丸亀街道調査報告書 香川県教育委員会 1992年より
赤で示されたルートが金毘羅丸亀街道です。
赤で示されたルートが金毘羅丸亀街道です。
⑩が丸亀郡家の一里屋燈籠⑬が神野神社前の燈籠
で、前回紹介した燈籠です。⑬からすぐに県道に合流すると旧街道らしい雰囲気はなくなっていきます。ふたたび旧街道らしい静けさが味わえるのは⑱燈籠手前で県道から分かれて以後になります。
この郡家の神野神社から、まんのう町公文までの金毘羅街道のルート図を見ていて気がつくのは燈籠⑱~⑳、道標8~10と石造物モニュメントが密集する所があることです。これが与北の茶屋になるようです。今回はこの茶屋を見ていきたいと思います。
テキストは「位野木寿一 旧丸亀街道与北茶堂の金毘羅灯籍復元の記 ことひら」です
与北茶屋手前の⑱燈籠 奥に見えるのが象頭山
与北の茶屋は、金毘羅と丸亀のちょうど中間点あたりにあります。そのため多くの参拝者がここで、休息したようです。
「金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」(板元栄寿堂。江戸末期)には、「与北茶堂」①と註して入母屋造りの茶堂が描かれています。
さらに与北茶屋を拡大すると「金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」(板元栄寿堂。江戸末期)には、「与北茶堂」①と註して入母屋造りの茶堂が描かれています。
拡大図 下真ん中に与北茶屋
暁鐘成の「金毘羅参詣名所図会」には、次のように記されています。
意訳変換しておくと
「与北村村の中間に茶堂あり。当村よりの永代接待所である。金毘羅参詣の旅客はここで憩う。路の右にあり」
丸亀街道の中間の休憩所として、利用する人が多かったようです。
もう少し、しっかりと与北の茶屋が書かれた絵図があります。
丸亀街道 与北茶屋の大燈籠
茶堂は、いまは黒住教与北教会所となっているようです。その前に、屋根よりも高い大きな灯寵が立っています。まず大きさを確認しておきます。
円形空輪直径約45㎝、高さ30㎝、笠石 六角形で厚さ80㎝、火袋 六角形で直径62,5㎝、高さ58㎝受台 六角形で直径100㎝石竿 円錐形で最大直径78㎝
石竿から空輪頂点までだけで、約3mを越える大灯龍になります。この灯龍を支える台石は、方形で五段積みで、石竿をうける上段の台石は一辺78㎝、最大の最下段の台石は一辺278、5㎝で、台石全体の高さは208㎝。台石を合わせた灯龍の高さは、546㎝の巨大な燈籠です。金毘羅街道沿いの灯龍の中で最大のものとされます。
ところがこれだけ立派な燈籠なのですが、その寄進についての記録は残っていないようです。これだけ大きな燈籠を寄進したのは、どんな人たちだったのでしょうか。灯寵に刻まれた文字情報を研究者は、次のように読み解いていきます。
①石竿に常夜灯②台石には上段から大坂、繁栄講、③台石側面に講元順慶町大和屋弥三郎以下約六十名の名前④石竿側面に文政十一(1828)戊子九月吉日
ここには講元に「順慶町」とあります。
「順慶町夜見世之図」歌川広重画
「順慶町」は、現在の大阪市中央区南船場1~3丁目(旧順慶町通)のことで、新町遊郭の東口筋にあたります。この町は豊臣秀吉の城下町建設の際に、筒井順慶が屋敷を構えたところと伝えられ、その名が町名として残ったといわれるようです。江戸時代を通じて、船場の一郭で商業の町として栄えます。秋里蔽島の「摂津名所図会大坂部 四上」(寛政八年刊)には、順慶町について次のようにその繁栄振りを記します。
「順慶町夜見世之図」歌川広重画
「順慶町」は、現在の大阪市中央区南船場1~3丁目(旧順慶町通)のことで、新町遊郭の東口筋にあたります。この町は豊臣秀吉の城下町建設の際に、筒井順慶が屋敷を構えたところと伝えられ、その名が町名として残ったといわれるようです。江戸時代を通じて、船場の一郭で商業の町として栄えます。秋里蔽島の「摂津名所図会大坂部 四上」(寛政八年刊)には、順慶町について次のようにその繁栄振りを記します。
