瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:仙龍寺

仙龍寺 三角寺奥の院1800年
仙龍寺「四国遍祀名所図会」(1800年)
前回は、19世紀初頭から明治末までの仙龍寺を描いた絵図を見ました。そして、仙龍寺の繁盛の要因を次のようにまとめました。
①本尊弘法大師像が大師自作され、信者の崇拝を集めたこと
②本尊開帳を夜8時として、参詣者に通夜を許したこと、
③通夜施設として、通夜堂を開放し無料で提供したことや、風呂の無料接待も行ったこと
④「女人高野山」として女人の参詣を認めたこと
  こうして明治末期になっても、仙龍寺には多くの参拝者がやってきて通夜を送っていました。その隆盛は大正から昭和になっても続いたようです。今回は、それを大正時代に描かれた「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」で見ていくことにします。

最初にこの版画のデータなどを見ておきましょう。
①一枚刷(洋紙銅版墨刷)。縦26㎝、横36、5㎝。
②上部中央枠内に右横書きで「伊豫国宇摩郡興之院仙龍密寺境内之略図」
仙龍寺 大正期 仙龍密寺境内之略図

構図は次の通り
①絵図中央 仙龍寺境内の本堂、通夜堂、庫裏の高楼建物
②上部(北側) 三角寺からの峠越えの険しい山道である三角寺奥院道と清滝周辺
③下部(南側) 境内を流れる清滝川と蟹淵、銅山川周辺まで
よく見ると、参道、境内、清滝などには参詣者の姿が書き加えられています。そして左下枠内に、仙龍寺の由緒文が記されています。
本図の作者については、左端に「岡山博進館彫刻部」とあります。
同じく岡山博進館彫刻部作成の鋼版絵図「第41番霊場龍光寺境内之図」があります。これには「明治35年(1902)(高橋義長刻成)」と制作年と作者があります。しかし、仙龍寺のものには、作成年の記載はありません。そこで、研究者は次のように推測します。
①霊場札所寺院では、明治30年代に参拝記念土産品として境内を描いた銅版画作成がブームとなったこと
②仙龍寺では、明治後期に裏山に新四国霊場を開設して清滝への参道整備が行われてこと。絵図中に清滝付近に参拝者の姿と清滝の不動尊と見られる仏像が描かれているので、この参道整備後に描かれたものと考えられること。
③現地調査を踏まえて、不動堂・茶所付近に描かれた「八丁」と刻まれた大きな標石は願主中務茂兵衛によって明治34年(1901)建立の遍路道標石であること。
④境内の大地蔵に通じる石段は大正6年(1918)、上段の玉垣が大正7年(1917)に整備されているが、これらが絵図には描かれていないこと。
以上から、描かれている景観年代は明治34年以降~大正4年以前とします。
次に絵図をA~Fのエリアに区分して細部を見ていくことにします。
仙龍寺中心部 大正時代 
       仙龍寺(境内・伽藍の中心部)
①【本堂】 宝形造瓦葺き。現在の本堂は近代に改修
②【通夜堂】 入母屋造瓦葺き懸崖造。現在の通夜堂は昭和12年に大改築)
③【庫裡】 入母屋造草葺き。懸崖造で煙突あり
④【瀧澤宮】 切妻造瓦葺き、空海が封じ込めた龍神
⑤【客殿】 入母屋造草葺き
⑥【納屋】 寄棟造草葺き
⑦【待暁庵】 入母屋造瓦葺き
⑧【花苑】
⑨【廟所】
⑩【蟹淵】 現在の蟹淵はコンクリート製アーチの下を流れる
⑪【橋】 現在はコンクリート屋根なし橋
⑫【清滝川】 銅山川の支流
⑬【夫婦岩】 現在は新宮ダムに沈む
⑭【銅山川】 吉野川の支流
⑮【渡舟】 両岸に綱掛けて渡舟で往来
仙龍寺境内 大正時代
境内エリア
【天堂】 六角堂。瓦葺き
【四社明神】 高野山の鎮守として祀られる四柱の神
【橋】 屋根付き。現在は屋根なしの無明橋(昭和47年再建)
【手洗所】 切妻造瓦葺き、清浄水
【鐘楼堂】 入母屋造瓦茸き
【茶所】 切妻造瓦葺き。現在なし
【仙人堂】 宝形造瓦葺き
【本地堂】 宝形造瓦葺き、現在は弥勒堂
【釈迦ノ滝】【釈迦ノ岳】
仙龍寺上部 大正時代
三角寺奥院道・不動堂周辺
【玄哲坂】 標石「後藤玄哲坂」現存
【不動堂】 入母屋造瓦茸き、現在は宝形造瓦葺き
【茶所】 切妻造瓦葺きの建物2棟)
【八丁】 入母屋造瓦葺きの建物は現存せず。隣の「八丁」標石は願主中務茂兵衛義による明治34年建立の遍路道標石
【護摩ノ岩屋】護摩窟。現在は入口に「大師修行趾護摩岩窟」の標石、仙龍寺本尊弘法大師の石仏安置、

これを見ていると、描かれている範囲が広く、建造物や名所旧跡の注記もあって、明治後期の仙龍寺の様子がよく分かります。

仙龍寺 由緒文大正
仙龍寺の由緒文
図中の由緒文を見ておきましょう。
抑金光山仙龍寺は世人常に称して奥の院と云ふ其由来を尋るに延暦十二年弘法大師二十一歳の御時始めて此地に法道仙人と避近し此山の附嘱を受け玉ひ 其後鎮護国家の秘教を停んが為に入唐遊ばされ御婦朝の後人皇五十二代 嵯峨天皇の御宇弘仁六年大師六七の厄運に当たり再び此山に踏りて岩窟に息災の護摩壇を築き三七日の間厄難消除の秘法を修し遂に金胎両部の種子曼茶羅を自ら其窟の岩壁に彫刻し玉ひ猶末代の衆生結縁の為にとて御自作の肖像を安置し且瀧澤権現を勧請して擁護の鎮守となし―字の梵刹を御草創あり
乃(スナハチ)誓願して曰く 争末歩を此山に運んて我形像を拝する輩は我三密の加持力を以て諸の厄難及び一切の障りを除き四重五逆の重罪を減し有縁の浄土に送らんと加之(シカノミナラズ)此岩窟の梵文を篤して守護(マモリ)とし受持講供する者は永穀を害する一切の悪贔を除き五穀成就の大利益を得せしめ玉ふ
 蓋当山は大師入定留身の高野山に模し芳縁を近きに結び利益を普く及し玉ふ善巧方便なれば古より女人の参詣を遮せざる故に営山を女人の高野四国の奥の院と中停て四時登嶺の人絶ることなし現営二世の両益を家る男女枚琴に追あらず是れ偏に我大師三密の加持力と当山勝地の霊徳なるに由る
動「草創の縁由を録して十方有縁の信者に示すと云爾但し当山は諸國より日々参籠する人絶ることなければ毎夜本尊の開扉並に説教の修行あり
    意訳変換しておくと
金光山仙龍寺は、奥の院と呼ばれるが、その由緒は延暦12年弘法大師21歳の時に、始めてこの地を訪れ、法道仙人と出会って、当山を譲り受けた。(弘法人師一回日巡錫)。
その後鎮護国家の秘教を学ぶために入唐し、帰国後の嵯峨天皇の弘仁六(815)年、大師六七の厄運(42歳)の時に再び、当山にやってきて、岩窟に息災の護摩壇を築き37日の間厄難消除の秘法を行い、金胎両部の種子曼茶羅を自ら其窟の岩壁に彫刻し、末代の衆生結縁の為にと自作の肖像を安置した。さらに瀧澤権現を勧請して擁護の鎮守とした。(弘法大師二回目巡錫)

 そして、次のように誓願された。当山にやって来て私が彫った自像を礼拝すれば、三密の加持力で厄難や一切の障りを除き、四重五逆の重罪を減じて、有縁の浄土に往生できる。それに加えて、この岩窟の岩窟の梵文を信仰し守護(マモリ)とする者は穀物を害する一切の悪霊を除き、五穀成就の大利益を与える。
 当山は弘法大師入定の高野山に模してきたが、古より女人の参詣を認め、「高野、四国の奥の院」とも伝えられてきた。いつも参詣人が絶えることなく現当二世の両益を受けることができる。数えきれない男女の参詣者は、偏に弘法大師の三密の加持力と当山の霊徳によるものである。また、当山派、諸国よりの参籠者が多いため、毎夜本尊の御開帳と説教の修行を行っている。
由緒文に出てくる場所を、絵図で挙げると次のようになります
法道仙人関係は【仙人堂】【法道仙人登天地】
弘法大師関係は【本堂】【瀧澤宮】【護摩ノ岩屋】
遍路・参詣者関係は【通夜堂】

仙龍寺23
大和国の仏絵師西丈が描いた仙龍寺(19世紀中頃)

由緒文から見える仙龍寺の特色について、研究者は次のように整理します。
2016年四国逆打ち遍路3日目その2「65番三角寺~61番香園寺、別格13番仙龍寺~12番延命寺」 気ままに過ごす。さんのお遍路道中記 四国八十八箇所  お遍路ポータル
仙龍寺入口正面

①奥院の位置付け
三角寺の奥之院とせず「四国の奥之院」としています。現在は「四国総奥之院」と称しています。四国総奥之院の称号は、寛永15年(1638)に後陽成天皇の第二皇子で嵯峨大覚寺門跡尊性法親王が参詣し、帰京後に大覚寺末として賜ったことに始まるとされています。しかし、今では多くの研究者は、これは偽書と考えています。根本史料となる澄禅「四国辺路日記」、真念『四国邊路道指南』、「四国遍謹名所図会」には「奥院」、寂本「四国霊場記」には「当寺(三角寺)の奥院」と表記されています。江戸時代の四国遍路案内記には、どれも「四国総奥之院」とは記されていないことを押さえておきます。
 寛政5年(1793)の〔大覚寺門跡奉行連署書状〕からは三角寺末寺だった仙龍寺が大覚寺門跡直末となったことが分かります。三角寺を離れた仙龍寺は、明治以降になると「四国の奥之院」を名のるようになったようです。そのためこの絵図にも、三角寺の奥之院とは書かれていないと研究者は指摘します。

四国中央巡り7】オススメ!幽玄の世界『奥の院 仙龍寺』 : 【エヒメン】愛媛県男子の諸々
仙龍寺入口(土足禁止)

②弘法大師の修行地と厄除け大師
三角寺奥之院、四国の奥之院として明治後期には「女人高野」と称された仙龍寺。由緒文には、弘法大師は入唐前の延暦13年、21歳の時に法道仙人に出会い、当山を譲り受け、帰国後の弘仁6年(815)の42歳時に仙龍寺へ登山して修法したとされています。つまり伝説上では、法道仙人ゆかりの聖地で弘法大師が2度も修行した山岳霊場が仙龍寺であったというのです。
 本尊の弘法大師像は大師42歳の厄運にあたり厄除けと虫除け五穀豊穣の秘法を修して自作の肖像を安置したもので「厄除け大師」、「虫除け大師」として多くの人達のから信仰されてきました。

  遍路記でもっとも古い澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)は、仙龍寺のことを次のように記します。
奥院(仙龍寺)ハ渓水ノ流タル石上ニ二間四面ノ御影堂東向二在り。大師十八歳ノ時此山デト踏分ケサセ玉テ、自像ヲ彫刻シ玉ヒテ安置シ玉フト也。又北ノ方二岩ノ洞二鎮守権現ノホコラ在。又堂ノ内陣二御所持ノ鈴在り、同硯有り、皆宝物也。寺モ巌上ニカケ作り也。

ここには弘法大師が「自像ヲ彫刻」したのは18歳の時と記されています。そして弘法大師が再度ここを訪れたとはどこにも記されていません。ところが江戸時代後半になると、弘法大師は2回訪れ、42歳の時に自像を彫ったことになります。この背景には当時の厄除信仰の拡大策として、大師の年齢を18歳から厄年の42歳に「変更」したと研究者は考えています。「厄除大師」へのリニュアル策です。このような「機転」が寺院経営には必要なのでしょう。庶民が求める「流行神」を積極的に取り入れていくことが四国霊場の寺には求められていたともいえます。こうして四国霊場札所の多くが、その由来に弘法大師42歳の時に開山・中興されたする寺が多くなります。
仙龍寺 松村武四郎
仙龍寺(松浦武四郎)
 四国八十八箇所の霊場にお参りするときには、最初に本堂の本尊に礼拝します。
その後で、大師堂の弘法大師像にお参りするというのが習いとなっています。ところが仙龍寺の場合は、本堂の本尊が大師自作とされる弘法大師像なのです。これは弘法大師信仰の信者にとって、何にも代えがたい信仰対象となります。善通寺誕生院が江戸時代になって「弘法大師空海の生誕地」として、弘法大師稚児像や父母像を信仰対象として参拝者を集めるのと同じような動きを感じます。
③女人高野
仙龍寺は高野山を摸したが女人禁制とせずに、古より女人の参詣を遮らず「女人高野山」と称されたと由緒文には記されています。しかし、江戸時代の真念などの四国遍路案内記には女人高野の記述は見られません。それが見えるようになるのは江戸時代後期になってからのことです。遍路日記には女性の遍路が仙龍寺に参ると高野山に参詣したのと同じ価値があると考えていたことが記されています。
 安政3年(1856)に三角寺道(四国中央市中曽根町)に建てられた遍路道標石には次のように記します。
(大師像)(手印)遍ん路道 是ヨリ 三角寺三十丁
奥之院八十八丁  (略) 施主 当初 観音講女連中

