前回は、19世紀初頭から明治末までの仙龍寺を描いた絵図を見ました。そして、仙龍寺の繁盛の要因を次のようにまとめました。
①本尊弘法大師像が大師自作され、信者の崇拝を集めたこと②本尊開帳を夜8時として、参詣者に通夜を許したこと、③通夜施設として、通夜堂を開放し無料で提供したことや、風呂の無料接待も行ったこと④「女人高野山」として女人の参詣を認めたこと
こうして明治末期になっても、仙龍寺には多くの参拝者がやってきて通夜を送っていました。その隆盛は大正から昭和になっても続いたようです。今回は、それを大正時代に描かれた「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」で見ていくことにします。
最初にこの版画のデータなどを見ておきましょう。
①一枚刷(洋紙銅版墨刷)。縦26㎝、横36、5㎝。
②上部中央枠内に右横書きで「伊豫国宇摩郡興之院仙龍密寺境内之略図」
構図は次の通り
①絵図中央 仙龍寺境内の本堂、通夜堂、庫裏の高楼建物②上部(北側) 三角寺からの峠越えの険しい山道である三角寺奥院道と清滝周辺③下部(南側) 境内を流れる清滝川と蟹淵、銅山川周辺まで
よく見ると、参道、境内、清滝などには参詣者の姿が書き加えられています。そして左下枠内に、仙龍寺の由緒文が記されています。
本図の作者については、左端に「岡山博進館彫刻部」とあります。
同じく岡山博進館彫刻部作成の鋼版絵図「第41番霊場龍光寺境内之図」があります。これには「明治35年(1902)(高橋義長刻成)」と制作年と作者があります。しかし、仙龍寺のものには、作成年の記載はありません。そこで、研究者は次のように推測します。
①霊場札所寺院では、明治30年代に参拝記念土産品として境内を描いた銅版画作成がブームとなったこと
②仙龍寺では、明治後期に裏山に新四国霊場を開設して清滝への参道整備が行われてこと。絵図中に清滝付近に参拝者の姿と清滝の不動尊と見られる仏像が描かれているので、この参道整備後に描かれたものと考えられること。
③現地調査を踏まえて、不動堂・茶所付近に描かれた「八丁」と刻まれた大きな標石は願主中務茂兵衛によって明治34年(1901)建立の遍路道標石であること。
④境内の大地蔵に通じる石段は大正6年(1918)、上段の玉垣が大正7年(1917)に整備されているが、これらが絵図には描かれていないこと。
以上から、描かれている景観年代は明治34年以降~大正4年以前とします。
次に絵図をA~Fのエリアに区分して細部を見ていくことにします。
①【本堂】 宝形造瓦葺き。現在の本堂は近代に改修②【通夜堂】 入母屋造瓦葺き懸崖造。現在の通夜堂は昭和12年に大改築)③【庫裡】 入母屋造草葺き。懸崖造で煙突あり④【瀧澤宮】 切妻造瓦葺き、空海が封じ込めた龍神⑤【客殿】 入母屋造草葺き⑥【納屋】 寄棟造草葺き⑦【待暁庵】 入母屋造瓦葺き⑧【花苑】⑨【廟所】⑩【蟹淵】 現在の蟹淵はコンクリート製アーチの下を流れる⑪【橋】 現在はコンクリート屋根なし橋⑫【清滝川】 銅山川の支流⑬【夫婦岩】 現在は新宮ダムに沈む⑭【銅山川】 吉野川の支流⑮【渡舟】 両岸に綱掛けて渡舟で往来
境内エリア
【天堂】 六角堂。瓦葺き【四社明神】 高野山の鎮守として祀られる四柱の神【橋】 屋根付き。現在は屋根なしの無明橋(昭和47年再建)【手洗所】 切妻造瓦葺き、清浄水【鐘楼堂】 入母屋造瓦茸き【茶所】 切妻造瓦葺き。現在なし【仙人堂】 宝形造瓦葺き【本地堂】 宝形造瓦葺き、現在は弥勒堂【釈迦ノ滝】【釈迦ノ岳】
三角寺奥院道・不動堂周辺
