瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:伊予河野氏

 鎌倉幕府の成立によって、東国が独自の個性をもつ地域として登場します。
その結果、列島の政治構造は、それまでの京都中心の同心円構造から、京都と鎌倉の2つの中心をもつ楕円的的構造へと移行したとされます。しかし、西国では同心円的な枠組みが消え去ったわけではありません。京・畿内には、天皇家、摂関家をはじめとする公家、武家とその政務機関、数多くの寺社勢力など、諸権門・諸勢力の権限が強く残っていました。それは強い影響力を西国に与え続けたと研究者は指摘します。
  例えば鎌倉時代について「鎌倉幕府の発展に伴い東国武士が西国に進出し、彼らによる占領軍政が敷かれた」と云われます。
しかし、それでも京都の求心力は衰えていないことが次第に明らかになっています。例えば、承久の乱後に京方についた武士の出自は、圧倒的に西国出身者が多いようです。御家人となり鎌倉殿と主従関係を結んでも、その他の面では本所領家の支配下に留まる西国武士が多かったようです。伊予の河野氏が承久の乱で上皇方についたのも、このような視点で見てみる必要がありそうです。後に後醍醐天皇が西国の領主や悪党・海賊らを組織して、幕府打倒の運動を展開できたのも、このような背景があるからと研究者は考えています。

瀬戸内海古代航路と港
古代の航路と港 遣新羅使の航路
西国社会は古代以、京・畿内の国家と諸権門を支える重要な経済基盤でした。
瀬戸内海の沿岸や島嶼部には、天皇家の荘園や石清水八幡官・上下賀茂社などの荘園が数多くありました。その年貢は、瀬戸内海水運を通じて京・畿内に運び込まれました。そのため瀬戸内海は、最重要の輸送ルートの役割を果たします。

日宋貿易と瀬戸内海整備
平家の瀬戸内航路確保と日宋貿易
 最初の武家権門となった平氏も、瀬戸内海沿岸の国司をいくつも兼任して瀬戸内に荘園や所領を持ちます。福原遷都を描写した鴨長明『方丈記』には、「(貴族たちが)西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず」と記します。大陸につながる瀬戸内海を押さえることが、財力を蓄え、権力に近づくための早道だったのです。
 そのため西国からの物資流人が停止した時には、京・畿内の経済活動は大きな打撃を受けます。
藤原純友が瀬戸内海で大暴れして、海上輸送ができなくなると都の米価が高騰して餓死者が街にあふれます。弘安の役でも米の輸送が途絶して京都の生活を脅かします。瀬戸内海地域の高い農業生産力や海産資が京の人々の生活を支えていたのです。ここでは、瀬戸内海地域(西国)が京の安全保障問題にも直結していたことを押さえておきます。そうだとすれば、権力者は瀬戸内海の「シーレーン防衛」を考えるようになるのは当然のことです。
中世社会で、水運の役割の大きさは、近年の研究で注目されるようになりました。

鎌倉時代の国際航路
鎌倉時代の国際航路

瀬戸内海だけでなく、太平洋・日本海などの海上交通や、琵琶湖・霞ケ浦などの湖上水運、そして大小様々の河川交通などが緊密に結びついていたことも分かってきました。近世以前から列島規模で、水運ルートが活発に機能していたのです。その中でも、瀬戸内海は最重要の大動脈でした。この人とモノと金が行き交う瀬戸内海に、どのように食い込むかが権力者や有力寺社の課題となります。次のような方策を、権力者や有力な寺社は常に考えていました
①瀬戸内海流通ルートに参加し、富の蓄積をはかる
②特に利益の高い京都との遠隔地間流通への参加する。
③領主層による海上交通機能の掌握と流通支配、沿岸の海民・住人の組織化
④九州に拠点を確保し、東アジア諸国との交易
鎌倉時代の準構造船

西国社会の特色として、東アジア世界との関わりの強さがあります。
中世の西国の海は、倭寇の根拠地となります。その結果、国境を超えた人々の活動が展開され、いろいろな人や文物・情報をもたらします。そのため京都や東国とちがった国際意識・民族意識が育ちます。ある意味で国境をまたぐ「環シナ海地域」の中で、西国の人たちは生活していたことになります。

