25歳で家庭の事情で還俗した一遍は、33歳で再び出家し、その決意を師匠の聖達上人に伝えるために太宰府に出向いています。
その後に彼が向かったのはどこなのでしょうか?
その後に彼が向かったのはどこなのでしょうか?
比叡山でも高野山でなく、熊野でも吉野でもありません。信州善光寺なのです。なぜ善光寺なのかという疑問が湧いてきますが、それは置いてまず年表で、現在位置を確認しておきます。
年齢
1239 延応元 1 一遍上人伊予で誕生。幼名を松寿丸という。
1248 宝治二 10 母に死別。出家して随縁と名のる。
1251 建長三 13 僧善入と九州太宰府の聖達上人をおとずれる。
その勧めで肥前清水の華台上人にあずけられ修学する。
この時、智真と改名する。
1252 建長四 14 聖達上人のもとに帰り、浄土教を学ぶこと12年。
1263 弘長三 25 父通広(如仏)が亡くなり、故郷に帰る。
これより半僧半俗の生活を送る。妻子あり。
1271 文永八 33 刃傷事件を起こし、再び出家。師聖達上人を再訪。
春、善光寺へこもり、二河の本尊を模写
念仏一路の決意をし、伊予・窪寺に閑居、念仏三昧
念仏一路の決意をし、伊予・窪寺に閑居、念仏三昧
再出家した一遍が最初に旅したのは、信濃国の善光寺(長野市)でした。
『聖絵』巻一第三段は善光寺の伽藍が広がり、その配置がよく分かります。善光寺の伽藍配置は、生身の阿弥陀仏である本尊に続く参道が「二河白道図」の「白道」を表しているとされます。善光寺の境内やその周囲には山桜が満開です。ここでも桜です。今まで見てきた「出立」「太宰府帰参」「再出家」も、桜で彩られていました。ここまでくると描かせた側にも、描いた側にも桜に対して、象徴的な意味合いを持っていたことがうかがえます。それは後で考えることにして、まずは全体的なレイアウトを確認します。
①右から門前町(?)を抜けて山門前②五重塔の下を通り、築地塀門の前③本堂前④本堂の築地塀下側の民家⑤本堂背後の建築物
①→②→③と、一遍は進んで行くことになります。巻物ですから語りとともに、次第に開いて見せていく手法がとられていました。少しずつ開いては、周辺の建物やエピソードが語られたのでしょう。
善光寺の場面の見所は、善光寺如来堂の構造と伽藍配置だと云われます。とくに十文字棟の要に妻堂が付設されているところが注目のようです。そして如来堂東面の中間を出れば、五重搭と東大堂が一直線上にあります。この配置は『聖絵』の図が画師、法眼円伊の実写スケッチであることが随所で証明されているので、信憑できるようです。
私たちもその後を追いかけてみましょう。
善光寺の場面の見所は、善光寺如来堂の構造と伽藍配置だと云われます。とくに十文字棟の要に妻堂が付設されているところが注目のようです。そして如来堂東面の中間を出れば、五重搭と東大堂が一直線上にあります。この配置は『聖絵』の図が画師、法眼円伊の実写スケッチであることが随所で証明されているので、信憑できるようです。
私たちもその後を追いかけてみましょう。
発掘調査によると中世の善光寺には、門前町が形成されていたようです。ある意味「都市化」した空間が広がっていたことになります。
その門前町を進むと朱塗りの南大門が現れます。
一遍聖絵 善光寺山門前
よく見ると仁王門には、朱塗りの⑥仁王(金剛力士)さんが描かれています。