【玄哲坂】 標石「後藤玄哲坂」現存【不動堂】 入母屋造瓦茸き、現在は宝形造瓦葺き【茶所】 切妻造瓦葺きの建物2棟)【八丁】 入母屋造瓦葺きの建物は現存せず。隣の「八丁」標石は願主中務茂兵衛義による明治34年建立の遍路道標石【護摩ノ岩屋】護摩窟。現在は入口に「大師修行趾護摩岩窟」の標石、仙龍寺本尊弘法大師の石仏安置、
これを見ていると、描かれている範囲が広く、建造物や名所旧跡の注記もあって、明治後期の仙龍寺の様子がよく分かります。
仙龍寺の由緒文
図中の由緒文を見ておきましょう。
抑金光山仙龍寺は世人常に称して奥の院と云ふ其由来を尋るに延暦十二年弘法大師二十一歳の御時始めて此地に法道仙人と避近し此山の附嘱を受け玉ひ 其後鎮護国家の秘教を停んが為に入唐遊ばされ御婦朝の後人皇五十二代 嵯峨天皇の御宇弘仁六年大師六七の厄運に当たり再び此山に踏りて岩窟に息災の護摩壇を築き三七日の間厄難消除の秘法を修し遂に金胎両部の種子曼茶羅を自ら其窟の岩壁に彫刻し玉ひ猶末代の衆生結縁の為にとて御自作の肖像を安置し且瀧澤権現を勧請して擁護の鎮守となし―字の梵刹を御草創あり乃(スナハチ)誓願して曰く 争末歩を此山に運んて我形像を拝する輩は我三密の加持力を以て諸の厄難及び一切の障りを除き四重五逆の重罪を減し有縁の浄土に送らんと加之(シカノミナラズ)此岩窟の梵文を篤して守護(マモリ)とし受持講供する者は永穀を害する一切の悪贔を除き五穀成就の大利益を得せしめ玉ふ蓋当山は大師入定留身の高野山に模し芳縁を近きに結び利益を普く及し玉ふ善巧方便なれば古より女人の参詣を遮せざる故に営山を女人の高野四国の奥の院と中停て四時登嶺の人絶ることなし現営二世の両益を家る男女枚琴に追あらず是れ偏に我大師三密の加持力と当山勝地の霊徳なるに由る動「草創の縁由を録して十方有縁の信者に示すと云爾但し当山は諸國より日々参籠する人絶ることなければ毎夜本尊の開扉並に説教の修行あり
意訳変換しておくと
金光山仙龍寺は、奥の院と呼ばれるが、その由緒は延暦12年弘法大師21歳の時に、始めてこの地を訪れ、法道仙人と出会って、当山を譲り受けた。(弘法人師一回日巡錫)。その後鎮護国家の秘教を学ぶために入唐し、帰国後の嵯峨天皇の弘仁六(815)年、大師六七の厄運(42歳)の時に再び、当山にやってきて、岩窟に息災の護摩壇を築き37日の間厄難消除の秘法を行い、金胎両部の種子曼茶羅を自ら其窟の岩壁に彫刻し、末代の衆生結縁の為にと自作の肖像を安置した。さらに瀧澤権現を勧請して擁護の鎮守とした。(弘法大師二回目巡錫)
そして、次のように誓願された。当山にやって来て私が彫った自像を礼拝すれば、三密の加持力で厄難や一切の障りを除き、四重五逆の重罪を減じて、有縁の浄土に往生できる。それに加えて、この岩窟の岩窟の梵文を信仰し守護(マモリ)とする者は穀物を害する一切の悪霊を除き、五穀成就の大利益を与える。当山は弘法大師入定の高野山に模してきたが、古より女人の参詣を認め、「高野、四国の奥の院」とも伝えられてきた。いつも参詣人が絶えることなく現当二世の両益を受けることができる。数えきれない男女の参詣者は、偏に弘法大師の三密の加持力と当山の霊徳によるものである。また、当山派、諸国よりの参籠者が多いため、毎夜本尊の御開帳と説教の修行を行っている。
由緒文に出てくる場所を、絵図で挙げると次のようになります
法道仙人関係は【仙人堂】【法道仙人登天地】弘法大師関係は【本堂】【瀧澤宮】【護摩ノ岩屋】遍路・参詣者関係は【通夜堂】
仙龍寺入口正面
①奥院の位置付け
三角寺の奥之院とせず「四国の奥之院」としています。現在は「四国総奥之院」と称しています。四国総奥之院の称号は、寛永15年(1638)に後陽成天皇の第二皇子で嵯峨大覚寺門跡尊性法親王が参詣し、帰京後に大覚寺末として賜ったことに始まるとされています。しかし、今では多くの研究者は、これは偽書と考えています。根本史料となる澄禅「四国辺路日記」、真念『四国邊路道指南』、「四国遍謹名所図会」には「奥院」、寂本「四国霊場記」には「当寺(三角寺)の奥院」と表記されています。江戸時代の四国遍路案内記には、どれも「四国総奥之院」とは記されていないことを押さえておきます。
