
多度津京極藩系図
多度津藩は元禄七年(1694)に丸亀藩から独立します。
しかし、自前の陣屋を持つことはなく、丸亀城の西屋敷に「間借り」して政務が行われるという状態が百年近く続きます。
現在の丸亀裁判所付近に①林求馬の屋敷 ②御用所(政庁)があったことを示す絵図。
間借り状態では、藩運営も丸亀藩のしきたり通り行うのが常道とされていました。
ところが寛政八年(1796)に21歳の四代高賢が家督を継ぐと藩の空気が変わっていきます。まず林求馬時重が家老に就任します。彼は、30歳前の働き盛りで藩政の改善、自立化を進めようとします。 その第一が藩主の居館と政庁を多度津に移すことでした。
林は、お城ではなく伊予西条藩のような陣屋を多度津に新たに建設する案を、丸亀藩の重役方藩や同僚の反対を押して決定します。こうして陣屋建設が始まりますが、工事途中の文化五年(1808)家老の林が突然に亡くなってしまいます。建設工事は、林という推進力を失って中断してしまいました。
しかし、藩主高賢は計画をあきらめてはいませんでした。
約20年後の文政九年(1826)に工事を再開させます。工事中の多度津の陣屋御殿に移り住み、工事を見守り、推進役となります。同時に藩士にも厳しい倹約を求めたようです。陣屋建築のためには、すでに大阪の鴻池別家や京都の萬猷院から三千両の借り入れがありましたが、それでも資金は足りません。そこで藩は富商や村々の庄屋をはじめ広く領民に「陣屋御引越し」の冥加金を課します。形の上では出資者の自発性が尊重され、各人、各村は自らの資力、村の規模や家格、藩との関係や役柄を考慮しながら、最後は談合により、それぞれ出来るだけ横並びに負担額を決めたようです。
実質的には、これは「献金の強制」です。しかし「多度津へ御引越し献上金」という大義名分に、領民の多くが強制と受け取らず、むしろ積極的に献金に応じたようです。人々は藩の自立を望み、その象徴として多度津の陣屋建設に期待をかけたのかもしれません。領民にとって、これまでは多度津藩に城がないことを
「多度津あん(さん)に後ろ(後頭部のふくれ)なし」と頭の形にかけて、郡楡されてきた悔しさがその背景にあったとも伝えられます。
工事が再開された文政九年の三回の献上金目録が藩日記に残されています
第一回 多度津の商家66人で計51貫500匁。金一両は現代感覚(賃金の比較)で今の三〇万円になると研究者は考えているようです。この年に多度津藩領民が陣屋建設に献上した総額7442両は、22億3260万円ほどになります。
第二回 藩内町方・村方の富裕層23人で計銀100貫
第三回 一部富裕層8人の再度の献金(74貫)と藩内村方の庄屋19人(18貫)ほか これら全三回の総計は銀448貫(=7442両)と記されています。
多度津湛甫(たんぼ)の建設の背景と目論見は?
