瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:予章記

前回は、一遍上人絵伝の伊予三島社(現大山祇神社)の詞書の前半部は、先祖越智氏のことや祖父河野通信とのかかわりなどが書かれていることを見ました。今回は、その後半を見ていくことにします。テキスト「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」です。
大山祇神社 (伊予三島神社)
一遍上人絵伝 伊予三島社(現大山祇神社)
後半部を要約したものを見ておきましょう。
⑥一遍が大三島を去ったあと、正応二年正月24日に供僧長観の夢の中に大明神が現われて次のように述べた。
「昔、書写の上人(性空)が参詣して(不殺生のために)鹿の贄を止めさせた。今、一遍上人が参詣して桜会の日に大行道にたちて大念仏を申し上げる。この所で衆生を済度させようとするのである。これに合力しない輩は後悔するであろう」

⑦その月の27日には地頭(代)の平忠康も神のお告げを受けた。神の詞は大略同じで、ほかにも夢想を受けた者が多くいた。
⑧そこで、2月5日に聖(一遍)を「召請」申し上げたところ、聖は6日に再び三島社に参詣し、9日には桜会が行われた。その大行道の最中に聖は、大明神が出現された山を見上げて、何の必要があって一遍をお招きになったのかと思案したが、贄をとどめるためであると思いあたった。
⑨正月と11月の魚鳥の供えをとどめることなど、人々の夢想に示されたことが多くあった。それについて何も聞いていないのに聖の言葉は一つも違いがなかった。人々は次のように語った。

「昔永観二年に叡山の堪延と性空上人が一緒に参詣して、七日間説教し、不殺生戒を授けられた。その時に、御宝殿が鳴動して『随喜、随云不殺』と唱える音があった。それ以来恒例の贄をとどめ、仏経供養を行ってきた。いままた霊夢のお告げがあって昔にかわらず感応の趣があらたかです。」

⑩そこで参詣した神官や国中の「頭人」等二七人が夢のお告げや聖の教えに従って制文を書き、連判を加えて記録した。

ここで有力者の夢の中にでてくる性空とは何者なのでしょうか? 
 
性空 書写山
性空
『ウィキペディア(Wikipedia)』には、次のように記します。
性空(しょうくう、延喜10年(910年) - 寛弘4年3月10日(1007年3月31日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。
36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。霧島山や肥前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。
980年(天元3年)には蔵賀とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列。
早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があった。
1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳(80歳)で亡くなった。
性空について整理しておくと、次の通りです。
①はじめ比叡山に登って天台教学を学んだが、それにあきたらず、
②日向国霧島山や筑前日背振山に籠り、「山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者」で
③播磨国の書写山円教寺を開いた山林修験者

霧島にある 性空上人の像と墓: ジオパークくろちゃんのブログ
霧島の性空像 山林修行者の姿

詞書後半には「永観二年に叡山の堪延と性空上人が一緒に参詣して、七日間説教し、不殺生戒を授けられた。」とあり、性空が三島社に参詣したと書かれています。

しかし、「性空上人伝」や「一乗妙行悉地菩薩性空上人伝」などには、三島神社に立ち寄ったことは書かれていません。ただ、円教寺の縁起や「播磨国飾磨郡円教寺縁起等事」には、筑前国背振山で修行をした後に書写山に帰る途中で伊予国に立ち寄ったこと、書写山で二、三年を過ごした後、もう一度伊予国へ赴いたことが記されています。どちらが本当か分かりませんが、伊予国との縁が全くなかったわけではないようです。三島社の側では、著名な参詣人の一人として性空の名を記録にとどめています。
 このように詞書の後半は、人々の夢想を借りる形で、性空らによる贄の停止が語られます。これをうけて一遍が再び贄を停止するという話が、桜会などの祭礼とからめて語られています。

伊予三島社に性空が登場してくる話は、どのようにしてできあがったのでしょうか?。
またそれは何を意味しているのであろうか。
実は、詞書の性空の話も、三島社の縁起を取り込んで書かれたものであること研究者は指摘します。
 
