瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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近世の三豊郡内では仁保(仁尾)港・三野津港・豊浜港が廻船業者の港として繁盛したようです。中でも仁保港は昔から仁尾酢、仁尾茶の産地で、造酒も丸亀藩の指定産地となっていました。そのため出入りする船も多く「千石船を見たけりや仁尾に行け」といわれたようです。
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湛甫があった観音寺裁判所前 
 仁尾に比べて、観音寺港はどうだったのでしょうか。
江戸時代の観音寺港の様子を見ていきます。
観音寺港は、財田川が燧灘に流れ込む河口沿いにいくつかの港が中世に姿を見せるようになることを前回は見ました。江戸時代の様子は「元禄古地図」を見ると、今の裁判所前に堪保(たんぽ=荷揚場)があり、川口(財田川)に川口御番所があったことが分かります。
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「官許拝借地」の境界碑が残る湛甫周辺
 各浦には、どのくらいの船があったのでしょうか
  上市浦  加子拾弐軒  舟弐艘
  中洲浦  加千  九軒 舟六艘
  仮屋浦  加千 廿七軒 舟六拾五艘
  下市分  加子  六軒 舟拾七艘
       加千  八軒 漁舟十五
  漁船の数も大小ふくめて総数九〇嫂程度で、その中の65隻は伝馬船であったようです。多い順に並べると仮屋の65隻がずば抜けて多いようです。仮屋は、現在の西本町にあたり、財田川の河口に近く当時の砂州の西端にあたる地域です。東側が「本町」で、漁師たちが作業用の仮屋を多く建てていたところが町場になった伝えられるところです。この地域に漁業や櫂取りなど海の仕事に携わる人々が数多くいたようです。
また、17世紀後半の元禄4年に琴弾神社の別当寺であった神恵院から川口番所に出された文章には次のようにあります。
 伊吹島渡海之事  
     覚
 寺家坊中並家来之者 伊吹嶋江渡海仕候節 
 川口昼夜共二御通可被下候 
 御当地之船二而参候ハ別者昼斗出船可仕候
   元禄四辛未三月     神恵院 印
      観音寺川口御番所中
 右表書之通相改昼夜共 川口出入相違有之門敷もの也
   元禄四年     河口久左衛門 判
           野田三郎左衛門 判
   観音寺川口御番所中

神恵院は、伊吹島の和蔵院を通じて伊吹八幡神社を管轄する立場にありました。伊吹島と観音寺の間には頻繁な人と物の交流が行われていました。その際にいつしか、財田川の河口の番所を通過しない船が現れれるようになってきます。室本港などが使われたのかもしれません。深読みすると、番所に分からないように、モノや人が動き出したことをうかがわせます。そのような動きを規制するためにこの「達し」は出されたようです。この「指導」により今後は番所を通過しなければならないことが確認されています。このように観音寺港に「舟入」を管理する番所が置かれていることは、交易船の出入りも頻繁に行われていたことがうかがえます。
それでは当時の伊吹島の「経済状況」は、どうだったのでしょうか
伊吹島の枡屋の先祖は北前船で財を成し、神社に随身門を寄付しています。弘化禄には
「1702年(元禄15)八月伊吹神門建立、本願三好勘右衛門、甚兵衛」
とあり、三好勘右衛門と甚兵衛の両人が伊吹島の八幡神社の門を寄進したと記します。二人は、後の枡屋一統の先祖に当たる人物で、二隻の相生丸を使って北前交易を行い財を成し、随身門を寄進したと子孫には語り継がれているようです。
この三好家には、寛保年間の文書が残っていて、取引先に越後(新潟)出雲崎の地名や、越後屋・越前屋・椛屋等の問屋名が記されています。 
出雲崎で伊吹島枡屋八郎が取引した商品
観音寺 港2
 
