瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:井川町井内

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井川町井内の野住妙見神社の鳥居からの眺め
前回は野住地区の子安観音堂と妙見神社に参拝しに行きました。妙見神社に参拝し、「日本一急勾配な石段」を下りて、鳥居で再度休憩します。ここからの風景は私にとっては絶景です。いろいろな「文化」が見えてきて、眺めていても飽きません。
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        野住妙見神社の鳥居周辺の畠の石積み
鳥居から続く畠の石段も年月をかけて積まれたものでしょう。それは、この石段も同じだし、以前に見た大久保神社の社殿を守る石積みの鞘堂も同じです。石を積み続けて生活を守ってきたことが少しづつ私にも見えてきます。
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阿波のソラの集落は、古い民家の宝庫です。
二百年を越える家が、沢山残っています。この妙見神社の下にも、古い家があります。中瀧家です。この家には「永代家系記録 本中瀧家」という記録が残されています。
井川町井内 野住の中瀧家
永代家系記録 本中瀧家
ここには、次のように記されています。
①初代始祖は高知県赤滝の武士で、この地域を最初に開いたこと
②弘法大師の「野に住み山に暮れなんとも弘法の塩をひろめん」との言葉から、中瀧一族が居住した土地を「野住」と名付けたこと
この家は、代々は農家で、1970年頃までは煙草をつくっていました。最初の開拓者のために山林主でもありました。

主屋は「六8畳」といわれる「四間取り」プランです。
 井川町井内 中瀧家
中瀧家間取り図
住みやすくリフォームはされていますが、濡縁あたりは昔の姿を残しています。伊助(文化7年(1810)正月5日亡)の言い伝えによると、この主屋は安永2年(1773)の建築と伝えられているようです。そうだとすると、約250年前のものになります。

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 中瀧家には、独自の茅場があり、茅は納屋に置いたり、敷地奥にある茅小屋に保管していたといいます。しかし、昭和42年(1967)にトタンで巻いたようです。その後、内部も改装されていますが、ナカノマの天井は、板を置いただけの「オキ天井」で残っているようです。カマヤ(台所)は、竹の半割を敷き詰め、オクドがあり、その外部には土桶が設置されていました。

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野住の民家と畠 
野住集落は、土佐からやって来た武士が帰農し、山を開いて住み着いた場所で、その一族の始祖とされた人達が約250年前に建てたのがこの家になるようです。そして、自分たちの開墾した所を誇りを持って「野住」と名付けて生活してきたのです。そこに、笈を背負った修験者がやってきて、彼らを信者として坊や堂を開いたというストリーが考えられます。そこに、遠くから参拝者が訪れるようになる次のようなプロセスを考えてみました。
①井内には剣山信仰の拠点であった地福寺があり、「剣山先達」などのために修験者を雇用した。
②剣山修行中に寝食を共にした里人と修験者の間には強い人間関係が結ばれるようになる。
③先達(修験者)は、信者の里にお札を持って、年に何回か出向いていた。
④そこでさまざまな祈祷などを依頼されることもあった。
こうして井内の修験者と、剣山信仰の里が結ばれるようになり、先達の坊や神社にも遠くから参拝者が訪れるようになった。

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こんなことを考えながら鳥居からボケーと風景を眺めていると、目に留まったものがあります。
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巨樹です。巨樹も私の「マイブーム」のひとつです。
グーグルマップルで見ると「薬師岡のケヤキ」で出ていました。
さっそく原付を走らせます。

