瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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原氏は「仁尾浦鴨大明神」の惣官として15世紀を中心に活動しています。

仁尾の港 20111114_170152328
仁尾浦からの燧灘(金毘羅参詣名所図会) 

1481(文明十三)年の沙門宥真勧進状には次のように記されています。(意訳)

仁尾の鴨社の西方には「漫々たる緑海を望み」そこを通過する「客帆」は孤島を模したようである。東方には峨峨たる青山がある。仁尾浦には神殿仏閑が廃興をくり返し、その景趣は他にないもので、「道俗福貴の地」であり、「尊卑幸祐の岐」である。すなわち、仁尾は海と高山の間の狭小な土地であるが、神社仏閣が多く、沖には多くの船が行き通い、海上運輸あるいは商業、さらには宗教的にも繁栄している。
 
 仁尾には土地の売券や譲状などがいくつか残されていることは以前にお話ししました。
1352(観応二)年5月の僧定円田畠等譲状には、家・牛・田畠・荒野・山がセットにされて嫡子徳三に譲与されています。これは農業生産において個人が自立していたと考える材料になります。これに対して農業用水については「池は惣衆の修理たるべし」とあります。池は「惣衆」の共同管理の下にあったようです。
 仁尾浦は京都賀茂神社へ神饌を捧げるための社領として成立し、特権を得た神人達によって運営されていました。それが室町時代になると、パトロンを賀茂神社から細川京兆家へと鞍替えしていきます。そして国役の代わりに「兵船」の役をつとめるようになったことは以前にお話ししました。
 しかし、温和しく指示のままに動いていたわけではありません。浦代官となった香西氏の不当な要求に対しては、神人が共同で訴訟を起こして抵抗しています。このように「惣衆」がいて、神人の団結で仁尾浦は運営されていました。
仁尾賀茂神社
仁尾賀茂神社
仁尾浦の中心が「当浦氏社鴨大明神」(賀茂神社)で、その惣官の地位にあったのが原氏です。
原氏は代々「新兵衛尉」を名のっています。「新兵衛尉」の登場する文書を見ておきましょう。
1391(明徳二)年の相博契約(土地の交換)が行われた時に、「所見」という一種の保証を行った6人の中に「しんひやうへのせう(新兵衛尉)」の名が見えます。
1399(応永六)年 源助宗が 一段の田を「鴨大明神九月九日」に寄進していますが、実際は惣官の新兵術尉の所に付せられています。
ここからは新兵衛尉は原氏のことで、鴨社の代表者として神人たちの上位に位置していたことがうかがえます。また、土地相博の証人も務めるなど信望も得ていたようです。しかし、6人の「所見」人の一人でしかありません。この時点では浦全体の上に立つような存在ではなく、神人の有力指導者の一人という存在だったようです。
県史は、浦人の神人としての特徴を「仁尾浦神人等謹言上」事件から捕らえています
 仁尾浦は、守護細川氏によって京都鴨神社の課役を停止され、代わりに守護細川氏に対して「海上諸役」をつとめることになっていました。細川氏の代官である香西氏は「兵糧銭催促」「一国平均役御催促」の臨時課税を行います。それが讃岐西方守護代の香川修理亮からの出船催促と食い違い、結果的に二重に課役を負担し、しかも手違いを責められ「御せつかん」を受けることになります。さらに「香西方親父逝去之折節」「徳役の譴責」や「陸分内検」など浦代官香西氏の「新政」による制度改革が強行されます。香西氏にしてみれば、仁尾は、東側に拡がる燧灘の拠点港で、伊予・安芸方面への戦略港になります。細川京兆家の戦略の一つは、瀬戸内海交易権の確保でした。吉備と讃岐と、その間の塩飽を押さえて、それは実現できます。次に仁尾を直接的に支配することで、戦略的な価値を高めようとしたことが考えられます。
兵庫北関入船納帳 燧灘
燧灘に向かって開かれた仁尾湊
 この制度改革や新税に対して、神人等は仁足浦が「御料所」「公領」であることを根拠として代官の改替を要求します。同時に、「浜陸一同たり」という特殊性を主張して浦代官香西氏の「陸分内検」を認めません。そのためにとった反対運動が「祭礼停止」です。
 代官の非法に対して、住人は鴨大明神の神人として団結し、抵抗運動を行います。
その神人集団の代表者的存在が新兵衛尉こと原氏でした。しかし、原氏は俗生活上では、先ほど見たように「所見」を行う一人で、「惣衆」の一員でしかありません。これが前回に見た水主神社の水主氏と違うところです。水主氏の地位は『大水主人明神和讃』で、「水主三郎左術円光政」が水主に水をもたらした大水主社祭神百襲姫命の「神子三郎殿」であると讃えられています。つまり、信仰上、水主氏は神と住人を結ぶ媒介者とされ、信者集団の上に立つ存在とされていました。しかし、仁尾の原氏には、そのようなあつかいは見えません。
 仁尾浦は海上運輸や後背地の三豊平野や阿波との交易を生業とする個人が成長し自立化が進んでいました。
水主のような水の管理に伴う共同体規制を受けることは少なかったようです。そのような港町の条件を前提として「惣衆」結合があって、神人集団があったのです。同じ惣官であっても水主氏が宗教上、社領内住人の上に立っていたのに対して、原氏は神人の代表者的地位でしかなかったと研究者は指摘します。
 三好長慶の大阪湾岸の港湾都市とのつきあい方を見ておきましょう。
 四国から畿内に勢力を伸ばそうとしていた三好氏にとって,大阪湾の流通を支配することは最重要課題のひとつでした。しかし,三好氏単独で,流通の結節点となっている自治的都市を支配下に置くのは力不足でした。後の高松城のような城下町建設し、そこに港も作って流通を把握するというスタイルは、まだまだ先の話です。こうした中で,三好氏が採用した対港湾都市戦略は「用心棒」的存在として,都市に接するのではなく,法華宗寺院を仲立ちとした支配を進める方法です。法華宗の寺院や有力信者を通じて,都市共同体への影響力を獲得し,都市や流通ネットワークを掌握しようとします。やげた三好氏は法華宗を媒介とした支配から脱却し,都市共同体に直接文書を発給するようになります。こうした三好氏の大阪湾支配のあり方は,織豊政権の港湾都市の支配の先行モデルとなります。仁尾での香西氏の「新法」による浦代官の権限強化策もこのような方向をめざしていたのかもしれません。しかし、あまりに無骨だったために原氏などを中心とする神人集団の抵抗を受けて頓挫したようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 仁尾の港町としての発展については、以前に次のようにお話ししました。
  白河上皇が京都賀茂社へ 仁尾沖に浮かぶ大蔦島・小蔦島を、御厨(みくり、みくりや)として寄進します。 御厨とは、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌を調進する場所のことで、転じて領地も意味するようになります。そこに漁撈者や製塩者などが神人として属するようになります。漁撈・操船・製塩ができるのは、海民たちです。
 もともと中央の有力神社は、近くに神田、神郡、神戸といった領地を持っていました。それが平安時代中期以降になると、御厨・御園という名の荘園を地方に持つようになります。さらに鎌倉時代になると、皇室や伊勢神宮、賀茂神社・岩清水八幡社などの有力な神社の御厨は、全国各地に五百箇余ヵ所を数えるほどになります。
  今回は、視点を変えて仁尾を御厨として支配下に置いた山城国賀茂大明神(現上賀茂神社)の瀬戸内海航路をめぐる戦略を見ていくことにします。テキストは「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」です。
まず、賀茂社・鴨社の「御厨」・「供祭所」があったところを見ておきましょう。
賀茂神社が
摂津国長洲御厨
播磨国伊保崎
伊予国宇和郡六帖網
伊予国内海
紀伊国紀伊浜
讃岐国内海(小豆島)
豊前国江嶋
豊後国水津・木津
周防国佐河・牛嶋御厨
賀茂社の場合は、
紀伊国紀伊浜御厨
播磨国室(室津)
塩屋御厨
周防国矢嶋・柱嶋・竃門関等

さらに、1090(寛治4)年7月13日の官符によって、白河上皇が両社に寄進した諸荘を加えてみると次の通りです。
①賀茂社 
摂津国米谷荘、播磨国安志荘・林田荘、備前国山田荘・竹原荘、備後国有福荘、伊予国菊万荘、佐方保、周防国伊保荘、淡路国佐野荘。生穂荘
②鴨社 
長門国厚狭荘、讃岐国葛原荘(多度津)、安芸国竹原荘、備中国富田荘、摂津国小野荘


ここからは、賀茂社・鴨社の「御厨」・「供祭所」が瀬戸内海の「海、浜、洲、嶋、津」に集中していたことが分かります。逆に言うと、瀬戸内海以外にはあまり見られません。これらを拠点に、神人・供祭人の活動が展開されることになります。
 神人(じにん、じんにん)・供祭人については、ウキには次のように記されています。
古代から中世の神社において、社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人である。社人(しゃにん)ともいう。神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。このような武装集団だけでなく、神社に隷属した芸能者・手工業者・商人・農民なども神人に加えられ、やがて、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった。彼らは神人になることで、国司や荘園領主、在地領主の支配に対抗して自立化を志向した。

上賀茂神社・下賀茂神社の御厨に属した神人は供祭人(ぐさいにん)と呼ばれ、近江国や摂津国などの畿内隣国の御厨では漁撈に従事して魚類の貢進を行い、琵琶湖沿岸などにおける独占的な漁業権を有していた。

石清水八幡宮の石清水神人は淀の魚市の専売権水陸運送権などを有し、末社の離宮八幡宮に属する大山崎神人は荏胡麻油の購入独占権を有していた(大山崎油座)。

神人・供祭人には、次のような特権が与えられました。
「櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)の通い路、浜は当社供祭所たるべし」
「西国の櫓・悼の通い地は、みなもって神領たるべし」
意訳変換しておくと
(神人船の)櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)が及ぶ航路や浜は、当社の供祭所で、占有地である」
西国(瀬戸内海)の神人船の櫓・悼の及ぶ地は、みな神領である」
そして「魚付の要所を卜して居住」とあるので、好漁場の近くの浜を占有した神人・供祭人が、地元の海民たちを排除して、各地の浜や津を自由に行き来していたことがうかがえます。同時に、彼らは漁撈だけでなく廻船人としても重要な役割を果たすようになります。御厨・所領の分布をみると、その活動範囲は琵琶湖を通って北陸、また、瀬戸内海から山陰にまでおよんでいると研究者は指摘します。

