、長町を立ち出で、丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋といえる、掛行燈(かけあんどん)を見つけて、野州の人、五太平「ハァ、ちくと、ものサ問いますべい。金毘羅様へ行ぐ船はここかなのし。」
船頭「左様じゃわいな。」
五太平「そんだらハァ、許さっしゃりまし、ここの施主殿に会いますべい。わしどもハァ、金毘羅様へ行ぐのだが、船賃サァいくら積んだしますべい。」
船宿の亭主「ハイ、おいくたり様じゃな。」
五太平「三人同志でござる。」
船宿の亭主「ハイ、お一人前、船賃雑用とも、拾八匁(じゅうはちもんめ)づつでござりますわいな。」
五太平「あんだちぅ、ソリャハァでこ高いもんだのし、ちくとまけさっしゃい。」
船宿の亭主「イヤ、これは定値段でござりますさかい、どなたもさよじゃ。ハテ、高いもんじゃござりませぬわいな。船中というものは日和次第で、何日かかろやら知れんこともあるさかい。」
五太平「それだァとってむげちない、主(にし)達ゃァあじょうするのし。」
弥次郎兵衛「ハテ、お前(おめぇ)、定値段といやぁ如才はあんめえ。」
五太平「あるほど、金毘羅様へ心ざしだァ、あじょうすべい。」
 と、打ちがえより金取り出し、船賃を払う。弥次郎・北八も同じく払いて、
北八「モシ、船はどこから乗りやすね。」
 船頭は讃州者
船頭「浜へ下りさんせ。幟(のぼり)のある船じゃ。今(いんま)、一気に出(づ)るわいな。サアサア、皆連(つ)んのうてごんせ、ごんせ。」
 と、このうち船には、がたひしと揖(かじ)を降ろし、艪(ろ)をこしらえ、苫(とま)を吹きかけると、水子(かこ)どもは布団、敷物、何かをめいめいに運び入れると、船宿の店先から勝手口まで居並びたる旅人、皆々うち連れて、だんだんと、その船に乗り移る。
商人「サアサア、琉球芋(りゅうきゅういも)のほかしたてじゃ、ほっこり、ほっこり。」
菓子売り「菓子んい、んかいな、みづからまんじゅう、みづからまんじゅう。」
上かん屋「鯡昆布巻(にしんこぶまき)、あんばいよし、あんばいよし。」
船頭「皆、船賃サえいかいネヤ、コレ、そこの親がたち殿、えっとそっちゃのねきへついて居ざらんせ。」
五太平「コリャハァ、許さっしゃりまし。あごみますべい。」
 と、人を跨いで向こうへ座る。弥次郎・北八も同じく座ると、遠州の人「エレハイ、どな達も胡座(あづ)組みなさい。乗り合いだァ、お互いにけけれ(心)安くせずにャァ。時に船頭どん、船はハイ、いづ出るのだャァ。」
船頭「いんま、あただ(急)に出(づ)るわいの。」
船宿の亭主「サアサアえいかいな、えいなら出さんせ。もう初夜(戌刻)過ぎじゃ。コレハあなた方、ご退屈でござりました。さよなら、ご機嫌よう、いてお出でなされませ。」
 と、もやい綱を解きて、船へ放り込むと、船頭共竿さして船を廻す。このうち、川岸通りには時の太鼓、「どんどん、どどん」。
按摩(あんま)「あんまァ、けんびき、針の療治。」
 夜回りの割竹、「がらがら、がらがら」と、このうち船はだんだんと下へさがる。
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           大坂の船宿の引札(広告) 明治期
私が読んでいて気になった点を挙げていきます。
1 弥次・北八コンビの当初の目的は「伊勢参りの刷毛(はけ)」でした。その、ついでに金毘羅詣でをすることになります。
もともと東国からの金比羅詣客は、金毘羅への単独参拝が目的ではなく伊勢詣や四国八十八霊場と併せて参拝する人たちが多かったようです。この時期に残された「道中記」からは奥羽・関東・中部等の東国地方からの金毘羅参拝者の半数は、伊勢や近畿方面へ参拝を済ませて金毘羅へ寄っていることが分かります。弥次喜多も「伊勢参りの刷毛(はけ)のついでの金毘羅詣」だったのです。
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 大坂から丸亀の航路図 下が山陽道で左下が大坂 上が四国で右上が丸亀

