瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:五来重

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三好市三野町田野々の庚申塔
阿波のソラの集落のお堂めぐりをしていると、必ず出会うのが庚申塔です。
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田野々の集落を見下ろす岡の上に建つ庚申塔
庚申塔には、いろいろな姿の青面金剛像や三猿が彫られていて、見ていて楽しくなります。だんだんと庚申塔に出会うのも楽しみになってきました。
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青面金剛が彫られた庚申塔(田野々)
ソラの集落では、お堂の近くに庚申塔が残ります。これは江戸時代後半頃から明治頃に流行した庚申信仰の痕跡のようです。

地域の相互扶助に根付いた庚申信仰 0982アーカイブ(2016・2月) | 0982株式会社・0982charmer
「庚申祭者名簿」(庚申講のメンバー)

集落の信者たちが「庚申講」を組織して、60日に一度の庚申待ちをお堂で行っていたことを示します。そして彼らが庚申塔を建てたのです。それが流行神としてもっとも盛んになるのが幕末期のようです。そこで、今回は改めて庚申信仰と庚申塔、そして青面金剛について、見ていきたいと思います。テキストは「五来重 石の文化」です。

楽天ブックス: 石の宗教 - 五来 重 - 9784061598096 : 本

 なぜ「庚申待」をするかについては、道教の立場から「三尸虫説」が説かれてきました。                 
  
庚申信仰 三戸虫
三尸虫

人間の体には三尸虫というものが潜んでいて、それが庚申の夜には人間が寝ている間に、身体をぬけ出し天に上り、その宿り主の60日間の行動を天帝に報告する。そうするとたいていの人間は天帝の罰をうける。
庚申待2
庚申待のいわれ
そこで寝ずに起きいれば、三尸虫は抜け出せない。そのためには講を作って、一晩中、話をしたり歌をうたったりしているのがよいということになります。この種の庚申待は、祀るべき神も仏もないので「庚申を守る」・「守庚申」と云われました。話だけでも退屈するので詩や歌をつくり、管弦の遊びもします。俗に「長話は庚中の晩」とも云われるようになります。

庚申待ち2
江戸時代の町方のでの庚申待の様子。真剣に祈っているのは2人だけ
 町方の富裕層の間では中国からの流行神の影響を受けて、60日に一度徹夜で夜を明かすことが広がったこと、そして後には、宗教行事でも何でもなく、ご馳走食べての夜更かし、長話の口実になったようです。確かに町方では、そうだったかもしれません。
 しかし、この説明ではソラの村での庚申信仰の広がりや熱心な信仰の姿を説明しきれません。

『女庭訓宝文庫』より「庚申待ちの事」

これに対して庶民信仰の「荒魂の祭」で「祖神祭りの変形」という視点から五来重氏は次のように捉えます。
 もともと古代から日待(ひまち)や月待(月待ち)の徹夜の祭が、庶民の間にはありました。
①日の出を待って夜明かしする行事を「日待」、
②決まった月齢の夜に集まり、月の出を拝む行事を「月待」
それを修験者たちは庚申待に「再編成」していきます。「日待・月待」が「庚申待」に姿を変えていく過程には、先祖の荒魂をまつる「荒神」祭が前提としてあったこと。それが「荒神 → 庚申」へと転化されること。
太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art on Twitter:  "新型コロナウイルスの拡大防止を祈念して、葛飾北斎が20代後半に描いた珍しい仏画をご紹介。青面金剛という庚申信仰のご本尊。病魔や病鬼を除く力があるとされています。下には、見ざる言わざる聞かざるの三猿が  ...
青面金剛(太田記念美術館)
そして、最後に庚申待の神を仏教化して、忿怒形の青面金剛として登場させます。


「日待」「月待」は、もともとはなんだったのでしょうか?
日待は農耕の守護神として正月・5月・9月に太陽を祀っていました。これが後になると伊勢大神宮の天照皇大神をまつるようになります。夜中に祭をするというのは、太陽の祭ではなくて祖霊の荒魂の祭であったことを示します。月待ちで7月23日に夜の月をまつるのもお盆の魂祭の一部で、荒魂の祭で、夜待(夜祀り)です。

 庚申待が先祖祭の痕跡を残すのは、一つには庚申待には墓に塔婆を立てたり、念仏をしたりすることからうかがえます。これが庚申念仏といわれるもので、信州などでは庚申講と念仏講は一つになり、葬式組の機能もはたしているようです。

