瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:仁尾賀茂神社

古代三野郡郷名
古代の三野郡詫間郷
 前回は三野郡詫間郷の浪打八幡社が郷社として、詫間・吉津・仁尾・比地・中村の名主座という宮座によって祭礼が行われていたことを見ました。その中で浪越八幡宮は、詫間荘の郷社であると同時に、宗教センターの機能を果たしていました。
 ここで私が気にかかるのが仁尾浦の賀茂神社との関係です。
仁尾浦の「名」たちは、詫間の浪打八幡社の宮座のメンバーでありながら、仁尾の賀茂神社にも奉仕する神人でもあったことになります。この関係は、どうなっているのでしょうか? 両神社の関係を、今回は見ていくことにします。テキストは、「薗部寿樹  村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘   山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」です。

賀茂神社の注連石 --- 巨石巡礼 |||
仁尾賀茂神社

【史料E】仁保浦鴨大明神御前之まつり覚之事
文禄弐(1593)年閏菊月拾五日
但前々のかたきのまつりなり、右後日如件
                仁保(仁尾)年寄中
この文書からは、中世の仁保浦鴨大明(仁尾賀茂神社)では「仁保年寄中」による祭祀が行われていたことが分かります。それでは、この年寄中というのは、どのような人達なのでしょうかに。
【史料F】寛永10年2月鴨大明神祠官仁尾大夫詫状『新編香川叢書』覚城院文書二五号)
(前略)
一 御宮さいかうなとの御時、万事年寄衆被仰次第二可仕事
一 祭礼御まつり、如先例□、供祭人衆被仰次第二可仕事
一 まつり之時、神子、大夫分、日之儀、如先例之、可仕事、付り、重而何にてもいつわり申間敷事右之通、少も相背申候ハヽ、何時二ても、御奉行様へ被仰上テ、我等越度二相極候ハヽ、大夫被召上ケ候様二可被成候、為其一札 如件
寛永拾(1633)年三月十七日      二保(仁尾)ノ大夫 印
           御氏子衆
鴨大明神様(賀茂神社)御年寄衆
           覚城院様
意訳変換しておくと
一 御宮再興などの際には、万事について年寄衆の指示通りに行うこと
一 祭礼の際には、先例通りに、供祭人衆の指示通りに行うこと
一 祭礼の際には、神子、大夫分、日之儀なども先例の通り行う事、また重ねて何事についても嘘偽りを云わないことを誓います。少しでもこれに背いた場合には、何時でも御奉行様へ申し上げること。その結果、大夫の役割を召し上がれることも承知しました。為其一札 如件
寛永拾(1633)年三月十七日           二保(仁尾)ノ大夫
           御氏子衆
鴨大明神様(賀茂神社)御年寄衆
           覚城院様
内容は1633年春に、仁尾の大夫が嶋大明神(賀茂神社)の氏子衆・年寄衆・覚城院にたいして提出した詫状です。今後は指示に従わずに勝手な行動をとることはしないことを誓う内容です。逆に言えば「二保(仁尾)大夫」が先例に従わず、年寄衆や覚城院の指示にも従わずに、勝手な振る舞いが目に付いたので「詫び状(誓約書)」をとられたようです。
 史料Fからは、仁尾年寄衆が宮年寄であることが分かります。
宮年寄とは、祭祀集団において年長が上位で、祭祀を主導する立場にある者のことです。史料Fで仁尾賀茂神社の宮年寄が祭祀を主導しています。ここからは次のような事が分かります。
①仁尾賀茂神社の祭祀組織が宮座であこと
②覚城院に対しても誓約しているので、覚城院が鴨大明神(賀茂神社)の神宮寺であったこと

覚城院】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
仁尾の覚城院

【史料G】文政十二年加茂社御頭心得惣記録(仁尾賀茂神社文書)
加茂社御頭心得惣記録
一 八月朔日御閥戴キ承人々社頭ヨリ呼二参候間、早速袴羽織二而宮座え罷出、年寄衆より御閣戴候趣承り罷帰り可申事
(中略)
文政十二(1812)年己丑九月
意訳変換しておくと
加茂社御頭の心得全記録
一 旧暦の八月朔日(ほずみ=8月1日で新暦の九月中旬頃)、社頭からすぐに来るようにとの連絡があり、早速に袴羽織に着替えて、宮座へ出席した。年寄衆より協議議題について聞いて帰ってきた。(中略)
文政十二(1812)年己丑九月
ここには、「・・袴羽織二而宮座え罷出、年寄衆より・・・」とあり、仁尾賀茂神社の祭祀組織が「宮座」と表現されています。さらに研究者は注目するのは、頭人が年寄衆の集会で差配されていることです。
 名主座では頭文が作成され、頭文順番で名主座の名頭は奉仕します。第二次大戦前の仁尾賀茂神社宮座は、塩田・鴨田・河田・倉本の四苗(みよう)だけの家で頭屋が運営されていたようです。この四苗の家が300軒あり、そこから5人の頭屋を鬮(くじ)引きで選びます。履脱八幡神社 | kagawa1000seeのブログ
履脱八幡神社(仁尾)

 仁尾の履脱八幡宮の宮座も十二苗の輪番制で運営されています。
苗はオヤ(本家筋)を中心にまとまっていたようです。この苗が「名」の名残である可能性もありますが、仁尾の場合はそのようには解釈できないと研究者は考えています。それは仁尾賀茂神社宮座の五苗は、名主座の名の数が少ないこと。また履脱八幡宮宮座の十二苗は、オヤを中心とする同族的集団です。仁尾賀茂神社の苗も塩田・鴨田・河田・倉本・吉田という苗字に固定されています。そこから、仁尾賀茂神社・仁尾八幡宮のどちらの苗も、もともとは名ではなく同族を意味するものと研究者は考えています。したがって、両社の宮座は鬮次成功制宮座が変質して、近世以降に家単位の宮座になったようです。

 仁尾賀茂神社の宮座は以下の点から、鬮次成功制宮座であると研究者は判断します。
①宮年寄があること
②宮座という史料表現
③「御鬮(くじ)」による頭人差定
 史料Eの記載から宮座は、中世後期に遡ることができるようです。
中世讃岐の仁尾港 守護細川氏は、香西氏を仁尾の浦代官に任じて支配しようとした : 瀬戸の島から
仁尾賀茂神社

どうして、浪打八幡社という惣荘名主座がある詫間荘内に、もうひとつ別の宮座があるのでしょうか。
 その解決のためには、詫間荘の仁尾浦と仁尾賀茂神社の歴史を見る必要があるようです。まず研究者が注目するのは、以下のように仁尾賀茂神社に免田があったことです。

延文二年二月御代官三郎次郎免田安堵状
(『香川県史』仁尾賀茂神社文書一六号)、延文三年九月詫間荘領家某免田寄進状(同一七号)                         

これは、仁尾賀茂神社が仁尾浦(村)の神社でありながら、詫間荘全体にとっても重要な神社であったことを意味しています。浪打八幡宮は詫間荘の全荘的名主座です。しかし、詫間荘のすべての名を網羅したものではありませでした。仁尾浦(村)には、浪打八幡宮名主座に入っていない名として、金武名・武延名・延包名の三つの名がありました。ここでは浪打八幡宮名主座に編成されていない名が仁尾浦(村)にあったことを押さえておきます。

仁尾浦(村)の他にない特色は、京都の鴨社との関係です。
1090(寛治四)年に鴨社供祭所として「讃岐国内海」が指定されます。この讃岐国内海とは、仁尾浦の津多(蔦)島のことです。その関係から仁尾に賀茂神社が勧請されます。この仁尾の浦人が仁尾賀茂神社の供祭人(神人)へと成長して行きます。
仁尾 初見史料
仁尾浦が史料で最初に確認できる文書 仁尾浦鴨大明神とある

 京都鴨社の仁尾浦支配は、土地支配ではなく、供祭人を通しての支配でした。そのため詫間荘の荘園支配と併存することが可能でした。仁尾賀茂神社の宮座成員は、鴨社供祭人であり、詫間荘荘民でもあるという関係です。仁尾賀茂神社の鴨社供祭人は、京都の鴨社に供物をおくる義務とひき替えに、保護を得て仁尾浦漁携や海運特権を独占するようになります。
 それが1415(応永22)年になると、讃岐国守護の細川頼之から海上諸役や兵船の供出を命じられています。ここからは15世紀初頭になると、仁尾浦供祭人は京都の鴨神社から細川京兆家へと保護者を替えたことが分かります。そうすることで、仁尾浦供祭人は伊予や安芸方面と燧灘を通じての交易活動を活発に展開します。仁尾賀茂神社の鬮次成功制宮座が成立したのは、京都鴨社との関係を持つ賀茂供祭人(神人)がいたからのようです。そして、浪打八幡宮の惣荘名主座とは異なる祭祀スタイルを、仁尾浦の供祭人(神人)は生み出していったと研究者は考えています。

7仁尾3
 中世の仁尾浦の海岸線と寺社分布(点線が海岸線)

仁尾浦と鴨社供祭人は、瀬戸内海を舞台にしして広範囲の経済活動を行っていました。燧灘に面する伊予や安芸の拠点港として機能していたことが考えられます。
 その結果、仁尾賀茂神社は単なる村の鎮守社にとどまらない神社に成長して行きます。ここでは次の事を押さえておきます。
①仁尾賀茂神社が「準惣荘鎮守社的な存在」だったこと
②詫間荘内には異なるタイプの宮座が併存してたこと。それは、一つの荘園に二つのタイプの宮座が併存する珍しい例だったこと。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

DSC03968仁尾
燧灘に開けた仁尾(昭和30年代)

  仁尾浦住民とその代官とが「権利闘争」を展開していることを以前にお話ししました。その経過をもっと分かりやすく紹介して欲しいという要望を受けましたので、できる限り応えてみようと思います。
今回は史料紹介はなしで、経緯だけを追っていくことにします。テキストは「国人領主制の展開と荘園の解体  香川県史2 中世 393P」です
仁尾浦は、南北朝期頃までは鴨御社社領でした。
それが15世紀初めに讃岐守護細川満元によって、社家の課役が停止されます。そして仁尾浦は「海上の諸役」という形で守護細川家に「忠節を抽ずべき」とされます。早く言えばパトロンが京都賀茂神社から細川京兆家に替わったということです。「仁尾浦の神人に狼藉をなすものは罪科に処す」と命じているのは細川氏です。ここからは仁尾浦の統治権限は細川氏が握っていたことが分かります。言い換えれば、仁尾浦は細川氏の所領になったと云えます。しかし、細川氏は自分で所領経営を行うことはありません。代官を派遣します。仁尾浦代官を任されたのが香西氏です。15世紀前半までには、仁尾浦の代官を香西氏が務めるようになっていたことが史料から分かります。
香西氏は、代官として次のような賦課を行っています。
①兵船微発
②兵糧銭催促
③一国平均役催促
④代官親父逝去に伴う徳役催促。
①は細川氏所領として義務づけられている「海上の諸役」です。
②は代官香西氏が「和州御陣」に参加した時に2回微収されています。一回目は1438(永享10年ごろ、20余貫を「御用」として納めています。2回目は翌年に50貫と「使者雑用以下」として10余貫文計60余貫文を納めています。2回目の時には「厳密にさた在らば」「以前の徳役の事はし下さるべきなり」という条件が付けられているので、この時の兵糧銭は代官の恣意的課役だったようです。
③は本来は守護代香川氏が課税するものなのでしょうが、仁尾浦では代官の香西氏が賦課しています。そして「浦人は精一杯御用をつとめている」と述べています。②③は合わせて「役徳」・「徳役」と称されるもです。
④はまさに香西氏の恣意によって課された「徳役(役得?)」で20余貫文を納めさせられています。