積み荷には、薩摩芋・黒砂糖・半紙・傘・茶碗等で、これらを売って、米を買い求めています。この米を大阪市場に運んでより高い利益を上げていたのでしょう。このように、当時の塩飽諸島が北前交易で栄えていたように、伊吹島も交易で大きな富を築く者が現れ「商業資本蓄積」が進んでいたと云えるようです。
 ちなみに枡屋一統というのは、伊吹島の三好家のグループで主屋・北屋・中等の諸家がこれに所属していたようです。この一族によって、昭和43年に島の八幡神社の随身門の修理が行われたと云います。
このような伊吹島の北前交易による繁栄を、対岸の観音寺も見習ったようです。18世紀半ばになると、観音寺船の北前航路進出を物語る史料が出てきます。
 
観音寺 港3
 浜田市外ノ浦の廻船問屋であった清水家に所蔵されている客船帳「諸国御客船帳」です。これには延享元年(1744)から明治35年(1902)の間に入港した廻船890隻が記載されています。国別、地域別に整理され次のような項目毎の記録があります。
出(だ)シ、帆印(ほじるし)及び船型、船名、船主、船頭名、船頭の出身地、入津日、出帆日、積荷、揚荷、登り、下り、出来事(論船、難破船、約束など)。この港に近づいてきた船の帆印を見て、この船帳で確認すれば、どこのだれの船で、前回はどんな荷を積んできたのかなど、商売に必要な情報がすぐに得られるようになっています。商売に関わる大切な道具なので、大事に箱に入れ保管されていました。
  この船帳には「観音寺港所属船」として6隻が記されています。
   (貨客船)   かんおんじ
住徳丸 近藤屋佐兵衛様  文化五辰五月十六日入津
            くり綿卸売・あし・干鰯卸買
     文右衛門様  同 二十一日出帆 被成候
西宝久丸 旦子屋彦右衛門様文政四巳四月廿二日入津   
伊勢丸 根津屋善兵衛様  弘化四未六月十七日登入津 
             大白蜜砂糖卸売
             十九日出船被成候
伊勢丸 瀬野屋伊右衛門様 寛政十一未四月朔日下入津 塩卸売
天神丸 びぜん屋宇三郎様 寛政十一未四月朔日下入津 塩卸売 
     宮崎屋利兵衛様
観音丸 あら磯屋忠治郎様  天保四巳三月廿八日下入津 くり綿売
 
ここからは次のような事が分かります。
①18世紀末の寛成年間から天保年間に岩見の浜田港に観音寺船籍の北前船が6隻寄港している
②同一の船主船が定期的に寄港してたようには見えない
③綿・砂糖・塩を売って何日かの後には出港している
④入港月は3月~6月で、讃岐から積んできた物産を販売している
⑤観音寺に北前交易に最低でも6人の船主が参加していた
   つまり、自前の船を持ち北前交易を行う商人達が観音寺にもいたことが分かります。彼らのもたらす交易の富が惜しげもなく琴弾神社や檀那寺に寄進され、観音寺の町場は整えられて行ったのでしょう。
観音寺 交易1

