瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:二天門

    2-20 金毘羅金堂・本社 金毘羅参詣名所図会1
象頭山御本社(金毘羅参詣名所図会)

金毘羅大権現の歴史を見ていくための資料として私が参考にしているのが金毘羅参詣名所図会です。すでに丸亀港から金毘羅門前までは見てきましたので、今回は仁王門から本堂までの部分を意訳して載せておくことにします。興味のある方は、御覧下さい。

金毘羅参詣名所図会 仁王門
金毘羅参詣名所図会図 絵図68 二王門 坊中 桜並樹 
上の左図内の挿入文章には、次のように記されています。

門内の左右は石の玉垣が数十間打続き、其の内には奉納の石灯籠所せきまでつらなれり。其の後には桜の並樹ありて花盛りの頃は、吉野初瀬も思ひやらるゝ風色あり。
   花曇り人に曇るや象頭山                      讃陽木長
右Pの仁王門以下を意訳変換しておぃます。


  二王門  一の坂を上った所にあって、金剛神の両尊(仁王)を安置する。この門にかかる象頭山の額は、竹内二品親王の御筆である。
桜馬場  二王門をくぐると、左右に桜の並木が連なる。晩春の頃は花爛慢として、見事な美観である。金毘羅十二景の内の「左右の桜陣」とされている。この桜並木の間には、数多くの石灯籠や石の鳥居がある。

直光院 万福院 尊勝院 神護院
 4つの院房が桜の並木の右にある。並木の左後ろは竹藪である。
別業(べつぎょう)  
 坂を上って左の方にあるのが別業で、本坊金光院の別荘である。これも金毘羅十二景のひとつで「幽軒梅月(ゆうげんの梅月)」と題されている。

2


金毘羅参詣名所図会.jpg 金光院
      象頭山松尾寺金光院(金毘羅参詣名所図会)
これも意訳変換しておくと
象頭山松尾寺金光院  
古儀真言宗、勅願所、社領三百余石。
本坊 御影堂 護摩堂  その他に院内に諸堂があるが、参詣は許されず立入禁止である
御守護贖(まもりふだ)所 方丈の大門を入ると正面に大玄関があり、その右方にある。ここで御守護(お札)を受けることができる。護摩御修法を願う人は、ここに申し込めば修法を受けることができる。
神馬堂 本坊の反対側の左側にあり、高松藩初代藩主の松平頼重公の寄進建立である。神馬の姿は木馬黒毛の色で、高さは通例通りである。

茶堂 神馬堂の側にあり、常接待で参拝客を迎え、憩いの場となっている。
黒門表書院口 石段を上りって右の方にあり、これが本坊表口である。この内の池が十二景の「前池躍魚(ぜんちのよくぎょ)」である
     「前池躍魚」                       林春斉
同隊泳テ其楽  自無香餌投  焼岩縦往所  活溌□洋也

2-17 愛宕山
愛宕山(金毘羅参詣名所図会)

愛宕山遥拝所 道の左に愛宕山遥拝所があり、そこから向こうの山の上に愛宕権現が見える。
多宝塔  石段を少し登ると右の方にあり、五智如来を安置している。
二天門・多宝塔 金毘羅参詣名所図会
金堂竣工直前の金堂前広場(金毘羅参詣名所図会1847年)
この部分を見て気づくことを挙げておきます。
①金堂(現旭社)がほぼ完成していること。
②二天門(現賢木門)の位置が移されたこと。
③多宝塔から広場下の坂は、石段の階段がまだできていないこと。
④金堂前も石畳化されておらず、整備途上であること。

萬燈籠 金毘羅参詣名所図会

萬燈堂 多宝塔のそばにあり、本尊大日如来を安置する。常灯明である。
大鰐口  萬燈堂の縁にあって、径が約四尺余、厚さ二尺余、重すぎて掛けることができない。宝暦(1756)五乙亥年二月吉日、阿州木食義清と記す。阿波の木食(修験者)の寄進である。
古帳庵之碑  万灯堂の前にあり、天保十四年癸卯春正月建立されたもので、次のように記す
のしめ着たみやまの色やはつ霞 折もよしころも更して象頭山  江戸小網町 古帳庵
同裏 
天の川くるりくるりとながれけり あたまからかぶる利益や寒の水      古帳女

