瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:井川町辻

                      平田船
吉野川の平田船
少し前に半田の川港のことを紹介しました。すると井川町の辻にも川港があると教えられました。しかも、「川港跡」ではなく現役の港として機能していること、その港の管理センターや船の修復所まであって、管理センターには要員まで待機しているというのです。ホンマかいな?と思いましたが、実際に確認しに行ってきました。その報告書です。
 吉野川の川港
吉野川の旧川港 辻の浜は⑧

 吉野川の旧川港地図を見ると、確かに辻には港があったことが分かります。それでは、どのくらいの川船がいたのでしょうか。
三好・美馬郡の平田船数

近代の川船(平田船)の所属表を見てみると、東井川村(辻)は、35艘とあります。これは池田や白地よりも多く、最も多くの川船が母港としていたことが分かります。ここからも、辻が人とモノの集まる経済的な集積地であったことがうかがえます。その繁栄の源が何であったかは後で見ることにして、さっそく原付バイクを走らせます。

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美濃田大橋
猪ノ鼻トンネルを越えて美濃田大橋まで30分でやって来てしまいました。新猪ノ鼻トンネルの開通で、まんのう町から池田方面は本当に近くなりました。雰囲気のある大好きな美濃田大橋を渡って、辻の旧道に入っていきます。
 辻の町は旧道沿いにはうだつの上がった家が並びます。個性を主張する独特な家もあり、見ていて楽しくなります。
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三階建ての木造母屋 奥が深い町屋作り

 辻は、半田や貞光・穴吹に比べても面積は狭いのですが、江戸時代から祖谷や井内などの後背地を持ち、その集積地として栄えてきました。

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讃岐からの塩などが昼間を通じて、祖谷や井内に入っていく交易拠点で、モノと人が行き交う要衝でした。近世後半の辻の発展は、刻み煙草によってもたらされます。井内など周辺のソラの村で収穫された煙草が、辻に集積されるようになります。それが明治になり、営業の自由が認められると煙草工場がいくつも立ち並び、煙草専売化前には70の工場があったようです。それらが辻の川港から平田船で積み出されていきます。一艘分の煙草荷で一軒の家が建つと云われたそうです。それでは、煙草を積んだ船が出港していった港を見に行きましょう。

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 旧道に青石で囲まれた共同井戸に、赤い鉄板が被せられています。もう使われていないようです。井戸があった場所は、町のポイントになります。ここから港に下りていく道があります。この道が浜の坂とよばれ、両側には料亭や飲み屋が軒を並べていたと云います。
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真っ直ぐ進むと、国道と線路の下をくぐります。振り返るとこんな感じでした。

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すると視界が開けて、すぐ目の前を吉野川が流れています。
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辻の川港跡
上流を眺めると空色の高速道路の橋が見え、すぐ上流で瀬が北岸にぶつかって流れを変えて流れの速い所です。ここは井内谷川との合流地点のすぐ下手で水深が深く流れの静かな淵になっています。ここが辻の川港跡です。

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 入江を見ると、今も鮎船が浮かんでいます。

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それに監視センターもあります。
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川船の保管庫もあります。確かに現役の川港と云えなくはありません。
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この椅子に座って、想像力を羽ばたかせると、棹さして川の流れに乗って出港していく平田船のイメージが湧いてきます。吉野川の旧川港の中で、一番保存状態がいい所かもしれません。
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辻の浜を守る会の活動日

管理センターの張り紙をみると、多くのボランテイアの活動でこの光景が維持されていることが分かります。感謝。
吉野川の川船IMG_4161

吉野川には多くの帆かけ船(平田船)が行き来していました。
帆にいっばいの東風を受けて、三隻・五隻とつらなって吉野川をさかのぼっていったと回顧されています。上流に消えたかと思うとやって来るといった具合に、古野川には帆かけ船の通行が絶えなかったといいます。
上流からは、たばこ・木炭・薪・藍その他、山地の産物
下流からの積荷は、塩などの海産物・肥料・米・衣料・陶器。金物・その他雑貨日用品など。
吉野川の川船輸送は、時代とともに盛んとなり、明治24年頃が最盛期でした。その後、道路の改修、牛馬車の発達、鉄道の開通によって河川交通は陸上交通にその役割をゆずっていきます。特に大正3年(1914)に鉄道が池田まで延長されると、川船はほとんどその姿を消すことになります。
吉野川にて渡し船で六田に渡る 1896
奈良の吉野川にて,渡し船で六田に渡る 1896年 パーソンズの日本記
 それならこの港に人影は絶えたのかというと、そうではないようです。
美濃大橋が出来るのは、戦後のことです。さきほど見たように、明治になって煙草工場が数多くできると、そこで働くために、北岸の人達は渡舟で辻にやってきていました。通勤のために利用したのが辻の渡場になります。さらに、大正3年(1914四)徳島線が池田まで開通し、辻駅が設置されると、人とモノの物流の拠点は辻駅になります。北岸から鉄道を利用する人々は、辻の渡場を利用して、辻駅で乗り降りするようになります。三好高等女学校、池田中学校(旧制)へ通学する昼間・足代の人たちも渡船の利用者でした。

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美濃田大橋
 辻の渡場は、この港から200mほど下流にあります。行ってみましょう。
赤と白のストライプの美濃大橋を眺めながら川沿いの道を歩いて行きます。そうすると岩場がコンクリートで固められた所が出てきます。

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辻の渡し跡
これが渡場の桟橋だったようです。向こう岸の昼間側にも露出した岩場があります。