 金比羅船の運行はいつ頃から始まるの?
金刀比羅宮に「参詣船渡海人割願書人」という延享元年(1744)の文書が残されています。
       参詣船渡海入割願書人
一 讃州金毘羅信仰之輩参詣之雖御座候 海上通路容易難成不遂願心様子及見候二付比度参詣船取立相腹之運賃二而心安致渡海候様仕候事
一 右之通向後致渡海候二付相願候 二而比度御山御用向承候 上者御荷物之儀大小不限封状等至迄無滞夫々汪相違可申 候将又比儀を申立他人妨申間敷事
一 御山より奉加勧進等一切御指出不被成旨御高札之面二候 得紛敷儀無之様可仕事
一 志無之輩江従是勧メ候儀且又押而船を借候儀仕間敷事
一 講を結候儀相楽信心を格別講銭等勧心ケ間敷申間敷井代 参受合申間敷事
一 万一難風破船等有之如何様之儀有之有之候へ共元来御山仰二付取立候儀二候得者少茂御六ケ舗儀掛申間敷事
  右之趣堅可相守候若向後御山御障二相成申事候は何時二而茂御山御出入御指留可被成候為後日謐人致判形候上はは猶又少茂相違無御座候働而如件
  延享元甲子年三月
     大坂江戸堀五丁目   明石屋佐次兵衛 印
     同  大川町     多田屋新右衛門 印
     同  江戸堀荷貳丁目 鍔屋  吉兵衛 印
        道修町五丁目  和泉屋太右衛門 印
    金光院様御役人衆中様
延享元年三月(1744)に、大坂から讃州丸亀に向けて金毘羅参詣だけを目的とした金毘羅船と呼ばれる客船の運行申請です。申出人は大坂の船問屋たちが連名で、金毘羅当局へ参拝船の運航許可を求めています。ここでは、金毘羅船は「参詣船」と書かれています。
 内容は、金毘羅詣の人々は、海上通路が不便で困っている人が多いので「相応え運賃」(格安運賃)で参詣船を出し、心安く渡海できるようにしたと目的が述べられます。加えて荷物だけでなく、大小の封状も届けるといいます。そして万一難船、破船があっても「御山(金毘羅)」には迷惑をかけないとします。
  こうして、18世紀半ばに金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。これが「日本最初の旅客船航路」といわれます。以後、金毘羅参詣渡海船は年を追う毎に繁昌します。
135721十返舎一九 滑稽本 絵入 ■金毘羅参詣 続膝栗毛
『金毘羅参詣続膝栗毛初編(上下)』
運行開始の3年後に金毘羅門前の旅籠「虎屋」は新築します。
その造作が「分限不相応」とされ当局から一時閉門になる事件が起きます。これも大坂の船問屋多田屋と虎屋が結んで、多田屋の客を虎屋へ送り込むようになって急増した宿泊客への対応をめぐる結果ではなかったのかと言われます。
 享和二年(一八〇二)若狭の船問屋古河泰教が参詣した時の紀行文にも「多田屋の相宿が虎屋」と記されています。後に多田屋は、金毘羅本社前に銅の狛犬を献納しり。絵馬堂の寄進も行っています。多田屋発行の引札も残っており、金毘羅関係の書物として最も古い「金毘羅参詣海陸記」「金毘羅霊験記」などにも多田屋の名は刷り込まれています。こんな関係から金比羅舟の舵取りや水夫には、讃岐出身者が多かったようです。
 しかし、多田屋は幕末には衰退し、それに代わって台頭してきたのが平野屋です。
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これは「平野屋グループ」の引札(広告ちらし)です。
大坂で平野屋の船に乗った客は、丸亀では備前屋藤蔵が出迎え、金毘羅・内町の虎屋惣右衛門方へ送り届けていたことが分かります。参拝客は大坂の船宿まで行けば、後は自動的に金毘羅まで行けるシステムが出来上がっていたようです。
 そして平野屋の店や船だけでなく、丸亀の備前崖、金毘羅の虎屋も山に平の字印の看板を出しておりひとつの「観光グループ」を形成していたようです。
さて弥次喜多コンビの船宿大黒屋の主人との船賃交渉です
船宿の亭主が「お一人前、船賃雑用ともで18匁(もんめ)」というと
「ソリャハァでこ高いもんだのし、ちくとまけさっしゃい。」
と値切り交渉が始まるのかと思ったら船宿の亭主は
「イヤ、これは定値段でござりますさかい、どなたもさよじゃ。ハテ、高いもんじゃござりませぬわいな。船中というものは日和次第で、何日かかろやら知れんこともあるさかい。」
と軽くいなします。
 ここには、値下げによる価格競争を防ぐ智慧があります。同時に、運行開始から70年余りで運営が運行ルールが定められシステム化していることがうかがえます。

