瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:井川町の社寺建築

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バス停 井内思い出前(旧井内小学校前)

 井川町井川の修験者の痕跡を訊ねての原付ツーリングの続きで、今回は大久保集落を目指します。「井内思い出前」と付けられた井内小学校跡のバス停から、下久保のヒガンザクラを越えて、ジグザグの道を登っていきます。
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下久保のヒガンザクラ
ここから眺めると井内地区が高低差のある大きなきなソラの集落であることが改めて分かります。見てきて飽きない風景です。この彼岸桜が咲く頃に、また訪れたいと思いました。
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下久保からの井内の眺め

へピンカーブを曲がる度に、見える風景が変わっていくのを楽しみながら上へ上へと上っていきます。
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大久保からの風景
すこし傾斜が緩やかになり開けた場所に出てきました。ここが大久保集落のようです。
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大久保神社遠景
中央には、ソラの集落には珍しい田んぼが広がり、稲が実りの季節を迎えています。稲穂のゆらぐ田んぼのそばに、大きな椋の老木が立っています。白い建物は集会所のようです。

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近づいてみるとその神木の根元に、薄く割った青石(緑泥片岩)が3面を積み上げられ、寄り添うように建てられていました。
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大きな神木と割った石をそのまま使う野積みからは、素朴で力強い印象を受けます。その青石に守られるように、中に小さな本殿が静かに鎮座しています。時間が止まったような穏やかな風景です。
大久保神社平面図
大久保神社平面図(井川町)

 この拝殿は鞘堂を兼ねた建物で、壁3面を青石で約2,5m の高さに積み上げ、木造の小屋組に波トタンの屋根を載せています。正面に格子の建具が入り、中に小さな本殿が祀られています。

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ここまで導いてくれたことに感謝の気持ちを込めて参拝し、振り返って鳥居越の風景を眺めます。

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稲穂越の田んぼの向こうの上に、白い大きなトタン葺きの民家が見えます。この地域を開いた有力者の屋敷かも知れないなと思って、帰宅後に調べてみるとまさにその通りでした。井川町で最も古い屋敷とされる阿佐家の屋敷でした。
「井川町の民家 阿波学会研究紀要44号」には、次のように記されています。(要約)
①阿佐家は、永禄年間(1558~70)に、祖谷より出てきた平家の末孫阿佐家の分家
②江戸時代には庄屋を補佐する阿佐五人組の筆頭をつとめた家で、屋号の「オモテ」は、部落の中心に家があったことに由来
阿佐家配置図

③屋敷の構えは、東から上屋、蔵、主屋、葉タバコの収納小屋、納屋、畜舎などが線上に配置
④主屋は1980年に茅葺き屋根からトタン葺きになり、その時に大幅改造された。
⑤その際に1680年ごろの棟札を確認
外観はトタン葺きになって改造されていますが、ここから見ると風格を持った大農家の面影をよく残しています。この社の石段に座って、眺めていると時間が止まったような気がしてきます。
阿佐家平面図
阿佐家母屋の間取り
 阿佐家の家紋は「丸にアゲハ」で、氏神は前回見た馬岡新田神社で、阿佐一党の墓は若宮神社にあります。しかし、もともとはこの社が阿佐家の氏神であったと私は考えています。一族の信仰のために、井内川から運び上げた板状石を、祖先や一族が積み重ねて作られたものが現在にまで至っているのかもしれません。そして、その前の田んぼには稲穂が揺れていました。
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ここで注目したいのは、神木の下に六十六部の「日本廻国」碑が建っていることです。
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大久保庵日本廻国碑と、その説明版