倭寇を語る : 歴史的速報

 中世後期、朝鮮は通交相手を日本国王に限ることなく、西日本の多様な勢力から人貢を受け入れます。
それは、倭冦予備軍の懐柔という政治目的を持っていました。それが自らを百済出身と名乗る大内氏のような勢力の出現を生みます。大内氏は石見銀山を押さえ、貿易活動を通じて得た財力で、中央権力からの自立性をはかるようになります。明銭の価値不安定化が表面化した後、大内氏の分国で真っ先に撰銭令が発せられています。これも大内氏の領国が東アジア世界と直結していたことを裏付けると研究者は指摘します。
大内氏の国際通商図
          大内氏の国際通商ルート
 中世の大名・領主のほとんどは、自分の出自を東国武士に求めた系図を作成します。
  その中で変わっているのが周防大内氏と伊予河野氏です。多くの地方武士が「源平藤橘」などの中央氏族に由緒を求めるのに対して、両氏は次のような出自を名乗ります。
大内氏 朝鮮王族の系譜で多々良姓
越智姓の河野氏 朝鮮の鉄人撃退の物語を主張しながら、独自の神話作成
両氏は、治承・寿永の乱、承久の乱、南北朝内乱、応仁の乱、そして戦国時代のたび重なる争乱を数々の荒波に翻弄され存亡の危機に見舞われながらも、巧みな政治的選択で中世初頭から戦国期まで生き延びます。西瀬戸地域の中国・四国の中でも最も西端に位置する地点に本拠地を置き、九州にも勢力を伸ばしながら、同時に中央権力とも密接な関係を保とうとする所に共通点が見えます。

伊予は瀬戸内海の西部をおさえる要地で、古くから畿内勢力が勢力を養おうとしたエリアのようです。伊予をひとつの拠点にして、北部九州から大陸への航路を確保しようとする戦略が立てられます。飛鳥時代に、百済救援のため北部九州に向かった斉明天皇が伊予に立ち寄つたことは、伊予が瀬戸内海の中継拠点として当時から戦略的拠点であったことを裏付けます。

西国と東アジアとのつながり

網野善彦氏は、中世の中央諸勢力が海上交通の要地である伊予に強い関心を抱いていたことを指摘します。
以前にお話したように鎌倉時代の朝廷で権勢を誇った西園寺家は、瀬戸内海の交易拠点の確保に強い関心を持っていました。瀬戸内海の東西の重要ポイントを次のように押さえようとします。
①東の入口の淀川水系
②西の人口が伊予国
このふたつを拠点に瀬戸内海の交通体系を掌握した西園寺家は、瀬戸内海から北九州を経て大陸との貿易に乗り出します。
 鎌倉北条氏門の金沢氏も、知行国主西園寺家の下で伊予守となると、瀬戸内海の支配に参画します。これに先立って源義仲や源義経なども、伊予守と御厩別当の職を兼ねています。彼らにも淀川から瀬戸内海への交通路支配を軸に、西国支配を行なおうとする思惑が見えます。西の拠点・伊予守と東の拠点・御厩別当の兼務は、平氏一門や藤原基隆・藤原家保にまでさかのぼるようです。平氏の海上戦略を、後の権力者が踏襲していたのです。
以上をまとめておきます。

 瀬戸内海航路の掌握2

最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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伊予の河野氏の守護大名から戦国大名への成長についての講演録集に出会いましたので、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは 「永原啓二   伊予河野氏の大名領国――小型大名の歩んだ道  中世動乱期に生きる91p」です。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 戦国時代になると国全体を一人の大名が支配していくようになります。それが大名領国で、これを成し遂げた大名を見ると先祖が守護をつとめている者が多かったようです。それでは伊予の河野氏はどうなのでしょうか?
南北朝の初めに、河野通盛が足利尊氏から守護職を与えられます。まず、その背景を見ておきましょう。