1250(観応元)年には、鴨社の「御厨」として讃岐「津多島(蔦島)供祭所」が登場します。
 最初に分社が置かれたのは、大蔦島の元宮(沖津の宮)です。こうして、海民たちが神人(じにん)として賀茂神社の社役に奉仕するようになります。それと引き替えに、神人は特別の権威や「特権」与えられ、瀬戸内海の交易や通商、航海等に活躍することになります。力を貯めた神人たちは14世紀には、対岸の仁尾浦に拠点を移し、燧灘における海上交易活動の拠点であるだけでなく、讃岐・伊予・備中を結ぶ軍事上の要衝地として発展していくことになります。
ここで注意しておきたいのは、「御厨では漁撈に従事して魚類の貢進を行い、周辺沿岸における独占的な漁業権を有していた。」という記述です。ここからは、御厨の神人・供祭人となったのは「海民」たちであったことがうかがえます。船が操船でき、漁撈が行えないと、これは務まりません。
また「魚類の貢進」の部分だけに注目すると、全体が見えてこなくなります。確かに、御厨は名目的には「魚類の貢進」のために置かれました。しかし、前回見たように「漁撈 + 廻船」として機能しています。どちらかというと「廻船」の方が、重要になっていきます。つまり、瀬戸内海各地に設置された御厨は、もともと交易湊の機能役割を狙って設置されたとも考えられます。それが上賀茂神社の瀬戸内海交易戦略だったのではないかと思えてきます。
①上賀茂神社は、山城の秦氏の氏神であること
②古代の秦氏王国と云われるのが豊前で、その中心が宇佐神宮であること
③瀬戸内海には古代より秦氏系の海民たちが製塩や海上交易・漁撈に従事していたこと
以上のようなことの上に、上賀茂神社の秦氏は、瀬戸内海各地に御厨を配置することで、独自の交易ネットワークを形成しようとしたとも考えられます。各地からの御厨から船で上賀茂神社へ神前に貢納物がおさめられる。これは見方を変えれば、船には貢納物以外に交易品も乗せられます。貢納物献上ルートは、交易ルートにもなります。それは「朝鮮・中国 → 九州 → 瀬戸内海 → 淀川河口 → 京都」というルートを押さえて、大陸交易品を手に入れる独自ルートを確保するという戦略です。この利益が大きかったことは、平清盛の日宋貿易からもうかがえます。そのために、清盛は海賊退治を行い、瀬戸内海に自前の湊を築き、航路を確保したのです。これに見習って、上賀茂神社は「御厨ネットワーク」で、独自の瀬戸内海交易ルートを形成しようとしたと私は考えています。ここでは「御厨は漁撈=京都鴨社への神前奉納」という面以外に、「御厨=瀬戸内海交易拠点」として機能していたことを押さえておきます。
7仁尾
中世の仁尾浦復元図
 仁尾浦は、室町時代になると守護細川氏による「兵船」の動員にも応じて、「御料所」としての特権を保証されるようになります。
そのような中で事件が起こるのは1441(嘉吉元)年です。仁尾浦神人は、嘉吉の乱(嘉吉元年、播磨守護赤松満祐が将軍足利義教を拭した事件)の際に、天霧山の守護代香川氏から船2艘の動員命令に応じて、船を出そうとします。ところが浦代官の香西氏が、これを実力阻止します。そして船頭を召し取られたうえに、改めて50人あまりの水夫と、船二艘の動員を命じられます。そのために、かれこれ150貫文の出費を強いられます。さらに、香西氏は徳役(富裕な人に課せられる賦課)として、50貫文も新たに課税しようとします。

仁尾 中世復元図2
仁尾浦中世復元図

 これに対して「代官香西氏の折檻(更迭)」のため神人たちがとった行動が、一斉逃散でした。
そのため「五、六百間(軒)」ばかりもあった「地下家数」が20軒にまで激減したとあります。ここからは次のようなことが分かります。
①仁尾浦の供祭人は、守護細川氏の兵船動員に応ずるなどの海上活動に従事していたこと
②「供祭人=神人}の海上活動によって、仁尾浦は家数「五、六百軒」の港町に成長していたこと
③仁尾は行政的に「浜分」と「陸分」に分かれ、海有縄のような「海」を氏名とする人や、「綿座衆」などの住む小都市になっていたこと。
④守護細川氏の下で仁尾湊の代官となった香西氏の圧政に対して、団結して抵抗して「自治権」を守ろうとしていること
   最初に見たウキの神人に関する説明を要約すると、次のようになります。
①神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、僧兵と並ぶ武装集団でもあったこと
②神社に隷属した芸能者・手工業者・商人・農民なども神人に加えられ、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されてこと。
③神人になることで、国司や荘園領主、在地領主の支配に対抗して自立化を志向した。
これは、仁尾浦の神人がたどった道と重なるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」
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   瀬戸内海の港について、これまでに何度もお話ししてきました。しかし、大きな流れの中で捉えることは出来ていませんでした。そんな中で瀬戸内海の港町の歴史をコンパクトにまとめている文章に出会いましたので、「読書ノート」としてアップしておきます。テキストは「市村高男 港町の誕生と展開 「間」から見る瀬戸内海」です.

瀬戸内海

 
港と言われると、船が入港して停泊する場のことを思い浮かべます。しかし、古代には港という言葉は使われず、「水門・津・泊・船瀬」などの語が使用されていたようです。それぞれを見ておきましょう。
  水門は「水戸や江戸」と同じで河口にできた船着き場のことです。
その「みなと」が漢字で表記されて「湊」になったと研究者は指摘します。紀の川の河口に立地する和歌山市の一角に「湊村」があります。これは城下町になる前の和歌山が、港・湊を基礎に発展してきた例のひとつです。

津は川や海に面した湾・入江に成立した渡し場、船着き場を指す言葉でした。

宇多津地形復元図
中世宇多津復元図(聖通寺山との間に大きな入江があった)

宇多津は、大束川の河口とそれを包み込む湾にありましたので、宇多津と呼ばれたようです。袋状の湾からなる兵庫県の室津や広島県福山市の鞆の浦は津の代表です。

泊も湊・津と同じく船の着岸する場を意味します.
しかし、重点は停泊地という側面にあるようです。
福原京と大輪田泊(おおわだのとまり) | 自然に生きる
大輪田の泊と福原京
泊は、平清盛が整備した大輪田の泊(神戸市)がその代表になります。清盛が整備した港に、音戸の瀬戸(広島県音戸町)がありますが、ここは倉橋島との間の水道があります。尾道や瀬戸田も水道に成立していて、瀬戸内海の港湾のひとつの特徴のよううです。
 10世紀に編纂された『延喜式』には、主として川湊を指す言葉として船瀬が見えます。しかし、時代が下ると次第に、湊・津・泊の違いはなくなっていきます。中世後半には、どれも区別なく港湾を指す言葉として使われ、江戸期以降には港の表記が一般化します。

以上を整理しておきます。
①古代には「港」は使われずに、「水門・津・泊・船瀬」が使用されていた
②中世後半なると、その区別がなくなった
③江戸期には「港」が一般化する。
 港が登場したのは、いつなのでしょうか?
人々が生活のために川を渡り、海に漕ぎ出すことが多くなれば、船の発着する場が必要になります。縄文時代には丸木舟・刳り舟が登場するので、自然地形を利用した原初的な港があったはずです。
弥生時代の船-大航海時代のさきがけ- : 御領の古代ロマンを蘇らせる会
弥生・古墳時代の船
 弥生時代になると、刳り船の他に準構造船も現れます。倉敷市の上東遺跡では、船着き場らしい遺構も出てきていますが、その数が多くないので分からない事の方が多いようです。
古墳時代になると、讃岐から播磨や摂津に古墳の石棺などが運ばれています。ここからは物資輸送のために、大きな準構造船が瀬戸内海を往来していたことが考えられます。また、漁携や小規模な物資などを運ぶ小さな船も瀬戸内海を行き来していたのでしょう。当然、そこには船が寄港する港が各地にあったはずです。それは、大きな古墳に葬られる首長が管理る港から、民衆が日常的に使う地域の港まで階層性を持って、海岸線にあったと思います。この時代の船着き場や遺構は、残っていまでんが、河口や入江などに造られていたと研究者は考えています。

律令制の時代になると、瀬戸内海では海運・水運がかなり発展していたようです。
律令国家は最初は、陸運を重視する政策をとって、平城京や平安京を中心に7つの幹線道路が整備されます。そのうち瀬戸内地方では、
①中国地域南岸を東西に走る山陽道
②淡路島から阿波・讃岐・伊予を通って土佐国府に通じる南海道
南海道はのちに四国山地を横断するルートが開かれますが、これらの幹線は、畿内と各国の国府を結び、街道沿いにはは駅が置かれ、馬やその飼育に当たる人、宿泊・休憩施設などが設けられました。国司や朝廷の使者の移動、調庸をはじめとする貢納物輸送などに使用されていました。

