瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:九条兼実

出立随員
                    法然讃岐流刑 京都出立場面(法然上人絵伝第34巻)
法然上人絵伝で讃岐流刑の場面を見ていて思うのは、法然に多く弟子たちが従っていることです。
    法然上人絵伝 巻34第1段には、次のように記されています。

三月十六日に、花洛を出でゝ夷境(讃岐)に赴き給ふに、信濃国の御家人、角張の成阿弥陀仏、力者の棟梁として最後の御供なりとて、御輿を昇く。同じ様に従ひ奉る僧六十余人なり。
意訳変換しておくと
三月十六日に、京都から夷境(讃岐)に出立することになった。その際に信濃国の御家人・角張の成阿弥陀仏が、①「力者の棟梁」として最後のお供にと御輿を用意して、②僧六十余人と馳せ参じた。
 出立輿
法然の京都出立
ここからは次のようなことが読み取れます。
①信濃の御家人である成阿弥陀仏は、「力者の棟梁」で輿を用意した
②法然教団の僧侶60人余りが馳せ参じた。
まず、私に分からないのは「力者の棟梁」です。そして、法然の教団には60人を越える僧侶がいたことです。この教団を維持していくための経済的な基盤は、どこにあったのでしょうか。これに対して、法然は、勧進集団の棟梁であり、勧進で教団を維持していたとという説があります。今回は、その説を見ていきたいと思います。テキストは「五来重 仏厳房聖心と初期の往生者  高野聖96P」です。
 
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五来重氏は、法然の勧進僧としての出自を次のように述べます。

「法然が比叡山の別所聖であったという観点に立ってみると、聖者法然が形成されてゆく履歴苦が見えてくる」

1180(治承四)年1月に、平家によって東大寺が焼きはらわれたとき、法然に東大寺再建の大勧進聖人という名誉ある白羽の矢がたてられたことを挙げます。そして法然は「勧進の才能と聖の組織をもつていた」と指摘します。結局、法然はこれを辞退して、重源という大親分にゆずってしまいます。しかし、法然が如法経の勧進聖であったことは、いろいろな史料から実証できると云います。
 例えば『法然上人絵伝』(『四十八巻伝』)の巻九からは、先達として如法経供養をしたことが分かります。また、九条兼実が法然の下で出家し、その庇護者となったことは、よく知られたことです。その他の史料から分かってきたことは、九条兼実の舘に出入りしていた宗教者は法然だけではない云うことです。その他にも仏厳や重源などの僧侶も、九条兼実の邸に出人りしているのです。それは勧進のためだというのです。
その中の高野山の仏厳の動きを見ておきましょう。
九条兼実の日記『玉葉』には、安元三年(1177)4月11日に、次のように記します。
朝の間、小雨、仏厳聖人来る。余、障を隔てて之に謁す。法文の事を談ず。又風病の療治を問ふ。此の聖人能く医術を得たるの人なり
意訳変換しておくと
朝の間は小雨、仏厳聖人がやってきた。障を隔てて仏厳と接する。法文の事について話す。そして、風病の治療について問うた。この聖人は、医術について知識が深い人だ。

「官僧でなく、民間の験者のようなもので、医術の心得のあった人であろう」としています。
 安元2年11月30日に仏厳房がきて、その著『十念極楽易往集』六巻を見せたが、書様に多くの誤りがあるのを兼実が指摘すると、聖人は、満足してかえって行った。  
 治承元年(安元三年)十月二日には、兼実は「仏厳聖人書く所の十念極楽易往集」を終日読んで、これは広才の書である、しかもこれは法皇の詔の旨によって撰集したということだと、仏厳の才能を認めています。
どうして高野山の別所聖である仏厳が、関白兼実の屋敷に出入りするのでしょうか?
12世紀半ばになると皇族や関白などが高野山に参拝するようになります。彼らを出迎えた僧侶を見ると、誰が政府要人を高野山に導いたのかがわかります。唱導師をつとめたのは、別所聖たちです。このころに高野山にやってきた有力貴族は、京に出て高野浄土と弘法大師伝説と大師霊験を説く高野聖たちのすすめでやって来ていたようです。
性霊集 / 小林書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