六十六部は、日本全国66ケ国を廻って経典を収める廻国の修験者です。それがどうして、大久保に留まっていたのでしょうか。それは、井内エリアには修験者や山伏などを惹きつけるものがあったからでしょう。具体的には、地福寺です。地福寺は、近世後半になって剣山に円福寺を開き、木屋平の龍光寺とともに剣山信仰の拠点として栄えるようになったことは、以前にお話ししました。
 剣山信仰は、立山信仰や出羽三山信仰と同じく、先達が必要でした。また、信者たちの里に出向いて、お札を配布し、その年の剣山参拝を勧める誘引活動も必要でした。そのためには多くの修験者たちを配下におく必要があります。ここには修験者の雇用需要があったのです。全国を廻国する六十六部や山伏にとっては、剣山の地福寺や龍光寺にいけば、「雇用チャンス」があったことになります。また、同じ江戸後期には「金毘羅の奥社」と名乗りをあげた箸蔵寺も活発な布教活動を行っています。阿波のこの周辺は、廻国の六十六部たちにとっては、「仕事場」の多いエリアであったようです。もうひとつ、修験者の痕跡が残る所を訊ねておきます。
金銅金具装笈 - 山梨県山梨市オフィシャルサイト『誇れる日本を、ここ山梨市から。』
修験者の笈(仏がん)(法輪寺 山梨市)

細野集落には、「羽州(出羽)の仏がん」と呼ばれるものが残されています。
その説明版には、次のように記されています。
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ここからは次のようなことが分かります。
①幕末から明治初めに、出羽三山から廻国修験者がこの地にやって来て定着していたこと。
②羽州の修験者は、子安観音像を仏がん(笈)に入れてやってきたこと
③そして、妊婦の家を廻って安産祈祷を行っていたこと
④彼のもたらした観音さまと笈が、地域の信仰を集め、死後は庵として残ったこと
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子安観音と仏がんが安置されている庵(井内の細川集落)
ここからも出羽三山からの修験者が、この地にやって来て定住していたことが分かります。彼は、持参した子安観音に安産祈願の祈祷を行いながら、一方では地福寺に「雇用」されて、剣山参拝の先達をやっていたと私は考えています。
六部殺し(ろくぶごろし)【ゆっくり朗読】3000 - 怖いお話.net【厳選まとめ】
修験者と笈(仏がん)
信仰を集めた修験者(山伏)の入定塚は、信仰対象になりました。
修験者の持物を形見として、誓願をのこすというスタイルもあったようです。ここでは、それが仏がんになります。さらに庶民の願望をかなえる神として、石造物が作られたりもします。しかし、これは「流行(はやり)神」です。数年もたてば、忘れられて路傍の石と化すことが多かったのです
。川崎大師のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれなことです。
 全国にある大師堂の多くが、弘法大師伝説を持った高野聖の遊行の跡だったと研究者は指摘します。彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られて、すべてのことが「弘法大師」の行ったこととして伝えられるようになります。こうして「弘法大師伝説」が生まれ続けることになります。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡と同じです。
 しかし、ここではお堂が作られ信仰対象となり守られています。
先ほど見た大久保の六十六部碑もそうです。井内を初めとする剣周辺エリアには、多くの修験者たちが全国からやって来て集落に定着し、地元の人達の信仰を集めるようになっていたのでしょう。ある意味、修験者や聖にとっては居心地のいいところだったのかもしれません。同時に、地福寺の剣山信仰の「先達」として活動するという「副業」もあったと私は考えています。

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細川神社
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
社寺建築班(郷土建築研究会) 井川町の社寺建築   井川町の民家
阿波学会研究紀要44号
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馬岡新田神社の石垣と玉垣
   前回は剣山信仰の拠点となった地福寺にお参りしました。地福寺の参拝を済ませて井内川の対岸を見ると、高く積み上げられた石垣に玉垣。それを覆うような大きな鎮守の森が見えます。これが地福寺が別当を務めていた馬岡新田神社のようです。行ってみることにします。

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馬岡新田神社の石垣と鳥居
青石を規則正しく積み上げた石段の間の階段を上っていくと拝殿が見えてきます。
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馬岡新田神社 拝殿

正面に千鳥破風と大唐破風の向拝が付いています。頭貫木鼻や虹梁上部の龍の彫刻の見事さからは、匠の技の高さがうかがえます。
ここまで導いていただいた感謝の気持ちを込めてお参りします。
お参りした後で、振り返って一枚撮影するのが私の「流儀」です。

