瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:五在所の峰

猛暑もやっとおさまり、山の上には涼しさが戻ってきたようなので「山のてっぺんで私も考えた」シリーズを再開しようと思います。これは気になる山のてっぺんに行って、その山を取り巻く歴史について、知ったかぶりの少ない知識を並べて、ああでもない、こうでもないと考え、「新説」を紡ぎ出すというとんでもない試みです。興味と閑のある方は、お立ち寄りください。前回は、阿波木屋平の天行山と修験者の関係を見ました。今回は、土佐の奥神賀山にある奥神賀神社を遡上にあげます。

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奥神賀神社
この神社が気になるのは、そのロケーションです。神賀山は、土佐矢筈山からのびる笹の主稜線が美しい山で、広い笹野原の中に、ポツンと鳥居と神が宿る神聖な磐境があります。この光景が、なんとも微笑ましくもあり、私の想像力を刺激します。というわけで、今回も国道32号を原付バイクで南下して、池田・大歩危経由で国道439号に入り、大豊町の西峯までやってきました。

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                     大豊町西峯
豊永の西峯集落の最後の民家を過ぎると、稜線上の豊永峠までの約10㎞の林道です。舗装された林道で油断していると・・

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小桧曽林道の起点 ここから2㎞はダート
峠まで残り4㎞附近が小桧曽林道起点で、ダートの始まり。原付スクターとダートは相性が悪い。苦戦しながらもスクターを進めていくと、

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豊永峠手前の上り坂
峠手前2㎞あたりで再度舗装道路に行き当たりました。ここからは快調にアクセルを廻して、豊永峠に到着です。
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ススキ一面の豊永峠
峠ではススキが風に吹かれておいでおいでと迎えてくれました。ここから南に拡がる展望は素晴らしい。めざす奥神賀神社は、この後方の稜線上にあります。わずかな稜線歩きを楽しみます。

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豊永峠
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                      奥神賀神社
峠から道草歩きで20分足らずで鳥居が見えて来ました。

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奥神賀神社 (神が降臨する甘南備岩が御神体)
無事やってこれたことに感謝して参拝。そして、笹に腰を下ろして遅いおにぎりを食べます。そして、寝そべりながら考えます。どうして、ここに鳥居が建てられたのでしょうか?。この神聖な石の廻りでどんな神事や、祭礼が行われていたのでしょうか。それを知る「手がかり1」を見ておきましょう。

  四国霊場39番の延光寺(宿毛市)は、かつては修験道当山派の拠点でした。

四国霊場延光寺 貝の森 宿毛
延光寺(宿毛市)の東南の貝の森
この寺の4㎞ほど東南に貝ノ森と呼ばれる標高300mほどの山があります。山頂には置山権現が鎮座し、修験法印金剛院の霊を祀り、修験者の修行の山でり、日照りの時には雨乞のために、里人が登って祈念していたようです。この貝の森については、次のような話が伝えられます。

 弘治(1555)の頃、吉野大峰山での修行の際に、予州修験福生院と美濃修験利勝(生)院が口論を起こした。それがきっかけで、貝ケ森で護摩を焚く四国九州の修験者と、近江の金剛院の間で大激戦となり、福生院・金剛院ともに死亡者が出た。その争いに巻き込まれた利生院は、この地に蔵王権現を祀るべきことを言い置き亡くなった。こうして貝ケ森に蔵王権現が勧請され、これ以後は「当州当山修験断絶」となった。

 この伝承からは次のようなことが分かります。
①貝ケ森が修験の山で、その頂上では多くの修験者が集まり護摩も焚かれていたこと
②蔵王権現が勧請される前は、中四国の修験霊地として栄えていたこと
③修験者の中には、背後に有力修験者を擁する武士団があり、争乱や武闘もあったこと

宿毛の貝の森山は、伊予と土佐の境に近く、その信仰主権をめぐって、修験者たちや在地の豪族たちを巻き込んだ対立が起きていたようです。
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そういう目で、神賀山を見るとこの山も草原の中にポツンとあるこの奇岩は、神が宿る御神体には相応しく、自然と手をあわせたくなります。ここが霊山として修験座達の信仰されていたのは納得できます。同時に、この山も次のような二つの修験者たちの境界線に立つ山です。
①北側 豊永の定福寺   (霊山は梶ケ森)
②南側 物部のいざなぎ流 (霊山は高板山)
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定福寺山門
①の定福寺については、以前にお話ししたように「熊野 → 伊予新宮村の熊野神社 → 大豊の豊楽寺 →  定福寺」の系譜上つらなる熊野行者によって開かれた山岳寺院と研究者は考えています。