『性霊集』(巻八)には空海の「高野山万燈会願文」(天長九年〈811)を、次のように記します。

空海、諸の金剛子等と与に、金剛峯寺に於て、馴か万燈万華の会を設けて、両部の曼茶羅四種の智印に奉献す。期する所は毎年一度斯の事を設け奉り、四恩に答へ奉らん。虚空尽き衆生尽き湿槃尽きなば、我が願も尽きなん

ここには勧進の文字はありませんが、一燈一華の万燈奉納の勧進をすすめた願文と研究者は考えています。関白道長の法成寺御堂万燈会や平清盛の兵庫港経ヶ島の万燈会などは長者の万燈でした。一般の万燈会には、燈油皿に一杯分の油か米銭を献じました。いまも法隆寺や元興寺極楽坊には、鎌倉時代に行われた万杯供養勧進札が残っているようです。
参拝者によって彩られる10万本のろうそくの灯火「高野山 萬燈供養会 ろうそくまつり」|ろうそくまつり実行委員会のプレスリリース

 高野聖たちは、空海いらいの高野山万燈会を復活することによって、 一燈一杯の喜捨をすすめていたことが分かります。寛治二年(1088)の『白河上皇高野御幸記』(西南院本)には、高野山奥之院で行われた行事を、次のように記されています。

其の北頭の石上に御明三万燈を並べ置く、土器三杯に之を備ふ

ここでは土器1杯を一万燈にかぞえています。これは横着な「長者の万燈」の例かもしれません。集めた喜捨は、丸残りで高野山復興資金に廻せます。
このように勧進活動は、次のようないろいろな勧進方法がとられています。
①配下の勧進聖を都に遊行させて、奥之院に一燈を献ずることをすすめたり、
②御影堂彼岸会に結縁をすすめ、
③仁海創意による五月十四日の花供結縁をすすめる。
大国の募財は京都で仁海が貴族のあいだ廻ってすすめ、荘園からの年貢や賦役は、慈尊院政所が督促するという風に手分けして勧められたようです。これらの勧進活動で、高野山の諸堂は復興していくのです。
この聖たちの中で際立った動きを見せているのが仏厳房聖心です。
 『玉葉』の安元元年(1176)8月9日に、仏厳房の住房の塔に、「金光明寺」という額を関白兼実が書いてやったこと、おなじ堂の額を故殿(関白忠通)が書いてやったことなどが記されています。
 内大臣中山忠親の『山枕記』にも、仏厳が出入りしていたようです。忠親が治承四年(1180)3月12日に、洛外洛中の百塔請をした残り二十八塔をめぐって、常光院(清盛の泉邸内)・法住寺・法性寺・今熊野観音などをへて東寺へ行き、仏厳房のところで天王寺塔を礼拝したとあります。これは四天王寺五重塔のミニチュアをつくって出開帳の形で礼拝させたか、あるいは四天王寺塔造営の勧進をしていたかの、いずれかだと研究者は推測します。高野聖と四天王寺の関係は密接で「高野 ―四天王寺 ― 善光寺」という勧進聖の交流ルートがあったと研究者は考えています。
 つまり高野聖である仏厳が関白や内大臣の家に出入りするのは、勧進の便を得るためで、趣味や酔狂でおべっかするわけではないのです。これは西行や重源の場合みれば、一層あきらかになります。勧進聖にとって、なんといっても京はみのり多い勧進エリアです。そのため仏厳は、高野山をくだって京に入れば、高野山の本寺である東寺に本拠の房をもっていて、そこを拠点に勧進活動を勧めていたはずです。