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事の起こりは、嘉吉の乱への守護代香川氏からの用船調達命令でした。長くなりますが、その経緯を追って行きます。
 仁尾浦は「今度の御大儀(「嘉吉の乱勃発に伴う泉州出兵)」のために、西方守護代香川修理亮方から「出船」の催促を受け、船二艘を仕立てます。これに対して代官香西豊前方は、それは「僻事(取り違い)」であると制止します。そして対応処置として船頭と船を抑留します。香川方への船と水夫の提供については「御用」に従って、追って命令があるまで待て、と香西五郎左衛門は文書で通知します。そのため仁尾浦では船の準備をやめて指示を待っていました。

仁尾賀茂神社文書 1441年
讃岐国仁尾浦神人等謹言上(仁尾賀茂神社文書9

 ところが、守護代香川氏からは手配を命じた船がやって来ないので「軍務違反」の罪で取り調べを受けることになってしまいます。結局、仁尾浦は代官香西方と守護代香川方の両方から「御罪科」に問われることになります。徴用された船の船頭は、追放されて讃岐へ帰ってきますが、すぐに父子ともに逐電してしまい、その親族は浦に抑留されます。
 また、 香西方に「止め置かれた船(塩飽で抑留?)」については、何度も人を遣わした末に取り返します。そうする内に今度は、香西氏から「船を仕立てて早急に参上するべき」との命令を受けます。そこで「上下五十余人」を船二艘に乗せて参上し、しばらく京都にとどまることになります。その機会に幕府に対して、今回のことについて何回も嘆願します。しかし、機能不全に陥っている室町幕府からはきちんとした返事は得られません。ついには「申し懸ける」人もなくなり、なす術がなくなってしまいます。

 以上からは、用船について代官香西氏と守護代香川氏が仁尾浦に対して、違う指示を出していたことが分かります。
もしかしたら香西氏と香川氏は半目状態にあったのではないかとも思えてきます。どちらにしても命令系統が一本化されておらず、両者の間には相互連絡や調整もなかったようです。そのため仁尾浦は2つの違う命令に応じて、次のような無用の出費を費やすことになります。
①守護代香川氏の命で兵船を仕立てるために40貫文
②香西方の命で船を仕立てるために100貫文
挙句のはてに「御せっかんに預かる」という始末です。そしてすべての責任と経費を仁尾浦側が負うことになってしまいます。しかし、仁尾浦の神人を中心とする浦人たちは黙って泣き寝入りをしません。次のような抵抗運動を展開します。
①香西氏の代官改易要求の訴え
②仁尾浦住人の逃散
③徳役50貫文催促拒否
 そして、この仁尾浦住民の訴えは、幕府に受けいれられます。「(香西)豊前方の綺いを止められるべきの由」の「御本書」を得ることに成功し、京より帰ってきた神人たちは「抵抗運動勝訴」を兼ねて「九月十五日、当社の御祭礼」を執り行おうとします。
 そこを狙ったように香西氏は「同所陸分の内検」を強行しようとします。
これは仁尾の田畠を掌握して、新たな課税を行おうとするものでした。香西氏の制度改革や新税に対して、神人等は仁足浦が「御料所」「公領」であることを根拠として代官の改替を改めて要求します。同時に、「浜陸一同たり」という特殊性を主張して浦代官香西氏の「陸分内検」を認めません。そのためにとった反対運動が「祭礼停止」です。代官の非法に対して、住人は鴨大明神の神人として団結し、抵抗運動を行います。その神人集団の代表者的存在が新兵衛尉こと原氏でした。
香西氏は仁尾浦住民の反発が予想されるにもかかわらず、次のような新たな賦課を課そうとします。
①「一国平均役」 → 本来は守護側が課すべき賦課
②守護代香川氏の催促を無視して行われた「兵船催促」
③住人逃散に対して行われた「陸分内検」
これは、守護細川氏の家臣であるという地位を利用した課税と支配の強行とも云えます。
 守護の代官による御料所支配は、荘園の代官職請負のように明文化された契約に基づいて行われれていたのではないようです。守護細川氏は、自分の家臣を代官に任命して、一任しています。そのため浦代官は慣行を無視できる立場でした。香西氏は浦代官として、仁尾浦から香川氏の権限を排除し、浦代官による一元的な支配体制を実現しようとしたようです。これは、守護細川氏によって宇多津港の管理権が、香川氏から安富氏に移されたこととも相通ずる関係がありそうです。その背景にあるのは、次のような戦略的なねらいが考えられる事は以前にお話ししました。
①備讃瀬戸の制海権を強化するために、宇多津・塩飽を安富氏の直接管理下へ
②燧灘の制海権強化のために仁尾浦を香西氏の直接支配下へ
③讃岐に留まり在地支配を強化する守護代香川氏への牽制

経済的に見ると浦代官になることは、国人領主が財政基盤を固め次のスッテプに上昇するためのポストでもあったようです。
 例えば、髙松平野東部に勢力を持つようになった十河氏は、古高松の方(潟)元湊の管理権を得ることで、財政基盤を高め有力国人へと成長して行きます。また、多度津湊で国料船の免税特権の運行権を持っていた香川氏も、瀬戸内海交易を活発に行っていたことは以前にお話ししました。香西氏も香西湊を拠点に、塩飽方面にも勢力を伸ばし、細川氏の備讃瀬戸制海権確保の一翼を担っていたともされます。  そのような中で、伊予や安芸との交易拠点となる仁尾浦を管理下に入れて、支配権を強化し財政基盤強化につなげるという戦略をとろうとしたことが考えられます。それは細川京兆家の意向を受けたものだったかもしれません。

  最後に、これを進めた仁尾の浦代官は誰だったのかを見ておきましょう。
史料には仁尾浦代官の名前が次のように見えます。
1441(嘉吉元)年10月
守護料所讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。(「仁尾賀茂神社文書」(県史116P)
1441年7月~同2年10月
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門初見。(「仁尾賀茂神社文書」県史114P)
この史料からは1441年10月に死去した「香西豊前の父」は、「丹波守護代の常建の子だった元資(常慶)」と研究者は判断します。香西氏のうち、この系統の当主は代々「豊前」を名乗っています。また、春日社領越前国坪江郷の政所職・醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保の代官職も請け負っています。
 この史料には、「香西豊前」とともに「香西五郎左(右)衛門」が登場します。つまり、この二人は同時代人で、別人ということになります。ここからも香西氏には2つの系譜があったことが分かります。整理しておくと
①15世紀には香西常健が丹波守護代に補せられ、細川家内衆としての地盤を固めた。
②その子香西元資の時代に丹波守護代の地位は失ったかが、細川家四天王としての地位を固めた。
③細川元資の後の香西一族には、仁尾浦の浦代官を務める「豊前系」と、陶保代官を務める「五郎左(右)衛門尉」系の2つの系統があった。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  国人領主制の展開と荘園の解体  香川県史2 中世 393P」
関連記事


原氏は「仁尾浦鴨大明神」の惣官として15世紀を中心に活動しています。

仁尾の港 20111114_170152328
仁尾浦からの燧灘(金毘羅参詣名所図会) 

1481(文明十三)年の沙門宥真勧進状には次のように記されています。(意訳)

仁尾の鴨社の西方には「漫々たる緑海を望み」そこを通過する「客帆」は孤島を模したようである。東方には峨峨たる青山がある。仁尾浦には神殿仏閑が廃興をくり返し、その景趣は他にないもので、「道俗福貴の地」であり、「尊卑幸祐の岐」である。すなわち、仁尾は海と高山の間の狭小な土地であるが、神社仏閣が多く、沖には多くの船が行き通い、海上運輸あるいは商業、さらには宗教的にも繁栄している。
 