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定福寺の本堂の横に鎮座する熊野神社

定福寺の本堂の横には、今も熊野神社が鎮座していることが、それを裏付けます。そして、その行場が梶(加持)が森になります。梶が森と神賀山は、ひとつながりの山域です。定福寺を拠点とする修験者たは、この山までテリトリーを伸ばしていたはずです。
一方、南側は物部の谷です。そして、ここは物部修験いざなぎ流の拠点でした。その霊山は、高板山で、神賀山の三つの峰を連ねて目の前にそびえています。つまり、神賀山は物部修験と、熊野修験のテリトリーの境界線上の霊山だったのです。しかし、そこでは対立・抗争だけが行われていたようではないようです。第2の手がかりを見ておきましょう。
幡多郡の四万十川上流の旧大正町奥地の佐川山を見ておきましょう。
この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵のふたつの地蔵さまが鎮座します。旧3月24日は、この山の周囲の大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山しました。見所は喧嘩でした。土佐と伊予の人々が口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作柄がよくなるといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てて、豊作を祈願しました。
このような「鎮めの地蔵(喧嘩地蔵)」として、地蔵が鎮座していた山を挙げると次の通りです。
①西土佐村藤ノ川の堂ヶ森
②東の大正町杓子峠
③西の佐川山
④南の宿毛市篠山
⑤北の高森山
⑥中央の堂ヶ森
また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは、周囲の集落の信仰対象となっていること、相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
 この史料を読んで私は、神賀山でも、武闘から「口げんか」や「相撲」に姿を変えながら、物部と豊永の人達の交流が行われていたのではないかと思うようになりました。

最後に、窪川町と旧佐賀町の境に五在所の峰を見ておきましょう。

御在所の森 高知県
                      御在所の峰

 ここにも修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。この地蔵には矢傷があります。そのため「矢負の地蔵」とも呼ばれていたようです。この山はもともとは不入山でした。役小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は、修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は、修験者たちの祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
 別の見方をすると、テリトリーの境の霊山に地蔵さんを建立するのは、山伏たちにとっては争いを未然に防ぐ方策でもあったようです。
 もちろん山伏の背後には、地元の武士団の意向もあったはずです。それは寺蔵が建立される以前には、地域間の抗争があったこと、それを鎮めるために「山頂での相撲や喧嘩」など山伏たちによって行われるようになったと考えることができそうです。そして、私には奥神賀神社のご神体である奇岩は、寺蔵のようにも見えて来ます。
そういう目で、奥神賀神社の廻りで行われていたことを、想像も交えながらまとめておきます。
①奥加賀山は、北の豊永と南の物部の境界に位置する山で、両者の対立抗争の山でもあった。
②そこで、北の豊永・定常寺(熊野修験)と南の物部いざなぎ修験の修験者たちは、奥神賀山の笹の原にある奇岩の廻りで、両者が集まるイヴェントを年に1回開くようになった。
③それは武闘抗争に替わる口げんかや相撲であった。
④こうして、豊永と物部は対立を含みながらも、交流が続けられる関係が作られた。

そんなことを考えながら笹の原に寝っ転がりながら、ススキの向こうに見える高板山を眺めていました。
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物部修験いざなぎ派の霊山高板山
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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 宥雅は、一族の長尾氏の支援を受けながら松尾山(現象頭山)に、松尾寺(金毘羅寺)や金比羅堂を建立します。しかし、それもつかの間、土佐の長宗我部元親の侵入によって宥雅は、新築したばかりの松尾寺を捨てて堺への亡命を余儀なくされます。宥雅が逃げ出し無住となった後の松尾寺は無傷のまま元親の手に入ります。元親は、陣僧として陣中で修験者たちを重用していました。そこで土佐足摺の修験者である南光院に松尾寺を任せます。南光院は宥厳と名を改め、松尾寺の住持となります。その際に、元親から与えられた使命は、松尾寺を讃岐支配のための宗教センターとして機能させるようにすることだったようです。そのために宥厳がどのような手を打ったかについては以前に次のようにお話ししました。
①松尾寺から金比羅堂へシフトして、新たな蕃神である金毘羅神の拠点として売り出す
②修験者の「四国総本山」とし、修験者の拠点として修験者の力を利用した布教方法を用いる
宥厳は、もともとは土佐の修験者でしたから修験化路線へのシフト転換が行われたのでしょう。
今回は、南光坊と呼ばれた宥厳の土佐での存在とは、どんなものであったのかを見ていくことにします。テキストは 高木啓夫 土佐における修験  中四国の修験道所収です。
南光院 南路志