 伊予三島神社の根本史料としては、三島社の末社にあたる臼杵三島神社(愛媛県内子町)の「臼杵本三島神社記録」(「臼杵本」と略記)が挙げられます。

内子町臼杵 三島神社 | 何処へ行くんだ! 土佐瑞山
臼杵三島神社(愛媛県内子町)

この冒頭に「伊予国臼杵谷」、「伊予国寒水山三島大明神御垂跡」とあることからもわかるように、もともとは臼杵三島神社の縁起として書き始められています。それが二条目以降は本社三島社の緑起・記録に替わります。内容は年代ごとに本家・領家・地頭・神主の変遷を簡略に記した記事が大部分です。そのほかにも、性空や能因の参詣、社殿の焼失や造営などについても記述しており、領主の変遷を中心にしながら三島社にかかわるできことをまとめた縁起・記録です。
 末尾には、「芋時正和五年□月廿八日三嶋殿御人之時以其御本写畢」と記されています。ここから正和五年(1316)に三島社の「御本」を写したものであることが分かります。内容的にも、正和五年の書写として矛盾はないことから、三島社に伝えられていた縁起・記録を鎌倉末期に写したものと研究者は判断します。もちろん縁起・記録なので問題はありますが、少なくとも鎌倉期の記述については、かなり信憑性が高いとされます。
  「臼杵本」には、性空のことが次のように記されています。
円融院御時永観二年岬二月廿二日、播摩国書写山性空上人詣□堪延阿闇梨講師不殺生戒経誦□七日内第三日有神感云、随喜々々、随云□殺可依之、供僧妙尊并社司等国方就披露申、被止生贄之供、引替仏経供養、桜会井二季御祭仏経供養自是始ル
意訳変換しておくと
  円融院の永観二年二月廿二日、播摩国の書写山性空上人と叡山の堪延上人が一緒に参詣して、七日間説教し、不殺生戒を授けられた。その時に、御宝殿が鳴動して『随喜、随云不殺』と唱える音があった。そこで参詣した社僧や神官や国中の「頭人」は相談して、恒例の贄を止めて、仏経供養を行うことにした。これが桜会や御祭仏経供養の始まりである。

  また、「三島社縁起」にも、次のように記されています。
永観二年二月廿一日、書写聖(性)空上人堪然大徳相共、毎日之生贄鹿一頭被申止、同和尚請講四巻経給剋、自天稲種雨下、取其種令耕作、至当代無断続、毎年二月九日、号桜会御神事、四月十一日祭魚鳥懸給、玉澄和尚奉請、致精誠御祈祷在之

意訳変換しておくと
永観二年二月廿一日、書写山の聖(性)空上人と叡山の堪然大徳がともに当社にやってきて、生贄に鹿一頭を捧げているのを止めるように申し入れた。生け贄にかわって仏講を開き仏典四巻を読経した。すると天から稲の種子が降り、その種を植えて耕作するようになった。これを祝って毎年二月九日に行われる神事を桜会と呼んでいる。4月11日の魚鳥懸給、玉澄和尚奉請、致精誠御祈祷在之

二つを比べて、研究者は次のように考えています。
①表現に違いはあるが、内容はほぼ同じで、もともとは同じ内容の原伝承があること。
②それを異なった形でそれぞれ筆録したのが「臼杵本」や「縁起」であること。
③「聖絵」の詞書も同じようにその原伝承を取り入れつつ書かれたもの

