瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:二村郷


埋蔵物遺跡の調査報告書の冒頭部分を読むのが楽しみな私です。そこには、専門家が分かりやすく、さらりと周辺地域の歴史や遺跡を紹介していて、私にとっては教えられることが多いからです。テキスト「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」です。

まず、研究者は遺跡の立地する丸亀平野と土器川の関係を、次のように要約します。
丸亀平野の概要

岸の上遺跡 土器川扇状地

丸亀平野の扇状地部分

丸亀平野と土器川の関係
丸亀平野と土器川の関係
金倉川 土器川流路変遷図
弥生時代の丸亀平野は、暴れ龍のように幾筋もになって流れる土器川や金倉川の間の微高地に、ムラが造られていたこと、その水源は、川ではなく出水であったことは以前にお話ししました。それも台風などで濁流がやってくる押し流されてしまいます。その中で、継続的に成長したのは、旧練兵場遺跡群の善通寺王国だけでした。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
幾筋もにも分かれて流れ下る、金倉川や土器川と旧練兵場遺跡群

丸亀平野 地質図拡大版
土器川の旧流路跡と氾濫原
土器川の大束川への流れ込み
                   土器川の右岸氾濫痕跡図
まず、飯野・東二瓦礫遺跡の位置を確認しておきます。

飯野町東二の今昔地図比較
明治37年測量と現在の地図の遺跡周辺地図
飯野山西麓の式内社の飯神社の下を南北に流れるのが赤山川です。その川が髙松自動車道の高架の下をくぐるあたりに、この遺跡は位置します。よく見ると、この地点で赤山川から北東の津之郷盆地へ、用水路が分岐されています。これがあとあとに大きな意味を持ってくることになります。

飯野・東二瓦礫遺跡2
飯野・東二瓦礫遺跡
10㎝等高線で見ると、飯野山から北西に張り出した尾根がすとんと切れるあたりになります。
報告書には、遺跡周辺のことについてもポイントを押さえて簡便に記してくれます。これを読むのも私の楽しみです。時代ごとの周辺の遺跡変遷を見ていくことにします。

飯野・東二瓦礫遺跡周辺遺跡図
飯野・東二瓦礫遺跡の周辺遺跡図

まず当時の地形復元を行っておきましょう。
当時の海岸線復元以上からは、宇多津の大門から津の山、そして笠山を結ぶ附近までは海の湾入があり、鵜足の津、福江の浦と呼ばれていました。また阿野北平野も、金山の突端江尻から雌山を結ぶ線位までも海であり大屋富へかけて松山の津と呼ばれていたことは以前にお話ししました。

坂出 古代地形復元
宇多津・坂出周辺の古代海岸線(青い部分が海進面)

弥生時代
飯野・東二瓦礫遺跡から見上げる甘南備山の青ノ山や飯野山は、神の降臨する甘南備山だったことが考えられます。②の青野山山頂遺跡は、中期後葉の高地性集落がありますが、発掘調査は行われていないので「詳細不明」です。また、㉖の飯野山西麓遺跡からは、後期の竪穴建物9棟のほか、溝や段状遺構が確認されています。竪穴建物には、径10mの大型建物や焼失建物も確認されています。山住み集落のようですが、平地部の集落と、どんな関係があったかについては、よく分かりません。
 ここで注目しておきたいのは、大束川河口の津之郷盆地の西側に形成された川津遺跡です。ここは、坂出ICの工事のために広面積の発掘が行われ、時代を超えて多くの人々が生活したエリアであったことが分かってきました。津之郷盆地周辺の前方後円墳群も、このエリアの首長墓だと私は考えています。古代におけるひとつの中心地が津之郷盆地なのです。

古墳時代
初期の前方後円墳として、青の山の南に突き出た台地の上に吉岡神社古墳が登場します。前方部を山の頂上の方に向け、後円部を平野の方に向けた全長55,6mの前方後円墳で、次のような特徴を持ちます。

吉岡神社古墳2
A 土器川下流域唯一の前方後円墳で
B 南北主軸の竪穴式石室から、銅鏃16点、鉄鏃4点、刀子片、ヒスイ製勾玉1、碧玉製管玉1、土師器直口壺2などの副葬品が出土
C 江戸時代の乱掘時に筒形銅器の出土
D 被葬者は、土器川河口部の流通拠点を掌握した首長層
津之郷盆地丸亀平野
           津之郷盆地の遺跡
津之郷盆地をめぐる前方後円墳を見ておきましょう。

善通寺・丸亀の古墳編年表
善通寺・丸亀・坂出の古墳編年表
①聖通寺山頂には、川原石で築かれた積石塚の聖通寺古墳
②続いて蓮尺の小山丘陵上には、市の水源配水塔設置のため破壊されてしまいましたが、銅鏡2面を出した蓮尺茶臼山古墳
③連尺茶臼山古墳と同じ丘陵には、小山古墳があり、ふたつ並んで津の郷盆地を見下す。
④金山北峯の頂上に積石塚前方後円墳のハカリゴーロ古墳
⑤その稜線を300メートル下ったところにこれも積石塚の前方後円墳・爺ケ松古墳
⑥飯の山の薬師山にも同程度の前方後円墳
こうして見ると、津之郷を基盤とする勢力は、首長墓としての前方後円墳を作り続けています。それも初期は、讃岐独特の積み石塚です。それにとって替わるのが津之郷盆地の入口に築かれた吉岡神社古墳のようにも思えます。吉岡神社古墳の盟主が「ヤマト連合」の盟主として擁立されたのか、派遣されたのかは諸説あるようです。しかし、津之郷勢力はこれ以後は前方後円墳を築くことはありません。そして古墳時代後期になると、阿野北平野に大型横穴式石室をもつ巨石墳が造営され始めます。これが古代綾氏とされます。その勢力と、津之郷勢力はどんな関係にあったのでしょうか?。連続性で捉えるべきなのか、津之郷勢力に、阿野北平野勢力(綾氏)がとって替わったのか? そのあたりのことは、以前にお話ししましたので、ここではこれ以上は踏み込みません。 

そして後期になると、次のように多くの古墳が青野山と飯野山に築造されます。
E 飯野山北西麓の㉓の飯野東分山崎南遺跡で、V期1段階の円筒埴輪が出土
F 近接して中期末~後期前葉の㉕の飯野古墳群
G 後期後半には、青ノ山や飯野山を中心に多数の横穴式石室墳が築造
H 盟主墳は青ノ山古墳群の玄室長4mの④の竜塚古墳(青ノ山7号墳)と、宝塚支群4号墳
I 飯野山西麓1・2号墳は、いずれも玄室長3mの横穴式石室墳で、須恵器や玉類のほか、馬具等の副葬品が出土