庚申講の祭壇(長野県)
庚申講は、どんな風に行われていたのでしょうか。
 庚申講の流れを、見ておきましょう。
①庚申の晩に宿になった家は、庚申の掛軸(青面金剛)を本尊として南向きに祭壇をかざり、数珠やお経を出し、御馳走をこしらえて講員を待ちます。
②全員が集まると御馳走を頂戴してから、水や椋の葉で体をきよめます。
③それから講宿主人の「先達」で般若心経を読んでから「庚申真言」
(オンーコウシンーコウシンメイーマイタリーマイタリヤーソワカ)
を108回唱えます。
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唱えるときには、立ち上かってからしやがんで、額を畳につける礼拝をくりかえします。これは、六十日間の罪穢れを懺悔する意味があるとされます。これは大変なので後には、一人の羽織を天井から紐で吊り下げておいて、これを引いて上下させ、礼拝に代えるようになります。しかし、どこの庚申帚でも、この「拝み」があったようです。これは庚申本尊(青面金剛)に懺悔することによって、災いから護ってもらえると信じたからでしょう。

青面金剛1
祭壇正面に掲げられる青面金剛
 庚申塔の説明
庚申塔の青面金剛と構成要素
これは先祖祭の精進潔斎にも共通するものです。もともと祖先の荒魂に懺悔してその加護を祈っていました。それが「荒魂→荒神」として祀るようになります。さにこれを山伏が「荒神(こうじん)→ 庚申(こうしん)」として、修験道的な青面金剛童子に代えたと研究者は考えているようです。
流山三町物語散策➂ : 漫歩人の戯言

 流山三町物語散策➂ : 漫歩人の戯言

最後に「申上げ」として、南無阿弥陀仏の念仏を21回ずつ3度となえます。念仏を唱えることに研究者は注目します。
これは念仏行者や聖などの修験者による「念仏布教の成果」ともとれます。中世後半には霊山と呼ばれる寺社には、多くの高野聖や修験者(山伏)など野念仏聖が庵を構えて住み着き、そこを拠点にお札配布などの布教活動を展開していたことは以前にお話ししました。阿波の高越山や、讃岐の弥谷寺などはその代表でしょう。伊予新宮の熊野神社や仙龍寺や三角寺などを拠点とする修験者たちもそうだったかもしれません。修験者たちが庚申信仰をソラの集落に持込み、庚申講を組織し、その信仰拠点としてお堂を整備していく原動力になったのではないかと、私は考えています。それを阿波では蜂須賀藩が支援した節があります。つまり、ソラの集落に今に残るお堂と、庚申塔は修験者たちの活動痕跡であり、テリトリーを示すのではないかという思いです。
論集 古今和歌集(和歌文学会 編) / 古書かんたんむ / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
庚申講と念仏の関係を報告した書
また、庚申講で念仏が唱えられる意味は、念仏講が庚申講が結合したことを示しています。
これによって庚申講は遠い先祖と近い祖霊の両方を祀ることになります。1年に庚申の日はだいたい6回まわってきますが、十数年に一度、7回庚申の日がまわってくる年があります。この年を「七庚申」と呼ぶようです。七庚申年を迎えると念仏によって供養された祖霊が、神になったことをしめすために、「弔い切り塔婆」である庚申塔婆が建てられるようになります。「弔い切り(上げ)」というのは、年忌年忌の仏教の供養によって浄化された霊は、三十三年忌で神になり、それ以後は仏教の「弔い」を受けないという庶民信仰です。
 これと庚申塔出現の過程を簡単にまとめておきます。
①神になった祖霊神は、神道式のヒモロギ(常磐木の梢と皮のついたままの枝)で祀られる。
②これを仏教や修験道は塔婆と呼び、庚申塔婆へと変化する
③やがて塔婆は「板碑」(いたび)になり、これに青面金剛が浮彫された庚申石塔が登場する。
簡略化すると次のようになるのでしょうか。
「ヒモロギ → 塔婆 → 庚申塔婆 → 板碑 → 青面金剛の庚申塔」

庚申信仰が庶民に広く、深く浸透していった背景を見ていきました。
そこには念仏聖や高野聖などの修験者の存在が浮かび上がってきます。
それを五来重氏は「石の文化」の中で、次のようにも記します。

 庚申待は、庶民信仰の同族祖霊祭が夜中におこなわわていたところに、道教の三尸虫説による守庚申が結合して、徹夜をする祭になった。そして、この祭りにはもとは庚中神(実は祖霊)の依代(よりしろ)として、ヒモロギの常磐本の枝を立てたのが庚申塔婆としてのこったのです。これがもし三尺虫の守庚申なら、庚申塔婆を収てる理由がない。しかしこの庚申塔婆も塔婆というのは仏教が結合したからで、庶民信仰のヒモロギが石造化した場合は自然石文字碑になり、仏教化した塔婆が石造化した場合は、青面金剛を書いた板碑形庚申塔になったものと、私は理解している。
そして、庚申信仰を次のように捉えます。