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薬師岡のケヤキ

岡の下に少し傾くように勢いよく枝を伸ばしています。説明版を見てみます。
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ここには次のように記されています。
①野住妙見神社が開拓前の原生林を守り
②安産信仰の子安観音が右の袂守り、
③ケヤキの脇に祀られているお薬師さんが左袂り
として、地区民の信仰対象となり保存されてきた。
まさに神木が巨樹なるが由縁です。この地が開かれる以前から、この岡に立ち、この地の開拓のさまを見守り続けてきたようです。ソラの集落には、刻まれたひとひとつの歴史がこんな形で残されていることを教えてくれた井内の野住でした。ここに導いてくれた神々に感謝。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 井川の民家 郷土史研究発表会紀要44号
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井内の原付ツーリング
井内地区のソラの神社をめぐっての原付ツーリングの報告です。前回までの「井内原付徘徊」で、次のような事が分かってきました。
①井内谷川沿いに祖谷古道が伸びていた井内地区は、祖谷との関係が深いソラの集落であったこと
②郷社であった馬岡新田神社と、その別当寺だった地福寺が井内の宗教センターの役割を果たしていたこと
③地福寺は、近世後半には剣山信仰の拠点として、多くの修験者を配下に組み込み、活発な修験活動を展開していたこと
④そのため地福寺周辺の井内地区には、修験者たちがやってきて定着して、あらたな庵や坊を開いたこと。それが現在でも、集落に痕跡として残っていること
今回も修験者の痕跡を探して、井岡の西川の集落を廻って見ることにします。馬岡新田神社の石段に腰掛けながら次の行き先を考えます。グーグル地図で見ると、この少し奥に斉南寺があります。なんの予備知識もないまま、この寺を訪れることにします。

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山斜面に広がる井内のソラの集落
谷沿いの街道を離れ、旧傾斜のジグザクヘアピンをいくつも越えるとソラの集落の一番上まで上がってきました。周辺を見回すと、お寺らしい建物が見えてきたので近づいていきます。

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普通の民家とお堂が渡し廊下で結ばれているようです。

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斉南本堂
斉南寺ではなく済南のようです。廻国の修験者たちが、その土地に定住し、根付いていくためにはいくつかの関門を越えて行く必要がありました。その一例が前回に大久保集落で見た出羽三山から子安観音を笈に背負ってやってきた修験者です。彼は、子安観音を本尊として、安産祈願を行い信者を獲得し、庵を建てて定住していきました。

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 斉南本堂
この済南坊は、一見すると農家です。農家の離れにお堂がくっついているような印象を受けました。周りには、耕された畑が開かれています。ここに坊が開かれるまでにどんなストーリーがあったのでしょうか。ひとつの物語が書けそうな気もしてきます。ボケーとして、ここからの風景を眺めていました。

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次に目指したのが野住地区の子安観音です。
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            旧野住小学校
下影の棚田を越えて、県道分岐をさらに越えて上っていきます。すると廃校になった小学校跡が道の下に現れました。

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きれいに清掃がされたグランドに下りていくと、大きな銀杏の根元に鹿と虎が出迎えてくれました。シュールです。
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野住の子安観音堂 宿泊施設付
反対側の出口を抜けると観音堂が見えてきました。正面に下りて、お参りさせてもらいます。

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            野住の子安観音堂 
集落の人々の信仰を集めていたのでしょう。そこすぐ横に、小学校ができて「文教センター」の機能を果たしていたのでしょう。お参り後に、説明版を見ます。
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ここには次のようなことが記されています。
①室町時代の子安観音を本尊として、遠方からの信者もお参りにきていること
②弘法大師伝説があり「たとえ野に住み山に暮れ果てようとも、弘法の徳を顕さん」から「野住」の地名がつけられたこと。
「野に住む」、改めていい地名だなと思いました。ここにも修験者の痕跡が見えてきます。

次にめざすのが妙見神社です。
妙見さんは、北極星を神格化した妙見菩薩に対する信仰で、眼病に良くきくという妙見法 という修法が行われました。これを得意としたのが修験者(天狗)たちです。妙見さんの鎮守の森の下に小さな鳥居が見えました。これは鳥居から参拝道を上るのが作法ということで、下に一旦下りました。登り口は畠の石段が続きます。

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道から鳥居を見上げてびっくり。

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          妙見神社の石段の登り口
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野住の妙見神社の鳥居と階段 
階段の傾斜が尋常ではないのです。立って上ることが出来ません。鳥居前では、中央部はオーバーハング気味です。なんとか這いながら鳥居まで上ります。そして振り返ってみます。

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妙見神社鳥居からの井内遠望
この光景に見とれて、石段に座り込んでしまいました。