ここで研究者が注目するのは、「臼杵本」と詞書の間にも同じ文言があることです。
それは「臼杵本」の「随喜々々、随云□殺」と、詞書の「随喜、随云不殺」です。ここにも聖戒が縁起や伝承を取り入れる際に、単に神社で耳にしたことを書くのではなく、「臼杵本」など典拠となるものとそばに置いて執筆を進めていたことがうかがえます。聖戒は、縁起だけを題材にして詞書をまとめ上げたのもなさそうです。
もうひとつ研究者が注目するのは、詞書に供僧長観、地頭(代)平忠康などの人物固有名詞が登場してくることです。この二人は何者なのでしょうか?
供僧長観の名は他の史料で確認することはできませんが、三島社の供僧の例としてはいくつかの記述があります。最も古い者は「臼杵本」の中に、永観二年(984)、性空の参詣のとき贄の停止を行った人物として出てくる供僧妙尊です。近世の「御鎮座本縁」は、妙尊は神主為澄の二男で、社辺に一寺を建てて、それがのちの東円坊となり、妙尊が供僧の初めである、と解説を加えています。この時代から三島神社では神仏混淆が始まったことがうかがえます。

 また「臼杵本」は、保延二年(1136)6月に「大宮」を造営したときの供僧が勝鑑で、「院主」と「検校」を兼帯したと記します。そして「御鎮座本縁」は、供僧妙尊と勝鑑が社の傍らに「神供寺」、大通智勝仏等をまつる「仏供寺」を建立し、それ以後上官社家の二男を供僧とするようになったと述べています。 これらを見ると10~12世紀ころの三島社では、神仏習合が進み、供僧が置かれたことがうかがえます。同時に近世三島社では、東円坊や神宮寺など神社に付属する堂舎の起源をこれに求めていたことが分かります。
 その後、一遍参詣の直前の弘安九年(1286)2月に、悲田院領伊予国井於、同船山、角村等での三島社神人の妨を停止させる旨の某御教書が三島庄の神官・供僧等あてに出されています。ここからは東寺の三島社神人たちが、周辺地域で紛争を起こしていたことが分かります。逆に見ると、この頃になると供僧は神官たちは社領の経営に関与して「俗人化」していたことになります。詞書に見える長観も、このような流れのなかに位置づけることができる人物ということになります。
次に、神の「示現」をうけたとされる地頭代平忠康についても見ておきましょう。
まず、地頭代平忠康はどこの地頭なのかということです。これは宣陽門院領三島庄だと研究者は判断します。「臼杵本」は建久二年(1191)に「宣陽門女院、後白河院乙姫宮」が三島庄の本家となったと記します。これは同年十月の長講堂目録のなかに三島庄が含まれていることによって裏付けられます。
 また年未詳ですが、鎌倉期の伊予の荘園の面積を列挙したと思われる伊予国内宮役夫工米未済注文には、「三嶋御領嶋々八十九町一反小」とあります。これが三島庄だと研究者は考えています。これらの島々はのちに三島七島などと呼ばれるようになります。三島社自体も、そのような荘園支配の対象となっていたことを押さえておきます。多くの有力寺社が神社と社領が一体となって荘園化し、皇室や権門によって領知されるという形態が三島社でも見られるのです。
三島庄の地頭について「臼杵本」は、次のように記します。
建久八年四月四日三嶋地頭始御補任 北条四郎嗣相模守御事也、御代官藤七盛房下着上下廿九人
ここには建久八年(1197)に北条義時(鎌倉幕府の第2代執権)が最初の地頭となり、代官藤七盛房がやってきたと記します。建久八年といえば、義時は25歳で、時政の子として幕府内での存在感を大きくしていたころです。この記述を、そのまま信じることはできません。
「臼杵本」には次のような記述もあります。

正治二年 地頭改大夫志人道殿息進士信平代官□云有慶下着。

3年後の正治二年(1200)に地頭が大夫志入道殿息進士信平に改められ、やはり地頭代がやってきたというのです。ここに登場する大夫志入道は、この頃『吾妻鏡』に、「大夫属入道」とか「大夫属入道善信」などと記される初代の門注所執事三善康信である可能性があると研究者は指摘します。三善康信については

