瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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前回は鎌倉時代初期の承元三年(1209)8月に、左大臣で讃岐国守でもある藤原公継(徳大寺公継)が善通寺に、生野郷内の「重光名見作田六町」を善通寺御影堂に納めよという指示を讃岐留守所に出していることをみました。この名田からの収入は、御影堂のためだけに使用せよとの命で、善通寺にとって数少ない自前の収入源になります。これが生野修理免のはじまりです。 それから40年後の宝治3年(1249)2月のことです。
九条道家
九条道家
善通寺にとって大きな意味を持つ寄進が、九条道家によっておこなわれます。
九条道家は4代鎌倉将軍藤原頼経の父親にあたり、当時の朝廷の最大実力者でもあったようです。まずは道家が何者であったのかを彼の事績を年表化して見ておきましょう。

九条道家系図

   九条道家は、第4代将軍藤原頼経の実父です。
1219年 3代将軍・源実朝が暗殺。次期将軍に道家の三男・三寅(当時2歳・後の藤原頼経)
1221年 承久の乱で朝廷方敗北。道家も摂政罷免される。
1225年 北条政子死去。道家の子・頼経が正式に征夷大将軍に任命。
承久の乱後の朝廷では、幕府との関係が深かった岳父の西園寺公経が最大実力者として君臨。
1228年 岳父西園寺公経の信任を受けて関白就任。
1229年 道長の長女(藻璧門院)を後堀河天皇の入内させ、秀仁親王(後の四条天皇)出産。
1232年 後堀河天皇が即位し、道家は外祖父として実権を完全掌握。長男の教実は摂政となっり、九条家は朝廷の最大有力家として君臨
1238年 鎌倉の頼経が上洛して約20年ぶりに父子再会。慈源がわずか20歳で天台座主就任。道家は叔父の大僧正良快を戒師として出家。法名は行恵。「禅閤」として権勢を誇る。
  こうしてみると、九条道家は岳父の西園寺公経のポストを引き継いだ最重要人物であることが分かります。同時に、讃岐国守も引き就いています。そして、岳父の西園寺公経は、弘法大師御影信仰を持ち、善通寺に生野修理免を寄進した人物だったのです。これも引き継いだようです。
 九条道家は、権勢が絶頂にあった宝治3年(1249)2月、讃岐留守所に次のような庁宣は発しています。
庁宣は、次の2つの内容からなります。その第一の部分を意訳で見ておきましょう。
寺領の近辺を憚らず猟をするものが多いので、しばしば猪や鹿が追われて寺の霊場内に逃げこみ、そこで命を落すことがある。浄界に血を流すことは罪業の至りであり、まして寺の近くでの殺生は法によってもとどめられていることである。よって生野郷西畔を、普通寺領に準じ、四至を定めてその内での殺生を禁止する。

 四至とは東西南北四方の境界のことで、殺生禁断が定められた境界は、次の通りです。
東は善通寺南大門の作道を限り、
西は多度三野両郡の境の頸峰の水落を限り、
南は大麻山峰の生野郷領分を限り、
北は善通寺領五岳山南舵の大道(南海道?)を限る
これを地図で示してみる以下のようになります。
善通寺生野修理免2
善通寺生野郷修理免

もちろんこの地域が普通寺の所領になったわけではありませんが、「殺生禁断」エリアという形で寺の支配力を拡げていくための重要アイテムになります。
国司庁宣の2番目の内容は次のようなものです。

善通寺は大師降誕の霊場であるにもかかわらず、年を経て荒れている。そのため殺生禁断を定めた境界内の公田(国所有田)のうち12町を寺の修造料にあてることにする。
 ただし、この地域には、他人に与えられた給田、除田(租税免除の田)などがあるから、それを寺領に混入してはならない。また施人された一二町以外の郷田に対して寺が手を出してはいけない。 一方修理料にあてられた田地に対しては、国衙も本寺も妨げをしてはならず、「只当寺進退と為て、其沙汰致さしむべし」。
 