  19世紀になると、大阪と観音寺を結ぶ定期航路的な船も姿を見せます。京都・大阪への買付船につかわれた観音寺中洲浦の三〇石船
  この船は、漁船として登録されていますが三〇石船です。帆は六反から八反ものが多く、船番所で鑑札を受ける際に、帆の大きさによって税金(帆別運上)を納めることになっていました。税率は「帆一反に付銀三分」とされていたようです。
この船は、広嶋屋村上久兵衛と仮屋浦山家屋横山弥兵衛の共有船でした。1804年(享和4)、に大坂への航海がどんな風に行われたのかが記録として残っています。この時にこの船をチャターしたのは「観音寺惣小間物屋中」で、その際の記録と鑑札が、 観音寺市中新町の村上家に残っていました。
観音寺 舟1
表には
讃州観音寺中洲浦 船主久兵衛
漁船三拾石積加子弐人乗
享和四子年正月改組頭彦左衛門
とあり、船籍と船主・積載石30高・乗組員2名と分かります。
裏には
篠原為洽 印
戸祭嘉吉 印
享和四甲子年正月改
観音寺 舟
記録からは、
①観音寺小間物屋組頭格の下市浦の嘉登屋太七郎が音頭を取って
②下市浦から菊屋庄兵衛・塩飽屋嘉助・辰己屋長右衛門の三名、
③酒屋町から広嶋屋要助・広嶋屋惣兵衛の二名、
④上市浦から森田屋太兵衛・山口屋嘉兵衛・広嶋屋儀兵衛、荒物屋佐助の四名、
⑤茂木町から大坂屋林八二一野屋金助・大坂屋嘉兵衛・山口屋重吉の四名、
⑥計一五名が仕入・買積船としてチャターし、
⑦運賃や仕入買品物の品質責任・仕入支払金は現金で支払うこと
などを事前に契約しています。
つまり、小間物屋組合のリーダーが組合員とこの船を貸し切って、大阪に仕入れに出かけているのです。
同時代に伊吹のちょうさ組は太鼓台を大阪の業者に発注し、それを自分の船で引き取りに行っていたことを思い出しました。「ちょっと買付・買物に大阪へ」という感覚が、問屋商人の間にはすでに形成されていたことがうかがえます。
観音寺 淀川30石舟
淀川の30石舟

 当時は大阪からの金比羅船が一日に何隻もやってきくるようになっていました。弥次喜多コンビが金比羅詣でを行うのもこの時期です。民衆の移動が日常的になっていたことが分かります。
 ちなみに、この船も日頃は金毘羅船だったようです。現大阪市東区大川町淀屋橋あたりの北浜淀屋橋から出航し、丸亀問屋の野田屋権八の引合いで丸亀港に金毘羅詣客を運んでいたのです。丸亀で金毘羅客を降ろした後は、観音寺までは地元客を運んでいたのでしょう。丸亀と 観音寺の船賃は、200文と記されています。
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弥次・喜多が乗った金比羅船
   安芸・大島・大三島への地回り定期航路
 瀬戸内海の主要航路からはずれて、地廻り(地元の港への寄港)として伊吹島にやってくる北前船もあったようです。しばらく、地元での休養と家族との生活し、船の整備などを行った後に出港していきます。そのルートは、円上島・江ノ島・魚島の附近を通り、伯方島の木浦村沖を通り、大島と大三島の開から斎灘へ出るコースがとられたようです。

観音寺 舟5
 
地図を見ると仁尾や観音寺が燧灘を通じて、西方に開けた港であったことが分かります。このルートを逆に、弥生時代の稲作や古墳時代の阿蘇山の石棺も運ばれてきたのでしょう。そして、古代においては、伊予東部と同じ勢力圏にあったことも頷けます。
   このことを裏付ける難破船の処理覚書があります。
「難破船処理の覚書」1760年(宝暦10)11月30日です
一、讃州丸亀領伊吹嶋粂右衛門船十反帆 船頭水主六人乗去ル廿三日却 伊吹嶋出船 肥前五嶋江罷下り僕処 憚御領海通船之処同日夜二入俄二西風強被成 御当地六ツ峡江乗掛破船仕候 早速御村方江注進仕候得者 船人被召連破船所江御出被下荷物船具ホ迄 御取揚被下本船大痛茂無御座翌廿五日村方江船御漕廻シ被下私自分舟二而為差 荷物も無御座候故 何分御内証二而相済候様二被仰付 可被下段御願中上候処 御聴届被下候所 奉存候 積荷明小樽 菰少々御座候処 不残御取揚被下船具ホ迄少茂紛失無御候 船痛 所作事仕候而無相違請取申候得者 此度之破船二付 御村方江向 後毛頭申分無御座候以上
  宝暦十辰年十一月枡日
            水子 善三郎
            〃  忠丘衛
              ” 万三郎
              ” 太兵衛
              ” 藤 七
            船頭 粂右衛門
   木浦村庄屋 市右衛門殿
       御組頭中
意訳すると
讃岐丸亀藩伊吹島の粂右衛門所有の十反帆船(二百石船)が船頭水主6人を乗せて11月23日に伊吹島を出港して肥前五島列島に向けて航海中に、今治藩伯方島付近に差しかかったところ、突然に強い西風に遭い、座礁破船した。村方へ知らせ、積荷や船具は下ろしましたが、幸いにも船の被害は少なく、25日には付近の港へ船を廻航しました。自分の船でありますし、積荷も被害がありませんので、何分にも「内証」(内々に)扱っていただけるようお願いいたします。
 と船頭と船員が連名で木浦村の庄屋に願い出ています。
この書面を添付して、木浦村の庄屋は、
①難破船の船籍である伊吹島の庄屋
②今治藩の大庄屋と代官・郡奉行
に次のように報告しています