このあたりからの展望はよくて、十二景の「群嶺松雪(ぐんれいのしょうせつ)」と題される。
     群嶺松雪                林春斉
尋常青蓋傾ヶ 項刻玉竜横  棲鶴失其色  満山白髪生
同     幽軒梅月  是は前に記せし別業の事なり。
起指一斉光開 座看疎影回 高同低同一色 知否有香来


2-18 二天門

意訳変換しておくと
   二天門  多宝塔の右方にあり、持国天、多門天を安置する。天正年間に、長曽我部元親が建立したことが棟木に記されているという。
長曽我部元親の姓は、秦氏で信濃守国親の子である。そのは百済国からの渡来人で中臣鎌足の大臣に仕え、信州で采地を賜りて、姓を秦とした。応永の頃に、十七代秦元勝が土佐の国江村郷の領主江村備後守を養子にして長岡郡の曽我部に城を築きて入城した。その在名から氏を曽我部と改めたという。ところが香美郡にも曽我部という地名があって、そこの領主も曽我部の何某と名乗っていたので、郡名の頭字を添へて長曽我部、香曽我部と号するようになった。元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。後に秀吉に降参して土佐一州を賜わった。数度の軍功によって、天正十六年任官して四品土佐侍従秦元親と称した。
鐘楼  二天門をくぐった内側の右側にある。先藩主・生駒家の寄進である。十二景の「雲林の洪鐘」と題されている。
十二景之内 雲林洪鐘
 近似万事轟  遠如小設有鳴  風伝朝手晩  雲樹亦含声
四段坂・本地堂 金毘羅大権現
金毘羅大権現 四段坂の本地堂(金毘羅参詣名所図会) 
本地堂 金毘羅参詣名所図会

 意訳変換しておくと
本地堂 鐘楼から少し歩くと石の鳥居があり、その正面が本地堂である。本尊 不動明王。
石階(きざはし) 本社正面の階段の両側には石灯籠が数多く建ち並ぶ。
行者堂  石段中間の右方にあり、役(行者)優婆塞神変大菩薩を安置する。
大行司祠 当山の守護神であと同時に、毘沙門天、摩利支天の相殿の社でもある。
金銅鳥居 石段の中間、右方にあり、役行者堂の正面になる。
御本社  東向き、麓より九丁、山の半腹にあり。
金毘羅参詣名所図会 本堂
象頭山本社(金毘羅参詣名所図会)
 〔図70〕二王門内より御本社の宝前へかけ国守をはじめ、諸侯方よりの御寄付の灯籠彩し。紫銅あり、石あり、いずれも御家紋の金色あたりに輝き、良工しばしば手を尽せり。
切て上る髪の毛も見ゆ象頭山繋かるゝ如くつとふ参詣      絵馬丸
夕くれや烏こほるゝ象頭山

金毘羅大権現 本社 拝殿
金毘羅大権現 拝殿(金毘羅参詣名所図会)
金毘羅大権現 
その祭神は未詳であるが、三輸大明神、素蓋鳴尊、金山彦神と同心権化ともされる。
拝殿   その下を通行できるようになっていて、参拝者はここを通って、拝殿を何回も廻って参拝する。拝殿右の石の玉垣からの眺望は絶景で、多度津、丸亀の沖、備前の児島まで見渡すことができる。

金毘羅本社よりの展望
本社からの展望(金毘羅参詣名所図会)

左の方に番所があり、開帳を願う人は、ここに申し出れば内陣より金幣が出され頂かせらる。本開帳料は、銀十二匁半、半開帳は六匁。
本社 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現の本社周辺(讃岐国名勝図会 1854年)