「施主 当所 観音講女連中」とあるので、道標の設置者が観音講を母体とした女性であることが分かります。ちなみに三角寺の本尊十一面観世音菩薩像なので、それにちなんだ講名のようです。
仙龍寺の「女人高野」について触れたものを見ておきましょう。
 明治41年(1908)の知久泰盛『四国人拾八ケ所霊場案内記」には次のように記されています。
昔、高野山は女人禁制なりしが当山は女人高野と申して女人の参詣自由なりし故、今は女人成仏の霊場と伝へて日々参詣者群集す

明治43年(1910)の此村庄助『四国霊場八十八ヶ所遍路獨案内』

「本奥の院を一に女人高野と云ふて、女人参詣殊に多し」

ここからは明治後期には、女人参詣で賑わい、女人高野と称されていたことが分かります。
 ここでは、江戸時代前半の史料からは、仙龍寺が「女人参拝」を認めていたことは示せないこと。「高野高野」と言われ女性参拝者が急増するのは明治以後のことを押さえておきます。

金光山仙龍寺弘法大師空海座像(四国別格二十霊場第十三番) / 黒崎書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
弘法大師(仙龍寺)

私が最も興味があるのは、毎夜の本尊御開帳と通夜堂です。
仙龍寺の本尊は、弘法大師自作の大師像でした。それは弘法大師信仰の信者にとっては最高の「聖遺物」です。是非ともお参りしたいという吸引力があります。しかも、この本尊開帳はいつの頃からか夜8時の開帳となりました。そのために三角寺からの険しい山道を登り下って、仙龍寺で「通夜」する必要がありました。
 これに対して仙龍寺は通夜堂を宿泊所として開放したのです。この通夜での共通体験は強烈だったようです。それまでの艱難困苦の山道を越えてきた事への成就感や、信仰する「お大師さん」の手彫り本尊を開帳でき、そのまま夜の護摩行に参加し、朝まで語り通す。これは、現在で云うなら中高年の登山の山小屋体験とも似ています。女性達にとっては非日常的で、貴重な体験だったはずです。四国巡礼者以外にも多くの信者が仙龍寺に参拝にやって来るようになった背景が分かるような気がしてきます。

文政三(1820)年に、ここを訪れた土佐の新井頼助は次のように記します。
日参通夜の衆、老若男女其数不知、我等一所の通夜五百人計。御燈明銭を上げよという。御開帳銭を上げよという。米壱升たき申に拾文。御守は虫退乱御手判五穀成就。御守難有事也。 ・・・

意訳変換しておくと
仙龍寺に日参通夜をした老若男女の数は数え切れない。私たちと一緒に通夜したのは五百人ばかり。その人たちが「御燈明銭を上げよ。御開帳銭を上げよ。」と連呼する。米1升焚いたのが拾文。御守は、虫退乱御手判五穀成就。御守難有事也。 ・・・今晩の人々からはにて七百貫目の銭が、この寺に納るはずだ・・・

 一晩のお勤めをしたひとが500人ということは、貸切バスだと10台以上分の人数です。この日は、お大師さんの縁日の翌日ですが、お大師様の正御影供(2月21日)や前夜の通夜衆はもっと集まっていたはずです。
 現在の仙龍寺にお参りすると、その建造物群に驚かされます。なんでこれだけ大きな建物があるのか、以前からの私の疑問でした。しかし、この様を見ると、2月の寒中にこれだけの人達が集まって、一夜を超す施設が必要であったことが分かります。また、それを支えるだけの浄財を集まるシステムもあったことがうかがえます。

 明治期の仙龍寺には、夜の本尊開帳後に服部錢海が講話を行って、弘法大師信仰を鼓舞したと伝えられます。これに共鳴する先達達も現れ、「仙龍寺支援隊」とも云えるグループが生まれるようです。

仙龍寺 中務(司)茂兵衛
中務(司)茂兵衛

そのひとりが中務(司)茂兵衛(なかつかさもへえ)のようです。
彼は弘化2年(1845)4月30日に周防國大嶋郡椋野村(現山口県周防大島町)で生まれ、22歳頃に周防大島を出奔します。そして明治から大正にかけて一度も故郷に戻ることなく、四国八十八ヶ所を繰り返し巡拝します。その数279回と言われます。この巡拝回数は歩き遍路最多記録で、今後も上回ることはほぼ不可能な不滅の功績とされます。茂兵衛は42歳(明治19年(1886)、88度目の巡拝の頃から標石建立を始めます。標石は確認されているだけで243基。札所の境内、遍路道沿いに多く残されています。
中務(司)茂兵衛と仙龍寺は、縁が深かったようです。彼の建てた標石221基中の10基(阿波3・土佐0・伊予5・讃岐2)に、仙龍寺への参詣通夜を勧誘した文が刻まれ、愛媛以外の県にまで配置しています。中務茂兵衛は、仙龍寺の「応援団員」と云えそうです。それも相当の熱が入っています。
参考までに奥院仙龍寺まで八丁地点に建てられた標石の刻文を見ておきましょう。
三角寺 中務(司)茂兵衛標石
       奥の院 是より五十八丁
毎夜御自作厄除大師尊像乃御開帳阿り 霊場巡拝の輩ハ参詣して御縁越結び 現当二世の利益を受く遍し                    中司義教謹識
明治36年(1903)に四国巡礼198度目を記念して三角寺道(四国中央市中之庄町)に建てた遍路道標石は
「金光山奥乃院は毎夜御自作厄除弘法大師尊像の御開帳阿リ 四国巡拝の制に盤参詣して御縁を結び現当二世乃利益を受く遍し」

明治37年(1904)に四国巡礼202度mを記念して64番前神寺の参道(西条市洲之内甲)に建てた遍路道標石には
「金光山仙龍寺ハ厄除弘法大師御自作の尊像□て毎夜開帳阿り四國巡拝の輩には参話して御縁を結び現当二世之利益を受くべし」

このように明治後期に建てられた中務茂兵衛の遍路道標石には、仙龍寺への参詣を誘う「宣伝広告」が記されています。仙龍寺は茂兵衛の定宿でなじみの深い札所であったことがわかっています。ここからは、中務茂兵衛のような仙龍寺を支援・応援する先達グループがいたことがうかがえます。それがさらなる参拝者の増加につながったようです。
仙龍寺宿坊2
仙龍寺宿坊
最後に戦後の仙龍寺の様子を見ておきましょう。
 昭和35年(1960)の紫雲荘橋本徹馬『四国遍路記』には、通夜に要する経費は一人前25円で有料であったこと、風呂や食事への不満、人手不足で肝心なご開帳が中止となったことなどが記されています。宿泊環境が整備されると、それまでの宿泊無料の通夜堂から有料の宿泊施設(宿坊)へと「転換」することが多いようです。そのような流れが仙龍寺にもあったようです。
 昭和37年(1962)の荒木戒空『巡拝案内 遍路の杖』には、仙龍寺の宿泊収容数は300名迄と記されています。ちなみに前後の札所の65番三角寺が100名、66番雲辺寺が50名(通夜堂完備)ですから、仙龍寺の宿坊が飛び抜けて大きかったことが分かります。その規模の大きさは、毎夜開帳された本尊弘法大師像への信仰(すなわち厄除け弘法大師への信仰)が盛んであったこと示すもの研究者は指摘します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「今付 賢司  仙龍寺「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」について 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年 愛媛県教育委員会」

      四国別格13番 仙龍寺
金光山仙龍寺
金光山仙龍寺は、四国八十八箇所の札場霊場ではありません。しかし、17世紀に書かれた澄禅「四国辺路日記」、真念「四国邊路道指南』、寂本「四国霊場記」などにも紹介されています。プロの宗教者である修験者たちの行場にあった山岳寺院は、近世になると「四国遍路」となり、札所寺院廻りに姿を変えていきます。それにつれて、山の奥にあった霊場は里山に下りてきます。そして、行場は「奥の院」と呼ばれるようになり、訪れる人は少なくなっていきます。ところが仙龍寺は現在に至るまで、多くの参拝者を集め続けている「奥の院・別院」なのです。それを示すのが、かつては400人が泊まった大きな宿坊です。これだけの施設を作り出していく背景は、どこにあったのでしょうか。
仙龍寺宿坊
仙龍寺の宿坊
図書館で最近に出版された三角寺と仙龍寺の調査報告書を見つけました。今回は、その中に紹介されている仙龍寺の絵図を見ながら、その歴史を追いかけて行きたいと思います。
テキストは「今付 賢司  仙龍寺「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」について 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年」です。
奥之院仙龍寺】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
仙龍寺堂内入口

  弘法大師信仰が高まりを見せるようになると、善通寺の弘法大師御影のように、その遺品には霊力があり、何事も適えてくれると説かれるようになります。こうして弘法大師の遺品が人を惹きつけるようになります。
  澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)は、仙龍寺の弘法大師遺品について次のように記します。
 峠から木の枝に取付テ下っていくこと20余町で谷底に至る。奥院(仙龍寺)は渓流の石上二間四面の御影堂が東向に建っている。ここに弘法大師が18歳の時に、自像を彫刻したものが安置されている。また北方の岩の洞には、鎮守権現の祠がある。又堂の内陣には、弘法大師が所持した鈴や硯もあり、すべて宝物となっている。
 
 ここからは仙龍寺は大師自作の弘法大師像が本尊で、鈴や硯も宝物として安置されていたことが分かります。中には、三角寺にお参りすることが目的ではなく、仙龍寺の「自作大師像」にお参りすることが目的の人達もいたようです。そのためには法皇山脈のピークの平石山(標高825m)の地蔵峠(標高765m)を越えて行かねばなりませんでした。これが「伊予一番の難苦」で、横峰寺の登りよりもしんどかったようです
報告書には仙龍寺の景観を描いた両帖、絵図類が以下の6つ紹介されています。
①寛政12年(1800)「四国遍祀名所図会」の図版「金光山」
②江戸時代後期、西丈「中国四国名所旧跡図」収録の直筆画
③弘化元年(1844)松浦武四郎「四同遍路道中雑誌」
④明治2年(1869)半井梧奄『愛媛面影』の図版「仙龍寺」)
⑤明治時代後期「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」
⑥大正~昭和時代頃「金光山奥之院仙龍寺」
仙龍寺 三角寺奥の院1800年
①の「四国遍礼名所図会」1800年 (個人蔵)
これは、阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛(九皐主人)の遍路記を、翌年に書写したとされるもので仙龍寺の挿絵がはいっています。ここには、仙龍寺への参道として次のようなものが描き込まれています
①三角寺からの地蔵峠
②雲辺寺道との分岐点となる大久保村
③仙龍寺まで7丁の地点にある不動堂
④そこから急勾配の難所となる後藤玄鉄塚
⑤道の左右に見える護摩窟、釈迦岳、加持水、来迎滝、道案内の標石、手洗水
などが細かく描き込まれ臨場感あふれる景観になっています。
山道を下った仙龍寺の境内では、懸造の本堂と庫裏、蟹渕(橋下の川)、鎮守社、阿弥陀堂、仙人堂などが並びます。崖沿いに建てられた高楼造りの仙龍寺本堂を中心に、深山の清滝、三角寺からの険しい奥院道の景観まで、江戸時代後期の仙龍寺の景観をうかがい知れる貴重な絵画史料と研究者は評します。
「四国遍礼名所図会」の本文は次の通りです
  是より仙龍寺迄八十町、樹木生茂り、高山岩端けはしき所を下る。難所、筆紙に記しがたし。庵本尊不動尊を安置す、是より寺迄七丁、壱町毎に標石有り。後藤玄鉄塚道の右の上にあり、護摩窟道の左の下、釈迦岳右に見ゆる大成岳なり、
加持水 道の右にあり、来迎滝橋より拝す、蟹渕 橋の下の川をいふ也。金光山仙龍寺 入口廊下本堂庫裡懸崖作り、本堂本尊弘法大師。毎夜五ツ時に開帳あり、大師御修行の霊地なり、本尊自作の大師也。大師四十二歳時一刀三礼に御作り給ふ尊像也、一度参詣の輩ハ五逆十悪を除給ふとの御誓願也。終夜大師を拝し夜を明す、阿弥陀堂 庫裡の上にあり。仙人堂 廊下の前に有り。
意訳変換しておくと
  三角寺から龍寺までは八十町、樹木が生い茂り、高山の岩稜が険しい所を下っていく。難所で筆舌に尽くしがたい。不動尊を安置する庵から仙龍寺までは七丁、1町毎に標石がある。後藤玄鉄塚は、道の右の上にある。護摩窟は、道の左の下にある。釈迦岳の右に見えるのが大成岳。
加持水は、 来迎滝橋より参拝できる。蟹渕は、橋の下の川のこと。
 金光山仙龍寺の入口廊下と本堂・庫裡は懸崖作りである。本堂本尊は弘法大師で、毎夜五ツ時(8時)に開帳する。ここは大師修行の霊地なので本尊は、大師自作の大師像である。大師が42歳の時に、この地を訪れ―刀三礼で作られたという尊像である。一度参詣した人達は、五逆十悪が取り除かれるという誓願がある。終夜大師を拝して夜を明す。阿弥陀堂は、庫裡の上にあり。仙人堂は、廊下の前にある。
ここで私が注目するのは、次のような点です。
①それまで大師18の時の自作本尊弘法大師像が42歳になっていること
②8時開帳で終夜開帳され、参拝者が夜通しの通夜を行っていること
①については「厄除け」信仰が高まると、「厄除け大師」として信仰されるようになったようです。そのため大師の年齢が18歳から42歳へと変更されたようです。
②については参拝者の目的は、本尊「大師自作の大師像」にお参りするためです。その開帳時刻は、夜8時だったのです。そのためには、仙龍寺で夜を過ごさなければなりません。多くの「信者の「通夜」ために準備されたのが宿坊だったのでしょう。それを無料で仙龍寺は提供します。これは参拝者を惹きつける経営戦略としては大ヒットだったようです。以後、仙龍寺の伽藍は整備され宿坊は巨大化していくようになります。それが絵図に描かれた川の上に建つ懸崖作りの本堂や宿坊なのでしょう。仙龍寺は、本尊の弘法大師像の霊力と巧みな営業戦略で、山の中の奥の院でありながら多くの参拝客を近世を通じて集め続けたようです。