 仁尾には土地の売券や譲状などがいくつか残されていることは以前にお話ししました。
1352(観応二)年5月の僧定円田畠等譲状には、家・牛・田畠・荒野・山がセットにされて嫡子徳三に譲与されています。これは農業生産において個人が自立していたと考える材料になります。これに対して農業用水については「池は惣衆の修理たるべし」とあります。池は「惣衆」の共同管理の下にあったようです。
 仁尾浦は京都賀茂神社へ神饌を捧げるための社領として成立し、特権を得た神人達によって運営されていました。それが室町時代になると、パトロンを賀茂神社から細川京兆家へと鞍替えしていきます。そして国役の代わりに「兵船」の役をつとめるようになったことは以前にお話ししました。
 しかし、温和しく指示のままに動いていたわけではありません。浦代官となった香西氏の不当な要求に対しては、神人が共同で訴訟を起こして抵抗しています。このように「惣衆」がいて、神人の団結で仁尾浦は運営されていました。
仁尾賀茂神社
仁尾賀茂神社
仁尾浦の中心が「当浦氏社鴨大明神」(賀茂神社)で、その惣官の地位にあったのが原氏です。
原氏は代々「新兵衛尉」を名のっています。「新兵衛尉」の登場する文書を見ておきましょう。
1391(明徳二)年の相博契約(土地の交換)が行われた時に、「所見」という一種の保証を行った6人の中に「しんひやうへのせう(新兵衛尉)」の名が見えます。
1399(応永六)年 源助宗が 一段の田を「鴨大明神九月九日」に寄進していますが、実際は惣官の新兵術尉の所に付せられています。
ここからは新兵衛尉は原氏のことで、鴨社の代表者として神人たちの上位に位置していたことがうかがえます。また、土地相博の証人も務めるなど信望も得ていたようです。しかし、6人の「所見」人の一人でしかありません。この時点では浦全体の上に立つような存在ではなく、神人の有力指導者の一人という存在だったようです。
県史は、浦人の神人としての特徴を「仁尾浦神人等謹言上」事件から捕らえています
 仁尾浦は、守護細川氏によって京都鴨神社の課役を停止され、代わりに守護細川氏に対して「海上諸役」をつとめることになっていました。細川氏の代官である香西氏は「兵糧銭催促」「一国平均役御催促」の臨時課税を行います。それが讃岐西方守護代の香川修理亮からの出船催促と食い違い、結果的に二重に課役を負担し、しかも手違いを責められ「御せつかん」を受けることになります。さらに「香西方親父逝去之折節」「徳役の譴責」や「陸分内検」など浦代官香西氏の「新政」による制度改革が強行されます。香西氏にしてみれば、仁尾は、東側に拡がる燧灘の拠点港で、伊予・安芸方面への戦略港になります。細川京兆家の戦略の一つは、瀬戸内海交易権の確保でした。吉備と讃岐と、その間の塩飽を押さえて、それは実現できます。次に仁尾を直接的に支配することで、戦略的な価値を高めようとしたことが考えられます。
兵庫北関入船納帳 燧灘
燧灘に向かって開かれた仁尾湊
 この制度改革や新税に対して、神人等は仁足浦が「御料所」「公領」であることを根拠として代官の改替を要求します。同時に、「浜陸一同たり」という特殊性を主張して浦代官香西氏の「陸分内検」を認めません。そのためにとった反対運動が「祭礼停止」です。
 代官の非法に対して、住人は鴨大明神の神人として団結し、抵抗運動を行います。
その神人集団の代表者的存在が新兵衛尉こと原氏でした。しかし、原氏は俗生活上では、先ほど見たように「所見」を行う一人で、「惣衆」の一員でしかありません。これが前回に見た水主神社の水主氏と違うところです。水主氏の地位は『大水主人明神和讃』で、「水主三郎左術円光政」が水主に水をもたらした大水主社祭神百襲姫命の「神子三郎殿」であると讃えられています。つまり、信仰上、水主氏は神と住人を結ぶ媒介者とされ、信者集団の上に立つ存在とされていました。しかし、仁尾の原氏には、そのようなあつかいは見えません。
 仁尾浦は海上運輸や後背地の三豊平野や阿波との交易を生業とする個人が成長し自立化が進んでいました。
水主のような水の管理に伴う共同体規制を受けることは少なかったようです。そのような港町の条件を前提として「惣衆」結合があって、神人集団があったのです。同じ惣官であっても水主氏が宗教上、社領内住人の上に立っていたのに対して、原氏は神人の代表者的地位でしかなかったと研究者は指摘します。
 三好長慶の大阪湾岸の港湾都市とのつきあい方を見ておきましょう。
 四国から畿内に勢力を伸ばそうとしていた三好氏にとって,大阪湾の流通を支配することは最重要課題のひとつでした。しかし,三好氏単独で,流通の結節点となっている自治的都市を支配下に置くのは力不足でした。後の高松城のような城下町建設し、そこに港も作って流通を把握するというスタイルは、まだまだ先の話です。こうした中で,三好氏が採用した対港湾都市戦略は「用心棒」的存在として,都市に接するのではなく,法華宗寺院を仲立ちとした支配を進める方法です。法華宗の寺院や有力信者を通じて,都市共同体への影響力を獲得し,都市や流通ネットワークを掌握しようとします。やげた三好氏は法華宗を媒介とした支配から脱却し,都市共同体に直接文書を発給するようになります。こうした三好氏の大阪湾支配のあり方は,織豊政権の港湾都市の支配の先行モデルとなります。仁尾での香西氏の「新法」による浦代官の権限強化策もこのような方向をめざしていたのかもしれません。しかし、あまりに無骨だったために原氏などを中心とする神人集団の抵抗を受けて頓挫したようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 仁尾の港町としての発展については、以前に次のようにお話ししました。
  白河上皇が京都賀茂社へ 仁尾沖に浮かぶ大蔦島・小蔦島を、御厨(みくり、みくりや)として寄進します。 御厨とは、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌を調進する場所のことで、転じて領地も意味するようになります。そこに漁撈者や製塩者などが神人として属するようになります。漁撈・操船・製塩ができるのは、海民たちです。
 もともと中央の有力神社は、近くに神田、神郡、神戸といった領地を持っていました。それが平安時代中期以降になると、御厨・御園という名の荘園を地方に持つようになります。さらに鎌倉時代になると、皇室や伊勢神宮、賀茂神社・岩清水八幡社などの有力な神社の御厨は、全国各地に五百箇余ヵ所を数えるほどになります。
  今回は、視点を変えて仁尾を御厨として支配下に置いた山城国賀茂大明神(現上賀茂神社)の瀬戸内海航路をめぐる戦略を見ていくことにします。テキストは「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」です。
まず、賀茂社・鴨社の「御厨」・「供祭所」があったところを見ておきましょう。
賀茂神社が
摂津国長洲御厨
播磨国伊保崎
伊予国宇和郡六帖網
伊予国内海
紀伊国紀伊浜
讃岐国内海(小豆島)
豊前国江嶋
豊後国水津・木津
周防国佐河・牛嶋御厨
賀茂社の場合は、
紀伊国紀伊浜御厨
播磨国室(室津)
塩屋御厨
周防国矢嶋・柱嶋・竃門関等

さらに、1090(寛治4)年7月13日の官符によって、白河上皇が両社に寄進した諸荘を加えてみると次の通りです。
①賀茂社 
摂津国米谷荘、播磨国安志荘・林田荘、備前国山田荘・竹原荘、備後国有福荘、伊予国菊万荘、佐方保、周防国伊保荘、淡路国佐野荘。生穂荘
②鴨社 
長門国厚狭荘、讃岐国葛原荘(多度津)、安芸国竹原荘、備中国富田荘、摂津国小野荘


ここからは、賀茂社・鴨社の「御厨」・「供祭所」が瀬戸内海の「海、浜、洲、嶋、津」に集中していたことが分かります。逆に言うと、瀬戸内海以外にはあまり見られません。これらを拠点に、神人・供祭人の活動が展開されることになります。
 神人(じにん、じんにん)・供祭人については、ウキには次のように記されています。
古代から中世の神社において、社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人である。社人(しゃにん)ともいう。神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。このような武装集団だけでなく、神社に隷属した芸能者・手工業者・商人・農民なども神人に加えられ、やがて、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった。彼らは神人になることで、国司や荘園領主、在地領主の支配に対抗して自立化を志向した。

上賀茂神社・下賀茂神社の御厨に属した神人は供祭人(ぐさいにん)と呼ばれ、近江国や摂津国などの畿内隣国の御厨では漁撈に従事して魚類の貢進を行い、琵琶湖沿岸などにおける独占的な漁業権を有していた。

石清水八幡宮の石清水神人は淀の魚市の専売権水陸運送権などを有し、末社の離宮八幡宮に属する大山崎神人は荏胡麻油の購入独占権を有していた(大山崎油座)。

神人・供祭人には、次のような特権が与えられました。
「櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)の通い路、浜は当社供祭所たるべし」
「西国の櫓・悼の通い地は、みなもって神領たるべし」
意訳変換しておくと
(神人船の)櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)が及ぶ航路や浜は、当社の供祭所で、占有地である」
西国(瀬戸内海)の神人船の櫓・悼の及ぶ地は、みな神領である」
そして「魚付の要所を卜して居住」とあるので、好漁場の近くの浜を占有した神人・供祭人が、地元の海民たちを排除して、各地の浜や津を自由に行き来していたことがうかがえます。同時に、彼らは漁撈だけでなく廻船人としても重要な役割を果たすようになります。御厨・所領の分布をみると、その活動範囲は琵琶湖を通って北陸、また、瀬戸内海から山陰にまでおよんでいると研究者は指摘します。

1250(観応元)年には、鴨社の「御厨」として讃岐「津多島(蔦島)供祭所」が登場します。
 最初に分社が置かれたのは、大蔦島の元宮(沖津の宮)です。こうして、海民たちが神人(じにん)として賀茂神社の社役に奉仕するようになります。それと引き替えに、神人は特別の権威や「特権」与えられ、瀬戸内海の交易や通商、航海等に活躍することになります。力を貯めた神人たちは14世紀には、対岸の仁尾浦に拠点を移し、燧灘における海上交易活動の拠点であるだけでなく、讃岐・伊予・備中を結ぶ軍事上の要衝地として発展していくことになります。
ここで注意しておきたいのは、「御厨では漁撈に従事して魚類の貢進を行い、周辺沿岸における独占的な漁業権を有していた。」という記述です。ここからは、御厨の神人・供祭人となったのは「海民」たちであったことがうかがえます。船が操船でき、漁撈が行えないと、これは務まりません。
また「魚類の貢進」の部分だけに注目すると、全体が見えてこなくなります。確かに、御厨は名目的には「魚類の貢進」のために置かれました。しかし、前回見たように「漁撈 + 廻船」として機能しています。どちらかというと「廻船」の方が、重要になっていきます。つまり、瀬戸内海各地に設置された御厨は、もともと交易湊の機能役割を狙って設置されたとも考えられます。それが上賀茂神社の瀬戸内海交易戦略だったのではないかと思えてきます。
①上賀茂神社は、山城の秦氏の氏神であること
②古代の秦氏王国と云われるのが豊前で、その中心が宇佐神宮であること
③瀬戸内海には古代より秦氏系の海民たちが製塩や海上交易・漁撈に従事していたこと
以上のようなことの上に、上賀茂神社の秦氏は、瀬戸内海各地に御厨を配置することで、独自の交易ネットワークを形成しようとしたとも考えられます。各地からの御厨から船で上賀茂神社へ神前に貢納物がおさめられる。これは見方を変えれば、船には貢納物以外に交易品も乗せられます。貢納物献上ルートは、交易ルートにもなります。それは「朝鮮・中国 → 九州 → 瀬戸内海 → 淀川河口 → 京都」というルートを押さえて、大陸交易品を手に入れる独自ルートを確保するという戦略です。この利益が大きかったことは、平清盛の日宋貿易からもうかがえます。そのために、清盛は海賊退治を行い、瀬戸内海に自前の湊を築き、航路を確保したのです。これに見習って、上賀茂神社は「御厨ネットワーク」で、独自の瀬戸内海交易ルートを形成しようとしたと私は考えています。ここでは「御厨は漁撈=京都鴨社への神前奉納」という面以外に、「御厨=瀬戸内海交易拠点」として機能していたことを押さえておきます。
7仁尾
中世の仁尾浦復元図
 仁尾浦は、室町時代になると守護細川氏による「兵船」の動員にも応じて、「御料所」としての特権を保証されるようになります。
そのような中で事件が起こるのは1441(嘉吉元)年です。仁尾浦神人は、嘉吉の乱(嘉吉元年、播磨守護赤松満祐が将軍足利義教を拭した事件)の際に、天霧山の守護代香川氏から船2艘の動員命令に応じて、船を出そうとします。ところが浦代官の香西氏が、これを実力阻止します。そして船頭を召し取られたうえに、改めて50人あまりの水夫と、船二艘の動員を命じられます。そのために、かれこれ150貫文の出費を強いられます。さらに、香西氏は徳役(富裕な人に課せられる賦課)として、50貫文も新たに課税しようとします。

仁尾 中世復元図2
仁尾浦中世復元図

 これに対して「代官香西氏の折檻(更迭)」のため神人たちがとった行動が、一斉逃散でした。
そのため「五、六百間(軒)」ばかりもあった「地下家数」が20軒にまで激減したとあります。ここからは次のようなことが分かります。
①仁尾浦の供祭人は、守護細川氏の兵船動員に応ずるなどの海上活動に従事していたこと
②「供祭人=神人}の海上活動によって、仁尾浦は家数「五、六百軒」の港町に成長していたこと
③仁尾は行政的に「浜分」と「陸分」に分かれ、海有縄のような「海」を氏名とする人や、「綿座衆」などの住む小都市になっていたこと。
④守護細川氏の下で仁尾湊の代官となった香西氏の圧政に対して、団結して抵抗して「自治権」を守ろうとしていること
   最初に見たウキの神人に関する説明を要約すると、次のようになります。
①神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、僧兵と並ぶ武装集団でもあったこと
②神社に隷属した芸能者・手工業者・商人・農民なども神人に加えられ、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されてこと。
③神人になることで、国司や荘園領主、在地領主の支配に対抗して自立化を志向した。
これは、仁尾浦の神人がたどった道と重なるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」
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仁尾の賀茂神社

