山下谷次銅像
山下谷次像(仲南小学校正門)
まんのう町は戦前に、二人の国会議員を輩出している。その一人の像が仲南小学校の正門に立っている。山下谷次である。彼は、まんのう町帆山出身で「実業教育の魁け」として、東京で実業学校の開設にいくつも関わり、その後に代議士となってからは実業学校の法整備等に貢献した人物だ。
小学校卒業後の谷次は、琴平神宮が設立した明道学校へ堀切峠を抜けて通った。裕福でなかった谷次が上級学校へ進学できたのはここが授業料無償であったことが大きい。その後、さらに上京し勉学を志すが経済的に恵まれず、同郷出身者を訪ね、勉学の熱意を訴え支援を仰ぐがかなわず、貧困の中にあった。

1大久保諶之丞
大久保彦三郎(左)と大久保諶之丞(右)  
これを援助したのが財田出身の大久保彦三郎である。
彦三郎は当時、京都に尽誠舎を創設したばかりであった。そこへ転がり込んできた谷次の入学を認めると共に、舎内への寄宿を許す。そして、谷次に学力が充分備わっているのを確かめると半年で卒業させ、さらに大抜擢して学舎の幹事兼講師として採用している。彦三郎は「四国新道」を開いた大久保幕之丞の実弟である。ちなみに、彦三郎に従って京都に設立されたばかりの尽誠舎に入学していたのが七箇村春日出身の増田一良である。彼は、春日の富農増田家の当主で、増田穣三代議士の従兄弟にもあたり、後には七箇村長や県会議員として活躍する。 一良は、この時に山下谷次の教えを受け、短い期間ではあるが師弟関係を結んでいた。

山下谷次
山下谷次
谷次は、彦三郎の支援を受けて京都で実力を蓄えた後、上京し苦労しながら栄達への道を歩み始めていく。そして、妻の実家のある千葉県から衆議院に出馬するが落選。その後、春日出身の増田穣三代議士引退後の郷里香川県から選挙地盤を引継ぎ再出馬し当選する。その際には、京都で師弟関係にあった増田一良の支援があったようである。地元では当選の経緯から「増田穣三の後継者」と目されていたという。仲南小学校の山下谷次像は、登下校の児童を見守るおじいさんのような風情で絵になる。

参考資料 福崎信行「わが国実業教育の魁 山下谷次伝
まんのう町誌ふるさと探訪2017年8月分