庚申信仰=山伏形成説

①庚申信仰は、仏教でも神道でも道教でもない素朴な庶民信仰を基盤に持つ。
②庚申信仰は修験道を媒介として、仏教、神道、陰陽道に結合する
③修験道は、庚申信仰の神をまつるのに、仏教も神道も道教も混合して、すこしも嫌わない
④庚申信仰の青面金剛や庚申真言も山伏がをつくりあげた。

以上からすると、ソラの集落に残る庚申塔は、修験者(山伏)たちによって広げられたということになります。『修験宗神道神社印信』にも、次のように記します。
庚申待大事 無所不至印
ヲツコシンレイコシンレイ マイタリ マイタリ ソワカ
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
摩利支天印 宝瓶印
ヲンマリシエイ ソワカ                 
各地の庚申講では、この印信を受けている所が多いようです。これは、山伏がもたらしたものであることが分かります。ここからも庚申信仰を村々に担ってきたのが山伏たちであることが裏付けられます。

踊り念仏の風流化と勧進聖 | 大森 惠子 |本 | 通販 | Amazon

庶民の願いである「現世利益と来世安楽・祖先供養」などを、受け止めたのが、聖だったのかもしれません。彼らは、祈祷や念仏や踊りや和讃とともに、お札をくばるスタイルを作り出します。弘法大師師のお札を本尊に大師講を開いてきた村落は四国には数多くあります。また、高野聖は念仏札や引導袈裟を、持って歩いていました。ここからは、庶民信仰としての弘法大師信仰をひろめたのが高野聖であったことが分かります。庚申信仰も、彼らが組織していったことがうかがえます。
二所山神力院史 | 研究成果一覧 | 長岡造形大学 卒業・修了研究展

高野聖と里山伏は非常に近い存在でした。
修験者のなかで、村里に住み着いた修験者のことを里山伏または末派山伏(里修験)と言います。村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
 また、高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったとする研究者も数多くいます。ソラの集落の信仰には、里山伏(修験者)たちが大きな役割を果たし、庚申講も彼らによって組織されたとしておきます。
 しかし、解けない謎はまだあります。阿波のソラの集落にはお堂があり、そこで庚申待ちが行われ、庚申塔が数多く見られます。ところが讃岐の里の集落にはお堂も、庚申塔もあまりありません。庚申信仰の痕跡が余り見られないのです。これはどうしてなのでしょうか?
庚申信仰が庶民に流行するのは、江戸時代後期になってからです。それをもたらしたのは修験者(山伏)でした。そこで、私は次の2つの背景を考えています。
①阿波では高越山・箸蔵山など修験者勢力が強かった。
②讃岐が浄土真宗王国となり、修験者たちの活動が制限された。
讃岐では真宗興正寺派のお寺が多く、活発な活動を展開します。真宗は「鬼神信ずるべからず」という方針を打ち出すので、庚申さまの信者となることは排斥されたことが考えられます。つまり熱心な真宗信者は、庚申信仰を受けいれなかったという説です。
そんなことを考えながらのソラの集落への原付ツーリングは続きます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献      五来重 石の文化
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  前回は弘法清水伝説が「泉と託宣」にかかわって、古代の祭祀に関係があったことみてきました。今回は別の視点から弘法清水伝説を見ておきたいと思います。この伝説に共通するのは、弘法大師が善人または悪人の家にやってくることです。この国の古代信仰にも家々に客人として訪れる神がいたようです。これを客人(まろうど)神と呼びます。この神は、ちょうど人間社会における客人の扱いと同じで、外からきた来訪神(らいほうしん)を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形になります。客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためのようです。
客人神 Instagram posts - Gramho.com

 客人(まろうど)神の例として研究者は「常陸国風土記』の富士と筑波の伝説を挙げます。
大古、祖神尊(みおやのまみのみこと)が諸神のところを巡っていました。駿河の幅慈(富士)の神は、新嘗の祭で家内物忌をしていたので、親神なれどもお泊めしなかった。そこで祖神尊はこの山を呪われたので、この山には夏も冬も雪ふりつもり、人も登らず飲食も上らないのだという。
 この祖神尊が筑波の神に宿を乞うたところ、新嘗の物忌にもかかわらず神の飲食をととのえて敬い仕え申した。そこで祖神尊は大いによろこばれて、
愛しきかも 我が胤 魏きかも 神宮
あめつちのむた 月日のむた
人民つ下ひことほぎ 飲食ゆたかに
代のことごと日に日に弥栄えむ
千代万代に 遊楽きはまらじ
と祝福せられたので、筑波は今に坂東諸国の男女携え登って歌舞飲食をするのです
二見町◇蘇民将来
スサノウの宿泊を断る弟の招来