足利尊氏の九州逃避図
足利尊氏の九州逃避と再上洛系図

 これは後醍酬天皇の建武政権に対して、鎌倉に下った尊氏が背いた直後になります。尊氏は鎌倉から京都に攻め上りますが、京都を維持できずに九州まで落ちのびます。しかし、たちまちのうちに勢力を盛り返し、海陸を進んで湊川合戦を経て京都に入ります。このときに、河野通盛は水軍を率いて尊氏を颯爽と迎え、尊氏の軍事力の有力な軍事力の一員となります。それが認められての守護任命のようです。
 足利尊氏は、守護には出来るだけ多く足利一門を任命するという方針を持っていたようです。それからすれば、河野氏は尊氏にとっては外様です。にもかかわらず河野氏を守護任命にしたのは別格の扱いといえます。それほど尊氏にとって、河野氏の水軍は貴重だったことを押さえておきます。
伊予守護職に就いた 河野通盛は、これを契機に本拠を伊予川風早郡の河野郷から松山の湯築に移します。

河野氏居城
伊予河野氏の拠点

「伊予中央部に進出して伊予全体ににらみをきかす」という政治的、軍事的意図がうかがえます。河野氏は南北朝という新しい時代に、水軍力で一族発展の道を摑んだとしておきます。

その後の通朝(みちとも)、通尭(みちたか)の代には、河野氏は波乱に襲われます。
管領職の細川氏が、備前・讃岐を領国として瀬戸内海周辺の国々を独り占めするような形で、守護職を幾つも兼ねるようになります。

管領細川氏の勢力図
         管領職 細川氏の勢力図

上図を見ると分かるように、讃岐・阿波・土佐・和泉・淡路・備中といった国々はみな細川一族の守護国になります。
 足利義満が将軍になったころは、南北朝の動乱の真っ只中でした。義満は父の義詮が早く死んだので、十歳で将軍になります。その補佐役になったのが細川頼之で、中央政治の実権を握っていた時代が10年ほど続きます。長期の権力独占のために、身内の足利一門の中からも反発が多くなり、頼之は一時的に失脚します。そして自分の拠点国である讃岐の宇多津に下り、そこで勢力挽回をはかります。それに、細川の一族の清氏が、幕府との関係がまずくなって四国に下ってきた事件も重なります。
 このような情勢の中で頼之は、讃岐から伊予の宇摩、新居の東伊予二郡へ軍を進めます。それを迎え撃った河野氏の通朝・通尭は、相次いで戦死してしまいます。当主が二代にわたって戦死するという打撃のために、河野氏の勢力伸張は頓挫してしまいます。それでもその後の通義の代にも伊予の守護職は、義満から認められています。この点については、足利義満が戦死した父のあとに河野通尭を守護に補任した文書が残っています。それ以降は、河野氏の守護職世襲化が続きます。

伊予河野氏の勢力図
 守護が世襲化されるようになると、国人・地侍級の武士たちを守護は家来にするようになります。
そうなると国内の領地に対する支配力もますます強くなります。さらに、守護は国全体に対して、段銭と呼ぶ一種の国税をかける権利をもつようになります。「家臣化 + 国全体への徴税権」などを通じて、守護は軍事指揮官から国全体の支配者に変身していきます。これが「守護による領国化」です。
 こうしてみると河野氏には、守護の立場を梃子にして大名領国体制を形成していく条件は十分にあったことになります。しかし、結果はうまくいきませんでした。どうしてなのでしょうか?