仙龍寺23
大和国の仏絵師西丈が描いた彩色画帖「中国四国名所旧跡図」
(愛媛県歴史文化博物館蔵)
この絵図は一番下に「与州三角寺奥院金光山仙龍寺図」とあり、東西南北の方位が表記されています。城壁のような岩壁の上に横長の楼閣のような白い漆喰壁の建物(本堂、通夜堂、庫裏)が並び立ち、まるでお城のような印象を受けます。その廊下の四つの窓には全部で9人の人物が見えます。
その奥に瓦葺入母屋の屋根の大きな建物が二軒あります。張り出した岸上に瓦葺人母屋の屋根の漆喰塗り連子格子窓の建物があります。
 渓流の向こう側の西の文字のある左側の場面には岩場が広がり、さらに一段上がった崖上の端には、桧皮葺入母屋屋根の社のような建物があります。これがかつての行場の象徴である仙人堂なのでしょう。その前に小さな小屋があります。西側崖と東側崖の間には川があり、上流から水が勢いよく流れ、手前には屋根付き橋の大鼓橋が掛っています。川沿いには石垣をもつ瓦葺の建物が建っています。奥にも屋根のない太鼓橋が掛り、橋のたもとには石塔が建っています。

仙龍寺 松村武四郎

松浦武四郎「四国遍路道中雑誌」1844年(松浦武四郎記念館蔵)
 松浦武四郎は雅号を北海道人(ほっかいどうじん)と称し、蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案したほか、アイヌ民族・アイヌ文化の研究・記録に努めた人物です。彼も仙龍寺にやって来て、次のような記録とスケッチを残しています。
金光山遍照院仙龍寺
従三角寺五十六丁。則三角寺奥院と云。阿州三好郡也。本尊は弘法大師四十弐才厄除之自作の御像也。夜二開帳する故二遍路之衆皆此処へ来リー宿し而参詣す。燈明せん壱人前拾貳銅ヅツ也。本堂、客殿皆千尋の懸産二建侍て風景筆状なし易からず。大師修行之窟本堂の東二在。此所二而大師三七日護摩修行あられし由也。其時龍王:出て大師二対顔セしとかや。中二自然の御手判と云もの有り。是を押而巌石の御判とて参詣之人二背ぐ、尚其外山内二いろいろ各窟名石等多し。八丁もどり峠の茶屋に至り、しばし村道二行て金川村越えて内野村越而坂有。
意訳変換しておくと

金光山遍照院仙龍寺は、三角寺より五十六丁で、三角寺奥院と云う。阿波三好郡になる。本尊は弘法大師42才の時の厄除の自作御像である。夜に開帳するので、遍路衆は皆ここでー宿して参詣する。燈明銭として、一人十二銭支払う。本堂、客殿など懸崖の上に建ち風景は筆舌に表しがたい。 大師修行の窟は本堂の東にある。ここで大師は三七日護摩修行を行ったという。その時に龍王が出て大師と向かい合ったという。この窟の中には、大師の自然の御手判とされるものもある。この他にも各窟には名石が多い。八丁もどって峠の茶屋に帰り、しばらく村道を行くと金川村を越えて内野村越の坂に出る。

 松浦武四郎は、仙龍寺について「阿波三好郡にあり」としていますが、伊予新宮の間違いです。この地が阿波・讃岐・伊予の国境に位置し、他国者にとっては分かりにくかったようです。他に押さえておきたいことを挙げておくと
①本尊は弘法大師42歳の厄除け自作像であること、18歳作ではないこと。
②夜に開帳するので「遍路之衆」はみなここで1泊すること
③照明代に一人12銭必要であること

三角寺道と雲辺寺道の分岐点となる大久保村付近から仙龍寺までの険しい山道の様子、清滝、崖沿いの舞台造りの諸堂が簡略なスケッチで描かれています。描画はやや詳細さに欠けるが、仙龍寺の全体の雰囲気をよく捉えていると研究者は評します。

仙龍寺 明治2年
幕末期の地誌である半井梧巻『愛媛面影』(慶応2年(1866)
ここには図版とともに、次のように記載されています。。

仙龍寺 馬立村にあり。奥院と名づく。空海四十二歳の時の像ありと云ふ。山に依りて構へたる楼閣仙境といふべし。

左手に切り立つ崖沿いの懸造りの建物(本堂、通夜堂)と深い渓谷がに描かれています。空からの落雁、長い柱の上に建つ舞台から景色を眺めている人物なども描き込まれ、まさしく深山幽谷の地で仙境にふさわしい仙龍寺の景観です。
仙龍寺 『伊予国地理図誌

明治7年(1874)『伊予国地理図誌』
ここにも仙龍寺の記述と絵があります。仙龍寺図には、渓谷に掛かる橋や懸造の建物、そして反対側には清滝が描かれ、次のように記されています。
馬立村
仙龍寺 真言宗 法道仙人ノ開基ニシテ嵯峨天皇御代弘仁五年空海ノ再興ナリ 険崖二傍テ結構セル楼閣ノ壮観管ド又比類無シ 本堂十四間六間 客殿十二問四間 境域山ヲ帯デ南北五町東西九十間
清滝 仙龍寺ノ境域ニ在リ
明治末の仙龍寺について、三好廣大「四国霊場案内記」(明治44年(1911年)を見てみましょう。この小冊子は、毎年5万部以上印刷されて四国巡拝する人に配布されたもので、四国土産として知人に四国巡拝を推奨してもらうために作成された案内記だったようです。その中に仙龍寺は次のように紹介されています。

 奥の院へ五十八丁、登りが三十二丁で、頂上を三角寺峠と云ふて瀬戸内海は一視線内に映じ、山には立木もなく一帯の草原で気も晴々します、峠から二十六丁の下りで、此の間の道筋は石を畳み上八丁下ると不動堂のある所に宿屋あり。こヽまで打戻りですから荷物は預け行くもよろしいが、多くの人は荷を寺まで持て行きて通夜することとする。寺には毎夜護摩修行があり、本尊の御開帳があり、住職の御説法があります。寺には風呂の設けもありて参詣者に入浴を得させます
  奥の院 金光山 仙龍寺(同郡新立村)
本尊は大師四十二歳の御時、厄除祈願を込めさせられ、一刀三祀の御自作を安置します。昔高野山は女人禁制でしたが、当寺では女人の高野山として、女人の参詣が自由に出来ました故、今に女人成仏の霊場と伝へて、日々数多の参詣通夜する人があります。御本尊を作大師と申されまして、悪贔退散厄除の秘符を受くる者が沢山あります。
ここには奥の院道の三角寺峠から見た瀬戸内海の眺望や草原風景の素晴らしさ、石畳道、打戻りの地点の不動堂にも宿屋があったことが記されます。また、打戻りの際に荷物を宿屋に預けず仙龍寺まで持参せよとアドヴァイスしています。
 注目したいのは、毎夜に本尊弘法大師像の御開帳があり、そこで護摩修行が行われること、入浴接待が受けられ宿泊費用は無料であったことなどです。そのため百十年ほど前の明治末になっても仙龍寺で通夜する遍路が多かったことが分かります。
明治10年(1877)に幼少期の村上審月は、祖父に連れられて四国遍路を行っています。その時の様子を後年に「四国遍路(『四国文学』第2巻1号、明治43年(1910)に次のように綴っています。

三角寺の奥の院で非常な優待を受けて、深い谷に臨んだ京の清水の舞台の様な高楼に泊らされたが其晩非常の大風雨で山岳鳴動して寝て居る高楼は地震の様に揺いで恐ろしくて寝られず下の仏殿に通夜をしていた多数の遍路の汚い中へ母等と共に下りて通夜をしたことがあつた。

三角寺奥の院にある高楼に通されたのですが、晩に大風雨となり、地震のように揺らぐ高楼で寝られません。そこで多数の遍路と仏殿で通夜したことが記されています。高楼の宿泊部屋とは別に、階下の仏殿で通夜する遍路が数多くいたことが分かります。仏殿は無料の宿泊所である通夜堂として遍路に開放され、いろいろな遍路がいたことがうかがえます。

 番外札所の仙龍寺であったが多くの参拝者を集めている理由をまとめておきます。
①本尊弘法大師像が大師自らが厄除祈願を込めて自作されたものであること
②毎日夜に本尊を開帳し、参詣者に仙龍寺での通夜を許したこと、
③通夜施設として、大きな宿坊を準備し無料で提供したことや、風呂の接待も行ったこと
④「女人の高野山」として女人の参詣ができたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「三角寺と仙龍寺の歴史 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年」      

四国霊場の三角寺と、その奥院とされる仙龍寺建立の母胎になったのは、熊野行者であることは以前に次のようにお話ししました。
①阿波に入った熊野行者は吉野川を遡り、旧新宮村の熊野神社を拠点とする。
②さらに吉野川支流の銅山川を遡り、仙龍寺を行場として開く
③そして、三角寺を拠点に妻鳥(めんどり)修験者集団を形成し、瀬戸内海側に進出していく。
これらの動きを史料で補強しておきます。

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熊野神社(旧新宮村)

①の旧新宮村の熊野神社は「四国第一大霊験権現」とされ、四国の熊野信仰第一の霊場として栄えました。旧新宮村の熊野神社は縁起によると、大同2年(807)に紀伊国新宮から勧請されたと伝えます。熊野信仰拡大の拠点と考えられる神社です。
新宮の熊野神宮に残された棟札を見ておきましょう。
永禄5年(1562) 「遷宮阿閣梨三角寺住持勢恵」、
慶長15年(1610)「大阿閣梨三角寺□処」、
元禄2年(1689) 「遷宮導師三角寺阿閣梨倉典」
宝永7年(1710) 「遷宮導師三角寺権大僧都法印盛弘」
延享3年(1746) 「遷宮導師三角寺大阿閣梨瑞真」
天明2年(1782) 「遷宮導師三角寺現住弘弁」
天明6年(1786)「遷宮導師三角寺現主一如」
文化14年(1817)「三角寺当職一如」
文政7年(1824)「遷宮導師三角寺上人重如」
嘉永2年(1849)「遷宮師三角寺法印権大僧都円心」
熊野神社の棟札には、遷宮導師として三角寺住持の名前があります。
  遷宮とは、新築や修理の際に一時的に神社の本殿などご神体を移すことで、その導師をつとめるのは最高責任者です。ここからは神仏分離以前には、新宮熊野神社は三角寺の社僧の管理下に置かれ、社僧(修験者)達によって運営されていたことが分かります。近世の旧新宮村や阿波西部の三好郡の社寺も山川村も同じような状況にあったことが推測できます。これは、多度津の道隆寺が多度津から荘内半島、そして塩飽に至る寺社の遷宮導師を務め、備讃瀬戸エリアを自己の影響下に置いていたのと同じような光景です。三角寺は「四国第一大霊験権現」である新宮の熊野神社を管理下に置くことで、広い宗教的なネットワークや信者を持っていたことがうかがえます。
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熊野神社(旧新宮村)
『熊野那智大社文書』の「潮崎稜威主文書」永正2年(1505)3月20日には、次のように記されています。
「熊野先達は妻鳥三角寺、法花寺、檀那は地下一族」

「米良文書」にも「熊野先達には妻鳥三角寺、法花寺」と記されています。ここからは、三角寺は熊野信仰の先達をつとめたいたことが分かります。

1三角寺 文殊菩薩 胎内名

近年、三角寺の文殊菩薩騎獅子像の胎内から墨書が発見されたことは以前にお話ししました。
この像は、文禄2(1593)年に三角寺住僧の乗慶が施主となり、薩摩出身の仏師が制作したものです。研究者が注目するのは、この墨書の中に「四国辺路之供養」の文字があることです。ここからは、かつて熊野先達として活動していた妻鳥三角寺の修験者たちが16世紀後半には「四国辺路」を行っていたことが分かります。かつての熊野先達を務めていた修験者が、巡礼先を「四国辺路」へと換えながら山岳修行を続けている姿が見えてきます。そのような修験者たちが三角寺周辺には数多くいて、彼らが旧新宮村から山川村周辺の熊野信仰エリアを影響下に置いていたということになります。