こうして弥次喜多は「丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋」と行灯を掲げた船宿に行き、船賃・雑用込み一八匁の約束で、讃州船の人となります。
当時の金比羅舟は、どんな形だったのでしょうか?
下の絵は「続膝栗毛」に載せられた挿絵です。川岸から板一枚を渡した金毘羅船に弥次北が乗船していく姿が描かれています。
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 彼らが乗り込んだ金毘羅船は、苫(とま)屋根をふく程度の粗末な渡海船だったことが分かります。苫屋根は菅(すげ)・茅(ちがや)などで編んだこものようなもので舟を覆って雨露をしのぐものでした。
「金毘羅膝栗毛」の四年前になる文化三年(1806)に刊行された『筑紫紀行』にも、大坂での乗船風景が載せられています。やはり船上は、まだ屋形ではありません。弥次喜多が載った船と同じくように「苫掛け」だったことがわかります。
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 上の絵は、それから50年近く後の幕末に出版された『金毘羅参詣名所図会』に出てくる金毘羅船です。船には垣立が装備され、本格的な渡海船に成長しています。ここからは文化から弘化までの四〇年の間に、苫掛けから総屋形に発展していったことがうかがえます。この時期は、江戸の金毘羅信仰が最も高揚した時期とも重なります。東国からの乗船者の急増への対応がこのような形になったのではないでしょうか。ちなみに広重の「日本湊尽」の丸亀の船も、総屋形の金毘羅船として描かれています。
金毘羅船の航路を追ってみましょう。道頓堀から夜に出航します 
  船は暗くなった戌の刻(午後八時前後)に道頓堀を出船して淀川を下ります。
夜中の暗いときに出て行きますが、淀川を下っている間は、揺れもなく貸し布団で快適に眠れたのかも知れません。寅の刻(午前四時前後)に河口から沖に乗り出します。順風を受けて日の出のころには兵庫沖を通過します。
はや木津川口に至れば、夜も子(ね)の刻ばかりになりぬ。
 ここに風待ちして夜明けなば、乗り出ださんと、船頭・水子もしばらく休息のていに、船中もひそまり、おのが様々、もたれ合うて居眠るもあり。あるいは肘枕あるは荷物包ようのものに、頭をもたせて打ち伏しけるが、
 やがて、寅の刻(午前4時)にもやあらんと思う頃、船頭・水子どもにわかに騒ぎ立ちて、帆柱押し立て、帆綱引き上げなどして、今や沖に乗り出でんとする様子に、船中皆々目を覚まし、船端に顔差し出し、手水使いて象頭山の方を伏し拝む。
弥次郎・北八もともに遙拝して、
    腹鼓うつ浪の音ゆたかにて 走るたぬきのこんぴらの船
 かく興じつつ船出を寿(ことぶき)、彼これうち語るうち、早くも沖に走り出し、船頭がヨウソロ、ヨウソロの声勇ましく、追風(おいて)に帆かけて、矢を射るごとく、はや日の出でたる頃は、兵庫の沖にぞ到りける。(大坂よりこの所まで十里)
 ここにて四方を見渡せば、東の方に続き、甲山(かぶとやま)、摩耶山(まやさん)、丹生のやま、鉄塊(てっかい)が峯なんど目前に鮮やかなり。
    仙人の住むかは知らず霞より 吐き出したる鉄塊が峯
 また、陸地(くがじ)には西の宮、御影(みかげ)、神戸、須磨なんどいう、浦々里々見渡されて、眺望の景色はいうばかりなし。
和田の岬、烏(からす)岬といえるを廻る頃は、牛の刻ばかりなん。
このとき、にわかに風変わりたりとて、帆綱引き換え、楫(かじ)取り直し、真切走りということをなして走るほどに、船中には野州の人、船に酔いたるにや心もち悪しきとて、色青ざめ、鉢巻きして、・・・・・
113574淡路・舞子浜
淡路島と舞子浜の間を明石海峡に向けて進む金比羅舟
神戸・須磨と船中からの眺めを楽しみながら正午ころに和田岬にさしかかります。
ところが急に逆風・大風に変わり、水子たちは、帆に斜めに風を受けながらジグザグに前進する「真切り走り」の航法を取ります。その間の船酔いから、同行の五太平が死んでしまうというハプニングが起こります。ようやく波も静まり、夜になって室津に上陸します。
 室津は
「西国諸侯方の船出し給う所にて、播州一箇の繁昌の地なれば、商家みな土蔵づくりの軒を並べて建ち続けり」
という賑わう港町で、ここでも女郎達の誘いを受けます。
13576室津の女郎
室津の色町の女
しかし、船中で急死した五太平の弔いが先です。お寺を探すのですが死人が「往来手形」を持っていないためにひと苦労します。ようやく死者を無事にともらい船に還った二人は
酒肴をとりよせ、船頭・水子ども相手にして、その夜は寝もやらず飲み明かしける。
    死ぬものは貧乏なれやこれからは 船に追風の富貴自在なれ
 かく祝い直して、既に夜明けなれば、船頭・水子ども船中を洗い清め、修験者を呼び来たりて不浄除けの祈祷をなし・・・
   室津から丸亀までの船中は順風満帆の瀬戸内クルージング
 翌日、修験者によって清められた船で室津を出航します。
135725 ■金毘羅参詣 続膝栗毛. 室津jpg
室津港
朝の追風(おいて)に帆かけて、この湊口を乗り出し、早くも備前の大多婦(おおたぶ)の沖に至りける。(播州室よりこの所まで五里)
 海中には小豆島の見えたるに、
景色の実入りもよしや小豆島 
       たはらころびに寝ながらぞ見る