5中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。(
鎌倉時代の船

律令制が崩れる10世紀以降になると、地域の実情に応じて柔致な交通路の選択が許されるようになります。

そうすると、瀬戸内海沿岸では便利で安価に物資や人を大量輸送できる海運・水運が改めて評価されるようになります。こうして、ほとんどの京都への貢納品は船で運ばれることになります。
どんな港が瀬戸内海沿岸には、現われたのでしょうか?
第一は、国府津・国津などと呼ばれる国衙管理下の公的な港です。
これらの港は、留守所と呼ばれるようになった国衛保護のもとに、山陽道・南海道の最大の港になっていきます。そこには石積で築かれた船着場や、船の発着を管理する人や施設、物資を保管する倉庫なども姿を見せるようになります。後には、隣接して市が建てられるようになります。
6松山津
讃岐国府津の林田・松山
讃岐の国府津のついては、綾川河口の林田や松山などに、機能を分散させながらあったと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
第二は、郡単位に置かれた郡衛の付属港です。
律令制が崩れると郡衙も変質し、国司の子孫や武士化した郡司の子孫らが管理・運営するようになります。彼らは国府津に準じて沿岸部や河川の郡の港を整備し、船着き場や管理施設を持つ港も現れます。この例としては、多度郡の弘田川河口の白方湊や、三野郡三野湾の三野津が考えられます。
宗吉瓦窯 想像イラスト
三野津(宗吉瓦窯から藤原京への積みだし)
第三は、荘園の港です。これは11世紀以後のことになります
11世紀の院政期になると、院・天皇家や有力公家・寺社に荘園が寄進され、各地に荘園が増えます。荘園の年貢を京都の領主に輸送するためは、その積出港が必要になります。例えば、当時の国際港湾都市であった博多の西にある今津は、博多に対す新しい港であることを意味する名称です。、ここは12世紀に仁和寺領恰土(いと)荘(福岡市)の港として設置されたものです。

 尾道は、12世紀に後白河院を本家とする備後国大田荘(広島県世羅町)の倉敷(倉庫の敷地)に指定されたのが、港に発展する出発点です。こうして、そこに本家の氏神が勧進され、保護を受けた寺院が姿を現します。そして本家からの保護を受けた寺社は、港の交易センターの機能を果たすようになります。僧侶は、港や交易ネットワークの管理者でもあったようです。対外貿易にもつながるこのネットワークは、莫大な富をもたらすようになります。各宗派は瀬戸内海沿いに布教ラインを伸ばし、重要な港に拠点寺院を構えていくようになります。
第四は地域の必要から成立した港です。
大きな川の河口に、港が出来て大都市に成長するのは世界中で見られることです。大河川は河川輸送の最大の集積地の役割を果たすからです。人とモノとカネが集まってきます。これは瀬戸内海に流れ出す川の河口でも見られます。また、山地と海をつなぐ道路の海側の起点にも、港が現れます。こうして瀬戸内海沿岸地域には、大小さまざまな港が姿を見せるようになります。さらに、船の運航上、潮待ち・風待ちのためのための港も必要になります。現在では「離島」と呼ばれる島々にも港ができ、瀬戸内海航路や廻船のネットワークの中に組み込まれていきます。

 中世の航海法は、安全重視です。船から陸地が見えるところを目指し、隣り合った港に立ち寄りながら目的地に向かいます。沿岸部に並び立ち、島々にも散在する港は航海の安全を保障するためには必要な設備だったのです。目的地に一番最短距離で、一番早くというのは、動力船が登場する近代以後の論理です。

瀬戸内海の港町が発展するのは14世紀以後のことでした。
博多や兵庫(大輪田)など、比較的早く港町に発展したところもあります。しかし、瀬戸内沿岸の港が港町に発展するのは、案外新しく14世紀以降の経済発展によるもと研究者は考えています。
兵庫湊が港町に発展するのは、京都の発展に伴うもので13世紀にさかのばります。14世紀後半以降の物流の増大は、瀬戸内沿岸に新たな港を生み出すことになります。新しく登場する港を挙げておきましょう。
備前の牛窓・下津丼、
備後の尾道・輌
安芸の十日市
周防の三田尻・上関
讃岐の野原(現在の高松)・宇多津
野原復元図
野原(高松)港復元図

これらの港町の立地条件としては、中国山地から南下する河川や道路、讃岐山脈から流れ下る香東川などの河川や道路の結び目にあります。内陸から運ばれた物資が川船や馬借たちによって集められ、そこで海船に積み替えて各地に運ばれていきます。港は最大の物資集積地になります。港町は物資の集散地として、内陸から来たものは海へ、海から来たものは内陸へ運んでいく拠点となっていたことを押さえておきます。
DSC03842兵庫入船の港
野原(現高松港)の動き

 中世港町の構造の特色はなにか?
中世港町の尾道は、備後国太田荘の倉敷から発展した尾道は、次のような複数の集落から発展します。
①浄上寺とその麓の堂崎
②西国寺とその麓の上堂
③その西側に成立した御所崎
備前の牛窓も関・綾・紺など複数の集落からなっていました。讃岐の宇多津や綾川河口の林田湊なども同じことが云えるのは、以前にお話ししました。中世の主要な港町は、ほとんどがこうした複数集落の寄り集まりでできています。そして、それぞれの集落に船着き場、船主や船頭・水主らの住居、物資を保管する倉庫業者、港の住人の生活物資や集まった物資の売買に当たる商人など、さまざまな住民が住んでいたことが分かってきました。地域的な日常的生活での繋がりをベースにして、船に乗りこんでいたのです。つまり、船の運航は陸上での生活集団によって担われていたということです。船乗りを他所から自由に雇い入れたりするようなことは、できなかったようです。

法然上人行状絵図34貫 淀川を下る船
法然上人絵図の室津 塩飽に向かう法然が乗った船
 
もうひとつ押さえておきたいことは、港町は地域の権力から自立していたことです。
堺が自治都市であったことは有名ですが、瀬戸内海の港町にも、その中や周辺に武士団の館跡は見当たりません。尾道・牛窓・下津井などが、領主権力により直接支配されたことはなかったと研究者は考えています。確かに16世紀上を過ぎると、牛窓や下津井にも地域権力の城が造られます。これは権力が富の集まる港町に寄生するようになったことを示します。しかし、これで「支配下に置いた」とは云えないようです。
中世の和船2
中世の船
 江戸時代になると、幕府や藩の直轄港に指定される港も出てきます。それでも、港町の自治が全面的に否定されたことはありませんでした。それは、宇多津などにも云えることです。
 しかし、城下町最優先政策の結果、それまで重要な港湾機能を持っていた港町から、その一部が取り上げられ、城下町に持って行かれたり、主要住民が強制移住させられたりはします。それは藩主による城下町重視の「地域経済圏の再編」策のひとつであったようです。宇多津や多度津の機能も近世始めに大きく変化したようです。

 北前船の運航によって日本海沿岸と瀬戸内海の港町が大いに発展し、港町が日本の都市の代表となります。しかし、これが明治半ば以後に鉄道が姿を現すようになると大きく変化することになります。その中で、博多・下関・兵庫など主要な港町は、新たな役割を担って発展します。しかし、次のような状況が海運業界を襲います
①廻船輸送から鉄道輸送に主役が代わること
②船の動力化と大型で、目的地に直行
こうして主要道路や鉄道からから外れた港町は、瀬戸内海の多くの港町は衰退に向かうことになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 市村高男 港町の誕生と展開 「間」から見る瀬戸内海
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P1170283
妖怪街道の子泣き爺

台風通過直後に野鹿野山に原付バイクツーリングをしました。大歩危の遊覧船乗場を過ぎて、藤川谷川に沿って原付を走らせます。台風直後で川にはホワイトウオーター状態で、勢いがあります。本流を流れる川は濁っていますが、支流の藤川谷川に入ると台風直後の増水にもかかわらず透明です。この川沿いの県道272号線は、いまは「妖怪街道」として知名度を上げています。

P1170241
ヤマジチ
街道の最初に登場する看板は「歩危の山爺」です。
この物語は、村に危害を加える妖怪を退治したのは「讃岐からきた山伏」とされています。ここからは、讃岐の山伏がこの附近まで入ってきて行場で修行したり、布教活動を行っていたことがうかがえます。

P1170242

妖怪街道の山向こうの土佐本山町には、神としてまつられた高野聖の次のような記録が残っています。
ヨモン(衛門)四郎トユウ
山ぶし さかたけ(逆竹)ノ ツヱヲツキ
をくをた(奥大田)ゑこし ツヱヲ立置
きのをつにツキ ヘび石に ツカイノ
すがたを のこし
とをのたにゑ きたり
ひじリト祭ハ 右ノ神ナリ
わきに けさころも うめをく
わかれ 下関にあり
きち三トユウナリ
門脇氏わかミヤハチマント祭
ツルイニ ヽンメヲ引キ
八ダイ流尾 清上二すべし
(土佐本山町の民俗 大谷大学民俗学研究会刊、昭和49年)
    宛字が多いようですが 意訳変換しておきましょう。
衛門四郎という山伏が逆竹の杖をついて、奥大田へやって来た。そこに杖を置いて木能津に着いて、蛇石に誓い鏡(形見)を残して 藤の谷へやって来た。
聖が祀ったのは 右ノ神である。
その脇の袈裟や衣も埋めた。分家は下関にある吉三という家である。子孫たちは門脇氏の若宮八幡を祀り、井戸(釣井)に注連縄を引き、八大龍王を清浄して祀ること
 この聖は奥大田というところに逆竹(さかだけ)の杖を立てたり、木能津(きのうづ)の蛇石というところに鏡(形見)をのこして「聖神」を祀ります。やがてこの地の「藤の谷」に来て袈裟と衣を埋めて、これを「聖神」と祀ったと記されています。
 土佐には聖神が多いとされてきました。その聖神は、比叡山王二十一社の一つである聖真子(ひじりまご)社と研究者は考えています。ここからは、本山にやって来た高野聖が自分の形見をのこして、それを聖神として祀ったことが分かります。

本地垂迹資料便覧
聖真子(ひじりまご)

 この衛門四郎という高野聖は、「藤の谷」を開拓して住んでいたようです。かつては、この辺りには焼畑の跡があとが斜面いっぱいに残っていたと云います。その畑の一番上に、袈裟と衣を埋めたというのです。そこには聖神の塚と、門脇氏の先祖をまつる若宮八幡と、十居宅跡の井戸(釣井)が残っているようです。ちなみに四国遍路の祖とされるは衛門三郎です。衛門四郎は、洒落のようにも思えてきます。