土佐の『南路志』の寺山南光院の条には、  次のように記されています。
「元祖大隅南光院、讃州金児羅(金毘羅?)に罷在候処、元親公の御招に従り、御国へ参り、寺山一宇拝領」
「慶長の頃、其(南光院の祖、明俊)木裔故有って讃岐に退く」
意訳変換しておくと
大隅南光院の祖(宥厳)は、讃州の金毘羅にいたところ、長宗我部元親の命で土佐に帰り、寺山(延光寺)を拝領した」

ここからは次のようなことが分かります。
①慶長年中(1596~)に、南光院は讃岐の金毘羅(松尾寺)にいたこと
②長宗我部元親から延光寺を拝領し、金毘羅から土佐に帰国したこと
南光院 延光寺2
四国霊場 延光寺(寺山) 奥の院が南光院

寺山とは延光寺のことで、現在の四国霊場になるようです。この延光寺のことを見てみましょう。
宿毛市延光寺は、四国三十九番札所ですが、修験道当山派の拠点であったようです。
 四国霊場を考える場合には「奥の院を見なければ分からない」というのが私の師匠の口癖です。そのセオリーに従って、延光寺の背後をまずは見ておくことします。この寺の4㎞ほど東に貝ノ森と呼ばれる標高300mほどの山があります。山頂には置山権現が鎮座し、修験法印金剛院の霊を祀るといわれ、雨乞いの時には、里人が登って祈念していたようです。修験者の修行の山であったことが分かります。
そして、延光寺は行場(奥の院)が里下りして、いつの頃かに麓に下りてきたことがうかがえます。
南光院 延光寺1

この貝の森については、次のような話が伝えられます。
 弘治(1555)の頃、吉野大峰山での修行の際に、予州修験福生院と美濃修験利勝(生)院が口論を起こします。それがきっかけで、宿毛市平田町の貝ケ森で護摩を焚く四国九州の修験者と近江の金剛院の間で大激戦となり、福生院・金剛院ともに死亡します。その争いに巻き込まれた利生院は、この地に蔵王権現を祀るべきことを言い置き亡くなります。こうして貝ケ森に蔵王権現が勧請され、これ以後は「当州当山修験断絶」となった。

 この伝承からは次のようなことが分かります。
①貝ケ森が修験の山で、多くの修験者が集まり護摩も焚かれていたこと
②蔵王権現が勧請される前は中四国の修験霊地として栄えていたこと
③修験者の中には、背後に有力修験者を擁する武士団があり、争乱や武闘もあったこと
 ここでは16世紀半ばに起きた事件を契機に、当山派から本山派へのシフトが行われたとされているとされますが、これは事実とは異なるようです。当山派の延光寺が衰退していくのは、山内藩による本山派優遇策がとられるようになって以後のようです。

周辺の霊山をもう少し見ておきましょう。 佐川山は幡多郡の旧大正町奥地にあります
この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵がいます。
旧三月二十四日大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山したそうです。この見所は喧嘩だったそうです。土佐と伊予の人々が互いに口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作がいいといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てると作がいいされました。
  このような地蔵は西土佐村藤ノ川の堂ヶ森にもあり、幡多郡鎮めの地蔵として東は大正町杓子峠、西は佐川山、南は宿毛市篠山、北は高森山、中央は堂ヶ森という伝承もあります。また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
「高知県五在所の峰」の画像検索結果

窪川町と旧佐賀町の境に五在所の峰があります。
 ここにも修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。この地蔵には矢傷があります。そのため「矢負の地蔵」とも呼ばれていたようです。この山はもともとは不入山でした。小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は、修験者たちの祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
「高知県五在所の峰」の画像検索結果