  右船頭口上書之通相違無御座候 以上
 橡州今治領木浦村与頭  儀丘衛 印
           同 伊丘衛 印
          庄屋 市右ヱ門印
   讃州丸亀御領伊吹嶋庄屋
        与作兵衛殿

右破船所江立合相改候処 聊相違無之
船頭願之通内証二而相済メ作事
出来二付OO同晦日 出船申付候 已上
         沖改 庄屋   権八 印
         嶋方大庄屋  村井 嘉平太印
辰十一月晦日
         嶋方代官手代 吉村 弥平治印
         郡奉行手附  木本五左衛門印
  伊吹嶋庄屋
      与作兵衛殿

このように、伊吹島の200石の中型船が九州の五島列島との交易活動を行っていたことが分かります。同時に海難活動について、国内においての普遍的な一定のルールがあり、それに基づいて救難活動や事後処理・報告がスムーズに行われていることがうかがえます。
 明治時代になっても地域経済が大きく変化することはありませんでした。鉄道が観音寺まで通じるのは、半世紀以上経ってからです。それまでは、輸送はもっぱら船に依存するより他なかったのです。そこで地元資本は海運会社を開設し、汽船を就航させ、大阪への新たな航路を開くのです。観音寺からも仁尾や多度津を経て大阪に向かう汽船が姿を現すようになります。
 鉄道がやってくるまでの間が観音寺港が一番栄えた時かもしれません。
 参考文献 観音寺市誌 近世編