寛政5年(1793)の〔大覚寺門跡奉行連署書状〕からは三角寺末寺だった仙龍寺が大覚寺門跡直末となったことが分かります。三角寺を離れた仙龍寺は、明治以降になると「四国の奥之院」を名のるようになったようです。そのためこの絵図にも、三角寺の奥之院とは書かれていないと研究者は指摘します。
仙龍寺入口(土足禁止)
②弘法大師の修行地と厄除け大師
三角寺奥之院、四国の奥之院として明治後期には「女人高野」と称された仙龍寺。由緒文には、弘法大師は入唐前の延暦13年、21歳の時に法道仙人に出会い、当山を譲り受け、帰国後の弘仁6年(815)の42歳時に仙龍寺へ登山して修法したとされています。つまり伝説上では、法道仙人ゆかりの聖地で弘法大師が2度も修行した山岳霊場が仙龍寺であったというのです。
本尊の弘法大師像は大師42歳の厄運にあたり厄除けと虫除け五穀豊穣の秘法を修して自作の肖像を安置したもので「厄除け大師」、「虫除け大師」として多くの人達のから信仰されてきました。
遍路記でもっとも古い澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)は、仙龍寺のことを次のように記します。
奥院(仙龍寺)ハ渓水ノ流タル石上ニ二間四面ノ御影堂東向二在り。大師十八歳ノ時此山デト踏分ケサセ玉テ、自像ヲ彫刻シ玉ヒテ安置シ玉フト也。又北ノ方二岩ノ洞二鎮守権現ノホコラ在。又堂ノ内陣二御所持ノ鈴在り、同硯有り、皆宝物也。寺モ巌上ニカケ作り也。
ここには弘法大師が「自像ヲ彫刻」したのは18歳の時と記されています。そして弘法大師が再度ここを訪れたとはどこにも記されていません。ところが江戸時代後半になると、弘法大師は2回訪れ、42歳の時に自像を彫ったことになります。この背景には当時の厄除信仰の拡大策として、大師の年齢を18歳から厄年の42歳に「変更」したと研究者は考えています。「厄除大師」へのリニュアル策です。このような「機転」が寺院経営には必要なのでしょう。庶民が求める「流行神」を積極的に取り入れていくことが四国霊場の寺には求められていたともいえます。こうして四国霊場札所の多くが、その由来に弘法大師42歳の時に開山・中興されたする寺が多くなります。
仙龍寺(松浦武四郎)
四国八十八箇所の霊場にお参りするときには、最初に本堂の本尊に礼拝します。
その後で、大師堂の弘法大師像にお参りするというのが習いとなっています。ところが仙龍寺の場合は、本堂の本尊が大師自作とされる弘法大師像なのです。これは弘法大師信仰の信者にとって、何にも代えがたい信仰対象となります。善通寺誕生院が江戸時代になって「弘法大師空海の生誕地」として、弘法大師稚児像や父母像を信仰対象として参拝者を集めるのと同じような動きを感じます。
③女人高野
仙龍寺は高野山を摸したが女人禁制とせずに、古より女人の参詣を遮らず「女人高野山」と称されたと由緒文には記されています。しかし、江戸時代の真念などの四国遍路案内記には女人高野の記述は見られません。それが見えるようになるのは江戸時代後期になってからのことです。遍路日記には女性の遍路が仙龍寺に参ると高野山に参詣したのと同じ価値があると考えていたことが記されています。
安政3年(1856)に三角寺道(四国中央市中曽根町)に建てられた遍路道標石には次のように記します。
(大師像)(手印)遍ん路道 是ヨリ 三角寺三十丁
奥之院八十八丁 (略) 施主 当初 観音講女連中」
「施主 当所 観音講女連中」とあるので、道標の設置者が観音講を母体とした女性であることが分かります。ちなみに三角寺の本尊十一面観世音菩薩像なので、それにちなんだ講名のようです。