飯野・東二瓦礫遺跡に関係する勢力のものは、I の飯野山西麓の古墳群のようです。
この古墳群は、飯野山への登山公園整備のために発掘され、駐車場の隅に移転復元されています。その説明版を見ておきます。
IMG_6608

説明版を要約していくと
①弥生時代の周壕を持つ竪穴住居群20数棟。同様な高地立地住居群が川津東山田遺跡でも出土
②弥生時代の竪穴住居を利用した3期の古墳

IMG_6606
IMG_6607
飯野山西麓遺跡2号墳
飯野山西麓3号墳
飯野山西麓遺跡3号墳
これらの3つの古墳は、飯野・東二瓦礫遺跡の勢力が残したもののようです。しかし、阿野北平野の巨石墳(古代綾氏?)に比べると見劣りがします。政治的な中心地は阿野北地方に移っていった感じがします。なお、この他に生産遺跡には、TK209~TK217型式併行期の須恵器を焼いた⑨の青ノ山1号窯があります。
飯野・東二瓦礫遺跡俯瞰図 
飯野山西麓の「弥生の広場」からの丸亀平野
ここからは土器川を越えて拡がる丸亀平野が一望できます。正面に見える平らな山が大麻山(象頭山)です。その北面に善通寺勢力がいました。ある意味では、土器川を挟んで善通寺勢力と対峙していたといえます。
古代の飯野・東二瓦礫遺跡周辺は、鵜足郡二村郷に属していました。

讃岐郷名 丸亀平野
古代の二村郷周辺の郷名

 正方位に配された直線溝からは、8世紀後葉~9世紀前葉の須恵器が出土しています。
丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割(これがすべて古代に耕地化されたわけではないことに留意)
この地割図を見ても、飯野山の西麓や麓の平野部は空白地帯(条里制未実施)です。土器川の氾濫原や、海進した海によって耕地化できなかったことがうかがえます。一方、この遺跡の条里型地割に合致する坪界溝からは、11世紀代の黒色土器碗が出土しています。このエリアは、土器川の氾濫原なので、条里型地割の施行は、津之郷盆地よりも遅れたと研究者は考えています。

丸亀平野 条里制地図二村2
二村郷周辺の条里制地割(空白部は、工事未実施部分)

 鵜足郡は八条まであったとされます。そうすると、丸亀平野の条里復元案の鵜足・那珂郡境を八条西端として折り返すと、SD29の溝は、五条と六条の条界溝となるようです。それはSD29と近接した所に掘られた現在の水路が、東二字瓦礫と東分字神谷の字界となっていることからも裏付けられます。
 また、⑰の法楽寺跡は、出土瓦から古代寺院跡とされ、この周辺にも氏寺を建立するだけの経済力を持った勢力がいたこ、法楽寺跡周辺がその勢力拠点であったことが推測できます。


中世には、大束川河口部の宇多津に守護所が置かれたとされ、二村郷は讃岐の政治的な中枢地域・宇多津の後背地となります。
中世前半期の二村郷については、「泉涌寺不可棄法師伝」等の史料があります。この史料を使って田中健二氏(田中1987)や佐藤竜馬氏(佐藤2000)は、次のように、現地比定や政治的動向を推測しています。

川津・二村郷地図
                   中世の二村郷と二村荘

田中氏の二村荘成立経過説
①二村郷内に立荘された二村庄は、法相宗中興である貞慶が元久年間(1204~6)に興福寺の光明皇后御塔領として立荘したもので、二村郷の七・八両条内の荒野を地主から寄進させることにより成立
②その立荘には、当時の讃岐国の知行国主藤原良経が深く関与した
③嘉禄三年(1227)には、二村郷七・八両条内の耕地部分については、公領のまま泉涌寺へ寄付された
④その土地は、泉涌寺の「仏倉向燈油以下寺用」に充てられた「二村郷内外水田五十六町」である
⑤こうして成立した二村庄と二村郷は、「同一の地域を地種によって分割したもの」である
⑥そのため「両者が混在し」、管理上は「領有するうえで具合が悪い」状態であった
⑦そこで仁治二年(1241)に「見作(耕地)と荒野との種別を問わず」、七条は親康(姓不詳)領(公領)とし、
⑧八条は藤原氏女領(興福寺領)とする「和与」が締結されたこと

丸亀平野 二村(川西町)周辺

 また二村庄の荘域エリアについては、次のように推察します。
⑨「二村荘の荘域は地域的には二村郷七・八両条内の郷域と重複し…その中心地は、…「春日神宮の所在地」との前提から現丸亀市川西町宮西の所在する①春日神社(旧村社)周辺」を想定。
⑩「春日神社の氏子分布は旧西二村であり、「土器川の左岸に限られる」こと
⑪近世の字名「西庄」の分布等より、「興福寺領や泉涌寺領となった二村郷七・八両条とは、二村郷のうち土器川の左岸の地域、すなわち近世の西二村の地であった」と現地比定します。

これに対して、佐藤氏は二村庄と二村郷の現地比定を次のように試みます。
①「七条分以東の二村郷内も親康領(泉涌寺領)に含まれていたとして、土器川西岸域に限定されるとする田中氏説とは見解とは異なる説を提示。
②13世紀以降の興福寺領二村庄については、暦応四年(1341)最後に確認できなくなり、南北朝期に消滅した
③泉涌寺領は文和三年(1354)に同寺へ安堵された後、応仁の乱に際し同寺が焼亡すると、幕府により後花同院の仙洞御料所として、甘露寺親長に預け置かれた
④さらに文明二年(1470)に鞍馬寺へ寄進された
この時代の公領は、実際には国人や守護被官が代官職を請け負っていて、荘園の代官請負制と同じ支配関係に置かれていました。