   今では、太鼓台と聞くと蒲団型や屋根型のものだけを思い浮かべがちです。でも、太鼓台が現れた時には、櫓型・四本柱型・平天井型などの多様な太鼓台があったようです。そのような中で、大坂の難波神社の祭礼に布団太鼓台が現れ、19世紀初頭には大型化して行きました。
f6b9a9a9ふとん太鼓か?/摂津名所図会
         19世紀初頭 難波神社の布団太鼓
それが瀬戸内海の交易を通じて津々浦々の港町の祭礼記録に布団太鼓台が登場するのは、早くて18世紀前半、讃岐から東伊予では、18世紀後半になるようです。そこでは「神輿太鼓」と書かれていることが多く、担ぐ祭礼奉納物として神輿に御供していたようです。
 瀬戸内海で、初めて「太鼓台」と表記した一番も古い記録は天保5年(1834)のもので、これは姫路市の屋台(神輿屋根型太鼓台)の大工図面に書かれています。
 三豊の近隣地方での太鼓台関連の記録で古い物を並べて見ると、次のようになります
「神輿太鼓」寛政元年  (1789)伊予三島、
「ちょうさ太鼓」寛政元年(1789)大野原、
「神輿太鼓」文化3年   (1806)川之江、
「太鼓」文化5年     (1808)伊吹島、
「ちょうさ太鼓」文化6年 (1809)観音寺、
「輿太鼓」文化10年   (1813)琴平、
  これらは「太鼓」とは記されていますが「太鼓台」とは書かれていません
香川県下に太鼓台は、どれくらいあるの?
 いま、讃岐の太鼓台は、約350台ほどだと云われています。
地域別では西讃(観音寺・三豊)が最も多く155台、
中讃(坂出・丸亀・善通寺・宇多津・多度津・琴平・まんのう)の101台、
東讃(高松・さぬき・東かがわ)の42台、
小豆島と直島地区で52台で、
讃岐の西部が太鼓台密度が高いようです。
中・西讃及び小豆島では、大型で豪華な形態が多く、
東讃や島嶼部では、比較的簡素な太鼓台
があるというのも特徴のようです。香川県は人口や面積の上では規模は小さいが、こと太鼓台に関しては、大変盛んな土地柄のようです。
太鼓台はどのようにして讃岐にやってきたのでしょうか?
 太鼓は当初は大坂などに、直接注文したようで、その記録が伊吹島(観音寺市)に残っています。その太鼓台新調の記録を見てみましょう。燧灘に浮かぶ伊吹島は、財力のある網元や廻船の船主が多くいる豊かな島でした。そこには多くの水主や網子たちが集まり賑わいを見せていたのです。そして、これも大坂との海のルートの結びつきを通じて、大坂難波神社の太鼓台が「勧進」されたようです。
 伊吹島には上・中・下の3つの組がありますが、それぞれの組にのこる「太鼓寄(記)録帳からは、新たな太鼓台の発注についての記事が残っています。
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たとえば、 文化5年(1808)の上若(上ノ町)の「太鼓寄録帳」には文化6年(1809)に
「太鼓新に拵る者也」
とります。ここからは初めて作ったのか、以前からあったものを作り替えたのかは分かりません。この時は、伊予の大嶋(新居大島)の大工に製作させたことが記されています。
 また、約50年後の安政4年(1857)にも
「太鼓新二拵替二付諸入用」
とあります。この時には、大坂や京に本体から布団、太鼓、金具、幕まで一揃えを発注し、地元の船で取りに行っているのです。伊吹島が漁業のみならず廻船などの交易においても、大坂と海でストレートに結びついていたことをうかがわせるエピソードです。
 また、中組(中之町)は天保4年(1833)から記録が始まっています。その年に大坂で太鼓台を新調しています。そして12年後の弘化2年(1845)には、太鼓台を入れる蔵を新築しています。太鼓蔵には文政6年(1823)銘の「太鼓水引箱」があるので、この時は作り替えの記録のようです。
そして伊吹島の下組の記録です。
ここには安政3年(1856)の太鼓台の新造に関する見取図と見積書が残っています。
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見積先は大坂の呉服太物商平井小橋屋(おばしや)です。
  幕末の伊吹島の八幡神社の祭礼には3つの組から布団太鼓台が担ぎ出されて賑わいを見せていたようです。そして、ある組が大坂に新調すると他の組も競い合うように、新たな太鼓台を発注しています。そして、その発注先は大坂なのです。難波神社に奉納されていた太鼓台と同じスタイルの物が見取図が、制作元から送られています。そして、制作元は以前に発注した組のものよりもより、大きく豪華な太鼓台を提案し、依頼側の要望に応えようとしたはずです。
荘内半島の箱浦の惣社宮に、奉納されていた太鼓台です。
 