18世紀後半の多度津港は、急速に発達した日本海沿岸と大坂を結ぶ瀬戸内海航路の拠点として重要性を増しつつありました。それに加えて、金比羅船が就航し庶民の間で琴平詣での人気が高まるにつれ、大阪はじめ瀬戸内海沿岸や九州各地から参詣客を運ぶ船が丸亀・多度津を目指すようになっていました。受け入れ側の港の拡充・新設が求められていたのです。
丸亀藩の福島湛甫と新堀
これに最初に動いたのは、丸亀藩です。丸亀藩は、江戸で金比羅講を使って「民間資金の導入=第三者セクター方式」で、天保二年(1831)新しい船溜まり(新堀湛甫)を短期間で作り上げます。
これを追いかけるように4年後に、多度津藩も新港建設に着手します。
旧多度津港 桜川河口が港だった
それまでの多度津の港は、町の中心を流れる桜川の河口を利用した船溜まりにすぎませんでした。新しい港は、その西側にの崖下の海岸を長い突堤や防波堤で囲んで、深い水深と広い港内海面をもつ本格的な港の計画書が作成されます。これは丸亀藩新堀湛甫に比較すると本格的で工費も大幅にかさむことが予想されましたが、この計画案を発案したのは藩ではなく、回船問屋や肥料や油・煙草などを扱う万問屋など町の有力商人たちでした。
前年に父に代わったばかりの20歳の新藩主・高琢は、この案に乗り気ですぐに同意したようです。この事業のために隠居していた河口久右衛門が家老に呼び戻され、采配を振うことになります。そして財務に明るい家老に次ぐご用役に小倉治郎左衛門が就き補佐する体制ができます。
「藩士宮川道祐(太右衛門)覚書」(白川武蔵)には、その経緯が次のように記されています。
そもそも、多度津の湛甫築造の発端は、当浜問家総代の高見屋平治郎・福山屋平右衛円右の両人から申請されたもので、家老河口久右衛門殿が取り次いで、藩主の許可を受けて、幕府のお留守居平井氏より公辺(幕府)御用番中へ願い出たところ、ほどよく許可が下りた。建設許可の御奉書は江戸表より急ぎ飛脚で届いた。ところがそれからが大変だった。このことを御本家様(丸亀藩)へ知らせたところ、大変機嫌がよろしくない。あれこれと難癖を言い立てられて容易には認めてはくれない。
家老河口氏には、大いに心配してし、何度も御本家丸亀藩の用番中まで出向いて、港築造の必要性を説明した。その結果、やっと丸亀藩の承諾が下りて、工事にとりかかることになり、各方面との打合せが始まった。運上諸役には御用係が任命され、問屋たちや総代の面々にも通達が出されたった。石工は備前の国より百太郎という者が、陣屋建設の頃から堀江村に住んでいたので、棟梁を申し付けた。その他の石工は備前より多く雇入れ、石なども取り寄せて取り掛ったのは天保五年であった。
家老河口氏には、大いに心配してし、何度も御本家丸亀藩の用番中まで出向いて、港築造の必要性を説明した。その結果、やっと丸亀藩の承諾が下りて、工事にとりかかることになり、各方面との打合せが始まった。運上諸役には御用係が任命され、問屋たちや総代の面々にも通達が出されたった。石工は備前の国より百太郎という者が、陣屋建設の頃から堀江村に住んでいたので、棟梁を申し付けた。その他の石工は備前より多く雇入れ、石なども取り寄せて取り掛ったのは天保五年であった。
これより先に本家の丸亀藩は、福島湛甫を文化三年(1806)に築いています。その後の天保四年完成した新堀湛甫は東西80間、南北40間、人口15間、満潮時の深さは1文6尺です。これに対し多度津の新湛甫は、東側の突堤119間、西側の突堤74間、中央に120間の防波堤(一文字突堤)を設け、港内方106間です。これは、本家の港をしのぐ大工事で、総費用としても銀570貫(約1万両)になります。当時の多度藩の1年分の財政収入にあたる額になります。陣屋建設を行ったばかりの小藩にとっては無謀とも云える大工事です。このため家老河口久右衛門はじめ藩役人、領内庄屋の外問屋商人など総動員体制を作り上げていきます。