そこで研究者が注目するのは、河野氏が日常的にはどこにいたかです。
河野氏は伊予よりも都にいた方が多かったようです。河野氏は将軍の命令で、あっちこっちに転戦していたことが史料からも分かります。
この当時、諸国の守護は、京都にいるよう義務付けられていました。
ただし、九州と東国は別のようです。九州と東国の守護は在京しなくてよいのですが、西は周防、長府、四国から東は駿河までの守護は在京勤務義務がありました。河野氏も在京していたのは、他の守護と変わりありません。
 ところが軍役については「家柄による格差」があったことを研究者は指摘します
在京守護の中で、河野氏は格式が低かったようです。そのため戦争となるとまっさきに軍事動員されていることが史料で裏付けられます。大守護たちは軍事動員されて戦争に行くことを避けようとします。関東で足利持氏が反乱を起こしたときなど、将軍の義教はかなリヒステリックで、すぐ軍事行動を起こそうとします。しかし、畠山や細川など三管領の政府中枢の大守護たちは、できるだけ兵力発動を行わないように画策します。別の言い方をすれば「平和的解決の道」で、軍役負担を負いたくないというのが本音です,
そういう中で河野氏のような外様の弱い立場の守護たちに、まず動員命令が下され第一線に立たされています。
もちろん、河野氏だけが動かされたわけではありません。嘉占の乱の場合には、山陰に大勢力を持って、赤松の領国を取り巻く国々を押さえていた山名氏が討伐軍の主力になります。そして好機と見れば、戦功を挙げて守護国を増やしています。それに比べると河野氏は、いつも割りの悪い軍事動員の役を負わされたと研究者は指摘します。このため河野氏は大変な消耗を強いられます。
当時の合戦は、将軍から命令を受けても、兵糧や軍資金をくれるわけではありません。
自前の軍事力、経済力で出兵というのが、古代の防人以来のこの国の習わしです。河野氏が度重なる動員を行えたというのは、その背景に相当の経済力をもっていたことになります。
以上をまとめておくと
①室町時代半ばになると有力な守護が領国体制を作り上げていた。
②その時期に、河野氏は相次ぐ中央の戦争に切れ日なく動員されていた。
③これは河野氏の領国支配体制の強化がお留守になっていたことを意味する。
④別の見方をすると瀬戸内海交易で得た財力が、国内統治強化に使われずに、幕府の軍事遠征費として使用されたことになる。
 これが河野氏が領国支配体制を強めていくためには大きなマイナス要因になったと研究者は指摘します。そう考えると河野氏はある意味で、守護であることによってかえって貧乏クジをひいたともいえます。守護でなければ、国内に留まり、瀬戸内海交易を通じて得た財力で周囲を切り従えて戦国大名へという道も開けたかもしれません。
  こうして見てくると、讃岐に香川氏以外に戦国大名が現れなかった背景が見えてくるような気がします。讃岐も管領細川家の軍事供給として「讃岐の四天王」と呼ばれる武士団が畿内で活躍します。しかし、それは本国の領国支配への道をある意味では閉ざした活動でした。学ぶ点の多いテキストでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「永原啓二   伊予河野氏のの大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p」

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大山祗神社1

 大山積神社は芸予諸島の真ん中にあり、一番大きな大三島にあります。古来から瀬戸内海交易ルートのど真ん中にあるで、モノと人が行き交う流通ルートに位置していました。この神社の由緒は古く延喜式内社で、のちに一ノ宮と称せられ、明治時代には国幣大社となっています。この神社には、有名な武将たちが奉納した鎧兜・太刀等が数多くあります。その数量は国宝七点、重要文化財七四点に達し「刀剣・兜の宝庫」ともいわれます。平安初期から鎌倉・室町・戦国・江戸の各時代を通じての、逸品が時代を超えて納められています。
大山祗神社 甲冑1

例えば国宝に指定されている平安期のものを4つ挙げてみると、
①わが国最古の作品といわれる沢潟威鎧兜(国宝)
②源頼朝が寄進したという豪壮華麗な紫綾威鎧(平安末期の制作 国宝)
③源義経の奉納と伝える赤糸威胴丸鎧(平安末期、国宝)
④伊予の豪族河野通信の寄進にかかる紺糸威鎧兜(平安末期 国宝)
  武将が武具類を奉納した背景には、祭神大山祗神が海の守護神であるとの信仰があったようです。
「大山祗神社=大三島神社=海の神様」というイメージを私も、何の抵抗もなくうけいれてきました。しかし、考えて見れば、大山祗神そのものは山の神です。それが、なぜ海の神に「変身」したのでしょうか。そこには、神社をとりまくいろいろな社会事象があったようです。それを今回は見ていく事にします。