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「よう来たな。ここで一服していきまえ」
と狛犬の声が聞こえてきたような気がしました。私は「この階段は日本一きつい階段とちがいますか?」と問うと、別の狛犬が
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「そうかもしれませんな」と答えたような・・・
這いながらたどり着いた妙見神社は、こんな姿でお待ちでした。
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野住の妙見神社
社まで急な上りが続きます。社殿の基壇や石段まで青石が積まれています。つるぎ町の神明神社の古代祭祀遺跡も青石が野積みされていました。また、前々回に紹介した井内の大久保神社の社は青石を積んだ鞘堂の中にありました。また、神社の境内に青石で積まれた祠を、よく目にしました。ソラの集落は青石文化と深く関わっている土地柄なのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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馬岡新田神社の石垣と玉垣
   前回は剣山信仰の拠点となった地福寺にお参りしました。地福寺の参拝を済ませて井内川の対岸を見ると、高く積み上げられた石垣に玉垣。それを覆うような大きな鎮守の森が見えます。これが地福寺が別当を務めていた馬岡新田神社のようです。行ってみることにします。

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馬岡新田神社の石垣と鳥居
青石を規則正しく積み上げた石段の間の階段を上っていくと拝殿が見えてきます。
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馬岡新田神社 拝殿

正面に千鳥破風と大唐破風の向拝が付いています。頭貫木鼻や虹梁上部の龍の彫刻の見事さからは、匠の技の高さがうかがえます。
ここまで導いていただいた感謝の気持ちを込めてお参りします。
お参りした後で、振り返って一枚撮影するのが私の「流儀」です。

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拝殿から振り返った一枚
川筋・街道筋に沿って鎮座する神社であることが改めて分かります。祖谷や剣山参拝に向かう人達も、ここで安全祈願をしてから出立していたことでしょう。拝殿で参拝した後は、本殿を拝見させていただきます。境内の横に廻っていくと見えてきます。

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拝殿と本殿

一見して分かるのがただの本殿ではないようです。本殿と拝殿を別棟に並べる権現造りで、その間を幣殿と渡り廊で結んでいます。近づいてみます。

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馬岡新田神社 本殿
本殿は明治16年(1883)建立で、当初は桧皮葺の建物でした
が、昭和28年(1953)に銅板に葺(ふ)き替えられました。
屋根が賑やかな作りになっています。入母屋造の正面に千鳥破風が置かれ、さらに唐破風向拝が付けられています。これは手が込んでいます。宮大工が腕を楽しんで振るっている様子が伝わってきます。そんな環境の中で、作業に当たることができたのでしょう。

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馬岡新田神社の本殿は、権現造り

八峰造りという総桧作りで、上部の枡組、亀腹(基礎の石)と縁下の枡組(腰組)や向拝に彫られた龍も精巧と研究者は評します。

馬岡新田神社 本殿2
馬岡新田神社の彫刻

徳島県の寺社様式は圧倒的に流造様式が多いようです。
その中で井川町の「三社の杜(もり)」の神社には、あえて権現造りが用いられています。吉野川対岸の三好町にも権現造が4社あるようですから、この地域だけの特徴と研究者は考えているようです。
神 社 建 築 の 種 類
流造と権現造

 本殿でもうひとつ研究者が注目するのは、組物の肘木と頭貫の木鼻部分です。
そこには彫刻がなく角材が、そのまま使用しています。これも社寺建築では、あまり見られないことです。そういう意味では、権現造りの採用とともに、「既存様式への挑戦」を大工は挑んでいたいたのかも知れません。

馬岡新田神社 本殿4

帰ってきて調べると、馬岡新田神社以外の「三社の杜」の他の2社も、同じ時期に、同じような造りで作られているようです。棟札には、大工名は千葉春太(太刀野村)と佐賀山重平と記されています。三社の杜の社殿群は、明治前期に同じ大工の手によって連続して建てられたものなのです。明治16年以降に、太刀野村からやってきた腕のいい宮大工は、ここに腰を落ち着けて今までにないものを作ってやろうという意欲を秘めて、取りかかったのでしょう。箸蔵寺の堂舎が重文指定を受けていることを考えると、この社殿類は次の候補にもなり得るものだと私は考えています。
本殿のデーターを載せておきます。
木造 桁行三間 梁間二間 入母屋造 正面千鳥破風付 向拝一間唐破風 銅板葺 〈明治16年(1883)〉
身舎-円柱 腰長押 切目長押 内法長押 頭貫木鼻(寸切り) 台輪(留め) 三手先(直線肘木) 腰組二手先(直線肘木) 二軒繁垂木
向拝-角柱 虹梁型頭貫木鼻(寸切り) 出三斗 中備彫刻蟇股 手挟 刎高欄四方切目縁(透彫) 隅行脇障子(彫刻) 昇擬宝珠高欄 木階五級(木口) 浜床
千木-置千木垂直切 堅魚木-3本(千鳥及び唐破風部の各1本含む)
馬岡新田神社 本殿平面図