中世の二村庄については、このあたりにしておいて、次に飯野・東二瓦礫遺跡の中世の建物群を見ていくことにします。
この遺跡には13世紀から複数の建物群が現れます。それが14世紀前葉には方形区画溝に囲まれた屋敷地へと集約されていきます。方形の屋敷地は20m四方と小規模で、完新世段丘崖の縁辺に立地します。これは防御的な意味を伴うのかもものかもしれません。研究者が注目するのは、これら敷地の存続期間が、先ほど見た二村が親康領(泉涌寺領)とされた時期と重なることです。
⑱の川津元結木(もっといき)遺跡でも、方形区画溝に囲まれた13世紀代の屋敷地が出ています。
ここでは南北長は約55mと半町の規模の大きさです。㉒の藤高池遺跡では、飯野・東二瓦礫遺跡に近く、同時代の遺物か採集されていて、その関係がうかがえます。

  ⑦の鍋谷道場跡は、宇多津の浄土真宗本願寺派の西光寺の前身寺院とされます。
西光寺は、信長の石山本願寺攻めに対して、青銅700貫などの戦略物資を石山に運び入れたことで有名です。この時期から宇多津周辺には真宗門徒が組織化され、道場が姿を見せていたことになります。西光寺縁起によれば、承元元年(1207)に法然の讃岐配流の際に草庵を建立したのが始まりで、その後守護細川氏によって伽藍の整備や寺地等が寄進されたこと、それらが戦国期に焼亡し、その後、天文十八年(1549)本願寺證如の弟子進藤長兵衛け宣政(向専)によって再興されたと伝えられます。しかし、実際には向専によって創建されたものと研究者は考えています。
 宇多津が天文十年(1541)頃までに、阿波の篠原盛家の支配下に置かれると、永禄十年(1567)や元亀11年(1571)に篠原氏によって、西光寺への禁制が出されています。西讃地区の実質的な支配権を握った篠原氏から禁制を得ていると云うことは。それを認めさせるだけの勢力・経済力があったことになります。この周辺が真宗本願寺派の丸亀平野での勢力拠点だったことになります。


近世には、東二村として高松藩領となります。
寛永十七年(1640)の生駒領高覚帳で高二千二一二石余、寛永十九年(1642)の小物也は綿199匁3分・銀30匁t茶代)であった(高松領小物成帳)
以上、飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書に書かれた丸亀平野と土器川の概要や、遺跡周辺の歴史についての部分を見てきました。次回は、この遺跡の条里制地割から何がうかがえるかを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」
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讃岐の武将達 飯山町法勲寺に地頭としてやってきた関東の御家人は?

  

    近世の村支配 庄屋
 
近世の藩と村の支配ヒエラルヒーは、高松藩では次のようになります。
 大老―奉行―郡奉行―代官―(村)大庄屋・庄屋ー組頭―百姓
 
讃岐では、名主が「庄屋や政所」と呼ばれました。また、各郡の庄屋を束ねるが大庄屋(大政所)とされました。
ここで、注意しておきたいのは、兵農分離の進んだ近世の村には、原則的には代官以下の武士達は村にいなかったことです。そのため村の支配は、庄屋を中心とする村役人で行われました。そのため村で起こったことは、大庄屋に報告し、代官の指示を仰ぐ必要がありました。これらの連絡・指示・報告等は、すべて文書で行われています。今回は、どの程度のことまでを庄屋は、報告していたのか、その具体的な事例を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」に出てくる法勲寺十河家の文書です。

御用日記 渡辺家文書
        大庄屋渡辺家(坂出市)の御用日記

農業は藩の基本でしたから、村の農作業に関する規制や届け出は、細かいことまで報告しています。

田植え図 綾川町畑田八幡の農耕絵図
綾川町畑田八幡神社の農耕絵馬

例えば、田値えが終了したら庄屋は次のように大庄屋に報告しています。
一筆啓上仕り候。当村田代昨十九日までに無事植え済みに相なり申し候間、左様御聞き置きくださるべく候。以上。
(弘化四年)五月二十日        西二村 香川与右衛門
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。当村西二村(現丸亀市西二村)は、昨日5月19日までに、田植えが無事終了しました。このことについて、報告します。以上。
弘化四(1847)年五月十日        西二村 香川与右衛門
川津・二村郷地図
二村郷
西二村は、飯野山南麓の土器川の西側にあった村です。現在は川西町の春日神社を中心とするあたりになります。西二村のこの年の田植終了日時は、旧暦5月20日だったようです。現在の新暦では、約1ヶ月遅れになるので6月20日前後のことでしょうか。西二村の庄屋香川与右衛門が法勲寺の大庄屋に、田植え完了を報告しています。大庄屋は、鵜足郡南部の各村々からの報告をまとめて、藩の役所へ報告する仕組みだったようです。

葛飾北斎る「冨嶽三十六景」「駿州大野新田」現在の静岡県富士市。、

柴を背負って家路を急ぐ牛たち(葛飾北斎「冨嶽三十六景」の「駿州大野新田(静岡県富士市)」
牛の盗難事件についての報告を見ておきましょう。

一、女牛壱疋
但し歳弐才、角向い高いくらい、勢三尺ばかり
右の牛阿野郡南新居村百姓加平治所持の牛にて、牛屋につなぎこれ有り候所、去月二十五日の夜盗まれ候につき、方々相尋ね候えども今に手掛りの筋これ無く候間、その郡々村々これを伝え、念を入れられ、詮儀を遂げ、見及び聞き及び候儀は勿論、手掛りの筋もこれ有り候や。右の者来たる十日までにそれぞれ役所へ申し出ずべきものなり。
(安永二年)巳七月             御 代 官
右大政所中
  意訳変換しておくと
一、雌牛一頭
 牛の歳は2才で、角は向いあって、高いくらい、勢(せい:身長)90㎝ばかり
この牛は阿野郡南新居村の百姓加平治の牛で、牛小屋につないであった所、先月25日の夜に盗まれた。方々を尋ね探したが、手掛がないので、近隣の郡々村々に聞き合わせを行うものである。ついては、見聞したことや、手掛になることがあれば、10日までに役所へ申し出ること。
安永二(1773)年巳七月             御代官
右大政所中
阿野郡南新居村で雌牛が盗まれたようです。そのことについて郡を越えて代官所から大庄屋(十河家)への情報提供依頼が廻ってきています。書状を受けた十河家の主人は、写しを何通かしたため、それと大庄屋の指示書を添えて、鵜足郡の拠点庄屋に向けて使者を遣わします。受け取った庄屋は、リレー方式で通達書を回覧していきます。その際に、庄屋たちは回覧文書を書写したり、自分の意見などをしたためて対応を協議していくことになります。当時の庄屋たちは文書を通じて頻繁にやりとりしています。ここでは百姓が飼っていた牛が盗まれても、代官に報告が上がり、情報的提供指示が出ていることを押さえておきます。
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の「駿州大野新田」の牛の拡大図
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の柴を背負う牛の拡大図
今度は、土器川に現れた二頭の離れ牛についてです。
一筆啓上仕り候
一、女牛 壱疋
但し毛黒、勢三尺九寸、角ぜんまい、歳八才
一、男牛 壱疋
但し毛黒、勢三尺六寸、角横平、歳八才
右は去る二十四日朝当村高津免川堤に追い払い御座候て、村内百姓喜之助・平七両人見付け、私方へ申し出候間、村内近村ども吟味仕り候えども、牛主方相知れ申さず。もっとも老牛にて用立ち申さず、追い払い候義と相見え申しり候間、何卒御回文をもって御吟味仰せ付けられくださるべく候。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。
 (弘化四(1847)年 二月二十八日          
土器村庄屋            近藤喜兵衛
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候
一、雌牛一頭 毛黒、身長三尺九寸、角はぜんまい、歳は八才
一、雄牛一頭 毛黒、身長三尺六寸、角は横平、歳は八才
この二頭の牛が2月24日の朝、土器村の高津免川堤にいるのを、村内の百姓・喜之助・平七の両人が見付けて、届け出た。村内や近隣の村々に問い合わせしたが、牛の飼主は現れない。もっとも二頭共に老牛で使い物にはならないので、「追い払」ったも思える。とりあえず、御回文を送付しますので、吟味いただいて指示をいただきたい。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。
 (弘化四年(1847)年  .二月二十八日          
土器村庄屋            近藤喜兵衛