大山祗神2
 大山祗神は、もともとは山を祀る神
 この神社の祭神は大山祗神であって、大山積・大山津見とも書き、三島大神・三島大明神とも呼ばれました。今では大山祗と表記しますが、古くは大山積でした。『古事記』によると、大山祗神はイザナギ・イザナミの二神の子です。この神を同書および『日本書紀』の一書では山の神とし、また書紀の一書に火神の分神としています。大山祗とは山津持を意味し、山を持つ神すなわち山を掌る神としています。
大山祗神1
大山祗神
 また古事記では、伊井諾命が十拳剣カグツチ石神を斬った時、オド山津見神・奥山津見神・志芸山津見神・羽山津見神・原山津見神・戸山津見神らの山神が生まれたことを伝えます。本居宣長の説によると、大山祗神はこれらの山神を統轄する神であるとしています。
 ところが、天平二十年(七四八)までに編集されたと思われる『伊予国風土記』逸文のなかに大山祗神に関する異説が記載されています。そこには次のように記されます。

 宇知(越知)郡御島坐神御名大山積神、一名和多志大神也、是神者仁徳天皇御世、此神自百済度来坐而津国坐云々、謂御島者津国御島名也、
この本文のなかの「宇知」は「乎知」(すなわちのちの越智)の当字と考えられます。意訳変換しておくと、
越智郡の大三島に鎮座する大山祗神は、別名を和多志大神と称する。この神は仁徳天皇の時代に百済国から渡来して津国(伊予)に鎮座したという。御島とは伊予の島名である。

ここに書かれる津国の神社とは、式内社の三島鴨神社のことのようです。伊予以外に、由緒の古い三島神社は、伊豆国賀茂郡にもあって、同社の金石文によると天平二年に伊予国から勧請したと記されます。これらの三島神社が賀茂氏と関係が深いこと、また伊予国越智郡内に鴨部郷があるので、はじめは伊予国には賀茂氏の手によって勧進されたと研究者は考えます。
 越知氏が越智郡司となって権勢が強大になると、越智氏は大山祗神を氏神(一族の守護神)として祭祀するようになります。
 風土記逸文のなかに書かれた大山祗神の説話については、次のようないろいろな解釈があります。
その1 仁徳期の朝鮮半島遠征の際に、従軍した越知氏がもたらした説
しかし、仁徳期に、越智氏とよぶ強大な部族の出現は視られません。越知氏の存在が分かるのは7世紀になってからです。この説を研究者は次のように考えています。
「この説話は史実ではなく、恐らく風土記が編集されたころ、大山祗神が百済国から渡来したとの伝承が醸成せられていたのであろう。この説話の背景に、先進国家百済国と関係づけ、その評価を高めようとする考えがひろく存在していたことがうかがえる。」

  その2 越智直が百済救援軍に参加した伝承と深い関係があるとする説
『日本国現報善悪霊異記』のなかに、越智直が百済に出征した際、不幸にして唐軍の捕虜となり中国に拉致され、九死に一生を得て帰国した。朝廷ではその労苦をねぎらうため、彼の要望によって越智郡がつくられた旨を述べています。そこで、彼が帰国した事件を奇縁として大山祗神が百済から渡来したとの説話を生むようになったと解釈する説です。
   霊異記は弘仁十三年(812)に景戒の手によって編集された仏教説話集です。そのため大部分は因果応報物語で、資料的な信憑性について問題があるのは当然です。研究者達は次のように指摘します。
「この説話は史実として見るべきではなく、越智郡の創設された時期を推察する一参考資料として取扱わなければならない」