仙龍寺の「女人高野」について触れたものを見ておきましょう。
明治41年(1908)の知久泰盛『四国人拾八ケ所霊場案内記」には次のように記されています。
昔、高野山は女人禁制なりしが当山は女人高野と申して女人の参詣自由なりし故、今は女人成仏の霊場と伝へて日々参詣者群集す
明治43年(1910)の此村庄助『四国霊場八十八ヶ所遍路獨案内』
「本奥の院を一に女人高野と云ふて、女人参詣殊に多し」
ここからは明治後期には、女人参詣で賑わい、女人高野と称されていたことが分かります。
ここでは、江戸時代前半の史料からは、仙龍寺が「女人参拝」を認めていたことは示せないこと。「高野高野」と言われ女性参拝者が急増するのは明治以後のことを押さえておきます。
弘法大師(仙龍寺)
私が最も興味があるのは、毎夜の本尊御開帳と通夜堂です。
仙龍寺の本尊は、弘法大師自作の大師像でした。それは弘法大師信仰の信者にとっては最高の「聖遺物」です。是非ともお参りしたいという吸引力があります。しかも、この本尊開帳はいつの頃からか夜8時の開帳となりました。そのために三角寺からの険しい山道を登り下って、仙龍寺で「通夜」する必要がありました。
これに対して仙龍寺は通夜堂を宿泊所として開放したのです。この通夜での共通体験は強烈だったようです。それまでの艱難困苦の山道を越えてきた事への成就感や、信仰する「お大師さん」の手彫り本尊を開帳でき、そのまま夜の護摩行に参加し、朝まで語り通す。これは、現在で云うなら中高年の登山の山小屋体験とも似ています。女性達にとっては非日常的で、貴重な体験だったはずです。四国巡礼者以外にも多くの信者が仙龍寺に参拝にやって来るようになった背景が分かるような気がしてきます。
これに対して仙龍寺は通夜堂を宿泊所として開放したのです。この通夜での共通体験は強烈だったようです。それまでの艱難困苦の山道を越えてきた事への成就感や、信仰する「お大師さん」の手彫り本尊を開帳でき、そのまま夜の護摩行に参加し、朝まで語り通す。これは、現在で云うなら中高年の登山の山小屋体験とも似ています。女性達にとっては非日常的で、貴重な体験だったはずです。四国巡礼者以外にも多くの信者が仙龍寺に参拝にやって来るようになった背景が分かるような気がしてきます。
文政三(1820)年に、ここを訪れた土佐の新井頼助は次のように記します。
日参通夜の衆、老若男女其数不知、我等一所の通夜五百人計。御燈明銭を上げよという。御開帳銭を上げよという。米壱升たき申に拾文。御守は虫退乱御手判五穀成就。御守難有事也。 ・・・
意訳変換しておくと
仙龍寺に日参通夜をした老若男女の数は数え切れない。私たちと一緒に通夜したのは五百人ばかり。その人たちが「御燈明銭を上げよ。御開帳銭を上げよ。」と連呼する。米1升焚いたのが拾文。御守は、虫退乱御手判五穀成就。御守難有事也。 ・・・今晩の人々からはにて七百貫目の銭が、この寺に納るはずだ・・・
一晩のお勤めをしたひとが500人ということは、貸切バスだと10台以上分の人数です。この日は、お大師さんの縁日の翌日ですが、お大師様の正御影供(2月21日)や前夜の通夜衆はもっと集まっていたはずです。
現在の仙龍寺にお参りすると、その建造物群に驚かされます。なんでこれだけ大きな建物があるのか、以前からの私の疑問でした。しかし、この様を見ると、2月の寒中にこれだけの人達が集まって、一夜を超す施設が必要であったことが分かります。また、それを支えるだけの浄財を集まるシステムもあったことがうかがえます。