客人神の伝説は、京都の祇園社の武塔天神が有名です。

『釈日本紀』の『備後風土記逸文』には蘇民将来の話として載せられています。この物語は、旧約聖書のモーゼの「出エジプト」を思い出させる内容です。その話の筋はこうです。
昔、北海に坐した武塔神(スサノウ)が南海の神の女子を婚いに出でましたとき、日が暮れたので蘇民と将来という兄弟の家に宿を乞われた。しかるに弟の将来は富めるにもかかわらず宿をせぬ。兄の蘇民は貧しいにもかかわらず、宿を貸し、栗柄を御座として来飯をお供えした。
蘇民将来の神話

後に武塔神が来て前の報答をしようといい、蘇民の女の子だけをのこして皆殺してしまった。そのとき神の日く、
吾は速須佐能雄(スサノウ)の神なり。後の世に疫気あらば、汝蘇民将来の子孫と云ひて茅の輪を腰の上に著けよと詔る。詔のまにまに著けしめば、その夜ある人は免れなむ
武塔天神はスサノオで、疫病の神です。そのため宿を貸した善人の蘇民の娘だけを助けて、他は流行病で全減したようです。まさに、モーゼと同じ恐ろしさです。これが家に訪ね来る客人神で、その待遇の善し悪しによって、とんでもない災難がもたらされることになります。これは、前々回に見た、弘法清水伝説とおなじです。水を所望した僧侶を、邪険に扱えば泉や井戸は枯れ、町が衰退もするのです。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民招来の木札
  この神話伝説について研究者は次のように指摘します。
「この段階では道徳性が導人されており、善と悪を対比する複合神話の形式をとっている。その発展過程よりすれば客人神の災害と祝福を説く二種の神話が結合したものとみることができる。
 しかもなお原始民族の神観にさかのはれば、神は恐るべきがゆえに敬すべき威力ある実在とかんがえられたから、悪しき待遇と禁忌の不履行にたいして災害をくだす神話が生まれ、次にこの災禍を避けて福を得る方法としての祭祀を物語る神話がきたのであろう。攘災と招福は一枚の紙の裏表であるが、客人神としての大師への不敬が泉を止めたという伝説、したがって井戸を掘ることを禁忌とする口碑はきわめて古い起源をもつものとおもわれる。
 
ここにも意訳変換が必要なのかも知れません。
  水をもらえなかったくらいで、泉を枯らしてしまう無慈悲で気短で恐ろしい人格として弘法大師が描かれるのはどうしてかというのが疑問点でした。その答えは、弘法大師以前の神話では、恐るべき客人神として描かれていたのが、いつの頃からか弘法大師にとって代わられたためと研究者は考えているようです。客人神は、弘法大師に姿を変えて引き継がれたというのです。
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しかし、客人神は上手に対応すれば災いがもたらされることはありません。そればかりか人間の祈願に応えて幸福をあたえてくれます。畏怖心や威力が大きければ大きいほど、その恩寵もまた大きいとかんがえられたようです。ここからは、大師が善女からの水の供養のお礼に泉を出したという伝説は、悪女のために泉を止めたという伝説と表裏一体の関係にあると研究者は考えているようです。
蘇民将来とは?(茅の輪の起源)-人文研究見聞録
 客人神の二つの面が大師にも描かれているのです。
その結果、この種の伝説の性格として、道徳意識は潜り込ませにくかったようです。しかし、後世になってこの伝説が高野聖などの仏教徒の管理に置かれると変わってきます。弘法清水伝説として、道徳的勧懲が強調されて、教訓的色彩が強くなります。そして、厳しく罰する話の方は落とされていくようにもなるようです。
 信濃国分寺 蘇民将来符、ここにあり | じょうしょう気流
 伝説の中の弘法大師が、神話の中の祖神尊や武塔神のように、人々の家々を訪れめぐるとされていたことは押さえておきましょう。
ここからは、次のような話が太子伝説の一つとして流布するようになります。
「今でも大師は年中全国を巡り歩かれるから、高野の御衣替には大師の御衣の裾が切れている」

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地方によると「修行大師」と呼ばれる弘法大師の旅姿がとくに礼拝される所もあるようです。これは古代の家々を訪れ巡る客人神を祀るという古代祭祀の痕跡なのかもしれません。固定した建造物となった神社でおこなわれる今の神祭には、登場しない神々です。

古来は、家々に神を招きまつる祭祀が、一般的であったようです。
そして、弘法清水伝説の中にあらわれる弘法大師は、このような家々に私的に祀られた神の姿をのこしたものなのかもしれません。だから、人々は親しみ深いものとして、語り継いできたようです。そして、この親しさが、弘法清水伝説を今まで支えてきた精神的な根拠と研究者は考えているようです。
修行大師像