「順慶町の夕市は四時たへせず夕暮より万灯てらし種々の品を飾て、東は堺筋西は新橋まで尺地もなく連りける。これを見んとて往かへりて群をなし、其好に随ふて店々にこぞる。(以下略)」
意訳変換しておくと
「順慶町の夕市は、四時ころから始まり、夕暮からは万灯を照らして種々の品を飾って、東は堺筋、西は新橋まで店が隙間亡く連なる。これを見物するために、多くの人が繰り出し黒山の人だかりとなる、人々は好みの店々こぞる。(以下略)」
順慶町にはいつの頃からか夜店が並び、その賑わいぶりには江戸から来た人も驚いたというのです。順慶町通は新町から心斎橋筋にはいる道筋にあるので、この夜店の賑わいが次第に南下し、江戸後期には戎橋まで連なる夜店でも有名で、心斎橋筋とも肩を並べるほどの繁華の町であったようです。
講元の最初に名前があるのは大和屋弥三郎です。彼が講元となって繁栄講という金毘羅講をつくり、商売繁昌の祈願と道中安全のために、献灯したと推測できます。
燈籠が寄進された文政11(1828)年頃は、上方一帯に金毘羅信仰の高まった時期にあたるようです。西国街道芥川宿(大阪府高槻市)の金毘羅灯寵も、建立されたのは同じ文政12年です。大阪の船場商人たちが、金毘羅信心の象徴として、その富を誇って寄進を計画したのでしょう。それは、巨大さゆえに金毘羅境内ではなく、金毘羅街道沿いの多くの人々が憩う与北茶屋に建立されたのではないでしょうか。
大坂繁栄講の石灯寵は、旧丸亀港頭に江戸人千人講の献進した青銅製の「太助灯寵」と方を並べる存在です。一方は江戸の商人たちが、一方は大坂商人の寄進によるものです。江戸商人に負けるかという大坂商人の心意気がうかがわれるようです。
この大燈籠は、戦争直後の南海大地震で倒壊します。
多度津街道の永井の燈籠も、南海地震によるものでした。そしてその後、長い間放置されてきました。倒壊から20年後の1966年の文化の日、金刀比羅宮図書館で大阪教育大学教授の位野木寿一氏が「金毘羅灯寵と郷土文化」という講演を行います。その中で位野木氏は、次のような事を話します。
多度津街道の永井の燈籠も、南海地震によるものでした。そしてその後、長い間放置されてきました。倒壊から20年後の1966年の文化の日、金刀比羅宮図書館で大阪教育大学教授の位野木寿一氏が「金毘羅灯寵と郷土文化」という講演を行います。その中で位野木氏は、次のような事を話します。
金毘羅灯寵の信仰と交通上の意義、特に灯寵を通じてみた各街道の役割や信仰交通圏、さらに灯龍の時代毎の変化から交通路や丸亀・多度津両港の盛衰を述べ、街道の献灯が明治十年代にいたって終末をみたこと。
最後に文化財保護についての外国の事例をあげ、ローマやパリーでは古い遺物・遺跡に市民の愛情がそそがれ、保護していること。新しいものをつくる際も古いものとの調和を図ってつくられていることを紹介して、金毘羅灯寵についても保存に積極的な協力を関係者に求めます。
この話を聞いた善通寺市与北町の有志たちが、この燈籠を再建し元の姿に返したのです。燈籠のそばには復元記念の碑文が建っていますが、これは地元の依頼を受けて猪木氏が書いたものです。そこには次のように記されています。
金毘羅燈寵復元の碑
本燈寵は文政十一年大阪繁栄講の寄進したもので、金毘羅街道上最大の石造灯龍として、高く信仰の光明を照らしてきた。しかるに昭和二十一年南海道沖地震のため倒壊したのを地元の有志ならびに市文化財保護委員会いたく惜しんでこれが復元に尽し、ここにその燈影を再現するにいたった。右由来を碑に刻んでながく記念する。 位野木寿一
この大燈籠の復元を契機に、金毘羅街道に残る燈籠や丁石などの石造物への興味や関心も少しずつ高まっていきました。そして、保存と活用をどのように勧めていくかについて行政もとりくむようになって行きました。そういう意味では、与北の大燈籠の再建は金毘羅街道ルネッサンスの始まりと云えるのかも知れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「位野木寿一 旧丸亀街道与北茶堂の金毘羅灯籍復元の記 ことひら」