現在の仙龍寺にお参りすると、その建造物群に驚かされます。なんでこれだけ大きな建物があるのか、以前からの私の疑問でした。しかし、この様を見ると、2月の寒中にこれだけの人達が集まって、一夜を超す施設が必要であったことが分かります。また、それを支えるだけの浄財を集まるシステムもあったことがうかがえます。
中務(司)茂兵衛
そのひとりが中務(司)茂兵衛(なかつかさもへえ)のようです。
彼は弘化2年(1845)4月30日に周防國大嶋郡椋野村(現山口県周防大島町)で生まれ、22歳頃に周防大島を出奔します。そして明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝します。その数279回と言われます。この巡拝回数は歩き遍路最多記録で、今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とされます。茂兵衛は42歳(明治19年(1886)、88度目の巡拝の頃から標石建立を始めます。標石は確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されています。
中務(司)茂兵衛と仙龍寺は、縁が深かったようです。彼の建てた標石221基中の10基(阿波3・土佐0・伊予5・讃岐2)に、仙龍寺への参詣通夜を勧誘した文が刻まれ、愛媛以外の県にまで配置しています。中務茂兵衛は、仙龍寺の「応援団員」と云えそうです。それも相当の熱が入っています。
奥の院 是より五十八丁毎夜御自作厄除大師尊像乃御開帳阿り 霊場巡拝の輩ハ参詣して御縁越結び 現当二世の利益を受く遍し 中司義教謹識
明治36年(1903)に四国巡礼198度目を記念して三角寺道(四国中央市中之庄町)に建てた遍路道標石は
「金光山奥乃院は毎夜御自作厄除弘法大師尊像の御開帳阿リ 四国巡拝の制に盤参詣して御縁を結び現当二世乃利益を受く遍し」
明治37年(1904)に四国巡礼202度mを記念して64番前神寺の参道(西条市洲之内甲)に建てた遍路道標石には
「金光山仙龍寺ハ厄除弘法大師御自作の尊像□て毎夜開帳阿り四國巡拝の輩には参話して御縁を結び現当二世之利益を受くべし」
このように明治後期に建てられた中務茂兵衛の遍路道標石には、仙龍寺への参詣を誘う「宣伝広告」が記されています。仙龍寺は茂兵衛の定宿でなじみの深い札所であったことがわかっています。ここからは、中務茂兵衛のような仙龍寺を支援・応援する先達グループがいたことがうかがえます。それがさらなる参拝者の増加につながったようです。
仙龍寺宿坊
最後に戦後の仙龍寺の様子を見ておきましょう。
昭和35年(1960)の紫雲荘橋本徹馬『四国遍路記』には、通夜に要する経費は一人前25円で有料であったこと、風呂や食事への不満、人手不足で肝心なご開帳が中止となったことなどが記されています。宿泊環境が整備されると、それまでの宿泊無料の通夜堂から有料の宿泊施設(宿坊)へと「転換」することが多いようです。そのような流れが仙龍寺にもあったようです。
昭和37年(1962)の荒木戒空『巡拝案内 遍路の杖』には、仙龍寺の宿泊収容数は300名迄と記されています。ちなみに前後の札所の65番三角寺が100名、66番雲辺寺が50名(通夜堂完備)ですから、仙龍寺の宿坊が飛び抜けて大きかったことが分かります。その規模の大きさは、毎夜開帳された本尊弘法大師像への信仰(すなわち厄除け弘法大師への信仰)が盛んであったこと示すもの研究者は指摘します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「今付 賢司 仙龍寺「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」について 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年 愛媛県教育委員会」