 ここからは善通寺伽藍修繕のために、生野郷の国衙領12町を善通寺の管理・支配にまかせるとあります。庁宣によると、この寄進は「禅定太閤=出家後の九条道家」の意向であることが分かります。
こうして善通寺は、九条道長によって、生野郷に次の二つの権益を確保することができました。
①国衛領である生野郷内で新しく12町の田地を寺領とすることができたこと。
②生野郷西部に殺生禁断エリアを認められ、寺の支配を拡げていく基盤を獲得したこと。
善通寺寺領 鎌倉時代
善通寺領

しかし、生野修理免は大きな問題を抱えていました。下文には次のように記されています。
但し、①地頭土居給并に②御厩名等は、寺家之を相綺うべからず。

①「地頭土居」というのは、堀内とも呼ばれる地頭の屋敷地です。「土居給」は、その屋敷地に附属して課役が免除された田地で、一般には地頭の支配がもっとも強く及んでいるとされます。ここからは、生野修理免には地頭の屋敷や直営地があったことが分かります。これが善通寺の紛争の相手となります。
 また②「御厩名」は、国衛留守所の役所の一つである御厩の役人の給名田です。これも地頭が兼帯していたようです。このような武士の所領が寺領エリアの中にあったことになります。それに対して「寺家相綺うべからず」と、寺が干渉してはならない治外法権の地とされたのです。
 彼らは国衙領の有力武士であって、寺の支配下にはありません。さらに、地域の豪族として寺領化以前から土地や農民に根強い勢力をもっていたはずです。それまで生野郷を事実上の領地としてきた郷司・地頭にとっては、今回の寄進は、結果的には自分の支配エリアを善通寺に削られたことになります。そのため善通寺に対して、いろいろな示威行為を繰り返したようです。
 これに対して善通寺が頼みにできるのは、寺の領知権を認めた国衛のいわば「お墨付」だけなのです。
しかし、国衛の実質的な支配者は、郷司らの仲間の留守所役人=在庁官人です。具体的には綾氏につながる讃岐藤原氏が大きな力を持ち、生野郷の地頭もその一員だったかもしれません。これでは国衙の保証もあてにはできません。
正嘉2年(1257)12月、後嵯峨上皇院宣
正嘉2年(1257)12月、後嵯峨上皇院宣
 例えば善通寺側では、正嘉2年(1257)12月、後嵯峨上皇に願って「生野郷免田相違あるべからず」という次のような国司あての院宣をだしてもらっています。
当國善通寺申す生野郷免田事、代々の國司庁宣に任せ、向後相違有るべからずの由、早く下知せらるべし者、院御気色此の如し、乃執達件の如し
十二月廿四日                                     宮内卿
讃岐守殿
しかし、この院宣もあまり効果はなかったようで、その後も郷司の侵害は続きます。
弘長三年(1263)年12月になって、国司の調停で、寺と郷司との間で「和与(わよ)」で相方の譲り合いによる和解が成立します。
和与条件をとりきめた留守所下文には次のように記されています。
「且は郷司和与状に任せ、 向後の違乱を停止すべき、 生野郷内善通寺免田山林荒野開資寺領の事」
「宝治二年施人の際の四至を示し、四至の内側になる南大門作道通の西側では、寺領免田はもとより、さきに寺領の内に混じてはならないとされていた他人の給田である社免人土居田等まで「寺家一向進退すべし」として寺の支配下に入れること、
意訳変換しておくと
四至の外側にあたる作道以東に存在する寺の免田(承元二年に施入された田地?)は、四至内の公田ととりかえ(相博)て寺領にまとめること。