今日の本題に入ります。
三角寺の由来となった「三角」とは、何を表しているのでしょうか?
 三角寺の縁起は、次のように伝えます。

弘法大師が巡錫、本尊十一面観音と不動明王像を彫刻し、更に境内に三角の護摩壇を築き、21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して降伏護摩の秘法を修行。三角の池はその遺跡で、寺号を三角寺と称するようになった

 修験道や密教では、護摩祈祷を行います。普通は四角に護摩壇は組まれます。これは「国家の安泰と万民の福祉を祈念」するためのものです。ところが、弘法大師はここでは「三角の護摩壇」を築いています。これは、呪誼や降伏など、悪いものを鎮め、封じ込めるときのもので、特別な護摩壇です。

三角寺 三角護摩壇
護摩壇各種
何を封じ込めるために空海は三角護摩壇を築いたのでしょうか。『四国偏礼霊場記』の三角寺の挿絵を見てみましょう。

三角寺 四国遍礼霊場記
『四国偏礼霊場記』の三角寺
 
三角寺背後に竜玉山(龍王山)があります。龍王山と言えば「善女龍王」の龍の住む山です。龍はすなわち水神です。水源神として龍王がまつられ、その本地を十一面観音とします。龍王は荒れやすく「取扱注意」の神なので、これを鎮めるための三角の護摩壇が作られた。その結果、水を与え、農耕を護る水神(龍)となったという信仰がもともとあったのでしょう。これが弘法大師と結びついて、この縁起ができたと研究者は考えています。
 そうすると三角寺の縁起には、弘法大師が悪い龍を退治・降参させて、農民のために水を出しましょうと約束させたという処が脱落していることになります。それを補って考えるべきだと研究者は言うのです。
三角寺 三角護摩壇2
三角寺 三角池の碑文

 『四国偏礼霊場記』の挿絵をもう一度見てみましょう。本堂の前に「三角嶋」があります。これが三角の護摩壇に由来するようです。しかし、現在はここには龍王ではなくて、弁天さんを祀られています。現在の三角寺の弁天さんからは、龍(水神)につながるものは見えて来ません。
1三角寺の護摩壇跡
三角池に祀られた弁天(三角寺)

  それでは龍神信仰は、どこに行ったのでしょうか?
龍王山の向こう側にあるのが仙龍寺になります。

仙龍寺 三角寺奥の院
仙龍寺
遍路記でもっとも古い澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)で、三角寺と仙龍寺を見ておきましょう。
此三角寺ハ与州第一ノ大坂大難所ナリ。三十余町上り漸行至ル。
三角寺 本堂東向、本尊十一面観音。前庭ノ紅葉無類ノ名木也じ寺主ハ四十斗ノイ曽也。是ヨリ奥院ヘハ大山ヲ越テ行事五十町ナリ。堂ノ前ヲ通テ坂ヲ上ル。辺路修行者ノ中ニモ此奥院へ参詣スルハ希也卜云ガ、誠二人ノ可通道ニテハ無シ。只所々二草結ビノ在ヲ道ノ知ベニシテ山坂ヲタドリ上ル。峠二至テ又深谷ノ底エツルベ下二下、小石マチリノ赤地。鳥モカケリ難キ巌石ノ間ヨリ枯木トモ生出タルハ、桂景二於テハ中々難述筆舌。木ノ枝二取付テ下ル事二十余町ニシテ谷底ニ至ル。扱、奥院ハ渓水ノ流タル石上ニ二間四面ノ御影堂東向二在り。大師十八歳ノ時此山デト踏分ケサセ玉テ、寺像ヲ彫刻シ玉ヒテ安置シ玉フト也。又北ノ方二岩ノ洞二鎮守権現ノホコラ在。又堂ノ内陣二御所持ノ鈴在り、同硯有り、皆宝物也。寺モ巌上ニカケ作り也。乗念卜云本結切ノ禅門住持ス。昔ヨリケ様ノ無知無能ノ道心者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハー日モ堪忍不成卜也。其夜爰に二宿ス。以上、伊予象国分十六ケ所ノ札成就ス。
  意訳変換しておくと
三角寺は伊予第一の長い坂が続く大難所である。ゆっくりと30町ほど登っていくと到着する。
三角寺の本堂は東向で、本尊は十一面観音。前庭の紅葉は無類の名木である。寺主は四十歳ほどの僧侶である。ここから奥院は大山を越えて50町である。堂の前を通って。坂を上がって行く。辺路修行者の中でも、奥院へ参詣する者はあまりいないという。そのためか人が通るような道ではない。ただ所々に草結びの印があり、これを道しるべの代わりとして山坂をたどり登る。峠からは今度は深し谷底へ釣瓶落としのように下って行く。小石混じりの赤土の道、鳥も留まらないような巌石の間から枯木が生出ている様は桂景ではあるが、下って行くには難渋である。
 木の枝に取付て下っていくこと20余町で谷底に至る。奥院は渓流の石上二間四面の御影堂が東向に建っている。こここには弘法大師が18歳の時に、やって来て自像を彫刻したものが安置されている。また北方の岩の洞には、鎮守権現の祠がある。又堂の内陣には、弘法大師が所持した鈴や硯もあり、すべて宝物となっている。
 寺は、巌上に建つ懸崖造りである。ここには乗念という本結切の禅門僧が住持している。昔ながらの無知無能の道心者のようで、「六字ノ念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は、堪忍ならず」と、言って憚らず、阿弥陀念仏信仰に敵意をむき出しにしている。その夜は、ここに宿泊した。以上で伊予国分十六ケ所の札所を成就した。

ここからは次のようなことが分かります。
①17世紀中頃には、三角寺から仙龍寺への参道を歩く「辺路者」は少なく、道は荒れていた。
②弘法大師の自像・鈴・硯などが安置され、早い時期から弘法大師伝説が伝わっていたこと。
③御影堂は「石上の二間四面」で、伽藍は小規模なものであったこと
④住持は禅宗僧侶が一人であり、念仏信仰に敵意を持っていたこと
⑤伽藍全体は小さく、住持も一人で、この時期の仙龍寺は衰退していたこと
ちなみに作者の澄禅は、高野山の念仏聖で各札所では念仏を唱えていたことは以前にお話ししました。「念仏禁止令」を広言する仙龍寺の禅宗僧侶を苦々しく思っていたことがうかがえます。
三角寺奥院 仙龍寺 松浦武四郎
仙龍寺 

 ここからは奥院が辺路修行の霊場で、修行者は仙人堂で滝行や窟寵りをしていたことが分かります。そして、仙龍寺には弘法大師伝説が早くから伝えられていました。そして仙龍寺の経営者達は、最初に見たように熊野行者であった妻鳥修験者たちです。彼らは時代が下ると、仙龍寺までは遠く険しいので、平石山の嶺を越えてくる遍路の便を図って、山麓の弥勒菩薩をまつる末寺の慈尊院へ本尊十一面観音を下ろします。これが三角寺へと発展していくようです。
 こうして生まれた三角寺には最初は、「三角嶋」が作られ空海による龍王封じ込め伝説が語られたのかも知れません。しかし、もともとは仙龍寺を舞台とした伝説のために三角寺では根付かなかったようです。三角嶋は、いまでは善女龍王にかわって弁天さま祀られていることは前述したとおりです。
三角寺 奥の院仙龍寺
仙龍寺 
一方、行場の方も仙人堂を仙龍寺として独立します。
そして、谷川の岩壁の上に舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化します。仙龍寺の大師は、今は作大師として米作の神となっているのは、水源信仰の「変化形」のひとつと研究者は考えています。

以上をまとめておくと
①吉野川の支流銅山川一帯には、古くから熊野行者が入り込み新宮の熊野神社を拠点に活動を展開した。
②銅山川上流の行場に開かれて仙龍寺には水神信仰があり、それが弘法大師伝説を通じて龍神信仰と結びついた。
③そのため仙龍寺には、弘法大師が三角の護摩壇で龍神を封じ込めたという言い伝えが生まれた。
④その後、本寺が仙龍寺から里に下ろされ、三角寺と名付けられたが、龍神を封じ込めた三角護摩壇という言い伝えは、伝わらなかった。
⑤そのため現在の三角寺には「三角嶋」はあるが、そこには龍神でなく弁天が祀られている。
参考文献
三角寺調査報告書 愛媛県教育委員会2022年

 
三角寺(65番)さんかくじ | マイカーお遍路

 四国八十八ヶ所霊場第六十五番札所の三角寺(四国中央市)の文殊菩薩騎獅像には、胎内に「四国辺路」の言葉があるようです。この像は文禄二年(1592)造立なので、早い時期の四国辺路の字句になります。この像が造られた時期の三角寺や四国辺路を研究者は、どのように考えているのでしょうか見ていくことにします。テキストは「武田和昭  愛媛三角寺蔵文殊菩薩蔵胎内銘  四国辺路の形成過程所収」  です
1三角寺 文殊菩薩 胎内名

文殊菩薩像について、研究者は次のように報告します。
本像は獅子に来る文殊菩薩像、いわゆる騎獅文殊像で、像高八〇・センチメートル、獅子の高さ六八・二センチメートル、体長八八・四センチメートルである。まず像容をみると、頭部に宝冠(欠失)を戴き、右手を前に出し、何か(剣か)を握るようにし、左手も前に出して同じく何か(経巻か)を執るように造られ、右足を上に結珈践坐する。

三角寺 文殊菩薩騎獅子像
文殊菩薩騎像(三角寺)
上半身には条錦を着け、下半身には裳をまとうが、条錦を右肩に懸けており、着衣法は通例とは異なる

三角寺 文殊菩薩坐像の獅子像
騎獅文殊像の獅子像(三角寺)
獅子は四肢を伸ばし立つ。口を開け、大きく両日を見開き、頭部にはたて髪が表されている。文殊苦薩像の構造をみると、体部は前後に矧ぎ合わせ、これに両層から先を矧ぎつけるが、両手とも肘の部分で矧ぐ。頭部は差し首とし、面部の前面部を別材で矧ぎつけ限や日を彫る。膝前は横に一材としている。獅子は胴部、前脚部、後脚部、頭部の四つに大きく分けられる。
研究者は、文殊菩薩像・獅子ともに造形的にはあまりすぐれたものとはいえず、着衣法にも問題点があることなどから地元で造られた像とします。そして、専門の仏師の手によるものではなく、修験者などによって彫られたものと考えているようです。しかし、お宝は胎内から見つかりました。

三角寺 文殊菩薩騎 体内jpg
騎獅文殊像の胎内銘文

次に胎内から見つかった銘文を見てみましょう。
                              
丈殊像の胸部内側と膝部の底部に、次のような墨書を研究者は見つけます。
蓮花木三阿已巳さ□□名主城大夫
かすがい十六妻鳥の下彦―郎子の年
             同二親タメ
四国辺路之供養二如此山里諸旦那那勧進 殊辺路衆勤め候
(梵字)南無大聖文殊師利菩薩施主本願三角寺住仙乗慶(花押)    四十六歳申年
先師勢恵法印 道香妙法二親タメ也 此佐字始正月十六日来九月一日成就也。仏子者生国九州薩摩意乗院 其以後四国与州宇摩之郡東口法花寺
おの本                                佐意(花押)
  意訳変換しておくと
この像が造られたのは四国辺路の供養のためである。造立に当たっては、この里山(三角寺周辺地域?)の諸旦那が勧進した、特に辺路衆が関与した。施主本願は、 三角寺の僧である乗慶(四十六歳)で、先師の勢恵法印、道香妙法二親のためであり、正月に始めて9月1日に成就した。仏師は薩摩の意乗院の出身で、その後に伊予国宇摩郡東口の法花寺に住した佐意である。

ここからは次のようなことが分かります。
①この騎獅文殊像が四国辺路供養のために作れたこと
②寄進者は三角寺周辺の檀那たちで、辺路衆(修験者)が勧進活動を
行った。
③施主は三角寺住持の乗慶で、その師である勢恵と道香に奉納するものであった。
④仏師は最初は薩摩の意乗院で、その後は法花寺の佐意が引き継いだ。
③の「勢恵」は、新宮村の熊野神社の永禄5年(1562)の棟札(『新宮村誌』歴史・行政編1998年)に「遷宮阿閣梨三角寺住持勢恵修之」とみえます。ここからは、三角寺住持が新宮熊野神社の遷宮の導師を勤めていたことが分かります。銅山川流域では熊野信仰と三角寺が深い関わりを持っていたことを研究者は指摘します。

仏師の佐意が住持を勤めた法花寺は、現在はないようです。
しかし、三角寺の東麓ある浄土真宗東本願寺の西向山法花院正善寺の縁起には、次のようなことが記されています。

当寺開来之儀は、日向国延岡領、右近殿御内、山川刑部大輔五郎左工門国秀と申す者、永禄年中当地へ罷越し候節、同人檀檀寺の永蔵坊と中す者、秘仏を負い四州霊場順拝の発心にて、五郎左エ門と同道にて、自然当地に住居と相成り候て、右永蔵坊儀始めて当寺を取立て申候儀に御座候申し伝へ云々。

これを先ほどの胎内墨書と比べて見ると、次の点がよく似ていることに気づきます。
①仏師の佐意の出身地が「薩摩と日向」、建立した寺院が「法花院と法花寺」のちがいはありますが、
②三角寺に近いことや、四国辺路のことが書かれていて内容が似通っている
三角寺 文殊菩薩騎 体内墨書jpg