馬岡新田神社 本殿平面図
  この馬岡新田神社は、井川町内では最も古い神社のようです。
この神社は『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 美馬郡「波尓移麻比弥神社」に比定される式内社の論社になります。論社は他に、美馬市脇町北庄に波爾移麻比禰神社があります。もともとは、波尓移麻比弥神社と称し、農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)を祀っていたようです。
埴安神(埴山姫・埴山彦)の姿と伝承。ご利益と神社も紹介
農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)

埴山姫命は、伊邪那美命が迦具土神出産による火傷で死ぬ時にした「糞」です。「糞」に象徴される土の神としておきましょう。

農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命)
埴安姫命

同時に出した尿は、水の神で「罔象女神」で、式内社「彌都波能賣神社」に相当します。その論社は、馬岡新田神社の北200mに鎮座する武大神社になります。この2つと、そして馬岡新田神社の境内南側にある八幡神社をあわせて「三社の杜(森)」と呼ばれているようです。
 これに中世になって、「平家伝説の安徳天皇」や「南朝の新田義治」が合祠しされるようになり、「波尓移麻比弥神社馬岡新田大明神」と呼ばれるようになります。

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剣山円福寺別院の看板が掛かる地福寺

 この別当寺が地福寺です。
 地福寺は、もともとは日の丸山の中腹の坊の久保にあったのが、18世紀前期か中期ごろに現在地に移ったとされます。境内の鐘楼前の岩壁には不動明王が祀られ、そこには今も野外の護摩祭壇もあります。ここが古くからの修験道の拠点であり「山伏寺」であったことがうかがえます。
 この寺は、井内だけでなく、祖谷にも多くの有力者を檀家としてもち、剣山西域に広大な寺領を持っていたこと、そして近世後半に、剣山見残しに大剣神社と円福寺を創建し、剣山信仰の拠点寺となるなど、活発な修験活動を行っていたことは前回にお話しした通りです。  地福寺が別当寺で社僧として、「三社の杜」の神社群を管理運営していたのです。それは地福寺に残された大般若経からもうかがえます。地福寺が井内や祖谷の宗教センターであったこと、三社の杜は神仏混淆の時代には、その宗教施設の一部であったことを押さえておきます。
馬岡新田神社大祭 | フクポン
 