 それより牛窓前という辺りを行くほどに、八島(屋島)の矢くり(八栗)が獄、南の方に鋭く聳(そび)え、讃岐の小冨士手にとるごとく、下津井の浦見えわたり、海中には飯山石島など、すべてこの辺り小島多く、景色佳麗(かれい)、いわんかたなし。その日申(さる)の刻過ぎたると思う頃、讃岐の国丸亀の川口にぞ着きたりける。(室よりこの所まで二十三里に近し)
 龍宮へ行く浦島にあらねども 
           乗り合うせたる丸亀の舟
 
折節、汐干(しおひ)にあいて二丁ばかり沖の方に船を留めて満汐を待つ、この湊は遠浅にて、いつもかかる難渋ありと言えり。暮れ過ぐる頃、ようやく川中に乗り入り、弥次郎兵衛・北八は、大物屋(だいもつや)といえる旅籠屋に宿る。これは船頭の宅のよし、案内に任せてここに入り、始めて安堵の思いをなしたりける。
 室津からは順風満帆の瀬戸内海クルージングです。幕末から明治に船で日本にやって来た西洋人達が楽しんだ「船から移りゆく景観(シークエンス)」を楽しみます。備前大多婦沖に入ってくると南に小豆島、北に牛窓が見えてきます。そして、讃岐方面には八島(屋島)・八粟獄を望み、甘南備山の讃岐の小富士が少しずつ近づいてきます。まさに島々の景色佳麗を賞でながらの船旅です。
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備前から見た青野山・飯野山と備讃瀬戸
金比羅詣での人気のひとつに、「船旅の魅力」があったようです。
日頃乗ったことのない船に乗って瀬戸内海を渡って行くという経験は得がたい経験でした。しかも、自分の足で歩かなくても船に乗っていれば丸亀に運んでくれるのです。これは、東海道や中山道を旅するのとは違いました。この辺りの魅力を挿絵入りで書き込んでいます。旅行記としても及第点が与えられます。
丸亀港は遠浅で干潮時は入港出来なかった?
「続膝栗毛」は、丸亀港への入港の模様を次のように述べています。
「その日中の刻過ぎ(午後三時ころ)、丸亀河口(に到着したが干潮で港には入れなかった。満潮を待って、暮れ頃に港に乗り入れて上陸した」

   丸亀河口(土器川河口)の舟入に満潮を待って入港したと記します。弥次北がやって来たときに、丸亀の新港である「福島湛甫」は、出来上がっていなかったのでしょうか?
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福島湛甫 
丸亀市史には、福島湛甫について次のように記されています。
文化三年(一八〇六)、福島町北岸に船舶の停泊所をつくり、福島湛甫と称した。その規模は、東西六一間(約一〇九・八び)、南北五〇間(約九〇び)、東側に一八開(約三二・四び)の入り口を設けた。水深は満潮時に一丈余であった。場所は、現在丸亀港にかかる京極大橋の西橋脚の付近である。
 従来は、福島町の東岸の石垣に船が繋留されていたが福島湛甫へ完成により、丸亀港の航行が容易となったばかりでなく、上陸した旅客は福島町内を通り浜町方面へと向かうため、町内の旅寵、土産物屋などが急増し福島町は賑わった。
 干潮でも入港できる福島湛甫は1806年に出来上がっています。「続膝栗毛」の刊行は、その4年後です。これをどう考えればいいのでしょうか? 
 十返舎一九は、福島湛甫の完成を知らずに、完成前の自分の経験と情報で丸亀上陸の部分を書いたのでしょうか。
彼は、「続膝栗毛」の巻頭で次のように述べています。
「予、若年の頃、浪速にありし時、一とせ高知に所用ありて下りし船の序(ついで)に、象頭山に参詣し、善通寺、弥谷(いやだに)を遊歴したり・・・」
「予、彼の地理行程のあらましは知得した」
と若い頃に一度金毘参りをしたことがあることを述べた上で、けれども全てを知っている訳ではないと断っています。福島湛甫の竣工という「最新情報」を知らずに書いたようです。

弥次喜多が上陸した丸亀の港は、どこにあったのでしょうか?
丸亀城下町比較地図41


丸亀城の外堀は、東は東汐入川で、西は外堀より分かれた堀によって海につながっていました。そして、東西の両汐入川の川口が港となっていたようです。港は河口のために、年とともに浅くなっていきました。江戸時代初期の山崎時代の「讃岐国丸亀絵図」では、御供所の真光寺東で東汐入川と土器川が合流し、真光寺の東北に番所が描かれています。これが港に出入りする船を見張る船番所とされています。つまり、近世初期における丸亀港は、東汐入川の河口が港だったようです。