多度津新港の実現には、さまざまな困難があったようです。特に資金集めには苦労したようです。史料には次のように記されています。
それより数年長々かかり、お上に於いても余程の御物入りに相なり、大坂屋(丸亀の豪商)へも御頼み入りに相掛り候えども不承知の由にて、河口姓にも大いに心配いたされ、御同人備前下津丼へ御自分直々罷り出で、荻野屋(久兵衛)方へ御相談に及び候処、承知致され同所にて金百貫目御借入に相成る。
然る処引き足り申さず、依って役人中御評議の上、何い取り候て、御家中一統頂戴物(俸禄)の中七歩の御引増(天引)仰せ出され、是又三か年おつづけに相成る。然る処、何分長々の事に付き出来兼ね候に付、河口姓にはかれこれ心痛に及ばれ、吉川又右衛門御代官役中に御相談になり、夫れに付き吉川氏より庄村高畠覚兵衛を呼び取り、お話合いに相なり、尚又御領分大庄屋御呼び寄せ、お話し合いの上、御頼みに相成り、これにより金百貫目御備え出来、右金にて漸く出来申し候。
久右衛門においては、湛甫一条の骨折り心配は、容らならざる儀にこれ有り候。仕上がりまで御年数十一年に及び候事。惣〆高、金五七十貫余りに相成り候。くわしくは御用処元方役所帳面に之れ有りここに略す。是れ拙者所々にて聞き取りしままをあらまし申し置き候也
幕府認可はすぐ得られたようですが、障害は丸亀藩の理解と協力が得られなかったことです。 丸亀藩の重役たちは親藩の了承を得ずに、支藩が始めたこの計画に難色を示します。家老の河口が説得して、やっと渋々の許諾を得たと伝わります。
それに忖度してか、丸亀の豪商大坂屋は多度津藩への資金助力を断っています。そのため家老の河口は、瀬戸内海の対岸である下津井に出かけ、荻野屋久兵衛に相談して金千両(銀62)を借ります。この融資を元金に講銀を設け、多度郡15か村の庄屋たちと協議の上に、借金の返済および港建設の資金調達をめざします。
一万石という小さな大名のうえに、陣屋新設という大事業を成し遂げたばかりの多度津藩にとって、矢継ぎ早に取り組む大規模な港建設はいささか無謀な思い上がった冒険な工事と思う人たちも多かったようです。
そのうえ天保年間には全国的な気候不順が天保飢饉を引き起こし、世の中は大塩平八郎の乱のように政情不安が広がった時期です。讃岐でも米価の高騰や買占めに抗議して各地で一揆や打ち壊しが起こっています。多度津でも一揆や、干水害のため被害が広がります このような緊迫した情勢下で、百姓にまで負担を負わす新港建設資金集めの難しさを関係者はよく分かっていたようです。藩が強制的に取り立てるというよりも、地主や大商人層と協議を重ねながら協力体制を築いて、資金を出してもらうというソフトな対応に心がけてます。
どのようにして多度津藩は資金を集めたのか?
幕末が近づくにつれて年貢に頼る藩財政は、行き詰まってきます。陣屋や新港建なども藩の独自事業としてはやって行けないことを、町の有力商人や村方の地主層は初めから良く知っていたようです。だから「陣屋御引越し」の時のように、民間金融組織としての講をつくって対応しようとしたのです。逆に見ると幕藩体制の行き詰まりが、はっきり見て取れます。

天保六年(1835)に発足した「御講」は、村ごとに一口銀一八〇匁(=金三両)で加入者を募りました。大商人や地主などは一口以上、多数の庶民は一口を細かく分割し共同で引き受けるようにされています。この年十一月末に、各村が引き受けた口数と納入掛金額が届け出順に記されています。
庄村 十九口半 銀三貫四二十匁
三井村 十六口三厘 銀二貫百三十二匁
多度津 百二十一口 銀二十一貫八百七十匁
堀江村 五口九歩 銀一貫六十四匁四分
北鴨村 九口九歩 銀一貫七百八十二匁
南鴨村 十一口二分四厘 銀二貫二十四匁七分
葛原村 二十九口九歩厘 銀五貫三百九十四匁六歩
道福寺村 十六口半 二貫九百七十匁