 このころ仏厳の本職は、高野山伝法院学頭でした。
高野聖の中では、支配的地位にいました。しかし、『玉葉』や『山枕記』にみられる仏厳は、やたらに人の病気を診察したり治療のアドヴァイスをしています。そのため彼の名は『皇国名医伝』にのせられています。医学と勧進は強い関係があったようです。勧進にとって医術ぐらい有力な武器はなかったと研究者は云います。勧進聖は本草や民間医学の知識ぐらいはもっていました。また高野聖はあやしげな科学知識をもっていて、やがて鉱山開発などもするようになります。
 仏厳もそれをひけらかしていたようです。
 例えば、重源が渡来人縛若空諦をつかって、室生寺経塚から弘法人師埋納という舎利をぬすみ出します。
その時に、その真偽鑑定を九条兼実から依頼されています。(『玉葉』建久 年八月一日)。この重源の悪事も、東大寺勧進のために後白河法皇と丹後局にとりいるためのものでした。仏厳は「お互いに勧進を勧めるのは大変なことで、手を汚さないとならないときもあるものよ」と相哀れんだかもしれません。勧進聖は呪験力とともに、学問や文学や芸能や科学の知識など、持てるものすべてを活用します。文学を勧進に役だてたのは、西行でした。仏厳は雨乞などの呪験力と科学的知識と、伝法院学頭としての密教と浄土教の学問を、勧進のために駆使したと研究者は指摘します。

以上のように、仏厳が法然や重源などとともに、兼実のもとに25年の間(1170~94)出入りして法文を談じたり、兼実や女房の病気を受戒で治し、恒例念仏の導師をつとめていることが分かります。これが法然の動きとよく似ていることを押さえておきます。

話を最初に戻します。法然が九条兼実宅を訪れていた頃に、高野山の仏厳は高野山復興のための勧進に、そして重源も東大寺復興のために勧進活動のために、頻繁に同じ舘を訪れていたのです。
  
こういう視点で、最初に見た法然讃岐流刑の出立場面を、もう一度見てみましょう。
①信濃の御家人である成阿弥陀仏は、「力者の棟梁」で輿を用意した
②法然教団の僧侶60人余りが馳せ参じた。
①の「力者の棟梁」や②の60人を越える僧侶集団は、法然も勧進集団の棟梁として活動していたように、私には思えます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献       「五来重 仏厳房聖心と初期の往生者  高野聖96P」

    藤原鎌足より続く藤原一族の宗家にあたる九条家は、小松荘(琴平)の荘園領主でもあったようです。九条家に残る史料から小松荘という荘園を見ていきます。テキストは町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」です。
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九条兼実(かねざね)と讃岐那珂郡小松荘          
 小松荘が最初に史料に見えるのは、元久元年(1204)4月23日の九条兼実が娘で、後に鳥羽天皇の皇后となった宜秋門院任子に譲った25の荘園(女院庁分)の一つとして「讃岐国小松荘」と出てくるのが初めてのようです。
五摂家とは - コトバンク

九条兼実は、久安五年(1149)、摂政藤原忠通の三男として生まれます。
彼の生きた時代の主な事件を挙げると、
 8歳の時  保元の乱
11歳の時  平治の乱
37歳の時  平氏の滅亡、
44歳の時 源頼朝の征夷大将軍就任
という事件に遭遇しています。後白河上皇の院政  → 平氏の全盛と滅亡 → 鎌倉幕府の成立という歴史の大転換期を生き抜いた人物のようです。関家の三男ですから出世は早く、13歳の時に権大納言、13歳で内大臣、18歳で右大臣ととんとん拍子です。彼は、まじめな性格の兼実は、放縦といっていい後白河院政に対して批判的で、成り上がりの平氏政権にも非協力的な態度で接します。そのために両者から疎んぜられます。院や平氏に近づいて摂政関白となった長兄基実の子基通や、次兄基房とはちがい、政治の中心から遠ざけられて、官職もしばらく右大臣の地位のままにあったようです。

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しかし、それが幸いするようになります。鎌倉幕府が成立すると、後白河天皇や平家に距離を置いていた兼実は、頼朝の推挙を得てにわかに脚光を浴びることになります。京都九条に邸宅を構えていたことから、九条右大臣と呼ばれ、兼実の後は九条家を称するようになります。また、父の忠通の居宅近衛殿に住んだ基実の子孫は、近衛家となり、ここに藤原摂関家は九条・近衛の二流に分かれることになります。これが後の藤原氏の宗家をめぐっての争いの原因を生み出すようです。
九条良経とは - コトバンク
九条良経(よしつね)