仁尾の賀茂神社は、応徳元(1084)年に山城国賀茂大明神(上賀茂神社)を蔦島に勧進したのが始まりとされます。
魚介類を納める御厨を設置して、蔦島やその沿岸海域を舞台として、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として組織します。彼らに「御厨供祭人者、莫附要所令居住之間、所被免本所役也」という特権を与え、賀茂神社周辺を「櫓棹通路浜、可為当社供祭所」などを認めて、魚介類・海産物などを贅として進上することを義務づけます。こうして、賀茂社に奉仕する神人(じにん)を中心に浦が形成されていきます。神人たちは、魚介類を捕るだけでなく、輸送にも従事しました。畿内との交易活動も活発化に行い、さまざまな特権を有するようになります。仁尾浦は、讃岐・伊予・備中を結ぶ燧灘における海上交易の拠点港へと成長します。ここで押さえておきたいのは、仁尾浦が賀茂神社に奉仕する神人々を中核として形成された浦であることです。
延文3(1358)年の詫間荘領家某寄進状に「詫間御荘仁尾浦」とあるのが仁尾浦の初見のようです。
仁尾 初見史料
仁尾賀茂神社文書の詫間荘領家某免田寄進状延文3年(1358)
この文書は詫間荘の領家が仁尾浦の鴨大明神に免田を寄進したもので、「仁尾浦」が見えます。ここからは、14世紀中頃には仁尾浦が姿を見せていたことが分かります。

賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人も当地または近隣に存在し、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、
「地下家数今は現して五六百計」

とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。
仁尾 中世復元図
中世の仁尾浦
 管領細川氏は、仁尾浦の戦略的意味を理解して、代官を設置し軍事上の要衝地としていきます。
それまではの仁尾浦は、讃岐西方守護代の香川氏によって兵船徴発が行われていたようです。ところが応永22年(1415)の細川満元書下写には、次のように記されています。
讃岐国仁尾供祭人等申、今度社家之課役事、致催促之処、無先規之由、以神判申之間、所停止也、此上者向後於海上諸役者、可抽忠節之状如件、
応永廿二年十月廿二日    御判
意訳変換しておくと
 讃岐国仁尾の供祭人(神人)から、われわれ社家への課役については「無先規」で先例のないことだとの申し入れを受けた。これに対して、改めて神判をもって、これを停止した上で、今後の海上諸役については、忠節をはげむことを命じる。
 
ここから次のようなことが分かります。
①従来は、仁尾浦が賀茂社領であって、供祭人(神人)として掌握されてきたこと。
②今後は上賀茂神社の諜役を停止し、細川氏の名の下に海上諸役を行うこと
つまり仁尾は、上賀茂神社の諸役を停止し、細川氏の直接支配下に置かれて、海上警固などのあらたな義務を負わされたのです。

 こうして仁尾には、具体的に次のような役割を果たしていたことが史料から分かります。
応永27(1420)年 朝鮮回礼使宋希憬が帰国の際に、その護送兵船の徴発
永享6(1434)年  遣明船帰国の時に、燧灘を航行する船の警護のためら警護船を徴発
 仁尾浦の人々は商船活動を行うだけでなく、細川氏の兵船御用を努めたり警護船提供の活動を求められるようになります。
 こういう文脈上で、応永27年(1430)の次の資料を見ていくことにします。
御料所時御判
兵船及度々致忠節之条、尤以神妙也、甲乙大帯当浦神人等於致狼籍者、可処罪科之状如件。
     応永廿七年十月十七日  御判
仁尾浦供祭人中
意訳変換しておくと
度々の兵船など幾度の忠節について、まことに神妙である。甲乙人帯で仁尾浦の神人たちに狼藉を働く輩は、罪科に処す、御判
応永甘七年十月十七日
仁尾浦供祭人中
ここには「兵船及度々致忠節」とあるように、仁尾浦が「海上諸役=兵船負担」を細川氏に対して度々行っていること。それに応えて、神人に狼藉をなすものに対しては、細川氏が処罰することが宣言されています。15世紀前半において、仁尾浦が東伊予から今治までの燧灘エリアで、細川氏の拠点港湾として機能していたことがうかがえます。それに応えて、細川氏は仁尾の船を保護すると宣言しているのです。
 これは「兵船提供」を行う仁尾浦に対して、細川氏が仁尾の安全保障を約束した文書でもあります。
ここには、仁尾浦が守護細川氏の「水軍」として編成されていく様子がうかがえます。別の視点で見ると、細川氏の「兵船提供」要請に「忠節」を尽くすことで、瀬戸内海や畿内での安全航海の権利を勝ちとる成果をあげているとも云えます。これを上賀茂神社の立場から見ると、「自分から細川氏に仁尾は乗り換えた」とも写ったかもしれません。ここでは、「仁尾供祭人」は、細川氏の権力をバックにして、それまでの上賀茂神社の課役の一部から逃れるとともに、賀茂社と守護細川氏の間に立って、自らの利権の拡大と自立性を高めていったことを押さえておきます。
仁尾 中世復元図2
中世の仁尾

細川氏はどのような方法で仁尾浦を支配しようとしたのでしょうか?
嘉吉元年(1441)十月の「仁尾賀茂神社文書」には、次のように記されています。
「讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去」

  ここからは、仁尾浦にはこれ以前から浦代官として香西豊前が任じられていたことが分かります。先ほど見た朝鮮回礼使の護送船団編成の際にも仁尾は、浦代官である香西氏から用船を命じられていたのかもしれません。香西氏は代官として、「兵船徴発、兵糧銭催促、一国平均役催促、代官の親父逝去にともなう徳役催促」などを行っています。
そのような中で仁尾浦を大きく揺るがす事件が起きます。

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嘉吉元年(1441)六月、将軍足利義教が播磨守護赤松満祐に暗殺される嘉吉の乱です。この乱に際して、守護代香川修理亮から兵船徴発の催促が仁尾に下されます。しかし、浦代官の香西豊前は、これを認めません。

もともとは、西讃岐は守護代香川氏による支配が行われてきました。守護代の香川氏の権限による軍役賦課がおこなわれていたはずです。そこへ、「仁尾浦は港であり守護料所である」ということで、浦代官が設置され、守護細川氏に代官として任命された香西豊前がやってきたようです。これが香川氏と香西氏の二重支配体制の出現背景のようです。この経過からは、守護細川氏は、香川氏の持つ守護代権限よりも、自分が派遣した浦代官の権利権の方が強かったと判断していたことがうかがえます。どちらにしても仁尾浦には、次の2つの指揮系統があったことを押さえておきます。
① 香川氏の守護代権限
② 香西氏の浦代官の権利
しかし、②の浦代官としてやって来た香西氏の一族とは、うまく行かなかったようです。
その時の様子を伝える史料が「仁尾浦神人等言上案」です。言上状とは、下の者が上級者へもの申すために出された書状です。
ここでは、下級者は仁尾浦の神人たちで、上級者は守護細川氏になります。仁尾浦の神人たちが、香西氏の不法を守護細川氏に訴えている内容です。
仁尾の神人たちの訴えを見ておきましょう。
 上洛のために兵船を出すように守護代香川修理亮から督促があったので船2艘を仕立てた。ところが浦代官香西豊前から僻事であると申し懸けられ船頭と船は拘引された。これ以前に、香西方への兵船のことは御用に任せて指示があるから待つようにと、香西五郎左衛門から文書で通知があったので船を仕立てずに待っていた。しかし今になって礼明・罪科を問われるのは心外である。船頭は追放され帰国したが、父子ともに逐電し、その親類は浦へ留めおかれた。
 一方、香西方に留めおかれた船のことについて何度も人を遣わして警戒しているところに、再度船を仕立てて早急に上洛せよとの命が下されたので、上下五〇余人が船二朧で罷上り在京して嘆願したが是非の返事には及ばなかった。今は申しつく人もなく、ただ隠忍している有様である。
 守護代と浦代官との相異なる命令に、浦住民が翻弄されていることを以下のように訴えています。
守護代である香川氏の命で船を仕立てるに40貫かかったこと。
この金額は住民には巨額で、捻出に苦労したしたこと。
このような中で、浦住民は浦代官香西氏の改易要求の訴えを起こして、逃散という手段にでたこと。そのため500~600軒あった家がわずか20軒ばかりになったこと
この細川氏への訴えは、ある程度受け入れらたようで、住民は帰ってきます。ところが香西氏は、今度は住民の同意のないまま田畑への課役を強行します。
   香西豊前方、於地下条々被致不儀候之条、依難堪忍仕令逃散者也、(中略)

彷今度可被止豊前方之綺之由、呑被成御奉書之間、神人等悉還住仕、去九月十五日当社之御祭礼神人等可取成申之処、香西方押而被取行同所陸分内検候事、已違背御奉書之条、無勿体次第也、彼在所者浜陸為一同事、先年落居了、其時申状右備、(下略)

ここからは次のようなことが分かります。
①9月15日の仁尾賀茂社の祭礼の用意をしていると、「今度可被止豊前方之綺」との細川氏の裁定が出たにもかかわらず、香西氏が「陸分内検」を強行したこと。
②これに対して仁尾浦神人は「陸一同たることは先年決着していて、奉書に違背するものである」とと主張して、浦代官・香西豊前氏の更迭を再度要求たこと
ここから推測されることは、従来から仁尾浦の陸部は浜とみなされ、そこに田畑があっても、その地への課役は免除されていたようです。それに対し、香西氏は陸上部の旧畠を検地して、賦課しようとしたのでしょう。
 ここで研究者が注目するのは、神人たちが自分たちの存在基盤の「浜分」を、「陸分」と「一同」と主張していることです。
この論理で、香西氏の「陸分」支配を排除し、「浜分」の延長領域として確保しようとしていることです。これは、かつて供祭人(神人)たちが、蔦島対岸の詫間荘仁尾村の海浜部を、「内海津多島供祭所」の一部として組み込んでいったやり方と同じです。 これを研究者は次のように述べます。

それは土地に対する「属人主義の論理」であり、その具体的表現である「浜陸為一同」という主張が、詫間荘仁尾村の中から仁尾浦を分立・拡大させる原動力となっていたのである。そのことからすれば、香西氏による「陸分内検」は、仁尾村を詫間荘の一部として把握しようとする属地主義の論理に基づく動きであり、当初から内海御厨の神人たちとの間に不可避的に内包された矛盾であった。