 別の見方をすると、霊山に地蔵さんを建立するのは、山伏たちにとってはテリトリー争いを未然に防ぐ方策でもあったようです。その背後には、地元の武士団があったことが考えられます。それ以前には、地域間の抗争があったことが「山頂での相撲や喧嘩」などからうかがえます。
 このような修験道が地域の中に根付いた中で、南光坊(宥厳)は修験者としての生活と修行を行ってきた人物であることをまず押さえておきます。

宥厳は、土佐では南光院と呼ばれていました。
 南光院は延光寺の奥の院だったようです。その院主なので南光院と呼ばれていたようで、地元では有力な修験者のリーダーでした。それが長宗我部元親の讃岐侵攻の際に、無住となってた松尾寺に呼ばれて管理を任されることになります。
延享四年(1747)に延光寺は、次のような文書を土佐藩の社寺方に差出しています。
「私先祖より代々先達之家筋二て、昔時ハ四国並淡州共五ケ国袈裟先達職二て御座腕」

 昔時というのは元親時代のことなのでしょう。延光寺の先祖は代々(当山派)先達を勤め、かつては四国と淡路の袈裟先達職(リーダー)であったと云います。更に続いて、次のようにも主張しています。
延光寺が宿坊十二を擁した頃は、元親から田地の寄付もなされた。南尊上人の住職時代ころまでは、南光院知行共地高五百五十石であった。

というのです。550石といえば土佐・山内藩家臣団の中でも上位に匹敵する待遇です。元親が四国を制摺るに及んで、南光院もまた四国の修験道のリーダー的立場にあったようです。
  つまり、当時の延光寺は四国の先達のトップを勤めていたというのです。その寺から長宗我部元親が呼び寄せたのが南光院(宥厳)ということになります。ここからは、長宗我部元親が新たに手に入れた金比羅の松尾寺をどんな寺にしようとしていたかがうかがえます。それは「四国鎮撫の総本山」です。そのために選ばれたのが南光院であったとしておきましょう。
 長宗我部元親は、秀吉に敗れ土佐一国の領主となると金比羅から南光院を呼び戻し、延光寺を与えます。そのまま讃岐には捨て置かなかったようです。元親の南光院に対する信頼度がうかがえます。その後、延光寺は慶安四年(1651)の遷化まで、修験兼帯の真言寺とし運営されます。そして修験名は南光院が使われます。
南光院の当時の威勢ぶりを、後の史料から見てみましょう。
 南光院は大峰山中に「土州寺山南光院宿」という宿坊を持っていたようです。それは大峰山小笹(小篠)28宿のうちの第三宿で、二間×三間半粉葺の規模でした。延享五年(1748)藩社寺方の記録には次のように記されています。
「右宿私先祖より代々所持仕腕私邸支配之 山伏共入峯仕腕節此宿二て国家泰平万民快楽祈念仕候」

とあって、古くから大峰山に宿を持ち、それが大峰の峰入りの際に、配下の修験者に利用されていたと、由緒が主張されています。確かに延光寺は、清和天皇の御代に禁中の左近之 桜右近之橘を蘇生せた伝わるように、修験道の拠点として中世以来の歴史を持つ寺であったようです。
南光院 延光寺縁起1
延光寺縁起

  以上を時間系列で並べて見ます
1579年 長宗我部元親が西長尾城を攻略。長尾氏一族の宥雅は堺に亡命     土佐から南光院が呼ばれ、宥厳と改名し松尾寺(金比羅寺)に入る
1585年 長宗我部元親が秀吉に敗れ、土佐に退く
1591年 幡多郡大方町飯積寺から南尊上人(慶長三(1593)年没)延光寺に入院
1600年 南光院が長宗我部元親から寺山(延光寺)拝領し入院。南光院は、それまで自分が持っていた「南光院」を奥の院として、延光寺を修験兼帯の真言寺とする。
1651年 宗院遷化以後は修験兼帯を解き、延光寺から南光院は独立

江戸幕府が確立されると本山・当山派は、幕府や藩の御朱印を求めて争うようになります
  長宗我部家の滅亡、南光院は次第にその勢力を失っていきます。
それは、山内家の本山派優先という宗教政策があったようです。享保十四年(1729)の「土州高岡郡修験道名寄帳」には、次のように記されています。
「御国守松平土佐守豊敷公、播州伽耶院大僧正家之寄同行二て、他之先達江附属之修験壱人も無御座腕」
意訳変換しておくと
「土佐藩では山内豊敷公が、播州(兵庫県)伽耶院大僧正家に帰依しているので、他派の先達(修験者)はひとりもおりません」