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重著作集第4巻 寺社縁起と伝承 弘法大師伝説の精神的意義(中)        法蔵社
客人神

従来の庚申信仰の説明は、道教の三尸虫説だが・

 庚申信仰については、従来は次のように説明されてきました。
中国の道教では、人間の体には三尸虫というものが潜んでおり、それが庚申の夜には体をぬけ出し天に上り、その宿り主の60日間の行動を天帝に報告するという。
そうするとたいていの人問は人帝の罰をうけ命を縮める。 だから庚申の夜には寝ずに起ていなければならない。
そのためには講を作って、一晩中詰をしたり歌をうたったりしているのがよい。
「庚申塔」の画像検索結果

 しかし、三尸虫説からだけでは庚申信仰は捉えきれないし、説明しきれないようです。例えば
なぜ庚申塔をつくるのか、
なぜ庚中塔や庚中塔婆を立てるのか、
これに庚申供養と書くのか、
庚申と猿や鶏の関係は何か、
庚申に七の数を重んずるのは何故か、
庚申年の庚申塔に酒を埋めるのは何故か
などの疑問が説明できません。
そこで、庶民信仰の視点から見直していこうとする動きがあります。その代表的な存在である宗教民族学者の五来重の主張の結論部を提示します。
① 庚申待は、庶民信仰の同族祖霊祭が夜中におこなわわていたところに、道教の三尸虫説による守庚申が結合して、徹夜をする祭になった。
② この祭りにはもとは庚中神(実は祖霊)の依代(よりしろ)として、ヒモロギの常磐本の枝を立てたのが庚申塔婆としてのこったのである。これがもし三尺虫の守庚申なら、庚申塔婆を収てる理由がない。
③ 庚申塔婆も塔婆というのは仏教が結合したからで、庶民信仰のヒモロギが石造化した場合は自然石文字碑になり、仏教化した塔婆が石造化した場合は、責面金剛を書いた板碑形庚申塔になった。
庶民信仰から「庚申待」を解釈すると、荒魂の祭で先祖神祭り
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60日ごとに巡ってくるの庚申の日に、当番の宿に講中があつまって夜明しをするのが庚申待です。もともと「侍」には日待、月待などがあって、月の出を待つように解されますが、本来は夜通しで神をまつることを待と言いました。すなわち「待」は「祭」のことです。
 すでに民間にあった日待や月待の徹夜の祭が、修験道の影響で庚申待になったります。これは室町以降のことでしょう。その間には、先祖の荒魂をまつる「荒神」祭があり、音韻の類似から庚申に変化していきます。というのは、古くは「庚申」も「かうじん」  と発音したからです。そのために庚申待の神を、荒神の仏教化した忿怒形の青面金剛として表現されるようになります。 

庚中待の源をなす日待、月待は何か?

 庶民の庚申待が荒魂としての先祖祭であったとおもわれるのは、一つには庚申待には墓に塔婆を立てたり、念仏をしたりするからです。信州には庚申念仏といわれるものがあり庚申講と念仏講は一つになり、葬式組の機能もはたしています。
 日待は農耕の守護神として正月・五月・九月に太陽をまつるといわれ、のちには伊勢大神宮の天照皇大神をまつるようになります。夜中に祭をするというのは、太陽の祭ではなくて祖霊の荒魂の祭であった証拠です。そして月待ち七月二十三夜の月をまつるというけれども、これもお盆の魂祭の一部

 日待や霜月祭(新嘗祭または大師講)で、まつっていたものを、庚申の日にかえたものです。
もとから夜を徹して祭をおこなっていました。庚申の晩に宿になった家は、庚申の掛軸(青面金剛)を本尊として南向きに祭壇をかざり、数珠やお経を出し、御馳走をこしらえて講員を待ちます。
全員が集まるとまず御馳走を頂戴してから、水や椋の葉で体をきよめ、それから「拝み」になります。講宿主人の「先達」で般若心経を読んでから「庚申真言」を唱えます。
 これは、 オンーコウシンーコウシンメイーマイタリーマイタリヤーソワカ
 または、 幽晦青山金剛童。
を少なくとも108回となえるだけでなく、その数だけ立ち上かってからしやがんで、額を畳につける礼拝をくりかえします。この苦行は、六十日間の罪穢れを懺悔する意味であります。 