三十番神社  本社の左方の石段の上にある。前に拝殿があり、本社の内陣にも近いので、このあたりでは不遜な行為は慎むこと。
経蔵  拝殿に並んであり、高松藩主松平頼重公の御寄付による大明板の一切経が収められている。釈迦、文珠、普賢、十六羅漢、十大弟子并に博大士(ふだいし)、普成、普建などを安置している。
紫銅碑(からかねのひ) 経蔵の傍にあって、上に「宝蔵一覧之紀」とある。下に細文の銘があるが略する。寛文壬寅二月日記之とあり、後に詳しく述べる。
観音堂  経蔵より石段を少し下りた右方にある。堂内には、絵馬が数多く掛っている。宿願のために参籠する者も、本社に籠ることは許されていないので、この観音堂にて通夜をすることになる。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現の観音堂(讃岐国名勝図会)

金毘羅参詣名所図会 金毘羅観音堂2
金毘羅観音堂周辺(金毘羅参詣名所図会) 
本尊 正観世音菩薩 弘法人師真作
前立 十一面観世音菩薩 古作也。左右三十三体の尊像あり。
狩野占法眼元信 馬の画本額 堂内北の脇格子の内にあり。
土佐守藤原光信 祇園会の図奉額 同所に並ぶ。
後堂(うしろどう)
金剛坊尊師・宥盛の霊像を安置する。像は長三尺寸計り、兜中篠繋(ときんすずかけ)で、山伏の姿で岩に腰をかけた所を写し取ったものと云ふ。この金剛坊というの約は300年前、当山の院主であった宥盛僧正という僧のことである。権化奇瑞で死後、金毘羅大権現のの守護神となった。その像は初めは、本尊の脇に並べて安置していた。ところが、崇りが多くて衆徒が恐れるようになった。そこで尊霊に伺うと「我は当山を守護するので山の方に向けよ」と云ったので、今のように後堂に移した。
 先年250年遠忌に当たって、法式修行のついでにご開帳で参拝人に尊像を拝せた所、三日の間、開扉するとたちまち晴天かき曇って激しく雷雨となり、閉帳すると直ちに、また白日晴天にもどったという。

絵馬堂  
観音堂南の脇にあり、難風の危船漂流の図、天狗の面などの額、本願成就の本袖が数多く架かっている。その傍に奉納の紫銅の馬もある。

金毘羅金堂 金毘羅参詣名所図会

阿弥陀堂 絵馬堂の傍にあり、千体仏が安置されている。これも高松藩の松平頼重公の寄進である。
孔雀明王堂 阿弥陀堂に並び、仏母人孔雀明王を安置する。
籠所(こもりしょ) 孔雀堂の傍にある。参籠のために訪れた参拝人は、ここで通夜する。
神輿堂  観音堂の前にある。
観音坂  石段である。荒神社 坂の傍にあり。
蓮池  観音堂の南にあり、御神事の箸をこの池に捨るという。
金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現金堂(讃岐国名勝図会)
金堂  観音坂の下、南の方にあり。境内中、第一の結構荘厳もっとも美麗なり。
本尊  薬師瑠璃光如来 知日証人師の御作。

以下には金毘羅大祭が続きますが、これはまたの機会にします。
ここまで見てきて、気づいたり思ったりしたことを挙げておきます。
①近世の象頭山は神仏混淆の霊山で、金毘羅大権現と観音堂が並んで山上にはあった。
②山上の宗教施設に仕えていたのは神官ではなく社僧で、金光院主が封建的小領主でお山の大将であった。
③お札も金光院の護摩堂で社僧が祈祷したものが出されていた。
④金光院初代院主・宥盛は、神として観音堂背後に奉られていた。
⑤本地堂や役行者をまつるお堂などもあり、修験道の痕跡がうかがえる。
⑥金毘羅参詣名所図会(1847年)出版のために、暁鐘成が大坂から取材のためにやって来た頃は、金堂の落成間際で周辺整備が行われ、石垣・石畳・玉垣が寄進され、白く輝く「石の伽藍空間」が生まれつつあった時代でもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金毘羅参詣名所図会(暁鐘成 著 草薙金四郎 校訂) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献  
金毘羅参詣名所図会 歴史図書社
香川県立図書館デジタルライブラリー 金毘羅参詣名所図会
https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/digitallibrary/konpira/komonjo/detail/DK00080.html
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1 金毘羅 賢木門狛犬1
元親が寄進した賢木門(逆木門) 長宗我部元親の一夜門とされる