と高岡郡等覚院の返答です。等覚院は郡下の院数四三、住一七人、合計60人の修験を支配していたようですが全員が本山派に属していたことが分かります。
文久四年(1864)の江戸役所への霞書札にも「土佐・伽耶院」あります。土佐修験は山内藩の下では、天台宗聖護院末播州伽耶院の下にありました。土佐修験が伽耶院配下の本山派となったのは元和年間、藩主忠義が伽耶院に帰依して、大峰山で柴燈護摩祈祷を行わせたことによるとされます。こうした中で長宗我部元親の保護を受けていた当山派の南光院は、山内藩になると衰退していったようです。
 南光院が大峰山中に宿を持って祈祷所としていたことは、先ほど見ました。ところがそれも荒廃したまま放置されるようになります。
 京醍醐寺三宝院御門跡役人中より再興仕侯様卜度々被申付候得とも 私儀至テ貧僧之儀自力難相叶 寛保元年奉願候処 右再興料として御金弐拾両拝領被為仰付 同三年二大峯登山仕再興仕候
意訳変換しておくと
 京都の醍醐寺三宝院御門跡役人より大峰山中の宿の再興について、度々申付けられていますが、私どもの貧僧には自力で再建することは適いません。寛保元年から奉願再興料として金20両を拝領できるように仰せつけていただければ、大峯登山の宿を再興致します

ここからは、醍醐寺からの度々の再建催促にも「貧僧」であるが故に応じられないこと。再建のために土佐藩からの援助を願い出るものです。南光院の零落ぶりがはっきりとうかがえます。これが寛保三(1743)年のことになります。

 凋落する当山派南光院に代って勢力を増してきたのが本山派龍光院です。
龍光院は、もと中村の一条公御家門で中納言住職で寺領百石寺地一石の祈願所でした。それが長宗我部氏になって寺領百石を取り上げられます。長宗我部家が滅亡し、山内家になると御仕置方支配となり、幕末の嘉永安政期には宿毛、中村、西土佐村、十和村に及ぶ修験41名を支配するようになります。この時に、南光院は18名です。
  中世末期から修験者は、武士勢力に隷属するようになるようです。
それは土佐でも例外ではなかったことが南光院の栄枯盛衰からうかがえます。土佐では、山内藩の宗教政策によって「当山派の衰微、本山派の隆盛」という逆転現象をうみだすことになります。
 同時にこの時期から大峰登山や土佐各霊山での修行もみられなくなったと研究者は考えているようです。大峰修行を忘れた修験は、在地で祈祷や札配布を行うようになります。しかし、近世末には、これら祈祷は人心を惑わすものとされ、明治元年高知藩は次のような禁止令をだしています。
 無レ筋祈祷・冗等不二相成儀ハ、兼々御触示被二御付置‘候処、近年予州石鉄山信仰ノ者有之、御境目ヲ潜り致一参詣甚シキュ至りテハ、同先達卜唱、異粧ノ姿ヲ以琳一徘徊動モスレハ無レ筋祈祷・兇等致シ、愚昧ノ者共ヲ為‘一相惑候 者有レ之趣相聞、不心得ノ至二俣。右等ノ儀ハ、地下役共精々取締可レ致、向後違背ノ者於い有レ之地下役共二至迄可為二越度事
意訳変換しておくと
祈祷などを行う事を禁止することは、以前から通達しているとおりである。ところが近年、伊予の石鎚山信仰の先達達(山伏)が、国境を越えて土佐に潜りこんでくるようになった。甚だしいのは先達と称して、異粧の姿で近隣を徘徊して祈祷を行い、愚昧者たちを一層惑わしている者がいると聞く。このような事は、地方役人の取り締まり不足でもある。今後、違反するものがあれば取り締まりに当たる役人の責任問題でもなる。
 このように石鎚信仰の修験者(山伏)たちの祈願祈祷を取締るように命じています。修験道は、神仏分離政策と共に「廃仏毀釈」される邪教として排除されていくことになります。南光院(宥厳)が院主として修験道化を進めた金毘羅大権現は、神道の神社として生き延びる道を選ぶことになります。南光院が金毘羅を離れてから約270年の年月が経ていました。