土器川の河原に牛が二頭、放れているとの土器村庄屋からの報告です。村人達は異常があればなんでも庄屋に報告せよといわれていたのでしょう。「放れ牛の発見 → 村民の報告 → 庄屋の近隣村への問い合わせ → 大庄屋 」という「報告ルート」が機能しています。

DSC01302
牛耕による田起こし(戦後・詫間)
このことについて大庄屋の十河家当主は、約2ケ月後の「御用留(日記)」に、次のように記します。
御領分中村々右牛主これ無きやと回文をもって吟味致し候えども、牛主これ無き段申し出に相なり候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。  
    (弘化四年)四月二十三日          こなた両人
意訳変換しておくと
高松藩の御領分中の村々に、牛の飼い主について問い合わせを回文(文書)で行った。が、牛の飼主であるとの申出はなかった。このことについて、知り置くように。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。  
    (弘化四年)四月二十三日          こなた両人
 年老いた牛が、土器川に放たれていたことについて、大庄屋は回文(文書)を出して、飼い主の「探索」を行っています。牛は農家の宝であり、年老いた牛については殺さずに河原へ追い放したこともあったようです。
最後に、年中行事の中から農民生活に関係の深いものを見ておきましょう。
立春後の第五の戊(つちのえ)の日を春の社日といい、この日には地神祭が行われていました。
徳島県(「阿波藩」)の「地神さん」の祭礼を見ておきましょう。
地神祭 - 日日是好日
徳島の地神祭(日々是好日 地神祭HP)よりの引用
徳島県内のどの神社(村)に行っても、頂上の石が五角形の「地神さん」が見られる。神社の境内に祀られている事が多い。
寛政2年 藩主:蜂須賀治昭は、神職早雲伯耆の建白を受け、県下全域に「地神さん」を設置させた。「地神塔」を建てると共に、社日には祭礼を行わせた。社日は、春・秋の彼岸に一番近い「戌」の日。その日は、農耕を休み「地神さん」の周りで祭礼を行う。その日に農作業をすると地神さんの頭に鍬を打ち込むことになるといわれ、忙しい時期ではあるが、総ての農家が農作業を休んだ。
「地神さん」の周りには注連縄を張り、沢山の供物が供えられた。時間が来ると、その供え物は子供達に分け与えられる。その日、子供は「地神さん」の周りに集まりお下がりを頂くのが楽しみであった。子供達はこの日のことを「おじじんさん」と呼び、楽しい年中行事の一つとしていた。
日々是好日 地神祭 よりの引用
https://blog.goo.ne.jp/ktyh_taichan/e/3b464e70359f789bb712c67319bd894b
まんのう町新目神社の地神塔
地神塔(まんのう町新目神社)
讃岐鵜足郡の神社で行われた地神祭を見ておきましょう。
口 上
来たる八日社日に相当り候につき、例歳の通り御村内惣鎮守五穀成就地神奈義ならびに悪病除け御祈祷二夜三日修行仕り候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。なおなお村々へも御沙汰よろしく,願い上げ奉り候。以上。
(弘化四年)二月              土屋日向輔
  意訳変換しておくと
来たる2月日は社日に当たるので、例年通りに村内惣鎮守で五穀成就の地神奈義と悪病除の祈祷を二夜三日に渡って(山伏たちが)おこなうことについて、聞き置きくださるようお願いします。なお村々へも沙汰(連絡)よろしく願い上げ奉り候。以上。
弘化四(1847年2月              土屋日向輔

2月の地神祭りに2夜3日に渡って、村内の鎮守で山伏による祈祷祈願が行われたようです。それには神職ではなく、山伏たちが深く関わっていたことが分かります。当時の戸籍などには、村々に山伏の名前が記されています。また、神事をめぐって、社僧や神職・山伏などの間で、いろいろないざこざが起きていたことは以前にお話ししました。ここでは村の神事は、神仏分離以前は山伏たちによって行われていたことを押さえておきます。