 「京都の下級文人貴族・三善氏の生まれで、叔母が頼朝の乳母であった縁から、流人時代の頼朝に、頻繁に使者を送り京都の情勢を伝えていました。以仁王(もちひとおう)の敗走と源氏追討の命令が出ていることを頼朝に伝えたのも康信で、奥州に逃げるよう助言しています。鎌倉に下向してからは、頼朝のもと、京都でのキャリアを生かし、文書作成などの実務や寺社関係の職務に携わります。さらに訴訟機関の問注所が設置されると、初代の執事(長官)に就任し、鎌倉幕府の組織の整備に貢献しました。承久の乱が起こると、京都へ進撃することを提案した大江広元を後押しし、勝利に貢献しました。」


三善氏と三島社とのかかわりについては、「予章記」に次のように記します。

三嶋七嶋社務職等ハ全ク他ノ競望不可有事ナレトモ、京都ョリ善家ノ者ヲ進止セラルヽ事、誠無念ノ次第也、善三嶋卜云ハ飯尾末葉也、

意訳変換しておくと
  (伊予)三嶋七嶋社務職等は、領地関係に含まれないはずなのに、京都から三善家の者がやってきて管理することになった。誠に無念の次第である、善家の者と云うのは飯尾氏の末葉である、

ここからは、次のような情報が得られます。
①河野通信から三島社の社務職が没収されたこと
②京都より善家の者が派遣されて三島七島の社務職を握ったこと
③善家の者とは飯尾の末葉である
②について、「予章記」が成立した戦国になると三善氏と三島社の関係は、このように説明されていたのかもしれません。こうして見ると、三善康信の子・信平が地頭職を持っていて、その代官が現地にやってきていた可能性は高いと研究者は考えています。
以上から、平忠康が大三島とその周辺地域を荘域とする宣陽門院領三島庄の地頭代としてやってきていたと研究者は判断します。
 「臼杵本」によると、貞応二年壬午正月一日に火災が発生した際、宝殿以下の建物といっしょに「地頭殿政所」も類焼したと記します。ここからは、地頭が三島社の社殿の一角に政所を設けて、支配拠点としていたことがうかがえます。もう少し、突っ込んで云うと、三島社自体が地頭の支配拠点となっていたということです。このような例は、中世の寺社ではよくあることは以前に善通寺の例でお話ししました。
詞書後半の物語に出てくる「桜会」について見ておきましょう。
この神事の開始については、次のように説明されていました
A 「臼杵本」は、永観二年に性空と堪延が参詣して鹿の贄を止めさせた際に、それにかわって仏経供養としての桜会を始めた
B 「縁起」は、その時に天から稲の種子が降り、それを以て耕作したこと、毎年二月九日に祭礼が行われていた。
この桜会についてはかつては、「縁起」の記述を参考にして、京都紫野の今宮神社で行われる「やすらい祭り」と同じで、豊作を祈り、同時に疫病退散を析る神事であったとされてきました。 しかし、近年発見された文政十三年(1830)成立の今宮神社の社家記録には、次のように記されています。

四月桜会之御祭礼八日より十五日迄、寺社家参詣仕、神前江献新茶、御祈祷相勤、寺家ハ経陀羅尼読誦法楽仕候、同十五日より二十三日迄本地仏(大通智勝仏)開帳寺社家出合申候
意訳変換しておくと
  四月の桜会の御祭礼は八日より十五日迄、寺社家が参詣し、神前に新茶を奉納し、祈祷相勤、社僧は経陀羅尼を読誦し法楽を奉納する。同十五日より二十三日まで本地仏(大通智勝仏)の開帳に寺社両家が立ち会う。

ここには、日時は『聖絵』や「縁起」の記す2月9日から4月にかわっていますが、「寺社家」出仕の祭礼がおこなわれています。そこでは神前への献茶、法楽のための読経、本地仏大通智勝仏の開帳が行われていたことが分かります。
 あらゆるいのちを大切にする不殺生という願いが、性空と一遍を結ぶ糸として見えて来ます。性空と一遍とが霊的に通い合っている、深い関係を伝えたかったとしておきます。