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拝殿から振り返った一枚
川筋・街道筋に沿って鎮座する神社であることが改めて分かります。祖谷や剣山参拝に向かう人達も、ここで安全祈願をしてから出立していたことでしょう。拝殿で参拝した後は、本殿を拝見させていただきます。境内の横に廻っていくと見えてきます。

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拝殿と本殿

一見して分かるのがただの本殿ではないようです。本殿と拝殿を別棟に並べる権現造りで、その間を幣殿と渡り廊で結んでいます。近づいてみます。

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馬岡新田神社 本殿
本殿は明治16年(1883)建立で、当初は桧皮葺の建物でした
が、昭和28年(1953)に銅板に葺(ふ)き替えられました。
屋根が賑やかな作りになっています。入母屋造の正面に千鳥破風が置かれ、さらに唐破風向拝が付けられています。これは手が込んでいます。宮大工が腕を楽しんで振るっている様子が伝わってきます。そんな環境の中で、作業に当たることができたのでしょう。

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馬岡新田神社の本殿は、権現造り

八峰造りという総桧作りで、上部の枡組、亀腹(基礎の石)と縁下の枡組(腰組)や向拝に彫られた龍も精巧と研究者は評します。

馬岡新田神社 本殿2
馬岡新田神社の彫刻

徳島県の寺社様式は圧倒的に流造様式が多いようです。
その中で井川町の「三社の杜(もり)」の神社には、あえて権現造りが用いられています。吉野川対岸の三好町にも権現造が4社あるようですから、この地域だけの特徴と研究者は考えているようです。
神 社 建 築 の 種 類
流造と権現造

 本殿でもうひとつ研究者が注目するのは、組物の肘木と頭貫の木鼻部分です。
そこには彫刻がなく角材が、そのまま使用しています。これも社寺建築では、あまり見られないことです。そういう意味では、権現造りの採用とともに、「既存様式への挑戦」を大工は挑んでいたいたのかも知れません。

馬岡新田神社 本殿4

帰ってきて調べると、馬岡新田神社以外の「三社の杜」の他の2社も、同じ時期に、同じような造りで作られているようです。棟札には、大工名は千葉春太(太刀野村)と佐賀山重平と記されています。三社の杜の社殿群は、明治前期に同じ大工の手によって連続して建てられたものなのです。明治16年以降に、太刀野村からやってきた腕のいい宮大工は、ここに腰を落ち着けて今までにないものを作ってやろうという意欲を秘めて、取りかかったのでしょう。箸蔵寺の堂舎が重文指定を受けていることを考えると、この社殿類は次の候補にもなり得るものだと私は考えています。
本殿のデーターを載せておきます。
木造 桁行三間 梁間二間 入母屋造 正面千鳥破風付 向拝一間唐破風 銅板葺 〈明治16年(1883)〉
身舎-円柱 腰長押 切目長押 内法長押 頭貫木鼻(寸切り) 台輪(留め) 三手先(直線肘木) 腰組二手先(直線肘木) 二軒繁垂木
向拝-角柱 虹梁型頭貫木鼻(寸切り) 出三斗 中備彫刻蟇股 手挟 刎高欄四方切目縁(透彫) 隅行脇障子(彫刻) 昇擬宝珠高欄 木階五級(木口) 浜床
千木-置千木垂直切 堅魚木-3本(千鳥及び唐破風部の各1本含む)
馬岡新田神社 本殿平面図

馬岡新田神社 本殿平面図
  この馬岡新田神社は、井川町内では最も古い神社のようです。
この神社は『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 美馬郡「波尓移麻比弥神社」に比定される式内社の論社になります。論社は他に、美馬市脇町北庄に波爾移麻比禰神社があります。もともとは、波尓移麻比弥神社と称し、農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)を祀っていたようです。
埴安神(埴山姫・埴山彦)の姿と伝承。ご利益と神社も紹介
農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)

埴山姫命は、伊邪那美命が迦具土神出産による火傷で死ぬ時にした「糞」です。「糞」に象徴される土の神としておきましょう。

農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)
埴安姫命

同時に出した尿は、水の神で「罔象女神」で、式内社「彌都波能賣神社」に相当します。その論社は、馬岡新田神社の北200mに鎮座する武大神社になります。この2つと、そして馬岡新田神社の境内南側にある八幡神社をあわせて「三社の杜(森)」と呼ばれているようです。
 これに中世になって、「平家伝説の安徳天皇」や「南朝の新田義治」が合祠しされるようになり、「波尓移麻比弥神社馬岡新田大明神」と呼ばれるようになります。