春の市は、今では植木市が中心になっています。しかし、江戸時代は農具市だったようです。観音寺の茂木町の鍛冶屋たちが周辺の寺社に出向いて、農具などを販売していたしていたことは以前にお話ししました。鍛冶市の回覧状を見ておきましょう。(意訳)
一筆申し上げ候。来たる3月18日・19日は、栗熊東村住吉大明神の境内で例年通り農具市が開かれる。ついては、このことについて聞き置き、回覧いただきたい。以上。
  弘化四年三月十六日 くり(栗)熊東村庄屋 清左衛門
 栗熊東村の住吉大明神(神社)で、開催される農具市の案内回状の依頼です。各村々の地神祭や農具市などのイヴェントについては、その村だけでなく周囲の村々にも「庄屋ネットワーク」で情報や案内が流され、村人達に伝えられていたことが分かります。このような情報を得て、周辺の多くの人達が市や祭りに参加していたのでしょう。
田植えが終わると虫がつかないように、虫送りが行われていました。
一筆啓上仕り候。しからば当村立毛(たちげ)虫付きに相なり申し候間、王子権現において御祈祷相頼み、来たる四日虫送り仕りたき段、一統百姓どもより申し出候。もっとも入目(いりめ)の義は持ち寄りに仕り侯段とも申し出候。この段お聞き置きくださるべく候。右申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。
(弘化四年)七月一日           庄屋 弥右衛門
意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。しからば当村では稲に害虫がついてしまいました。つきましては、王子権現で(山伏)に祈祷を依頼し、4日に虫送りを実施したいと、百姓どもから申し出がありました。その入目(いりめ:費用)については、各自の持ち寄りとすると申し出ています。この件について、お聞き届けくださるよう申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。
(弘化四年)七月一日           庄屋 弥右衛門
これも十河家に送られてきた虫送り実施の許可願です。どこの村かは書かれていません。当事者同士には、これで分かったのでしょう。こうして見ると、祭りやイヴェントの案内状まで庄屋は作成し、大庄屋に願い出て、地域に回覧していたことが分かります。
  このような業務を遂行する上で、欠かせないのが文書能力でした。
   藩からの通達や指示は、文書によって庄屋に伝達されます。また庄屋は、今見てきたようにさまざまな種類の文書の作成・提出を求められていした。文書が読めない、書けないでは村役人は務まらなかったのです。年貢納税には、高い計算能力が求められます。

地方凡例録
地方凡例録
 地方行政の手引きである『地方凡例録』には、庄屋の資格要件を、次のように記します。
「持高身代も相応にして算筆も相成もの」
石高や資産も相応で、文章や形成能力も高い者)

経済的な裏付けと、かなりの読み書き・そろばん(計算力)能力が必要だというのです。
辻本雅史氏は、次のように記します。

「17世紀日本は『文字社会』と大量出版時代を実現した。それは『17世紀のメデイア革命』と呼ぶこともできるだろう」

そして、18世紀後半から「教育爆発」の時代が始まったと指摘します。こうして階層を越えて、村にも文字学習への要求は高まります。これに拍車を掛けたのが、折からの出版文化の隆盛です。書籍文化の発達や俳諧などの教養を身に付けた地方文化人が数多く現れるようになります。彼らは、中央や近隣文化人とネットワークを結んで、地方文化圏を形成するまでになります。
このような「17世紀メデイア革命」を準備したのが、村役人になんでも報告を求めた、藩の「文書主義」だったのかもしれません。これに庄屋や村役人が慣れて適応したときに「メデイア革命」が起きたことを押さえておきます。これは現在進行中のメデイア革命に通じるものがあるのかもしれません。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯山町史330P 農民の生活」
「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」
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讃岐郷名 丸亀平野
丸亀平野周辺の郷

以前に「讃岐の荘園1 丸亀市川西町にあった二村郷 いつ、どうしてふたつに分かれたの?」を書きました。これについて、次のような点について、もう少し分かりやすく丁寧に説明せよという「リクエスト(?)」をいただきました。
「二村荘ができたときの経過は、どうなのか?」
「どうして二村郷と二村荘に分かれたのか?」
これに応えて、今回は二村荘に立荘過程に焦点をあてて見ていきたいと思います。前回分と重なる部分がありますが悪しからず。また、期待に応えられ自信もありません、重ねて悪しからず。  テキストは「田中健二 讃岐国の郷名荘園について  香川大学教育学部研究報告89号 1994年」です。
川津・二村郷地図
丸亀平野の古代郷名 二村郷周辺
 
律令時代には鵜足郡には8つの郷がありました。
そのひとつが二村郷で「布多無良(ふたむら)」と正倉院へ納入された調の面袋に記されています。
讃岐の郷名
讃岐の郷名
二村郷は、江戸時代には土器川をはさんで東二村(飯山側)が西二村に分かれていました。現在の地名で言えば丸亀市飯野町から川西北一帯にあたります。古代の二村郷は、いつ、どんな理由で東西に分かれることになったのでしょうか?
二村荘が初めて史料に登場するのは暦応四年(1341)11月日の興福寺衆徒等申状案です。その中の仁治2年(1241)2月25日の僧戒如書状に、二村荘の立荘について、次のように記されています。
讃岐国二村郷文書相伝並解脱(貞慶)上人所存事、
副進
上人消息案文、
右、去元久之比、先師上人、為興福寺 光明皇后御塔領、為令庄号立券、相尋其地主之処、当郷七八両条内荒野者藤原貞光為地主之由、令申之間、依有便宜、寄付藤原氏女(故小野法印定勝女也。)時当国在庁雖申子細、上人並親康令教訓之間、去進了、爰当国在庁宇治部光憲、荒野者都藤原氏領也。(今は尊遍領地也)見作者親康領也、雖然里坪交通、向後可有煩之間、両人和与、而不論見作荒野、七条者可為親康領、於八条者加入本田、偏可為藤原氏領之由、被仰下了、但春日新宮之後方九町之地者、雖為七条内、加入八条、可為西庄領也云々者、七条以東惣当郷内併親康領也、子細具見 宣旨・長者官丁請状案文等、彼七八両条内見作分事、当時為国領、被付泉涌寺欺、所詮、云往昔支度、云当時御定、随御計、可存知之状如件、
仁治二年三月弐拾五日            僧戒如
道上 両人御中
意訳変換しておくと
元久年間(1204~6)に、貞慶上人は興福寺の光明皇后が建立された五重塔の寺領とするために、二村郷に荘園を立荘されようとした。当時の二村郷の地主(開発領主)は藤原貞光であったので、協議の上で、七・八両条内の荒野部分を興福寺関係者である藤原氏女(故小野法印定勝の娘)に寄付させる形をとった。当時の讃岐国守にも子細を説明し、了承を得た上で、貞慶上人と親康は七・八条の立荘を行った。こうして、七・八条エリア内では、「荒野は藤原氏領(今は尊遍領)、見作は親康領」ということになった。しかし、これは里坪が混在して、非常に土地管理が困難であった。そこで両人が和与(協議)して、見作荒野に限らず、七条は親康領、八条は藤原氏女領(本田)とすることになった。ただし、「春日新宮」の後方の九町の地は七条内ではあるが八条に加え入れて「西庄」領とした。従って、七条以東の郷内はすべて親康領である
  宣旨・官丁請状案文等にも、二村郷のうち七・八両条内の見作分は、国領(公領)として京都泉湧寺へ寄付されていると記されている。以上が二村荘の当時の御定で、このような経緯を伝えるために書き残したものである。
仁治二年三月弐拾五日            僧戒如
道上 両人御中
この文書に出てくる貞慶(じょうけい)は、法相宗中興の祖と云われています。
解脱上人、貞慶特別展: 鹿鳴人のつぶやき
 