大通智勝仏
伊予三島神社の本地仏大通智勝仏
以上からは、研究者は次のように判断します。
①供僧長観や地頭代平忠康は、実在の人物であり三島社や三島庄の歴史の中にきちんと位置付けられること。
②桜会も聖戒が実際に見聞した祭礼であったこと
③ 詞書後半は、三島社での聖戒の実際の体験と、縁起・記録類に残されていた性空の参詣伝承を結び付けて新しい物語を作ろうとしたもの
それでは聖戒は、わざわざ性空と一遍を結びつけるような物語を伊予三島社の場面に挿入したのでしょうか。
それは、聖戒が生前の一遍が性空に対して熱い思慕の念を持っていたことをよく知っていたからだと研究者は考えています。一遍の性空に対する思いは、性空が開いた書写山円教寺に前年に参詣したときの記事からうかがえます。それを詞書は次のように記します。

DSC03542書写山圓教寺
書写山圓教寺(一遍上人絵伝)

弘安十年(1287)の春に円教寺を訪れたとき、 一遍は本尊を拝見することを望んだが、寺僧は「久住練行の常住僧」のほかは例がないとしてこれを拒んだ。そこで一遍は、本尊の意向を仰ぎたいと四句の偶文と一首の歌を棒げた。すると本尊が受け入れたのであろうか、寺僧の許しが出て本尊を拝することができた。また一遍は、「上人の仏法修行の霊徳、ことはもおよひかたし、諸国遊行の思いて、たヽ当山巡礼にあり」と述べて一夜行法して、翌朝去って行った。

ここからは、書写山参詣に対する一遍の思いがひとかたならぬものであったことがうかがえます。人跡未踏の深山幽谷をめぐりながら修行を重ね、ついに書写山で悟りを開いた性空の生涯と自らの遊行の生涯を重ね合わせるところがあったのもしれません.
また兵庫観音堂での臨終の直前に、 一遍が所持の書籍等を自ら焼き捨てたことはよく知られています。
その前に持っていた経典の少々を渡したのも書写山の寺僧でした。ここにも性空と書写山に対する思いが込められていたのかもしれません。.
 このような一遍の想いをよく知っていた聖戒は、一遍が三島社参詣しただけでは終わらすことができなかったのでしょう。性空と伊予三島社との関係、具体的には桜会の起源を通じての性空と一遍の結びつきだったとしておきます。
以上を整理しておきます。
①一遍上人絵伝の伊予三島社(現大山祇神社)参拝場面の詞書後半には、性空が桜会を始めたことが記される
②性空は比叡山で修行した後に、九州の霧島などで山岳修行を行い、播州書写山を開いた。
③一遍は性空に対して、強い尊敬の念を抱いていた。
④それを知っていた聖戒は、性空が伊予三島社にやってきて鹿の生け贄を奉納することを止めさせたエピソードを挿入した。
⑤そこに登場する僧侶や地頭は、実在性の高い人物で、当時の三島社の置かれた状況が見えてくる。⑥例えば、地頭としてやってきた平忠康は、三島社の境内に地頭舘を置いた。
⑦ここからは三島社自体が荘園支配の対象となっていて、皇室や権門によって領知されていたことことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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DSC03562宮島厳島神社の鳥居
安芸の宮島(一遍上人絵伝)