このとりきめは結果として、善通寺側に、多くのものをもたらします。その上に以下のようにもあります。
「自今以後、此旨を存し、國使人部丼びに本寺の妨を停止」

ここからは、租税の徴収などのため国の役人が寺領内に入ることや、本寺随心院の干渉をやめさせることが定められたことが分かります。いわゆる不輸不入権を手に入れています。これは寺領発展の大きな武器になります。
生野修理免についての今までの流れを年表化しておきましょう。
①承元3年(1209)8月 生野郷内重光名見作田6町を善通寺郷影堂に寄進
②宝治3年(1249)3月 生野郷西半を善通寺領に準じ殺生禁断として12町を修造料に
③弘長3年(1263)12月 郷司との和与で生野郷西半を「寺家一向進退」の不入の地に
④有岡大池の完成 一円保絵図の作成
⑤徳治2年(1307)11月 当時百姓等、一円保差図を随心院に列参し提出
上の資料を見ると、善通寺の生野郷での免田面積は、①で6町、②の宝治3年に12町になり、40年間で倍になっています。この階段では一円保の水利は「生野郷内おきどの井かきのまた(二つの湧水)」に全面的に頼っていたいたと記されています。13世紀前半には、有岡大池はまだ築造されていなかったようです。
DSC01108
有岡大池と大麻山

 有岡大池の築造時期を、もう少し詳しく紋りこんでおきましょう。
②で免田が、6町から12町に倍増したとはいえ、善通寺が生野郷の一円的な支配権を得たわけではありません。有岡大池は、弘田川を塞き止め、谷間を提防で塞いだ巨大な谷池です。しかも、池自体は生野郷の西半に属しています。有岡大池着手のためには、生野郷での排他的な領域的支配権が確立されなければできません。それが可能になるのは、生野郷司と善通寺の間で和解が成立して、生野郷西半について善通寺の領域支配が確立する必要があります。それを、具体的には③の弘長3年12月以降と研究者は考えているようです。
 この池の築造には、何年かの工事期間が必要になります。それを加えると、有岡大池完成の時期は早くとも1270年前後になります。そして、古代の首長が眠る王墓山古墳や菊塚古墳の目の前に、当時としては見たこともない長く高い堤防を持ったため池が姿を現したのです。これは、善通寺にとっては、誇りとなるモニュメント的な意味も持っていたのでないでしょうか。
それが14世紀初頭に描かれた⑤の一円保絵図には、誇らしげに描き込まれています。
一円保絵図 有岡大池
一円保絵図に描かれた有岡大池

しかし、不輸不入権を得た生野修理免は、それ以後の文書の中には登場しません。史料がないことは、寺領が寺の手をはなれていったことだと研究者は推測します。善通寺の生野郷修理免の支配は、南北朝動乱のうちに周辺武士たちの押領や侵入で有名無実となっていったようです。
一円保絵図 東部
善通寺一円保絵図
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


1大野原地形

讃岐の西の端で燧灘に面して柞田(くにた)荘という荘園が鎌倉時代にできます。その立荘プロセスを追ってみます。
 1 柞田荘はどこにあったの
  柞田町は観音寺市街の南側にあった町名です。古代の『和名抄』の刈田郡の中にあった柞田郷が荘園になった歴史を持ちます。そのために境界ラインが条里制を使って区分けされたようで、いまでも真っ直ぐなところが多いのが地図を見ると分かります。また、柞田郷全体が荘園化され柞田荘になったと研究者は考えているようです。
なお『和名抄』に見える刈田郡の6郡とは次の通りです。
①山本郷は三豊市山本町山本
②紀伊郷は観音寺市木之郷町
③柞田郷は同市柞田町
④坂本郷は同市坂本町
⑤高屋郷は同市高屋町
⑥姫江郷は旧大野原町中姫および旧豊浜町姫浜
  2 讃岐国柞田荘は、いつ、だれによって立荘されたの?
 建長8 年(1256)8 月29日の日吉社領讃岐国四至膀示注文(『続左丞抄』所収文書)に
「去る三月十四日 宣旨により、国使を引率し、四至を堺し、膀示を打ちおわんぬ。」
とあるので、3 月14 日のことと分かります。そしてその年の夏8月に、讃岐の酷使(役人)立ち会いで、境界線を定め、その4角に膀示(コーナーストーン)を打ち終わったことが報告されています。
柞田荘 境界1