彼が13世紀初頭の二村荘の立荘を行ったことが、ここには記されています。貞慶(久寿2(1155)~ 建暦3(1233)年)の祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は藤原貞憲です。何もなければ彼も貴族としての一生を送ったのでしょう。祖父信西は、保元元年(1156年)の保元の乱の功で一時権勢を得ます。ところが平治元年(1160年)の平治の乱で自害させられ、父藤原貞憲も 土佐に配流されてしまいます。生家が没落したために、幼い貞慶は藤原家の氏寺である興福寺に入るしか道がなくなったようです。こうして11歳で出家し、叔父覚憲に師事して法相・律を学ぶことになります。彼は戒律の復興に努め、勧進僧と力を合わせて寺社復興にも大きく貢献しています。
 一方、法然らの提唱した専修念仏の弾圧側の当事者としても知られています。文治2年(1186年)に、大原勝林院で法然や重源によって行われた大原問答に出席していますし、元久2年(1205年)には『興福寺奏状』を起草し、法然の専修念仏を批判し、その停止を求めてもいます。
 貞慶は、興福寺を中心に活動を展開していました。そのような中で元久年間(1204~6)に、二村郷を聖武天皇皇后の藤原光明子が建立した興福寺五重塔の寺領として立荘しようとします。そこで先ず行ったのが二村郷の七・八条の荒野部分(礫河原)を、開発領主の藤原貞光から興福寺関係者の小野法印定勝女子へ寄付させることでした。領主の藤原貞光は、地元讃岐の古代豪族綾氏の武士化した綾藤原氏の一族です。彼については、後に触れます。

丸亀平野 条里制地図二村
鵜足郡と那珂郡の郡境と土器川

 その上で、二村郷の七・八条の荒野部分が立荘されて興福寺五重塔領となります。この文書の中で、戒如は次のように述べています。

「二村郷のうち七・八両条内の見作分は、現在は公領として京都泉湧寺へ寄付されている」

ここからは、七・八条はまだ国領があったことが分かります。整理しておくと、二村荘には二種類の土地があり、それぞれ所有者が異なっていたと云うことになります
①土器川の氾濫原で、荒地に分類されていた土地 興福寺五重塔寺領
②見作地(耕地)に分類された土地       国領地
 一方、『泉涌寺不可棄法師伝』には、二村荘の国領部分について、次のように記されています。

嘉禄3年(1227)春、泉涌寺の僧俊高が重体に陥った際に、彼に帰依していた入道前関白藤原道家が病床を見舞い、「讃岐国二村郷内外水田五十六町」を泉涌寺へ寄付し、寺用に充てた

 この「水田五十六町」が②の二村郷の見作部分(耕作地)で、国領管理下にあった領地のようです。当時、藤原道家は讃岐国の知行国主でしたから、国守権限にもとずく寄進だったようです。
 その後の文和3年(1354)12月9日の後光厳天皇綸旨には、「讃岐国七条村並二村付けたり四か名」が、泉涌寺へ安堵されています。ここから②は、泉涌寺の寺領となっていたことが裏付けられます。

丸亀平野 条里制地図二村2
土器川左岸の鵜足郡七・八条の荒地に成立した二村荘
空白部が荒地で条里制が未施行エリア

ここでは、二村郷の七・八両条は鎌倉初期にふたつに分けられたこと。その耕地部分は公領のまま泉涌寺領に、荒野部分は立荘されて興福寺領二村荘になったことを押さえておきます。この両者は、同一エリアを荒地と耕地の地種で分割したものですから、当然に所有地が混在することになります。その状況を戒如は次のように述べています。
「荒野は藤原氏領なり、今は尊遍領なり、見作は親康領なり、しかりと雖も里坪交通す」
「里坪」とは、条里の坪のことで、藤原氏女領に属する荒野と親康領に属する耕地がモザイク状に入り乱れていたようです。これでは管理上、都合が悪いので、両者の間で話し合いが行われ次のような分割案が成立します。
①耕作地と荒野の種別を問わず、七条は親康領とし、八条は藤原氏女領とする。
②但し、「春日新宮」の後方九町の地は七条内であるが八条に加え入れて「西庄」領とする。
③従って、七条以東の郷内はすべて親康領となる。
この和解案の結果、藤原氏女と親康とは、どちらも所領内の荒野部分について興福寺へ年貢を納めることになります。こうして、土器川の東側は二村郷、西側の八条は二村荘と呼ばれることになったと研究者は考えています。
香川県丸亀市|春日神社は1000年の歴史がある神社!月替わり御朱印も郵送OK
二村郷産土神と書かれた春日神社 しかし郷社ではない 

鵜足郡8条に成立した二村荘の中心地には、春日大社が勧進され、「春日新宮」と呼ばれるようになります。
藤原氏の氏神さまは春日大社で、菩提寺は興福寺です。藤原氏の荘園が成立すると奈良の春日大社から勧進された神が荘園の中心地に鎮座するのが恒例のことでした。二村荘の場合も、興福寺領の荘園ですから氏神として春日社を祀ったのでしょう。それが現在の丸亀市川西町宮西の地に鎮座する春日神社(旧村社)だとされます。
 江戸時代の西二村は、西庄、鍛冶屋、庄、宮西、七条、王子、竜王、原等の免からなっていました。これをみると春日神社の氏子の分布は土器川の左岸に限られていたことが分かります。これに対し、土器川右岸に位置する東二村(丸亀市飯野町)は、飯野山の西の麓に鎮座する飯神社の氏子でした。古代は同じ二村郷であった東西の二村が、土器川をはさんで信仰する神社が違っているのは、荘園の立荘と関係があったようです。