南大門は石垣の基礎の上に立つ築地塀に接続しています。朱塗りの四足門で白い漆喰壁と檜皮葺の屋根が美しく描かれています。さらに目をこらして見ると、門の右側には⑦三本の卒塔婆が建てられています。研究者は次のように指摘します。
一遍聖絵 善光寺山門前
よく見ると仁王門には、朱塗りの⑥仁王(金剛力士)さんが描かれています。
南大門は石垣の基礎の上に立つ築地塀に接続しています。朱塗りの四足門で白い漆喰壁と檜皮葺の屋根が美しく描かれています。さらに目をこらして見ると、門の右側には⑦三本の卒塔婆が建てられています。研究者は次のように指摘します。
「卒塔婆の頭部分が五輪塔の形をしているので供養塔として奉納されたもの」
善光寺如来の功徳で極楽往生を願う人たちが近辺の石や木で作った墓石や供養塔を建てたようです。
南大門の前は、南からの参拝道と東西からの道の交差点でもあるようです。そこをいろいろな人たちが参拝に訪れています。
①蓑に鹿杖を持った狩人②毛皮鞘をもった武士④衣被物を羽織り白絹の鼻緒の草履を履いた、いかにも高貴そうな尼僧
などが行き交います。この通りが門前でも最も賑やかな「繁華街」だったようです。
気になるのは⑤の子どもの姿です。
「こっちだよ」と道案内しているように見えます。従者かと思えば、足には何も履いていません。素足です。このことについて研究者は次のように指摘します。
「寺社の門前には捨て子や病人が捨てられることがよくあった。参拝人から布施や雑事を手伝って小銭を得て生活する社会的弱者の人たちが住み着いていた。」
彼らは寺子とも乞食坊主とも呼ばれました。その中から善光寺如来のご利益を絵図を見せながら解説する絵解き法師や琵琶法師も現れてくるようです。彼らが善光寺詣りを全国に広めていきます。その絵解き法師の幼いときの姿が、ここに描かれているとしておきましょう。
この絵を見ていて疑問に思うのは、 一遍が一人でないことです。
詞書に何の説明もなしに、一遍は一人の尼僧を連れて如来堂の向拝に立っています。まるで「アベツク参詣」のようにも見えます。この尼僧は誰? 途中で偶然道連れになった尼僧が、 一遍の一世一代の廻心の場にえがかれるはずはありません。この尼僧が前回にも触れた、一遍再出家の動機となったトラブルの渦中の女性=超一のようです。超一や娘を伴っての善光寺詣のようです。
なぜ一遍は、再出家後の参籠先に善光寺を選んだのか? 善光寺は生身の阿弥陀如来と云われていたようです。善光寺如来は、善光寺に住んで衆生を救うこの世の生き仏とされ、多くの人びとが参詣する阿弥陀信仰の中心地だったようです。また、一遍が学んだ浄土宗西山義の祖証空も善光寺如来を信仰していたようです。伊予出身の一遍は、善光寺を東方の極楽浄土と考えて参籠したと研究者は考えているようです。
『一遍聖絵』には、次のように記されています。
「参籠日数をかさねて下向したまへり。この時、己証の法門を顕し、二河の本尊を図したまへりき」
ここからは、一遍が参籠の日数を重ね、自ら確信を得て「二河白道図」を写して持ち帰り、生涯の本尊としたことが分かります。つまり善光寺で、 一遍は最初の安心(さとり)を得たようです。参拝でなく「参籠」で日数をかけて「二河の本尊」を書き写したというのです。
二河白道図
「二河の本尊」とは何なのでしょうか?