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剣山円福寺別院の看板が掛かる地福寺

 この別当寺が地福寺です。
 地福寺は、もともとは日の丸山の中腹の坊の久保にあったのが、18世紀前期か中期ごろに現在地に移ったとされます。境内の鐘楼前の岩壁には不動明王が祀られ、そこには今も野外の護摩祭壇もあります。ここが古くからの修験道の拠点であり「山伏寺」であったことがうかがえます。
 この寺は、井内だけでなく、祖谷にも多くの有力者を檀家としてもち、剣山西域に広大な寺領を持っていたこと、そして近世後半に、剣山見残しに大剣神社と円福寺を創建し、剣山信仰の拠点寺となるなど、活発な修験活動を行っていたことは前回にお話しした通りです。  地福寺が別当寺で社僧として、「三社の杜」の神社群を管理運営していたのです。それは地福寺に残された大般若経からもうかがえます。地福寺が井内や祖谷の宗教センターであったこと、三社の杜は神仏混淆の時代には、その宗教施設の一部であったことを押さえておきます。
馬岡新田神社大祭 | フクポン
 
それは「三社の杜」の神社の祭礼からもうかがえます。
秋の祭日では、元禄の頃から、先規奉公人5組、鉄砲4人、外に15名の警固のうちに始められます。本殿の祭礼後、旅所までの御旅が始まります。道中は300mですが、神事場の神事を含めると往復4時間をかけて、昔の大名行列を偲ばせる盛大な行列が進みます。
 井内谷三社宮の祭礼について
三社宮の祭礼行事は、「頭屋(とうや)組」によって行われます。井内谷の頭屋組は次の6組に分かれています。
奥組の東…馬場、平、岩坂、桜、知行の各集落
奥組の西…荒倉、駒倉、下影、野住(上・下)の各集落
中組の東…大久保、下久保、馬路、倉石、松舟、向の各集落
中組の西…坊、中津、吉木、上西ノ浦、下西ノ浦の各集落
下組の東…流堂、吹(上・下)、正夫(上・下)、大森の各集落
下組の西…杉ノ木、尾越、段地、安田、三樫尾の各集落
 頭屋組は東西が一つのセットで、奥(東西)・中(東西)・下(東西)の順に3年で一巡します。上表のように各頭屋組はそれぞれ5、6集落で構成されていて、その中の一つの集落が輪番で頭屋に当たります。実際に自分の集落に頭屋が回ってくるのは、十数年に一度です。地元の人達にとって頭屋に当たることは栄誉なこととされてきたようです。
井内谷三社宮の祭礼について
 頭屋組からは正頭人2名(東西各1名)、副頭人2名(東西各1名)、天狗(猿田彦)1名、宰領1名、炊事人6名(東西各3名)の計12名の「お役」が選出されます。
 氏子総代は上記地域の氏子全体から徳望のあつい人が選ばれる(定員10名)。氏子総代は宮司を助けて三社の維持経営に当たり、例大祭の際には氏子を代表して玉串を奉納したり、「お旅」(神輿渡御)のお供をしたりします。
井内谷三社宮の祭礼について
 ここからは、次のようなことが分かります。
①「三社の杜」の3つの神社が井内郷全体の住民を氏子とする郷社制の上に成り立っている。
②頭家組の組み分けなどに、中世の宮座の名残が色濃く残る。
③頭家は、各集落を代表する有力者が宮座を組織して運営した。
明治の神仏分離前までは地福寺が別当寺であったことを考えると、この祭りをプロデュースしたのは、修験者であることが12人のお役の中に「天狗」がいることからも裏付けられます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
社寺建築班(郷土建築研究会) 井川町の社寺建築  
 岡島隆夫・高橋晋一  井内谷三社宮の祭礼について
阿波学会研究紀要44号





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