本山町付近では、祖先の始祖を若宮八幡や先祖八幡としてまつることが多いようです。
ここでは、若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神であるのに対して、聖神は一般人々の信仰対象にもなっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじように、遊行廻国者が誓願をのこして死んだところにまつられます。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。この本山町の聖神も、一片の文書がなければ、どうして祀られていたのかも分からずに忘れ去られる運命でした。
 川崎大師平間寺のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれです。
全国にある大師堂の多くが、高野聖の遊行の跡だった研究者は考えています。ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまったのです。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡であるのと同じです。妖怪街道沿いにも、そんな修験者や聖たちの痕跡が数多く見られます。彼らの先達として最初に、この地域に入ってきたのは熊野行者のようです。

熊野行者の吉野川沿いの初期布教ルートとして、次のようなルートが考えられる事は以前にお話ししました。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社を勧進し拠点化
②さらに行場を求めて銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③仙龍寺から里下りして、瀬戸内海側の川之江に三角寺を開き、周辺に定着し「めんどり先達」と呼ばれ、熊野詣でを活発に行った。
④一方、土佐へは北川越や吉野川沿いに土佐に入って豊楽寺を拠点に土佐各地へ
 熊野行者たちは、断崖や瀧などの行場を探して吉野川の支流の山に入り、周辺の里に小さな社やお堂を建立します。そこには彼らが笈の中に入れて背負ってきた薬師さまや観音さまが本尊として祀られることになります。同時に彼らは、ソラの集落の芸能をプロデュースしていきます。盆踊りや雨乞い踊りを伝えて行くのも彼らです。また、今に伝わる昔話の原型を語ったのも彼らとされます。各地に現れた「熊野神社」は、熊野詣での際の道中宿舎の役割も果たし、孤立した宗教施設でなく熊野信仰ネットワークの一拠点として機能します。

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 熊野行者たちは諸国巡礼を行ったり、熊野先達を通じて、密教系修験者の幅広いネットワークで結ばれていました。例えば、讃岐の与田寺の増吽などの師匠筋から「大般若経の書写」への協力依頼が来ると引き受けています。このように阿波のソラの集落には、真言系修験者(山伏)の活動痕跡が今でも強く残ります。

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野鹿池の龍神

 話を元に返すと、妖怪街道と呼ばれる藤川谷川流域には、このような妖怪好きの山伏がいたのかも知れません。
彼らは、庚申信仰を広め、庚申講も組織化しています。悪い虫が躰に入らないように、庚申の夜は寝ずに明かします。その時には、いくつも話が語られたはずです。その時に山伏たちは熊野詣でや全国廻国の時に聞いた、面白い話や怖い話も語ったはずです。今に伝えられる昔話に共通の話題があるのは、このような山伏たちの存在があったと研究者は考えているようです。
修験役一覧
近世の村に定住した山伏の業務一覧
今回訪れた妖怪ポイントの中で、一番印象的だった赤子渕を見ておきましょう。
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車道から旧街道に入っていきます。この街道は青石が河床から丁寧に積み重ねられて、丈夫にできています。ソラの集落に続く道を確保するために、昔の人達が時間をかけて作ったものなのでしょう。同じような石組みが、畠や神社の石垣にも見られます。それが青石なのがこの地域の特色のように思います。五分も登ると瀧が見えてきました。
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赤子渕
台風直後なので水量も多く、白く輝き迫力があります。

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滝壺を巻くように道は付けられています。これは難工事だったとおもいます。そこに赤子の像が立ってました。
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なにかシュールで、おかしみも感じました。瀧は爆音で、大泣き状態です。滝上には橋がかかっています。この山道と橋が完成したときには、この上に続くソラの集落の人達は成就感と嬉しさに満ちあふれて、未來への希望が見えて来たことでしょう。いろいろなことを考えながらしばらく瀧を見ていました。

「赤子渕」が登場する昔話は、いくつもあるようです。
愛媛県城川町の三滝渓谷自然公園内にもアカゴ淵があります。ここでは、つぎのような話が伝えられています。
  
むかしむかし、赤子渕は生活に困り生まれた子を養うことができなくなった親が子を流す秘密の場だった。何人もの赤子が流されたという。その恨みがこの淵の底に集まり真っ赤に染め、夕暮れ時になると赤子の淋しそうな泣き声が淵の底やその周囲から聞こえてくるという。

信州飯田城主の落城物語では、赤子渕が次のように伝えられます。
 天正10年2月(1585)織田信長は、宿敵甲斐の武田氏打倒の軍をついに動かした。飯田城主の坂西氏は、木曽谷へ落ち延びて再起をはかろうと、わずかな手勢と夫人と幼児を伴って城を脱出した。しかし逃げる途中で敵の伏兵に襲われ、家臣の久保田・竹村の2人に幼児延千代を預け息絶えた。延千代を預かった2人は、笠松峠を越して黒川を渡り、山路を南下したが青立ちの沢に迷い込んでしまった。若君延千代は空腹と疲れで虫の息となり、ついに息が絶えてしまった。その後、この辺りでいつも赤子の泣き声がすると言われ、誰となくここの淵を赤子ヶ淵と呼ぶようになった。
「赤子なる淵に散り込む紅つつじ昔語れば なみだ流るる」

    赤子渕に共通するのは、最後のオチが「赤子の泣き声がすると言われ、誰となくここの淵を赤子ヶ淵と呼ぶようになった」という点です。その前のストーリーは各地域でアレンジされて、新たなものに変形されていきます。
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  藤川谷川流域のソラの集落・ 旧三名村上名(かみみょう)に上がっていきます。
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  管理されたススキ原が広がります。家の周りに植えられているのは何でしょうか?

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上名の茶畑
  近づいてみると茶畑です。旧三名村はお茶の産地として有名で、緑の茶場が急斜面を覆います。それが緑に輝いています。

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山城町上名の平賀神社

  中世の讃岐の仁尾と土佐や西阿波のソラの集落は「塩とお茶の道」で結ばれていたことは以前にお話ししました。
仁尾商人たちは讃岐山脈や四国山地を越えて、土佐や阿波のソラの集落にやってきて、日常的な交易活動を行っていました。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、そこで生産された塩は、讃岐山脈を越えて、阿波西部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていました。その帰りに運ばれてきたの茶です。仁尾で売られた人気商品の碁石茶は、土佐・阿波の山間部から仕入れたものでした。
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。
古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡昼間に入り、そこから剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。その東の三名では、仁尾商人たちが、塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたのです。
 山城町三名周辺は、仁尾商人の商業圏であったことになります。
そのために「先達」として、讃岐の山伏が入り込んできていたことも考えられます。取引がうまくいく度に、仁尾商人たちは、山伏たちのお堂になにがしのものを寄進したのかもしれません。

それは、天正2年(1574)11月、土佐国長岡郡豊永郷(高知県長岡郡大豊町)の豊楽寺「御堂」修造の奉加帳に、長宗我部元親とともに仁尾商人の名前があることからも裏付けられます。
豊楽寺奉加帳
豊楽寺御堂奉加帳

最初に「元親」とあり、花押があります。長宗我部元親のことです。
次に元親の家臣の名前が一列続きます。次の列の一番上に小さく「仁尾」とあり、「塩田又市郎」の名前が見えます。

阿讃交流史の拠点となった本山寺を見ておきましょう。
四国霊場で国宝の本堂を持つ本山寺(三豊市)の「古建物調査書」(明治33年(1900)には、本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。 空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、阿讃の交易活動を活発に行っていたことをうかがわせるものです。
個人タクシーで行く 四国遍路巡礼の旅 第70番 本山寺 馬頭観世音菩薩 徳島個人中村ジャンボタクシーで行く四国巡礼の遍路巡り 四国36不動 曼荼羅霊場  奥の院
本山寺の本尊は馬頭観音

本山寺は、もともとは牛頭大明神を祀る八坂神社系の修験者が別当を務めるお寺でした。この系統のお寺や神社は、馬借たちのよう牛馬を扱う運輸関係者の信仰を集めていました。本山寺も古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地として、活発な交易活動を展開していたと研究者は考えています。

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山城町上名の茶畑
「塩とお茶の街道」を、整理しておきます。
①天正二(1574)年の豊楽寺「御堂」修造に際し、長宗我部氏とともに奉加帳に仁尾浦商人塩田氏一族の塩田又市郎の名前が残っている。
②塩田又市郎は、仁尾・詫間の塩や魚介類をもたらし、土佐茶を仕入れるために土佐豊永郷や阿波三名などに頻繁に営業活動のためにやってきていた。
③仁尾商人は、土佐・長岡・吾川郡域や阿波三名などの山村に広く活動していた。
④中世仁尾浦商人の営業圈は讃岐西部-阿波西部-土佐中部の山越えの道の沿線地域に拡がっていた。

今は山城町の茶葉が仁尾に、もたらされることはなくなりました。
しかし、明治半ばまでは「塩と茶の道」は、仁尾と三名村など阿波西部を結び、そこには仁尾商人の活動が見られたようです。それとリンクする形で、ソラの修験者たちと仁尾の覚城寺などは修験道によって結びつけられていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開   中世讃岐と瀬戸内世界
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 詫間 波打八幡
   波打八幡神社(詫間町)
詫間荘の波打八幡神社の放生会には、詫間・吉津・比地・中村に加えて仁尾浦も諸役を分担して開催されています。また、三崎半島からまんのう町長尾に移った長尾氏も、移封後も奉納金を納めています。ここからは、中世の波打八幡宮は三野郡を越える広域的な信仰を集める存在だったことがうかがえます。
仁尾 覚城院
覚城院(仁尾町) 賀茂神社の別当寺
 仁尾の覚城院の大般若経書写事業には、吉津村の僧量禅や大詫間須田善福寺の長勢らが参加しています。ここからも三野湾の海浜集落や内陸の集落も仁尾の日常的な生活文化圏内にあったことがうかがえます。そうすると仁尾神人(供祭人)や、その末裔である商職人たちの活動も、そこまで及んでいたと推測できます。それが近世になると「買い物するなら仁尾にいけ」という言葉につながって行くようです。仁尾の商業活動圏は、七宝山の東側の三野湾周辺やその奧にまで及んでいたとしておきましょう。