それは「三社の杜」の神社の祭礼からもうかがえます。
秋の祭日では、元禄の頃から、先規奉公人5組、鉄砲4人、外に15名の警固のうちに始められます。本殿の祭礼後、旅所までの御旅が始まります。道中は300mですが、神事場の神事を含めると往復4時間をかけて、昔の大名行列を偲ばせる盛大な行列が進みます。
 井内谷三社宮の祭礼について
三社宮の祭礼行事は、「頭屋(とうや)組」によって行われます。井内谷の頭屋組は次の6組に分かれています。
奥組の東…馬場、平、岩坂、桜、知行の各集落
奥組の西…荒倉、駒倉、下影、野住(上・下)の各集落
中組の東…大久保、下久保、馬路、倉石、松舟、向の各集落
中組の西…坊、中津、吉木、上西ノ浦、下西ノ浦の各集落
下組の東…流堂、吹(上・下)、正夫(上・下)、大森の各集落
下組の西…杉ノ木、尾越、段地、安田、三樫尾の各集落
 頭屋組は東西が一つのセットで、奥(東西)・中(東西)・下(東西)の順に3年で一巡します。上表のように各頭屋組はそれぞれ5、6集落で構成されていて、その中の一つの集落が輪番で頭屋に当たります。実際に自分の集落に頭屋が回ってくるのは、十数年に一度です。地元の人達にとって頭屋に当たることは栄誉なこととされてきたようです。
井内谷三社宮の祭礼について
 頭屋組からは正頭人2名(東西各1名)、副頭人2名(東西各1名)、天狗(猿田彦)1名、宰領1名、炊事人6名(東西各3名)の計12名の「お役」が選出されます。
 氏子総代は上記地域の氏子全体から徳望のあつい人が選ばれる(定員10名)。氏子総代は宮司を助けて三社の維持経営に当たり、例大祭の際には氏子を代表して玉串を奉納したり、「お旅」(神輿渡御)のお供をしたりします。
井内谷三社宮の祭礼について
 ここからは、次のようなことが分かります。
①「三社の杜」の3つの神社が井内郷全体の住民を氏子とする郷社制の上に成り立っている。
②頭家組の組み分けなどに、中世の宮座の名残が色濃く残る。
③頭家は、各集落を代表する有力者が宮座を組織して運営した。
明治の神仏分離前までは地福寺が別当寺であったことを考えると、この祭りをプロデュースしたのは、修験者であることが12人のお役の中に「天狗」がいることからも裏付けられます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
社寺建築班(郷土建築研究会) 井川町の社寺建築  
 岡島隆夫・高橋晋一  井内谷三社宮の祭礼について
阿波学会研究紀要44号





原付バイクで新猪ノ鼻トンネルを抜けての阿波のソラの集落通いを再開しています。今回は三好市井川町の井内エリアの寺社や民家を眺めての報告です。辻から井内川沿いの県道140線を快適に南下していきます。
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井内川の中に表れた「立石」
   川の中に大きな石が立っています。グーグルには「剣山立石大権現」でマーキングされています。
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剣山立石大権現
石の頂上部には祠が祀られ、その下には注連縄が張られています。道の上には簡単な「遙拝所」もありました。そこにあった説明看板には、次のように記されています。
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①井内は剣山信仰の拠点で、御神体を笈(おい)に納めて背負い、ホラ貝を吹き、手に錫杖を持ち  お経と真言を唱えて修行する修験者(山伏)の姿があちらこちらで見られた。その修験者の道場跡も残っている。
②この剣山立石大権現の由来については、次のように伝わっている。
山伏が夜の行を終えてここまで還って来ると、狸に化かされて家にたどり着けず、果てには身ぐるみはがされることもあった。そこで山伏は本尊の権現を笈から出して、この石の上に祀った。するとたちまち被害がなくなった。こうして、この石は豪雨災害などからこの地を守る神として信仰されるようになり「立石剣山大権現」と呼ばれるようになった。
③1970年頃までは、護摩焚きが行われ「五穀豊穣」「疫病退散」などが祈願されていた。県道完成後、交通通量の増大でそれも出来なくなり、山伏による祈祷となっている。
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剣山立石大権現
ここからは井内地区が剣山信仰の拠点で、かつては数多くの修験者たちがいたことがうかがえます。この立石は井内の入口に修験者が張った結界にも思えてきます。それでは、修験者たちの拠点センターとなった宗教施設に行ってみましょう。
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地福寺
  井内の家並みを越えてさらに上流に進むと、川の向岸に地福寺が見てきます。
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この看板には次のようなことが記されています。
①大日如来坐像が本尊で、室町時代までは日の丸山中腹の坊の久保(窪)にあったこと。
②南北朝時代の大般若経があること
③平家伝説や南北朝時代に新田義治が滞留した話が伝わっていること。
④地福寺の住職が剣山見残しの円福寺の住職を兼帯していること。
 この寺院は、対岸にある旧郷社の馬岡新田神社の神宮寺だったようです。
②のように南北朝時代の大般若経があるということは、「般若の嵐」などの神仏混淆の宗教活動が行われ、この寺が郷社としての機能を果たしていたことがうかがえます。地福寺の住職が別当として、馬岡新田神社の管理運営を行うなど、井内地区の宗教センターとして機能していたことを押さえておきます。