  3 日吉神社の荘園にされるいきさつは?
鎌倉時代末期の元応元年(1319)10月、日吉社領の由来と領主を書き上げた「日吉山工新記」(『続群書類従』に
「讃岐国柞田庄 二宮十禅師大行事長日御供。十禅師不断経二季大般若料所。後嵯峨院御寄付。」
とあります。この史料からは、柞田荘の領有を巡って争いがあり、最終的に後嵯峨上皇より日吉社へ寄付され、建長8 年3 月14 日の宣旨により立荘が公認されたようです。
 ところが、現実はもっと複雑です。実は、九条家の文書の中にも
「朴(柞)田庄 日吉申日御供に寄せらる」
とあるのです。讃岐国内には、「朴田」という地名は、他にはないので「柞田」の誤記と考えられます。とすると、後嵯峨上皇による日吉社への寄付以前に、柞田荘は九条道家より同社へ寄進されていたことになります。 承久の乱後の朝政を主導した九条道家は、当時の讃岐国の知行国主でもありました。彼が讃岐の知行国主であったのは寛喜元年(1229)より建長4 年(1252)に死去するまでの間で、その間に、興福寺領寒川郡神崎荘、石清水社領三野郡本山荘などの荘園を寄進・立荘しています。彼は、四条天皇の外祖父、鎌倉将軍頼経の父という立場で権勢を誇りますが、最終的には執権北条氏に幕府転覆の嫌疑を掛けられ失脚します。道家死去の翌年建長5年の正月、讃岐国は後嵯峨上皇の院分国とされました。このような情勢を見ると、九条道家による柞田荘の寄進・立荘は宣旨を得るなど正式な手続きを経たものではなく、知行国主としての私的なものであったと研究者は考えているようです。
道家の死後、日吉社より後嵯峨上皇に対し、柞田荘の社領としての存続が申請されます。そして、あらためて正式に寄進・立荘の手続きが取られたようです。
  4 荘園化の作業のためにどんな人がやってきたの?
 柞田荘の立荘が認可されると、今度は立券・荘号のための作業が行われます。そのために、日吉社の社家(社務の執行者)の使者が、太政官の担当事務官等とともに讃岐の国府にやってきます。南海道を陸路やって来たのか、瀬戸内海を海路で坂出の松山・林田港国府へやってきたのか興味がわきますが、それを明らかにする史料はありません。彼らは、地元の国府の在庁官人をお供にして現地へ向かい、収納使・惣追捕使・図師などを指揮して、立荘予定地の検地を行なったようです。
 こうした検地によって作られたのが「日吉社領讃岐国柞田庄四至膀示注文」(「続左丞抄』所収文書)と「実検田畠在家目録」になるようです。この2点の文書と添えられた「指図」(柞田荘の絵図)にもとづいて、柞田荘の立券・荘号を認可する手続きが取られました。
  5 どのようにして柞田荘の境界線がひかれたの?
「日吉社領讃岐国柞田庄四至膀示注文」を見てみましょう
 注進言上す、日吉社領讃岐国柞田庄四至を堺し、膀示を打つこと。
一、四至
 東は限る、紀伊郷堺。苅田河以北は紀伊郷堺。
   以南は姫江庄堺。
   南は限る、姫江庄堺
   西は限る、大海。海面は伊吹島を限る。
   北は限る、坂本郷堺。両方とも田地なり。
   その堺東西行くの畷まさにこれを通す。
   膀示四本
一本 艮角、五条七里一坪。紀伊郷ならび
   に本郷・坂本郷・当庄四の辻これを打つ
一本 巽角、井下村。東南は姫江庄堺。
   その堺路の巽角これを打つ。路は当庄内なり。
一本 坤角、浜上これを打つ。海面は伊吹島を限る。
   南は姫江庄内埴穴堺。
   北は当庄園生村堺。
一本 乾角、海面は参里を限る。北は坂本郷。南は当庄。
   鈎洲浜上これを打つ。ただし艮膀示の本と古作畷の末と、連々火煙を立て、その通ずるを追い、その堺を紀(記)しこれを打つ。
   田畠以下取張(帳)目録一通。
一、 右、去る三月十四日
   引率し、四至を堺し、膀示を打ちおわんぬ。
   よって注進言上くだんのごとし。
  建長八年八月二十九日 国使散位布師
       散位藤原「朝臣資員」(裏花押)
       散位藤原「朝臣長知」(裏花押)
     官使右史生中原「久景」
     社家 
四至(シイシ)と読みます。東西南北の境界です。
膀示四本(ボウジヨンホン)と読みます。現在もあちこちにボウジという地名が残っています。榜示は境界標識です。これを4本打った場所が記されています。
地図に示すと次のようになるようです。
柞田荘 地図