九条家領小松荘の成立   
 小松荘がいつ成立したのは、建永4年(1209)以前に、兼実の子良経(よしつね)が讃岐の知行国主であった時に寄進されたものではなかと研究者は考えているようです。荘園のエリアは詳しくは分かりませんが、小松郷のほとんど全域が荘園化されたようです。

まんのう町の郷
小松郷と周辺郷

国衛領である郷が寄進されて荘園となることについては、「善通寺一円保」の所で以前にお話ししましたが、簡単に振り返っておきます。
11世紀後半ごろになると、国司は有力な地方豪族たちを郡司や郷司などの地方役人に任命します。そして、彼らの力を利用して、農民の支配や徴税を進めようとします。こうなると、郡や郷は国の行政単位ではなくなり、郡・郷の徴税権、農民の支配権をあたえられた地方豪族の所領へと性格を変えていきます。こうして豪族は、自分の開発した所領ばかりでなく、郡司・郷司という肩書きを得て、郡・郷全体の個人所領化を進めていくようになります。国家の所領をかすめ取り、個人所有化が進められたのです。
 しかし、このようなことができたのは、彼ら地方豪族が、国司から任命された郡司・郷司の地位にあったからです。そのため国衛への官物、年貢の納入を怠ったり、国司の命令をきかなかったりして、その職を解任されれば、たちまちその基盤は崩れてしまいます。そこで彼らは、国司より権力がある皇族・公卿あるいは大寺社などに、自分の開発所領のみならず、国から委託された郡・郷までも寄進して、その有力者の荘園にしてしまうようになります。これが郡・郷単位で広大な寄進地系荘園が成立してくる背景です。

寄進系荘園の成立

讃岐の場合は、郡がそのまま荘園化するのは、東讃の大内郡が荘園化した大内荘以外にないようです。しかし郷単位の荘園は多数でてきます。金倉川流域だけでも、次のような荘園がありました。
①琴平の小松荘(九条家)
②まんのう町の園城寺領真野荘
③善通寺の金倉荘
④善通寺の善通寺領良田荘、
⑤多度郡の賀茂社領葛原荘
⑥多度郡の高野山一心院領仲村荘
 荘園成立の際には、自分の開発所領だけでなく、本来国衛領である土地を自分が支配権を握っているのを利用して寄進するのです。これは国衙の管理する土地が減り、減収を意味しますから、国司の立場としては反対するのが当然です。
荘園構造

そのため寄進先は、国司の反対を十分に抑えることができる有力者が選ばれることになります。寄進を受けて荘園領主になった寺社や貴族を領家と云います。領家が国司を抑える力がない場合は、さらに領家から上級の有力者、例えば院、摂関家、大寺社などに再寄進されることになります。その再寄進を受けた上級領主が本家と呼ばれます。そして寄進した地方豪族は、下司・公文などの荘園役人となって実質的な荘園支配を行うようになります。
 こうして成立した荘園は「本家―領家―下司ー公文」という階層的に重なった形となります。その下は、荘園のなかに住む有力農民が名主となり、その経営する田畠(名田)の年貢と公事を納入するようになります。残りの農民は小百姓や下人といい、名主の名田や下司・公文の領地、荘園領主の直属地を小作します。これが寄進地系荘園の構造です。高校で習った日本史の復習のような感じになってしまいました。
以上は、寄進が在地領主によってなされた場合です。これに対して知行国主や院などが寄進を行う場合があります。例えば、兼実の孫の九条道家が讃岐の知行国主であった時に、寒川郡神崎郷を興福寺に寄進して神崎荘としています。また真野荘は後鳥羽上皇によって那珂郡真野郷が園城寺に寄進されたものです。摂関家が荘園に対して持っている権限は、本家職である場合が多いようですが、九条家が小松荘に対して持っていた領主権は、領家職でした。これをどう理解すればいいのでしょうか?
 小松荘も在地領主による寄進ではなく、九条兼実が、良経の讃岐知行国主としての地位権限を利用して、九条家に関わりある寺社に寄進して荘園としたということは考えられます。そしてその寺社を本家とし、自らは領家としての権限を握るという手法がとられたのかもしれません。ただし兼実やその後の譲状には、本家としての寺社の注記はないようです。これもあくまで推測です。
寄進系荘園の構造