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美濃田大橋からの辻の渡場 左が辻側、右(北岸)のオツゲ岩
 大正15年に、南岸は岩場を掘り抜いた道が新設されます。それに併せるように、北岸の渡場も岩盤を削りとり、両岸ともに立派なコンクリートで固めた船着場ができます。ただし、北岸は荷車以外は、それまで通り、川原の大きな「オツゲ岩」のところから渡し船で往来したようです。北岸川岸の大きな岩が「オツゲ岩」のようです。

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美濃田大橋からの北岸の辻の渡し場
辻の渡しは、古くは宮の下(滝宮神社)の渡しともいわれ、辻町の中心部と昼間を結ぶ重要な渡し場でした。
ここは先ほど見たように、すぐ上流で瀬が終わり、美濃田の瀞場の始まりになるところで、流れもゆるやかになる所です。上流で流された流木が、この瀞場で回収されて筏に組まれて、ここからが筏氏たちが下流まで運んだことは、以前にお話ししました。そのため渡船を渡すには安全で、出水時にも、かなりの増水でも渡船できたようです。
池田町大具渡し
三好市池田町大具の渡し 1958年三好大橋完成まで運用
渡場には多くの事故が起きています。辻の渡場で最も大きな事故では、17名の若人が溺死しています。
明治42年(1909)年4月7日午前7時のことです。前夜からの雨で、吉野川は増水し勢いを強めていました。渡し船に乗ったのは官営になったばかりの煙草刻工場へ通勤する工員たちで、すべて北岸の者ばかりでした。出勤時間前なので、工場に急ぐ工員たちが、昼間側から定員一杯に乗りこみます。辻側の岸に着くや否や、先を争て舟の縁を踏み切って跳び出します。その反動で船が大きく揺れ、濁水が底をすくって転覆します。本流が南岸に近く、増水していたので、17名が濁流に飲まれて尊い命を落としました。

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昼間側の岡の上に建つ地蔵さん

このような惨事を見守り続けた地蔵さまがいらっしゃいます。
辻渡船場北岸の旧渡場が見下ろせる民家の屋敷内に立派な地蔵さんが座っています。碑文には次のように記します。

「三界萬霊、天保五甲午歳  1834)二月、世話人・泰道・正圃・武之丈・昼間村・東井川村・西井内谷・足代村・東井谷・東山村講中」

北岸の村々の人々によって、約190年前に建立されたお地蔵さまです。渡船場での水の事故はつきものだったので、多くの人々が水の犠牲になっています。この地蔵さんは、水難事故で亡くなった人々の霊を慰めるとともに、渡船の安全守護を祈願して建てられたのでしょう。

美濃田の渡しと橋の渡り初め
美濃田大橋の完成と消えゆく渡し船
昭和34(1959年に、美濃田大橋が完成します。そして、渡船場は廃止されます。お地蔵さまもその使命を終えたかのように、今は吉野川の流れを見守りながら庭先にぽつんと立っています。

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  以上、辻の川港の調査報告でした。確かに、川港の雰囲気を最も伝える環境が残されていました。監視小屋の前に置かれた椅子に座って見える、吉野川の姿も素晴らしいものがありました。紹介していただいたことに感謝。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     吉野川の水運        三好町史歴史編 772P    
 菖蒲・土居町内会小誌 三好町史地域編  71P
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阿波池田の親三好大橋の上流からから出港。
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三好大橋下の落ち込みをなんとか通り抜けて、鉄橋と高速の橋をくぐる。
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吉野川鉄橋を土讃線の普通列車が通過していった。

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昼間の長いザラ瀬抜けると最後に落ち込みがあり、宮下の台地にぶつかり大きく流れを変える。そして正面に見えてくるのが美濃田大橋。
この橋が1960年竣工。上流にあった三好大橋より1年若く「56歳」
ここから長い瀞場が始まる。
プールがなかった1970年頃までは、この付近は川原が広がり遠浅であったので、子供の楽しい水泳場であったようだ。夏休み中は、PTAの監視下で水泳が行われたという。

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「上陸」してみると、こんな石碑が建てられていた。
昼間と辻を結ぶ「辻の渡し」とある。
この渡場について三好町史にはこんな記述がある。
 「明治から大正・昭和の戦後まで、辻地区は面積は狭いが、井内谷・祖谷谷という後背地を有し、特に刻み煙草で繁盛しており、人家が密集し商店が軒を連ねた。特に渡し場上がりの浜地区には、大きな商店や、料理店まであり、その賑やかさは北岸の比でなかった。こうした状況から、北岸から南岸へ渡る人は増加していった。」

 明治四十四年(1912)ごろに、中屋から辻渡船場への道も道路改修が行われた。大正三年(1914)徳島線が池田まで開通し、辻駅が設置されるにいたって、人はいうに及ばず、物資輸送もこの駅が起点となった。北岸の昼間側からの利用者は急増し、特に朝夕の通勤・通学時には非常に混雑した。
 大正十五年現在の町道・昼間中屋線(通称新道)が完成し、同時に南岸は岩場を掘り抜いた道が新設され、北岸も岩盤を削りとり、両岸ともに立派なコンクリートで固めた船着場ができた。
 昭和三十四年、美波田大橋の架橋で廃止となった。船頭さんの逸話、施与米、賃取、昭和二十三年県営化、借耕牛、カンドリ舟、転覆の惨事など、悲喜・哀歓の長い歴史を両岸の岩場に残して、幕を下ろした。
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美濃田大橋から上流をながめた風景。
向こう側(南岸)の井内谷川の流入点とこちら側(北岸)を渡し船は結んでいたという。渡場につながると思われる道路は残っているが、ここが上陸点という地点は分からない。

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 現在では早明浦・池田ダム等による香川用水等への取り込みによるものかこの当たりの吉野川の水位はニメートル以上低くなっているという。地理や風景も大きく変わっている。
 56歳の美濃田大橋が「遠い昔のことだよ」と呟いた気がした。
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