胎内銘の残り部分を見ておきましょう
阿巳代官六介  同寿延御取持日那     丑年四十一 如房
同奥院慶祐住持                同お宮六歳子年
同弟子中納・同少納吾五郎大夫
本願三角寺住呂    為現善安穏後生善処也
文禄二季 九月一日仏子佐意   六十二歳辰之年
ここには、奥院の住持慶祐や、その下には弟子の中納言・少納言が登場します。ここに出てくる奥院というのは、仙龍寺のことです。
以前にもお話したように、この仙龍寺は本来の行場に近く、古くから弘法人師の信仰がみられる所です。承応二年(1653)の澄禅『四国辺路日記』のなかにも詳しく記されていて、札所寺院ではありませんでしたが、四国辺路にとっては特に重要な寺であったようです。そのためか澄禅もわざわざここを訪れています。そして、ここでは念仏を唱えることはまかりならんと、山伏の住持から威圧されたことを記しています。ここからは澄禅が訪れた頃には、仙龍寺では他の霊場に先駆けて、「脱念仏運動」が展開していた気配が感じられます。

四国別格13番 仙龍寺

 仙龍寺の本尊である弘法人師像は、南北朝時代~室町時代にまで迎るものとされ、弘法大師が自ら彫刻したと伝えるにふさわしい像と研究者は指摘します。また弟子の名前として出てくる中納言・少納言という呼称も、いかにも山伏(修験者)らしい雰囲気です。仙龍寺が里の妻鳥修験集団の拠点であったことがうかがえます。
最後に文禄二年(1593)九月一日、仏子(師)佐意、六十三歳とあります。ここからは、この像が文禄二年の戦国時代末期に作られたことが分かります。秀吉が天下を統一し、朝鮮半島に兵を送り込んでいた時代になります。
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「四国辺路」という言葉が最初に出てくるのは鎌倉時代になってからです。

先例としては弘安年間(1278~)の醍醐寺文書や正応四年(1291)神奈川県八菅神社の碑伝があります。
室町時代後期になると次のような例が出てきます。
永正十年(1513) 讃岐国分寺の本尊落書
大永五年(1525) 伊予浄土寺の本尊厨子落書き
永禄十年(1567) 伊予石手寺の落書き
天正十九年(1591)土佐佐久礼の辺路成就碑
以上のように中世にまで遡れる「四国辺路」の例は、多くはありません。三角寺の文殊菩薩騎獅像は、これらに続くものになるようです。

 澄禅『四国辺路日記』の三角寺の項には、文殊菩薩騎獅像について何も記されていません。
しかし、澄禅より三十数年後の元禄二年(1689)刊の真念『四国遍礼霊場記」には
「もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢、竜王等種々の宮堂相並ぶときこへたり」

とあるので、かつては三角寺に文殊堂があったようです。この像は、その文殊堂に安置されていたことになります。では、どうして文殊菩薩は祀られたのかを研究者は考えます。今のところは、それを解く鍵は見つかっていないようです。ただ、この像が造られた16世紀後半は、秀吉の天下から家康の天下へとおおきく世の中が変わっていく時代です。そのようななかで、四国辺路もプロが行う修行的な辺路から、アマチュアが参加する遍路への転換期でした。「説経苅萱」「高野の巻」のように、四国辺路に関する縁起が作られ、功徳が説かれ始めた頃です。このような中での新たな取り組みの一環だったのではないかと研究者は考えているようです。
Ο χρήστης 奈良国立博物館 Nara National Museum, Japan στο Twitter:  "【忍性展】重要文化財「文殊菩薩騎獅像(般若寺蔵)」般若寺のご本尊に期間限定でお出ましいただきました!後醍醐天皇の護持僧、文観の発願による文殊像です。展示は8/11まで。  #鎌倉 #奈良 #仏像 ...
「文殊菩薩騎獅像(般若寺蔵)」重要文化財
いままで信仰してきた神や仏に変わって、新しい時代の神仏の登場が待ち望まれるようになります。それは、讃岐の金比羅(琴平)を、とりまく状況と変わらなかったのかも知れません。新たな「流行(はやり)神」の創出という庶民の期待に応じて、宥雅は金毘羅神を創造しました。それは当時の四国辺路をとりまく僧侶や修験者(山伏)の共通課題だったのかもしれません。
 世の中が安定してくる元禄時代になると、庶民が四国遍路にやって来るようになえいます。三角寺の文殊菩薩騎獅像がつくられるのは、その前史に位置づけられるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 武田和昭  愛媛三角寺蔵文殊菩薩蔵胎内銘  四国辺路の形成過程

  小豆島霊場の真言宗のお寺では、今でも日常的に護摩祈祷を行っています。そこで用いられるのは四角い護摩壇です。ところが三角の護摩壇もあったようです。これは特別なもので、悪霊や邪悪なものを鎮めてしまう時に用いられたようです。その三角の護摩壇が寺の名前になっているのが三角寺のようです。どんな悪霊を鎮めたのでしょうか?
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四国偏礼霊場記』は三角寺の歴史について、次のように書いています。
此寺本尊十一面観音、長六尺二寸、大師の御作、甲子の年に当て開帳す。今弥勒堂を存ず。慈尊院の名思ひあはす。もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王等、種々の宮堂相並ぶときこえたり。社の前、池あり。嶋に数囲の老杉あり。大師の時、此池より龍王出て、大師御覧ぜしとなん。庚嶺はもろこしの梅の名所也。此所も本、梅おほかりしによつて此名を得るにや。

意訳変換しておくと
①この寺の本尊は十一面観音で、大きさは長六尺二寸。大師の御作で、60年毎の甲子の年に開帳する。
②今は弥勒堂があり、これにちなんで慈尊院と云うのだろうと思い当たる。
③もともとは阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王等、種々の宮堂が並んでいたという。
④社の前に池があり、その中の嶋に大きな老杉がある。弘法大師も、この池から龍王が出て行くのを見たという。
⑤庚嶺は、もろこしの梅の名所となっている。ここももともと、梅おほかりしによつて此名を得るにや。

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ここからは次のような事が分かります。
①②については、弥勒菩薩は慈悲の仏だといわれているので「慈尊」は弥勒のことになります。それで慈尊院という名前がおもい合わされると、『四国偏礼霊場記』は書いているようです。この「お寺のもともとの本尊は弥勒菩薩だったのが、後から十一面観音を移して本尊としたと研究者は考えているようです。
③には、阿弥陀堂がありますので、ここが熊野系の念仏聖の拠点だったようです。周辺に真言念仏の信者達がいたことがうかがえます。
④社前の池で弘法大師は三角護摩壇で祈祷を行い、龍王を追い出した。ここから三角寺と称したのだと解釈しています。
三角形の護摩壇の跡 三角の池 - 四国中央市、三角寺の写真 - トリップアドバイザー
雨沢龍王

 ③に挙げられる緒堂の中の「雨沢龍王」を見ておきましょう。
これは龍王山の龍王です。これを調伏するために三角の護摩壇がありました。「社の前に池あり」の「社」とは、雨沢龍王の社伝を指します。その前に池があったようです。今は、龍王ではなくて、島の中に弁天さんが祀られています。かつては善女龍王を祀っていた社が、庶民の信仰変化を受けて弁天さんに取って代わられているのと同じ現象です。今は龍王は、奥の院の仙龍寺でまつっているようです。
③には「大師御覧ぜしとなん」と書いていますが、由来には
「龍を追い出した、あるいは調伏して水を出すことを誓わせた」

とされています。つまり、弘法大師がここで龍王を調伏した。それがこの池に設けられた三角護摩壇だということになります。しかし、三角寺の縁起には、悪い龍を弘法大師が追い詰めたら降参して、農民のために水を出しましょうと約束したということが脱落しています。

三角寺(四国第六十五番)の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|13万件以上の神社仏閣情報掲載
三角形の護摩壇跡 今は池になっています

 この寺の起源は龍王の水源信仰にあるようです。
龍はすなわち水神です。水源神として雨沢龍王がまつられ、その本地を十一面観音としたけれども、龍王は荒れやすい神なので、これを鎮めるための三角護摩が焚かれて、その結果、水を与え、農耕を護る水神となったという信仰がもとになって、縁起ができているようです。旱魃に苦しむときには里の人々は、三角寺の僧侶(修験者)に護摩祈祷を依頼したのでしょう。
四国中央巡り7】オススメ!幽玄の世界『奥の院 仙龍寺』 : 【エヒメン】愛媛県男子の諸々
奥の院 仙龍寺

  それでは、その水源はどこにあるのでしょうか。
三角寺周辺には、それらしきところが見当たりません。
それは龍王山の反対側の山向こうの谷にあります。そこには龍がいるということから、現在は仙龍寺という名前になっています。これが三角寺の奥の院でした。仙龍寺は何故か、四国霊場全体の総奥の院とも称しています。
 実は昔の奥の院は、現在の仙龍寺のもっと上にあったようです。旧奥の院跡としておきましょう。これが仙龍寺と三角寺の共通の奥の院になります。そこが水源信仰の聖地だったようで、その水源神として祀られていたのが雨沢龍王です。その本地仏は十一面観音でした。雨沢龍王は龍王山の龍王になります。龍王は荒れやすい神です。それを鎮めるための護摩が焚かれて、いつしかそれが水を与え、農耕を護る水神へと姿を変え今に伝わる縁起ができたと研究者は考えているようです。 四国・愛媛】龍が棲む山 仙龍寺 | 備忘録

今度は三角寺の奥の院仙龍寺の歴史を見てみましょう
①里人は里から望める龍王山を龍の住む霊山として崇めた
②そこに弘法大師(熊野系修験者)がやってきて龍王を調伏した
③そして旧奥の院に、水源神として雨沢龍王やその本地物・十一面観音が祀られた。
④旧奥の院の下流の行場には、多くの行者が滝行や窟寵りをするために訪れるようになった
⑤そこに仙人堂を建てられ、仙龍寺として独立し、後には舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化した
⑥仙龍寺の大師は「作大師」として米作の神とされるのは、旧奥社以来の水源信仰を受けているから。
 この仙龍寺や宿坊の運営に関わったのが地元の「めんどり先達」と呼ばれる熊野先達たちでした。彼らは旦那を熊野詣でに誘引すると同時に、仙龍寺やその宿坊の「広報活動」を展開したようです。仙龍寺の信者達が中国地方や九州からもやって来ていたのは、そのような背景があるからだと私は考えています。

澄禅の「四国辺路日記」には、65番三角寺の奥之院仙龍寺での出来事を、次のように記します。

昔ヨリケ様ノ(中略)者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハ一日モ堪忍成ラズト也。共夜爰に二宿ス。以上伊予国分二十六ケ所ノ札成就ス。

意訳変換すると
昔から住み着いた住持が言うには、六字の念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は堪忍できないという。その夜は、ここに泊まる。以上で伊予国二十六ヶ寺が成就した。

ここからは、次のようなことが分かります。
①仙龍寺の住持が、念仏信仰者に対して激しい嫌悪感を示していること。
②それに対して、澄禅は厳しく批判していること。ここから彼自身は念仏信者であったこと
③澄禅以外にも遍路の中には「南無阿弥陀仏」を唱える者が多くいたこと
④しかし、17世紀後半の仙龍寺では念仏排斥運動が起こっていたこと
⑤一方、三角寺には阿弥陀堂が建立され、念仏信仰が保持されていたこと
この時期に修験者たちの間には、念仏排斥運動が起きていたのかもしれません。
1三角寺~仙龍寺 遍路地図

三角寺は、いつ、どのように姿を見せたのでしょうか
中世の辺路修行者は、行場で修行するために霊場を廻っていました。しかし、近世の遍路はアマチュアで辺路修行は行わず、納経と朱印が目的化します。彼らにとって険しく不便な山の上の札所に行く必要はないのです。そのため札所寺院は、遍路の便を図って里に下りてくるようになります。
 仙龍寺が札所では、平石山を超して遍路はやって来なければなりません。仙龍寺には、瀬戸内側の平石山の北麓に、弥勒菩薩を本尊とする末寺の慈尊院がありました。ここを新しい札所にすることにします。こうして、雨沢龍王の本地仏であった十一面観音は旧奥の院から慈尊院に下ろされて本尊とします。そして、龍王を調伏するための三角の護摩壇が作られたり、雨沢龍王などのお宮やお堂が並ぶようになります。こうして、今までの慈尊院が三角寺と呼ばれるようになります。
つまり、仙龍寺も三角寺も旧奥の院から「里下り」したお寺さんなのです。ところが、後に仙龍寺と三角寺が仲たがいをして、現在では関係が断ち切られているようです。その原因は、三角寺が弘法大師信仰に転換してから起きたようです。それはまた別の機会にして・・。
65番札所 三角寺遍路トレッキング - さぬき 里山 自然探訪&トレッキング

三角寺に残された古い仏像を見てみましょう
①本尊は平安時代前期、十世紀前半の十一面観音立像で、四国内でも屈指の古像
②毘沙門天立像は足下に地天が置かれた兜跛毘沙門で、平安時代後期十一世紀の制作
③不動明王も平安時代末期12世紀の古像
④本堂には平安時代後期11世紀の聖観音菩薩立像
⑤別の御堂には、朽ち果てた尊名不明の大きな像(平安時代後期以前)
 ここには、平安時代後期の仏達がそろっています。
以上からある研究者は三角寺を、次のように高く評価します
「四国霊場の中でも、屈指の古い歴史を誇り、特筆すべき重要な寺院」