大山祗神が百済から渡来したとの説話を、霊異記と関係づけて伝承史料とするには、無理があるようです。
 仏教が伝わり、平安時代中期に神仏習合思想がおこり、日本の神々の本地は印度の仏菩薩であり、仏菩薩が衆生を救済するために神の姿で現れると説きます。
大山祗神は、どんな仏が神様に「変身」したものなのでしょうか?
伊予の豪族河野家で編集された『予章記』・『予陽河野家譜』等によると、大山祗神の本地仏は大通智勝仏としています。大通智勝仏は法華経化城喩品の中に登場する仏で、はるか昔に出世した仏となっています。
大通智勝仏
 大通智勝仏
大山祗の本地仏を大通智勝仏としたのなぜでしょうか? 
それは本社を祀った越智氏(のちの河野氏)が、自分の姓の越智すなわち「知慧に越ゆ」ことから出発して、仏教思想に結びつけたからのようです。また平安末期の河野通清・通信をはじめとして、その嫡子たちが名前に通の字を使用したのも、大通智勝仏にあやかったからでしょう。後世の記録ですが『北条五代実記』のなかには、このことについて次のように記します
 抑三島大明神卜申ハ 元来ハ伊予国二御鎮座アリ、(中略)本地ハ大通知勝仏ニテ御座ス、是二依テ彼御神ノ氏人伊予河野ノー門ハ、今二至テ大通ノ通字ヲ名乗トカヤ、越智ノ姓是也、

意訳しておくと
そもそも三島大明神は、もともとは伊予国に鎮座していた。(中略)
その本地仏は、ハ大通知勝仏である。ここにこの神の信者(氏人)の伊予河野ー門は、今にいたるまで大通の通字を名乗るという。越智の姓もそうである。
大通智勝仏の弟子達1
               大通智勝仏の弟子達

 大山祇神社の創建については、『予章記』などの郷土史料に次のような「創建説話」があります。

越智玉興が海路により伊予国に帰る途中、備後国の沖で飲料水の欠乏に苦しんだ時、霊験によって潮中に清水を得て、苦難をまぬかれた。そこで玉興はこの奇瑞を朝廷に報告し、勅宣によって大三島に社殿を造営し、大山積大明神と称した
 
創建説話とは別に、確実な史料によって本社の変遷をたどってみましょう。
『続日本紀』天平神護二年(七六六)四月の条に、大山祗神に神階従四位下と神戸五戸があてられています。
天平神護二年夏甲辰、伊予国神野郡伊曾乃神、越智郡大山積神、井授従四位下、充神戸各五戸、

この記事によってすでに奈良時代には本社が存在し、地域の尊崇をうけていたことが分かります。さらに大同一年(八〇六)に神封五戸があてられ(『新抄格勅符抄)承和四年(八三七)に明神に列しています(『続日本後紀』)。

大山祗神社3

 延長五年(九二七)に『延喜式』の編集が完成し、その神名帳のなかに、本社が国幣大社として記載されています。神名帳に登載された神社は、延喜式内社と呼ばれ、古くから朝廷の尊崇をうけ、祈年の頒幣に預かった官社でした。その中でも神祇官の祀る神社を官幣社、国司の祀る神社を国幣社と称しました。国幣社に指定されていたという事は、この神社が特別な厚遇をうけ、また国との関係も深かったことが分かります。
 天慶三年(九四〇)九月に封戸が施入されますが、これには藤原純友の乱討平の祈願がこめられていたようです。その後も幾たびかの火災に遭いながら現在の本殿および拝殿が再建されたのは、応永年間(一三九四~一四二八年)のことです。

大山祗神社2

さて、この神社を神仏混交時代に管理していたのはどのような人たちでしょうか
 この神社には早くから塔頭が置かれ僧侶が勤務していたことが『大山積神社文書』によって分かります。また大三島の『神原文書』からは、大三島の十六坊が16世紀初頭の文亀年間にはあったことも分かります。ここからも神仏習合の下に、社僧による神社の管理が行われていたことがうかがえます。そして社僧の多くは熊野系の山岳修験者であったようです。

越智氏の台頭と大山祗神社の関係は?
大山祗神社の保護者であった越智氏は、古代末期に風早郡河野郷に移住して河野氏と称するようになります。河野氏はどんな一族だったのでしょうか?また、どのような過程をたどって武士化したかのでしょうか。
 越智氏の出自については、古くからいろいろの説があります。
①孝霊天皇の子伊予親王から出た説(『予章記』・『予陽河野家譜』による)
②武内宿禰から出た説(一条院坊宮内侍原刑部卿家蔵本『河野系図』による)
③大山祗命から系統を引く説(『三島系図』および『水里玄義』による)
④伊予御村別の祖先である武国凝別命から出た説(『和気系図』・『与州新居系図』による)
 これらの説に対し考証がすすめられた結果、現在ではニギハヤヒ命から出た小致命の子孫とする説(『天孫本紀』・『国造本紀』による)が妥当なものと研究者達は考えているようです。
 越智氏は、はじめ伊予国の中枢部に位置する越智地区を本拠としていました。
『国造本紀』によると応神天皇の代に大新川命の孫の小致(おち)命が国造に任ぜられています。その後、越智郡が設置されると、その子孫は越智郡司に任命されます。したがって、越智氏は国造→郡司のコースを歩んだ地方豪族のようです。