 しかし、研究者はそれだけにとどまらないというのです。仁尾商人の活動は、讃岐山脈や四国山脈を越えて、伊予や土佐まで及んでいたというのです。「ほんまかいな?」と疑念も湧いてくるのですが、「仁尾商人=土佐進出説」を、今回は見ていくことにします。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。
仁尾浦商人の名前が、高知県大豊町の豊楽寺御堂奉加帳にあります。

豊楽寺奉加帳
豊楽寺御堂奉加帳

最初に「元親」とあり、花押があります。長宗我部元親のことです。
次に元親の家臣の名前が一列続きます。次の列の一番上に小さく「仁尾」とあり、「塩田又市郎」の名前が続きます。書き写すと以下のようになります。

   豊永 大田山豊楽寺 御堂修造奉加帳
        元親(花押)
  有瀬右京進  有瀬孫十郎  嶺 将監
  仁尾 
  塩田又市郎  嶺 一覚   西 雅楽助
  奇光惣兵衛尉 谷右衛門尉  平孫四郎
      (後略)
この史料は天正2年(1574)11月のもので、土佐国長岡郡豊永郷(高知県長岡郡大豊町)の豊楽寺「御堂」修造の奉加帳です。

仁尾 土佐の豊楽寺との関係
豊楽寺薬師堂(大豊町)
豊楽寺には、国宝となっている中世の薬師堂があります。本尊が薬師如来であることからも、この寺が熊野行者の拠点で、この地域の信仰を広く集める神仏混淆の宗教センターだったことがうかがえます。
 奉加帳の中ある「仁尾 塩田又市郎」は、仁尾の肩書きと塩田の名字から見て、仁尾の神人の流れを汲む塩田一族の一人と考えられます。又市郎は豊楽寺の修造に際し、長宗我部家臣団とともに奉加しています。それは元親の強制や偶然ではなく、以前からの豊永郷や豊楽寺と又市郎との密接な繋がりがあったと研究者は考えています。

仁尾 土佐町
土佐町森周辺
6年後の天正八(1580)年の史料を見てみましょう。
土佐国土佐郡森村(土佐郡土佐町)の領主森氏の一族森右近尉が、森村の阿弥陀堂を造立したときの棟札銘です。

 天正八庚辰年造立
 大檀那森右近尉 本願大僧都宥秀 大工讃州仁尾浦善五郎

大檀那の森右近尉や本願の宥秀とともに、現場で作業を主導した大工は「讃州仁尾浦善五郎」とあります。善五郎という仁尾浦の大工が請け負っています。土佐郡森は四国山地の早明浦ダムの南側にあり、仁尾からはいくつもの山を超える必要があります。
どうして阿弥陀堂建築のために、わざわざ仁尾から呼ばれたのでしょうか? 
 技術者として優れた技量を持っていただけではなく、四国山地を越えて仁尾とこのエリアには日常的な交流があったことがうかがえます。長岡郡豊永郷や土佐郡森村は、雲辺寺のさらに南方で、近世土佐藩が利用した北山越えのルート沿いに当たります。このルートは先ほど見た熊野参拝ルートでもあり、讃岐西部-阿波西部-土佐中部を移動する人・モノが利用したルートでもあります。仁尾商人の塩田又市郎や大工の善五郎らは、この山越えのルートで土佐へ入り、広く営業活動を展開していたと研究者は考えています。

1580年前後の動きを年表で見ておきましょう。
1579年 長宗我部元親が天霧城主香川信景と同盟。
1580年 長宗我部元親,西長尾山に新城を築き,国吉甚左衛を入れる。以後、讃岐平定を着々と進める 
1582年 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる
    長宗我部元親,ほぼ四国を平定する
 こうしてみると、この時期は長宗我部元親が讃岐平定を着々と進めていた時期になります。その下で、土佐からの移住者が三豊に集団入植していた時期でもあることは以前にお話ししました。土佐と讃岐の行き来は、従来に増して活発化してたことが推測できます。

 仁尾商人の塩田又市郎と豊永郷とのつながりは、どのようにして生まれたものだったのでしょうか。
それを知ることのできる史料はありません。しかし、近世になると、仁尾と豊永郷などの土佐中央山間部との日常的な交流が行われていたことが史料から見えてきます。具体的には「讃岐の塩と土佐の茶」です。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、詫間の塩が多度津船で畿内へ大量に輸送されていたことが分かります。近世の詫間や仁尾で生産された塩は、畿内だけでなく讃岐山脈を越えて、阿波西部の山間部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていたことは以前にお話ししました。

 金比羅詣で客が飛躍的に増える19世紀の初頭は、瀬戸内海の港町が発展する時期でもあります。
そのころの仁尾で商いをしていた商家と取扱商品を挙げて見ます。
①中須賀の松賀屋(塩田忠左衛門) 醤油・茶、
②道場前の今津屋(山地治郎右衛門) 塩・茶、
③花屋(山地七右衛門) 總糸・茶、
④宿入の吉屋(吉田五兵衛) 茶、
⑤御本陣浜屋(塩田調助) 茶、
⑥境目の松本屋(吉田藤右衛門) 醤油・茶、
⑦東松屋(塩田信蔵) 油・茶、
⑧西松屋(塩田伝左衛門) 茶、
⑨浜銭屋(塩田善左衛門) 両替・茶、
⑩中の丁の菊屋(辻庄兵衛) 茶、
⑪新道の杉本屋(吉田村治) 醤油・茶、
⑫浜屋(塩田又右衛門) 茶、
⑬樋の口の杉本屋(吉田太郎右衛門) 油・茶、
ここからは、単品だけを扱っているのでなく複数商品を扱っている店が多いことが分かります。もう少し詳しく見ると、茶と醸造業を組み合わせた店が多いようです。この中で、塩田・吉田・辻氏の商家は、町庄屋(名主)をつとめる最有力商人です。彼らが扱う茶は、現在の高瀬茶のように近隣のものではありません。茶は、土佐の山間部から仕入れた土佐茶だったというのです。
飲んでも食べてもおいしい。茶粥のために作られた土佐の「碁石茶」【四国に伝わる伝統、後発酵茶をめぐる旅 VOL.03】 - haccola  発酵ライフを楽しむ「ハッコラ」
土佐の碁石茶
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
 丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い土佐の茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたようです。

大豊の碁石茶|高知まるごとネット
土佐の碁石茶

つまり、「仁尾茶」の仕入れ先が土佐だったのです。
 仁尾商人たちは茶の買い出しのために伊予新宮越えて、現在の大豊・土佐・本山町などに入っていたようです。彼らは、土佐の山間部に自分のテリトリーを形成し、なじみの地元商人を通じて茶を買付を行っていた姿が浮かび上がってきます。
 そんな中で地域の信仰を集める豊楽寺本堂の修復が長宗我部元親の手で行われると聞きます。信者の中には、日頃からの商売相手もたくさんいるようです。「それでは私も一口参加させて下さい」という話になったと推測できます。商売相手が信仰する寺社の奉加帳などに名前を連ねたり、石造物を寄進するのはよくあることでした。
 また、熊野行者などの修験者たちにの拠点となっている寺社は、熊野詣で集団に宿泊地でもあり、周辺の情報提供地や、時には警察機能的な役割も果たしていたようです。これは、仁尾からやってきた商人にとっても頼りになる存在だったのではないでしょうか。もっと想像を膨らませば、熊野信仰の寺社を拠点に仁尾商人は商売を行っていたのかもしれません。
仁尾商人の土佐進出が、いつ頃から始まっていたのは分かりません。
しかし、塩は古代から運び込まれていたようです。それが茶との交換という営業スタイルになったのは、戦国期にまで遡ることができると研究者は考えています。以上を整理しておきます
①天正二(1574)年の豊楽寺「御堂」修造に際し、長宗我部氏とともに奉加帳に仁尾浦商人塩田氏一族の塩田又市郎の名前が残っている。
②塩田又市郎は、仁尾・詫間の塩や魚介類をもたらし、土佐茶を仕入れるために土佐豊永郷に頻繁に営業活動のためにやってきていた。
③仁尾商人は、土佐・長岡・吾川郡域の山村に広く活動していた。
④中世仁尾浦商人の営業圈は讃岐西部-阿波西部-土佐中部の山越えの道の沿線地域に拡がっていた。
⑤このような仁尾商人の活動を背景に、土佐郡森村の阿弥陀堂建立のために番匠「大工讃州仁尾浦善五郎」が、仁尾から呼ばれてやってきて腕を振るった。
ここからは、戦国時代には仁尾と土佐郷は「塩と茶の道」で結ばれていたことがうかがえます。そのルートは、近世には「北側越え」と呼ばれて、土佐藩の参勤交替ルートにもなります。
このルートは、熊野信仰の土佐や東伊予へ伝播ルートであったこと、逆に、熊野参拝ルートでもあったことを以前にお話ししました。
ルート周辺の有力な熊野信仰の拠点がありますが、次の寺社は熊野詣での際の宿泊所としても機能してたようです。
①奥の院・仙龍寺(四国中央市)と、その本寺・三角寺
②旧新宮村の熊野神社
③豊楽寺
④豊永の定福寺
①については、16世紀初頭から戦国時代にかけて、三角寺周辺には「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が先達となって、東伊予の「檀那」たちを率れて熊野に参詣していたようで、熊野信仰の拠点でした。

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熊野神社(旧新宮村)