浦代官と神人の対立が、嘉吉の乱という戦況下で突発的に起こったものなのか、それとも指揮系統の混乱であったのかはよくわかりません。ただ、香西豊前は浦代官として、仁尾浦から香川氏の権限を排除し、浦代官による一元的な支配体制を実現しようとしたようです。
 これは、前々回に見た守護細川氏によって宇多津港の管理権が、香川氏から安富氏に移されたこととも相通ずる関係がありそうです。その背景にあるのは、次のような戦略的なねらいがあったと研究者は考えているようです。
①備讃瀬戸の制海権を強化するために、宇多津・塩飽を安富氏の直接管理下へ
②燧灘の制海権強化のために仁尾浦を香西氏の直接支配下へ
③讃岐に留まり在地支配を強化する守護代香川氏への牽制
仁尾 金毘羅参拝名所図会
仁尾 金毘羅参詣名所図絵
以上をまとめておくと
①仁尾浦は、京都上賀茂神社の御厨として成立した。
②上賀茂神社は、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として掌握し、特権を与えながら貢納の義務を負わせた。
④14世紀には仁尾浦が姿を現し、燧灘エリアの重要港としての役割を果たすようになった。
⑤管領細川氏は、瀬戸内海の分国支配のために備中・讃岐・伊予の拠点港である仁尾浦を重視し、ここに「水軍拠点」を置いた。
⑥そのために、浦代官として任じられたのが香西一族であった。
⑦しかし、浦代官の権限と強化しようとする香西氏と、自立性と高めようとしていた仁尾神人との対立は深まった。
⑧管領細川氏の弱体化と供に、備讃瀬戸の権益も大内氏に移り、香西氏は後退していく。
⑨西讃地方では、天霧城を拠点とする香川氏が戦国大名化の道を歩み始め、三野平野から仁尾へとその勢力をのばしてくることになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開
            中世讃岐と瀬戸内世界 所収
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   以前紹介した、朝鮮の日本回礼使として来日した宋希環が記した『老松堂日本行録』には、瀬戸内海を航行した時の様子が詳しく書かれていました。応永二七(1420)年のことで、足利将軍への拝謁を終えて、帰国する瀬戸内海で海賊に何回も出会ったことが記されています。その中に備前沖で、船に乗り込んできて酒を飲んでいった護送船団の司令官のことが書かれています。名前は「謄資職」と名乗っています。
「謄資職」という人物は何者なのでしょうか?
 謄は、藤原の「藤」姓を中国風に表記したもので、「資職」は香西氏が代々使う「資」の字があります。ここから資職は、香西氏の一族と推定できると研究者は考えているようです。この記事では、酒を飲ませたと記されていますが、実態は警固料を支払ったことを示すようです。備讃瀬戸を通過する船から香西氏が警固料をとっていたことがうかがえます。
 これから200年前のことです。鎌倉幕府成立直後は、西国に基盤を持たない源氏政権を見透かすかのように平家の残党と思われる海賊が活発な活動を展開します。幕府は度々追捕命令を出して、海賊を召し捕るように命じています。寛元四年(1246)3月、讃岐国の御家人・藤左衛門尉は海賊を捕らえ、六波羅探題へ護送しています。これが讃岐周辺の「海賊討伐」の最初の史料のようです。海賊討伐に名前を残している「藤左衛門尉」も姓は「藤」氏です。想像力を膨らませると、警護船のリーダーの「謄資職」は、「藤左衛門尉」の子孫かもしれないと思えてきたりします。そうだとすると香西氏は、鎌倉期から備讃瀬戸で海上軍事力をもった海の武士であったことになります。
  香西氏は、古代豪族の綾氏の流れを汲み、中世は在庁官人として活躍した讃岐藤原氏の総領家です。そして備讃海峡の塩飽諸島から直島にも勢力を伸ばした領主です。対外的に名乗るときには「藤」氏を用いていたようです。南北朝期以降は守護細川氏に仕え、近畿圏で活躍し、大内氏や浮田氏、信長とも関わりがありました。
  初期の香西氏は勝賀山上に勝賀城を、その山麓に平時の居城として佐料城を構えていました。
佐料は、香西よりも内陸寄りの高松市鬼無町にありますが、香西資村の出自である新居(にい)や、同じく新居からの分家という福家(ふけ)は、さらに内陸の国分寺町に地名として残っています。笠居郷の開発とともに、香西氏も瀬戸内海へと進出し、水軍を持つと同時に直島や本島をも勢力圏におくなど「海賊」的な動きも見せます。このような中で天正年間に入り、海に近い香西浦の藤尾城に本拠地を移したことは以前に、お話しした通りです。
 細川氏の瀬戸内海制海権実現のために、海上防衛体制を任務にしていた気配があります。

香西氏が備讃瀬戸の東域を管理していたとするなら西域を担当していたのが仁尾浦の仁尾浦の神人たちだったようです。
香西氏と考えられる「謄資職」が朝鮮からの使節団の警備を行った同じ年に、守護細川満元が次のような文書を仁尾の神人に出しています。
 兵船及度々致忠節之条、尤以神妙也、
甲乙人帯当浦神人等、於致狼籍輩者、可處罪科之状如件
 応永廿七(1420)年十月十七日 
                  (花押)
 仁尾浦供祭人中
意訳すると
 求めに応じて兵船を提供するなど平素からの忠節は、非常に神妙である。仁尾浦の神人が狼藉の輩を取り締まり罰する権利があるのはこれまで通りである

文書の出された年月を見ると、先ほどの文書と同じ応永27年になっています。ここからは仁尾浦の神人たちも朝鮮の日本回礼使の際に、守護細川氏の兵船として御用を努めていたことがうかがえます。
 神人たちは仁尾浦の賀茂神社に奉仕する集団でした。
賀茂社は原斎木朝臣吉高が、山城国賀茂大神の分霊を仁尾大津多島(蔦島)に勧進したのが始まりとされます。その後、堀河上皇が諸国に御厨を置きますが、そのひとつが蔦島周辺だったようです。こうして仁尾浦の住人は、賀茂社の神人として特権的な立場を利用して海上交易活動にも進出していきます。明徳二年に、細川頼元が別当神宮寺を建立して以後は、祭礼に毎年のように細川氏から使者が遣わされるようになります。守護細川満元は、仁尾浦御祭人中に対する京都の賀茂社の課役を停止し、代わって細川氏に対する海上諸役を勤めるように命じます。こうして仁尾浦は京都賀茂社の支配から、細川氏の支配下へ組み込まれていったようです。
 このように仁尾浦は、
①賀茂社神人らの海上交易・通商活動の拠点であり、
②守護細川氏の守護御料所として瀬戸内海海上防備の軍事上の要衝でもあり
③直接支配のために香西氏が浦代官として派遣された。
仁尾浦が背後に七宝山が迫る耕地の狭い地形でありながら「地下家数五六百軒」を擁する町屋を形成していたのは、海上交易による経済力の大きさがあったからのようです。

 仁尾浦の警固衆は海賊衆から発展したのではなく、賀茂神社の御厨(みくり)として設置された社領の神人たちから形成されました。そのために守護直属の海軍力として、すんなりと変更できたのかもしれません。ここからは
①管領細川氏(備中・讃岐守護)による備讃瀬戸の海上交易権の掌握
②その実働部隊としての讃岐・香西氏
③香西氏配下の海上警備部隊としての仁尾・塩飽・直島
という海上警備・輸送部隊が見えてきます。このような警備網が整っていないと、安心安全に瀬戸内海の交易活動は行えません。また、京都の富の多くは瀬戸内海を通じて西国からもたらされていたのです。そして、非常時には細川氏は瀬戸内海海上輸送ルートで讃岐の武士団を招集していました。そのためにも、瀬戸内海交易ルートの防衛は、重要な意味を持っていたと研究者は考えているようです。
 小豆島の海賊衆 
小豆島の史料の中にも海賊(海の武士団)の姿が見えるようです。
 永享六年(1434)に、小豆島周辺に海賊が横行しているために、幕府は備後国守護山名氏に遣明船警固を命じています。この海賊衆は小豆島を拠点とした一団であったと考えられます。
 これより以前の南北朝期に、備前国児島郡の佐々木信胤は、小豆島へ渡り、島の海賊衆を支配下におき、南朝勢力として活動します。信胤は南朝方の紀伊国熊野海賊衆と連携を持ち、備讃瀬戸の制海権を握ろうとしたようです。その拠点が小豆島だったと考えられます。

しかし、直接的に小豆島の海賊衆の存在を示す史料はないようです。
 室町時代になると小豆島は、細川氏の支配下にあり東讃守護代の安富氏によって管轄されていました。『小豆島御用加子旧記』には、細川氏のもとで小豆島は加子役を担っていたと記されていますが、詳しいことは分かりません。
  室町後期の小豆島池田町の明王寺釈迦堂の文字瓦に、次のようなことが記されています。
 大永八年(1528)戊子卯月二思立候節、細川殿様御家 大永六年より合戦始テ戊子四月に廿三日まて不調候、
児島中関立中堺に在津候て御留守此事にて無人夫、
本願も瓦大工諸人気遣事身無是非候、阿弥陀仏も哀と思食、後生善所に堪忍仕、こくそつのくおのかれ候ハん事、うたかひあるましく、若いかやうのつミとか仕候共、かやうに具弥陀仏に申上うゑハ相違あるましく実正也、如此各之儀迄申者ハ池田庄向地之住人、河本三郎太郎吉国(花押)生年廿七同申剋二かきおくも、袖こそぬるれもしを草なからん跡のかた身ともなれ

意訳すると
 この文書は「大永七年(1527)に、細川晴元が軍勢を率いて堺へと渡り細川高国と戦った。その際に晴元は、児島と小豆島の海賊(海の武士集団)から兵船を徴発した。小豆島海賊衆は晴元に従い、一年余堺に出陣し、島を留守にしたために人夫も手当てできなかった。
  ここには「児島中関立中 堺に在津候て」と「関立」がでてきます。「関立」とは、当時の海賊の呼称であったことは以前お話ししました。小豆島にも大永年間には、海賊衆(水軍)が存在していたようです。また、その海賊衆は細川晴元の命令で動いているようです。
  天文18年には晴元と三好長慶が摂津で戦いますが、東讃守護代の安富氏は晴元に従わずに戦いには参加していません。そのためか晴元は敗れています。この時には小豆島は安富氏に領有されていたようです。小豆島の海賊(海の武士団)の命令系統は、次のように考えられます
  ①管領・細川氏→ ②東讃守護代安富氏→ ③小豆島の海賊衆

 その後の島の海賊衆の動きが見える史料はありません。
ただ『南海通記』は、島田氏が小豆島の海賊衆の棟梁として存在し、寒川氏によって率いられていたと記します。細川氏の御用下で、塩飽と同じように能島村上氏の支配下に当たっています。しかし、その状況を示す史料はなく、詳しいことは分からないようです。