一遍は、正応元年(1288)12月、伊予三島社(現大山祗神社)に参詣します。前年の弘安十年(1287)春に天王寺を出発して播磨の教信寺、書写山円教寺、備中の軽部の里、備後の一宮、安芸の厳島神社を経て四国に渡った最後の遊行の途中でした。一遍は河野氏出身ですが、その河野氏が信仰していたのが三島社です。今回は、伊予三島社が一遍上人絵伝の詞書にどのように書かれているのかを見ていくことにします。テキストは「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」です。まず、詞書の前半部を見ておきましょう。
① 正応元年(1288)、 一遍は安芸の厳島神社から伊予に渡り、菅生の岩屋への巡礼、繁多寺での三日間の参籠を経たのち、12月16日に三島社に参詣した。
② 三島の神の「垂跡の濫腸」を尋ねると、文武天皇の大宝3年3月23日に跡を垂れたという。それ以降、五百余年を過ぎ八十余代の天皇の御代を守ってきた。
③一遍の始祖越智無窮は、当社の氏人であり、幼いころから老境にいたるまで朝廷に仕えて武勇を事とし、我が家にあっては「九品の浄行」をつとめとした。その念仏往生の様子は往生伝に記されている。
④一遍の祖父通信は、神の精気をうけて三島社の氏人となった人物で、参詣のたびに神体を拝した。
⑤一遍は、「遁世修行」の道に出た身ではあるけれども、三島の神の垂跡の徳をあおぎ、読経念仏を捧げて島を去った。
これが詞書に書かれていることです。この中には、三島社の縁起を取り入れて記された部分があると研究者は指摘します。その部分を見ておきましょう。
まず②の、文武天皇の大宝三年二月二十三日に三島の神が垂迹したのが三島社の創始であるとする記述です。この記述は「伊予三島社縁起」に、次のように記されています。

「同(文武)三年癸卯初宮作在之、大山積明神卜申也、鳴」

これを取り入れたものです。研究者が注目するのは、その際に詞書がわざわざ「依一説」と注記を加えていることです。ここからは、次のような諸説があったことを作者は知っていたことがうかがえます。
①「臼杵本」の大宝元年開創説 「文武天皇御時大宝元年并大明神御社改」で、
②「予章記」(長福寺本)の大宝二年説

此時(大宝二年)奇瑞有テ三嶋大明神造営アリ、(中略)
大宝二年妊文武天皇御尋二付テ、当社ノ深秘ヲ奏達有ル間勅号ヲ被成、正一位大山積大明神卜額二被銘之」

このように三島神社の起源については諸説があった中で、詞書はわざわざ「依一説」と注記しているのです。これは作者の聖戒が、漫然と三島社の縁起を取り入れて記述したのではなく、異説のあることを知った上で、それらを検討したうえでこの説を取り上げたことを示していると研究者は考えています。そうだとすると詞書の構想を練る聖戒の傍らには、いろいろな異説を記したメモがあったのかもしれません。
 もうひとつここで注意しておきたいのは、「三嶋大明神・大山積大明神」と記されていることです。   
大権現・大明神は、修験者(社僧)によって管理運営されていたことを示します。
神仏習合時代、神宮寺の最盛期には二十四坊があったと伝えられます。
『大三島詣で』は、その二十四坊の名を、次のように記します。

泉楽坊・本覚坊・西之坊・北之坊・大善坊・宝蔵坊・東円坊瀧本坊・尺蔵坊・東之坊・中之坊・円光坊・新泉坊・上臺坊・山乗坊・光林坊・乗蔵坊・西光坊・宝積坊・安楽坊・大谷坊・地福坊・通蔵坊・南光坊
 
『本縁』は、天正五年(1577)には「検校東円坊、院主法積坊、上大坊、地福坊」の四坊しか残っていなかったと記します。南北朝から戦国期に多くの坊が廃絶したようです。ここが修験者たちの拠点で、伊予三島社は神仏混淆時代には、社僧の管理下にあったことを押さえておきます。
話を元に戻します。
聖戒が詞書を記すにあたって参考にしたのは、三島社の縁起ばかりではないようです。
③に記された一遍の先祖・越智益男についての伝承などもそうです。越智益男は、河野氏の家譜や系図では、河野氏の祖とされる伊予皇子の17代の孫とされる人物です。この人物についての詞書は次のように記します。
聖(一遍)の嚢祖越智益窮は、当社(三島社)の氏人なり。幼稚の年より、衰老の日にいたるまて朝廷につかえては三略の武勇を事とし、私門にかへりては九品の浄業(念仏阿弥陀信者)をつとめとす。鬚髪をそらされとも、法名をつき十成をうけき。ついに臨終正念にして往生をとけ、音楽そらに聞こえて尊卑にはにあつまる。かるかゆへに名を往生伝にあらはし、誉を子孫の家におよほす‥