讃岐のおける長宗我部元親の評判はよくありません。江戸時代に書かれた讃岐の神社仏閣の由来は「長宗我部元親の兵火により焼かれる」「そのため詳しい由来は不明」という記録で埋め尽くされています。今回はどうしてそうなったのかを探ってみたいと思います。テキストは「 羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」

2-20 金毘羅金堂・本社 金毘羅参詣名所図会1
金毘羅大権現 (金毘羅参詣名所図会 19世紀半ば)
以前に元親が松尾寺に仁王(二天)堂(現賢木門)を寄進したことをお話ししました。
その後、万治三年(1660)には、京仏師田中家の弘教宗範の彫った持国・多門の二天が安置されると、二天門と呼ばれるようになります。この門の変遷を押さえておきます。
 松尾寺仁王堂 → 二天門 → 逆木門 → 賢木門

この二天門について大坂の出版者である暁鐘成が刊行した金毘羅参詣名所図会には、次のように記します。

2-18 二天門
金毘羅参詣名所図会(1847年) 金毘羅大権現の二天門の記述
 二天門  多宝塔の右方にあり、持国天、多門天を安置する。天正年間に、長曽我部元親が建立したことが棟木に記されているという。
長曽我部元親の姓は、秦氏で信濃守国親の子である。そのは百済国からの渡来人で中臣鎌足の大臣に仕え、信州で采地を賜りて、姓を秦とした。応永の頃に、十七代秦元勝が土佐の国江村郷の領主江村備後守を養子にして長岡郡の曽我部に城を築きて入城した。その在名から氏を曽我部と改めたという。ところが香美郡にも曽我部という地名があって、そこの領主も曽我部の何某と名乗っていたので、郡名の頭字を添へて長曽我部、香曽我部と号するようになった。元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。後に秀吉に降参して土佐一州を賜わった。数度の軍功によって、天正十六年任官して四品土佐侍従秦元親と称した
ここには長宗我部元親のことが「元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。」と評価されています。