 越知氏が郡司であったことを物語る史料は「正倉院文書」の「正税出挙帳」です。
これは天平八年(七三六)に伊予国から政府へ提出された正税に関する報告書で、次のように記されますある。
   郡司 越知直広国 主政越知東人
  「?」税穀「?」千伍栢弐拾肆餅玖斗陸升参合
  頴稲肆万伍仔陸俗五拾漆束捌把
  出挙壱万弐千束
  借貸壱万「?」
  「?」伍拾漆東捌把
この記録には、大領の越智広国と主政の越智東人らの名が見えます。さらに『続日本紀』の神護景雲一年(七六七)二月二十日の条によると、大領の越智飛鳥麻呂が「あし絹」および銭貨を献納した功によって、外従五位下に叙せられています。

神護景雲元年二月庚子、伊予国越智郡大領外正七位下越智飛鳥麻呂、献絶二百舟疋銭一千二百貫、授外従五位下。

当時は物資を献納して叙位されることはよく行われていました。ここからは越智氏が開発領主として大規模な農地経営に乗り出して経済的な成長を背景に位階を高めている様子がうかがえます。
 海賊討伐と越智氏の武士化
 古代律令体制の傾きとともに、瀬戸内には海賊が横行するようになります。伊予国も彼らの震源地となります。治安の維持のために警備増強が求められるようになります。しかし、海賊の横行は激しくなるばかりで官物を強奪し、人の命を奪うので瀬戸内海の交通も途絶えがちになります。『日本紀略』『本朝世紀』・『扶桑略記』等には、朝廷が各国府に対し山陽・南海の両道の海賊を逮捕するように命令し、諸社には海賊鎮圧の祈願をさせた記事が載せられています。
 このような中で伊予では、藤原純友が瀬戸内の海賊をまとめて、宇和郡日振島を拠点にして反乱をおこします。越智郡司であった越智氏も、政府の討伐指令に従って動いたはずですが、正史のなかにその名を見出すことはできません。
信頼できる史料によって、それ以後の越智氏の活躍を追ってみましょう。
『貞信公紀抄』によると、越智用忠が海賊の平定につくしだので、天暦二年(九四八)七月にその功労を賞するために、国衙から叙位を申請しています。
天暦二年七月十八日、伊予国申、越智用忠依 海賊時功、可叙位解文等、
令公輔朝臣奏之、加用忠貢書即還来、伝仰可被叙之状、
この海賊がどこのものであるかは解りませんが、純友の一軍だったものかもしれません。
また『権記』によると、長保四年(1002)に越智為保が伊予追捕使に任ぜられています。
 長保四年三月十二日戊申、(中略)伊予追捕使越智為保任符、
奉送前守許、依有彼守之所示、令労成也、
さらに『除目大成抄』によると、
治安三年(1023)に越智時任が大目に(『江家次第』)
永久五年(1117)に越智貞吉が大徐に任ぜられている(『除目大成抄』)
越智氏はもと武官ではありませんでした。しかし、在庁官人の地位を長く占める事で、中世の混乱かの中で在地土豪化し武装化するようになったようです。そして「海賊討伐」などを通じて地方の兵権に関わり、彼ら自身が武士集団化するようになります。当時の愛媛の在庁官人層は精神的な拠点として大山祗神社を重視し、その祭祀に務めていました。
大山祗神社6重文宝塔