丸亀市東河口 元禄版
 また17世紀中頃の「丸亀繁昌記」の書き出し部分には、この河口の港の賑わいぶりを次のように記します
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幟は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の棟造りは、のぞきみえし二軒茶屋のかかり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かかり船、ぶね引か おはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす
  網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あり」
御供所の川口に上陸した旅客は東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が記されています。ここからもこのころまでは東川口が丸亀の港であったことが分かります。


丸亀城下町 土器川との関係

弥次喜多の乗った金比羅舟は、潮待ちしたことを次のように記します
「汐干(しおひ)にあいて二丁ばかり沖の方に船を留めて満汐を待つ、この湊は遠浅にて、いつもかかる難渋ありと言えり。暮れ過ぐる頃、ようやく川中に乗り入り

ということは、旧来の東川口の港のことを示しています。
そして、この船の船頭の自宅である大物屋という旅籠屋に入ったところで上巻は終わります。
DSC01089丸亀旧港

「丸亀繁昌記は、東河口の賑わいぶりを次のように記します。
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参亀す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幡は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の宗造りは、のぞきみえし。二軒茶屋のかゝり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かゝり船、ふね引がおはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば
意訳変換しておくと
 玉藻なる丸亀湊の賑いは、昔も今も変わらない。神霊ありがたい象頭山金毘羅へ向かう海の道は丸亀に集まる。数多(あまた)の船宿が集まり、諸国の引合目印の幟が軒にひるがえり、○金印がのぞきみえる。二軒茶屋のあたりや、土器川河口の船着場の繁雑し、出船入り船や舫いを結ぶ船に、「お早いおつきで・・」と正月言葉が」かけられると、船子(水夫)は安堵の帆をおろす。三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば・・・

 ここからは、御供所の川口に上陸した金毘羅参拝客は東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が描かれています。三浦は水夫街で漁師町と思っていると大間違いで、彼らは金毘羅船の船頭として大坂航路を行き来する船の船主でもあり、船長でもあり、大きな交易を行う者もいたようです。ここで一泊して、弥次喜多は金毘羅へ向かいます。
その模様は、また次回に・・

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  前回までに、金毘羅信仰が18世紀末から江戸で高揚したことをお話ししました。今回は、それを背景に、江戸で作られた金比羅講が丸亀に大きな銅灯籠を寄進するまでの経過を見ていくことにしましょう。

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正面が丸亀城 右が福島港 左が新堀港 
五代藩主京極高中の時代の文化三年(1806)に完成した福島湛甫が、金毘羅参詣客の上陸湊として賑わっていました。福島湛甫は、東西六一間、南北五〇間の船泊で規模としては相当大きいものではあったわけなんですが、30年経つと「手狭なという状況」になってきたようです。それだけ、瀬戸内海各地からの金毘羅船が増えたということでしょう。 加えて、新京橋の架橋で通町船泊の繋留が出来なくなるということも重なり、丸亀港は再びオーバーユース状態になりました。
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1806年完成の福島湛甫
 
福島湛甫が手狭化した背景は?
 それは参拝客の急増にあります。参拝客増加の理由は、18世紀後半の「日本一社の綸旨」にひとつのきっかけが求められるようです。文化から文政年間に印刷された讃岐の名所案内図の数の増加ぶりに「綸旨」の効果がうかがえます。また、江戸における金毘羅信仰の高まりといった動きも無視できません。
大名の江戸藩邸では、勧請していた自国の霊験あらたかな神社を庶民に公開していました。丸亀藩邸でも、金毘羅社の開帳日である各月の十日には早朝から夕方まで参詣人が群集したようです。藩邸の金毘羅山御守納所への初穂金が金毘羅に届けられていますが、最初に届けられた宝暦七年(1757)は一両でした。それが20年後の天明元年(1778)には百両、同五年には二百両、が届けられるようになり、これ以後は幕末まで毎年百五十両とどけられています。
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この信仰の高まりを、港築造や灯寵建立の利用して「民間資金での公共工事」を実現させようとする智慧者が現れます。
 天保二年(1831)、丸亀の「通町 柏屋団治」や宿屋業者・土産物業者らの五人が発起引請人として、「西川口波戸東手」へ新堀湛甫の築港を藩へ願い出ます。彼らは町の年寄で、この人たちの願出を受けて、灯寵建立、湊の修築の費用を調達するのに大きな役割を果たしたのが、京極藩江戸留守居役の瀬山登という人です。彼が残した記録は「湛甫新堀漫筆」として、丸亀図書館に残っています。
   町年寄からの築造願いは、次のような内容でした
 金毘羅山への諸国参詣人が日増しに多くなり、浜方も益々繁盛し商売も順調であるのも偏に国恩のお陰と有り難く思っております。この繁盛について、旅舟の入津が多いのですが、湊が手狭で、舟も乗り大老幼も難儀しているようです。
そこで、西川口御番所のあたり波戸束手へ湛甫を造れば湊も広くなり、城下の見渡しもよく、諸国への評判、浜方繁栄の基にもと存じます。それで私どもが発起人として考えたことを申し上げたく存じます。
 