 建武三年(1336)6月、九州から攻め上った足利尊氏は、上皇の弟豊仁親王を立て光明天皇とします。
その10日後の8月24日、九条家の当主道教(みちのり)は、自分の知行地の目録を提出し、次のような足利尊氏の安堵を受けています。
御当知行の地の事、武士の違乱を停正し、所務を全うせしめ給うべく
 候、恐々謹言
     九月十八日      尊氏御判
   九条大納言入道殿        
この辺りの次の天下人の見極めが九条家の眼力であり、生き残りの力だったのかもしれません。この安堵状に付けられた目録には道教の所領が40か所、記されています。そのなかに「讃岐国小松荘領家職」が見えます。ここからは小松庄(琴平)が14世紀の半ば頃までは、引き続いて九条家の所領となっていたことが分かります。その後は、金蔵寺が小松荘の地頭職を持つようになるようです。

「金刀比羅宮文書」の中には南北時代の寄進状が4通あるようです  
①康安二年(1362)4月15日 預所平保盛小松庄松尾迦堂免田職寄進状
②応安4年(1371)11月18日 僧頼員断香免田寄進状
③康暦元年(1379)9月17日 御寺方御代官頼景寄進状
④永徳二年(1382)3月26日 平景次子松荘松尾寺金毘羅堂田地寄進状

この中の①④は松尾寺金比羅堂への免田寄進状ですが、年号的に明らかな偽書であると研究者は指摘します。金毘羅神が産み出され、そのお堂が建立されるのは16世紀後半になってからです。①④は始めて金比羅堂を開いた宥雅によって捏造された文書と研究者は考えているようです。この中で信用できそうなのは③の康暦元年の寄進状です。これを見てみましょう。
奉寄進  
松尾寺鐘楼 免田職事
 合参百歩者 御寺方久遠名無足田也。在坪六条八里十一坪
 右件の免田職に於ては、金輪聖王、天長地久、御願円満、殊には、当荘 本家、領家、地頭、預所安寧泰平故也。勁て寄進し奉らんが為め、状件の如し、
   康暦元年九月十七日
            御寺方御代官 頼景(花押)
意訳変換しておくと
奉寄進について  
松尾寺鐘楼の免田職について、合わせて三百歩は久遠名のことで、六条八里十一坪に位置する。この免田職については、金輪聖王、天長地久、御願円満、さらには当荘の本家、領家、地頭、預所の安寧泰平のためであもある。寄進し奉納すること件の如し
 康暦元(1379)年九月十七日
            御寺方御代官頼景(花押)
ここからは次のような事が分かります。
①14世紀後半の小松荘(琴平)に、松尾寺という寺院があったこと
②松尾寺の鐘楼管理のために免田が寄進されたこと
③その免田は久遠名と呼ばれ、位置は那珂郡の六条八里十一坪あたること
④寄進状の「本家・領家・地頭・預所」が小松荘の領主階級であること。具体的には
 A 本家・領家は荘園領主で、小松荘の本家は不明
 B 領家は、九条家
 C 地頭は荘官で、在地領主で実際に小松荘周辺を拠点にしていた武士団(不明)
 D 預所は荘園領主(領家)によって任命され、領家の代理として荘園の管理を行う人物。領家の腹心の人物で、摂関家領の場合は、摂関家に仕える家人が任命されることが多かったようです。
⑤「御寺方御代官頼景」とあり、花押を書いた頼景の肩書きは「御寺方代官」とあるので、この人物が「預所」だったことが分かります。