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この太鼓台は本体・装飾の刺繍幕・保管箱などの全ての制作年代が分かっている貴重なものです。
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太鼓台本体と初代蒲団は明治8年(1875)、
掛蒲団が明治14年(1881)、
水引幕が明治29年(1896)、
二代目蒲団が明治41年(1908)です。
これらを見ると、明治時代を通じて箱浦の人たちが太鼓台の懸装品を整えらていったことがわかります。
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また、この太鼓台がつくられた時代は、西讃や東予の太鼓台が巨大・豪華へ発展した時代にあたります。その過程をうかがえる貴重な存在と研究者は指摘しています。そいう意味ではこの太鼓は「明治期の基準太鼓台」と言うべき遺産のようです。
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この地区では三豊では珍しく「ちょうさ」と呼ばずに屋台とよんできました。この太鼓台が箱浦に姿を見せたのは、明治維新後で、もう150年ほど前のことになります。
 明治中期になると、三豊の太鼓台は、競うように巨大化し華美に突き進んでいきました。その流れの到達点に現在の太鼓台はあるのかも知れません。そのような中で明治初めの太鼓台がこうして残っていると云うことはありがたいことです。百年前の古い太鼓台の装飾品などが残っているというのは希有なことです。
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この太鼓台は、制作年代が判明している装飾品がたくさんあります。
特に「刺繍太鼓台」が特徴である北四国で、時代確証のある古い刺繍作品をまとう箱浦屋台は資料的価値が高いと研究者は云います。
 幕末から明治初期に架けて、備讃瀬戸の沖を行く大型廻船の望める荘内半島の先端近くで登場した箱浦の太鼓台。この太鼓台がまとう太鼓台・古刺繍は、今は見えなくなってしまった瀬戸内海をめぐる各地域の太鼓台のつながりやの関連性を無言で語りかけているのかも知れません。
 特に掛蒲団4枚「泗呑歌子・源頼光一渡辺綱・坂川金時」は印象的な図柄で、大江山の鬼退治で構成されている。箱地区ではちょうさてはなく、屋台と呼んでいた また、屋台の太鼓をたたく子どもたちは獅子舞の太鼓打ちも兼ねていて、唐子風の衣装を着ていたそうです。

箱浦の太鼓台から20年後の明治中期から後期につくられた太鼓も保存されています
 三豊市山本町の河内神社に奉納された太鼓台です。
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用具を入れた長持ちや箱には「明治26年|】久保上組」「明治35年東雲」などの銘があります。これは、愛媛県四国中央市(旧伊予三島市)の東雲の地名です。他に「明治四十四 新細工」「昭和4稔 大喜多本家寄贈」などの銘を持つ長持ちなどもあります。明治44年(1911)に、香川県一の大地主と言われた地元の大喜多本家が伊予三島の久保上組より購入し、河内上組に寄付されたと伝えられています。

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本体には豪華な彫刻が彫られていて、水引幕は志度の海女の玉取図、掛蒲団は虎図です。
太鼓台の大型化が一歩進んで展開した東伊予で、新たな太鼓台の新調の際に、古い物を売却したのでしょう。 そして、河内に迎えられて新たな地で奉納されることになった例です。