ところがそれから数年後に、讃岐出身者による『讃岐国名勝図会』は、二天門の建設経緯を次のように記すようになります。

長宗我部元親と二天門 讃岐国名勝図会
長宗我部元親と二天門(讃岐国名勝図会 1854年)
上を書き起こしておくと
「(長宗我部元親の)兵威大いに振ひて当国へ乱入し、西郡の諸城を陥んと当山を本陣となし、軍兵山中に充満して威勢凛々として屯せり。その鋒鋭当たりがたく、あるいは和平して縁者となり、あるいは降をこいて麾下に属する者少なからず。
 これによりて勇猛増長し、神社仏閣を事ともせず、この二天門は山に登る要路なれば、軍人往来のさわりなれどとて、暴風たちまちに起こり、土砂を吹き上げ、折節飛びちる木の葉数千の蜂となりて元親が陣営に群りかかりければ、士卒ども震ひ戦き、その騒動いはんかたなし。
 元親は聡明の大将なれば神罰なる事を頓察し、馬より下りて再拝稽首して、兵卒の乱妨なれば即時に堂宇経営仕らんと心中に祈願せしかば、ほどなく風は静まりけれども、二天門は焼けたりけり。時に天正十二年十月九日の事なり。
 ここにおいて数百人の工匠を呼び集め、その夜再興せり。然るに夜中事なれば、誤りて材を逆に用ひて造立なしける。ゆえに世の人よびて、長宗我部逆木の門といへり。今の門すなはちこれなり」
意訳変換しておくと
「(長宗我部元親の)は兵力を整えて讃岐へ乱入し、讃岐西部の諸城を落城させるために金比羅を本陣とした。そのため軍兵が山中に充満して、威勢は周囲にとどろいた。そのため、ある者は和平を結び婚姻関係を結んで縁者となり、ある者は、軍門に降り従軍するものが数多く出てきた。
 こんな情勢に土佐軍は増長し、神社仏閣を蔑ろにして、金比羅の二天門は山に登る際の軍人往来の障害となると言い出す始末。 すると暴風がたちまちに起こり、土砂を吹き上げ、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親の陣営を襲った。兵卒たちの騒動は言葉にも表しがたいほどであった。
 元親は聡明な大将なので、これが神罰であることを察して、馬から下りて、神に頭を下げ礼拝して、兵卒の狼藉を謝罪し、即時に堂宇建設を心中に祈願した。すると、風は静まったが、二天門は焼けてしまった。これが天正十二年十月九日の事である。
 そこで数百人の工匠を呼び集め、その夜一晩で再興した。ところが夜中の事なので、用材の上下を逆に建てってしまった。そこで後世の人々は、これを長宗我部の「逆木の門」と呼んだ。これが今の二天門である。

これを要約しておくと
1 元親軍が金比羅を本陣となし「軍兵山中に充満」していたこと。
2 軍隊の往来の邪魔になるので、二天門(仁王門)を壊そうとしたこと。
3すると暴風が起き、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親陣営に襲いかかってきたこと
4元親はこれを神罰を理解して、兵士の非礼をわびて、謝罪として堂宇建立を誓った
5 元親は焼けた二天門を一晩で再興したが、夜中だったので柱を上下逆に建ててしまった。
6 そこで人々はこの門を長宗我部の「逆木の門(後に賢木門)と呼んだ。

土佐軍が進駐し、二天門を焼いたので長宗我部元親が一夜で再建したという話になっています。

金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
   金刀比羅宮 金堂と二天門(仁王堂)(讃岐国名勝図会)

しかし、この讃岐国名勝図会の話は、事実を伝えたものではありません。フェイクです。
二天門棟札 長宗我部元親
長宗我部元親の仁王堂棟札

仁王堂建立の根本史料である棟札の写しがあるので、みておきましょう。表(右側)中央に、次のようにあります。

上棟奉建松尾寺仁王堂一宇 天正十二(1584)年十月九日

そして大檀那として長宗我部元親に続いて、3人の息子達の名前があります。また、大工・小工・瓦大工・鍛治大工などを多度津・宇多津から集めて、用意周到に仁王門を建立しています。長宗我部元親は、4年前に讃岐平定を祈って、矢を松尾寺に奉納しています。その成就返礼のために建立されたのが仁王堂なのです。ここからは、「一夜の内に建てた」というのは「虚言」であることが分かります。す。また、元親が建立寄進するまでは仁王門はありません。ないもの焼くことはできません。元親が火をかけさせたというのは、全くの妾説です。元親は讃岐統一の成就、天下統一の野望を願って、松尾寺の仁王堂を建立寄進したのです。
  ここで私が考えたいのは、次の2点です。
①近世後半の讃岐には、仁王堂建設に関する正しい情報がどうして伝わらなかったのか? 
②事実無根の「逆(賢)木門」伝説がなぜ生まれたのか?
②についてまず見ていきます。『讃岐国名勝図会』の中にも、もうひとつ長宗我部元親と金毘羅の記事が載せられていいます。。