以上を総合すると、小松荘には松尾寺があり、鐘楼維持のための免田が寄進されています。この免田は、荘園領主(九条家)に対する租税免除の田地で、この田地の年貢は松尾寺のものとなります。これ以外にも一定の寺領があったようで、その寺領の代官を「御寺方御代官頼景」が兼ねたとしておきましょう。
 さて、それでは松尾寺鐘楼の免田は、どこにあったのでしょうか。寄進状には「六条八里十一坪」とあります。これを条里制遺構図で見てみると・・・
岸の上遺跡 那珂郡条里制
  
 丸亀平野の条里制は、東から一条→二条。里は南から一里→二里と打たれています。小松荘(現琴平)は、「金比羅ふねふね」で謡われるとおり「讃州那珂郡 象頭山 金刀比羅宮」で、那珂郡に属します。那珂郡の条は上図で見ると「六条」は現在の金倉川沿いのエリアになります。八里は現在の善通寺と琴平の境界線の北側のエリアで、赤印が「六条八里」になります。大麻神社の北東部になるようです。旧市街周辺にあるものと思っていたので、意外な感じがします。
  延慶二年(1309)の「九条忠教注給条々」という文書には、次のような記載があります。
  小松荘 御馬飼赳晶公器談
此の如く仰せらると雖も、其足に及ばずと称し、行宣御預を辞し了ぬ、其以後各別の沙汰と為て、馬飼に於ては小豆嶋に宛てる所也 
意訳変換しておくと
 小松荘には、峯殿と呼ばれた九条道家の建立した寺のために、馬の飼育が充てられていた。行宣という者がその負担が困難だと辞退してきたので、馬飼の役を同じ九条家領の小豆島に替えた。

ここからは次のようなことが分かります。
①14世紀初頭の小松荘には、九条家から馬が預けられ飼育されていたこと
②飼育を行っていた行宣も預所であったこと
③九条家には小豆島にも馬の飼育を行う牧場があったこと
①②からは小松荘には馬を飼育する牧場があったことがうかがえます。本当なのでしょうか?
  江戸時代初期、生駒騒動で生駒家が改易となった時に引継史料として書かれた『生駒実記』には、こんな記事が載せられています。

「多度郡 田野平らにして山少し上に金ひら有り、大麻山・五岳山等の能(よ)き牧有るに又三野郡麻山を加ふ」

意訳変換しておくと
多度郡は、平野が多く山が少ないが、山には金毘羅さんがある。大麻山・五岳山(現、善通寺市)等には良好な牧場があるが、これに三野郡の麻山を加える

ここに出てくる「能(よ)き牧」とは牛馬が放たれていた牧場のことのようです。確かに大麻山のテレビ塔から南には、石の遺構が長く伸びて残っています。これは、一体何だろうと疑問に思っていたのですが、この文章を見て牧場跡の遺構ではないかと密かに推測しています。中世には、大麻山の緩やかな稜線は牧場で牛や馬が飼育されていたとしておきましょう。話が横道に逸れてしまいました。元に戻しましょう。 
金蔵寺の小松荘地頭職 の獲得について
 預所に対して地頭は、その多くは荘園の寄進者でした。彼らは在地領主で下司・公文などに任じられていたようです。これが鎌倉将軍の御家人となり地頭と称するようになります。その任命権を鎌倉幕府が握ぎり、東国からの御家人が占領軍指令のような気分で西国に乗り込んできます。ある意味、東国武士団による西国の占領地支配です。そのため預所と地頭は荘園支配をめぐって、しばしば対立し争そうようになります。小松荘の鎌倉時代の地頭が誰なのかは分かりません。しかし、南北朝時代の地頭については「金蔵寺縁起条書案」という文書に次のような記載があります。