 最後に宥厳(南光院)が金毘羅大権現の正史には、どのように扱われているのかを見ておきましょう
 江戸時代後半になると長宗我部に支配され、土佐出身の修験道者に治められていたことは、金比羅大権現にとっては、公にはしたくないことだったようです。後の記録は、宥巌の在職を長宗我部が撤退した1585年までとして、以後は隠居としています。しかし、実際は1600年まで在職していたことが史料からは分かります。そして、江戸期になると宥巌の名前は忘れ去られてしまいます。元親寄進の仁王門も「逆木門」伝承として、元親を貶める話として流布されるようになるのとおなじ扱いかも知れません。宥厳は宥雅と同じように、歴代院主の中には含まれていません。
「宿毛市南光院」の画像検索結果
四国霊場延光寺 奥の院の現在の南光院

以上をまとめておくと
①長宗我部元親に呼ばれて金比羅の松尾寺住職となったのが土佐出身の南光院であった。
②彼は讃岐にやってくる前は、「四国の総先達」のトップとも云える存在であった。
③南光院は金比羅では宥厳と改名し、松尾寺の修験化と「四国鎮守の寺」化を進めた。
④長宗我部元親は、晩年の宥厳を土佐に呼び戻し、延光寺を与えた。
⑤延光寺は、長宗我部支配下では保護を受けて多くの寺領と配下の修験者を抱える「山伏寺」であった。
⑥しかし、新たに藩主となった山内家は聖護院との関係を重視し、本山派を保護した
⑦その結果、延光寺(南光院)は衰退していくことになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました
高木啓夫 土佐における修験  中四国の修験道所収
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高峰神社
 かつては、山それ自体に神霊が坐し、その聖なる地を不入(いらず)といい、鬱蒼とした茂みが村々のあちこちにありました。明治元年の神仏分離令の際に、村々の神社を「取調報告」するようにとの通達が全国に出されます。しかし、神社と言っても山そのものを信仰していた村では、本殿も拝殿も御神体もありません。これに対して土佐藩は
神体無キ神社等ハ、向後鏡・幣ノ内ヲ以神体卜致シ可レ奉祭候事
鏡・幣を今後は身体とせよ通達しています。同時に、小さな祠や神社は集めて合祀するように指示しています。
例えば旧幡多郡敷地村五社神社は、
「五社大明神 無宮 右勧請年歴不相知 山を祭り来」
と神社明細帳にあります。また旧土佐郡土佐山村菖蒲の山祗神社は近辺の山神八社を合祀したもので、いずれも「古来以 神林祭之」のように山を神として祀っていたのです。
 このように、特定の神体も安置せず山そのものを拝んできた姿をみることができます。それは山に対する最も素朴な信仰の形でした。
黒尊渓谷6

山の神霊はいろいろな姿となって現れます。
旧幡多郡西土佐村黒尊山では、次のような「桃源郷」が物語られていました。
黒尊山の神は大蛇で霊験ありよく願を叶えていた。
元禄の頃という。農夫、一羽の山鳥を追って宮林に入り、なおも追いゆくと一つの楼門に至り、宮殿は金銀の壁、琥珀の欄干、陣口の簾、五色の玉の庭のいさごを敷きつめていた。
 黒尊神は農夫の常々黒尊山を崇拝するを労い饗応の善美を尽し、巻物一巻を授け、決して他言せざる由を告げる。里に帰ってその巻物の事を問われて、すべてを口外してしまう。とたちまち農夫乱心し躍り上りて
「我こそ黒尊の神なり、おのれ人に洩すな堅く申含めしを早くも人に語りしか」と大いに怒り掻き消すごとく行方知れずになったという。
黒尊渓谷2
白髪の老翁も山神の化身としてよく語られます。土佐郡本山町白髪山の神は
背長七尺有余 御眼ハ日月ノ如ク輝キ 御鼻ハ殆高ク 御顔色赤面ニテ 左ノ御手二鉾ヲ持 右ノ御手二三ツ。亦逆木ノ杖ヲ突キ 巌上孤立チ給フ 御容鉢実恐シキ尊像
であり、猟神的性格をみせます。
3黒尊渓谷
工石山は雨乞信仰の霊山のようです。
各地に工石山という名前が付いた山があります。例えば旧土佐郡土佐山村高川前工石山、同村中切中工石山、旧長岡郡本山町奥工石山ですが、これらの山には雨乞伝承があります。例えば前工石山では
「妙タイト申大岩有 之右岩ノ内二三尺四方斗雨露之不掛所有之、其所ヲ左ノ通相唱候由、妙タイヒジリ権現無宮神体無之」
と伝えられます。奥工石山も
雨乞霊験あり 汚すことあれば神怒にあう」と言います。
5黒尊渓谷
 土佐は「海の国」ですから、高山の巨岩が光り輝いて舟を導いた因縁を語る話が多く伝わります。また、神聖な山(カンナビ山)を拝んでいた遥拝所が祭地となった所も多くあります。先ほど述べた前工石山や中工石山も、もともとは奥工石山の遥拝所であったようです。土佐町の三宝山も本川村稲叢山の遙拝所だったと言います。しかし、時の流れとともにいつの間にか、本山の方の祭祀伝承は忘れられ、遥拝所があたかも昔からの祭地であったごとく思われるようになります。
 石鎚神社勧請地も土佐の各地にありますが、その多くはかつてあった高峰から麓へと下ろされています。鉄鎖だけが山頂で錆びたままになっているという姿が各地で見られます。
  それは近世になって山岳修行を忘れて、里に留まり加持祈祷に専念した修験者の姿にダブって見えてきます。

