1 讃岐古代寺院分布図
讃岐の古代寺院に使われていた瓦は、法隆寺瓦の流れをくむものが多いようです。どうして、讃岐には法隆寺の影響が色濃く及んでいるのでしょうか。そこからスタートしてみることにします。
法隆寺資材帳にみえる庄倉
   法隆寺資財帳には、天平19年(747年)から翌年にかけて奥書があり、その当時の法隆寺の総ての財産が詳しく書き出されています。そこには、全国にあった法隆寺の庄倉も記されています。まずは法峰寺の庄倉を列記した部分を見てみましょう。
1 法隆寺庄倉1
   『資財帳』には、法隆寺の庄倉のあった郡が上のように記されます。後から2番目の讃岐を見てみると「讃岐国十三處」とあり、13の庄倉があったことが分かります。

1 法隆寺庄倉 讃岐
設置された郡名として挙げられているのが
大内郡、三木郡、山田郡、河野郡、鵜足郡、那阿郡、多度郡、三野郡

の8郡です。特に那珂郡には3つ庄倉があったようです。お隣の伊予を見ると14です。そして、阿波・土佐にはありません。瀬戸内海に集中しているようですが安芸や周防などには ありません。庄倉史料を地図に落としていくと次のようになります。
1 法隆寺庄倉 3讃岐

どうして、讃岐・伊予に法隆寺の庄倉が、数多く設置されたのでしょうか。 松原弘宣氏は次のように記します。
① 4・5世紀における畿内王権の瀬戸内海交通の主ルートは摂津(難波)→吉備→讃岐→伊予→豊前・豊後であった。
②それを裏付けるものとして、斉明天皇が西征の際に、二ヵ月にも渡って、道後平野に滞在していることをが挙げられる。
③これは伊予松山が、当時の政情不安定な北九州を睨んでの前線基地的役割を果たしていた
確かに庄倉は、畿内王権の瀬戸内海交通の主ルートとされる
摂津(難波)→吉備→讃岐→伊予→豊前・豊後
に沿って置かれているようです。
伊予松山の久米氏の果たした役割は?
このルートの中で大きな役割を果たしたのが、道後平野を押さえていたのが久米直氏です。久米氏はいち早く畿内王権と結びつき、久米国造として大王近持氏族へと発展していきます。その立役者が伊予来日部小楯で、彼には、山部連の姓が新たに賜姓されます。これを契機に、久米直と大和の山部連の間に、「擬似的同族意識」が形成され、これが法隆寺との関係に発展していくと松原弘宣氏は考えているようです。

 法隆寺のある奈良県平群郡夜摩郷(=山部郷)や、法隆寺最大の所領がある播磨国西部には山部氏がいます。
山部氏は、法隆寺と関係の深い豪族です。例えば、法隆寺に献納された「命過幡」に寄進者としての山部連氏が見えます。ここからは、
伊予久米郡の久米氏=山部連 ー 大和国夜摩郷 ー 法隆寺
という繋がりがあったことがうかがえます。
 法隆寺が讃岐・伊予国に庄倉を設置することができたのは、大伴氏の力が大きい多いと研究者は考えているようです
それは、当時の「擬似的血縁関係=同族意識」の力によるようです。伊予国で大きな勢力を占めた久米氏と大伴氏は同族とされます。また、多度郡の佐伯氏も大伴氏を祖先を同じくするという同族意識を持っていたことは以前にもお話ししました。つまり、
大伴氏ー大和の山部氏ー伊予の久米氏ー讃岐多度郡の佐伯氏

は、同族関係にあると当時の人たちは信じていました。この「同族幻想」が大伴氏による法隆寺庄倉の設置に、大きな役割を果たしたと研究者は考えているようです。
 庄倉は、どんな性格の施設だったのでしょうか。
『大安寺伽藍縁起井流記資財帳』の庄の記載に、その手がかりとなる記録があるようです。大安寺の庄倉のあった地名が次のように列挙されます。
大倭国五處
一在十市郡千代郷 一在高市郡古寺所 一在山辺郡波多蘇麻 一在式下郡屋所 一在添上郡瓦屋
山背国三處
相楽郡二廠、一泉木屋阪井暑埴二町、東大路、西薬師吝木屋南白井一段許遇、北於大河之限、一棚會瓦屋、東谷上、西路、南川、北甫大家野之限、乙訓郡處。在山前郷
摂津国一處
在西成郡長汲郷庄内雄二町、東田、西海即船津、南百姓家、北路之限
 この記事の中で注目したいのが「瓦屋所」「瓦屋」です。
これは造瓦所と研究者は考えているようです。つまり、庄倉には付属施設として瓦を製造する窯を持っていたことがうかがえます。周辺の地方豪族が氏寺を建立する場合には、ここで作られた瓦が提供されたことが考えられます。
 その他「園地」「木屋所」「船津」の名称が見えます。これからは園地や木工製造所や「湊」の存在がうかがえます。こうした庄倉について、鬼頭清明氏は次のように指摘します。
「懇田を直接の庄園成立の舞台とするのではなく、庄倉における稲を中心とする動産の出挙、交易を媒介に経営されたという点で初期庄園より一層古い『庄』経営であったと思われる」