「庚申塔」の画像検索結果

これは先祖祭にともなう精進潔斎にも共通するものです。

 もともと祖先の荒魂に懺悔してその加護を祈ったのが、荒魂を荒神としてまつり、これを山伏が修験道的な青面金剛童子に代えたものと推定できます。このあとで「申上げ」と称して、南無阿弥陀仏の念仏を二十一回ずつ三度となえる所もあります。この念仏というのは、念仏講が庚申講と結合したことをしめすものです。
 このことから、この講は遠い先祖も近い祖霊もまつっていたことが分かります。
念仏によって供養された祖霊はやがて神の位になったことをしめすために、七庚申年になると「弔い切り塔婆」である庚申塔婆を立てたと考えられます。「弔い切り」というのは年忌年忌の仏教の供養によって浄化された霊は、三十三年忌で神になり、それ以後は仏教の「弔い」を受けないというのが庶民信仰です。
「庚申塔」の画像検索結果

 神の位に上った祖霊は神道式のヒモロギによってまつられるが、このヒモロギが常磐木の梢と皮のついたままの枝です。これを仏教または修験道式に塔婆とよんだので、庚申塔婆となりました。このようなヒモロギが変化して、やがて「板碑」(いたび)になったとき、これに半肉彫で青面金剛が浮彫された石塔が、庚申石塔なのです。このように自然石文字碑と青面金剛板碑とのあいたには、大きな区別があります。
庚申塔婆が青面金剛板碑となる過程について

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 五来重氏は、石造塔婆のひとつである板碑の「五輪塔起源説」も否定して、ヒモロギから板碑が発生したことを結論づけます。
 そして庚申待ちについて
一本の常磐木の枝をヒモロギとして立て、そこに祖霊を招ぎおろして祭をする、原始的な同族祖霊祭が庚申待(庚申祭)の本質
と指摘します。


焼山寺

御詠歌は「後の世をおもへば苦行しやう山寺 死出や三途のなんじよありとも」です。
 苦行をしようとおもうということと焼山寺をかけて、ちょっと駄洒落のようになっています。「なんじよ」というのは、どういうふうにあろうとも、どんな具合であろうともという意味を俗語で表したものです。死出の山や三途の川はもっと苦しいんだろうけれども、後の世をおもえばこの山で苦行するのが焼山寺だといっています。ここには非常に厳しい行場がありますが、現在は自然遊歩道になってたいへん歩きやすくなりました。

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 焼山寺と太龍寺と鶴林寺は深山に孤立した霊場なので、四国遍路の難所に数えられています。横峰寺、讃岐の雲辺寺の三か寺は「遍路ころがし」といわれる危険な山でした。遍路が転落して死んだことから、「遍路ころがし」という名前が付いたとおもわれます。
 しかしこのような山こそ、登ってみれば霊場の感を深くします。われわれはその山気に打たれ、罪や心な浄化されたと感じます。これが霊場というものです。いまは、だいたい寺まで車が登ります。難所こそ、来てよかったと特別の感慨にひたれるところです。
 いいところだけを選んで霊場を回られるようおすすめします。本当の霊場といえるとろは二十か所ぐらいでしょうか。そういうところをお回りになると、遍略のありがたさ、あるいは弘法大師の偉大さを感じます。もっとも、そういうところほど難所になっているわけです。

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 空海自身は善通寺から阿讃国境の山脈を越えて一路南下し、吉野川を渡り、藤井寺からこの山道に入ったと推定するのが自然です。藤井寺自体が独立の行場であったというよりも、焼山寺の入口とすることで意味があります。藤井寺に八畳岩という行場があります。しかも、行場の奥の院の本尊が虚空蔵ですから、焼山寺の虚空蔵さんをここで人々が拝んでいたわけです。したがって、ここから入っていくということに意味がありました。


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 現在では焼山寺が伝えた公的な縁起はなくなっています。

焼山寺という名前は、山に住む毒龍が火を吐いて、全山を火の海にしたので焼山というのだとなっています。しかし、そういうことはありえません。もちろん龍などは実在しませんから、毒龍が火を吐いて、全山を火の海にしたという縁起の奥に何か歴史的事実がかくされていると考えるべきなのです。
 縁起というのはいつもそうです。何もないところに話はできません。
歴史がまずあって、神話・伝説、寺社縁起を子どもたちにもわかりやすいようにお話にしたのが昔話です。最初の起こりはちいさな事実ですから、その事実を掘り起こしていくのが昔話の研究であり、伝説の研究であり、神話の研究であり、同時に寺社縁起の研究です。焼山の場合もあとで述べるような事実がありました。