幡多郡100景1
 次に県西部に多い「地蔵を祀る霊山」を見てみましょう
  旧幡多郡十和村高森山にも地蔵が祀られていました。旧三月、七月二十四日を縁日として、大人相撲がありました。シメアゲと称して、土俵の注連縄を取り除く時に三人組合せの相撲が取られたようです。三人相撲は、起源は神相撲で、神に捧げられたものあったのでしょう。また神社からいただいた幣を田畑の地神に立てます。これを「鎮めの地蔵」とよんでいたようです。
幡多郡100景3
  佐川山は幡多郡大正町奥地にあり、この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵があります。
旧三月二十四日大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山したそうです。この見所は喧嘩だったそうです。土佐と伊予の人々が互いに口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作がいいといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てると作がいいされました。
  このような地蔵は西土佐村藤ノ川の堂ヶ森にもあり、幡多郡鎮めの地蔵として東は大正町杓子峠、西は佐川山、南は宿毛市篠山、北は高森山、中央は堂ヶ森という伝承もあります。また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
 これらの山々のさらに奥地の高岡郡祷原町雨包山、星ケ森にはエビス像があり、やはり作神信仰がみられます。祷原地方は、社家掛橋家を中心に橘家神道の盛んな地方ですので、地蔵信仰の作神的要素がエビス神と結合していたものと、研究者は考えているようです。
黒尊渓谷4
 地蔵由来はさらに発展・変化を見せるようになります。
佐川山ではいつの頃からか、山が荒れに荒れ、死者など不吉なことの続くと、毎月二十四日をモソビ・或いはタテビ(休日)と呼んで、山仕事一切を休みとするようになります。もしこの禁を犯せば、山の怪に遭うといわれ、この日は地蔵さんが獣を自由に遊ばす日だとされるようになります。毎月二十日の山ノ神祭りよりも地蔵の崇りを畏れ、この日は炭竃の火を見る時は、事業所(営林署)に勧請している地蔵に線香をあげ許しを乞うてからでないと竃に近寄らなかったと伝えられています。