②は、大同二年(807)勧請と伝えられるこの地域の熊野信仰の拠点でした。三角寺など東伊予の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの②の熊野神社を拠点に上流に遡り、仙龍寺(四国中央市)へと伝わり、それが里下りして本寺・三角寺周辺に「めんどり先達」集団を形成したと考える研究者もいます。ここからは、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場を求めて銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③仙龍寺から里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開き、周辺に定着し「めんどり先達」と呼ばれ、熊野詣でを活発に行った。
④北川越や吉野川沿いに土佐に入って豊楽寺を拠点に土佐各地へ
つまり、北川越の新宮やその向こうの土佐郡は、宗教的には熊野行者のテリトリーであったことがうかがえます。
   仁尾覚城院の大般若経書写事業には、阿波国姫江荘雲辺寺(徳島県三好郡池田町)の僧侶が参加しています。以前に、与田寺氏の増吽について触れたときに、大般若経書写事業は僧侶たちの広いネットワークがあってはじめて成就できるもので、ある意味ではそれを主催した寺院の信仰圏をしめすモノサシにもなることをお話ししました。そういう意味からすると、覚城院は雲辺寺まで僧侶間にはネットワークがつながっていたことが分かります。さらに想像を膨らませるなら覚城院は、豊楽寺ともつながっていたことが考えられます。
熊野行者はあるときには、真言系修験者で高野聖でもありました。
15世紀初頭に覚城院を再建したのは、与田寺の増吽でした。彼は「修験者・熊野行者・高野聖・空海信仰者」などの信仰者の力を集めて覚城院を再興しています。その背後に広がる協賛ネットワークの中に、伊予新宮や土佐郡の熊野系寺社もあったと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 
    市村高男    中世港町仁尾の成立と展開   中世讃岐と瀬戸内世界
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仁尾 中世復元図
中世仁尾浦の復元図

 賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二年(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人もいて、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、「地下家数今は現して五六百計」とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。そして、管領細川氏の保護を受けて、活発な交易活動を展開していたことようです。
仁尾の船は兵庫北関に、どのくらい入関しているのでしょうか?
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍の港別入港数 
文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳には、海関のある兵庫北関に入船し、通行税を納めた船が記録されています。その中に讃岐港は上表のように17港、寄港件数は237件です。下から4番目に「丹穂」とあるのが仁尾で、その数は2件です。「地下家数、今者現して五六百計」と繁栄している港町にしては、その数が意外なほど少ないようです。宇多津と比べると、その1割にも満たなかったことになります。観音寺は4件です。その他には、三野も詫間も伊吹もありません。
どうして、仁尾を中心とする三豊の船が少ないのでしょうか?
この問いに答えるために、宇多津や東讃の港の比較をしてみましょう。讃岐最大の港湾都市宇多津には、隣接地に守護所(守護代所)が置かれていました。香川氏に代わって宇多津の管理権を得た東讃岐の守護代安富氏は、宇多津船をたびたびチャーターし、「国料船」として利用しています。前々回にお話ししたように「国料船」には、関税がかけられず無料通行が出来ました。通行税逃れのためです。
 もう一つ考えられる事は、宇多津・塩飽と平山との間に見られる分業体制です。

宇多津地形復元図
聖通寺山の西北麓にあった平山港
平山は、宇多津東側の聖通寺山のふもとに位置する中世の港です。この港に所属する船は、小型船が多く、周辺地域の福江や林田・松山・堀江などの地方港を行き来して、物産を集めていた気配があるようです。そうして集積された米や麦を畿内に運んだのが、宇多津・塩飽船になります。宇多津と平山の船は、以下のように分業化されていたというのです。
①宇多津船 讃岐と畿内を結ぶ長距離行路に就航する大型船
②平山船  西讃各地の港から宇多津に荷物を集積する小型船
このような棲み分けがあったために、宇多津近隣の林田や福江・松山などは出てこないと考えられます。
 三豊の各港は、塩飽との関係が深かったようです。宇多津と平山の関係と同じように、塩飽を中継港として三豊は畿内とつながっていたことが考えられます。そのため三豊船籍の船は塩飽まで物資を運び、そこからは塩飽船に積み替えられて、大麦・小麦などが畿内に向けて運ばれた可能性があります。宇多津・平山・塩飽等の諸港は、讃岐における諸物資の一大集散地でした。同時に、畿内と讃岐とを結ぶ拠点で中継基地の役割を果たしていたと研究者は考えています。
東讃の諸港の特色は?
 髙松以東には、島(小豆島)・引田・三本松や鶴箸・志度・庵治・方本(潟元)・野原・香西などの港湾が登場しています。このうち三本松を船籍地とする20艘のうちの11艘、鶴箸を船籍地とする4艘のうちの一艘が「管領御過書」船です。また、庵治を船籍地とする10艘のうちの4艘、方本(潟元)を船籍地とする11艘のうちの5艘までが「十川殿国料」船、一艘が安富氏の「国料船」です。東讃の各講は、管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)と守護代や十河氏など重臣層と関係がある港が目立ちます。つまり、有力武将の息のかかった港が多いということになります。
 それに対して、
①志度(志度寺)
②野原(無量寿院)などの港湾都市
③讃岐東端部にあって畿内への窓口として重要な位置を占める引田(誉田八幡宮がある)
などは、対照的に「管領御過書」船や「国料」船が、ひとつもありません。この背景には、これらの港湾都市では、志度寺・無量寿院・誉田八幡宮などの有力寺院の影響力と、その関係者と地域住民とによる自治組織があって、細川氏やその重臣が関与しにくい状況にあったと研究者は考えているようです。

 東讃岐の諸港湾は東瀬戸内海西縁部に位置し、兵庫・堺や畿内諸地域に近いところにあります。
そのため日常生活品である薪炭などを積んだ小型船が畿内との間を往復していたようです。つまり、東讃各港は、畿内と日常的な交流圏内にあって、多くの小型船が兵庫北関を通過し、薪などを輸送していたと研究者は考えているようです。
 これに対して西讃の各港は、どうだったのでしょうか
 瀬戸内海を「海の大動脈」と云うときに、東西の動きを中心に考えていることが多いようです。しかし、南北の動きも重要であったことは以前にお話ししました。昭和の半ばまでは、備後から牡蠣船が観音寺の財田川河口の岸辺にやってきて牡蠣鍋料理を食べさせていた写真が残っています。このように、燧灘に面する観音寺や仁尾・伊吹などの各港は、伊予や対岸の備中・安芸東部・芸予諸島エリアと日常的な交流活動を行っていました。そのために畿内との交易活動に占める割合が、東讃ほど高くありませんでした。そのため西讃船籍の兵庫北関を通関する船は、少なかったことが考えられます。宇多津・塩飽諸島を境目にして、それより西に位置する三豊地域の独自性がここにも見られます。
兵庫北関入船納帳 燧灘
三豊の各港の日常交易活動のエリアは燧灘沿岸
 兵庫北関に入関した西讃岐の港には、多々津(多度津)・丹穂(仁尾)・観音寺と、島嶼部のさなき(佐柳島)・手島などがあります。この中で、多々津(多度津)は、12艘のうち8艘までが西讃岐の守護代香河(香川)氏の「国料船」です。これは多度津港が香川氏の居館の足下にあり、日常的な繋がりが成立していたからでしょう。
 これに対して、三豊地区の港を見てみると次の通りです。
①観音寺を船籍地とする4艘
②丹穂(仁尾)を船籍地とする3艘
③さなき(佐柳島)を船籍地とする2艘
④手島を船籍地とする一艘
ここには「国料船」や「管領御過書」船が、一隻もありません。これは多度津や東讃とは対照的です。

もうひとつ研究者が指摘するのは、政治権力と港の関係です。
 戦国時代の堺を例に考えると、会合衆という有力商人層による自治組織によって運営支配されていました。その勢力に接近し、利用しようとする勢力は現れますが、それを直接支配しようとする勢力は信長以前には現れていません。讃岐の宇多津の場合も、さきに港湾都市としての宇多津があって、その近辺に守護館が後から置かれたようです。近世の城下町のように、城主がイニシャチブをとってお城に港が従属するようにもとから設計されたものではありません。どちらかというと後からやって来た守護細川氏が、宇多津の近くに居館を構えたという雰囲気がします。政治勢力は、港を管理運勢する勢力に対して、遠慮がちに接していたと印象を私は持ちます。そのような点で西讃守護代の香川氏によって開かれた多度津港は、性格を異にするようです。多度津は、それまでの堀江港に替わって築かれますが、その場所は香川氏の居館のあった桃陵公園の真下です。香川氏の主導下に新たに開かれた港と私は考えています。そういう意味では、居館と港が一体化した近世的港の先駆けとも云えます。
香川氏との関係で、西讃の諸港を見ていくことにします。
①神人の下に結束し、賀茂社・覚城院・常徳寺・吉祥院などの有力寺社がひしめく仁尾
②財田川河口部の琴引八幡宮とその別当寺(観音寺)などを核として形成された港町観音寺
これらの港には香川氏は、土足で踏み込んでいくことは出来ず、一定の距離を置いて接していた雰囲気がします。そうした状況は、海民の集住地であり、住民が主役となって島を運営していたさなき(佐柳島)・手島・伊吹でも共通していたと研究者は考えているようです。

 以上をまとめておきます。
①東讃岐・西讃岐ともに「国料船」や「管領御過書」船が発着する港と、それが見られない港がある。
②「国料船」「管領御過書」は、宇多津以東の庵治・方本(潟元)・三本松・鶴箸など東讃の港にに集中していること。
③西讃で「国料船」が見られるのは多度津だけで、三豊には「国料船」はない。
④この背景には東瀬戸内海の向こう側にある畿内市場に接するという東讃各港の立地的優位さがあること
⑤それに着目した細川氏や守護代・有力武将らの港湾政策があること
 
東讃岐と西讃岐とのちがいを、今度は積荷から見ておきましょう。
兵庫北関入船納帳 積荷一覧表
兵庫北関入船納帳 讃岐港別の積荷一覧表

積荷一覧表から分かることを挙げておくと
①東讃岐の三本松・鶴箸・志度は米・小麦・大麦・材木・山崎コマ(荏胡麻)など穀類や材木(薪)をが主な積荷であること
②引田・庵治・方本(屋島の潟元)の積荷のほとんどが塩で、塩専用船団ともいえること
③これに対して西讃岐の船々の積荷は、米・赤米・豆・大麦・小麦などの穀類、ソバ・山崎コマ(荏胡麻)、赤イワシ・干鰯などの海産物が大半を占めていること。
④西讃の塩は多度津船の980石と丹穂(仁尾)船の70石だけで、東讃岐の港から発着する船々と積荷の種類がかなりちがっていること。