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 山に入ろうとすれば垢離を取らないといけないというのは、山の神秘を守っている人たちがいたからに違いありません。その人たちが、「おいおい、そんな機れたからだでこの山に登ったら、かならず山神が怒るぞ」といったのです。
 山に登るためには、山の神聖を守っている山人に対して、自分はこれだけの精進潔斎、これだけ仏教の修行、密教の修行をして山に登るんだ、あんた方よりも自分のほうがはるかに行ができているんだ、それでは鉄鉢を飛ばしてみせようか、というどとで鉄鉢を飛ばすような一つのマジカルな密教の奇瑞を見せて、相手を説得するという手続きが必要でした。生半可な腕前では山人に追い払われますから、相手を説得するだけの行と力が要ります。また、昔はそういう力を付けるために修行をしたわけです。それは切羽詰まった修行です。

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いちばんの条件は、垢離を取って穢れを祓うということです。

精進がじゅうぶんでないと山の神が怒るというので、かならず垢離を取りました。
いまも毒龍の窟が残っていますが、頂上に近い毒龍の窟から毒龍が飛び出して大師に襲いかかった。大師が仏を念ずると虚空蔵菩薩が出現したというのは、弘法大師が虚空蔵の求聞持法を修めたことを示しています。虚空蔵菩薩が毒龍を岩屋に封じ込めて、その害を絶ったので、この山に登ることができた。大師が虚空蔵菩薩を本尊とする寺を建立したのが焼山寺であると伝えています。 
摩盧山という山号は、音を写したものであることは明らかです。
 縁起は、摩澄山という山号は火を消すための水輪を意味する摩戚から出たものだといっていますが、われわれのサンスクリットの知識からしますと。これを翻訳すると「凶心なるもの・凶暴なるもの・人を殺すもの」という意味です。∃Q2ならば「不毛の地・水のないところ」といり意味ですから、凶饗なものがいる山という意味で摩戚山といったのだろうとおもいます。
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焼山寺
この山は縁起の解釈によって弘法大師の登山修行を論証できます。
 それはこの山には行場が存在し、頂上の奥の院に虚空蔵をまつることによって、ここで求聞持法が行われたことを証明することができるからです。焼山寺の頂上に登りますと、もと虚空蔵菩薩をまつっていたという場所があって、現在は蔵王権現をまつっています。ここまで登るのはIキロ半ぐらいですから、ゆっくり登れば登れます。山全体が自然遊歩道になっていますが、山を全部回るのはなかなか困難かもしれません。
 さて、頂上から少し下がったところに、もとの護摩堂があります。頂上で火を焚いて求聞持法を修行したわけです。求聞持法は虚空蔵菩薩を本尊とします。百日の間に虚空蔵菩薩の喜言を百万遍唱えると、虚空蔵菩薩の力が自分に加わって、すべてのものを暗記することができるといわれました。 

秦氏の妙見信仰・虚空蔵
本来の地蔵はけっして死んだ人の地蔵ではなくて、宝の仏様です。
土地の中にある鉱物資源でもなんでももっているわけです。それと同じように、虚空蔵は上のほうのすべての功徳をもっています。空にはあまり宝はないかもしれませんが、虚空はすべてのものを生かします。したがって、虚空がすべてのものを蔵するごとく、頼んだことはなんでもかなえてくれる仏様が虚空蔵菩薩です。
虚空はアーカソダあるいは貯蔵するといいます。
W Akagagarbhaが虚空蔵菩薩の梵語の名前です。
阿弥陀仏の名前を南無阿弥陀仏と唱えるように、それを真言にしますと、功徳をいただきたいというのを、「オン・バサラーアラタソノウーソワカ」といいます。
 たいへん唱えにくい真言ですが、それを一日一万遍唱えると、百日目にかならず虚空から星が天降るけれども、その行が生半可であれば、天降ってこないといわれます。
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焼山寺

縁起のもう一つの解釈は、

 この山の山人が修行者の入山を拒否したことが、龍によって入山を妨げられたという話になったという解釈です。山人に対して密教修行者が行力を示すことによって服属させ、従者として食物を運ばせて、食物を補給する力を三面黒天としています。
 三面大黒天はインド以来、厨の神様です。
いまでも比叡山の厨房(台所)には三面大黒天がまつってあるように、食物を補給するのが三而大黒天です。焼山寺にも毒龍の窟前に大黒天堂の跡があります。大黒天堂は寺のほうに移り、本堂の左にあった大師堂を右に移して、大師堂の奥に大黒天堂を建てていました。大黒天の信者が非常に強いので、そういうことにしたといっています。
 山人が入ってきた行者なり高僧なりに服属しますと、その人の行をサポートして、食物を運んだり、水をくんだりしてくれます。それが「採菜・拾薪・汲水・設食」です。食べ物を採ってくれたり、柴灯護摩のために薪を集めてくれたり、水をくんだり、食物を設けるのが山人の仕事です。高野山に弘法大師が入ってくると、山人がそういう仕事をして弘法大師の行を助けた、その山人の後裔が高野山を支えたということも最近わかってきました。