ということで、彼らの工事に向けたプランを示します。
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     左が新堀港 江戸からの大きな青銅製灯籠が3つ並ぶ

そこには、具体的な資金集めの方法も記されています。
灯明料は舟持共からの寄付でまかなう。こうすれば闇夜でもまして不案内の旅舟などの出入りに大いに役立つ。そして、舟持からの寄付の取り方は、舟の大小を千石船に換算して船数五万艘と見積もって一石一銭ずつ一度限りの寄付を募る。もっともも対象は廻船だけのつもりである。
 寄付の取立方法は、江戸では金毘羅への信仰の厚い本所ニッ目塩原太助に頼み、銀子は江戸屋敷にて預かっていただく。大坂・兵庫は講元世話人共から頼んだ問屋で取り立ててもらい銀子は大坂屋敷にて預かっていただく。当地では役所にて預かっていただくようにお願いしたい。
という内容のものであります。
 外様で弱小藩の丸亀藩は、財政危機状態で資金はありません。それを知った上で発起人の「町年寄」たちは、藩の財政に頼らない資金集めの方法まで提案しています。それは今風に言うと「民間資金の導入による公共土木工事の推進」の手法と言えるのかも知れません。
 まずは、廻船業者からの寄附を募ります。     
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 大まかなプランとして、当時の全国の大小の船を千石船に換算するとおよそ五万艘になると計算します。そして、船一石につき一銭を一度限り寄附してもらう。千石船一艘について十匁になります。全国の廻船業者にこの趣旨を説明し寄附を依頼するというもので「海の神様 金毘羅さん」という信仰心を、うまく利用したやり方です。
藩は自分の腹が痛まないプランですから、さっそくこれを取り上げ幕府の勘定奉行村垣淡路守へ伺い出ます。
これに対して幕府は認可の意向を示したので、丸亀藩は藩主名で次のような正式の伺書(計画書)を提出します。
城下の湛甫の儀は、いつ頃出来と申す年暦も相知れ申さず。
前々より領分廻米諸産物廻し方、専ら相弁来侯処、近来金毘羅参詣の旅船多く入り込み、別て三月十日会式の節は、繋船充満仕り用弁差し支え、諸国廻船一同混雑仕り、風波の節は凌方難渋仕り候二付き、城下町人共湛甫新たに箇所増願出申候 右の通り領分廻米等差支候儀は、湛甫全場狭故の儀に御座侯間、有来侯振り合ヲ以て、一ケ所取建侯、用弁差し支えもこれ無く、諸廻米風波凌二も罷り成り都合宜く御座侯間、相成るべく儀二御座侯バ、別紙絵図面の通り申し付け度く存じ奉り侯、尤も城下の儀二付き差し障りは勿論、他領迄も差し支え相成り侯筋、御座無く侯、此の段御内慮伺い奉り侯、以上
 十月廿六日             京極長門守高朗
この結果、翌11月に幕府の承諾が得られます。記録には、お世話になった
「老中勝手かかり水野出羽守・勘定奉行村垣淡路守ら一六人に贈り物を携えお礼のあいさつをした」
と記されています。
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 丸亀藩は、翌年(1832)三月から築造工事に取りかかる準備を進めます。
工事の具体的計画を立て、大庄屋・庄屋を呼び寄せ意見等を聞き、各郡に下記の通り人足を割り当てます。
那珂組  7486人  善通寺組 9480人 
上高瀬組16659人  比地組  7802人 
中洲組  9633人  和田組 10129人 
大野原組 1427人  福田原組 116人
 庄内組  1015人  人足計 63743人
 人足扶持については、初め福島湛甫の時と同額で予算を組んでいました。が、交渉の結果、物価上昇なども加味して人足賃金が引き上げられ、一人一日米一升、別に菜代一匁となります。また、新港の石垣普請を請け負った城下の平野屋利助からの次のような願出が出ています。
「新堀普請用の石は塩飽島から取り寄せ、一〇〇石積み一般分五、六匁で予算は組まれているが、、このころは塩飽産の石は値上がりしている。安く手に入る丸亀領分の石を買い取るようにしてほしい」
 着工した天保4年(1833)には、天保の大飢饉が起こり、翌年には各地で米騒動が発生しています。また、翌年には多度津藩の新湛甫も起工します。不況時の公共事業で、雇用チャンスや景気の刺激にもなったようです。港建設費用は2000両で済みました。当時、建立されていた金毘羅大権現の金堂3万両に比べれば、小規模な「公共事業」のように思えます。
 こうして新堀港の工事本体は、スムーズに行われ翌年の天保四年には完成します。
湛甫は東西八〇間、南北四〇間、西側に一五間の出入口、満潮時の水深一丈六尺でした。周囲には埋め立て地をつくり、その外法は東西一町五三間、南北一町三五間で、これを新堀湛甫と呼んだと「旧丸亀藩事蹟」に記されています。