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地福寺
 町史によると、もともとは日の丸山の中腹の坊の久保にあったのが、18世紀前期か中期ごろに現在地に移ったと記されています。現在の境内は山すその高台にあり、谷沿いの車道からは見上げる格好になり山門と鐘楼が見えるだけです。P1170083
地福寺の本堂と鐘楼
 石段を登り山門(昭和44(1969)年)をくぐると、正面に本堂、右側に鐘楼があります。鐘楼の前の岩壁には不動明王が祀られ、野外の護摩祭壇もあります。ここが古くからの修験道の拠点であり「山伏寺」であったことがうかがえます。
 本堂は文政年間(1818~30)の建築のようですが、明治40年(1907)に茅から瓦に、さらに昭和54年(1979)には銅板に葺き替えられています。また度重なる増築で、当時の原型はありません。鐘楼は総欅造りで、入母屋造銅板葺の四脚鐘台です。組物は出組で中備を詰組とします。扇垂木・板支輪・肘木形状などに禅宗様がみられ、全体に禅宗様の色濃い鐘楼と研究者は評します。

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③の地福寺と西祖谷との関係を見ておきましょう。
この寺の前に架かる橋のたもとには、ここが祖谷古道のスタート地点であることを示す道標が建っています。地福寺のある井内と市西祖谷山村は、かつては「旧祖谷街道(祖谷古道)で結ばれていました。地福寺は、井内だけでなく祖谷の有力者である「祖谷十三名」を檀家に持ち。祖谷とも深いつながりがありました。地福寺は祖谷にも多くの檀家を持っていたようです。
井川町の峠道
水の口峠と祖谷古道
 井内と西祖谷を結ぶ難所が水ノ口峠(1116m)でした。
地福寺からこの峠には2つの道がありました。一つは旧祖谷街道(祖谷古道)といわれ、日ノ丸山の北西面を巻いて桜と岩坂の集落に下りていきます。このふたつの集落は小祖谷(西祖谷)と縁組みも多く、戦後しばらくは、このルートを通じて交流があったようです。

小祖谷の明治7年(1875)生れの谷口タケさん(98歳)からの聞き取り調査の記録には、水ノ口峠のことが次のように語られています。

水口峠を越えて、井内や辻まで煙草・炭・藍やかいを負いあげ、負いさげて、ほれこそせこ(苦し)かったぞよ。昔の人はほんまに難儀しましたぞよ。辻までやったら3里(約12キロ)の山道を1升弁当もって1日がかりじゃ。まあ小祖谷のジン(人)は、東祖谷の煙草を背中い負うて運んでいく、同じように東祖谷いも1升弁当で煙草とりにいたもんじゃ。辻いいたらな、町の商売人が“祖谷の大奥の人が出てきたわ”とよういわれた。ほんなせこいめして、炭やったら5貫俵を負うて25銭くれた。ただまあ自家製の炭はええっちゅうんで倍の50銭くれました。炭が何ちゅうても冬のただひとつの品もんやけん、ハナモジ(一種の雪靴)履いて、腰まで雪で裾が濡れてしょがないけん、シボリもって汗かいて歩いたんぞよ。祖谷はほんまに金もうけがちょっともないけに、難儀したんじゃ」

 もうひとつは、峠と知行を結ぶもので、明治30年(1897)ごろに開かれたようです。
このルートは、祖谷へ讃岐の米や塩が運ばれたり、また祖谷の煙草の搬出路として重要な路線で、多くの人々が行き来したようです。 この峠のすぐしたには豊かな湧き水があって、大正8年(1919)から昭和6年(1931)まで、凍り豆腐の製造場があったようです。