長宗我部元親 讃岐国名勝図会
長宗我部元親 神怪を見る図(讃岐国名勝図会)
ここでは内容は省略しますが、この物語は香川庸昌が書いた『家密枢鑑』(近世中期)が初見で、そこには次のように記されています
元親大麻象頭山に尻而陣取タリシガ 南方ヨリ夥しく礫打、アノ山何山ゾト問フ処 知ル兵ノ金毘羅神ナリト云フ。元親然レバ登山シテ為陣場、此山二陣ヲ移シタ其夜ヨリ元親狂乱七転八倒シテ、ヤレ敵が来ル 今陣破ルル卜乱騒シ、水モ萱モ皆軍勢二見ヘタリ。土佐守ノ重臣ドモ打寄り連署願文ニテ元親本快ヲ願フ。為立願四天王卜門ヲ可建各抽丹誠祈誓シケル無程シテ為快気難有尊神卜、土州勢モ始メテ驚怖セリ」
意訳変換しておくと
長宗我部元親は、大麻象頭山の麓に陣を敷いたところ、南方から多くの小石が飛んでくる。元親が「あの山は、なんという山か」と問うと、金毘羅神の山だと云う。そこで、元親は金毘羅山に登って陣場とした。
 この山に陣を移した夜に、元親は狂乱し七転八倒状態になって「敵が来ル、今に陣破ルル」と騒ぎだし、水さえも軍勢に見える始末であった。そこで、重臣たちが集まって、連署願文を書いて元親の本快を願った。その際に、回復した時には四天王門を建立することを誓願したところ、しばらくすると元親は快気回復した。そこで土佐勢たちも有難き神と驚き怖れた。
要約しておくと
① 元親が金毘羅神の神威で狂乱状態になったこと
② 元親回復を願って四天王門建立の願掛けを行ったこと

この物語の影響を受けて『讃岐国名勝図会』の物語は書かれます。
そこには金毘羅神に乱暴しようとした元親の軍勢が、神罰によって暴風・蜂の大群に襲われた物語となり、あわてて柱を逆さにして建てた逆木伝説が追加されたようです。ここには松尾寺創設過程で長宗我部元親が果たした大きな役割は、まったく無視されています。知らなかったのかもしれません。どちらにしても長宗我部元親を貶め、金毘羅大権現の神威を説くという手法がとられています。200年以上も立つと、このように「歴史」は伝承されていくこともあるようです。
 これは「信長=仏敵説」と同じように、「長宗我部元親焼き討説」が数多く讃岐で語られるようになった結果かもしれません。
江戸時代の僧侶の「元親=仏敵説」版の影響の現れとしておきます。同時に、讃岐の民衆たちのあいだに「土佐人による讃岐制圧」という事実が「郷土愛」を刺激し、反発心がうまれたのかもしれません。それらが「元親=仏敵説」と絡み合って生まれた物語かもしれません。どちらにしても讃岐の近世後半の歴史書や寺社の由来書は、元親悪者説が多いことを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①1579年)10月に、元親が「讃岐平定祈願」のために天額仕立ての矢を松尾寺に奉納。
②1584年10月9日に、長宗我部元親は「四国平定成就返礼」のために仁王堂(現二天門)を奉納
③長宗我部元親は、松尾寺(金比羅)を四国の宗教センターとして整備・機能させようとしていた。
④それが後の生駒家や松平家との折衝でプラスに働き大きな保護を受けることにつながった。
⑤ところが讃岐の近世後期の書物は「元親=仏敵説」で埋められるようになり、正当な評価が与えられていない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「 羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」
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道隆寺本堂
道隆寺本堂
  四国霊場の道隆寺は、中世の多度郡の港である堀江の管理センター的な機能を持ち、備讃瀬戸に向けて開けた寺院でした。この寺には多くの中世文書が残されていますが、その中に「道隆寺御影堂作事人日算用帳」という帳簿があります。これは、天文21年(1552)に御影堂再建にかかった経費を記録した帳簿です。この中には「番匠・かわら大工・人夫手伝い・番匠おかひき(大鋸引)・鍛冶」などの職人が登場してきます。今回は職人たちに焦点を当てて、御影堂再建を見ていくことにします。

番匠
職人絵図 番匠(大工)