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 太助灯籠

ところが苦労したのは銅灯寵でした。 
 天保3年三月、丸亀の町年寄の発起人らは江戸に行きます。
 話は前後しますがこれより数年前、江戸本所相生町(墨田区両国二丁目)の塩原太助が金比羅参詣に来て通町の柏屋団治方(四国銀行の所)で泊まった時のことです。団治がこの話を太助に持ち出したところ大いに賛成してくれてました。そこで、柏屋団治たちは早速に塩原太助を尋ねます。ところが丸亀で灯籠寄進の話をした二代目塩原太助は既に亡く、三代目太助の世となっていたのです。三代目太助は
「講の世話はできないが八十両を五ヵ年間に出そう
と約束してくれました。
灯籠寄進の話を太助の知人などを頼って話したところ、拒む者、意外にも賛成してくれる人などさまざまだったようです。藩の江戸屋敷でも力を入れ、瀬山登らが中心となり、丸亀藩に出入りする江戸の町人、伊勢屋兵衛、河内屋伝兵衛、三島屋半七、林屋半六、三河屋善助の五人を世話役として協議します。
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そして、銅灯籠寄進のために千人講の設立案を作ります。
①一人一ヵ月百文ずつ五ヵ年掛ける。(米の値段からみて、当時の一両は約六千六百文に当たるので五ヵ年では〇・九両になる)  
②一人で何口加入してもよい。
③三十人以上世話してくれた人には、五ヵ年のうちに1回金比羅参詣をしてもらう。その費用として三両差し上げる。
このの規約を世話人を定め「讃州丸亀平山海上永代常夜燈講」として加入者を募ります。ちょうどこの頃に、大久保今助という男が浅草観音へ献納する金灯龍一基をあつらえ大門通り伊勢屋万之助方で完成させていました。ところが、あまりに大きすぎるために寄進先から差し留めらされ困っていることが伝わります。これを交渉によって二四〇両で購入することにしたのです。これが現在の「太助灯籠」になります。
千人講の募金集めはどうだったのでしょうか
 講開きから一か月後の五月十日までの集金高は、三〇両三朱と一八九文でした。その後は、毎月四〇両前後で、年末までの合計319両です。翌年の天保四年には、加入者も増え、毎月五〇両前後で推移します。

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 講主の伊勢屋喜兵衛の見積もりは次のとおりでした。
講加入者数 2400人 五か年の講金2150両 
必要経費 灯寵      1135両 
     新堀湛甫ヘ   1015両 
ほかに御供え初穂料など    50両
 新堀湛甫の工事経費は2000両とされていましたので、これでは約900両余の不足となります。そこで講の勧誘に、力を入れることにします。
 天保五年には、金毘羅参詣の廻船の便を利用して、240両で購入した灯籠を積込み、金毘羅へ送り出します。収入伝票には「船頭らに祝儀五両」の記録があります。そして、盆前には伊勢屋喜兵衛ら三人が丸亀へ赴き、実地見聞を行い、十月朔日棟上、会式(金毘羅大祭)を見学後に十二月帰府しています。
 青銅の台座に1400人に近い人名が刻まれ、鎖のある竿の部分に「天保九年十月吉日江戸講中」とあります。台石に二ヵ所と燈龍の竿の所に江戸講中とあるので、「江戸講中燈龍」あるいは「金毘羅青銅燈寵」と名付けられました。そして、近年は最高八十両を寄進した塩原太助の名をとり「太助燈寵」とも呼ばれようになっています。
しかし、気になるのは竿の部分の年号が「天保九年十月吉日江戸講中」とあることです。天保五年に建立したのち、講中の人名その他を補足し同九年に再建したのでしょうか?

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 天保四年八月に新堀湛甫は完成し、翌年には1基だけですが巨大な銅灯籠が建ちました。
計画当初は「灯龍12基建立」を予定していましたが、千人講の募金活動で集められる資金では、無理なことがわかります。そこで、天保七年に家老本庄七郎右衛門らの意見を受けて、三基建立に大幅に減らすことになります。残り二基の建立については、人名の刻み、建立などにさらに年月を要するとして、天保八年から同十三年までの五か年間の延長願と収支見積調書を藩役人へ提出しています。
天保八年には五年間の講の期限が来ます。
そこで集まった金額で、燈寵を2基を注文します。
燈寵は丸亀藩江戸屋敷出入りの大工大和屋和助を棟梁とし、鋳工は江戸の森田屋仁右衛門と鋳鉄の盛んな武州川口(埼玉県川口市)の名門永瀬文右衛門藤原富次、その子喜一郎に発注します。
嘉永三年(一八五〇)末に三基目の灯寵ができあがります。
しかし、不足品が多く、延包一三個に分け丸亀へ積み出したのは嘉永六年五月になります。さらに、残務整理や関係者への慰労などがが終わるのは文久二年(1862)になりました。天保3年から始まったこの大事業は、結局32年の歳月を要したことになります。
これに対して、発注から何年も経つのに残りの灯籠が丸亀に送られてこないことへの不審に思う空気が広がり、江戸表の担当者たちへの不信感となっていったようです。