尊氏将軍御代、貞和三年七月二日、小松地頭職 御下知状給畢                          金蔵寺

  ここには貞和三年(1347)7月2日に金蔵寺が足利尊氏から小松荘地頭職を与えられたというものです。この「縁起条書案」という文書は、金蔵寺が享徳二年(1453)までの主な出来事を箇条書に記したもので、内容的には信用できるものが多いと研究者は考えているようです。
 さらに嘉慶二年(1388)に金蔵寺から寺領に課せられた段銭を幕府へ納入した時の請取状にも次のような記載があります。
 金蔵寺領所々段銭事
 同上荘参分一、4十壱町五反半拾歩者、
合 良田内陸(六)町4段者、同不足追下地九反小、門分弐百捌(八)拾文、
 子松瀬山分七段者、尚追不足分銭三八文正月十七日、
    都合拾肆(4)貫五百玖拾陸(六)文者、
 右、請取る所の状件の如し、
   嘉慶弐年十二月一日    世椿(花押)

 金蔵寺領の段銭について「子松瀬山分柴段」とあって、金蔵寺が小松荘の瀬山に寺領を持っていたことが分かります。地頭というのは本来は治安や徴税の任に当たる荘園の役人の職で、現在で云うと「警察署長 + 税務署長」のような存在です。その役職に、金蔵寺の僧侶がつくのはおかしいという気もします。しかし、鎌倉中期になると地頭職というのは、その職に伴う領地という面が強くなります。善通寺市吉原町にあった吉原荘でも、建長4年(1152)に九条兼実の子・良平の孫である京都隨心院門跡厳恵が地頭職に任じられています。金蔵寺も小松荘の瀬山というところに地頭職という名目で領地を持っていたと研究者は考えているようです。ちなみにこの「瀬山」がどこに当たるかは、分からないようです。
 金蔵寺は小松荘地頭職を、南北朝時代最末期まで持っていたようですが、その後は分かりません。室町時代の「金毘羅大権現神事奉物惣帳」には、「御地頭同公方指合壱石弐斗五升」とあるので、この時期にも地頭がいたようです。しかし、これが金蔵寺を指すものかどうかは分からないと研究者は考えているようです。

 備中守護細川家による小松荘支配    九条家領から細川家領へ  
「九条家文書」の「諸御領仏神事役等注文」のなかには、尾張国の大鰐社恒例役の成就宮祭禄上絹のところに、「動乱以後無沙汰」という注記があります。この「動乱」は、鎌倉幕府が滅亡した元弘の乱と考えられるので、この「注文」は南北朝時代前期のものとと研究者は考えているようです。この注によると、小松荘では仏神事役のうち、報恩院御畳六帖と御八講中小坑飯一具、それに宜秋門院御忌日用途が無沙汰であると記されます。つまり、納入されていないと云うのです。他の荘園を見ても、ほとんどが諸役の半分以上が無沙汰です。和泉国日根荘からは、すべての役が無沙汰になっています。これは、九条家の荘園経営が困難に落ち入っていることを物語っています。

九条道教は貞和4年(1348)に亡くなり、経教があとを継ぎます
動乱後の応永3年(1396)4月の「九条経教遺誠」を見ると、道教の時40か所あった所領が16か所に激減しています。そして、讃岐国小松荘の名は、そのなかから消えています。
 一方、応永十二年(1405)に、室町幕府三代将軍足利義満は、備中守護職の細川頼重に次のような所領安堵の御教書を与えています。
    御判  (足州義満)  
備中国武蔵入道(細川頼之)常久知行分閥所等 讃岐国子松荘、同金武名(中首領跡)、同国高篠郷壱分地頭職、同公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷の事、細河九郎頼重領掌、相違有るべからずの状件の如し、
応永十二年十月廿九日
意訳変換しておくと
備中国の武蔵入道(細川頼之)が知行していた領地と、併せて讃岐国の小松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同じく高篠郷の公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷について、細河(細川)九郎頼重が相続したことを認める。