 つまり、庄倉とは必要な物資を交易で調達・集積し、それらを本寺へ運送する地域の集積運搬の拠点だったと研究者は考えているようです。
次に法隆寺の庄倉と、地域豪族の関係を探ってみましょう。
1 讃岐古代瓦

 鬼頭清明氏は法隆寺の伽藍の中で、7世紀に建立された西院伽藍の瓦に注目します。特に、軒瓦-複弁蓮華文軒丸瓦と忍冬唐草文軒平瓦で、法隆寺式と呼ばれている瓦です。この瓦文様と同じ瓦を使用した寺院址が伊予・讃岐の法隆寺庄倉の周辺から出てくるようです。
「法隆寺式軒瓦の分布は、大勢として資財帳の伝える庄倉・水田等の分布と対応関係にあるとみてよい」

と鬼頭清明氏は記します。法隆寺の庄倉を拠点に、讃岐には法隆寺式軒瓦を用いた古代寺院がひろまっていったようです。
讃岐の古代寺院から、法隆寺と同じ型から作られた瓦や同系列の瓦が出てくることをどのように考えたらいいのでしょうか。
 古代寺院建立は、伽藍配置から設計図、木組み、瓦、相輪、仏像政策などハイテクの塊で、地方豪族が単独で行えるものではありませんでした。瓦を初め寺院造営に必要なあらゆる技術が法隆寺などの巨大寺院か中央致権から提供されていたと研究者は考えているようです。
 天武・持統政権は古墳時代の前方後円墳のように、どの豪族にも寺院建立を許したわけではありません。中央政権の許可があって寺院は建立できるものでした。そうなると瓦を載せた本堂や五重塔は威信財としての機能を発揮するようになります。有力な地方豪族は、中央政府の許可を得て争って寺院建立を行うようになりますが、誰にでも認められたわけではなかったことは押さえておきます。
 最先端のハイテク技術を伴う寺院建立には、いろいろな技術の「地方移転」なしではできないことです。技術移転がどのように行われたをうかがうことの出来る「痕跡」が瓦のデザインになるようです。瓦文様にもランクがあって、誰でも自由にデザインを選べたようではないようです。地方豪族の寺院には、同時代の中央寺院に使用されていた瓦デザインは使用されていません。「型落ち」瓦が使われるのが通常なのです。どの瓦を使っているかで、建立した地方豪族のランクも分かるシステムになっていたようです。瓦を比較することで、いろいろなことが見えてくるようです。
 少し寄り道しました。法隆寺系の瓦が讃岐に多いことから何が分かるのかという点に話をもどします。
まず、瓦作りの技術者が大和から讃岐にやって来たことが考えられます
「造瓦技術の移動」=「造瓦工人の移動」があったはずです。法隆寺側が、讃岐に工人を派遣したか、または技術を法隆寺で修得した工人が、そのまま讃岐にやってきたかのどちらかでしょう。その拠点になったのが庄倉施設と考えられます。庄倉は税の貢納だけでなく、大和との人とモノの行き来が頻繁に行われていた先進文化の交流センターということになります。

古代讃岐や伊予が大和と密接なつながりをもっていたことは、出土する古瓦のデザインからも分かるようです。
讃岐で使われている瓦文様を次に見ていくことにしましょう。
 讃岐では、壬申の乱前後のから寺院造営が始まります。
初期の寺院創建時の瓦デザインは、どれも古新羅系の軒丸瓦と共通デザインです。例えば、宝寿寺の単弁無子葉蓮華文瓦等は、そのルーツは大和豊浦寺の瓦に求められると研究者は考えているようです。

1 讃岐古代瓦
初期寺院に続く第2グループの寺院の瓦を見てみると
②多度郡の仲村廃寺では、大和の川原寺創建時の瓦や法隆寺式の瓦にデザインのルーツがあるようです。
③寒川郡石井廃寺は、大和の石川精舎跡出土瓦と文様構成がよく似ています。
1 讃岐古代瓦no源流 大和山田寺
③香川郡の坂田廃寺、河野郡の開法寺、寒川郡の下り松廃寺、山田郡の宝寿寺、三野郡の妙音寺等では大和の山田寺系の軒丸瓦が出土しています。
第3グループに使用されている瓦を見てみましょう。
1 讃岐古代瓦no源流 藤原京
④7世紀後半の藤原京宿造営の前後には、藤原京の宮殿用軒瓦とによく似た軒瓦が寒川郡、三木郡、山田郡、香川郡等十九ヶ寺で使われています。この時期には三野郡宗吉瓦窯跡では、藤原宮所用瓦が当時の最先端技術を使った大工場で生産され、船で藤原京に運ばれていたことが分かっています。
1 讃岐古代瓦no源流 法隆寺
④『法隆寺資材帳』の庄倉があった所からは、那珂郡の宝輪寺跡、多度郡の仲村廃寺、善通寺、三野郡の道音寺の四ヵ寺から法隆寺式の軒瓦が出土しています。
⑤7世紀中頃の国分寺造営の頃には、阿野郡の讃岐国分寺、国分尼寺や山田郡の拝師廃寺で出土する軒瓦は、平城宮址や法隆寺所用の瓦とデザインがよく似ています。これは伊予も同じです。
1 愛媛県の法隆寺瓦