 越智郡を本拠とした越智氏は、親清の代に風早郡河野郷に移ります。
そこで中世には姓を河野氏ともよばれるようになります。越智氏一族の移動した時期は、十二世紀の前半期のようです。河野氏は道前と道後との境にある髙縄山(986㍍)に城砦を築きます。
河野氏は武士団を結成するにあたって、越智郡から風早郡にわたる地域の中小領主層を多く従え、家臣団を組織していきます。その間、家臣による私有田経営も行なわれ、また荘園の開発も積極的にすすめられたようです。こうして河野氏一族の所領は、伊予国の各地域に拡大されていきます。
 一方河野氏は、引き続き大山祇神社を氏神として奉祀します。
また風早郡内の式内社である国津彦神社・櫛玉姫神社も尊崇します。これらの神社を本所とし、みずから領家となった荘園も出てきます。
大山祗神社5

  大山祗神は武士団の団結を誓う聖地へ
 源平の争いである保元・平治の二大乱(1156・1159)の結果、西国に根拠地を持つ平氏が源氏の勢力を圧倒して、一門の極盛時代を迎えます。河野氏は源氏に親しかった関係から、平氏の制圧をうけて失意時代を経験することになります。しかし、それも長くは続きませんでした。治承四年(1180)八月に、源頼朝が平氏討伐の兵をあげると、河野通清・通信父子はこれに応じ(『吾妻鏡』・『源平盛衰記』)高繩山城に兵を集結させます。
 さらに源義経が四国に上陸すると、その指令によって屋島・壇の浦海戦に舟師を率いて活躍しました。また義経の死後、頼朝は奥羽の藤原泰衡を討って、全国の統一をはかりますが、この奥州征伐に河野通信が従軍したことは『吾妻鏡』に詳細に記述されています。ここからは河野通信は頼朝に非常に近かったことがうかがえます。そのため河野家は頼朝亡き後の北条氏政権に素直に従えないところがありました。
 こうして上皇方に加担した河野氏は敗軍となります。
通信は伊予国に帰り、高縄山城によって抗戦しますが、幕府の征討軍によって陥落し、通信は傷ついて捕えられ、奥州平泉に配流されます。
 『築山本河野家譜』・『予陽河野家譜』には、承久の変のまえにして、通信は大山積神社に参詣し神託を請うたところ「幕府に応ずべし」とあったにかかわらず、神慮に背いて上皇側に味方したと書かれています。
 これは家譜の編者が承久の変における結果論から「創作した説話」とも考えられますが、その背後に大山祗神に対する崇敬心の厚かったこともうかがえます。

大山祗神社117

 承久の変によって、河野家は衰微の過程をたどります。これを再建したのは通信の孫通有です
彼は元寇で功績をたてます。通有は文永の役(1274)の後、幕命によって防衛のために九州に出動することになります。その際に『八幡愚童記』によると、大山祇神社に参詣し
「一〇年以内に蒙古が来襲しなかった場合、異国に渡って戦いを敢行する」
との起請文を神前に捧げ、これを焼きその灰をのんで武運の長久を祈願したという話を載せています。
 この後に、弘安の役(1281年)に通有は、博多湾内の志賀島の海戦に大きな功を挙げます(『八幡愚童記』・『蒙古襲来絵詞』)
 このエピソードからは、河野氏が大山祇神を深く信じていたことが分かります。
また河野氏にとって、大山祗神社が一族の精神的な精神的拠点であり、危機的事案が乗じたときには一族で、ここに集まり協議し、祈願したのです。そのため、この神社の神事費用は一国平均役として調達されたようです。これらの史実・伝承からは、河野氏が軍事的に海上に活躍する際には、お山の神様である大山祗神に海上の守護神の性格を習合していたことが見えてきます。

大山祗神社52

 長々と大山祇神社と越知氏(河野氏)の関係を述べてきましたが、ゴールにたどり着いたようです。武士化した越知氏、河野氏にとっては、戦いは海上戦を伴うものでした。そこでその戦いの勝利をもともとは「山の神様である大山祗神」に祈るようになったのです。
 こうして大山祗神社は、一族的な団結を図る聖地として機能すると同時に「海の神様」としての信仰を集めるようになったようです。

 

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