碑殿村 二十二口 三貫七百二十匁
山階村 三十九口八厘 七貫三十六匁
青木村 十五口九歩三厘 二貫八百六十七匁四分
東白方村 十八口三歩五厘 三貫三百三匁
西白方村 十三口九歩九厘 二貫五十八匁
奥白方村 九口三歩 一貫六百七十四匁
新町村 半口 九十匁
計 347口7歩9厘6毛 62貫603匁3分
この額は、最初に下津井の荻野屋から借りた元金総額と同額になります。こうして、講銀取立ては天保六年秋より始まり、同七年秋から十四年正月まで春秋二期ごとに、利銀を含めて春季分二〇七貫余、秋季分三五七貫、計五六〇貫(九二九六両)を上納しています。 湛甫建設出費は一万両を超えていたようです。この費用の大部分を負担したのは領民で、各村の負担口数はおおむね村の戸数に応じて配分されたことが分かります。
湛甫建設工事は天保五年に始まり、4年後に竣工します。
丸亀の新堀湛甫が一年余の工事で、工費も2千両余だったのに比べると、その額は5倍にもなり、いかに大工事だったかが分かります。海中に東突堤(242メートル)、西突堤(三面メートル)、中央に一文字突堤(218メートル)、港内面積(5,6ヘクタール)、水深(7メートル)の港は四国一の港で、この港が明治以後も機能して多度津の近代化のために大きな役割を果たすことになります。建設に先頭に立って尽力した家老河口は、10年余の心労のために工事完成後間もなく病のために64歳で亡くなっています。
湛甫の完成後に多度津港を利用する船は増え、港も栄えた。
多度津港に立ち寄る船の主力は、松前(北海道)からの海産物とその見返りに内地産の酒や雑貨・衣料を運ぶ千石船や北前船でした。それに加えて、西国からの琴平詣での金比羅船も殺到するようになります。深い港は、大型船が入港することもできるために、幕末にはイギリスや佐賀藩、幕府の蒸気船が相次いで入港し、多度津港は瀬戸内海随一の良港としての名声を高めていきます。これに伴い町の商売も繁盛し、特に松前からもたらされる鰯や地元産の砂糖・綿・油等を商う問屋は数十軒を超え、港に近い街路は船宿や旅人相手の小店でにぎわいます。
巨費かけて完成させた湛甫建設は、藩の財政にも寄与することになります。
多度津藩は、港での魚介取引を専売制にして、取引量に応じて魚方口銀をとっていました。また入港する船から、船の大きさに応じて「帆別銀」などを徴収していましたが、これら港関係の収入は今後の増収を期待できる数少ない財源でした。ちなみに天保10年(1839)の多度津藩「亥の年御積帳(予算表)」(『香川県史9 近世史料I』)を見ると、
年貢収入6903石 - 家臣への俸禄3908石 =他の支出用 約3000石これと諸銀納収入を合わせても、俸禄以外の年間諸支出に当てられる予算は641(10256両)しかありませんでした。
一万石の支藩多度津が親藩丸亀から自立し、その意向に逆らって丸亀の新港をしのぐ大きな港を建設し、自立と繁栄の道を歩み始めます。これに対して丸亀藩の重役達は、「分を過ぎた振る舞い」と厳しい態度を見せるようになります。湛甫完成直後の天保九年(1838)八月、この事業の指導者である小倉治郎左衛門を無理矢理隠居に追い込みます。これは、彼が事前に丸亀にはからず幕府から工事認可を得たことへの親藩重臣の抗議に多度津藩主が屈したためだったと言われます。これをきっかけに本家と分家の間の連絡事項が細かく取り決められます、例えば、丸亀藩主の江戸への出府や帰藩のたびごと、多度津の主だった藩士がわざわざ丸亀まで送迎に出向かねばならなかったほどでした。

陣屋・多度津新港に続いて、多度津藩は自立のための次の手段として「国防強化のため兵制の近代化」に取り組み始めるのです。 それは、また次回に
参考文献 多度津町史
木谷勤 讃岐の一富農の300年
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