以上見てきたことをまとめると
①管領細川氏は西国支配のために瀬戸内海海上ルートの防衛体制に心を砕いている
②備中と讃岐を自分持ちの国として、その間の備讃瀬戸の制海権確保に努めた。
③その際に、香西氏や仁尾浦・小豆島の海上力を利用している
④讃岐と近畿との海上輸送が確保できていたために、讃岐武士団の近畿への動員もスムーズに進み、細川家の政治運営に大きく寄与した。
⑤細川家衰退後には備讃瀬戸には、能島村上氏の力が及ぶようになり、塩飽や小豆島はその支配下に置かれることになる。
⑥また弱小の海上軍事勢力(海賊衆)は、存在意味をなくし衰退し、丘上がりをするものも現れた。

おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
橋詰茂   讃岐海賊衆の存在  瀬戸内海地域史研究8号2000年



    
 船乗りたちにとって海は隔てるものではなく、結びつけるものでした。舟さえあれば海の上をどこにでもいくことができたのです。海によって瀬戸内海の港は結びつけられ、細かなネットワークが張り巡らされ、頻繁にモノと人が動いていたのです。中国の「南船北馬」に対して、ある研修者は「西船東馬」という言葉を提唱しています。東日本は陸地が多いから馬を利用する、西日本は瀬戸内海があるため船を利用するというのです。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg
     「兵庫北関入船納帳」にみる大量海上輸送時代の到来
 室町時代になると、商品経済が発達してきます。そこで一度に大量の荷物を運ばなければならないので海運需要は増え、舟は大型化することになります。「兵庫北関入船納帳」を見ると400石を越える舟が讃岐でも塩飽と潟元には3艘ずつあったことが分かります。

3兵庫北関入船納帳.j5pg
  「北関入船納帳」には、どんなことが書かれているのか

3兵庫北関入船納帳
①入船月日
②舟の所属地
③物品名 
⑤関税額(文)と納入日時 
⑥船頭名 
⑦問丸名
の7項目が記されています
    具体的に、宇多津の舟を例に見てみましょう。 
②宇多津
③千鯛 
 甘駄・小島(塩)  ④百石  
 島(小豆島)    ④百石     
⑤一貫百文  
⑥橘五郎     
⑦法徳
   六月六日
北があれば当然南もあります。これは兵庫関所のある宇多津舟の項目です。当時は奈良春日大社の別当であった興福寺が南関所を管理していたようです。明治維新の神仏分離で、文書類は春日大社の方へ移されました。
②一番上に書いている宇多津、これが船籍地です。
港の名前ではなく船が所属している地名です。現在で船には必ず名前が付いています。その船の名前の下に地名が書かれています。その地名が船籍地です。ですから、その船に宇多津の船籍地が書かれていても、すべて宇多津の港から出入りしているわけではありません。
③その次に書かれている干鯛は、船に積んでいる荷物のことです。
備讃瀬戸は鯛の好漁場だったので干した鯛が干物として出荷されていたようです。その次の小島は「児島」です。これは、これは地名商品で、塩のことです。「島」は小豆島産の塩、芸予諸島の塩は「備後」と記されています。ちなみに讃岐船の積み荷の8割は塩です。
④次の廿駄とか百石というのは塩の数量です。
⑤その下の一貫百文、これが関税です。関料といいます。
⑥橘五郎とあるのは船頭の名前です。
⑦最後に法徳とありますが、これが問丸という荷物・物資を取り扱う業者です。六月六日と書いているのは関料を納入した月日です。
  実物の文書には、宇多津の地名の右肩に印が付けられているようです。その印が関料を収めたという印だそうです。この船は五月十九日に入港してきて、関料を納入したのは六月六日です。その時に、この印はつけれたようです。
「北関入船納帳」には、17ヶ国の船が出てきます。
そのうち船籍地(港)名は106です。入関数が多いベスト3が
①摂津②播磨③備前で、第四位が讃岐です。

国ごとの船籍地(港)の数は、播磨が21で一番多く、讃岐は第二位で、下表の17港からの船が寄港しています。
兵庫北関1

その17港の中で出入りが一番多いのが宇多津船で、一年間で47回です。一方一番少ないのが手島です。これは塩飽の手島のようです。手島にも、瀬戸内海交易を行う商船があり、問丸や船乗り達がいたということになります。

3 兵庫 
  積み荷で一番多いのは塩        全体の輸送量の八〇%は塩
塩の下に(塩)の欄があります。これは例えば「小島(児島)百石」と地名が記載されていますが、塩の産地を示したものです。地名指示商品という言い方をしますが、これが塩のことです。瀬戸内海各地で塩が早くから作られていますが、その塩が作られた地名を記載しています。讃岐は塩の産地として有名でした。讃岐で生産した塩をいろんな港の船で運んでいます。片本(潟元)・庵治・野原(高松)の船は主として塩を運んでいます。「塩輸送船団」が登場していたようです。そして、塩を運ぶ舟は大型で花形だったようです。塩を運ぶために、讃岐の海運業は発展したとも言えそうです。

中世関東の和船

 通行税を払わずに通過した塩飽船
兵庫湊は関所ですから、ここより東に行く舟はすべて兵庫湊に立ち寄り、通行料を支払わなければならないことになっていました。しかし、通行料を払いたくない船頭も世の中にはいるものです。どんな手を使ったのでしょうか見てみましょう。  
 摂津国兵庫津都両関役の事、先規のごとくその沙汰致すべく償旨 讃州塩飽嶋中へ相触らるべく候由なり、冊て執達くだんのごとし
   (文明五年)十二月八日   家兼
      安富新兵衛尉殿
 応仁の乱の最中の文明五年十二月八日付けで、家兼から安富新兵衛尉宛への書状です。家兼は室町幕府の奉行人、受取人は讃岐守護代の安富新兵衛尉です。内容は、兵庫関へちゃんと関税を払うように塩飽の島々を指導せよ内容です。この時期に税を払わず、関を通らないで直接大坂へ行った塩飽の船がいたようです。この指示を受けて、2日後の十二月十日に元家から安富左衛門尉へ出したのが次の文書です。
 〔東大寺文書〕安富元家遵行状(折紙)
 摂津国兵庫津南都両関役の事、先規のごとくその沙汰致すべく候由、今月八日御奉書かくのごとく、すみやかに塩飽嶋中へ相触れらるべしの状くだんのごとし
 文明五年十二月十日      元家(花押)
   安富左衛門尉殿
なぜ幕府から讃岐守護代に出された命令が2日後に、塩飽代官に出せるのでしょうか。京都から讃岐まで2日で、届くのでしょうか?
それは守護細川氏が京都にいるので、守護代の安富新兵衛尉も京都にいるのです。讃岐の守護代達やその他の国の守護代達も上京して京都に事務所を置いているのです。言わば「細川氏讃岐国京都事務所」で、守護代の香川氏・安富氏などが机を並べて仕事をしている姿をイメージしてください。幕府から届けられた命令書を受けて、京都事務所で作成された指示書が塩飽の代官に出されているようです。
 室町幕府役人(家兼) → 
 讃岐守護代 (京都駐在の安富新兵衛尉)→ 
 塩飽代官  (安富左衛門尉)→
 塩飽の船頭への注意指導
 という命令系統です。同時に、この史料からは塩飽が安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽と云えば私の感覚からすると丸亀・多度津沖にあるから香川氏の支配下にあったと思っていましたが、そうではないようです。後には安富氏に代わって香西氏が、塩飽や直島を支配下に置いていく気配があります。
 話を元に戻して・・・
「入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」が出てきます
国料とは、関所を通過するときに税金を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。通行税を支払う必要ないから積載品目を書く必要がありません。ただし国料船は限られた者だけに与えられていました。室町幕府の最有力家臣は山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である十川氏と香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。それは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。
   もう一つ過書船というのがあります。
これは積んでいる荷物が定められた制限内だったら税金を免除するというしくみです。塩飽船の何隻かは、この過書船だったようです。しかし税金を支払いたくないために、ごまかして過書船に物資を積み込んで輸送します。しかし、それがばれるようです。ごまかしが見つかったからこんな文書が出されるのでしょう。「行政側から「禁止」通達が出ている史料を見たら裏返して、そういう行為が行われていたと読め」と、歴史学演習の授業で教わった記憶があります。塩飽船がたびたび過書船だと偽って、通行税を支払わないで通行していたことがうかがえます。
 次に古文書の中に出てくる讃岐の港を見ていきましょう。
 
7仁尾
中世仁尾の復元図
 まず仁尾湊です 仁尾には賀茂神社の御厨がありました。
海産物を京都の賀茂神社に奉納するための神人がここにいました。海産物を運ぶためには輸送船が必要です。そのために神人が海運業を営んでいたようです。残されている応永二十七年(1420)の讃岐守護細川満元の文書を見てみましょう。
【賀茂神社文書】細川満元書下写
兵船及び度々忠節致すの条、尤もって神妙なり、
甲乙人当浦神人など対して狼籍致す輩は、
罪科に処すべくの状くだんのごとし
  応永廿七年十月十七日
                    御判
    仁尾浦供祭人中
 「兵船及び度々忠節致すの条」とは、細川氏が用いる輸送船や警備船を仁尾の港町が度々準備してきたとのお褒め・感謝の言葉です。続いて、賀茂神社の「神人」に狼藉を行うなと、仁尾浦の人々に通達しています。これも「逆読み」すると、住民から「神人」への暴行などがあったことがうかがえます。住民と仁尾浦の管理を任されている「神人」には緊張関係があったようです。「神人」は、神社に使える人々という意味で、交易活動や船頭なども行っているのです。
 ちなみに、この文書が出された年は、宋希璋を団長とする朝鮮使節団が瀬戸内海を往復した年です。使節団員が一番怖れていたのは海賊であったと以前お話ししましたが、その警備のための舟を出すように讃岐守護の細川光元から達しが出されています。仁尾はいろいろな物資を運ぶ輸送船以外にも、警備船なども出しています。そういう意味では、細川家にとって仁尾は、備讃瀬戸における重要な「軍港」であったようです。