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 このように、太鼓台の新調と中古品の売買等が各区で行われるようになったのも近代の特徴です。それが太鼓台文化圏の広がりにつながったとも言えます。
       太鼓台(ちょうさ)年表
宝暦8(1758)  姫路市松原八幡神社 神輿太鼓3台の記録。太鼓台最古の記録
寛政元(1789) 「神輿太皷」として1台が奉納。旧・伊予三島市(四国中央市)
寛政元(1789) ちょうさ太鼓/旧・大野原町(観音寺市) ★大野原八幡神社(1802)の記録の中にあり。
寛政6(1794) 神輿太鼓/呉市豊浜町斎島 ★島で初めての神幸を記録した板碑の裏面に記録あり。
寛政10(1798) ふとん太鼓/大坂・難波神社  『摂津名所図会』(秋里籬島・竹原春朝斎)★太鼓台は「先進地・大坂」の蒲団型。この時代の最も豪華な部類の太鼓台
文化2(1805) 太鼓/観音寺市伊吹島下組  ★蒲団枠保管箱が蒲団枠と共に現存
文化3(1806) 神輿太鼓/旧・川之江市(四国中央市) 「祭礼行烈次第」に、神輿太鼓が5台記録
文化5(1808) 「太皷寄録帳」太鼓/伊吹島上組  ★文化6年(1809)に太鼓台を新調
文化6(1809)  ちょうさ太鼓/観音寺市 庄屋関連古文書  
文化9(1812) 小豆島町・亀山八幡宮奉納絵馬 ★薄く平らな三畳蒲団の太鼓台が5台
文化10(1813) 輿太鼓(ちょうさ)/琴平町 ★大井祭礼に奉納
文政3(1820) 櫓/旧・豊町沖友(呉市) ★水引箱箱に「三井納」(大坂・三井呉服店)の記載
文政5(1822)  太鼓/新居浜市  ★「船大工仲間永代迄の諸覚帳」新居浜太鼓台の初見
文政6(1823)  太鼓/伊吹島中組 太皷水引箱  ★水引幕を保管する道具箱
文政6(1823)  ちょうさ/観音寺市  ★雲板箱タテ・ヨコ107×40㌢、深さ3~40㎝
文政8(1825)  四つ太鼓/旧・保内町雨井  ★明石から積み下ってきた鉢巻蒲団型の太鼓台
文政8(1825) 千載楽/倉敷市下津井松島 太鼓の胴内記録 ★小型の千載楽が現存
文政8(1825) みこし太鼓/西条市  一宮神社文書 ★素人大工の拵えたみこし太鼓が登場
文政10(1827)  神輿太鼓/新居浜市  ★一宮神社文書祭礼行列の華美を諌めている。
文政10(1827)  ★シーボルト編纂『日本』全1㌻に、太鼓台(コッコデショ)のイラストあり。
文政年間(1818-30) 屋台/たつの市 阿宗神社奉納絵 ★馬播州では珍しい五畳蒲団の太鼓台
天保元頃(1830頃) 松原八幡宮絵巻 屋台/姫路市 
天保4(1833)   「太皷入用帳」 /新居浜市 ★新居大島・中之町太鼓台記録
天保4(1833) 太鼓台/伊吹島・南部 ★「太皷帳」新調時の記録
天保5(1834)  大工資料  ★「太皷台」表記の初見粕谷宗関氏著『故郷に神の華あり』(2005刊)
天保6(1835)  ちょうさ/三好市池田町馬路 ★衣裳水引・天蒲団 入箱讃岐(大野原)と阿波の太鼓台交流がうかがえる。
天保6頃(1835頃) みこし/西条市・伊曾乃神社 ★祭礼絵巻(2巻)に詳細画像…
天保9(1839)  どんでん/岡山市牛窓本町  
天保13(1842)  櫓/旧・豊町沖友(呉市) 奉納絵馬  ★平天井型の太鼓台
天保期(1830-44) ふとん太鼓/堺市・開口神社  ★豪華な祭礼行列の最後尾に、小さな蒲団型の太鼓台が2台
弘化元(1844)  ちょうさ/旧・山本町(三豊市) 「割帳」  ★西側太鼓台新調時の記録文書
嘉永5(1853)  櫓太鼓/今治市・大浜八幡 奉納絵馬 ★平天井型太鼓台
安政元(1854)~明治12(1879)頃 高価な装飾刺繍の貸し借りが、祭礼日の異なる地区間で盛んに行なわれていた。★大野原・下木屋太鼓台の古記録に、「損料」として毎年のように記載されている。(かきふとん・蒲団・金縄等)
安政3(1856)  太鼓台/伊吹島・下組 古文書「覚」  ★太鼓台新調の見積書と粗(あら)図面
安政4(1857)  太鼓台/伊吹島・下組 古文書「積り書覚」  ★前年に続く追加購入
安政5(1858) ちょうさ/三好市山城町大月 古刺繍 ★蒲団押さえ四隅の瑞雲形刺繍の裏に、墨書
安政5(1858)  ちょうさ/旧・大野原町田野々 道具箱 ★「関谷」と書いた道具箱が数点伝承
慶応3(1867)  櫓太鼓/今治市波止浜 龍神社祭礼絵馬  ★舁棒のない三畳蒲団の太鼓台
明治4(1871)  太鼓/まんのう町木ノ崎 掛蒲団保管箱 ★刺繍図柄は曾我物語「和田酒盛」
明治8(1875)  箱浦屋台/旧・詫間町箱(三豊市) 平桁保管箱

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参考文献 香川県立ミュージアム   祭礼百態

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