「峠には丁場が五つあって、50人くらいの人が働いていた。すべて井内谷の人であった。足に足袋、わらじ、はなもじ、かんじきなどをつけて、天秤(てんびん)棒で2斗(30kg)の大豆を担いで上った」
と知行の老人は懐古しています。
 水ノ口峠から地福寺を経て、辻に至るこの道は、吉野川の舟運と連絡します。
また吉野川を渡り、対岸の昼間を経て打越峠を越え、東山峠から讃岐の塩入(まんのう町)につながります。この道は、古代以来に讃岐の塩が祖谷に入っていくルートの一つでもありました。また近世末から明治になると、多くの借耕牛が通ったルートでもありました。明治になって開かれた知行経由の道は、祖谷古道に比べてると道幅が広く、牛馬も通行可能だったようです。しかし、1977年に現在の小祖谷に通ずる林道が開通すると、利用されることはなくなります。しかし、杉林の中に道は、今も残っています。
水の口峠の大師像
水の口峠の大師像
この峠には、「文化元年三月廿一日 地福寺 朝念法印」の銘のある弘法大師の石像が祀られています。朝念というのは、地福寺の第6代住職になるようです。朝念が、水ノ口峠に石仏を立てたことからも、この峠の重要さがうかがえます。
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剣山円福寺別院の看板が掲げられている
④の地福寺と剣山の円福寺について、見ていくことにします。
 剣山の宗教的な開山は、江戸後期のことで、それまでは人が参拝する山ではなく、修験者が修行を行う山でもなかったことは以前にお話ししました。剣山の開山は、江戸後期に木屋平の龍光寺が始めた新たなプロジェクトでした。それは、先達たちが信者を木屋平に連れてきて、富士の宮を拠点に行場廻りのプチ修行を行わせ、ご来光を山頂で拝んで帰山するというものでした。これが大人気を呼び、先達にたちに連れられて多くの信者たちが剣山を目指すようになります。
木屋平 富士の池両剣神社
 藤の池本坊
  龍光寺は、剣山の八合目の藤の池に「藤の池本坊」を作ります。
登山客が頂上の剱祠を目指すためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を造営し、寺が別当となります。この藤(富士)の池は、いわば「頂上へのベースーキャンプ」であり、頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、多くの参拝客を集めることになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
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地福寺の護摩壇

  このような動きを見逃さずに、追随したのが地福寺です。
地福寺は先ほど見たように祖谷地方に多くの信者を持ち、剣山西斜面の見ノ越側に広大な社領を持っていました。そこで、地福寺は江戸時代末に、見の越に新たに剣山円福寺を建立し、同寺が別当となる剣神社を創建します。こうして木屋平と井内から剣山へのふたつのルートが開かれ、剣山への登山口として発展していくことになります。
宿泊施設 | 剣山~古代ミステリーと神秘の世界~

  それでは、地福寺から剣山へのルートは、どうなっていたのでしょうか?
 水口峠の近く日ノ丸山があります。この山と城ノ丸の間の鞍部にあるのが日の丸峠です。井川町桜と東祖谷山村の深渕を結び、落合峠を経て祖谷に入る街道がこの峠を抜けていました。
   見残しにある円福寺の住職を、地福寺の住職が兼任していたことは述べました。地福寺の住職の宮内義典氏は、小学校の時に祖父に連れられて、この峠を越えて円福寺へ行ったことがあると語っています。つまり、祖谷側の剣山参拝ルートのスタート地点は、井内の地福寺にあったことになります。
 
日ノ丸山の中腹に「坊の久保」という場所があります。
ここに地福寺の前身「持福寺」があったといわれます。平家伝説では、文治元年(1185)、屋島の戦いに敗れた平家は、平国盛率いる一行が讃岐山脈を越えて井内谷に入り、持福寺に逗留したとされます。
  以上をまとめておきます
①井川町井内地区には、修験者の痕跡が色濃く残る
②多くの修験者を集めたのは地福寺の存在である。
③地福寺は、神仏混淆の中世においては郷社の別当寺として、井内だけでなく祖谷の宗教センターの役割を果たしていた。
④そのため地福寺は、祖谷においても有力者の檀家を数多く持ち、剣山西域で広大な寺領を持つに至った。
⑤地福寺と西祖谷は、水の口峠を経て結ばれており、これが祖谷古道であった。
⑥地福寺は剣山が信仰の山として人気が高まると、見残しに円福寺と劔神社を創建し、剣山参拝の拠点とした。
⑦そのため祖谷側から剣山を目指す信者たちは、井内の地福寺に集まり祖谷古道をたどるようになった。
⑧そのため剣山参拝の拠点となった地福寺周辺の集落には全国から修験者が集まって来るようになった。
祖谷古道

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