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焼山寺
 真正の霊場には必ず行場があります。

行場のない霊場はいささかあやしい霊場です。
現在は町の中にあるけれども、山の上に奥の院がある、そこに行けば行場があるというところもあります。本当の遍路をなさる方は、奥の院を聞いて、奥の院を回らないといけません。私がそのことの大事さをいうものですから、だんだんと八十八か所でも行場を掘り起こすようになりました。
四国霊場記に次のように書かれています。
奥院へは寺より凡十町余あり。六町ほど上りて祇園祠(八坂)あり、後のわきに地窟あり。右に大師御作の三面大黒堂あり。是より上りて護摩堂あり。是よりI町許さりて聞持窟、是よりあがりて本社弥山権現といふ。是は蔵王権現とぞきこゆ。下に杖立といふは大師御杖を立玉ふ所となん。地池と云あり。二十間に三十間もありとかや。
 祇園祠は現在は不動尊をまつっています。奥の院までは、十町では足りません。
もっと長いです。不動尊をまつる祇園祠、地窟、三面大黒堂、護摩堂など、道具だてはみなそろっています。弥山といっているのは頂上のことです。弥山という字を書くので須弥山のことだとお寺で書いたりするようになりますが、弥山と書いて「ミセソ」と読みました。安芸の宮島の山上を弥山と呼ぶのは頂上という意味です。伯者大山で弥山といっているのも頂上ということです。
 弥山が頂上で蔵王権現だといっていますが、お寺でもはっきりと、もとは虚空蔵菩薩をまつりたといっています。「下に杖立といふは大師御杖を立玉ふ所となん」というのは見つけることができませんでした。岫池という二十問に三十問のずいぶん大きな池があったたようですが涸れたとみえて、今はありません。
 これよりも35年ほど前に書かれた「四国辺路日記」には、次のようにあります。
扨当山二囃ノ院禅定トテ、山卜二秘所在リ、同行数卜人ノ中占、引導ノ僧二白銀二銭口遊シ、作ノ三面彼憎ご呻/呻ソ先達トシテ山ドツ巡礼ス。右山八町、先、ヤソクニ大師御ノ大黒ノ像在リ。毒岫フ封シ廓玉フ岩屋舟。求聞持ソ御修行ナサレタル所モ在。前二赤井(関伽井)トテ清水在リ。山頭二(蔵王権現立玉ヘリ。護岸ヲ修玉ヒシ檀場在リ。
 ここに出てくる先達を山先達といいます。
いちばん大きな龍王窟は、おそらく山人の住んでいた窟であろうとおもいます。
山人はそういうところに住んでいて山の神聖山人は、ときどき村に下って家々を祓い清めたり、祝福の言葉を述べたりしました。いま山からもって下りて家々に配っているものとして、近江地方では椋の枝があります。立山あたりでは、もとは椋とか榊をもってきたのでしょうが、のちになると立山の山伏が薬草を札に付けて配るということに変化してきます。これも、もともとは人の家づとで、それで十分生活ができたわけです。山人が山づとあるいは家づとをもって定期的に立山の信仰圈を回ったのが、いまの配置売薬の元だといわれています。いまは売薬業者が自動車で薬をもってきて配付して行きますが、もともとは山伏の山づとです。その前は杖をもっていったりしています。
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本堂に向かって右に大師堂、左に三面大黒天堂があり、その左に庫裡があります。
右に少し離れて社神社があります。これは神仏分離後、村の竹林に移りました。
寺が刈らなくなったので荒廃しています。八十八か所の霊場の鎮守は、みなこのように荒れていますが、無理な神仏分離の結果といえましょう。
 大師堂の前には鐘楼と石造宝塔や板碑等の石造物があります。 
衛門三郎の遺跡として、杖杉庵が登山路のなかほどにあります。
 衛門三郎の杖立杉かおりまして、ここに終焉を遂げた衛門三郎の杖を墓標にしたら根づいたとしています。これは、空海の修行に従者があったことを想像させるものです。百日間の求聞持法をする場合、自分で木の実を集めたり、山の芋を掘ったり、野草を集めたりして食事を作るわげにはいきませんので、そういうものを運んでくれる従者が必要でした。山人がそれをしたとすれば、それを大黒天としてまつるということがあったとかもいます。
 衛門三郎が国司の子どもに生まれたいといったので、死ぬときに石を握らせてやった、間もなく伊予の国司に子どもが生まれた。なかなか手を開かないので、無理やり開いてみたら、石を握っていた。すなわちこれが五十一番の石手寺の開創であるという話になってくるわけです。衛門三郎の伝承は、従者の存在を考えるうえで非常に大事なものです。

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五来重:四国遍路の寺より

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