御影堂再建にかかった経費は15貰421文です。そのうちの工賃が次の通りです。
番匠101人に  5貫50文
かわら大工23人 1貫150文 
番匠(大工)と瓦職人一人あたりの手間賃が50文、
これ以外に飯米として、それぞれに1升2合が支払われ、酒が振る舞われています。また人夫手伝いとして767人に一人当たり4合、かわら取り付け人夫に3合、しほたへの人夫に六合の飯米が支払われています。ここからは建築経費の内、職人への手間賃が約4割を占めていたことが分かります。それ以外にも飯米・酒代の支出が必要だったようです。
  まず驚かされるのが職人の数の多さです。「番匠(大工)101人、瓦大工23人」とあります。最初は延人数なのかと思いましたが、そうではないようです。これだけの職人が関わっていたのです。これらの大工職人を、どのようにして集め、組織していったのでしょうか? 今の私には分からないことだらけです。
5.瓦屋根の細部の名称-鬼瓦とか(屋根の雑学知識)
 
瓦大工については、馴染みが薄いので補足しておきます
それまでの瓦屋根は、軒先の瓦に釘を打って瓦が滑り落ちるのを防いでいました。これだと腐食した釘が釘穴の中で膨張して瓦を割ったり、修理のとき瓦を破損したりしてしまいます。そこで中世の瓦職人が考えだしたのが、釘を使わなくても滑り落ちない軒瓦です。軒先の木に丈夫な引っ掛かり部分をつけ、そこに瓦に設けた突起部分を引っ掛ける仕組みになっています。これは瓦の歴史の上で画期的な発明です。瓦大工が瓦を焼いていたかどうかは分かりませんが、瓦を葺く専門の大工であったようです。もちろん当時は、瓦葺きの屋根は寺院などの限られた建物に限られていましたから、瓦の需要はそれほど多くはなかったはずです。相当の広範囲のエリアを活動地域としていたことが考えられます。

帳簿には、次のようにも記されています。
「三貫三百文 大麻かハらの代」    大麻からの瓦代金
「八百八十文 しはくのかハらの代」     塩飽からの瓦代金
ここからは御影堂の瓦は、善通寺の大麻と塩飽で4:1の割合で焼かれた瓦が使われたことが分かります。塩飽からは海を越えて船で運ばれ、大麻からは川船で運ばれたのでしょう。同時に大麻や塩飽には、瓦を製造職人がいたことがうかがえます。大麻は大麻山の麓に開けたエリアで、古墳時代には積石塚古墳の集中地であり、忌部氏の氏寺とされる大麻神社が鎮座します。近くに善通寺があり、古くから善通寺で使用する瓦の製造を行う職人集団が存在していたことは、以前にお話ししました。

塩飽本島絵図
塩飽本島周辺(下が北)

塩飽は、九亀市の塩飽本島のことです。本島にも瓦職人集団がいたことがうかがえます。
 塩飽は近世になると、船大工や宮大工で活躍する職人を多数輩出します。高見島などは、幕末の戸籍調査によると戸数の1/3が大工でした。かつては、船大工として活躍していた人たちが、元禄期以後の「塩飽造船不況」で、宮大工に「転職」したとも云われました。しかし、それ以前から塩飽には「宮大工」の流れを汲む職人たちがいたような気配がします。どちらにしても、中世末の塩飽本島には、「建築総合組合」的な集団があり、備讃瀬戸沿岸からの寺社のさまざまな建築物発注に応える体制が出来あがっていたのではないでしょうか。これが近世における塩飽の宮大工の広域的な活動基盤になっていると私は考えています。
  下表は中世の道隆寺明王院の院主が導師として出席した遷宮・供養寺の一覧表です。

道隆寺 本末関係
道隆寺明王院が導師として出席した遷宮・供養寺の一覧表
導師として出席とすると云うことは、道隆寺がこれらの寺社の本寺にあったということになります。
6塩飽地図