現在の本尊とされている①の「十世紀前半の十一面観音立像」ですから、同じ時期には三角寺も現在地に建立されたものと私は考えていました。ところがそうともいえないことは、先述したとおりです。近世になって三角寺が旧奥の院から里下りしてきたときに、移されたもののようです。残念ですが三角寺には古代・中世の史料がないので、詳しい寺歴が分かりません。その姿が見えてくるのは16世紀末期になってからです。

三角寺 本堂 - 四国中央市、三角寺の写真 - トリップアドバイザー

 本堂内に安置されている騎獅文殊像には胎内銘が記されます。それを要約すると、次のようになります。
①文殊像の造立には四国辺路の供養のため、里山(三角寺周辺)の諸旦那や辺路衆が参加した
②施主は三角寺の乗慶、仏師は薩摩出身で、法花寺に住した佐意
③三角寺奥院(仙龍寺)の慶祐と、その弟子も助力して
④文禄二年(1593)に造立された
 これに関連して三角寺の麓にある東本願寺末の正善寺の縁起は、次のように伝えます
⑤日向国出身の山川刑部大輔五郎左工門国秀が、永禄年間(1558~70)中に当地に来た。
⑥そして、この土地の永蔵坊とともにふたりで秘仏を背負い四国霊場を巡拝した
⑦やがてこの地に住み着いき、水蔵坊が正善寺を開いた
ここに登場する五郎左工門国秀や永蔵坊は、廻国聖か山伏のような修行者だと研究者は考えているようです。二人は秘仏を背負って「四国辺路修行」を行っています。これがすぐに②の胎内銘の法花寺の仏師佐意と直結するものではないかもしれません。
しかし、次のような事は分かります。
①この文殊苦薩像は四国辺路衆が関与したこと
②三角寺奥院(仙龍寺)には、中納言や少納言と名乗る僧がいたこと
③仏師が九州薩摩から移り住んだ山伏か廻国聖とみられる人物であったこと
ここからは戦国時代頃の三角寺も、廻国性の強い修験者や聖達を受けいれやすい雰囲気に包まれた寺院であったようです。
その後、寛文十三(1673)に本堂(観青堂)が建立されます。
その棟札からは、次のような事が分かります。
①発起人は山伏の「滝宮宝性院先住権大僧都法印大越家宥栄」と「奥之院の道正」です。
②本願は「滝宮宝性院権大僧都宥園と奥之院の道珍」
③勧進は「四国万人講信濃国の宗清」
④導師は地蔵院(萩原寺)の真尊上人
 このうちで①の「大越家」は当山派で大峰入峰三十六度の僧に与えられる位階で、出世法印に次ぐ2番目の高い位になるようです。宥栄は当山派に属する修験者たちの指導者であり、本山の醍醐寺や吉野の寺寺へ足繁く通っていたことが分かります。江戸時代初期の三角寺や奥の院には、それ以前にも増して山伏や勧進聖のような人物が数多くいたようです。
 気になるのは③の「四国万人講信濃国の宗清」です。四国万人講とは、どんな組織で、活動内容はどんなことをしていたのでしょうか。四国辺路をする人々に勧進を行っていたのかもしれません。これらの人物は、三角寺住持の支配下で勧進など、さまざまな宗教活動していたのでしょう。それが本堂再建(創建?)の原動力になっていたはずです。そして、ここには藩主の寄進や保護はみられません。

④の導師を勤めているのが萩原寺(観音寺市)の真尊上人であることも抑えておきたい点です。
萩原寺は、雲辺寺の本寺にも当たります。ここからは、三角寺は萩原寺を通じて雲辺寺とも深いつながりがあったことがうかがえます。高野山の真言密教系の僧侶のつながりがあるようです。もちろん彼らは弘法大師信仰の持ち主で、その信仰拡大のために尽力する立場の人たちです。
次いで貞享四(1687)年には、弥勒堂が建されます。
これは、四国における弘法大師入定信仰の拡がりを示すものだと研究者は考えているようです。弘法大師入定信仰と「同行二人」信仰は、深いつながりがあることは以前にお話ししました。
このように江戸時代初期前後の三角寺は「弘法大師信仰+念仏信仰+修験道」が混ざり合った宗教空間であったようです。
現在の四国霊場の形成史を研究する人たちは、霊場の起源を熊野信仰に求めようとしています。
霊場の多くが熊野権現を鎮守としていることから、霊場の開山は熊野行者によって行われたと考えるのです。その後に、若き日の空海のような沙門たちや、行者達がやってきて、行場として賑わい、そこに庵ができてお寺へと成長して行くという物語になります。
 その寺院は、ときどきの流行の仏教信仰に刻印されます。高野系の念仏僧によって、阿弥陀信仰の拠点になったり、弘法大師信仰が高まるとそれを受けいれたり、同時に弥勒信仰を受けいれたりしていきます。そのため霊場に伝わる仏教思想は重層的です。いろいろな痕跡を見せてくれます。三角寺も、雨乞い信仰=龍神信仰、熊野信仰、阿弥陀信仰、弘法大師信仰、弥勒信仰などの痕跡がお堂や残された仏像から見えてきます。

三角寺に残る熊野信仰の痕跡を見てみましょう
熊野に残る「熊野那智人社文書」には、次のような伊予の旦那売券があります。
永代うり渡□旦那之事芋
合八貫九百文
右彼旦那ハいせの国高野之宮成寺円弟引、
同いよのめんとり先達 
同法華寺、何も地下一族ニ 依有用々
永代八貫九百文二廓之坊へうり渡申処実正也(後略)
永正二年三月二十日        山城
廓坊                      助能(花押)
「伊与国もれ分先達之事」
一、めんとり先達三角寺法花寺の坊
一後略)
意訳変換しておくと
熊野先達の旦那権利について、八貫九百文で永代売り渡すことについて
伊勢国高野の宮成寺円弟が保持していた伊予の旦那権を、伊予のめんとり(妻鳥)先達の三ヶ寺と法華寺に永代譲渡する。以後は、地下(じけ)によって旦那権を管理する
この永代権を八貫九百文で廓之坊へ譲渡する(後略)
ここからは次のような事が分かります。
①永正二年(1505)三月二十日に伊勢の先達から伊予のめんどり先達が伊予の旦那権を購入したこと
②「めんとり先達三角寺法花寺の坊」とあるので、めんとり(妻鳥)先達と総称される中に、三角寺と法花寺も含まれていること
③したがって三角寺や法花寺の寺中に、熊野先達として活動した人物がいたこと。
以上からは、16世紀初頭から戦国時代にかけて、 三角寺周辺の旦那達が、これらの先達に率いられて熊野に参詣していたことがうかがえます。そして本堂に安置される四国辺路供養の文殊菩薩像に銘文にある三角寺と法花寺とは、このニケ寺になると研究者は考えているようです。
  このように三角寺周辺には「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が活発な活動を行っていたことが分かります。

最後に、三角寺周辺の熊野行者はどのようなルートでやって来たのでしょうか。
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新宮の熊野神社(四国中央市)

   伊予の古い勧請事例は大同二年(807)勧請と伝えられる旧新宮村の熊野神社です。東伊予の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの新宮村の熊野神社を拠点に愛媛県内に入ってきたと研究者は考えているようです。その意味で新宮の熊野神社は、宇摩地方の熊野信仰の布教センターの役割を果たしたようです。そのため次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた
四国霊場の三角寺やその奥社の仙龍寺は、熊野行者の行場が里下りしたお寺のようです。 
参考文献
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰

中世には「蟻の熊野詣」と言われるほど、多くの巡礼者が熊野三山(本宮・那智・新宮)に参詣したようです。熊野参詣を隆盛に導いた原動力の一つが、地方(在地)の先達(修験者=山伏=熊野参詣の案内人)や、それを支援する檀那の力があったからだと云われます。その中でも中世の伊予国は、全国的にも先達や檀那数は多い地域とされます。
 今回は、先達と檀那の間に結ばれた師檀契約の願文から熊野信仰について迫った研究を見てみることにします。
テキストは「石野弥栄 中世伊予の熊野信仰について ~地域領主との檀縁関係をめぐって~」です。
まず、最初に中世における熊野信仰の広がりを確認することから始まります。
 熊野信仰は、熊野三所権現の成立した11世紀末以降に盛んになりました。熊野坐神社(本宮)、熊野早玉神社(新宮)に加えて、のちに那智社が成立し、それらが「三位一体化」します。熊野三山は、それぞれが同じ神を祀っていますが、同時にそれらの神が神仏習合化(神仏混淆性)していきます。

1熊野信仰 熊野三尊
 本宮は阿弥陀仏、
 新宮は薬師如来
 那智社は千手観音
を本地とします。そして
①本宮の主祭神の社殿を証誠殿といい、浄土思想の流行と相まって、極楽浄土(西方浄土)を意味するようになりました。
②新宮は東方瑠璃浄土、
③那智は補陀落浄土
とも説明されるようになり、庶民にも受けいれやすく「加工」されていきます。
1熊野信仰 那智神

さらに、仏教でも不浄視されていた女性へも寛容的で、女人禁制の厳しい高野山なとど対照的で、親しみやすい性格だったようです。ただこの点は、後には南北朝末期に高野山側が
「熊野者、他国降臨之神体、男女猥雑之瑞籬也」

と非難、攻撃しているように(「高野山文書」)、熊野信仰は、ややもすれば、品位を欠く点もみられたようです。この点が戦国期から江戸時代にかけて、伊勢信仰、高野山信仰の隆盛にともなって、低調になっていった理由の一つと研究者は考えているようです。
 
熊野三山へ参詣する道(熊野古道)は、紀伊路、伊勢路があり、
紀伊路は大辺路・中辺路・小辺路の3ル━トがありました。中世には主として中辺路が一般的となり、公式ル━トにもなります。熊野参詣道には、多くの王子社(熊野権現の御子神を祀る分社、九十九王子と称せられる)が設けられ、参詣者は道すがらここで奉幣したり、経供養をしたり、法楽の催しをしながら、旅の苦労や愁いを一時なりとも忘れたと云われます。
 熊野参詣は、平安時代、院政期から貴族階級の間に盛んになり、法皇・上皇や女院、院の近臣、女房たちが、難路の苦しみを越えて、大行列で度重なる参詣を行うようになります。四国霊場を歩き通すことが人々に達成感や成就感あたえ、明日に生きていく力を養うことにつながると同時に、そこでの非日常体験や宗教的な霊感が信仰心を高めていきます。同時に、長い参拝はある意味で修行生活で学習の場でもありました。鎌倉時代に入ると、地方の武士たちも「世間を学ぶ」ために貴族たちと同じように、参詣をする者が現れます。そして、熊野詣でを、自分の子どもたちに「通過儀礼」として体験させる者も現れます。こうして 
①平安時代の貴族→ ② 鎌倉時代の武士 ③室町時代の商人 

へと熊野信仰は、広がりと安定した基盤をもつようになります。

幕府が鎌倉に開かれたこともあり、東国武士の間に熊野信仰が広がりを見せます。中部・関東・東北が圧倒的に多く、関西地方は遠くそれに及びません。また、熊野三山関係の社領荘園は、紀伊国や東海地方に多く、四国・九州地方は少ないようです。当然、社領荘園には、熊野の末社が勧請されて、熊野信仰の拠点となっていきます。そのため「熊野神社の末社数=熊野詣で参詣数隆盛」という図式がすぐに考えられますが、どうもそうではないようです。それは熊野詣でが近世の金毘羅詣でと違って、個人参拝ではなかったからです。熊野参拝のシステムは
①参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(修験者)
②熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師
③檀那として御師の経済的支援をする武士
この三者の結びつきで出来上がっていました。
 先達に引率されて熊野にやって来た檀那は、神宮と参拝取次を御師に依頼します。その際に御師との間に師檀関係(檀縁関係)を結び、その名前(個人及び集団中の個々人の名前)や住所を記した名簿(願文)を提出しました。これは神との契約関係で、1回だけでなく一生の通じての契約でした。そのため檀那の名やその在所は、御師の家に大切に文書として保管されていました。
1 熊野信仰 檀那願文

 中世後期になると、檀那を金銭で売買することが一般化します。売券類、譲状、寄進状、借銭状、請取状などの経済関係の文書に見られるようになります。檀那を売買するという行為は、私たちから見ると違和感を覚えます利権として当たり前とされたいたようです。
 伊予国の熊野社と先達寺院を見てみましょう
 先ほども触れましたが中世の伊予国には、ほとんど熊野社領荘園はありません。にもかかわらず伊予は熊野神社が全域に分布しています。それはどうしてなのでしょうか。
  その理由を、先達である修験者(山伏)の活動の多さと活発な活動にあった研究者は考えているようです
 熊野神社の分社は、徳島県82社(寛保神社帳)や高知県69社(長宗我部地検帳)に比べると、少ないようですが全県下に分布していることが表からは分かります。分布特徴としては、山間部に多く、宇和町に集中している点を挙げることができそうです。