  さて、二村荘の立荘については次のような疑問が残ります。

①立荘当時の二村郷の状況は、どうだったのか。七・八条だけが荒野部分が多かったのか
②耕地でない荒野部分を荘園化して何のメリットがあるのか
①については、いつものように地図ソフトの「今昔マップ」を検索して、土器川周辺の国土地理院の土地条件図を見てみましょう。丸亀平野は扇状地で、古代にはその上を線状河川がいくつもあり大雨が降ったときには幾筋もの流れとなって流れ下っていたことが分かっています。
丸亀平野 二村(川西町)周辺
丸亀平野土器川周辺の旧河川跡
上図を見ても、現在の土器川周辺にいくつもの河道跡が見え、河道流域が今よりもはるかに広かったことがうかがえます。川西町の道池や八丈(条)池は、皿池でなくて、その河道跡に作られたため池であることが分かります。道池の北側には七条の地名が残ります。

丸亀道池
道池からの飯野山

また、春日神社は八条に鎮座します。確かに、この周辺の七条・八条は、氾濫原で礫河原で開発が遅れたことが予想できます。七・八条エリアは、古代条里制施行も行われていない空白部分が多いようです。それにくらべて土器川右岸は河道跡は見えますが台地上にあり、条里制施行が行われた形跡があります。また、想像力を膨らませると、かつては七・八条に土器川の本流があって、どこかの時点で現在のルートに変更されたことも考えられます。もう一度、条里制施行状況を見てみましょう。
丸亀平野 条里制地図二村2

 空白地帯は条里制が施行されていないところです。
土器川の氾濫原だった七・八条には空白部分が相当あるのが分かります。この部分が最初に立荘され、二村荘となった部分のようです。そして、13世紀初頭には、今まで放置されてきた荒れ地に関しても開発の手が入って行きます。興福寺の貞慶が、二村郷の荒地を荘園化したのも、すでに灌漑などの開発が進められ耕地化のめあすが立っていたのかも知れません。
丸亀市川西町にあった二村庄の開発領主は「悪党」?
いままでは、興福寺という中央の視点から二村荘を見てきました。
こんどは地元の視点から立荘過程を見ていきたいと思います。先ほどの史料をもう一度見てみると、当時の所有者について、次のように記されています。
当郷七八両条内荒野者藤原貞光為地主之由、

 13世紀初頭に鵜足郡二村郷のうち、荒野部分の「地主」は藤原貞光だったことが分かります。藤原を名乗るので、讃岐藤原の一族で綾氏につながる人部かもしれません。当時は荒野を開発した者に、その土地の所有権が認められました。そこで彼は土器川の氾濫原を開発し、その権利の保証を、藤原氏の氏寺で大和の大寺院でもある興福寺に求めます。いわゆる「開発領主系寄進荘園」だったようです。
 未開墾地は二村郷のあちこっちに散らばっていたので、管理がしにくかったようです。そこで寄進を受けた興福寺は、これを条里の坪付けによりまとめて管理しやすいように、国府留守所と協議して庄園の領域を整理しようとします。これは興福寺の論理です。
 しかし、寄進側の藤原貞光にしてみれば、自分の開発した土地が興福寺領と公領のふたつに分割支配され、自分の持ち分がなくなることになります。貞光にとっては、思わぬ展開になってしまいます。ある意味、興福寺という巨大組織の横暴です。
このピンチを、貞光は鎌倉の御家人となることで切り抜けようとします
しかし、当時の鎌倉幕府と公家・寺社方の力関係から興福寺を押しとどめることはできなかったようです。興福寺は着々と領域整理を進めます。万事に窮した貞光は、軍事行動に出ます。1230年(寛喜2)頃、一族・郎党と思われる手勢数十人を率いて庄家(庄園の管理事務所)に押し寄せ、乱暴狼藉を働きます。これに対して興福寺は、西国の裁判権をもつ鎌倉幕府の機関・六波羅探題に訴え出て、貞光の狼藉を止めさせます。貞光は「悪党」とされたようです。

この事件からは次のような事が分かります。
①鎌倉時代に入って、土器川氾濫原の開発に手を付ける開発領主が現れていたこと
②開発領主は、貴族や大寺社のお墨付き(その結果が庄園化)を得る必要があったこと
③その慣例に、鎌倉幕府も介入するのが難しかったこと
④貞光は手勢十数人を動員できる「武士団の棟梁」でもあったこと
⑤興福寺側も、藤原貞光の暴力的な反発を抑えることができず、幕府を頼っていること
⑥二村荘には庄家(庄園の管理事務所)が置かれていたこと。これが現在の春日神社周辺と推測されること
この騒動の中で興福寺も、配下の者を預所として現地に派遣して打開策を考えたのでしょう。どちらにしても、荘園開発者の協力なくしては、安定した経営は難しかったことが分かります。
 
   藤原貞光にとっては、踏んだり蹴ったりの始末です。
 せっかく開発した荘園を興福寺と国府の在庁役人に「押領」されたのも同じです。頼りにした興福寺に裏切られ、さらに頼った鎌倉幕府から見放されたことになります。「泣く子と地頭に勝てぬ」という諺が後にはうまれます。しかし、貞光にとっては、それよりも理不尽なのが興福寺だと云うかもしれません。それくらい旧勢力の力は、まだまだこの時期には温存されていたことがうかがえます。
貞光の得た教訓を最後に挙げておきます
①未開墾地の開発に当たっては慣例的な開発理由を守り
②よりメリットある信頼の置ける寄進先を選び
③派遣された預所と意志疎通を深め、共存共栄を図ること
これらのバランス感覚が働いて初めて、幕府御家人(地頭)としての立場や権利が主張できたのかもしれません。

貴族政権時代の地方在地領主

13世紀から14世紀前半にかけては、讃岐国内でこのような実力行使を伴った庄園内の争いが多発しています。それを記録は「狼藉」「悪党」と治者の立場から記しています。しかし、そこからは開発領主としての武士たちの土地経営の困難さが垣間見えてきます。その困難を乗り越えて、登場してくるのが名主たちなのでしょう。
以上をまとめておくと
①律令時代の二村郷は土器川を、またいで存在していた
②そのうちの鵜足郡七・八条は土器川左岸にあり土器川の氾濫原で条里制が施行されない部分が荒野として放置されていた。
③鎌倉時代初頭に鵜足郡七・八条の荒野開発をおこなった開発領主が藤原貞光であった。
④彼は開発領地を興福寺に寄進し、寄進系荘園として権益確保を図った。
⑤ところが興福寺は、荘園管理のために混在していた荒地を一括して、八条エリアを荘園領地とすることを国領側と協議しまとめた。
⑥この結果、開発領主の藤原貞光の権益は大きく侵害されることになった。
⑦そこで藤原貞光は、実力行使に出たが、興福寺から六波羅探題に提訴され敗れた。
こうして、丸亀川西町の中世のパイオニアであった藤原貞光は、「悪党」として記録に残ることになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