どちらにしても『兵庫北関入船納帳』の讃岐船の積みにについては、東西の各港にかなりの違いがあることが分かります。それを生み出した要因として、次のような事が背景にあると考えられます。
①諸港の後背地の生産の在り方、
②諸港の瀬戸内海海運での役割、
③畿内との交易の在り方
例えば①の後背地については、東讃の引田・庵治・方本(潟本)・島(小豆島)などの港には、製塩地が隣接してあったことが分かっています。古代から塩を運ぶための輸送船やスタッフがいました。それに対して、西讃岐では詫間が製塩地として確認されるだけです。観音寺・丹穂(仁尾)の船が運んでいる米・赤米・豆・大麦・小麦・山崎コマ(荏胡麻)は、後背地の財田川流域で生産されたとものでしょう。また赤イワシは近海産、備後塩は備後東部の製塩地から日常的な交易活動を通じて集荷してきたものと考えられます。ここからは、東讃と三豊では、畿内との距離が違っていたこと、各エリアが畿内の需要にそう地域色の強い品々を必要に応じて輸送・販売していたことがうかがえます。
  文安二(1445)年の兵庫北関入船納帳に出てくる多度津以西の港の船を一覧表にしたものです。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・三豊の船一覧

まず目につくのは、多度津船の入港の多さです。
1年間で12回の入港数があります。多度津船の積荷「タクマ330石」とあるのは「詫間産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。多度津船は5月22日の船までは、積荷が記載されています。ところが4月9日船に「元は宇多津弾正船 香河(川)殿」とあり、5月24日以後の船は「香河殿十艘過書内」「香河殿国料」と記されるようになって、積荷名が記載されなくなります。これについては、以前にお話したように、守護細川氏がそれまで香川氏が管理していた宇多津港の管理権を安富氏に移管したこと、それに伴い香川氏の国料船の母港が多度津に移されたことが背景にあります。
 ここからは、それまでは多度津船籍の船は一般船として関税を払って通行していたのが、国料船や過書船として無税通行するようになったことがうかがえます。
  多度津船の船頭や問丸を見ておきましょう。
多度津船の問丸は道祐の独占体制にあったことが分かります。 道祐は、多度津以外にも備讃瀬戸の25港湾で積荷を取り扱っていることが兵庫北関入船納帳からは分かります。彼は燧灘を取り囲む備中と讃岐を結ぶ地域、瀬戸内海西部地域の大規模な勢力範囲を持っていた海商だったようです。多度津の香川氏が道祐と組み、その智恵と情報量に頼って、瀬戸内海の広範囲に渡って物資を無関税船で輸送できる多度津に集積し、多度津を繁栄させていったと研究者は考えています。
仁尾や観音寺船の船主について、簡単に見ておきましょう。
①仁尾船の荷主は新衛門・勢兵衛・孫兵衛、問丸はすべて豊後屋
②観音寺船の荷主は、又二郎・与五郎、問丸は仁尾と同じすべて豊後屋
③仁尾船の荷主・勢三郎は、多度津の荷主としても五回登場するので、彼は多度津・仁尾を股に掛けて活動していたこと
④手島・佐柳島の問丸は、すべてが道祐で、豊後屋の関与する仁尾・観音寺とは異なる系統の港湾群であったこと、
 こうしてみると当時の瀬戸内海の各港は、問丸によってネットワーク化されて、積荷が集積・輸送されていたことがうかがえます。燧灘エリアにネットワークを張り巡らした問丸の道祐が、多度津の香川氏と組んだように、備後屋は仁尾の神人や観音寺の寺社と組んでいたようです。彼らが港に富をもたらす蔭の主役として富を集積していきます。そして、拠点港に自らの交易管理センターとして、信仰する宗派の寺院を建立していくことになります。
 その例が観音寺の西光寺などの臨済宗派の禅宗寺院です。観音寺市には、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)派で、伊予の港にもこの派の寺院は数多く分布します。ここには、宗派の布教活動と供に問丸などの信者集団の存在があったことがうかがえます。
  讃岐守護細川氏に繋がることで、上賀茂社との関係を次第に精算した仁尾
 仁尾については、従来は「賀茂社神人(供祭人)によって港町仁尾」というイメージで語られてきました。確かに、賀茂社神人は京都の上賀茂社への貢納物輸送に、私的な交易品を加えて輸送船を運航していたようです。仁尾と京都とを定期的に往復することで、次第にそれが広域的な交易に拡大していきます。その中心に神人たちがいたことは間違いありません。
 しかし、15世紀半以降の仁尾浦の神人たちは、それまでとは立ち位置を変えていきます。
管領兼讃岐守護細川氏(京兆家)に「海上諸役」を提供する代わりに、細川氏からの「安全保障」を取り付けて、京都上賀茂社の「社牡家之役銭」を拒否するようになっていたことを前回お話ししました。細川氏と上賀茂社を天秤にかけて、巧みに自分に有利な立場を固めていきます。別の言葉で表現すると「仁尾の神人たちはは讃岐守護・守護代との繋がりを盾として、上賀茂社との関係を次第に精算していった」ということになります。その結果として、それまでの畿内を含む活動エリア狭めながら、燧灘に面する讃岐・伊予・安芸などの地域に根付いた活動へと転換していったと研究者は考えているようです。
 このような動きと、神人らが「惣浦中」などと呼ばれる自治組織を形成・定着させる過程とは表裏をなす動きであったと研究者は指摘します。
最後に中世仁尾浦の成立基盤が、近世仁尾の繁栄にどのように結びついていくのかを見ておきましょう。
仁尾町史には、18~19世紀半ば過ぎの仁尾の繁栄について、次のように記されています。
①醸造業・搾油問屋・魚問屋・肥料問屋・茶問屋・綿綜糸所・両替商などの大店が軒を連ねていたこと。
②近郷・近在の人々が日用品から冠婚葬祭用品に至るまで「仁尾買物」として盛んにやってきたこと。
③港には多度津・丸亀・高松方面や対岸の備後鞆・などにまで物資を集散する大型船が出入りして、「千石船みたけりや仁保(仁尾)に行け」とまでうたわれたこと
ここからは、当時の仁尾が西讃岐の代表的港町の一つとして繁栄していたことが分かります。これを中世の仁尾浦と比較すると、交易圈は多度津から高松(中世の野原)、備後の輛の浦・尾道などが中心で、今まで見てきた中世の仁尾浦の交易圈と変わらないことが分かります。量的には増加しているかも知れませんが、港町の質的な面で決定的な変化はなかったようです。中世に形成された仁尾浦の上に近世仁尾港の繁栄があった。そこには、交易権などの存続基盤に変化はなかったとしておきます。

  以上をまとめておくと
①「兵庫北関入船納帳」に記載された、三豊の港は東讃に比べると少ない。その要因として次の3点が考えられる。
②第1に、東讃各港は畿内との交易距離が短く、小型船による薪炭輸送など生活必需品が日常的に派運び出されていたこと。
③第2に、東讃各港は守護や守護代などの管理する港く、国料船・過書船の運行回数が多かったこと
④中讃・西讃の各港は、宇多津・塩飽を中継港として物資を畿内に送っていたこと
⑤三豊の仁尾は、古代には上賀茂神社の保護特権の下に、神人たちが畿内との交易を行っていた。⑥しかし、律令体制の解体と共に古代の特権が機能しなくなる。そこで、仁尾は頼るべき相手を管領細川氏に換えて、警備船や輸送船の提供義務を果たすことで、細川氏からの「安全保障」特権を得た。
⑦同時に、それは従来の畿内を交易対象とする活動から、燧灘沿岸エリアを日常交易活動圏とする交易活動への転換をともなうものであった。
⑧このようにして作られた中世仁尾浦をベースにして、近世の仁尾港の繁栄はもたらされた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

仁尾町の賀茂神社 - 三豊市、賀茂神社の写真 - トリップアドバイザー
仁尾の賀茂神社

仁尾の賀茂神社は、応徳元(1084)年に山城国賀茂大明神(上賀茂神社)を蔦島に勧進したのが始まりとされます。
魚介類を納める御厨を設置して、蔦島やその沿岸海域を舞台として、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として組織します。彼らに「御厨供祭人者、莫附要所令居住之間、所被免本所役也」という特権を与え、賀茂神社周辺を「櫓棹通路浜、可為当社供祭所」などを認めて、魚介類・海産物などを贅として進上することを義務づけます。こうして、賀茂社に奉仕する神人(じにん)を中心に浦が形成されていきます。神人たちは、魚介類を捕るだけでなく、輸送にも従事しました。畿内との交易活動も活発化に行い、さまざまな特権を有するようになります。仁尾浦は、讃岐・伊予・備中を結ぶ燧灘における海上交易の拠点港へと成長します。ここで押さえておきたいのは、仁尾浦が賀茂神社に奉仕する神人々を中核として形成された浦であることです。
延文3(1358)年の詫間荘領家某寄進状に「詫間御荘仁尾浦」とあるのが仁尾浦の初見のようです。
仁尾 初見史料
仁尾賀茂神社文書の詫間荘領家某免田寄進状延文3年(1358)
この文書は詫間荘の領家が仁尾浦の鴨大明神に免田を寄進したもので、「仁尾浦」が見えます。ここからは、14世紀中頃には仁尾浦が姿を見せていたことが分かります。

賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人も当地または近隣に存在し、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、
「地下家数今は現して五六百計」

とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。
仁尾 中世復元図
中世の仁尾浦
 管領細川氏は、仁尾浦の戦略的意味を理解して、代官を設置し軍事上の要衝地としていきます。
それまではの仁尾浦は、讃岐西方守護代の香川氏によって兵船徴発が行われていたようです。ところが応永22年(1415)の細川満元書下写には、次のように記されています。
讃岐国仁尾供祭人等申、今度社家之課役事、致催促之処、無先規之由、以神判申之間、所停止也、此上者向後於海上諸役者、可抽忠節之状如件、
応永廿二年十月廿二日    御判
意訳変換しておくと
 讃岐国仁尾の供祭人(神人)から、われわれ社家への課役については「無先規」で先例のないことだとの申し入れを受けた。これに対して、改めて神判をもって、これを停止した上で、今後の海上諸役については、忠節をはげむことを命じる。
 