1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧1
 伊予の古い勧請事例は大同二年(807)勧請と伝えられる旧新宮村の熊野神社です。
そのため愛媛の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの新宮村の熊野神社を拠点に愛媛県内に入ってきたと研究者は考えているようです。
その意味で新宮の熊野神社は、熊野信仰の布教センターの役割を果たしたようです。また、吉野川を更に遡って土佐方面に向かう熊野行者の拠点にもなったようです。土佐方面への次の拠点は、
①新宮村熊野神社→ ②土佐豊永の熊野神社(定福寺)→ ③大豊町豊楽寺(若一王子神社)→④本山町金剛寺(若一王子神社)

という伝播ルートが考えられ、このルートは土佐の人々の熊野詣でルートであったともされます。
1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧2

 一方、伊予方面への伝播ルートは、新宮村の熊野神社を拠点にして川之江方面に山を下りていきます。妻鳥(川之江市)には、めんとり先達と総称される三角寺(六十五番札所、同市金田町)と法花寺がいました。また新宮村馬立の仙龍寺は、三角寺の奥院とされます。めんとり先達も、新宮の熊野社を拠点に、川之江方面で布教活動を展開していたようです。そして、めんとり先達の修行場所は、現在の仙龍寺の行場だったことがうかがえます。以上から、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた
四国霊場の三角寺やその奥社の仙龍寺は、熊野行者の行場が里下りしたお寺のようです。 
伊予国の先達拠点の特徴を、研究者は次のように指摘します
①真言系の旧仏教寺院(四国遍路の札所になったもの)、
②伊予国の東半分の比較的海岸に近い地域に多いこと、
③石鎚・出石山の二大修験霊場、一宮(三島社)という大社
④主要な寺社(宇摩郡新宮の熊野神社、石手寺の鎮守社)
などを拠点にして、熊野先達たちは活動していたようです。
 この中でも、風早郡の熊野谷権現社(ゆやだにごんげんしゃ)は史料が残っていて、詳細な点まで分かるようです。この神社は熊野谷と書いて(ゆやだに)と読むようです。ここの社僧(修験者)である池内氏(河野氏分流)は、檀那の守るべき社役を定めていますが、その中には次のような条文があります。
「当所より熊野参けいの人ハ、湯屋谷権現へ先参也、ふさた候へハ、道中にてしちありと申しつたへ候」(池内家文書、明応九年九月九日付熊野谷権現社僧勝賢置文)。 
 
とあって「熊野参詣の前には、湯屋谷権現(熊野谷権現)へ、まずお参りし絵から出かけること」と記されています。

三 檀縁関係からみた伊予の熊野信仰
 売買の対象になった檀那(武士)は、
(一)檀那の一族、一門
(二)地域
(三)先達
の3つに分類されています。
(一)と(二)について、研究者は具体例をあげて検討しています。 
 中世の伊予国で最大の武士団を形成したのは、河野氏です。
年不詳の「潮崎氏檀那目録」(近藤喜博著『四国遍路』に引用)に次のように河野氏は登場します。
 同国(伊予国)河野ノ一族十八ケ村、其外トウコ・トウセン一円、並川野ゝ一門十八ケ村々一族ケイツ書立有、代弐拾六貫文分
意訳すると
 伊予の河野一族は、18ケ村の他に、道後・道前一円や川野にいる。講の一門18ヶ村の檀那帳の代金は26貫文である。

ここでは、河野氏一族を「十八ケ村」と一括りにして、檀那を26貫文で売買されています。中世には、「一石一貫(米1石=銭1貫文)」という換算方法があったようです。これで計算すると1貫文は、10万円前後となるようです。26貫文は、260万円で、熊野社の檀那売買としては、かなり高額な値段で売却されているようです。「十八ケ村」で括れない河野氏勢力圏全体という意味で、そんな値段になったと研究者は考えているようです。
 しかし、河野氏一族を「十八ケ村」というのは、あいまいな概念です。これをもとに檀那を売買した檀那権をめぐる先達同士の紛争が起きたことが予想できます。このため一族単位に檀那を売買する方式は、一般的ではなかったようです。

河野氏の有力家臣で、熊野社の檀那として名前が見えるものもいます。
伊予郡大平の天神山城主の森山氏とその一門、
久米郡岩加羅城主の志津川氏、
浮穴郡小田(のち久万の大除城主)の大野氏
などです。
この三氏が共通の先達としたのは医王寺(現東温市)です。
医王寺引檀那注文(新出熊野本宮大社文書)に
「しつ河遠江守殿、森山殿、小田大野殿」
が見えます。


有力な氏族単位を檀那とする形とは別に、地域の小規模な武士集団を檀那とする方式も見られます。
応永元年(1394)正月16日の伊予郡長田郷岡田衆中檀那注文(新出本宮大社文書)には、
①岡田衆という伊予郡の武士集団(小田・町田・長田・東・北・森・向居・田中・大西・安松・重延等諸氏)
②長田郷内の農民や氏族単位の檀那(一家中)もいて、
随明寺僧橋本坊を先達としていたようです。こういう地縁的な結合形態(河野氏の軍事組織でもあったか)を利用した檀那もあったことが分かります。
 次に喜多郡の事例をあげてみましょう。
1 熊野信仰 伊予国喜多郡

この地域は、中世には河野氏の支配領域ではなく、宇都宮氏やその系列の武士をはじめ、比較的規模の小さい領主が割拠していたようです。それが熊野の檀那分布状況にも反映されています。喜多郡八多喜寺が先達であった檀那注文(那智大社文書)によると、
①津々喜谷氏(宇都宮氏家臣、滝之城主、在所は横松)、水沼氏(粟津郷)、上須戒の向居氏、延尾氏、篠尾氏、臼杵氏のグル━プ、
②笠間(宇都宮一族)、土屋、市木のグル━プ、
③下須戒氏(矢野氏流)、
④出海の兵藤氏、
⑤富永氏流の小田大野氏・立花氏・石原氏・宇津氏
など、五つの系列に分かれています。これらは、地縁的、氏族的にまとまりがあります。これらの在地領主らの中には、下野国から移住してきた宇都宮氏とその被官、三河国設楽郡から移りすんだとみられる兵藤氏や大野氏など、他国から伊予国へ来た武士たちも交っているようです。
 グループ毎に先達に引き連れられて、ながい熊野詣でに出かけます。先達は現在のツアーコンダクターに、修験道の師匠を加味したような性格を持ち畏敬の念で見られていたようです。ある意味、旅は「鍛錬」や「学習」の場でもありました。日常生活では見たり聞いたり出来ないことも体験します。それが人間的な成長の糧にもなります。武士団の頭領のような人たちにとっては「社会勉強」の役割も果たします。同時に、長い苦楽を共にした参加者との連帯感を養うことにもなります。各武士団が団結を深めるためにも熊野詣では役だったようです。
 熊野への参拝ルートは2つ考えられるようです。
 ①芸予諸島から熊野水軍の「定期船」で熊野へ
 ②新宮村熊野神社を拠点に、阿波吉野川沿いの熊野神社分社を経由し、撫養から紀州へ
この2つのルートが熊野参拝ルートとして中世以来の利用されていたようです。
喜多郡には先達寺院も多く、伊予国の中でも熊野信仰が盛んな地域でした。
 喜多郡菅田の清谷寺に伝わったという暦応三年(1340)十月十八日付の檀那譲状(「大洲旧記」所収)があります。しかし、この文書は文書様式からみても、譲状ではありません。内容的にも、清谷寺が道後河野氏を始め、喜多郡内の武士たち、宇和郡の西園寺氏、宇和郡須智郷の北ノ川氏など有力な領主を数多く檀那していた記録です。そこには誇大な記載があり、年代的にも疑わしと研究者は考えているようです。江戸時代になると、修験者は、信仰圏(霞という)を誇大に吹聴して、虚勢を張ることが多々あったようです。

このような熊野先達の活動が停滞するのが戦国時代です。
16世紀になると応仁の乱に続く戦乱の拡大は、参詣者の減少をもたらします。さらに戦乱による交通路の麻痺によって、熊野先達の業務は廃業に追い込まれるようになったのが全国の史料から分かります。戦乱で熊野詣でどころでなくなったようです。
 「戦乱の拡大とと交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化した」

と研究者は考えているようです。さらに、檀那であった国人領主層の没落も加わります。
このような状況下で、熊野先達たちは活路をどこに求めたのでしょうか。
熊野先達=熊野行者=修験者=山伏たちは、熊野への先達業務から、新たな業務を「開発」して行かざる得なくなります。サービス提供相手を、新たに村落住人へ変えて、地元村落との結びつきを深め、彼らを檀那としてサービスを提供するようになります。その内容は「代参」から始まって、加持祈祷など様々な分野に及びます。地元の定着し里寺を起こす者も現れます。同時に彼らは、修験者としての霊力を保持するために行場での修行も欠かせません。周辺の霊山や霊場での「辺路修行」も引き続いて行われます。それが中世の古四国遍路の完成につながっていき、その上に近世になって素人による四国巡礼が始まると研究者は考えているようです。
  以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「石野弥栄 中世伊予の熊野信仰について ~地域領主との檀縁関係をめぐって~」
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 金比羅神を追いかけていると修験者の姿が目に入るようになり、修験者を追いかけると熊野行者に行き着くことになりました。しかし、熊野信仰については知らないことばかり、分からないことばかりです。そのための読書メモを取りながら読み進んでいくしかないようです。その読書メモの一部を備忘録代わりに公開しておきます。

讃岐の熊野信仰関係で史料で、最も古い記録は熊野本宮の「実賢檀那譲状写」弘安3(1280)のようです。
そこには、熊野にやってきた次のような5人の人たち(檀那)の名前が記されています。
十郎刑部、
十河(そがわ)(木田郡十河村)の三郎左衛門、
庵治(同郡庵治町)の四郎左衛門、
香西(高松市)のエモム、
柞原(丸亀市)
ここからは次のようなことが分かります。
①13世紀後半には熊野行者が讃岐にやってきて、信者獲得のための布教活動を行っていたこと
②熊野行者の布教エリアは東讃から丸亀までの広範囲およんでいたこと
③熊野先達に引率されて、5人の檀那が熊野詣でにやってきたこと
その次に古い資料は永仁六年(1296)の「導覚紛失状」です。
ここには逸見一門があげられています。しかし、その後の南北朝期の先達や檀那の動きを示す史料はないようです。

  次に熊野詣でが出てくるのは室町時代になります
まず登場するのが、讃東の大内荘(大内町)与田寺の増吽です
彼は明治以前の讃岐では空海に次いで有名なお坊さんだったようです。その増吽が応永(1394-1428)末頃、阿波と讃岐の経衆二十人、伶人三人をともなって船で能野に詣でています。増吽は、この熊野詣での前の明徳年間(1390-94)に、大内荘に能野三山を勧進(再興)しています。与田寺周辺の大内荘は真言密教系の僧侶の動きが活発で、書写活動や勧進活動が大規模に行われており、その中心に増吽はいたようです。そして増吽に連なる僧侶たちは、修験者で山野での修行も行っていたようです。
 大内荘には文正二年(1467)白鳥の先達の名前が見られます。実報院と廊之坊の檀那帳には、東山(白鳥町)の先達善知房、その東隣りの引田港(大川郡引田町)には先達筑前がいたことが分かります。鎌倉期から百年ほどで、熊野先達を行う修験者の数が増えていることが分かります。
 次に資料に残る高松近辺の先達を挙げてみましょう
①高松氏一族を導いた屋島の高松寺(八十四番札所)
②熊野社のある池田(高松市)の善清坊、
③三谷郷(高松市)の香西一族の束殿内方や豊後殿の女中を導いた実報院先達西林房
④円座の西蓮寺
⑤一宮の持宝坊(共に高松市)、
⑥飯田の西坊。林の武蔵坊(共に高松市)
⑦塩の積出港の野原(現高松市)の角坊
⑧白峰寺の先達(八十一番札所、坂出市青海町)
ここからは、次のようなことが分かります。
①⑤⑧は現在の四国霊場の札所になります。
四国霊場の中には、熊野先達の流れをくむ修験道の痕跡が色濃く残る所があります。屋島寺や一宮、白峰寺など、修験者の行場があるところには熊野先達がいたようです。①の屋島寺はの熊野先達は、高松氏の帰依を得て、熊野詣でに導いています。 
 JR屋島駅の南の小高い丘の上に、今は喜岡寺や喜岡権現社などが建っています。ここが高松頼重(舟木氏)の居城でした。舟木氏は美濃源氏・土岐氏の流れをくみ、鎌倉時代に伊勢から渡ってきた東国出身の御家人です。建武の新政の勲功により讃岐守護に任じられ、高松郷と呼ばれたこの地を居城としてから高松氏を名乗るようになります。つまり、讃岐守護を務める重要人物を屋島寺の熊野先達は檀那にしていたことが分かります。これは屋島寺にとっては、大きな加護となったでしょう。
③の高松西部の三谷郷の先達は、香西氏や豊後氏の帰依を得て檀那として、その婦女子を連れて熊野詣でを行っています。高松地区では、有力武士団の棟梁層が熊野先達に帰依していたことが分かります。
⑧の白峰寺は、先ほど見た大内荘の増吽が請われて住職を勤めたことがあります。中世の讃岐の修験道ネットワークの拠点のひとつと考えられます。ここにも熊野先達はいます。