西へ向かう旅人がいる。行く道をさえぎるように、南に燃え盛る火の河、北に波立つ水の河がある。川幅は百歩。その二つの川の間に四、五寸の白道がある。その道の東岸(続土)から西岸(浄十)へ渡ろうとする。このとき、東岸の釈尊、西岸の阿弥陀仏から、ひるむ旅人に対して白道を渡るよう励ます声が聞こえる。旅人は意を決して白道を渡り、浄土へたどり着く。
ここには極楽浄土を志す者が、さまざまな誘惑を振り切り白道を歩む姿が描かれています。お釈迦様と阿弥陀さまに叱咤激励を受けながら、煩悩に打ち勝ち、信心を奮い起こして、極楽浄土へ続く白道を歩む姿です。一遍はこの「二河白道図」を見て感得し、それを自ら模写して、一生手元から手放さなかったと云われます。自分の本尊としたのです。 一遍にとって、白道を渡る旅人が自分自身にほかならないと確認したのかもしれません。これが一遍の一度目の安心(悟り)です。
善光寺参詣後、一遍は自ら描いた「二河白道図」を伊予の窪寺に持ち帰ると、善光寺の方角である東側の壁にかけて三年にわたる修行を開始します。
善光寺=阿弥陀信仰の拠点という予備知識を持って、もういちど善光寺の桜を俯瞰してみましょう。
①善光寺は東国の阿弥陀浄土です。その楼門近くの桜が参詣する人びとを迎えます。②楼門の桜は俗世と阿弥陀浄土の境界線で、楼門の桜は冥土の神仏を迎え入れる出入口です。③桜は、俗世の人びとを迎え入れるための精進潔斎の作用も合わせ持っていました。
画面左(善光寺)があの世で、画面右が俗世とすると、画面右から桜と川、楼門、伽藍へとつづく構成は、俗世から浄土へと導く参道になります。これが「二河白道図」の「白道」と考えられていたようです。その直線上に描かれた人たちは、浄土に向かって白道を歩む姿になります。「善光寺の桜は浄土の散華を意味」すると、研究者は考えているようです。
浄土思想=阿弥陀信仰と桜の関係は?
平安期は、社会的な不安から末法思想が広がり浄土教が広く普及したと云われます。浄土教の広まった時期に、桜も広く親しみのあるものになっていくようです。桜が『古今和歌集』の季語や枕詞に使われるようになり、桜咲く吉野に訪れた西行は、臨終の際に桜の歌を詠んでいます。
役行者を始祖にした修験道は、桜を神木とするようになります。
『 一遍聖絵』には、山伏や修験道者が多く描かれています。ここからも修験道が庶民に広まっていたことがうかがえます。
『 一遍聖絵』には、山伏や修験道者が多く描かれています。ここからも修験道が庶民に広まっていたことがうかがえます。
花の下連歌も満開の桜の下で歌を詠むことで、極楽浄土から神仏を降ろし、意思疎通を行い桜を神木とします。花の下連歌の後期には、時衆が参加するようになり、花の下連歌の中心が聖などの下層民から時衆へと移り変わっていきます。ここからも時衆は桜を神仏の象徴としていることがうかがえます。
源信の『往生要集』に基づいた浄土教の教義は、『九相詩絵巻』によって絵画化されます。
『九相詩絵巻』は生死の象徴としての桜が描かれ、社寺参詣図にも桜の風景が多く描かれるようになります。これらの社寺参詣曼荼羅を布教に用いて、勧進聖や比丘尼が全国各地を遊行し、浄土教を庶民に伝えた。この中には、先ほど見たように善光寺聖たちもいたはずです。彼らは、もともと庶民の出です。庶民に分かりやすく浄土教を伝えるため、教えを目に見え、耳から伝える形にするのは得意でした。聖達によっても、桜はあの世とこの世をつなぐ神仏の象徴にされたようです。
『九相詩絵巻』
『九相詩絵巻』は生死の象徴としての桜が描かれ、社寺参詣図にも桜の風景が多く描かれるようになります。これらの社寺参詣曼荼羅を布教に用いて、勧進聖や比丘尼が全国各地を遊行し、浄土教を庶民に伝えた。この中には、先ほど見たように善光寺聖たちもいたはずです。彼らは、もともと庶民の出です。庶民に分かりやすく浄土教を伝えるため、教えを目に見え、耳から伝える形にするのは得意でした。聖達によっても、桜はあの世とこの世をつなぐ神仏の象徴にされたようです。
そのため今まで見てきた 一遍絵図の4つのシーンには、全て満開の山桜が登場します。聖的な空間を生み出すためには、桜が必須のアイテムと考えられていたことが分かります。
参考文献 参考文献 佐々木弘美 一遍聖絵に描かれた桜