意訳変換しておくと
一遍)の始祖・越智益窮は、三島社の氏人である。幼年時代から、年老いるまで朝廷につかえ武勇を誉れとした。また私的には九品の浄業(念仏阿弥陀信者)であり、剃髪はしなかったが、法名を持ち、十成を受けた。臨終正念して往生をとげた際には、天から迎えの仏たちがやって来て音楽が聞こえ、尊卑大勢に見送られた。そのため彼の名前は往生伝にも載せられている。今もその誉は子孫の家に及んでいる。

整理すると次の通りです。
①三島神社の氏子であったこと
②優れた武人であったこと
③同時に、九品の浄業を勤める熱心な念仏信者であったこと
④念仏信者として往生伝に名前が載っていること

④の往生伝とは「日本往生極楽記」のことで、10世紀後半に養滋保胤が著したものです。この中の越智益窮の項には詞書とよく似た、次のようなフレーズが出てきます。

「費髪を剃らずして早く十戒をうけて」(極楽記)
 → 「費髪をそらざれども、法名をつき十成をうけき一(詞書)、
「村里の人、音楽あるをききて」(一極楽記一) 
 → 音楽そらにきこえて尊卑にはにあつまる」(詞書)
ここからも聖戒が「日本往生極楽記」を、そばにおいて引用しながら詞書の執筆を進めていたことがうかがえます。
もうひとつは一遍の祖父通信に関する記述です。これも河野氏に伝えられた伝承が取り入れられています。
一遍 河野家系図

河野通信は、源平争乱時には平家の優勢な瀬戸内海にありながら、いちはやく早く源氏方に味方して兵を挙げ、源氏の西国支配に大きく貢献します。その戦功によって、伊予での支配体制を固めます。ところが承久の乱では、京方に味方して奥州に流されていまいます。そこで、祖父通信は無念の死を迎えます。
祖父の墓参りに奥州を訪ねたシーンが一遍聖絵の中にも載せられていることは以前にお話ししました。

祖父河野通信の墓
祖父・河野通信の墓参り 奥州江刺郡(一遍上人絵伝)
幼いころの一遍と、祖父通信との間にどのような交流があったのかは分かりません。一遍や聖戒の時代になると、一族の中の偉大な祖父として語られるようになっていたようです。それが一遍を遠く奥州江刺郡にまで墓参りに訪ねる原動力となっていたのでしょう。
 通信に関する記述は長いものではありませんが、興味深い内容があると研究者は指摘します。
例えば、「祖父通信は、神の精気をうけて、しかもその氏人となれり」などという記述です。これは「予章記」などの河野家伝承を受けたものです。その伝承について「予章記」は、次のように記します。

通信の父通清は、その母が三島大明神の化身である大蛇によって身ごもって誕生した。そのため通清は、「其形常ノ人二勝テ容顔微妙ニシテ御長八尺、御面卜両脇二鱗ノ如ナル物アリ、小シ賜テ
背溝無也」

「その躰は常人よりも大きく、身長八尺(240㎝)、顔と両脇には鱗のようなものがあった。

「予章記」の家伝では、母親が三島大明神に通じて誕生したのは通信の父通清となっています。ところが「聖絵」では通信自身に変更されています。これには2つの説が考えれます
①「聖絵」が通信と通清を混同した
②鎌倉期には『聖絵』の記すような家伝があって、それが戦国期になると「予章記」に見られるような形に変化していった
本当はどうであったのは分かりませんが、聖戒が河野氏に関する詳しい知識を持っていて、それを取り入れたことは間違いないことを押さえておきます。
このように詞書の前半部を見て分かることを整理して起きます。
①聖成が三島社の縁起や、河野氏の家伝を積極的に取り入れて詞書を作成したこと
②その際の聖成の執筆態度は、伝聞情報をもとに思いつくままに記すことはしていないこと。
③関連するメモや文献をおいて、それを参照しながら筆を進めるという、かなり考証的な態度であったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」
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