鎌倉時代のこの地区の先達は「庵治(同郡庵治町)の四郎左衛門」「香西(高松市)のエモム」の二人のみでした。それが百年余りで、庵治周辺や、香西周辺にテリトリーを拡大して、数を増やしています。
続いて中讃の熊野先達を見てみましょう
①福江(坂出市)の玉泉坊
②宇多津の仲善坊
③垂水郷(丸亀市)の釈迦堂。光泉坊
④竹鼻の宝光坊
⑤杵原(丸亀市)の明法坊、
⑥国府(坂出市?)の菖蒲池椎ゐ尾正連坊。宝林坊
⑦飯山別当成福寺
⑧陶(綾歌郡綾南町)の陶王子坊主
⑨南条山(旧綾上町)の新坊
⑩小松(琴平町)の津守兵部
⑪高篠(まんのう町)の泉阿闇梨
が記録に残っています。
①の福江は、悪魚退治伝説に登場する中世の港で、現在の坂出になります。②の宇多津は、中世においては讃岐で最も活発な交易活動を行っていた港です。先ほど見た高松地区の⑦の野原(現高松市)も高松平野を後背地とする港町です。熊野先達は、瀬戸内海交易を活発に行う港町などに拠点を置く者も多かったようです。
13世紀末には柞原(丸亀市)に熊野先達が拠点を構えていましたが、それが周辺の③⑤⑦⑩⑪などへも広がっているのがうかがえます。
讃岐西部の三豊・観音寺を見てみましょう
①細川氏の先達の観音寺
②坂本(観音寺市)の宝林坊
③中郡(三豊郡)天王(仁尾町)の安全坊・勝蔵坊・加戒坊
鎌倉時代末期には先達の記録がなかったこの地域にも、熊野先達が定着しています。ここでも熊野先達たちは、財田川河口の琴弾八幡神社の門前町として開け海運業が盛んであった観音寺や、京都賀茂社へ御厨として神人が海運事業に進出した仁尾に拠点をおいています。背後の七宝山や紫雲出山の行場での鍛錬を重ねながら先達の役割も果たしていたのでしょう。彼らは勧進活動や書写活動も展開します。これらが仁尾や観音寺の中世寺院の隆盛に繋がっていくようです。
国境を越えた伊予の先達を見ておきましょう。
  宇摩郡新宮村には大同二年(807)勧請と伝える熊野社があります。この神社は、周辺の熊野信仰の布教センターの役割を果たしたと研究者は考えているようです。吉野川を更に遡って土佐方面に向かう熊野行者の拠点にもなったようです。ここを拠点に伊予方面にも進出していきます。妻鳥(川之江市)には、めんとり先達と総称される三角寺(六十五番札所、同市金田町)と法花寺がいました。また新宮村馬立の仙龍寺は、三角寺の奥院とされます。めんとり先達も、新宮の熊野社を拠点に、川之江方面で布教活動を展開していたようです。そして、めんとり先達の修行場所は、現在の仙龍寺の奥だったことがうかがえます。以上から、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた
大山祗神社をまつる大三島では、妙光坊、弥勒寺、大山祗二十四坊の一つ宝積坊、いとく寺、道場左衛門太郎などの先達の活動が記録されています。大山祗神社の各坊にも熊野修験者たちの影響力が及んでいたことが分かります。
 松山近辺には数多くの先達がいたことが記録されています
五十番札所で近世期に石鎚山先達も勤めた繁多寺
道後神崎荘の先達大弐公重勢・少先達大進公、
同荘宮前大弐阿闇梨坊宥清、
同荘北方重蔵房律師少弐、
道後和気郡の法善坊、宝性房賢慶、
長福寺の近江阿闇梨直海・法性房阿闇梨賢慶、宝泉寺、道後福王寺、道後三谷先達
などです。四国でもっとも先達の数が多かったのが伊予のようです。伊予に先達や檀那が多かっだのは、天文から天正頃に、来島村上氏が堺への「定期航路」運行していたようで、これを利用できる利便性にあったと研究者は考えているようです。
山内譲「中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運」『瀬戸内海地域史研究』

 熊野先達とは、どんな人たちだったのでしょうか 
研究者は、熊野先達の性格を4つに分類して分析します。
第一は、熊野の御師が自分の直接配下とした先達です。
熊野の御師の直属先達です。これが出来るのは、那智山で大きな勢力を持った廊之坊と実報院だけだったようです。この2つの御師だけが直属の先達を擁していたようです。
第2の先達は、各地を遊行して、その先々で檀那を熊野に導く遊行先達です。
彼らは、屋島や石鎚山などの霊山や社寺などに、修行のために客僧として住みつきます。やがて、その社寺の僧侶・社僧、近くの武士を熊野に導くようになります。先達の中には、自分の出身地を示す国名や地名をつけた名前を持つものがいます。これが遊行先達のようです。例えば 
讃岐阿闇梨円慶(越後)、伊与法眼(美作)、伊与(因幡)・
土佐公(美濃)、土佐公玄智(近江)、土佐先達(山城)、土佐律師(美作)

括弧内は、活動した国名です。讃岐阿闇梨円慶は、讃岐出身ですが故郷には帰らずに越後で熊野先達として活動したようです。特に武蔵や越後には、遊行先達が多く入り込んできています。彼らは戦国末から江戸時代初頭にかけて定着して里修験となっていきます。
第三の種類が在地先達です。
彼らは各地の霊山、社寺、港などを拠点に、在地の宗教者や俗人を熊野に導いた先達です。熊野で修行した後に、各地の行場を巡った山伏が、霊山や社寺、熊野権現などに客僧として住みこみ、在地の僧侶、社僧、武士などを熊野に導くのです。その後、彼らはその霊山や社寺に常住するようになります。そして、その子孫が能野先達になったり、住僧や社僧の中からも熊野先達が育まれたようです。このパターンが四国霊場の札所には、いくつも見られます。また、讃岐の増吽が勧請した熊野三山がある大内荘の白鳥先達もこれに分類できるようです。
能野先達の中には修験者以外に念仏聖・比丘尼・六十六部・十穀聖・陰陽師などもいたようです
  ①念仏聖は社寺よりも港・市などの町場を活動の舞台としているものが多いようです。特に時宗とかかわりがある念仏聖が多かったことが熊野本宮の願文からは分かります。
  ②参詣者の中に武士や人の妻女、比丘尼など数多くの女性が含まれていました。讃岐の香西氏の女人をつれて、熊野詣でを行っている先達がいたことは、先ほど見た通りです。比丘尼のうちには、口寄せをする巫女(神子)もいたようです。これらの中には先達を勤めた女子もいたらしく、美濃の平野荘の「みこ先達」、越後国山東郡白鳥には神子坊の永吽と慶順などがいます。こうした比丘尼や神子がのちの熊野比丘尼へと成長していくようです。
 また阿波国では文安四年(1444)に乞食坊主が先達を勤めています。さらに阿波・阿波には、陰陽道の舞々の一類、讃岐の陰陽師若杉・月の下門下三白・讃岐の陰陽師光勝坊などの記録が残ります。陰陽師も熊野先達を務めたいたことが分かります。

 檀那の種類については
社寺の神職・僧侶・比丘尼・聖、武士や豪族・彼らに所属した下人・地下人・百姓など・町や市・港の商・職人・漁民などがいたことが分かります。しかし、熊野詣でには大金が必要でした。庶民がお参りする近世の伊勢詣でや金毘羅詣でとはちがって、誰もが行けるものではありません。経済的に裕福な人たちだけに許された参拝でした。

 京都、大坂、堺や全国各地の都市や港で結成された熊野講は、リニューアルした姿で近世に姿を見せます。それは、庶民が自分たちで結成して大峰登拝を始めた大坂や堺の八嶋役講、富士講、木曾御岳講などです。それが地方に伝わると立山講、白山講、大山講、石鎚講というプロの御師によるものではない、俗人による登拝講に姿を変えていきます。つまり、石鎚講は熊野修験者の組織が原型にあるということになります。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。


  三角寺-三角の護摩壇と龍
 
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 呪誼で、悪いものを鎮めてしまう壇が三角の護摩壇です。これが三角であることをご記憶いただきたいとかもいます。三角寺の発祥については、『四国偏礼霊場記』の挿絵を見ないと、その理由がわかりません。 

なぜ三角かなのか?

龍王山の反対側に奥の院があって、龍がいるということから、現在は仙龍寺という名前になっています。ところが、仙龍寺と三角寺が仲たがいをして、奥の院と里寺との関係を断ち切ってしまいました。
 さて、その龍のことですが、三角寺の縁起には悪い龍を弘法大師が追い詰めたら降参して、農民のために水を出しましょうと約束したということが脱落しています。

 御詠歌は、「おそろしや三つの角にも入るならば 心をまろく慈悲を念ぜよ」です。「三つの角」は三角寺という意味です。三角の中に入ったら恐ろしいから、角が立たないように心をまろくして、人に慈悲を施すように念じなさいということです。ただ、古い時代は「慈悲を念ぜよ」が「弥陀をたのめよ」となっていたようです。
 縁起は、聖武天皇の勅願で行基菩薩の開基、弘仁六年(八一五)だと書いています。高野山を開いたのが弘仁七年ですから、それより古いということでしょうか。
 弘法大師がここにやってきて、十一面観音と不動明王を作ったと書いていますが、不動さんは奥の院でまつっていました。ここに出てくる十一面観音が、三角寺の現在の本尊の十一面観音です。
 
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『四国偏礼霊場記』は三角寺の歴史について、次のように書いています。
此寺本尊十一面観音、長六尺二寸、`大師の御作、甲子の年に当て開帳す。今弥勒堂を存ず。慈尊院の名思ひあはす。もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王等、種々の宮堂相並ぶときこえたり。社の前、池あり。嶋に数囲の老杉あり。大師の時、此池より龍王出て、大師御覧ぜしとなん。庚嶺はもろこしの梅の名所也。此所も本、梅おほかりしによつて此名を得るにや。

「甲子の年に当て開帳す」とあるので、六十年に一度、開帳したようです。
 弥勒堂があるということについて、三角寺には弥勒堂と弥勒仏があって、分離するときにすでにあった弥勒を本尊とするお寺に十一面観音を移して本尊にし、三角の修法壇があったので三角寺と称したのだと解釈しています。もとあったのは弥勒を本尊とするお寺だと考えないといけません。そこに下りてきて、三角寺ができました。
 弥勒という仏様は慈悲の仏だといわれているので「慈尊」は弥勒のことです。それで慈尊院という名前がおもい合わされると、『四国偏礼霊場記』は書いているわけです。 
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 雨沢龍王は龍王山の龍王です。

これを調伏するための三角の護摩壇がありました。いろいろなお宮やお堂が並んでいるという評判であると書いています。雨沢龍王の神の前に池がありました。いまは龍王ではなくて、島の中に弁天さんをまつっています。龍王は奥の院の仙龍寺でまつっています。
 「大師御覧ぜしとなん」と書いていますが、見ただけではない、龍を追い出した、あるいは調伏して水を出すことを誓わせた、ということを補って考えてください。
 いまは山号の庚嶺山の「庚」という字を「由」と変えています。しかし、『四国偏礼霊場記』は痩せた嶺の山だと解釈して、「庚嶺はもろこしの梅の名所也」といっています。幽霊山と書いたものがあるのは、庚嶺山をなまって「ユウレイ」といっていたのを幽霊と書いてしまったのだとおもいます。
 つまり、ここに出現した龍王を調伏したという話から、本寺はもとの奥の院にあって、水源信仰があったことが推定されます。龍はすなわち水神です。水源神として雨沢龍王がまつられ、その本地を十一面観音としたけれども、龍王は荒れやすい神なので、これを鎮めるための護摩作焚かれて、その結果、水を与え、農耕を護る水神となったという信仰がもとになって、縁起ができたわけです。
  
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ところが、弘法大師信仰に転換してから、このお寺の奥の院は二分されました。

  現在の三角寺の奥の院は、龍王山の反対側にあって龍がいるということから仙龍寺という名前になっています。仙龍寺は、四国霊場全体の総奥の院とも称しています。しかし、現在の仙龍寺のもっと上には奥の院址があります。ここがもともとは仙龍寺と三角寺の共通の奥の院でした。共通の奥の院には、水源信仰があったことが推定されます。水源神として雨沢龍王がまつられ、その本地は十一面観音でした。雨沢龍王は龍王山の龍王です。けれども龍王は荒れやすい神なので、これを鎮めるための護摩が焚かれて、いつしかそれが水を与え、農耕を護る水神へと姿を変え今に伝わる縁起ができたと考えられます。


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旧奥の院がもとの辺路修行の霊場で、行場はもっと下の現在の仙龍寺辺りにあり、そこまで行者は滝行や窟寵りをしていました。
  そして次第に、行場も仙人堂を建て仙龍寺として独立して、さらに谷川の上に舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化していきます。いま仙龍寺の大師は作大師として米作の神となっているのは、旧奥社以来の水源信仰があったからです。
時代が下ると、平石山の嶺を越えてくる遍路の便を図って、北側山麓の弥勒菩薩をまつる末寺の慈尊院へ本地仏十一面観音を下ろします。そして、龍王を調伏するための三角の護摩壇が作られいろいろなお宮やお堂が並ぶようになります。こうして、今までの慈尊院が三角寺と呼ばれるようになります。
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つまり、仙龍寺も三角寺も旧奥の院から独立し、里下りしたお寺さんなのです。
ところが、仙龍寺と三角寺が仲たがいをして、奥の院と里寺との関係を断ち切ってしまいました。


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