そのエリアは塩飽本島から白方、詫間、荘内半島、粟島・高見島など備讃瀬戸にある寺社と本末関係にあり、末寺の信者集団も傘下に組み入れていたことにあります。大きな寺院が専属の建築者集団を持っていたように、中世の地方有力寺院も本末グループ全体で「建築職人集団」を持っていた可能性もあると私は考えています。
 そうだとすると、道隆寺グループの末寺の改修工事等は、道隆寺と契約関係にある建築集団が行っていたことになります。道隆寺は、讃岐守護代の香川氏の保護を受け発展していました。それに連れて道隆寺に属する職人集団も成長して行くことになります。こうして16世紀には、道隆寺を中心とする職人集団が香川氏のお膝的の多度津や、塩飽衆の拠点である本島には形成されていたという仮説は出せそうです。
200017999_00161道隆寺
道隆寺 江戸時代後半
道隆寺の御影堂建立から約30年後のことです。
土佐の長宗我部元親が讃岐平定の祈願と成就御礼のために、金毘羅(松尾寺)に三十番社と仁王堂を寄進しています。
天正十一年(1583)、讃岐平定祈願のために、松尾寺境内の三十番神社を修造。
天正十二年(1584)6月  元親による讃岐平定成就
天正十二年(1584)10月  元親の松尾寺の仁王堂(二天門)を建立寄進
当時の金毘羅(松尾寺)は、長宗我部元親が土佐から招聘した南光院(宥厳)が、院主を任されていました。「元親管轄下の松尾寺体制」で、元親の手によって、松尾寺の伽藍整備が進められます。そして、讃岐平定が完了した年に、成就御礼の意味が込めて寄進されたのが仁王堂(門)です。二天門棟札が讃岐国名勝図会には、次のように載せられています。

二天門棟札 長宗我部元親
金毘羅大権現二天門棟札(讃岐国名勝図会)
右側が表、左側が裏になります。まず表(右)側を、書き写したものを見ていきましょう。
真ん中に
「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
左右に
大檀那大梵天王長曽我部元親
大願主帝釈天王権大法印宗仁
とあって、その間には元親の息子達の名前が並びます。天霧城の香川氏を継いだ次男の香川「五郎次郎」の名前も見えます。ここで注目したいのは、その下の大工の名です。
「大工 仲原朝臣金家」
「小工 藤原朝臣金国」
仲原と藤原という立派な姓を持つふたりが現場責任者で棟梁になるのでしょう。
左側(裏)には、「別当権大僧都宥厳(南光院)」の下に、6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくる坊や寺は、「土佐占領下」の土佐修験道のメンバーだと私は考えています。
 その下には、職人たちの名前が次のように記されています。
「鍛治大工  多度津 小松伝左衛門」
「瓦大工  宇多津 三郎左衛門」
「杣番匠□□    圓蔵坊」
多度津や宇多津の鍛治大工や瓦大工が呼ばれていたことが分かります。多度津は、長宗我部元親と同盟関係にある香川氏の拠点です。松尾寺の伽藍整備には、香川氏配下の職人が数多く参加しているようです。これらの職人は、香川氏の保護を受けていた職人たちとも考えられます。この時期の松尾寺の伽藍整備が、実質的には香川氏によって進められたことがうかがえます。
その左には、次のように記されています。
「象頭山には瓦にする土はないのに、本尊が安置されている寺内から(瓦作りに相応しい)粘土があらわれた。この奇特に万人は驚いた。これも宥厳上人の加護である。」
 ここからは新たに発見された粘土を用いて、周辺に作られた瓦窯で瓦が焼かれたことがうかがえます。先ほど見た道隆寺の御影堂の瓦は、大麻や塩飽から運ばれ来ていました。それが松尾寺の場合には、「瓦大工 宇多津三郎左衛門」が請負って、松尾寺山内の土を使って焼かれたとあります。

 中世末には地方の有力寺院の建立には、多くの職人が組織され働いていたことが分かります。その組織がどのようにして組織され、運営されていたかについてを語る史料は、讃岐にはないようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号
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