ここからは、九条家領であった小松荘が備中守護細川氏の所領になっていることが分かります。
細川頼之とは - コトバンク
讃岐守護 細川頼之
守護による権力の行使
南北朝時代の守護は、敵方の武士から没収した土地や、死亡などで所有者のいなくなった土地(欠所地)を、戦功のあった部下に預け置く権利(欠所地預置権)を持っていました。この権利を用いて、守護は任国内の武士を被官(家臣)にしていきます。また、欠所地を自分の所領に加えることもありました。この史料に出てくる讃岐の「金武名、高篠郷一分地頭職、高篠郷の公文職」は、細川頼之が讃岐守護であった時に、こうした方法で所領としたものと研究者は考えているようです。逆に見ると、ここには細川頼之に抵抗した勢力がいたことになります。それを没収し、戦功のあった武士たちに恩賞としてあたえたようです。
 それでは、「金武名」とはどこにあったのでしょうか? 
中(那珂)首領跡とあります。想像を働かせると、もとは那珂郡の首領郡司の地位にあった武士の所領で、頼之に敵対する行動があって没収されたのではないでしょうか。丸亀市垂水町に金竹の地名が残っています。この辺りに金武名があり、那珂郡の首領がいたとしておきましょう。高篠郷公文職は、まんのう町公文の地でしょう。
 小松荘については、九条家領からその名が消えて、細川氏家領として記されています。九条家が持っていた荘園領主権が細川氏の手に移ったことが分かります。その時期は、頼之が讃岐守護となった貞治元年(1326)以後のことと研究者は考えているようです。
   守護が荘園を支配下に入れる方法の一つに守護請があります。
内乱の時代になって荘園支配が困難になった荘園領主たちは、守護と契約を結んで、荘園の管理を一任し、代わりに豊凶に関わりなく毎年一定額の年貢・公事の納入を請負わせることで、収入を確保しようとします。これが守護請で、実際には、現地の実力者である守護の被官が代官に任命されて、荘園の管理と年貢の納入に当たりました。しかし、守護請代官たちは、契約に違反して領主に年貢を送らないことが多く、結局、荘園が守護被官や守護の支配下に入ってしまうことになります。
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九条家領でも、応永二十六年(1419)8月に、所領の回復を幕府に訴えた「不知行所々注文」(蒜家)に
  近江国伊庭荘伊庭六郎左衛門入道押領
  和泉国日根荘昌詣年
  丹波国多紀北荘代官増位入道押領
などとあります。ここからは、守護や守護請代官による荘園押領が進んでいることがわかります。。
 備中守護細川家の小松荘支配と伝領              
小松荘も、同じように讃岐守護である細川氏の所領になってしまったようです。以後、小松荘は、義満以下代々の将軍の安堵を受けて、満之、頼重、氏久、勝久と、備中守護細川家に伝領されていきます。讃岐守護は細川氏の惣領家です。分家である備中細川氏の所領の保護は、怠りなかったでしょう。
しかし、応仁の大乱が起きると、それも安泰ではなくなったようです。
乱後の延徳三年(1491)十月、備中守護代荘元資が反乱を起こし、勝久は浦上氏らの援助を受けてかろうじて元資を破りますが、備中守護の権威は地に落ちてしまいます。こうして、細川氏の備中支配は急速に衰退に向かうようになります。讃岐の所領も、このころにはその手を離れたと研究者は考えているようです。以後の備中細川家関係の安堵状には、讃岐小松荘の名は見えません。小松荘は誰の手に置かれたのでしょうか。それは、また別の機会に・・・

以上をまとめておきます
①那珂郡小松郷は、13世紀初めに摂関家九条(藤原)兼実の荘園となった。
②九条兼実は、法然を保護し、四国流刑となった法然を小松荘で保護した。
③九条家は14世紀頃の南北朝時代まで、小松庄を所領としていた。
④小松荘の地頭職を金蔵寺に認める足利尊氏の文書が残っている。
⑤鎌倉幕府滅亡の混乱の中で、九条家の小松庄経営は困難に陥った
⑥代わって守護として入国した細川氏が小松荘を支配下に置いた
⑦さらに小松荘は、備中守護細川氏の所領になっていった。
⑧応仁の乱の混乱の中で、小松荘は備中細川氏の手を離れた。

以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     参考文献 町誌ことひらNO1 鎌倉・南北朝時代の小松・櫛梨」 
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