   江戸詰藩士の瀬山登も建立に尽力します
しかし、なかなか到着しない灯籠について、いろいろな噂が飛び交うようになります。「湛甫新堀漫筆」の最後の部分では、彼は不本意な思いを吐露しつつ事業をふりかえっています。そこには長引く事業に対して地元丸亀では「寄付金を横領したとの悪評」が立っていたことをうかがうことができます。その無念さを慰労するかのように太助灯籠の前には彼の銅像が据えられています。
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 幕末に3基据えられた、灯龍は今では一基が残っているだけです。
あとの2基は、太平洋戦争の時に「戦争遂行のための金属供出」で溶かされたようです。残っている一基には、その中央に最大の金額八〇両を最初に寄付した塩源太助の名前が大きく鋳込まれており「太助灯龍」と呼ばれるにふさわしい体裁を見せています。
   丸亀の新堀港や太助灯龍は「江戸千人講」の江戸町人の資力を中心として、丸亀まち年寄柏屋団治ら五人を発起人として、丸亀藩の事業として建立されたということになるようです。
 どちらにせよ丸亀湊は、この新港の完成によって、岡山から上方さらにそれ以東の金毘羅参詣客や北前船などが一層利用することとなり、これまで以上の繁栄を見せるようになります。また、同時期に、完成した多度津湊は、瀬戸内海の備後以西の国々からの金毘羅参詣客を集めるようになり、多度津街道は急速に整備されていくことになります。

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  ◇ 最後に太助灯籠をじっくりと眺めてみましょう
 この灯籠は青銅製です。三段の台座の上に基盤・竿・中台・火袋・笠・宝珠からなり、全長五・二八㍍台石を合わせると地上約六・六㍍にもなる大型の灯籠です。港に出入りする船の目じるしとして、燈台の役割も果たしたことでしょう。
 仰ぎ見ると、五葉の請花に支えられて伏鉢に空高く大きな火焔を三方に宝珠は載っています。笠は円くふくらみをもつ八面で、末端の龍首は海上をにらみ、二本の牙が大きくそり反りっています。下には風鐸が風に揺れます。
 火袋は八面格子で、内部がよく見えます。戦後直後までは、電球が収められ、近所の人が暗くなると点灯していたようです。火袋を受ける中台は八角形で、丸亀らしく各側面に天狗の団扇を浮き出させています。
竿の北面には「天保九年戊戌十月吉日」、下に「江戸講中」とあります。しかし、括れているためか下からは見えにくいのです。
基盤の下には青銅製の三段の台座が、花圈岩の三段の台石の上に載っています。この台座には1380人の寄附者・世話人らの名と住所などが刻まれています。今は姿を消した他の二基は一1444人と約1000人であったそうです。まさに千人講により寄進された銅灯籠と呼ばれる所以です。
参考文献 新堀と銅灯籠 丸亀市史276P
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              丸亀新堀湛甫と太助銅灯寵の年表 
宝暦10年1760 日本一社の綸旨を賜う。
明和元年 1764 伊藤若冲、書院の襖絵を画く。
天明7年 1787 円山応挙、書院の間の壁画を画く。
寛政元年 1789 絵馬堂上棟。 寛政の改革~4年間。
寛政3年 1791 高松の御用達中より真鍮の釣燈籠奉納。
寛政5年 1793 江戸高松上屋敷に金毘羅大権現を勧請。
寛政6年 1794 円山応挙、壁画を画く。小林一茶参詣。
         多度津鶴橋に鳥居建立。
文化2年 1805 備中早島港、因島椋浦港に燈籠建立。
文化3年 1806 金堂建築の計画。丸亀福島湛甫竣工。
文化5年 1808 中府に「百四十丁」石燈籠建立。
文化7年 1810 宝塔下の坂道普請。太鼓堂修繕普請。
文化10年1813 金堂起工式。
文化11年1814 瀬戸田港に常夜燈建立。
文政7年 1824 茶屋、旅籠の区分決定。
文政11年1828 琉球人、生野村に石燈籠寄進献立。
文政12年1829 摂津芥川に燈籠建立。鞘橋普請。
天保2年 1831 丸亀の年寄が湛甫構築と灯寵建立を藩へ願出た。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工。天保の改革~6年間。
天保5年 1834 米騒動、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 箸蔵寺で贋開帳。芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保7年 1836 仁王門再建発願。
天保8年 1837 金堂二重目上棟。
天保9年 1838 丸亀に江戸千人講燈籠完成。多度津新湛甫完成
  多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。

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