6宇多津2135
中世宇多津 復元図 
讃岐にやって来た足利義満を細川頼之は宇多津で迎えた
〔鹿苑院殿厳島詣記〕康応元年(1389)
ゐの時ばかりにおきの方にあたりて あし火のかげ所々に見ゆ、これなむ讃岐国うた津なりけり、御舟程なくいたりつかせた給ぬ、七日は是にとゝまらせ給、此所のかたちは、北にむかひてなぎさにそひて海人の家々ならべり、ひむがしは野山のおのへ北ざまに長くみえたり、磯ぎはにつゝきて古たる松がえなどむろの木にならびたり、寺々の軒ばほのかにみゆ、すこしひき人て御まし所をまうけたり、
鹿苑院殿というのは室町幕府三代将軍足利義満のことです。康応元年(1389)3月7日 将軍足利義満が宇多津に引退していた元管領の細川頼之を訪ねてやってきます。訪問の目的は、積年のギクシャクした関係を改善するためで、厳島詣を口実にやってきたようです。二人の間で会談が行われ、関係改善が約されます。その時の宇多津の様子が描かれています。
「港の形は、北に向かって海岸線に沿って人家が並び、東は尾根が北に長く伸びている。港の海沿いには古い松並木が続き、多くの寺の軒がほのかに見える。」
 当時の宇多津は、元管領でいくつもの国の守護を兼ねる細川頼之のお膝元の港町でした。
「なぎさにそひて海人の家々ならべり」と街並みが形成され、
「磯ぎはにつゝきて古たる松がえなどむろの木にならびたり、寺々の軒ばほのかにみゆ」と、海岸沿いの松並木とその向こうにいくつもの寺の伽藍立ち並ぶ港町であったことが分かります。しかし、守護所がどこにあったかは分かっていません。義満と細川頼之の会談がどこで行われたかも分かりません。確かなことは、細川頼之が義満を迎えるのに選んだ港町が宇多津であったことです。宇多津は「北関入船納帳」では、讃岐の港で群を抜いて入港船が多い港でもありました。
 その宇多津の経済力がうかがえる史料を見てみましょう。
 〔金蔵寺文書〕金蔵寺修造要脚廻文案
 (端裏書)
「諸津へ寺修造の時の要脚引付」
当寺(金蔵寺)大破候間、修造をつかまつり候、先例のごとく拾貫文の御合力を預け候は、祝着たるべく候、恐々謹言
 先規(先例)の引付
  宇多津 十貫文
  多度津 五貫文
  堀 江 三貫文
資料③は、大嵐で金蔵寺が大破したときに、その修造費を周辺の3つの港町に求めた文書です。
 宇多津は十貫文(銭1万枚=80万円)、多度津が半分の五貫文、堀江が1/3の三貫文の寄付が先例であったようです。今でも寺社の寄付金は、懐に応じて出されるのが習いです。そうだとすれば、宇多津は多度津の倍の港湾力や経済力があったことになります。

 多度津は西讃岐の守護代香川氏の居館が現在の桃陵公園にありました。
山城は天霧城です。港は、桃陵公園の下の桜川河口とされています。西讃守護代の香川氏の港です。守護の細川氏から京都駐屯を命じられた場合には、この港から兵を載せた輸送船が出港していたのかもしれません。その時の舟を用意したのは、白方の山路氏だと私は考えています。山路氏については、前回見たように芸予諸島の弓削島荘への「押領」を荘園領主から訴えられていた文書が残っています。海賊と「海の武士」は、裏表の関係にあったことは前回お話ししました。
   もうひとつが堀江津です。聞き慣れない港名です。

3 堀江
堀江は、中世地形復元によると現在の道隆寺間際まで潟(ラグーン)が入り込んで、そこが港の機能を果たしていたと研究者は考えているようです。その港の管理センターが道隆寺になります。このことについては、以前紹介しましたので省略します。ちなみに古代に那珂郡の郡港であったとされる「中津」は、港町の献金リストには登場しません。この時代には土砂の堆積で港としての機能を失っていたのかもしれません。
 宇多津の経済力が多度津の2倍だったことは分かるとして、金蔵寺の復興になぜ宇多津が応じるのでしょうか?金蔵寺と宇多津を結ぶ関係が今の私には見えてきません。

3 塩飽 tizu

    キリスト宣教師がやってきたシワクイ(塩飽)
「耶蘇会士日本通信」(永禄七年)には塩飽のことが次のように書かれています
 フオレの港(伊予の堀江)よりシワクイ(塩飽)と言ふ他の港に到りしが、船頭は止むを得ず回所に我等を留めたり。同所は堺に致る行程の半途にして、此間約六日を費せり。寒気は甚しく、山は皆雪に被はれ、絶えず降雪あり、今日まで日本に於て経験せし寒気と比較して大いに異れるを感じたり。
 シワクイに上陸し、我等を堺に運ぶべき船なかりしが、十四レグワを距てたる他の港には必ず船があるべしと聞き、小舟を雇ひて同所に行くこととなせり。此沿岸には賊多きを以て同じ道を行く船一隻と同行せしが途中より我等と別れたり。我等は皆賊の艦隊に遭遇することあるべしと思ひ、大なる恐怖と懸念を以て進航せしが、之が為め途中厳寒を感ずること無かりしは一の幸福なりき。
我等の主は目的の地に到着するごとを嘉みし給ひ、我等は堺に行く船を待ち約十二日同所に留まれり。
フオレとは伊予の堀江、シワクイが塩飽のことです。伊予の堀江から塩飽まで六日間かかった。塩飽は堺へ行く途中の港だというように書いています。堺へ行く舟は、必ず塩飽へ立ち寄っています。これは風待ち・潮待ちをするために寄るのですが、目的地まで直行する船がない場合、乗り継ぐために塩飽で船を探すことが多かったようです。以前紹介した新見の荘から京都へ帰る東寺の荘官も倉敷から塩飽にやってきて、10日ほど滞在して堺への船に乗船しています。
宣教師達が最初に上陸した港には、堺への船の便がなく、「十四レグワを距てたる他の港には必ず船がある」と聞いて小舟で再移動しています。 レグワについて『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のようにあります
   レグアは、スペイン語・ポルトガル語圏で使われた距離の単位である。日本語ではレグワとも書く。古代のガリア人が用いたレウカ(レウガ)が元で、イギリスのリーグと同語源である。一般に、徒歩で1時間に進める距離とされる。現在のスペインでは5572.7メートル、ポルトガルで5000メートル。距離は国と時代によって異なるが、だいたい4キロメートルから6.6キロメートルの範囲におさまる。
 14レグワ×約4㎞=56㎞
となります。これは塩飽諸島の範囲を超えてしまいます。最初に着いた港は塩飽諸島にある港ではないようです。「寒気は甚しく、山は皆雪に被はれ、絶えず降雪あり」というのも讃岐の風景にはふさわしくない気がします。近隣で探せば、赤石や石鎚連峰が背後に控える今治や西条などがふさわしく思えます。そこから14レグワ(56㎞)離れた塩飽に小舟でやってきたと、私は考えています。

「此沿岸には賊多き」と海賊を怖れているのは、朝鮮からの使節団も同じでした。宣教師達も海賊を心配する様子が克明に記されています。また「日本の著名なる港」との記述もあり、塩飽の港が日本有数の港であったことが分かります。塩飽という港はないので、本島の泊か笠島としておきます。

 以上をまとめておくと
①北関入船納帳には、兵庫港(神戸港)へ出入りした讃岐17港の舟の船頭や積荷が記されている
②讃岐船の積荷の8割は「塩」で、大型の塩専用輸送船も登場していた。   
③兵庫湊の関税は、守護や守護代の積荷を運ぶ舟には免税されていた。
④免税特権を悪用して、兵庫港を通過し関税を納めない舟もあった。
⑤仁尾は賀茂神社の「神人」が管理する港で、細川氏の「軍港」の役割も果たしていた。
⑦讃岐にやって来た将軍義満を細川頼之が迎えたのは宇多津の港であった
⑧金蔵寺の修繕費の宇多津の寄付額は、多度津の倍である
⑨中世の中讃地区には、堀江湊があり道隆寺が交易管理センターとなっていた
⑩九州からやってきたキリスト宣教師は、塩飽で舟を乗り換えて上洛した
⑪塩飽は「海のハイウエー」のSA(サービスエリア)でありジャンクションでもあった。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

 
7仁尾
仁尾町の沖の燧灘に浮かぶ大蔦島・小蔦島は、11世紀末に 白河上皇が京都賀茂社へ御厨として寄進した島の一つです。 荘園が置かれると荘園領主と同じ神社を荘園に勧進するのが一般的でした。こうして、大蔦島に京都の賀茂神社が勧請されます。そして14世紀半ばに、対岸の仁尾の現在地に移されます。以後、仁尾浦の住人は、京都賀茂社の神人(じにん)として社役を担うようになり、特別の権威を持ち交易や通商、航海等に活躍することになります。このことについては、以前にお話ししましたので、今回は中世仁尾の景観復元を、例のごとく香川県立ミュージアムの冊子で見ていくことにしましょう。
7仁尾2
 仁尾を巨視的に見ておきましょう。
瀬戸内海に鬼の角のように突き出た庄内半島の西側の付け根にあるのが仁尾浦です。庄内半島の東側が粟島から塩飽諸島や直島諸島など「多島海」なのに対して、仁尾のある西側は、燧灘に伊吹島がぽつんと沖に浮かぶだけです。そのために冬は北西風が強く、強い波風が海岸に襲いかかってきます。しかし、仁尾浦は、庄内半島の湾岸最奥部にあることと、その前に浮かぶ大蔦島・小蔦島と磯菜島(天神山、昭和前半期には島であった)が天然の防波堤となり港を守ります。そのため「西風が吹いても入港できる西讃唯一の港」と云われる天然の良港でした。
 一方、託間の南の三野津湾は中世までは奥深く海が湾入していたことが分かります。海岸線は吉津付近にまで入り込んできていました。古代の吉宗で焼かれた瓦も、この湾に入ってきた船で藤原京に向けて運び出されていったのでしょう。古代の三野郡の津であった三野津は吉津と呼ばれるようになり、江戸時代初期まで港湾集落として機能していたことがうかがえます。
 吉津は、高瀬川流域の内陸部との繋がりが強かった港湾であったようです。それに対して、詫間は多量に生産される塩を瀬戸内海沿岸各地に積み出す拠点港だったようです。そういう意味で託間は、讃岐の外に向かって開かれた港です。
 中世の仁尾浦は、背後の三方をすべて山地に囲まれていて、西の海だけが開かれている地形になります。しかし、三野郡とは、詫間峠越えで詫間に通じ、南側の仁尾峠越えで吉津や高瀬などにつながっていました。また、詫間から加嶺峠越えで仁尾に入る道路は、西に突き出す八紘山に沿って浜に延びますが、その西麓付近に「境目」という地名が残っています。この加嶺峠越えの道路が詫間荘と草木荘との境界線と重なっていたと研究者は考えているようです。
 仁尾浦を鳥瞰すると、核となる施設は二つあるようです。
その一つは京都から大蔦島に勧請され、一四世紀に対岸の仁尾村に移転されたと伝えられる賀茂社であり、一五世紀にはその境内の一角に神宮寺もありました。
北部の古江が初期仁尾の拠点? 
下の地図で分かるように、今は仁尾の海岸部は埋め立てられていますが、明治三〇年代の海岸線は、50㍍ほど内側にありました。特に、北部の「古江」は深い入り江で、磯菜島(天神山)とその沖合にある大蔦島とによって風波を防ぐ天然の良港でした。上賀茂社の供祭人たちが、最初に活動の拠点としていたのは、大蔦島・小蔦島沿岸海域からこの「古江」一帯にかけての海域・諸浦であったと研究者は考えているようです。
7仁尾3