6 最後に花押(サイン)しているのは、どんな人?
一番最後に「散位藤原朝臣資員」の名前と裏花押があります。ここだけ筆跡が違います。本人のサインです。その下の花押は裏側に書かれています。この藤原資員というのは讃岐の国の役人です。この人は綾氏系図の中に、新居氏として名前があるそうです、讃岐藤原氏は、古代豪族綾氏の系譜をひく一族が中世に武士化して讃岐藤原氏を名乗るようになったと云われます。讃岐では一番勢力のあった武士団ですが、その中に新居氏がいて、国分寺町の新居に地名が残っています。そこにいた豪族です。つまり、讃岐藤原氏の在庁官人が柞田に出向いて立ち会い、サインしているということになるようです。

柞田荘 立荘續左丞抄  国史大系所収000002
その下に散位藤原朝臣長知という名前もあります。
ここも本人のサインがあります。こちらも同じく綾氏系図に載っている人物で、羽床氏になります。綾川中流の滝宮から羽床に架けて勢力を張っていた武士団で羽床城が拠点でした。その羽床氏の先祖になるようです。新居氏も羽床氏も在庁官人として国府に務めながら武士団を形成していたようです。彼らは荘園を立てるときも讃岐の国の役人として出張し、これで間違いがないと二人がサインをしています。
 国府のある讃岐府中から観音寺の祚田までは、南海道を馬を飛ばしてやってきたのでしょうか。この時期には、帯刀していたのでしょうか。いろいろな疑問が沸きますが、それに答える史料はありません。
 下から二番目の「官使右史生中原久景」が京都からやって来た中央官僚になります。そして比叡山日吉神社からも役人がやって来て立ち会っています。一番最後に「社家」というのが見えます。日吉大社は比叡山の守護神ですので、神仏習合のもとでは比叡山の僧侶が管理しています。つまり柞田荘は比叡山の管理下に置かれたということになるのでしょう。やってきた「社家」は僧侶であったのではないかと私は考えています
   この境界線の確定作業につづいて、検地を行います。その際に、建長四年の検地による確定面積が借用されて使われたようです。それらを集計して土地台帳に当たる田畠在家目録が作成されます。
同実検田畠在家目録
 (朱)「この一紙各々破損す。」
 (注進す)建長八年田畠・(在)家・網代・荒野等目録)
 (合)
一、作田百二十三町二段百二十歩 去る建長四年匚
一、作畠四十二町二段百七十歩
  在家五十宇 上八宇 中六宇 下十七宇 下々十九宇 網代寄庭二所 
一所九町余り。
一所五町余り。
    荒野百余町 林野江海池溝淵河などなり。
このようにして、境界内の土地の耕作面積などが記されます。その上に、絵図も作成されています。しかし、この絵図は残念ながら伝わっていないようです。

柞田荘 四方標示

今回はこのくらいにします。次回に柞田荘の「四至」をもう少し詳しく見ていくことにしましょう。
参考文献 田中健二    日吉社領讃岐国柞田荘の荘域復元


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