          土器川で二つに分けられた二村郷 
讃岐国郡名

律令時代には鵜足郡には8つの郷がありました。そのひとつが二村郷で「布多無良(ふたむら)」と正倉院へ納入された調の面袋に記されています。二村郷は、江戸時代には土器川をはさんで東二村(飯山側)が西二村に分かれていました。
現在の地名で言えば丸亀市飯野町から川西北一帯にあたります。
二村郷は、いつ、どんな理由で東西に分かれることになったのでしょうか?
川津・二村郷地図

 二村郷に荘園が初めてが現れるのは13世紀半ばのことです。
 荘園が立てられた事情は、仁治二年(1241)三月廿五日の僧戒如書状案(九条家本「振鈴寺縁起」紙背文書)に次のようにあります。
 讃岐国二村郷文書相伝片解脱上人所存事
   副進  上人消息案文
右、去元久之比、先師上人為興福寺 光明皇后御塔領
為令庄号立券、相尋其地主之処、当郷七八両条内荒野者 藤原貞光為地主之由、令申之間、依有便宜、寄付藤原氏 女了、皿鸚賜 于時当国在庁雖申子細、上人片親康令教訓之間、去進了、妥当国在庁宇治部光憲、荒野者藤原氏久領也、
皿準見作者親康領也、雖然里坪交通、向後可有煩之間、両人和与、而不論見作荒野、七条者可為親康領、於八条者加入本田、偏可為藤原氏領之由、被仰下了
 但春日新宮之後方九町之地者、雖為七条内、加入八条可為西庄領也云々者、七条以東惣当郷内併親康領也、子細具見 宣旨・長者宿丁請状案文等、彼七八両条内見作分事、当時為国領、被付泉涌寺欺、所詮、云往昔支度、
云当時御定、随御計、可存知之状如件。
    仁治二年三月廿五日       僧戒如
 進上 両人御中
①二村荘は法相宗中興である笠置山の解脱上人(貞慶)が興福寺の光明皇后御塔領として立荘した。
②その方法は国庁の抵抗を排除して二村郷の七・八両条内の荒野を地主(藤原貞光)から寄進させることにより寺領した。
③ところが鵜足郡の7・8条の荒地は藤原氏領になったが,耕作地は親康という状態で「里坪交通」で領地でたがいに交わっていてわずらわしかった。ちなみに「里坪」とは条里の坪のことです。
④そこで、両者の「和与」(和解契約の話しあい)により,見作(耕地)・荒野を問わず7条は親 康領,8条は藤原氏領とした。
丸亀平野と溜池
このようにして鵜足郡8条に成立した荘園の中心地が、「春日新宮」と研究者は考えているようです。
藤原氏の氏神さまは春日大社、菩提寺は興福寺ですから藤原氏の荘園が成立すると奈良の春日大社から勧進された神が荘園の中心地に鎮座するようになりました。西二村郷の場合も、興福寺領の荘園ですから春日社を祀ったのでしょう。
 それが現在の丸亀市川西町宮西の地に鎮座する春日神社(旧村社)だとされます。
江戸時代の西二村は、西庄、鍛冶屋、庄、宮西、七条、王子、竜王、原等の免からなっていました。これをみると春日神社の氏子の分布は土器川の左岸に限られていたことが分かります。これに対し、土器川右岸に位置する東二村(丸亀市飯野町)は、飯野山の西の麓に鎮座する飯神社の氏子でした。古代は同じ二村郷であった東西の二村が、土器川をはさんで信仰する神社が違っているようです。
1丸亀平野の条里制


なぜ、西二村の人たちだけが春日神社の氏子となったのでしょうか?
それは、先ほど述べたように興福寺領となったのは土器川の西側の七・八両条(=西二村郷)だけだったからでしょう。鵜足郡の条里は、常山ー角山ー聖通寺山を結ぶ線を一条として始まります。そして東から順番に八条まで引かれていました。それは、現在の地名に「土器村西村免八条」とか川西町金山に八丈池があることからも分かります。
  また、丸亀南中学は昭和57年に太夫池を埋め立てた上に建っています。この大夫池は古くから「傍示池」とよばれ、鵜足郡と那珂郡の郡界を示す「榜示」(標識)が立っていたところと伝えられています。ここから丸亀南中と八丈池を結んだ線が鵜足郡の8条で、那珂郡との群界という事になるようです。
jyouritonankaidou29hukugenmap300
 
こうしてみると、宮西に所在する春日神社は八条に位置することになります。春日神社のすぐ南には字西庄という地名が残り、東隣は字七条です。
ここからも興福寺領や泉涌寺領となった二村郷七・八両条とは、二村郷のうち土器川の左岸の地域、すなわち近世の西二村(=川西町)だったことが分かります。そのため、右岸の東二村の地は興福寺とは関係ないので春日社を祀ることはなかったのでしょう。
 そして、興福寺領の荘園となった二村荘は、中世の動乱の中で悪党「仁木蒲次郎」の「押横」を受けているのをなんとかしてくれという史料を最後に、記録からは姿を消していきます。おそらく、南北朝時代に消滅したのでしょう。そして、名主や武士達の支配する地域へと姿を変えていったのでしょう。しかし、興福寺の荘園時代に西二村へ祀られた春日神社への信仰は途切れることなく、現在まで続いてきたのでしょう。
最後に、この史料を読みながら私の考えた事 
①なぜ、土器川が那珂郡と鵜足郡の群界とならなかったのか?
 A① 秦の始皇帝以来川などの「自然国境」を用いなかった。人為的な群界の方が優先された。 
 A② 古代土器川の流路が今と違っていた。那珂郡と鵜足郡の郡境付近に土器川は流れていた。
②荘園が立荘された時点で、当郷七八両条内荒野者」とあるように多くの荒野が存在した。
 この荒野が現在のように水田化され尽くすのはいつのなのか?
 A① 近世においても土器川沿いに入植者が入り、多くの土地を水田化し豪農に成長した家があることが史料から分かる。治水灌漑が未整備な時代は土器川沿いは荒地であり、大水が出たときは水に浸かっていたのではないか。江戸時代の治水事業の伸展によって水田化が進んだ?  以上
 

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