ここから次のようなことが分かります。
①従来は、仁尾浦が賀茂社領であって、供祭人(神人)として掌握されてきたこと。
②今後は上賀茂神社の諜役を停止し、細川氏の名の下に海上諸役を行うこと
つまり仁尾は、上賀茂神社の諸役を停止し、細川氏の直接支配下に置かれて、海上警固などのあらたな義務を負わされたのです。

 こうして仁尾には、具体的に次のような役割を果たしていたことが史料から分かります。
応永27(1420)年 朝鮮回礼使宋希憬が帰国の際に、その護送兵船の徴発
永享6(1434)年  遣明船帰国の時に、燧灘を航行する船の警護のためら警護船を徴発
 仁尾浦の人々は商船活動を行うだけでなく、細川氏の兵船御用を努めたり警護船提供の活動を求められるようになります。
 こういう文脈上で、応永27年(1430)の次の資料を見ていくことにします。
御料所時御判
兵船及度々致忠節之条、尤以神妙也、甲乙大帯当浦神人等於致狼籍者、可処罪科之状如件。
     応永廿七年十月十七日  御判
仁尾浦供祭人中
意訳変換しておくと
度々の兵船など幾度の忠節について、まことに神妙である。甲乙人帯で仁尾浦の神人たちに狼藉を働く輩は、罪科に処す、御判
応永甘七年十月十七日
仁尾浦供祭人中
ここには「兵船及度々致忠節」とあるように、仁尾浦が「海上諸役=兵船負担」を細川氏に対して度々行っていること。それに応えて、神人に狼藉をなすものに対しては、細川氏が処罰することが宣言されています。15世紀前半において、仁尾浦が東伊予から今治までの燧灘エリアで、細川氏の拠点港湾として機能していたことがうかがえます。それに応えて、細川氏は仁尾の船を保護すると宣言しているのです。
 これは「兵船提供」を行う仁尾浦に対して、細川氏が仁尾の安全保障を約束した文書でもあります。
ここには、仁尾浦が守護細川氏の「水軍」として編成されていく様子がうかがえます。別の視点で見ると、細川氏の「兵船提供」要請に「忠節」を尽くすことで、瀬戸内海や畿内での安全航海の権利を勝ちとる成果をあげているとも云えます。これを上賀茂神社の立場から見ると、「自分から細川氏に仁尾は乗り換えた」とも写ったかもしれません。ここでは、「仁尾供祭人」は、細川氏の権力をバックにして、それまでの上賀茂神社の課役の一部から逃れるとともに、賀茂社と守護細川氏の間に立って、自らの利権の拡大と自立性を高めていったことを押さえておきます。
仁尾 中世復元図2
中世の仁尾

細川氏はどのような方法で仁尾浦を支配しようとしたのでしょうか?
嘉吉元年(1441)十月の「仁尾賀茂神社文書」には、次のように記されています。
「讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去」

  ここからは、仁尾浦にはこれ以前から浦代官として香西豊前が任じられていたことが分かります。先ほど見た朝鮮回礼使の護送船団編成の際にも仁尾は、浦代官である香西氏から用船を命じられていたのかもしれません。香西氏は代官として、「兵船徴発、兵糧銭催促、一国平均役催促、代官の親父逝去にともなう徳役催促」などを行っています。
そのような中で仁尾浦を大きく揺るがす事件が起きます。

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嘉吉元年(1441)六月、将軍足利義教が播磨守護赤松満祐に暗殺される嘉吉の乱です。この乱に際して、守護代香川修理亮から兵船徴発の催促が仁尾に下されます。しかし、浦代官の香西豊前は、これを認めません。

もともとは、西讃岐は守護代香川氏による支配が行われてきました。守護代の香川氏の権限による軍役賦課がおこなわれていたはずです。そこへ、「仁尾浦は港であり守護料所である」ということで、浦代官が設置され、守護細川氏に代官として任命された香西豊前がやってきたようです。これが香川氏と香西氏の二重支配体制の出現背景のようです。この経過からは、守護細川氏は、香川氏の持つ守護代権限よりも、自分が派遣した浦代官の権利権の方が強かったと判断していたことがうかがえます。どちらにしても仁尾浦には、次の2つの指揮系統があったことを押さえておきます。
① 香川氏の守護代権限
② 香西氏の浦代官の権利
しかし、②の浦代官としてやって来た香西氏の一族とは、うまく行かなかったようです。
その時の様子を伝える史料が「仁尾浦神人等言上案」です。言上状とは、下の者が上級者へもの申すために出された書状です。
ここでは、下級者は仁尾浦の神人たちで、上級者は守護細川氏になります。仁尾浦の神人たちが、香西氏の不法を守護細川氏に訴えている内容です。
仁尾の神人たちの訴えを見ておきましょう。
 上洛のために兵船を出すように守護代香川修理亮から督促があったので船2艘を仕立てた。ところが浦代官香西豊前から僻事であると申し懸けられ船頭と船は拘引された。これ以前に、香西方への兵船のことは御用に任せて指示があるから待つようにと、香西五郎左衛門から文書で通知があったので船を仕立てずに待っていた。しかし今になって礼明・罪科を問われるのは心外である。船頭は追放され帰国したが、父子ともに逐電し、その親類は浦へ留めおかれた。
 一方、香西方に留めおかれた船のことについて何度も人を遣わして警戒しているところに、再度船を仕立てて早急に上洛せよとの命が下されたので、上下五〇余人が船二朧で罷上り在京して嘆願したが是非の返事には及ばなかった。今は申しつく人もなく、ただ隠忍している有様である。
 守護代と浦代官との相異なる命令に、浦住民が翻弄されていることを以下のように訴えています。
守護代である香川氏の命で船を仕立てるに40貫かかったこと。
この金額は住民には巨額で、捻出に苦労したしたこと。
このような中で、浦住民は浦代官香西氏の改易要求の訴えを起こして、逃散という手段にでたこと。そのため500~600軒あった家がわずか20軒ばかりになったこと
この細川氏への訴えは、ある程度受け入れらたようで、住民は帰ってきます。ところが香西氏は、今度は住民の同意のないまま田畑への課役を強行します。
   香西豊前方、於地下条々被致不儀候之条、依難堪忍仕令逃散者也、(中略)

彷今度可被止豊前方之綺之由、呑被成御奉書之間、神人等悉還住仕、去九月十五日当社之御祭礼神人等可取成申之処、香西方押而被取行同所陸分内検候事、已違背御奉書之条、無勿体次第也、彼在所者浜陸為一同事、先年落居了、其時申状右備、(下略)

ここからは次のようなことが分かります。
①9月15日の仁尾賀茂社の祭礼の用意をしていると、「今度可被止豊前方之綺」との細川氏の裁定が出たにもかかわらず、香西氏が「陸分内検」を強行したこと。
②これに対して仁尾浦神人は「陸一同たることは先年決着していて、奉書に違背するものである」とと主張して、浦代官・香西豊前氏の更迭を再度要求たこと
ここから推測されることは、従来から仁尾浦の陸部は浜とみなされ、そこに田畑があっても、その地への課役は免除されていたようです。それに対し、香西氏は陸上部の旧畠を検地して、賦課しようとしたのでしょう。
 ここで研究者が注目するのは、神人たちが自分たちの存在基盤の「浜分」を、「陸分」と「一同」と主張していることです。
この論理で、香西氏の「陸分」支配を排除し、「浜分」の延長領域として確保しようとしていることです。これは、かつて供祭人(神人)たちが、蔦島対岸の詫間荘仁尾村の海浜部を、「内海津多島供祭所」の一部として組み込んでいったやり方と同じです。 これを研究者は次のように述べます。

それは土地に対する「属人主義の論理」であり、その具体的表現である「浜陸為一同」という主張が、詫間荘仁尾村の中から仁尾浦を分立・拡大させる原動力となっていたのである。そのことからすれば、香西氏による「陸分内検」は、仁尾村を詫間荘の一部として把握しようとする属地主義の論理に基づく動きであり、当初から内海御厨の神人たちとの間に不可避的に内包された矛盾であった。


浦代官と神人の対立が、嘉吉の乱という戦況下で突発的に起こったものなのか、それとも指揮系統の混乱であったのかはよくわかりません。ただ、香西豊前は浦代官として、仁尾浦から香川氏の権限を排除し、浦代官による一元的な支配体制を実現しようとしたようです。
 これは、前々回に見た守護細川氏によって宇多津港の管理権が、香川氏から安富氏に移されたこととも相通ずる関係がありそうです。その背景にあるのは、次のような戦略的なねらいがあったと研究者は考えているようです。
①備讃瀬戸の制海権を強化するために、宇多津・塩飽を安富氏の直接管理下へ
②燧灘の制海権強化のために仁尾浦を香西氏の直接支配下へ
③讃岐に留まり在地支配を強化する守護代香川氏への牽制
仁尾 金毘羅参拝名所図会
仁尾 金毘羅参詣名所図絵
以上をまとめておくと
①仁尾浦は、京都上賀茂神社の御厨として成立した。
②上賀茂神社は、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として掌握し、特権を与えながら貢納の義務を負わせた。
④14世紀には仁尾浦が姿を現し、燧灘エリアの重要港としての役割を果たすようになった。
⑤管領細川氏は、瀬戸内海の分国支配のために備中・讃岐・伊予の拠点港である仁尾浦を重視し、ここに「水軍拠点」を置いた。
⑥そのために、浦代官として任じられたのが香西一族であった。
⑦しかし、浦代官の権限と強化しようとする香西氏と、自立性と高めようとしていた仁尾神人との対立は深まった。
⑧管領細川氏の弱体化と供に、備讃瀬戸の権益も大内氏に移り、香西氏は後退していく。
⑨西讃地方では、天霧城を拠点とする香川氏が戦国大名化の道を歩み始め、三野平野から仁尾へとその勢力をのばしてくることになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開
            中世讃岐と瀬戸内世界 所収
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