 仁尾の海岸線 実線が近世・点線が中世の海岸線
「古江」の南に拡がる仁尾浦の中心部分について見てみましょう
  覚城院はもともとは  草木八幡宮の別当寺?
もう一つは11世紀半ばの創建、で約二百年後の寛元年間の再建とされる覚城院です。この寺は、もともとは草木荘内にあった伝えられます。一時衰退した時代があり、応永三三年(1418)讃岐・大川郡で活動中の熊野系の僧増吽の勧進によって中興されて、今日に繋がる基礎が築かれたとされます。永享二年(1430)には、覚城院は23の末寺があり、その中に賀茂社神宮寺や塔頭と見られる宮之坊も含まれていました。仁尾の賀茂社の別当寺となったのは、増吽の勧進による再興の際のことだったと研究者は考えているようです。
 しかし、この時の覚城院は現在地にあったわけではないようです。永享二年当時、覚城院の僧宗任が「託間庄草木覚城院」と称し、さらに文明17年(1485)の細川元国が発した禁制には「江尻覚城院」と書かれています。つまり、この時期には、草木荘の江尻にあったようです。
江尻周辺を地図で見てみると、江尻川が大きく蛇行して海に注ぐ河口にも近く、その対岸には、草木八幡宮やその供僧の地蔵坊や千台寺もあり、かつて覚城院が草木八幡宮の別当寺であったという伝承に納得します。覚城院が現在地に再移転したのは、戦国末期から近世初頭のことのようです。
 それに伴って草木八幡宮の別当寺は、覚城院から吉祥院に交代したのでしょう。その他の中世以来の寺院を見てみると広厳院・新光坊・常徳院・金光寺・蓮花寺・多聞寺・如観寺・道明寺などがあり、このうち広厳院・新光坊を除くすべての寺院が八紘山西麓を南北に縦貫する街路の東側に並んでいます。この南北街路が「常徳寺敷地」の西の堺とし「大道」、「覚城院御堂敷」西の堺として見える「大道」にあたるようです。この道筋の起源は、15世紀初頭まで遡れることになります。この「大道」をもう少し追いかけて見ると、賀茂社の東側を通過したあと、北東に向きを変え、詫間峠越えの道路となって詫間へ通じていたと考えられます。その道筋の近くには、「こうでんじ原」[ぜんこうじ原]という地名が残り、覚城院末寺の金伝寺・善光寺があったようです。
  いままでの仁尾の街道レイアウトをまとめておきましょう
①基本街路は詫間峠越えで仁尾と詫間を結ぶ「大道」
②集落北部に神宮寺と賀茂社が鎮座し、南部には草木八幡宮の別当寺であった覚城院があった
③詫間荘と草木荘の境界とされた加嶺峠越えの道路が仁尾浦を南北に分ける。
④その道路沿いに道明寺があり、高瀬・吉津から仁尾峠越えで仁尾浦南部(もとは草木荘域)に入る道路の途上に草木八幡宮や吉祥院があった。
⑤さらに広厳院・新光坊が15世紀前半から現れ、その門前を起点に「大道」と平行する道路割が見られる
⑥この道路の西側に綿座衆の拠る「中須賀」があったことから、仁尾浦の町場集落は二本の南北街路と三本の東西街路を基本とする港湾都市に成長していた
15世紀半ばに、仁尾浦の神人たちが香西氏の非法を訴えた文書の中で、
「地下家数、今者現して五六百計候」
と主張しているのも、誇張ではなく、それなりに根拠のある数値だったようです。
中世仁尾の港湾は、どこにあったのでしょうか。
先ほどの地図を見ると中世の海岸線は、賀茂社門前まで海が迫り、その東側の広厳院・新光坊を起点とする南北街路の西側近くには砂浜が拡がっていたようです。そして、加嶺峠越えの道路が浜に突き当たる地点の北側に綿座衆のいた中須賀があります。ここからは、港湾機能を持つ浜の一つは、このあたりにあったと研究者は考えているようです。
 しかし、賀茂社の北側には「大浜」という地名もあります。
この付近は磯菜島の島影で、仁尾浦の中でも最も風波が穏やかなところのようです。仁尾浦の核である賀茂社があること、その賀茂社との関係から「大浜」と呼ばれていたことなどから、仁尾浦の港湾の中心となっていたのはおそらくこの周辺と研究者は考えているようです。海岸部が埋め立てられた現在でも、この「大浜」の沖合に「仁尾港」やヨットハーバーが立地しているのは単なる偶然だけではなさそうです。
  もう一つ注目されるのは江尻川河口付近です。
江尻川の下流は、現在でも満潮時なら小舟なら草木八幡宮の近くまで遡れます。かつてはもう少し西側を流れていた形跡があり、西からの風波を防げる河口は船溜まりとして利用されていた可能性があります。しかし、この河口は現在は「父母が浜」として人気スポットになっているように広い干潟が広がり港の機能は果たせません。中世においても港湾としては不向きだったようです。石清水の神人たちが上賀茂社供祭大(神人)らが作り上げた仁尾浦の中に組み込まれていったのは、おそらく彼らの活動舞台である「港の優劣」にもあったのかもしれません。
 参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開

仁尾浦 賀茂神社の「神人」とは何者なの?イメージ 1


  仁尾沖の燧灘に浮かぶ大蔦島・小蔦島は、11世紀末に 白河上皇が京都賀茂社へ御厨として寄進しました。 荘園になると、荘園領主と同じ神社を荘園に勧進するのが当時の習わしでした。こうして、応徳元年(1084)に山城国賀茂大明神(現在の上賀茂神社)の分霊が蔦島に勧進されます。これが現在の大蔦島の元宮(沖津の宮)です。今でも賀茂神社の秋祭りの際には、祭礼を取り仕切る年寄・頭人がここに参拝しています。
 そして14世紀半ばに、対岸の仁尾の現在地に移されます。

イメージ 2

  京都賀茂社の神人(じにん)として活躍する仁尾浦の住人

 やがて仁尾浦の住人が京都賀茂社の神人(じにん)として社役を奉仕するようになります。神人とはいったいどんな人たちなのでしょうか。神人は、特別の権威や「特権」を持ち、瀬戸内海の交易や通商、航海等に活躍することになります。そして、仁尾浦は海上交易の活動の拠点であるだけでなく、讃岐・伊予・備中を結ぶ軍事上の要衝地として発展していくことになります。
 このように仁尾は、賀茂神社に奉仕する人々を中核として浦が形成されていきました。
イメージ 3

赤米の積み出し港 仁尾浦

中世の仁尾は賀茂神社に奉仕する神人と称する人々によって「浦」が形成されます。浦とは、海に従事する人々の海辺集落で、漁業・海運の拠点だけでなく、農林・商工業製品移出入の地でもありました。
周辺からいろいろなな物資が集められ積み出されました。その中で注目するのが赤米です。
 赤米とは鎌倉時代から室町時代にかけて大陸からもたらされた米で、低湿地や荒野でも栽培が可能でした。そのため多くの地域で栽培されるようになります。特に塩害のあった三野地域では、国内で最も早くから栽培されていたようです。讃岐の港から赤米が積み出されていたことが資料からも分かりますが、仁尾からの積出量が最も多く、西讃地方の特産物であったようです。
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公的な警備活動にも従事した仁尾浦の神人たち

室町時代に讃岐の守護であった細川氏は、応永二七年(1420)朝鮮回礼使宋希憬の帰国の際に、その護送のために兵船を出すよう仁尾浦に指示を出しています。
また永享六年(1434)遣明船が帰国した時に、燧灘を航行する船の警護のため仁尾浦から警護船を徴発しています。このように、仁尾浦の人々は商船活動を行うだけでなく、時には兵船御用を努めたり警護船を出すなど公的な任務にも従事していました。賀茂神社は信仰の対象だけでなく、神人を統括する役割を果たす存在でもありました。
    覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』には、永享二年(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が見えます。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人も当地または近隣に存在し、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、
「地下家数今は現して五六百計」とあり、
当時の仁尾浦に、五〇〇~六〇〇の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。
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「千石船見たけりや仁尾に行け」

 仁尾は、後ろは三方を山に囲まれ、前は海で、大蔦島、小蔦島、磯菜島(天神山)の三島が天然の暴風波堤として、港を守ってくれる良港でした。15世紀には細川氏の軍事基地ともなり、また賀茂神社に綿座がおかれたことから、同神社を中心に各地から商人が集まって市が開かれました。そこでは、あらゆる農産物・海産物等が売買され繁栄しました。
 近世になって、これらの産物は、天然の良港の仁尾より仁尾商人の手によって瀬戸内海沿岸や讃岐各地に販売され、仁尾の繁栄につながっていきます。たとえば、塩を必要とした土佐北部山分の地方で生産されていた土佐茶(碁石茶が大半)と、瀬戸内内地方特産の塩との交換が仁尾商人によって行われ、土佐茶の売買が発展していきます。 
 江戸時代の港町仁尾は、醸造業・魚問屋・肥料問屋・茶問屋・綿總糸所・両替商などの大店が軒を連ね、近郷・近在の人々が日用品から冠婚葬祭用品に至るまで「仁尾買物」として盛んに人々が往来しました。港には多度津・丸亀・高松方面や対岸の備後鞘・尾道などにまで物資を集散する大型船が出入りして「千石船見たけりや仁保(仁尾)に行け」とまでうたわれました。
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近世期の仁尾港の状況は、どうだったのでしょうか。

それを考える上で重要な地名は、賀茂神社の北側に残る「大浜」です。この神社付近は磯菜島の島影になり、仁尾浦の中でも最も風波が穏やかなところと言われます。仁尾浦の港湾の中心となっていたのは、この神社周辺のではないでしょうか。
弘化四年刊行の『金毘羅参詣名所図絵』所収の「仁保ノ湊」に、まだ防波堤は描かれていませんが、仁尾町宿入に残存している「金毘羅燈寵」は描かれています。この燈龍は、湊への出入りで灯台的役割を果たしていた物で、この北側には丸亀藩船番所がありました。
 そのため賀茂神社の西側に近世期の港があったと考えられます。
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土佐藩参勤交代の瀬戸内海側の出発港でもあった 仁尾港

仁尾港が、西讃岐を代表する港町であったことは、流通面だけではありません。 土佐藩主の参勤交代は、江戸中期以後は「北山越え」がのメインルートとなります。これは、現在の高速道路の笹ヶ峰から伊予新宮を経るルートで、仁尾港から瀬戸内海へスタートすることが多くなります。
 仁尾を出航した例として、八代豊数の時のルートを紹介すると。
豊数は宝暦11年(1762)1月5日に高知城を出発し、4月6日に江戸に到着しています。その間、3月10日朝、川之江を駕寵で出発し、姫浜で休息、夜8時過ぎに仁尾に到着し、本陣の塩田長右衛門宅に入りました。
 翌日朝5時、仁尾から乗船し9時前に出港、箱之三崎まで漕ぎ出し、そこから帆走して暮れ頃に与島、8時に対岸の出崎(岡山県玉野市)に到着しています。翌日は室津(兵庫県たつの市御津町)に上陸し、その後は山陽道を陸路で江戸に向かっています。
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 この時には、土佐藩丸亀京極家の御船住吉丸など五艘を借用しています。ここからも、仁尾湊の重要性が分かります。また操船方法として、箱浦の三崎まで漕ぎ出し、潮流などを考慮して四国を離れています。庄内八浦の一つである箱浦及び三崎が操船上の重要ポイントであったことを推察させます。これは、幕末期に丸亀藩によって海防のため三崎砲台が設置されることと相通じるのかもしれません。

参考史料 三豊市教育委員会 近世の三豊
 

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