五在所の峯
 旧高岡郡窪川町と幡多郡佐賀町の境に五在所の峰があります。
ここには修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。矢のあとがあることから「矢負の地蔵」とも呼ばれていました。この山はもともとは不入山で、小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は修験や両部の祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。
 昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
高峰神社2
 土佐にも豊作祈願の対象となる穀霊信仰の山々が多いようです
穂掛けの風習と稲作を司る神の伝承が豊富に伝わるのは旧土佐町芥川の三宝山高峰神社です。三宝山と名がつけば稲作信仰があると見てまず間違いないと研究者はいいます。
稲が稔ると祈願成就の供物として、引き抜いたままの稲穂を社殿に吊り掛ける「掛穂」の風習がこの神社には残っています。今では高知は、ビニールハウス全盛ですのでハウスの床土を持ってきて拝殿下に撒く人もいます。掛穂については次のような伝承が伝えられています。
 いつの頃か芥川主水なる者、猪猿多くて作を損なうので作小屋を山中に造り、夜夜に猪猿を追い払っていた。ある深更に小屋の棟から大きな足が下ってきた。主水これを弓矢で射んとしたところ、我は三宝山に仕える者であるが、この山の大神は作物豊熟守護し給う神であるから、もうここに来る必要はないと告げ、鐘、太鼓を響かせて山上に去って行った。
 主水は伏拝して直に帰宅し再び作小屋に来ることもなかった。さて秋の穫り入れ頃に来てみると猪猿の害少しもなく豊作であったので、その初穂を山頂の大檜に掛け献じた。これより年々大歳の夜に掛穂をする風が生じた。
高峰神社3
こうして
「御社ハ無之シテ大三輪神社ノ如ク 只御山一体ヲ社トシテ 各遥拝ヲシタリ 又大檜ヲ神体卜祭リタリトソ」
といわれ豊受神を祀りはじめたと記されます。
 この高峰神社は、旧本川村稲叢山を本宮としています。
 稲叢山については次のような話が伝えられます
夏は雨と霧に隠れて樹木茂りて闇く、冬は雪降りて常に白く、村人これを不入山とも呼ぶ。もし入る者あれば七日の精進が必要であった。当時、高峰神社は、稲叢山の遥拝所であったが、養老年間のことという二百歳まで生きた十郎、九郎、粟丸の三兄弟が稲叢山の神々を勧請したという。
 またある年大いに不作で三宝山に参り立願したところ、老人どこからともなく現れ、「粟一升を汲み切りにして蒔けよ、すれば秋には三石三斗三升穫れよう。その返礼には粟の神楽を致すべし、其の神楽の法は、清浄な所に竃を築き三升炊ぎの羽釜に三升三合三勺の粟をコシキに入れ 十二返洗って蒸し、湯のわき上る時に神々を招けば神等勇み給う」と告げて姿を消したという。
 ここから三升三合三勺を穫った時は、必ず粟神楽を奉納したと伝えます。この竃を築いた所が芥川の竃森といいます。 稲叢山の名称は稲に似た草の自生するためとされ、これが稲叢山の神々や山人の食料でした。
高峰神社4
さらに次のように続けます
 ある年に栗ノ木部落の住人太郎平なる者、これを刈取らんと鎌かけるや、たちまちに山は鳴動して暗闇となり、大いなる翁が現れて鎌を奪ったという。それより鎌取り山神と申して祀り栞ノ木に小社を建立したという。
 安芸郡下の藤右衛門なる者、ある年に半分ほど稲刈りをしたが平年の半分ほどしかない。加治子米の減量を願い出たが許されず稲穂と鎌を持って三宝山に詣でたところ、老翁現われその鎌を片手に叢中に消えて行った。家に帰ると刈り残した稲は重く垂れて満作になっていたという。それ故か、毎月三日の日の出時に鎌の手を休めば朝日のごとく栄え、三宝山に詣る者一生食物に不自由せずという。
 以上の伝承で注意したいのは、鎌が物語られていることです。これは恐らく鍋釜の釜からの付会伝承で、湯の沸いた時に神を招くのは、湯立の信仰に基づくものと研究者は考えているようです。
鉢が森2
旧香北町鉢ケ森は安徳帝伝説の地ですが、帝の兜の鉢を埋めた話が伝わります。
 山の主とよぶ妖怪変化を鎮めるために「兜の鉢」を埋め山祇命草野姫命を奉祀したというのです。ここには「兜の鉢」が祭祀具として語られています。
また安徳帝御陵参考地の横倉山に接する高岡郡仁淀村都にも帝の奉持されたという釜跡があります。これら釜や鉢は、湯立祈祷用の祭具であったと研究者は考えているようです。

鉢が森大権現1
これら伝承地の峰々へと続く香美郡物部村では、今でも湯立の卜占と清祓が行われているからです。そこには
香美郡物部村→香北町→土佐町→本川村→仁淀村→越知町
へと四国山地の山々を湯立を伴った宗教者が移動していったことがうかがえます。それは恐らく物部地方のいざなぎ流と密接な関係ある一団だったのではないかと研究者は考えているようです。彼らが、これら山々の村人たちの山への信仰に大きな影響を与えたようです。阿波祖谷から土佐横倉山に至る安徳帝潜幸伝説の残る山々は、特定の宗教者達で結ばれた信仰の道だったのかもしれません。
黒尊渓谷8

参考文献 高木啓夫  土佐の山岳信仰 大山・石鎚と西国修験道所収 

 

                 
                    

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