 瓦のデザインが地方へ伝わる場合には、つぎの3つのケースが考えられます。
①技術者が道具を持参して現地に赴き指導する場合、
②道具は不持参で現地謝達する場合、
③現地の須恵器工人等窯業経験のある人達を畿内の瓦工房に呼んで技術を習得させて帰国させ地方に瓦工技術を拡める場合
このような伝播スタイルの違いによって、微妙にデザインの変化がおきてくると研究者は考えているようです。
 法隆寺の庄倉と周辺の地方豪族には、次のような関係があったことが推測できます。
①法隆寺と庄倉のあいだで物と人との交流が頻繁に行われたいたこと
②交易ルート上の地方豪族が大伴氏を祖とする同族意識で結ばれていたこと
③地方豪族の古代寺院建立に法隆寺ネットワークに参加する中央豪族の協力があったこと
それでは、これを多度郡の郡長であった佐伯氏にあてはめて考えて見ることにします。
最初に見たように、那珂郡と多度郡には法隆寺の庄倉が4つあったことが「資財帳」からは分かっています。この庄倉と「法隆寺ー佐伯氏」に絞り込んで考えてみましょう。
①4・5世紀における畿内王権の瀬戸内海交通の主ルートは摂津(難波)→吉備→讃岐→伊予→豊前・豊後であった。
②讃岐の丸亀平野において、その拠点となったのが丸亀平野の佐伯氏であった。
③大伴氏 ー 大和・山部氏 ー 伊予・久米氏 ー 讃岐・佐伯氏 ー 播磨・佐伯氏
という大伴一族という同族意識を背景に、この交易ルート沿いに法隆寺の庄倉が置かれる。
④多度郡には多度津周辺に法隆寺の庄倉が置かれた。
⑤そこから佐伯氏は、先進文化や技術を吸収し、寺院造営技術も手に入れた
このような佐伯家の活動の背景には、海運活動を活発に行っていたことがあったと考えられます。善通寺に居館を構える佐伯氏は、弘田川を通じてその河口に「外港」である多度津港(白方津)を管理下にしていたとされます。これは、佐伯氏の祖先が有岡に大墓山古墳などの前方後円墳群を作り続けていた時代からのことです。

 『延喜式』では、四国は南海道に位置づけられ、京と各国との行程を次のように記します。
  阿波国 行程上九日、下五日、海路十一日。
  讃岐国 行程上十二日、下六日、海路十二日。
  伊像国 行程上十六日、下八日、海路十四日。
  土佐国 行程上世五日、下十八日、海路廿五日。
 と記されています。これは平安京への日程ですが、平城京への行程も、ほぼ同じ日数で貢納物を運んでいたようです。多度郡の佐伯氏の場合は、国の調庸は府中にある国衙に集められて国津より積み出されたようです。しかし、法隆寺への貢納物は、おそらく多度津(白方湊)から船で運ばれていたと研究者は考えているようです。
そして、畿内の終着港は古代の住ノ江港です。
住吉神社と住吉津

空海の父である佐伯田公は、このような海運活動を展開し、畿内と結びついていた人物であったことが考えられます。そして、住ノ江港には佐伯氏の別邸があり、そこには倉庫群も建ち並び、瀬戸内海を舞台に活発な海上交易活動を展開していたと考えることも出来そうです。
 そうだとすれば、空海の父田公は位階を持たずに、空海の弟たちの代になって位階を手ににいれるようになるもの頷けます。そこには佐伯家の傍流でありながら交易活動で急速に経済力を付け台頭してきた田公の姿が見えてきます。
1 阿刀氏の本貫地

その活動の中で、摂津を拠点とする阿刀氏の娘と婚姻関係を結び、真魚(空海)が産まれた物語も現実味をもった話になってくるように思えます。
 今回は、佐伯家の海上交易活動が4世紀頃までに遡る可能性があることを、法隆寺の資財帳に残された庄倉から探ってみました。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
松原弘宣 法隆寺と伊予・讃岐の関係 古代瀬戸内海の地域社会所収 吉川弘文館
鬼頭晴明 法隆寺の庄倉と軒瓦の分布 古代研究11(1977年)